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2017年10月21日 (土)

ドラフト名物、日本ハムの掟破りの強行指名

 かつてドラフトで有力選手をことごとく指名したのは黄金の左手と呼ばれたオーナーがいたヤクルトと日本ハムだった。前者は、荒木大輔や伊藤智仁、伊東昭光の指名で強いくじ運を発揮したし、日本ハムも木田やダルビッシュ、斎藤佑樹などのドラ1を獲得してきた。

 しかし近年、選手の意向を汲まず、それを無視して強行指名するのは日本ハムの専売特許だ。過去何度こうした暴挙を繰り広げたかしれない。横やりや妨害も常套手段で、こうした球団に選手を指名する権利はなく、はく奪した方がいいのではないかとさえ思う。12球団の選手均衡を目指して平和裏に行われるようになったドラフト制度で、その規定を一方的に破る、いわゆる掟破りの暴挙を重ねて来た。
 今月下旬にドラフトを控える時期にあたり、その傍若無人ばりの身勝手な振る舞いを挙げ、警鐘を鳴らしたい。 

 1 木田 勇

Kida_2 1978年日本鋼管のエースに成長、都市対抗では3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが本田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘(崇徳-亜大)と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した。
 同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否。一般には大洋入りを強く希望したためと報じられているが実際は在京セ・リーグであればどの球団でも応じるつもりであった。その理由として父親が胃癌、母親が胆石を患っており「長男として両親の面倒をしっかり見なくてはならない」という思いがあったからだという。両親からは「おまえの希望する道に行っていいんだよ」との言葉を貰っており、本人もドラフト1位指名を名誉には思ったが先述の理由でどうしても横浜を離れる気にはなれなかった、と語っている。なお広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。

 翌年の都市対抗でも活躍し、1979年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した。日本ハムがクジを当てた時に「俺は運の無い男だ」とボヤき、入団交渉にあたって条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。しかしこれは大社義規オーナーの「プロの選手なら自分で稼ぎなさい」の説得で断念した。

 この思い上がりが対戦チームの怒りを買い、ルーキーイヤーこそ投手としての賞を総なめする活躍をしたが、その後は鳴かず飛ばずだった。プロ11年で60勝(71敗)止まりだった。1年目が22勝8敗だから、2年目以降は10年間で38勝(63敗)という散々な成績に終わった。

 2 須永英輝の場合

 浦和学院で1年時の夏にメンバー入りし2学年上の大竹寛の引退後、1年秋からエースを務めた。甲子園通算63奪三振。高校時代は、135~145km/h台の速球に、キレのある変化球で空振りを取るスタイルであった。打撃のセンスもあり、一時は浦和学院打線のクリーンアップを担った。2003年のプロ野球ドラフト会議前には、巨人入りを熱望。巨人以外に指名された場合は社会人野球に進むと表明していたが、当日の会議で日本ハムが2巡目で強行指名。当日の会見ではプロ入り拒否の姿勢も見せ、直後の指名あいさつも拒否したが、2週間悩んだ末に北海道日本ハムファイターズへの入団に合意した。
 しかし、育成が下手くそな日本ハムでその才能を発揮できず、B級選手としてその選手生命を閉じた。通算8年で1勝(3敗)も挙げられなかった。

Sunaga

 2 陽岱鋼の場合

 2005年10月3日の高校生ドラフト会議で、北海道日本ハムファイターズと福岡ソフトバンクホークスの1巡目で競合し、抽選の結果日本ハムが交渉権を得たが、同会議では一旦は「交渉権獲得球団は福岡ソフトバンク」と発表されてしまい混乱が起こった。兄の陽耀勲と同じソフトバンク入りを熱望していたが、日本ハム側の熱烈な交渉と、本人が初めて北海道を訪れてみるなどの経緯もあって、最終的に日本ハム入りを決意。台湾人史上最高位の指名(ドラフト1巡目)を受け、台湾では話題となった。

Youdaikan

 3 木下達生の場合

Kinoshita 少年時代から大の中日ドラゴンズファンで、特に川上憲伸のファンであった。リトルリーグ時代は自ら希望して川上と同じ背番号11をつけた。中京大中京高校のセレクションを受けるも不合格となり、東邦高校に一般入部。2年生となった2004年春に1学年上の岩田慎司の控え投手として第76回選抜高等学校野球大会に出場も登板無し。3年生となった2005年春にはエースとして水野祐希とバッテリーを組み、第77回選抜高等学校野球大会でチームをベスト8に導いた。同年秋の高校生ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに3巡目で指名された。事前に日本ハム側から指名挨拶が無かったことと、自身が地元で大ファンであった中日入りを希望していたことで入団交渉は難航したが、最終的には日本ハム側の熱意が通じ合意する形となった。
 結局は育て方が悪く、その才能を開花させることができず、日本ハムは2年でお払い箱に。通算3年で2勝1敗で引退を余儀なくされた。

 4 長野久義の場合

Cyounohisayoshi O型の彼は、江川や元木と同じく熱烈な巨人信者。巨人以外の指名をことごとく蹴って社会人HONDAで長らく活躍したスラッガーだった。
 2006年に日本大学4年生の時に急成長し、春季は12試合出場、打率.489(47打数23安打)、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404(52打数21安打)で1995年秋・1996年春と2季連続首位打者となり、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなった。同年秋の日米大学野球選手権、IBAFインターコンチネンタルカップ、2006年アジア競技大会に日本代表として出場。東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。
 同年秋のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、読売ジャイアンツへの入団を熱望していたことから入団を拒否。社会人へ進んだ。

 5 斎藤佑樹の場合

Saito 早実時代、あの田中将大と投げ合い、決勝でも決着がつかず、引き分け再試合でも一人で投げ抜き、甲子園のスターとなったハンカチ王子こと斎藤佑樹。彼は早稲田に進学して神宮の星を目指した。しかし、プロに入ってからは鳴かず飛ばずで5年が過ぎ、もう30歳を目前にし、ピークは過ぎた。彼の入団時のドラフトはこうだった。

 大学4年間を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成(31勝323奪三振)。また世界大学野球選手権大会と日米大学野球選手権大会に大学日本代表として4年連続選出されたのは史上初。
 2010年10月28日に開催されたプロ野球ドラフト会議にて、東京ヤクルトスワローズ、北海道日本ハムファイターズ、千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークスの4球団が1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得。同会議では早稲田大学の同期生である大石達也と福井優也も、それぞれ埼玉西武ライオンズと広島東洋カープに1位で指名され(大石は広島を含む他5球団との競合)。
 10月30日から早慶戦を控えていたため当日には記者会見は行われず、早慶優勝決定戦翌日の11月4日に大石、福井とともに会見が開かれ、プロ入りへの意気込みを語った。12月6日に日本ハムとの初交渉に臨み、新人としては最高評価の年俸1500万円、契約金1億円、出来高5000万円(金額は推定)で仮契約した。12月9日には日本ハムの本拠地・札幌ドームにおいて、2003年の新庄剛志以来7年ぶりの単独の入団会見が行われた。会見には監督の梨田昌孝と球団社長の藤井純一が同席し、背番号「18」のユニフォーム姿をお披露目した。
 

 6 菅野智之の場合

 巨人、原監督の甥っ子という血筋家系で、巨人以外なら入団を拒否すると表明している中、栗山監督は彼を強行指名した。もちろん結果は拒否。有能な球界の宝になり得る逸材を一年棒に振り、浪人生活を余儀なくさせた。後に栗山監督は本人と原監督に謝罪する一幕もあった。喉から手が出るほど欲しい逸材に違いないが、本人の頑なな意向を無視しての強行指名に、多くのファン、球団関係者の怒りを買ったのは言うまでもない。

Sugano

 7 大谷翔平の場合

Otani 菅野の1位指名をしくじった栗山監督はその翌年もやらかした。岩手・花巻東の長身エースでマックス160km/hをマークした超高校級投手の大谷を強行指名した。彼は早期からNPBには入団せず、メジャー行きを熱望し、表明していた。どの球団も欲しい即戦力だったが、本人の意向を尊重し、指名を見送った。しかし、栗山監督はまたしても掟破りの暴挙を決行した。
 そして独自の野球理論や前代未聞、球界初の二刀流への対応&育成プランを提示し、MLBでメジャーに這い上がるのはシビアと説き伏せ、莫大な裏金をつぎ込んで、無理やり入団s成せた。おそらくは8年後のFAでのMLB行くを待たずして、5年程度で日本球界で「○○勝」を挙げた時点でメジャー行きを認めるという特別条項が契約の中に密かに盛り込まれていたもとの想像できる。
 日本ハムが許せないのは、球界の宝であり、WBCなどでも対戦相手をきりきり舞いさせるなど世界で活躍できる彼が絶好調では手放さず、脚を故障し、出番が減った途端に使い捨ての如く、ポスティングでのメジャー行きを認めた手法だ。あざといし、選手をぞんざいに扱いすごだ。

 8 山口裕次郎の場合

 日ハムにドラフト6位指名された履正社の左腕、山口裕次郎投手が入団拒否の姿勢を示していることが波紋を広げている。複数メディアの報道によると、山口サイドは、事前に調査書を出してきたプロ球団に対して「4位以下の指名では社会人(JR東日本)へ進むので指名を遠慮してもらいたい」という意向を伝えていたというが、日ハムは、山口サイドの意向を無視して6位で強行指名。山口本人も、学校側も、日ハムの強引なやり口に大きな戸惑いを示した。翌日に、日ハムの大渕スカウトディレクター、木田GM補佐、芝草スカウトが同校を指名挨拶に訪れたが、本人は同席しなかった。
 当然、この暴挙に山口本人は怒り心頭で契約交渉自体を拒否し、JR東日本へ進んだ。

 選手の心情を逆なでし、暗黙のルールを無視してまで裏技の如く、強行指名を重ねている日本ハム球団の資質はイカれている。どれだけ選手は傷つくか全く掌握していない。そしてどれだけの不信感を抱くか計り知れない。
 当然、プロは実力勝負の世界。どのチームに入っても「自分が強くしてそのチームを優勝に導いてやる」くらいの気概は必要。しかし、かつて横浜の内川、村田やヤクルトバレンティンが言うように、野球は一人でできるものではない。「来季は優勝を狙えるチームで活躍したい」とFAしたケースはごまんとある。
 プロ野球の球団に入団したいなら、FAがある以上、どの球団に入団しても実力で這い上がれる世界とはいえ、菅野のように毎回2点程度に抑えても、味方打線が打てなくて9勝止まりで終わった例もある。行きたくない球団に指名されてモチベーションが低い状態で嫌いな球団に行っても頑張りきれないというのが本音だろう。小さい頃に憧れていた球団に入ってこそ、野球に専念できるのではないか?
 かつてのように、巨人人気はもう過去の時代。戦力の均衡と言うが、今は交流戦でも証明できるように、パ・リーグのほうが断然強い。もうドラフトの意味もなさない。阪神や広島に入りたい球児は多いし、かつては金に物を言わせて実力選手を買いあさった西武のようなチーム方針もない。育成が下手くそな巨人や日本ハムに入るよりも、出場機会を与えて貰える弱小球団の方が、自分の出番も増えてアピールできる気がする。

 さて、今年は清宮内野手や中村捕手など高校生に大物がいる。一体どこが指名するのか、そして日本ハムは誰を強行指名するのか見ものだ。

 最後に、来季の日本ハムは栗山監督正念場だ。昨年日本一の面影もなく、今年はBクラスで甘んじた。追い討ちをかけるように大谷のポスティングでのメジャー移籍、主力4人(中田・増井・宮西・大野)がFA宣言する方針を固めた。斎藤佑樹ももう後がない。一気に若返りを期すチーム方針だが、ベテランが大勢移籍となると、若手が芽を出すのは数年かかる。下手すると、シーズン半ばで栗山監督の休養ということもありえる。球界きっての頭脳派監督だけに、それはもったいない話だ。ともあれ、日本ハムの動向から目が離せない。

 記事作成:10月7日(土)

2017年10月20日 (金)

金髪とヤンキーが多い都道府県

 今日の記事は批判や誹謗ではなく、中立的な立場から事実を指摘したい。世の中には変なくくりがある。「日本三大××」などもその類だ。最近知ったことが、女性蔑視と受け取られかねないのが「日本三大ブス」というのがあって、仙台・水戸・名古屋なのだそうだ。私はその全ての都市を訪問したが、いずれも女性の美しさのレベルが高く、とてもブスなどとは言えない状況だった。私は美人との誉れ高い秋田県に4度行ったが、素肌や色白という点ではダントツだが、ファッションや化粧して美しく見せる技量は3県のほうが上に思えた。
 さて、今回お送りしたいテーマは、田舎に行くにしたがって、身なりや外見が柄が悪く、派手になるという点だ。大都会ではまずひと目を気にして出来ないド派手な服装や髪型も、地方のほうが多くいるし、車も改造し、酷くなる。人はどこかで目立ち、注目されたいという意識があるようで、地方に行くほどその歯止めが利かなくなる。そう論じる根拠を示したい。「ド派手ヤンキーが多い都道府県はどこか?」というアンケートの結果を見たら、私の予想通り、あの県が1位だった。

 1位 茨城県        11位 兵庫県
 2位 千葉県        12位 東京都 
 3位 福岡県        13位 愛知県
 4位 大阪府        14位 岡山県
 5位 沖縄県        15位 京都府
 6位 神奈川県       16位  青森県
 7位 広島県        16位 滋賀県 
 8位 栃木県        18位 静岡県
 9位 埼玉県        18位 奈良県 
10位 群馬県        20位 佐賀県 

 資料:Uタウンネット調べ「全国ヤンキーが多そうな県は?」

http://j-town.net/tokyo/research/results/188543.html?p=all

 イメージどおり茨城がダントツで901票。2位の千葉が368票なので、3倍近い票を集めた。それほどガラが悪く、垢抜けしない。派手で目立とう精神が多い県だというのが認識できる。東京から比較的近いのに、こうなるのは、バカにされないように目立ちたいという心理の表れのような気がする。
 不思議だが、ヤンキーや金髪が多いのは関東地方に集中している。東京を除き、ベスト10の中に6県すべてが入っている。世間の人はそういうイメージを持っていることにほかならない。
 また、関東以外では、もともと福岡と広島はヤ~さんが多い。何か意気がっている印象で、自分を大きく見せ、威圧するようなイメージがある。これは個人的見解かもしれないが、任侠映画に多く出演した「菅原文太」さんの影響が強い。また、沖縄、千葉、神奈川は「成人式」での悪態行為で有名だ。人口が多いから目立つということもあるが、まさに「やんちゃ」な県と言えそうだ。
 それに関東出身者に言わせると、関西人は「我が強く、怖い」という印象がある。ズケズケと人の心に土足で踏み込んでくるイメージがある。

 逆に東日本大震災で大打撃を受けた東北の太平洋側の3県はヤンキーは少ない。全国の方々に支援をしてもらい、善意のありがたさを十分身にしみて知り、そんな意気がっていられないのだ。苦労を分かち合い、絆の力で復興を目指している福島県は、あれ以降、ヤンキーはグッと減った。震災3年後に行われたこのアンケート調査では宮城は21位、福島は29位、岩手は40位。昔に比べ、ガラが悪いという印象はかなり薄らいだ。
 このアンケートは決してイメージ先行ではなく、地元茨城県民もその自覚があるようだ。茨城県民がヤンキーで金髪が多いと思う人は72%とダントツに多かった。

試しにヤクザが多い都道府県の統計を調べてみた。

 1位 大阪府
 2位 京都府
 3位 岡山県
 4位 三重県
 5位 福岡県・愛知県

 続いて暴走族が多い県

 1位 福岡県 (59グループ921人)
 2位 広島県
 3位 神奈川県(横浜ナンバーの暴走族が圧倒的に多い)
 4位 埼玉県
 5位 茨城県
 6位 千葉県

 東京は江戸川区や足立区が突出して多い。

 ちなみに茨城県出身の有名人(芸能人)を挙げると

 鈴木奈々、劇団ひとり(デビュー当時は茨城県民のヤンキーネタ)、池内博之、白石美帆
 アントニオ猪木(でしゃばって北朝鮮へ単独訪問)、梅宮辰夫、田村英里子、永作博美
 栗山千明、倍賞美津子、本田博太郎、三浦春馬、羽田美智子、中島ゆたか、柳生博
 渡辺篤史、渡辺徹、渡辺裕之、磯山さやか、来栖あつこ、高橋朱里、マギー司郎
 松居直美、江戸むらさき、綾部祐二、渡辺直美、ノブ、武双山、雅山、稀勢の里、高安
 水戸泉、瀧本誠、塚田真希、小林孝至、豊田泰光、仁志敏久、広澤克実、美馬学
 曽ヶ端準、大津祐樹、京川舞、片山晋呉、柴田国明、藤田菜七子、梶山静六

 歴史上の人物

 中臣鎌足、平将門、徳川光圀、徳川斉昭、徳川慶喜、間宮林蔵

 さて、これを読んで、さぞかし茨城県民はご立腹かと思うが、これは私の私見ではなく、全国の方々がイメージしているアンケート結果から明らかになった事実だ。全国の人は茨城をこいうイメージで見ているということだ。「やっぱり」と共感できる部分も多いと思うが、茨城は関東の一角として埋もれてしまっている。この現状を打破できるかどうかは県民の意識改革にかかっているのはいうまでもない。

 記事作成:10月7日(土)

  追記

 この記事を書いた後の10月12日(木)に、「2017全国都道府県魅力度ランキング」が発表された。この記事に相通じるものがあって、茨城県が5年連続最下位となった。東京からも近いにもかかわらず、それがかえっていつでも行けるというドキドキ感やワクワク感を掻き立てないということか。日本三大名瀑の「袋田の滝」や水戸の偕楽園など、観光地はあるのになぜなのか?我が福島県も原発事故の風評被害もあり、2011年以降、ジリジリと順位を下げているが、それでも34位。せっかく今年、NHKの朝ドラ「ひよっこ」の舞台となったのに、あまり誘客に繋がっていない。それは観光協会などが、大々的な誘客キャンペーンなどのPR作戦をしていないのではないだろうか。
 そして何より、今回のテーマのように、茨城は田舎臭くて、三大ブス、垢抜けしないヤンキーが多い、納豆などのマイナスイメージが多いからではないだろうか。
 茨城県民がこうしたデータを紳士に受けとめて、危機感を持つことこそが重要なのではないだろうか?

2017年10月19日 (木)

グループ・ユニットの物故者

 10月に「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のヴォーカルの  が亡くなった。昭和のムード歌謡をリードしたひとりだった。私が幼少から学生の頃に活躍していた方々が、近年になって亡くなられるニュースを耳にすることが多くなり、同じ時代を生きた者として残念に思う。
 そこで今日は、懐かしいグループやユニットで亡くなられた方と、今もご存命で活躍中の方をトリアージの如く列挙したい。なお年齢は2017年10月6日時点

 <コーラスグループ系>

 内山田洋とクールファイブ

 オリジナルメンバーは全員九州出身。元々ジャズ、ラテンなど幅広いレパートリーを持つバンドであり、テレビで演奏する機会は少なかったもののコンサートでは各自のパートの楽器で独奏するコーナーが必ず存在していた。

Coolfive

 物故者・・・内山田洋 
 ご存命・・・前川清・宮本悦朗・小林正樹・岩城茂美・森本繁 
 旧メンバー・・・宮内タカユキ・なかえいじ・大沢充・西田涼馬・山上哲也

 ボーカルの前川清ばかりが目立つが、リーダーは故・内山田洋だった。もともとはバンドだったと聞いて驚きだった。「長崎は今日も雨だった」「中の島ブルース」、「東京砂漠」などヒット曲も多かった。

 和田弘とマヒナスターズ

 スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする音楽グループ。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。山口銀次、和田弘、三島敏夫らが、「バッキー白片とアロハハワイアンズ」退団後、1953年にハワイアンバンド「山口銀次とマヒナスターズ」として結成。翌1954年、リーダーの山口銀次が脱退、アロハハワインズ復帰後は、和田弘がリーダーとなり「和田弘とマヒナスターズ」に改名する。
 ハワイアンのメロディ、作曲家・吉田正のコーラスを手本にして新しい歌謡曲の要素を作り出した第一人者でもある。
 1960年代には、松尾和子らの女性歌手をむかえるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「ウナ・セラ・ディ東京」など多数のヒット曲を残した。

Wadahiroshi

 物故者・・・和田弘・三原さと志・三島敏夫・日高利昭・佐々木敢一
 ご存命・・・田淵純・松平直樹・白片興・白片修・向坂卓人・山田敏夫

 ダークダックス

男性の重唱団(ボーカルグループ)で、全員が慶應義塾大学出身というエリートグループ。メンバー数は活動の中心時期には長らく4人だった。ただし、1951年の結成当初は3人。メンバーの逝去にともない、現在は1人。タキシードをビシッとキメてダンディのイメージがあった。

Darkdacks

 物故者・・・高見澤宏・佐々木行・喜早哲
 ご存命・・・遠山一(87歳)

 ボニージャックス

 男性4人の重唱団である。1958年に結成された。早稲田大学グリークラブに所属していたメンバーによって結成、アマチュアとして歌っていた。その後、レパートリーの幅広さでは他の追随を許さず、世界各国の民謡、歌曲、ジャズ、童謡から軍歌、CM曲、テレビ主題歌、ラジオ主題歌、社歌、寮歌など、通算5000曲以上にのぼるという。

Bonie

 物故者・・・元メンバー・大町正人
 ご存命・・・西脇久夫(81歳)・吉田秀行(52歳)・鹿島武臣(83歳)・玉田元康(83歳)

 デューク・エイセス

 1955年に結成された男性4人からなる日本の重唱団。黒人霊歌や「にほんのうた」シリーズなどをレパートリーとしているほか、ジャズコーラスグループとしても活動。

Duke

 物故者・・・元メンバー・和田昭治、谷口安正、飯野知彦
 ご存命・・・大須賀ひでき(61歳)・岩田元(47歳)・谷道夫(82歳)・槙野義孝(81歳)

 <お笑い系>

 クレイジーキャッツ

 元々は「キューバン・キャッツ」の名で活動を開始したが、進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、“You're crazy!”と言われたことから「クレージーキャッツ」に改名したとされている。渡辺プロダクション所属。数多くのバラエティ番組に出演し、コントを演じるようになってからコントグループと見られるようになってしまった。しかしながら、下記の通り各人は音楽の経験やテクニックという点で卓越した点を持っており、単なるコントグループ、コミックバンドとは全く違う、「音楽の質の高さ」を兼ね備えた異色のバンドともいえる。

Crazycats

 物故者・・・ハナ肇・植木等・谷啓・安田伸・石橋エータロー・桜井センリ
 ご存命・・・犬塚弘

 チャンバラトリオ

 時代劇風のチャンバラを主題とした、剣劇に加えハリセンを使っての体を張ったネタを披露した。 結成時は3人組だったため名前をトリオとしたが、4人組だった時代が長い。最末期の生存メンバーが2人となって以降も一貫して名前は変更されなかった。

 物故者・・・山根伸介・南方英二・前田竹千代
 ご存命・・・志茂山高也・伊吹太郎・結城哲也・山根一輝

 レッツゴー三匹

 ルーキー新一率いる「ルーキー爆笑劇団」の座員だった正児、じゅん、一修(のち脱退)が、同劇団の活動停止に伴い旗揚げした。

Lets_go_three

 物故者・・・レッツゴー一修・レッツゴーじゅん
 ご存命・・・レッツゴー正児(77歳)・長作(74歳)

 <アイドル系グループ>

 フォーリーブス

 1967年4月1日結成、1968年9月5日レコードデビュー、1978年8月31日解散したジャニーズ事務所のアイドルグループ。1968年9月5日、CBSソニーの国内契約第1号アーティストとして、シングル「オリビアの調べ」にてレコードデビュー。
 1970年にはブロマイドの売上げが男性歌手部門の1位になり、衰退期にあったグループ・サウンズのザ・タイガースなどに代わり、新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとなった。「ブルドッグ」など奇抜な衣裳と振り付けで人気があった。

Fourleaves

 物故者・・・北公次・青山孝史
 ご存命・・・おりも政夫(64歳)・江木俊夫(65歳)
 脱退メンバー・永田英二 

 ザ・ピーナッツ

 日本の双子の元女性歌手(デュオ)、女優である。愛知県知多郡常滑町生まれ、同県名古屋市育ち。略称「ピーナッツ」。 発売したシングル、LPの累計売上は1000万枚以上に達する。私は「シャボン玉ホリデー」や「モスラ」のイメージが強い。しかし、今でもカラオケで歌われるデュエット曲で一世を風靡した。「コーヒールンバ」。「ふりむかないで」「恋のバカンス」など大ヒット曲を連発した。

The_pinuts

 物故者・・・伊藤エミ・ユミ
 
 キャンディーズ

 1970年代に活躍した日本の女性3人組のアイドルグループ。「年下の男の子」「ハートのエースが出てこない」「春一番」「暑中お見舞い申し上げます」「微笑がえし」など大ヒット曲を連発した人気アイドルだった。しかし「ふつうの女の子に戻りたい」という名言を残し、解散した。後楽園球場で行われたラストコンサートは伝説となった。

Candies

 物故者・・・田中好子
 ご存命・・・伊藤蘭(62歳)・藤村美樹(61歳)

 ザ・チェッカーズ

 1980年代から1990年代前半にかけて活動した男性7人によって構成された日本のポップスバンド。福岡県久留米市にて結成。「ギザギザハートの子守唄」でデビュー後。「涙のリクエスト」、「星屑のステージ」、「あの娘とスキャンダル」、「OH !POPSTAR」など大ヒットを連発した。仲違いによって解散したのは残念だ。

Checkers

 物故者・・・徳永善也
 ご存命・・・藤井郁弥・武内亨・高杢禎彦・大土井裕二・鶴久政治・藤井尚之
 

 <シンガー系グループ>

 シュガー

 3人組女声コーラス・グループ。元々はバンドとして結成されたため、デビュー当初は3人とも楽器を演奏しながら歌っていたが、活動後期には得意分野であるコーラスに特化して楽器を持たずに歌うこともあった。代表曲『ウエディング・ ベル」

Sugar

 物故者・・・毛利公子(29歳)
 ご存命・・・笠松美樹(57歳)・長沢久美子(57歳)

 X-Japan

 ヴィジュアル系ロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビューし、1992年にX JAPANに改名。1997年9月22日に解散を発表し、同年12月31日にラストステージで活動を一旦終了。2007年10月22日に再結成。通称、X。
 1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとToshlを中心に結成。LAメタルに影響を受けた派手なルックスで、後続のバンドにビジュアル、音楽の両面で大きな影響を与えた。

Xjapan

 物故者・・・HIDE・TAIJI・TERRY
 ご存命・・・Toshi・PATA・HEATH・SUGIZO・

 L⇔R

1991年にミニアルバム「L」でデビュー。以後 13枚のシングル、7枚のアルバムを発表するが、1997年に活動休止だが現在は事実上解散状態。その後メンバーは個々にソロで活動。

 物故者・・・黒澤健一
 ご存命・・・黒澤秀樹・木下裕晴
 元メンバー・・・嶺川貴子

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 男性デュオグループ。デビュー曲の「夏の日の1993」は販売枚数170万枚を超えるミリオンヒットを記録した。1996年に解散したが、2003年に再結成。

 物故者・・・津久井克行
 ご存命・・・日浦孝則・岡崎公聡

 柳ジョージ&レイニーウッド

 柳ジョージを中心に結成された、日本のロック及びR&B バンド。1975年結成、1981年解散。名曲「雨に泣いてる」

 物故者・・・柳ジョージ(63歳で死去)
 ご存命・・・上綱克彦・石井清澄・ミッキーヤマモト・四ツ田ヨシヒロ・鈴木明男

 記事作成:10月6日(金)

2017年10月18日 (水)

伝説の名投手十傑

 往年の名投手といえば、400勝を挙げた金田正一を筆頭に、奇跡の日本シリーズ4連投で逆転優勝を飾り、「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた鉄腕・稲尾和久などがいる。他にも350勝を記録した米田哲也、フォークの神様と言われた杉下茂、ザトペッグ投法で長嶋茂雄と死闘を繰り広げた村山実など、それは個性的で記憶に残る投手だったに違いない。いずれも彼らは伝説といって相応しいほどの活躍ぶりだった。
 しかし、1964年生まれの私は、残念ながら彼らの現役時代の活躍は知らない。生で見ていたのはプロ野球をこよなく愛するきっかけとなった巨人V9の末期(昭和40年代後半)からだ。以来40年以上、プロ野球ファンとしてずっと見守り続けてきた中で、私が凄いと唸る名投手を10名挙げたい。
 今回は外国人投手を除き、現役も多少含めて、私が個人的に思う名投手10傑を挙げたい。

第10位 鈴木啓示
 
 近鉄のエースとして「草魂」をキャッチフレーズに球界を代表する左腕として君臨した。幼少の頃、訓練して左利きになったというから凄い。弱小球団だった近鉄で300勝を超える勝利数を挙げ、西本監督時、「ミラクル近鉄」として2年連続日本シリーズ進出の立役者となった。

 映像はコチラ https://www.youtube.com/watch?v=q8yO7EdNiy8

 第9位 佐々木主浩 

 横浜ベイスターズ在籍時には「ハマの大魔神」のネーミングで守護神として立ちはだかった。150km/h前後の剛速球と角度のある高速フォークで三振の山を築いた。メジャーリーグのマリナーズに渡り、イチローや城嶋とチームメイトとなった。日米での通算セーブ数は381にも上る。

 映像はコチラ https://www.youtube.com/watch?v=-8naSX2OoLQ

 第8位 ダルビッシュ有

 切れのある速球と数種類使い分けるスライダーを武器に変幻自在の投球を繰り広げ三振の山を築いた。WBCでも2連覇に貢献するなど、大物ぶりを発揮し、メジャーへ渡った。MLBでは登板過多や遠距離移動など慣れない環境もあって、肘にメスを入れることになったが、その後、復活。今季、シーズン途中で移籍したドジャースでの活躍が期待できる。
 私は東北高校在籍時から私は応援していた。東北に初の優勝旗をもたらすとすれば彼だと思っていたが、未だにその悲願は叶わない。 

 第7位 伊藤智仁 

 意外に思えた人も多かったかもしれないが、7位にヤクルトにいた伊藤智仁を推したい。彼の変化球は天下一品。僅か7年で現役生活に終止符を打ったが、個人的には伝説になり得る名投手だと思っている。彼の鋭く横に曲がるスライダーはバットにかすりもしない魔球だった。速球も150km/hを超えていた。相次ぐ故障に泣かされ短い現役だったが、個人的には秀逸した名投手だと今も思っている。

 第6位 江夏豊

 阪神では田淵と黄金のバッテリーを築き、剛速球を武器に決して逃げず、真っ向勝負。ONと名勝負を繰り広げた。とりわけオールスター戦では9者連続三振、広島ではリリーフエースとして優勝請負人とまで呼ばれ、対近鉄戦の日本シリーズでは、無死満塁、一打逆転サヨナラ負けという絶体絶命の場面でマウンドに上がり、「江夏の21球」で奇跡の優勝をもたらした。こうした数々の伝説を残し、記録にも記憶にも残る名投手となった。

 第5位 村田兆治

 ロッテのエースとして長年に渡り一筋に活躍。マサカリ投法という振りかぶった後に左脚を高く上げ、勢いをつけて投げ下ろすダイナミックなフォーム。150km/hを超える速球と、鋭く角度のあるフォークで三振の山を築いた。
 晩年、肘を痛め、ジョーブ博士の手術によって一線を離れたが、奇跡的に復活。サンデー兆治として日曜日ごとに登板。チームメイトだった落合博満が彼が投げると打ちまくった。通算215勝を挙げ、名球界入りを果たした。我が強いからなのかなぜか監督にはなれない。 

 第4位 大谷翔平

 若き球界のプリンス。誰もやったことがない球界初の「二刀流」に挑戦し、類稀な天賦の才能をいかんなく発揮した。同じプロ野球選手でも大絶賛で一目置く存在だ。190cmを超える伸張から低めに剛球を投げ込み、日本最速の165km/hをマーク。これだけでも凄いのに打者の腰を引かせるような角度のあるスライダー、150km/h近い速球から落ちる高速フォークは誰にも打てない。一昨年のプレミア12では160km/hを超す速球で韓国の打者をきりきり舞いさせた。残念ながら今オフにMLBに渡るという予想で、彼は一度も日の丸をつけてWBCに出場することがないかもしれない。

 第3位 野茂英雄

 社会人新日鉄堺時代からオリンピックに出場し、古田敦也とバッテリーを組み、メダル獲得に貢献した。近鉄に入団後も打者に背を向ける「トルネード」と呼ばれる独得な投球フォームから繰り出す伸びのある速球と鋭く落ちるフォークを武器に三振の山を築いた。鈴木啓示監督との確執から、メジャーに渡った。「ドクターK」と呼ばれ、「ノモマニア」と呼ばれる熱狂的なファンを作り出した。とりわけ、メジャーで2度のノーヒットノーランは圧巻だった。メジャーへの門戸を開いたパイオニアという意味でも尊敬に値する偉大な投手だ。
 イチローの才能を見出したのは仰木監督だったが、彼の個性的フォームを一切いじらず、彼のそのダイナミックなフォームをそのまま活かし、成功に導いたのも仰木監督だった。

 第2位 津田恒美

 個人的に大好きな投手。広島のリリーフエース。鬼気迫る形相で全身を使ったダイナミックな投球フォームで相手打者に気迫で立ち向かった。私は彼が南陽工業の時代から、彼の甲子園での投球をスコアブックにつけていた。それくらい魅了される投手だった。ファールで当時の巨人・4番だった原辰徳の腕をへし折った一球は伝説となった。「炎のストッパー」と呼ばれ、「弱気は最大の敵」という名言を残した。
 惜しくも悪性の脳腫瘍で32歳という若くしてこの世を去ったことが痛ましい。

 第1位 田中将大 

 楽天のエースとしてシーズン負け無しの24連勝を挙げ、リーグ優勝、クライマックスシリーズ、日本シリーズのいずれもで胴上げ投手になるという快挙を成し遂げ、球界を代表するスーパースターになった。気迫を全面に押し出しての投球はファンを魅了し、剛速球だけでなく、スライダー、フォーク、スプリットなど、多彩な変化球で相手打者を翻弄した。
 ニューヨークヤンキーす移籍後は、肘の故障などもあったが、術後に復活し、本場のヤンキーたちを熱狂させる活躍を見せている。

 これ以外にも、緩急自在の中日の今中慎二や、サブマリン投法という個性的なアンダースローで通算284勝を挙げた山田久志、山田と一緒に阪急の黄金時代を支えた抑えのエース・山口高志、江川の犠牲になりながら自らの職責を果たした悲運のエース・小林繁、平成の怪物と呼ばれた松坂大輔など伝説と呼ぶに相応しい名投手は大勢いた。

 記事作成:10月11日(水)

 

2017年10月17日 (火)

訪れたい歌に詠まれしスポット

 過去、何度も当ブログで、この手の記事を書いた。それほどその土地に思いいれのある歌がその時代を作ってきた感じを抱いている。その唄のおかげで有名になった場所がある。観光客の誘致に役立つし、訪れていなくて歌詞の中に、そこがどんな場所なのか織り込まれている。その曲に惹かれて、私は過去、何度もその場所を探し訪ねたものだ。
 では私がすでに訪ねた場所も含め、歌に詠まれし有名観光地を紹介したい。

 第1位 渡良瀬橋 森高千里

 栃木県足利市に実在する。私は4年前に訪問した。八雲神社も3軒、床屋の電話BOXなど歌詞に登場する場所は自分の眼で確かめた。残念ながら八雲神社はその前に不審火で火災に遭った。

 第2位 青葉城恋唄 さとう宗幸

 小学生の頃の遠足で訪れた場所。山頂の銅像の前で集合写真を撮影した。ここは伊達政宗が治めた地。天守閣は無い。昔、頭の良いカラスがここの坂道の車道に栗を落とし、車のタイヤに踏ませて堅い殻を割らせるというニュースがあった。また、7年前、慶應大学の通信課程に通っていた際に、試験を受けに行った帰りにここへ立ち寄ったが、駐車場が見当たらず素通りした苦い経験もある。

 第3位 みだれ髪 美空ひばり  福島県いわき市の塩屋埼灯台

 東日本大震災で、いわき地区でもっとも犠牲者と津波被害が多かった場所だ。灯台の真下には、美空ひばりの歌碑が建立されている。

 第4位 津軽海峡冬景色 石川さゆり

 今は無き、青函連絡船を謳った名曲。私も夜行急行で深夜に青森駅で降り立ち、連絡船に乗り換えて津軽海峡を渡った経験がある。おそらく6回くらい連絡船に乗った。凍てつく壮絶な冬の情景は訪れるものを拒絶しているかのようだ。

 第5位 天城越え 石川さゆり  伊豆半島

 こちらも女の情念が込められた怖い曲。「あなたを殺していいですか」という歌詞は衝撃的だった。放送禁止にならないのが不思議なくらいだ。伊豆の浄蓮の滝を訪れた際には、駐車場でエンドレスで流れていた。

 第6位 襟裳岬 森進一

 私は過去、一度だけ訪れたが、強風が吹きすさび、本当に何もない所だった。昆布干しと黄金道路の波かぶりロードだけだ。悲恋沼の夕日は見ごたえあったが。

 第7位 奥飛騨慕情 竜鉄也

 登山をやらない者にとっては無縁の場所。白川郷の合掌造りは見たいが。

 第8位 宗谷岬 ダ・カーポ

 私は2度、バイクでこの場所を訪ねた。1985年と1992年だ。もう25年も経ってしまった。でもこの地は、当時となんら変わっていないと思う。北のはずれという印象だ。

 第9位 恋の町札幌 石原裕次郎

 北海道に住んでいた頃、電車で郡山から戻る際、ウォークマンで聞いていた。旅情を誘うようなメロディーと石原裕次郎の甘い歌声に癒されていた。

第10位 人情岬 とんねるず  納沙布岬を歌った

第11位 函館の女 北島三郎

第12位 長崎の鐘 藤山一郎

第13位 長崎は今日も雨だった クールファイブ

第14位 有楽町で逢いましょう  フランク永井

第15位 小樽の人よ 鶴岡雅義と東京ロマンチカ

第16位 伊勢佐木町ブルース 青江美奈

第17位 立待岬 森昌子.  函館

第18位 知床旅情 森繁久弥

第19位 石狩挽歌 北原ミレイ

第20位 霧の摩周湖 布施明

 なんと20曲中11曲が北海道関係。私の第二の故郷だ。私が北海道に住んでいたのはもう31年以上も前の出来事になった。やはり思い入れが違う。

 これと似た感覚の歌に路線曲がある。それに関するブログは以前に書いたことがあるのでコチラをどうぞ!

 「鉄道の路線が題名の歌

  記事作成:9月中

 

 
 

2017年10月16日 (月)

NHK福島・平川沙英アナウンサー⑫

 大阪出身の新人アナウンサー「平川沙英」さんを勝手に応援する記事を書き始めたが、今回は第10弾。NHK福島放送局で平日の18時10分から19時まで放送している「はまなかあいづtoday」のMCを務めている彼女だが、出演は宮間瞳アナと交互に隔週出演している。したがって、週単位で2週間に一度、初々しい彼女の成長を見守るために、この記事を「サポーター」的な立場で掲載していきたいと思う。
 皆さんも、ぜひ彼女を温かく見守り、応援していただければ幸いです。では、第12弾の今日は、10月10日(火)から10月13日(金)までの出演場面をどうぞ!

 10月9日(月) この日は休日で特番のため、放送がありませんでした。

 10月10日(火)

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 10月11日(水)

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 10月12日(木)

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 個人的には、この日の髪型が一番お気に入りだ。

 10月13日(金)

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  この日はメイクがやや濃い目でソバージュ風のヘアスタイルに変身し、大人のエレガントな女性という雰囲気だった。髪型や化粧ひとつで印象がガラリ変わる。

 隔週でお送りしているこの記事ですが、女子アナフリークの私は、FCTの小野紗由利アナや元FTVの名切万里菜アナなどの出演の様子を記事してお送りしていますが、彼女たちが縁あって福島の地でアナウンサーとして頑張っている姿をみて、純粋に応援したいという気持ちからであり、それ以外の特殊な意図はありません。もし本記事をご本人がご覧になって不快な気分にならないよう、掲載する写真は最も映りが素敵だと思うものを厳選してお送りしております。
 ぜひそうした意図を汲んでいただき、彼女たちを応援して頂ければ幸いです。

2017年10月15日 (日)

浜田省吾に心酔した学生時代

 一週間の充電期間の中で、自分がこのブログを通して何を伝えたいのか考えたときに、まず自分自身の足元を見つめ直したいと考え、原点回帰してみた。すると、私の人生の応援歌であり、大きな影響を与えてくれた人物のことを書こうという考えに至った。
 この9年間、拙い記事の連続で、恥ずかしい思いを自分自身で感じながら書き続けてきましたが、下手くそでも続けることで何かを感じとってもらえればそれでいいという結論に達し、ブログを再開することにしました。もうしばらくお付き合いいただければ有難いです。

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 学生時代の私は北海道で過ごした。今思えば34年も前の出来事で、懐かしい青春時代の想い出だが、当時は初めての親元を離れての生活のためか、自炊すらしたことがなく、すぐにホームシックになった。それでも同じアパートの隣室が同郷の友人で、浜田省吾を聴き、流行のスタジャンを格好良く着こなすオシャレなナイスガイで、私も彼の影響を受け、「sand castke」というLPレコードを聴いて、徐々に浜田省吾ワールドに引きずり込まれていった。毎日のようにラジカセで聴いて、彼の詩の美しさと楽曲に心酔していったのだった。
 以来、彼のアルバムはすべてレコード(当時はまだCDが無かった)からカセットテープに録音したものだった。貧乏学生だった私はすべてのLPレコードを購入できる訳も無く、専らレンタルレコードで我慢していた。
 たぶんここまで読んだだけでも、私の「浜田省吾愛」は感じ取っていただけたと思いますが、ではここで個人的趣向になって申し訳ないが、私が好きだった楽曲を挙げると以下の通りになる。

 1位 19のままさ             11位 陽のあたる場所      
 2位 家路                 12位 風を感じて
 3位 愛という名のもとに        13位 路地裏の少年
 4位 America                   14位 ラストショー
 5位 Midnight Flight                15位 遠くへ
 6位 もうひつとの土曜日              16位  散歩道
 7位 J boy                   17位 終わりなき疾走
 8位 丘の上の愛              18位 傷心
 9位 片想い                     19位 いつかもうすぐ
10位 君に会うまでは           20位 愛の世代の前に

 <この曲に寄せられたコメント>

 どんなに遠くても、孤独でも『この道(現在)』が『空(理想)』に出会える場所を目指し、懸命に生きるしかないんだと。深いね...。人生の応援歌です

 昔、別れた妻を思い出しました。辛い時、この曲を聞いています。毎日を一生懸命生きています。与えられた命、頑張って生きて行きます

 この歌で自殺するの止めました

 トラックに乗って30年目の秋に慢性腎不全になり緊急入院し透析が必要な体に。仕事を失い夢も希望もなくしてた時、この曲を聞いたらこみあげてくるものがあり涙が....思い切り泣いた。そして勇気をもらい前向きになれて社会復帰して10年。負けそうな時もあるけどこの曲を聞いて頑張れます。

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 こういうコメントを読むと彼の楽曲はメッセージソングそのものだし、人生の代弁者のような気がする。偽りのない感情で率直に表現する彼の作風は、ぐんぐん魂に響き渡る。人生の応援歌として聴いている人も大勢いることがわかる。

 ところで、こうしてランキング表示してしまうとよくわかるが、何か30年以上前の古い楽曲ばかりだ。当時、それくらい彼の曲との出会いは衝撃的で、本気で聴いていたことが窺い知れる。長髪にサングラス、ジーンズというお決まりのスタイルに、ストラップで肩からぶら下げたギター。私が学生時分に傾倒した彼も、今年12月で65歳を迎える。彼の演奏スタイルや作風はあまり変わらない。彼の奏でる名曲は私の人生そのものである。未だに恋愛模様を創作できる才能は敬服に値する。

 彼のナンバーに耳を傾けると、その詩の情景が浮かんでくるから不思議だ。たとえば私が1位に挙げた「19のままさ」は、一年間予備校通いをして浪人生活をしていた自分の境遇とドンピシャで当てはまり、共感できるし、「America」では、アメリカンドリームを夢見ていた若き日の自分と重なる。その歌詞は当時、英語をマスターしたくて必死でもがいていた日々と相通じる。
 20代の頃になって一人前に彼女が出来た私は、浜田省吾の歌詞に出てくるような恋愛を手本に、そうした雰囲気を演出した。「もうひとつの土曜日」の世界観や「愛という名のもとに」のような別れのシーンも経験し、まるでそれらは若き日の恋愛ストーリーそのものだった。「家路」は辛いときに人生の応援歌になった。このように、自分の人生を写した鑑であるかのように、彼の独特な世界をオーバーラップして、追従していたような気がする。そして「真実の愛」を探し求めていた気がする。
 今、この歳になってさすがに恋愛ソングはギャップがあって厳しいものがあるが、若き日の佳き想い出として脳裏に深く刻まれている。私にとっては終生、人生の手本であり、宝物であると思う。

 最後に、私のHP「趣味-ING」内の「風越波海(SUZUの詩のペンネーム)の世界」に掲載した詩をここでお送りし、結びとします。今回もお読みいただきありがとうございました。

 「海とバイク、そしてSYOGOと歩いた青春」

 学生時代の僕は バイクを愛し ひたすら海を目指していた
広い大空と大地に憧れて やってきた北海道の片隅で
僕は自分自身と向き合い 本当の自分を探すことができた
今思い返せば 夢のような日々を送った


あの頃の僕は夢も希望もなく 魂を隠して 
ただ毎日を平凡に過ごしてきただけの ただの道化師
北海道に来て僕は生まれ変わった 生きていることに疲れた時
人生につまずいた時 僕は決まってバイクを駆り より遠くを目指した

心を癒す潮騒のメロディー オホーツクの調べへのいざない
あの日見た朝焼けと心地よい潮風 海を渡るさざ波との競走
蜃気楼の彼方に続く一本道 焼け焦げたオイルの匂い
道すがら 幾多の場面が一服の清涼剤だった

ひたすらスロットルを握り、コーナーと一体になり
まるで自分の居場所を探し求めているかのように
必死にブラインドの先にある何かを追いかけていた
とりとめのない詩を心に綴り 生きた証をどこかに残したかった

北の大地で僕を慰めた心の風景 それは神無月の竜宮
夕日を背負い サロマとオホーツクの隙間をバイクで駆けた
瞳の奥に刻み込んだあの日の記憶
徒然なる旅先で心を洗い 生きる勇気を取り戻した愛しき日々


もうひとつ僕の心の支えだったもの それは一人身の孤独に耐え 
その傍らでいつも聞いていたSYOGOのラブソング
人生の応援ソングは いつも決まって SAND CASTLE
それを心の拠りどころにして 命の炎を燃やし続けた

SYOGOの歌詞に励まされ SYOGOの旋律に魂を揺さぶられ
SYOGOの歌声に 自分自身と向き合う勇気をもらった
いつしか彼の歌を口ずさんでいる自分がそこにいた

自分の存在意義を確めて 耐え切れず涙した夜もあった
時の移ろいに ただ虚しくて 人を妬みやるせない夜もあった
自らの過ちを認めたくなくて 葛藤した懺悔の日々
SYOGOと出会い 僕はこれまでの生き方を悔い改めた

ワインディングロードは人生そのもの 容赦なく迫り来る
コーナーを登るにつれ やがて拓ける視界 太陽は近づき 
今にも手が届きそうな雲のかけら 時の礫と必死に闘いながら
霧に行く手を阻まれた時も 嵐の夜も ひたすら駆け抜けた

それでも諦めず根を上げず 自分を信じた末に待っていたのは七色の虹
何も飾らず 奢り高ぶらず ありのままの自分をぶつけて歩いて行こう
格好じゃなく 見せ掛けでなく うわべだけの人生に終止符を打って
タフな奴には女神微笑む それを合言葉に僕は 北の大地を後にした


かつて北の大地の片隅で孤独と闘い 自分探しをしていた奴がいた
やがてそいつは大人になって夢を追いかけることの大切さを学んだ
北の大地で手に入れたもの それは夢を紡ぎ生きることへの道しるべ
北の大地で過ごした2年の歳月は 本当の自分を見出すための日々

やがて訪れる筈の憧れ地 東京は 北の大地の前で霞んで見えた
今 静かに瞳を閉じれば 瞼の裏に焼きついた風景画の数々
夕焼けに染まるオホーツクの砂浜 確かな足跡をそこに刻み込んだ
あの日の情景を 僕は胸にしまい込み 証に変えて今日も生きている

 「風越波海の世界」はコチラ http://tsuriten.la.coocan.jp/kazakosi.htm

 記事作成:10月11日(水)

 

 

2017年10月12日 (木)

命の洗濯(紅葉と温泉)

 現在ブログを休止中ですが、15日の再開を前に、本日12日(木)、久々の休暇を利用して命の洗濯をさせて貰ったため、今日だけ特別に記事を掲載いたします。

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 ブログを休んでいる間、念願の休暇を取った。夏に土日なく働きづくめだった日々から、ようやく解放され、振り替え休暇が貰えた。
 本音を言えば、ゆっくり家でゴロゴロするか釣りに出かけたいところだったが、天気がイマイチで風も強く、波も2m、小潮という最悪のコンディションで、山に切り替えた。といってもトレッキングや登山ではなく、かねてから行きたかった磐梯熱海温泉の「ケヤキの森」遊歩道を歩き、その後、母成峠を北へ向かい、中ノ沢温泉の露天風呂に入りたいという計画を練った。もちろん、働きに出ている家内に言える訳もなく、内々に仕事に行く振りで、いつもと同じ7時前に家を出て行くことになった。以下は経過を綴りたい。

 10月12日(木)くもり/小雨/晴れ

 6:59 自宅発ー東原セブンイレブンから喜久田街道へ。
 7:12 喜久田のトライアルへ 店内ガラガラ 気温19℃ ヨーグルト、お茶、生寿司、お
     にぎり、のど飴、パン、そして衣料品を購入して1,486円 7:19発
 7:32 「ケヤキの森散策路」のため駐車場探し 美術館のPはダメ 清稜山倶楽部Pへ
     従業員が見回り、監視カメラもあって断念 華の湯方面の足湯の先に「ケヤキの
     森」専用駐車場という表示あり その中へ入って駐車 湯溜槽タンク2つの西隣り
     ここまで13.7km走行
 7:35 標識入口から入り、橋を渡ると目の前に朱い鳥居 源泉神社 標識に従って散
     策 お茶を持って飲みながら歩く。川沿いの清稜山倶楽部の裏手を進む 木の説
     明や野鳥の説明図などが所々にある。森林地帯 紅葉はまだまだでまだ木々の
     葉は緑。緩やかなアップダウンでまさに散歩コース しかしインターロッキングに苔
     が生えて滑りやすい。マムシ、ミツバチの巣注意の看板 熊は大丈夫か 蜘蛛の
     巣多い。「天空のケヤキ」という標識あり 木立の中なので意外に暗い カメラの
     感度を上げる。展望スペースに向かう三差路で犬連れのおじさんと挨拶「この急
     な階段はきついですか?」と尋ねたらさほでもないらしい。熊出ますか?と聞いた
     ら出ないという返答。一応は「365日の紙飛行機」を口ずさみ、口笛を吹くなど警
     戒しながら進む。息切れは多少。時々写メしながらなのでそんなにきつくはない

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 7:53 展望スペースへ ベンチあり。帰りは雨に濡れた散策路で靴底が汚れる。足元
     を気遣いながら下る。東屋あり。元の石畳みの散策路に戻る。そのままカーブし
     て200m歩けば朱塗りの橋で終点。川も風情があって素敵。橋の先のゴールは
     なんと美術館の駐車場。

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 8:00には散策路終了 実際の散歩はゆっくりでも30分かからない。ここから風が強い 
     中、旧49号線沿いを歩く。結構遠くて時間かかる。太田熱海病院前、すると磐越
     西線を2両の電車が郡山方面へ走って行った。さきほどの犬連れのおじさんと再
     びすれ違う。東屋のある温泉街入口を左折。清稜山倶楽部の斜め向かいに足湯
     を発見。

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 8:10 登山の疲れを癒すのに入ってみる。無人で貸し切り。結構暑い。脚の疲れがと
     れる。なんとテレビまである。フリーWI-FI完備。12分くらい湯につかる。誰も来な
     い。そして駐車場に戻る。メモ書きする。腰痛が・・・。目の前に容量130㎥もので
     かい黄緑色の丸い貯湯槽が2つ並ぶ。

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 8:27 駐車場発 母成方面へ向かう いったん西に走り、セブンイレブンから右折して
     熱海トンネル経由で左折。磐梯熱海ICの前を素通り 県道24へ 高速の高架橋
    下をくぐり、観音様の石仏が並ぶ駐車エリアで停車し、いつもの卑猥な岩を撮影
 8:33 進行方向に虹が・・・。

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 8:38 やがて目と鼻の先に虹が最接近したところで路肩に停車して写メ。
     取り締まり警戒でのろのろ走行 小雨ぱらつく ピラミッド形の三角山

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 8:42 釣り堀&あやめ園通過
 8:43 石莚ふれあい牧場入口(25.9km) そして母成峠へ ゆっくり走行
     すこしずつ葉が色づき始める 後続車を気にしながらのんびり走行
 8:48 水無川 気温は16℃ 路側帯で停車して紅葉の写真 やっとバス通過
     谷を挟み、向こう岸の山肌は紅葉が綺麗  路面がウエットに

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 8:56 畜産試験場手前にあるP入口から右折 すると探し求めていた「戊辰戦争古戦
     場」を示す石碑があった。私に釣られて別の乗用車も来たがすぐ退参。トイレを探
     していた模様。その後私ひとり 一礼して戊辰戦争の活躍に感謝
     確かに石碑には大鳥圭介や土方歳三の文字が・・・。ここで会津のために戦って
     くれたことを感謝 周辺の防塁や砲台跡などを記した地形図があるが、風が強い
     一度、紅葉の写真を撮りながら、ガードレールの先まで歩いて砲台の方へ向かう
     が、万が一熊に襲われでもしたら、発見されないと思い、怖くなって、引き返す。
     タバコの箱を捨てて行った不届きものがいるようなので、周辺のゴミを拾い車内
     へ  私も腹ペコでトイレに行きたくなるが、神聖な場所で立ちションは出来ない。
     デジカメのメモリーカード残量不足に 車内で不要な画像を50枚程度削除し容量
     を確保する。気温は14℃に さすがに山の上は寒い

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 9:15 母成峠のPを出発 するとすぐその先の右側に「戊辰の役戦没者慰霊碑」の標
    識   時間があれば帰りに立ち寄りたい。 また牧場草原地帯の坂の途中で右側
    に、沼尻スキー場の男坂・女坂の急斜面の壁が見えた。
 9:20 農園食堂あり そして下り坂から中ノ沢温泉街へ HPで見て興味があった大阪
    屋を探す。先に花見屋があって、その先の左側に建物、そしてその斜め向かいに
    大阪屋の専用P
 9:22 大阪屋P到着 ここまでで37.5km 店先に入浴500円の小さい標識あり
    呼び出して店主のおじさん登場 これから温泉入浴できますか?と聞くといつでもO
    Kという返事 9時からだと思って時間を調整して来たがそれも不要 500円を払い
    通路に従って10m先の浴場暖簾をくぐる。すぐに脱衣場 そして無人の温泉へ
    硫黄の香りが凄い 屋内を素通りしていきなり「夢の湯」という石段を下って露天風
    呂へ。紅葉もあり。湯船の地面が青白い塗装により、乳白色。岩風呂であちこちか
    ら岩が湯船から突き出し、右側に戻る感じで洞窟風呂がある。探検気分。念のた
    めデジカメと財布、メガネを持参。奥まった先にも旅館宿泊者専用の入口があり、
    脱衣棚と籠がある。そこに財布類を置いた。気持ちよく無人の貸切風呂状態で湯
    に浸かっていると、おばさんが掃除にやって来た。いろいろ話しかけた。温泉宿自
    体は昭和を思わせる造りと、古民家、民芸茶屋を想像させる雰囲気で旅情を誘う
    が、平日の朝ということもあって、ガラ空き状態は有り難い。湯気でメガネが曇る。
    他に客が誰もいないことをいいことに、写メ撮りまくる。最後に屋内風呂で体を洗
    い、上がる。洗面所で髪と体をドライヤーで乾燥させ、服を着て出ようとして、メガネ
    が無いことに気づく。慌てて戻る。しかし、ジャージのズボンをまくり上げ、飛び石を
    ジャンプしながら洞窟内を捜索しても脱衣カゴにも見当たらなく焦る。すると、岩風
    呂の石の上に置き去りしてあった。硫黄の香りが全身を包む、これは家内に一発
    でバレる。
    ロビーへ戻る。右手に食事会場と思しき囲炉裏が4つ並ぶ和室がある。雰囲気が
    あってGOOD!民芸の調度品が素晴らしい。天狗や昭和初期の三菱製のミシン
    中ノ沢温泉街のパンフとドライブマップを頂戴した。おじさんに声を掛けて退去

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 9:57 車へ戻り、宿全体の写メ 出発 次はせっかくここまで来たので姫沼へ
    下り坂で工事のためS字カーブ 片側通行 右手に旧沼尻軽便鉄道の駅舎だった
    建物を写メ その先の丁字路を右折して国道115へ 前回訪問で入口見つから
    なかった反省から、注意してスローペースで進むと、すぐにそれらしき場所を発見
    左折して林へ分け入ると、何もない廃墟同然の姫沼からおばさん運転の軽が出て
    きてびっくり・・・なぜあそこから出て来た?犯罪の匂いが・・・・。死体でも捨てに来
    たのか?
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10:01 4年前に続き2度目の訪問。正確には幼少の頃、亡き父親に連れられ、ここで
    釣りをした想い出があるので3回目。昔は姫沼アートランドというレジャー施設だっ
    た。ひっそりと誰もいない秘境。今日も訪問者は私くらい。しかし、紅葉には早過
    ぎ。やはりここは隠れた紅葉スポットだが、11月の晴天青空の日に来ると湖面に
    映る紅葉もあってなおさら綺麗。車でその先まで行ったが、電力会社の施設があっ
    て、Uターン。もう使われることのないブランコや滑り台などの遊具が放置されてい
    た。あと二週間後が紅葉にはベストだ。

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 姫沼の詳細 http://bunbun.hatenablog.com/entry/2016/08/24/072534

 http://www.interact-photogallery.net/lake/pondHimenuma/pondhimenuma.html

10:07 姫沼レストランの廃屋を見送り、退去。交通量が多く、なかなか国道に出られな
    い。わかくさ幼稚園のマイクロバスを追って再び母成峠へ向かう。途中、沼尻スキ
    ー場が見える地点で停車して写メ。14℃あったので、まだ紅葉も雪も先のようだ。
    途中、車が左側の路側帯に停車し、ポリタンクに清水を汲んでいた。
    幼稚園バスが意外に飛ばす。煽るつもりもないので十分車間距離をとって、ゆった
    り走行。怖くなって慰霊碑は立ち寄らず。くねくね。この道はおそらく20回以上は
    走っているはず。仕事終わりにナイタースキーに随分通った。凍結した雪の峠道を
    よく走ったものだ。怖さを知らず若かった・・・・。

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10:23 ゆっくり制限速度を守っても交通量がほとんどないのでスイスイで料金所へ
     前を飛ばす幼稚園バスはそのまま「ふれあい牧場」へ。どうやら遠足だったよう
    だ。懐かしいCDを聴く 三角山へ 古墳ではないのか?
10:32 高玉城址へ 石碑が見えた。その先の磐梯熱海ICのすぐ先の歩道にロケ隊
    が!5人ほどの撮影スタッフとカメラに向かって話す若い女性。知っているアナウン
    サーかと思ったら、全く知らない顔だった。旅番組か食べ物屋の紹介か?もしかし
    たら地元の高校生女優、「箭内夢菜」のVR動画の撮影?
       18℃ そのままバイパスを郡山方面へ。
10:41 トライアル左折し、喜久田小学校方面へ右折 喜久田街道をばく進 
10:48 帰宅 走行距離は73.3kmだった。

 仕事を休み、ブログも休止中の12日、命の洗濯をさせていただいた。しかしやっぱりそこは習慣と言うのは恐ろしいもので、やはりチョイ旅でもこうして記録として残して置きたいと思うのはやはり悲しい性か。
 先週金曜日、仕事のストレスから血圧が180に上昇し、下も100を越えるという非常事態に見舞われた。これ以上働きすぎると、脳血管障害か心臓病の危機と思い、今回の休養となったが、まさしく命の洗濯をさせていただいた思いだ。今週末と来週末、いずれも仕事で休めないことから、ここいらで休息をとらないとマジで過労死するかもしれないとの不安感いっぱいだった。半日でも体を休め、精神のリラックスを図れて何よりだった。

 しかし磐梯熱海温泉よりは多少遠いが、硫黄泉が強く湯量も多い中ノ沢温泉も片道30kmちょっと思えば楽。平日ならば他の客の視線を浴びることなく、ゆったりとした気分で温泉に浸かれ、しかも貸し切り状態だ。タオル持参で入浴だけなら500円ポッキリ。ワンコインで旅情満喫は嬉しい。大阪屋さんの露天風呂はなかなかいい。ぜひ4か月に1回、年3回は訪れてみたい温泉場だ。他には花見屋、西村屋、平澤屋旅館も日帰り入浴が500円。

 さて、今日は7時から11時前の4時間弱だけでこれだけのことが出来た。今日の一日は、7年後に退職する私のモデルケースになるかもしれない。たぶんこんな休日を過ごしているに違いない。    

2017年10月 8日 (日)

ただいま充電期間

 今日から一週間程度、新しい記事の更新を中断させていただきたいと思います。

 2009年4月に当ブログを開設して9年目、震災の5日間を除き、ほぼ毎日のように更新を続けて参りましたが、今年から部長職となり、過労死?になりそうなほど多忙な日々に加え、土・日も休暇がない状況が続き、ブログ記事を書く時間がとれないためです。

 また、ここ一ヶ月、一日の閲覧数が2,500件以下に減り、私自身が毎日更新する必要性を感じなくなったことも理由のひとつです。現在も、更新可能な記事は10以上ストックがあることはありますが、あまり急を要しないため今回の決断に至りました。

 なお、誠に勝手ながら、一日のアクセス数が2,000件を下回った際には、当ブログを閉鎖しようと心に決めて、毎日更新を続けて来た経緯もあるため、場合によっては突然の閉鎖宣言もありますので、予めご容赦ください。

 毎回、更新を楽しみにしてくださる読者の方には申し訳ありませんが、諸般の事情をお汲み取り頂き、ご了承願います。

 今のところ、再開は10月15日(日)の予定ですが、事情によっては延びる可能性もあります。(SUZU)

2017年10月 7日 (土)

プロ野球監督のデータ分析 

 今日はプロ野球の監督についての話題に触れたい。以前にも当ブログ記事において、いったいどういう性格の人が野球の監督に向いているのか書いたことがある。今回はその続編で、歴代プロ野球の監督で、通算勝利数や勝率を基礎データに、誰が優秀監督に当たるのかを考えながら、血液型やその性格の特徴や傾向をまとめたい。
 なお、血液型別性格診断等に興味のない方、その話題に批判的な思想をお持ちの方はここで退室ください。

 プロ野球監督の歴代勝利数(500試合以上)

順位 監督名 年数 試合数 勝利 負数 引分 勝率 優勝数(リーグ・日本一)の順

1 鶴岡一人 23 2994 1773 1140 81 0.609 11 2
2 三原脩 26 3248 1687 1453 108 0.537 6 4
3 藤本定義 29 3200 1657 1450 93 0.533 9
4 水原茂 21 2782 1586 1123 73 0.585 9 5
5 野村克也 24 3204 1565 1563 76 0.500 5 3
6 西本幸雄 20 2665 1384 1163 118 0.543 8
7 上田利治 20 2574 1322 1136 116 0.538 5 3
8 王貞治 19 2507 1315 1118 74 0.540 4 2
9 別当薫 20 2497 1237 1156 104 0.517
10 星野仙一 17 2277 1181 1043 53 0.531 4 1
11 川上哲治 14 1866 1066 739 61 0.591 11 11
12 長嶋茂雄 15 1982 1034 889 59 0.538 5 2
13 仰木彬 14 1856 988 815 53 0.548 3 1
14 原辰徳 11 1577 876 646 55 0.576 7 3
15 古葉竹識 14 1801 873 791 137 0.525 4 3
16 森祇晶 11 1436 785 583 68 0.574 8 6
17 中西太 14 1640 748 811 81 0.480 1
18 大沢啓二 13 1547 725 723 99 0.501 1
19 山本浩二 10 1359 649 681 29 0.488 1
20 梨田昌孝 9 1263 645 594 24 0.521 2
21 落合博満 8 1150 629 491 30 0.562 4 1
22 松木謙治郎 11 1255 628 602 25 0.511
23 根本陸夫 11 1351 598 687 66 0.465
24 白石勝巳 11 1359 581 736 42 0.441
24 岡田彰布 8 1141 581 521 39 0.527 1
26 浜崎真二 10 1203 535 639 29 0.456
27 石本秀一 12 1115 528 553 34 0.488 2
28 藤田元司 7 910 516 361 33 0.588 4 2
29 広岡達朗 8 966 498 406 62 0.551 4 3
30 若松勉 7 975 496 461 18 0.518 1 1

 血液型

 O型 藤本定義・水原茂・西本幸雄・上田利治・王貞治・星野仙一・古葉竹織・森祇晶・
    落合博満・秋山幸二・東尾修・バレンタイン

 A型 三原脩・川上哲治・仰木彬・原辰徳・梨田昌孝・岡田彰布・広岡達朗・渡辺久信
    ヒルマン

 B型 野村克也・与那嶺要・中西太・山本浩二・藤田元司・若松勉

AB型 鶴岡一人・大沢啓二・ 

  プロ野球選手はもととも球技に滅法強いO型やB型の社会。加えて親分肌で勝負勘が強いO型が有利の世界だ。ゆえにO型監督がもととも多い。ゆえに長く監督業に携わる者が多いことから通算勝利数で見るとこのようなO型上位の順位となる。

 プロ野球監督の歴代勝率(500試合以上)

順位 監督名 血液型 年数 試合数 勝利 負数 引分 勝率 優勝数(リーグ・日本一)の順

1 鶴岡一人 23 2994 1773 1140 81 0.609 11 2
2 川上哲治 14 1866 1066 739 61 0.591 11 11
3 藤田元司 7 910 516 361 33 0.588 4 2
4 水原茂 21 2782 1586 1123 73 0.585 9 5
5 天知俊一 6 777 439 316 22 0.581 1 1
6 原辰徳 11 1577 876 646 55 0.576 7 3
7 森祇晶 11 1436 785 583 68 0.574 8 6
8 濃人渉 8 813 442 343 28 0.563 1
9 落合博満 8 1150 629 491 30 0.562 4 1
10 秋山幸二 7 865 456 369 40 0.553 3 2
11 広岡達朗 8 966 498 406 62 0.551 4 3
12 仰木彬 14 1856 988 815 53 0.548 3 1
13 若林忠志 7 740 390 324 26 0.546 2
14 西本幸雄 20 2665 1384 1163 118 0.543 8
15 王貞治 19 2507 1315 1118 74 0.540 4 2
16 上田利治 20 2574 1322 1136 116 0.5378 5 3
17 長嶋茂雄 15 1982 1034 889 59 0.5377 5 2
18 三原脩 26 3248 1687 1453 108 0.537 6 4
19 東尾修 7 937 489 425 23 0.535 2
20 藤本定義 29 3200 1657 1450 93 0.533 9
21 星野仙一 17 2277 1181 1043 53 0.531 4 1
22 岡田彰布 8 1141 581 521 39 0.5272 1
23 与那嶺要 6 780 388 349 43 0.5265 1
24 渡辺久信 6 864 438 395 31 0.526 1 1
25 古葉竹識 14 1801 873 791 137 0.525 4 3
26 バレンタイン 7 966 493 450 23 0.523 1 1
27 ヒルマン 5 683 349 320 14 0.522 2 1
28 梨田昌孝 9 1263 645 594 24 0.521 2
29 西村正夫 8 721 365 339 17 0.5185
30 若松勉 7 975 496 461 18 0.5183 1 1

 監督在任が長いO型は勝利数こそ多いが、勝率を見ればさほど上位ではない。やはり緻密な野球を実践するA型には敵わない。しかし、O型選手は豪快さが持ち味で、細かいことは嫌い。だからA型の細かさに嫌気が差す。基本的にO型は年上には媚を売り、年下には命令するタイプなので、A型監督には嫌々でもうまく取り繕って取り入れられようと努力する。B型監督ではその天性の才能を感じ取り、立てることが出来る。O型監督ではのびのびやれるが、成績はあまり芳しくない。野球が雑になるからだ。それにO型はなんでも肯定的に結果をとらえる傾向が強く、自己反省もあまりしない。悔しいのは一時だけで立ち直りが早い。同じ轍を踏むことも十分ある。

 注目すべきは2015年を最後に監督を退任した原前巨人監督だ。データは2014年までのものだが、あの西武黄金時代を築いた森元西武監督の勝率を上回っている。やはり巨人愛が強い彼は、球団やチームへの思い入れが強く、どうすれば常勝チームを築けるか、真剣に考え、分析し采配を振るったことが見て取れる。12年間巨人一筋に監督を務め、Bクラス(4位)はたった一度で、11回はAクラス。リーグ優勝7回、日本一3度はずば抜けた成績だ。原監督は川上監督、広岡監督、藤田監督の流れを組む管理&分業野球の推進者だ。彼の洞察力は秀逸しており、川上監督以降最高の成績を残した功労者だ。彼が他球団の監督に招聘される前に、三顧の礼を持って再び彼を巨人に招くべきだろう。

 

 こうした血液型を含めた分析は私的な印象も受けるだろうが、こうしたデータを基にすればなるほどと納得できる部分もあろう。

 記事作成:10月1日(日)

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