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2009年5月

2009年5月23日 (土)

「遠い日の記憶」

小学校の通学路にあった古ぼけた木造の駄菓子屋
決まり事のように店番をするのは割烹着姿のおばあちゃん
そこは子どもたちの溜まり場 いつも夕刻は自転車の列
小銭で一個から買える選り取り見取りのお菓子の山
そして籤で当たる多彩なおもちゃ そこは子どもの宝の在り処
そんな夢を育む場所で 僕には忘れようにも忘れられない過去があった

あれは小6の秋 いつものように学校帰り友達と駄菓子屋で待ち合わせ
おばあちゃんは いつも子どもたちの相手で忙しそう
それでいてどこか嬉しそう そんな日常の中で僕に魔の手が忍び寄る
その日どうしてもほしいカードを見かけた でもお金が足りなかった
僕はとっさに嘘をついてしまった 「この前の買い物の時お釣りが足りなかったよ」
そう言ってまんまと100円をせしめてしまった

家に帰って親の顔を見た途端 全身を襲う罪悪感そして虚脱感
僕はおばあちゃんを裏切った あんなに優しいおばあちゃんを

あの日から僕は後ろめたさから その駄菓子屋に行かなくなった 
帰り道もわざと遠回りして 次第に友達からも離れていった
その後 そのまま小学校を卒業し その店と反対方向の中学へ入った
だけど心の奥のどこかにそのことが引っ掛かっていた いつも・・・

高校入学後は 僕の心の傷も癒えて 部活に熱中する日々を過ごした
やがて東京の大学へ進学し親元を離れての生活 そしてそのまま東京に就職した
あの日の出来事は日常の忙しさの中で すっかり遠のいていた

仕事に就いてようやく お金を稼ぐことの大変さを身を持って知った
営業の帰りに信号で止まった車の中で ふと古びた駄菓子屋を見つけた
その時 遠くセピア色に色褪せた記憶が僕の脳裏に鮮やかに甦ってきた
「あのおばあちゃんはどうしているかな そうだあの日の過ちをお詫びにいこう」

正月久しぶりに実家に帰省した 
その折 十五年ぶりに立ち寄ったあの日の場所
しかしそこに駄菓子屋はもうなかった 
建物は既に取り壊され 空き地と化していた

近所の人に聞けば 駄菓子屋のおばあちゃんは今から十年前に亡くなり
元々ご主人とは戦争で死に別れ 身寄りがなく独りでお店を切り盛りしていたため
その店はその後町に引き取られ 今から五年前に取り壊されたという
知らなかった 何も知らずにいた そんな自分がやるせない

幼い日の記憶を手繰り寄せ あの日の出来事を追憶
空き地の前で呆然と立ち尽くし 涙がとめどなく溢れた 
遠い日の過ちを心から悔いた できることなら生きてるうちに一言謝りたかった

その空き地に分け入り おばあちゃんが立っていた場所を探し当て
折れた木の枝で穴を掘り あの日の100円をそこに埋め手を合わせた

「おばあちゃんご免なさい 随分遅くなったけどあの日のお金を返すよ」
「どうか安らかにお眠りください・・・」

ようやく今 十五年の時を経て 長年の胸の痞えがとれた
帰り道 涙が止まらなかった でも人として大切な何かを取り戻した気がした 

すると僕の心の中で おばあちゃんの笑顔が浮かんでは消えた・・・

 

2009年5月21日 (木)

紀行文のすすめ

 みなさんは旅の記録をどのように残していますか?江戸時代の歌人、松尾芭蕉は旅の道中、時節が醸し出す明媚な風景や情緒を句にしたため、「奥の細道」として編纂し、後々の世まで語り継ぐことでその存在感を示した。これは特異な例だとしても、通常であれば写真に撮ってアルバムに飾るだとか、その土地で出会った風景をスケッチしたり、また最近にあっては、家庭用パソコンの普及によりワープロ機能をフルに活用し、文章化したものを旅日記として整理したり、ホームページやブログに掲載して公表するといった新しい表現方法、また「旅の手帖」のように旅行記として編纂し、本にして出版するという手法も考えられる。

 数ある手段の中で、私は古から伝わる昔ながらの記録法である「紀行文」という形で残すことを十代の時に思い立った。きっかけは、高校時代まで遡る。当時、国語の課題で「修学旅行の想い出」として紀行文を書いて提出というのがあった。当時、私は文章を読むことも書くことも大の苦手で、まして自身が紀行文を執筆するなどといった大それた発想など全く持ち合わせていなかった。最初は悪戦苦闘することが予想されたが、事前にグループでの下調べや班別自主研修などの準備を万端に整え、旅の最中でもメモをとるようにしたのが功を奏し、あれよあれよと作業が捗った。まず事実を丹念に記載し、その上で味を出そうと詩や俳句・短歌、諺などを引用したり、挿絵を挟むなどの工夫も自然に出来たように思う。気づけば人生初の紀行文は、大学ノート一冊分、すなわちページ数にして優に100頁を超えていた。また私自身、進学した大学が北海道で、かつバイクに乗っていたことから、各地をツーリングした際に、大切な想い出を何とか形あるものとして残したいという状況には打ってつけであった。

 紀行文の第一の利点は、人の記憶というのは、時間の経過とともに薄れていくものだ。記録として残せれば、それを見返した時に、その時分の感性や雑感めいたものが年齢を重ねた今でも、鮮やかに蘇る。また実際に書く時には、旅行中に書き留めたメモを見ながら書き進める訳だが、その行程や足跡を追憶しながら辿ることで、二度旅行気分を味わうことができるし、そのひとつひとつの作業が確かな記憶を植え付けていくのである。

 第二の利点は、紀行文として旅行の内容を細かく記載しておけば、次回の旅行の際には有力な参考資料になる。行程表や移動距離、それにかかった時間や費用などが一目瞭然。すると次回の旅行計画が立てやすくなり、初めて訪れる人へのアドバイスも容易になる。これはまさに一石二鳥である。

 第三の利点は、文章が上達し、表現力がつくということである。最近はパソコンに入力すれば、その文字や漢字を一発で検索し、選択確定までの煩わしい作業をいとも簡単に引き受けてくれるが、当時は紀行文ノートのすぐ脇に国語辞典を置き、それを引きながら悪戦苦闘して、どうにかページ数を稼いでいた。もともと文才の無い私の拙い文章を覆い隠すには、それしか打つ手はなかった。このことを継続・励行したことが、旅の知識を増やす結果となり、また語彙力の向上にもつながり、後々大学のレポート提出や卒論制作に一役買ったことは言うまでもない。

 第四の利点は、紀行文を通して知らないうちに、企画力・発想力・表現力、更には創造力が身に付いていたことが挙げられる。そして、私自身が紀行文を書くことで得た最大のメリットは、感性がことのほか豊かになったという事実だ。それまで気にも留めなかった風景に立ち止まり、心を許したり、その土地で見知らぬ人と友達になったり、雄大な自然の荘厳さに触れ、環境保全の重要性を認識したり、究極的には人間の生命力や神秘にも目を向けるようになった。旅の醍醐味を五感全部を使って感じとり、貴重な体験を積み重ねたことで、ひと回り人間が大きくなったと思う。

 では次に、いよいよ紀行文を書く上で、具体的な作業についてお話ししよう。まずは旅行前。これは通常の旅行の準備と何ら変わらない。ただ、旅行の計画は綿密に立てたほうが無難だ。行き当たりばったりの旅も、いろんな想定外の出会いや思わぬ場面に出くわして面白いことは確かだが、限られた時間を有効活用する為には、入念な青写真はぜひ頭に入れておきたい。あと必需品なのは小道具類で、デジカメ・マップ・ガイドブック・大学ノート一冊・筆記用具とめぼしいものを揃えるだけ。次に旅行中は、メモとカメラである。時間や場所、かかった費用、主な出来事や特徴的なことをメモるようにする。このメモが積もり積もれば、それだけでも立派な旅の記録の完成だ。そして旅行後は、出発から帰宅まで、一連の行動や雑感をひとつひとつ記憶を呼び起こし、時間の経過を追って書き記していくだけである。そして好みに応じて意匠を凝らせば言うことはない。写真をどこに配置するか、旅の土産(乗車券・入場券などの切符類や見学場所のパンフなど)をどのように整理するか。それらを日付ごとに章分けし、それぞれにサブタイトルを付ける。スペースを考えながら地図や行程表を挿し込む。こうした作業をすることで見やすくなり、他人が見ても好感のもてる「私だけのオリジナルガイドブック」が完成する。

 これでどうだろう。紀行文の素晴らしさを理解してもらえたでしょうか。「面倒くさい」とか「そんな時間など無い」という人がいるかもしれない。私から言わせれば、だからこそやりがいがあって面白いのだ。私が紀行文執筆に夢中になったのは、主に大学生活の四年間だが、その面白さにとりつかれ、夜通しでの執筆は日常茶飯事で、気がつけば大学ノート12冊に上り、1200ページを超す超大作になっていた。書いている時は大変でも、完成した時の喜びは、とてつもなく大きい。一度仕上げてしまえば永久保存版で、見たい時にいつでも手にとって読み返すことができる。すると何十年も前の出来事であっても、不思議と記憶が鮮明に甦り、その時分の自身の気持ちや場面に立ち戻れるのだ。忙しい時の休暇が貴重であるのと同様、慌ただしい日常の合間を縫って行く旅行だからこそ貴重で愛おしいのだ。だから人それぞれやり方の違いこそあれ、独自のスタイルで何らかの形で旅の記憶を残せれば良いと思う。私自身は、それがその時を「生きた証」になると信じている。

 最後に、ここまでを見るといいことずくめの紀行文に思えるが、留意しておきたいことも何点かある。それは紀行文のための旅行にならぬことだ。写真ありきに傾倒してしまう危険がある。写真を撮りさえすれば旅先での記録が残ることにすっかり胡坐をかいて安心してしまい、旅の本来の目的である風景そのものを、心ゆくまで満喫しているのかという危惧である。日本人の悪い癖として、すぐ携帯で写メを撮る傾向がある。心の印画紙に焼き付けることをせずに、機械のメモリーに残そうとする。実はこれはあまり褒められた行為ではない。機械に出来事や記憶を預けてしまうと、心の中には感動や真の風景画は何も残らないからだ。更にもうひとつ、これは前にも述べたが、新たな出会い求めて無計画で行きあたりばったりの旅も一興だが、私は旅行する場合、入念な下調べを行う。地図を机上に広げ、ガイドブックや旅行誌と格闘する。最近はネット検索という強い味方を利用し、情報収集にあたる。この時点から既に旅行は始まっていて、これがまた結構楽しい。「どこでどんな昼食を食べようか」とか「どういうルートで周ろうか」などである。でも勘違いしないでもらいたい。私は誰もが訪れるような、ミーハーな有名観光地は決して選ばない。口コミや何気ない中で見つけた「隠れた名所」を探し出したいのだ。元々人混みが苦手な性質なので、渋滞は大嫌い。だから自由気儘に時間が使える、バイクでの一人旅をしていたという訳だ。人知れず存在する山奥の秘湯や自分だけのお気に入りの場所を求めて旅に出て、、帰宅後は自分だけのガイドマップを作るために、今日も私は筆をふるうのである。さあ、あなたも旅に出かけてみませんか?新しい自分を発見し、人間としての幅を広げるために。そして私がハマった紀行文執筆の世界に足を踏み入れてみませんか?

 

 

2009年5月20日 (水)

「資源とともに消えた島、再び」 ~軍艦島の悲劇~

 もう30年以上も前になるだろうか。「軍艦島の悲劇」を取り上げた公共広告機構のCMがテレビで放映されていた。長崎県の沖合数キロの海上に浮かぶ周囲2キロにも満たない小さな無人島でありながら、かつてそこには五千人を超す大勢の人々が暮らしていた。島は人々の活気で満ち溢れていた。正式名称は長崎県・五島列島の中でも一番外れにあるから端島という。元々は天然の無人島だったが、1810年の発掘調査で石炭の埋蔵量が日本でもトップクラスであることがわかると、ゴールドラッシュの如く、大挙して炭鉱夫とその家族たちが移り住み、やがて次第にその島は大規模に改造されて行った。台風や時化による洪水や浸食を防ぐために、周囲をコンクリート壁で囲むと、一気に人工島の様相を呈し、見る影もない姿へと変貌していった。黒いダイヤとまで称された石炭が最盛期を迎えていた昭和30年代には、その場所は日本一人口密度が高く(東京の九倍)、日本初の高層鉄筋アパートが立ち並び、学校、病院を始め、神社やボウリング場、映画館、パチンコ店などの娯楽施設まで設置され、墓地と真水以外は生活に必要なありとあらゆる物資が揃っていた。海から眺めると、その形状はまさしく軍艦そのもので、それは誰の目にも異様な光景であった。

 その後、昭和40年代の高度経済成長とエネルギー革命によって、石油に主役の座を奪われてからは、石炭産業は一気に斜陽、衰退の一途を辿って行った。発掘量が激減し、やがて仕事がなくなると、人々は「宝の島」に見切りをつけ、新天地を求めて島を離れて行った。そして、昭和49年に鉱山が閉山し、最後の住民が島を去るとそれっきり無人島となり、それ以来、世紀を跨いでも人間が足跡や痕跡を残すことはなかった。島は長きに渡り、激しい風雨や荒波に晒され、建物自体が朽ち果て、廃墟と化していった。数年前までは、老朽化が著しく、上陸するのも憚れるほど痛々しい姿で、それからというもの、時間の経過と歩調を合わせるかのように荒廃が進行して行った。そして、遂に21世紀以降は、全面的に関係者を含め一切の渡航及び島への上陸が禁止となった。このままこの島は、時代と人間の私利私欲の狭間で翻弄された揚句、歴史の片隅に埋没したまま永久に葬り去られるはずだった。

 ところが、昨年あたりからこの「眠れる島」を巡り、俄かに状況が騒がしくなってきた。繁栄と衰退を繰り返し、極めて不遇な経緯を辿ったこの島が、こともあろうに世界遺産の候補にリストアップされたのだ。私はこの報に接し、「何故?」と強い疑念を抱いた。それは憤りにも近かった。私自身、昔見たテレビCMの幻影が脳裏から離れず、いつかは上陸を果たし、その惨状を自分の目に焼き付けたいという積年の「想い」があった。しかし、あくまでその島は、古き佳き時代の象徴的な産物で、そっとしておくべき筈の過去の遺物なのだ。それを後世になって、再び人の勝手な都合によって穿り返す必要性など毛頭ないのだ。かくいう私も、確かに一時は、好奇心や俗物根性的な発想が心の奥底になかったと言えば嘘になるが、日本一と形容されている富士山ですら、未だに世界遺産に登録されていない現状を鑑みても、この瓦礫と化した島が、何故に世界遺産なのか。そうなったばかりに、悲惨な末路を辿った例が幾つもあることをご存じだろうか。

 ご当地の長崎県は、長引く不景気で観光収入が激減し、地元経済は冷え切った状態に陥っていた。その打開策として、この島に目を付けたのは見え透いていて、果たしてどれだけの経済効果が見込めるというのだろう。むしろそれと引き換えに、軍艦島が再び脚光を浴びることによって払うであろう犠牲や代償を蔑にしていないだろうか。もうすでに渡航禁止が解除され、一般公開を再開してしまっているのだ。県は予算を計上し、観光客が安全に見学できるようにと島の一部に新しい桟橋を設置する工事を施した。更には廃墟の中を足場を気にせずコース散策できるように、デッキや柵まで設けた散策路まで整備した。いかにも現代風の斬新な建造物で、既存の建物とは完全にミスマッチである。そのことがマスコミで大きく取り上げられると、大勢の「もの珍しさ」や「怖いもの見たさ」の観光客がこぞって押しかけ、今年のGWだけでも、すでに2000人以上が上陸を果たした。いかに苦肉の策とは言え、あまりにも時期尚早で、これが行政がとるべき正しい判断と言えるのだろうか。

 十分な議論もせず、見切り発車で行うことに対しては、後で必ずそのつけがまわる。そうなると後々問題となるのが、日本人の身勝手な振る舞いである。つまり日本人特有の忌々しい悪癖である。相手が世界遺産であろうと何だろうと、訪れた記念にと所構わずしてしまう落書き、落ちている石や土、花や葉などを黙って持ち帰る行為、ゴミの散らかし、煙草の灰を撒き散らす、撮影禁止場所での記念撮影等のマナー違反である。日本には「旅の恥かき捨て」などという恥ずべき格言があるが、それを平気でしてしまう日本人の常識や発想力の欠如。これまでもモアイ像に自分の名前を掘って現地当局に召還され、罰金刑を受けたり、イタリアのサンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしてしまい、マスコミに取り上げられるや否や大騒ぎとなり、現地まで謝罪に出向いた短大生など、ありえない醜態を全世界で晒している。実に嘆かわしい。みなさんは、世界一美化に対しての規則が厳しい国を知っているだろうか?それはシンガポールだ。ここは、「街中や公衆でガムを噛んではいけない」とか公園で昼寝をしても警察にしょっ引かれて罰金を払わされる。度が過ぎると、留置場に拘留されたり、場合によっては強制送還となり、ブラックリストに名前が載り、二度とその地を踏めなくなることさえある。無知ほど怖いものはないのだ。これと同じことが、もしかすると軍艦島でも起こり得る可能性があると指摘できる。条件整備が出来ていないのに、背に腹は代えられないとばかりに、一般公開にGOサインを出した行政も行政だが、これで本当に大丈夫なのか日本!と思わず訴えたくなる。

 話を本題に戻すが、軍艦島への渡航は大幅に制限すべきだと声を大にして言いたい。安全面に配慮した渡航規則は設けてあるようだが、そこを訪れる人々は、物見遊山ではなく、事前にその島の歴史や閉山に至った経緯など、十分に研鑽を積んだ人だけを人選してもらいたい。行政側が観光で大勢の人に見物してもらい、経済的に潤えばそれで良しとする発想であれば大けがの元である。旧島民の心情を察し、現状にあまり手を加えず、ありのままの姿で後世に語り継ぐことこそ、真の世界遺産になり得ると考える次第である。

 最後に当時、公共広告機構のCMで流されたナレーションを紹介して結びとしたい。私が、この島の存在を知るきっかけとなった作品であり、奇しくも地球環境にやさしいエコが叫ばれている今日、心底身につまされるフレーズである。この島の存在をもっと世間に知らしめ、教訓としていかなければならない。

 「資源とともに消えた島」

 「島は宝島だった。石炭が見つかって人々がやってきた。人々が働いた。周囲1.2キロの島が町になった。4000人もの暮らしがあった。子供たちが生まれた。大きく育った。1年、10年、30年・・・。石炭を掘りつくした時、人々がいなくなった。暮らしがなくなった。資源とともに島は死んだ。ちょうど84年目だった。私たちも今、資源の無い島、日本に住んでいる。」

2009年5月18日 (月)

昔話② ~誕生エピソード~

 信じてもらえないかもしれないが、私はこの世に生れ出た瞬間の映像を覚えている。「そんな馬鹿な!」と思うだろうが、これは紛れもなく本当の話だ。

 私が誕生したのは福島県の郡山である。当時、新産業都市に指定されたばかりで、商工業を中心に目覚ましい発展を遂げていた絶頂期にあり、それに拍車をかけるかのように、東京オリンピックがその一ヵ月後に開催、また交通網整備の名目で、東海道新幹線が開業した年でもあった。その6月には、新潟大地震という招かれざるおまけまでついたが、その後訪れる高度経済成長を予感させるような、言うなれば夢と希望に満ち溢れた繁栄の時代でもあった。そんなさなか、私は駅から北東に1kmほど離れた、大町という地名にある、町医者というべき小さな産婦人科医院で産声を上げた。

 当時、母親は私のお産の際、私が逆子だったこともあって通常分娩では危険と判断され、急遽帝王切開手術に切り替えられた。そして難産に次ぐ難産の末に、私はこの世に生を授かったようだ。私が覚えているのは、まさに母親のお腹の中から取り出された時の映像(画像)なのだ。記憶を紐解くと、重々しい機械類が周囲を取り囲む中、やたらと眩しい光に照らし出され、すぐ横には丸いパイプの形状をした細長い管。その中を上下する液体。更には、黒っぽい水枕のような物体が膨らんだり萎んだりしていて、また薄っすらとタイルのような壁があった。もちろん、それが何かを知る由もなかったが、小学生の頃まで、幾度となくその絵柄が夢の中に出てきて、その度に僕は魘されたりしたが、同時に正体不明の記憶をいつか突き止めてやりたいという衝動に駆られていた。

 やがて、もの心がついた小学校高学年の頃、テレビで田宮二郎主演の「白い巨塔」という医師の功罪を取り上げたドラマが放映された。番組内で手術のシーンが登場した時、その手術室の映像を目の当たりにし、思わず私は、ハッとして息を飲んだ。私が積年、脳裏の奥底にへばりついていたあの映像は、まさしくこれだと悟ったのだ。機械類は心電図計を始めとする医療機器のことで、黒っぽい水枕とは自発呼吸が困難になった時に酸素を強制的に送り込む吸入器、そして細長い管は輸血する際に使用するパイプ、決定的なのは、明るい光というのは、手術台の上部に設置され、患部を照らす大型円形型の反射鏡ライトのことだったのだ。これですべてのつじつまが合ったのだ。私自身の中で眠っていた負の記憶が鮮明に呼び覚まされた瞬間だった。

 最近になって、この一部始終を70歳を越えた母親に話すと、腰を抜かすくらい驚いていた。私の口から発する一言一言が、麻酔をかけられる前に手術台で母親が見た記憶と面白いまでに合致していたのだ。こんなことが実際に起こり得るものなのだろうか?医学的にも極めて珍しい症例かもしれない。ただ確かなことは、母親が私をこの世に誕生させるために、未曾有の苦しい思いをしたこと。そしてお腹まで切って私のために生命を与えてくれたという事実だ。幼い頃、お風呂で母親の痛々しいお腹の傷跡を見る度に、子供心に申し訳ないと感じていた。

 誕生後の私は、超がつくほどの未熟児で、しばらくは予断が許さぬ状況だった。「この子は育ちませんよ」とまで医師に宣告され、今は亡き祖父母は、いつ何時病院から死亡連絡が入ってもいいようにと、遺体を入れる棺桶用のミカン箱まで用意していたという。その後、両親の懸命の看護と子育てによって一命を取り留めるどころか、危機を脱して以降は、順調にすくすくと育ち、人並み以上の身長と体重を授かるまでに至った。そして学生時代は、野球に没頭する健康的な生活を送り、大学にまで行かせてもらった。大学は私立大学で、しかも北海道と東京に住むという贅沢までさせてもらい、過分なお金を使わせてしまった。それでも両親は、親の務めとばかり、愚痴ひとつこぼさず、せっせと働き、何不自由ない生活をさせてくれたのだ。今はただ、親に感謝する日々である。いつか親孝行の恩返しをとは思っていても、既に父親は病気で他界。母親にも未だに甘えてばかりで、何一つ実行できていない自分が情けなく感じている。

 最後に、私がこうして40年以上もの間、大病を患うことなく、今日まで生きて来れたのは、損得なしの献身的な親の愛情と家族の強い絆に支えられてこそである。私には3歳年上の姉がいるが、実は姉と私の間には、もう一人、兄弟がいたはずたった。ところが流産してしまい、この世に生を受けることができなかった水子がいたのだ。母親は最近までこのことを黙して語らずだったが、母親は半世紀近くたった今でも、そのことを悔やんでいるし、折に触れて涙し、毎日供養を欠かさない。そんな悲しい出来事があったからこそ、難産の末に生まれた私を余計に可愛がってくれたのだと思う。その話を聞いて、私自身、流産した兄か姉の分まで生きなければならないと思うし、また私に病魔や生命を脅かすような危険が差し迫った時には、その分身が命がけで私を守り、害が降りかからないように防いでくれるような気がしてならない。本来なら一度は危機に晒された我が命が、たくさんの人の愛情を受け、ここまでたどり着けたという事実に感謝し、これまで親が注いでくれた愛情を自分の我が子にも分け与えていきたいと考えている。両親が私にしてくれたことと同じことをしていくことが、親への真の恩返しになると思うからだ。

2009年5月16日 (土)

人生の落日 ~花散る日~

僕は人生で大切な人を失った 親父が死んで父親代わりだった心の支え
あなたは僕にとって大きな存在 幼少の頃未熟児の僕に剣の道を説いた
尊敬する人は誰かと聞かれれば 僕は迷わず祖父の名を挙げるだろう
明治生まれの生粋の会津人 ならぬものはならぬの精神が体の髄まで宿り
威厳と風格に溢れ怖い存在 でも孫には優しく私には良きおじいちゃん
あなたは僕の人生そのもの 身を持ってその手本を示してくれた

忙しく日本中を駆け巡る 議員 市の役員 自らが創設した踊りの協会
幾つもの役職をこなし すべて一銭にもならない慈善活動
社会貢献に身を投じ一生を捧げた そんなあなたの懸命な生き方に
周囲は黙ってついて行った 苦労の甲斐あって功績が世に認められ
数々の褒章と受勲 でもあなたは驕りも偉ぶる素振りも見せなかった
その人柄を慕って多くの人が寄ってきた
あなたの演説は「金べろ」と称され 話せば爆笑の渦と拍手喝さいの嵐

そんなあなたでも僕が困った時は必ず救いの手を差しのべてくれた
いつもあなたは強くて大きくて 近くて遠い存在 僕の誇りだった
しかし人生七十五年の節目に転機が訪れた 長年連れ添った妻との死別
それでもあなたは悲しい顔を見せず気丈に振る舞い  元気を装っていた
その後あなたは寂しさを振り払おうと孫娘を連れ講演や踊りに没頭した
やがては一人身の暮らしにも慣れたが でも寂しくない筈はなかった

自慢の健脚も八十歳を過ぎて翳りが見え 健康を患い入院をした
年を重ね徐々に体の自由が効かなくなり 気弱な面を見せ始めると
不思議にあなたは穏やかになり とても身近な存在に思えてきた

そして平成十五年 あなたが卒寿を迎えたばかりの冬 長男の突然の死
愛する妻と息子に先立たれ どんなにあなたは辛かったことだろう
戦友 親友 仲間を毎年少しずつ見送り 次は自分の番がいつ来るのかと
背中合わせの死の恐怖に怯え 闘うことを強いられた 
そして周囲の誰も気づかぬうちに 少しずつ病魔が忍び寄っていた 
その後あなたはすっかり元気を失い 表舞台から去り寝たきりとなった
命ある者はいつかは朽ちる 命の期限は人によって違うが
太く短く生きるか 細く長く生きるかの何れかだろう
長く生きることは悲しみをすべて受け入れること

やがて体に病変が見つかり 少しずつ蝕み入退院を繰り返した
剣道で鍛えた強靭な精神と体も 寄る年波の前でたじろいだ
「年内持てば良い」と医師から宣告され 十六年の暮れ
誰もが覚悟した最後の入院 初めてあなたは病院で正月を迎えた
見舞い客の前では決して弱気を見せず 
何度も「大丈夫だ」を繰り返し強がって見せた それが自分への勇気づけ

その後あなたは不屈の精神で命の炎を燃やし 何度も危機を乗り越えた
春 「桜を見たい」という最後の願いを己の気力で叶えた
誰もが奇跡を信じた 一時退院が認められ
車内から通りすがりに見る卯月の空に映える満開の桜
あなたがこよなく愛し 何度も足を運んだ公園のソメイヨシノの桜並木 
桜吹雪が車道を埋め その中をあなたを乗せた車がゆっくり潜り抜けた 

「嗚呼 綺麗だな・・」
ポツリ独り言のように呟き 静かに瞳を閉じ ずっと余韻に浸っていた
そしてその数日後 花びらが散るようにあなたの命も散った

朝 仕事先にかかった兄からの一本の電話 「危篤 すぐ来い・・・」
とるものもとりあえず 病院へ向かう車の中 涙で滲んで前が見えない
前日あなたは珍しく気弱で 初めて僕に我儘を言った
「このまま死んでしまうんじゃないか」「眠るのが怖い」 付き纏う不安
眠りに着くまで傍に寄り添い 励ましながら痛がる背中を擦ってあげた
これが僕にできる最後の孝行となった

「待っていて もうすぐ行くよ」焦る気持ちと裏腹に無情に変わる信号
一秒が惜しい 仕事帰りに通い慣れた病院への道
来るべきものが来たことを悟った
階段を駆け上がるといつもと違う病室 扉を開けると一縷の望みを賭け
懸命の救命処置が続いていた
しかしその甲斐なく再び息を吹き返すことはなかった

別れの時刻が主治医から告げられ
張りつめていた力が一瞬で抜け床に崩れ落ちる
「おじいちゃん よく頑張ったね お疲れ様」
その言葉しか見つからなかった
ベッドの上であなたは これまでの苦しみから解き放たれ
安らかで それでいて満足そうな死に顔を湛え
「悔いのない人生だった」と周囲に伝えているようで
それは立派な大往生だった・・・
愛妻と死に別れてから十八年後 ようやくあの世で再会を果たした
今 同じ位牌に二つの戒名
それだけが残された僕にできるせめてもの恩返し

ほどなくして昔世話になったという見覚えのある人たちが
最期の別れに集まる 皆が会長と過ごした時間の思い出話に
花を咲かせ
故人を偲んで語り合う 

晩年あなたが過ごした一軒家にて 遺品の整理で出てきた想い出の品々
従軍時代の貴重な日記 そして人生を物語る数々の色褪せた白黒写真
戦争で一度は死を覚悟し家族に宛てた手紙 そして所々添えられた挿絵
隠居後は孤独に耐えて 本当の死の恐怖と闘い続けた
そんな祖父の生涯だった

耳を澄ませば 今も聞こえる電話の向こうの凛としたあなたの声
背筋をしゃんと伸ばし 茶の間で寛ぐあなたの面影がこの胸に去来する

「ありがとう 僕の大切な人 でもさよならは言わない
                     だってあなたはいつでも僕の人生そのものだから・・・・」


     平成十七年五月十六日  祖父他界  享年九十二歳   合掌

Sakura511

2009年5月12日 (火)

昔話① ~ON世代~

 私の少年時代の頃のヒーローと言えばON(王貞治・長嶋茂雄)である。私は王さん、長嶋さんの現役時代を知っているだけでなく、今は亡き父親に連れられ、当時天然芝だった後楽園球場で、生でスーパースターご両人のプレーをこの目でしかと見届けた。二人の活躍を目の当たりにし、巨人ファンになったのは勿論だが、野球という存在を知り、少年野球(当時はソフト)にも熱中した。毎晩のナイター中継では、テレビやラジオに釘付けとなり、試合展開が気になって風呂場にも機材を持ち込むほど陶酔していた。巨人のV9黄金時代と共に、私は小学生時代を過ごしたので、それだけにONの活躍は、野球少年だった私には眩しかった。そして父親が仕立ててくれたジャイアンツのユニフォームを身にまとい(私は背番号1、兄は背番号3)、当時、家から5kmも離れた水天宮の広場まで車で出向き、ノックやキャッチボールなどしてくれたものだ。

 長嶋さんは私が小4だった昭和49年に現役を引退。忘れもしない野球史上に残る引退セレモニー。「栄光の背番号3」と電光掲示板に映し出され、マウンド上でスポットライトに照らし出された彼は、「我が巨人軍は永久に不滅です」という名文句を残した。その模様を一部始終録音したレコードが発売されるや否や、親を説き伏せて購入し、針がすり減るくらい何度も聞き、「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来・・・」で始まるあの時の名台詞を今でもスラスラ言うことができる。

 長嶋さんは引退の翌年、巨人の監督に就任したが、ON砲の片翼が欠けた代償はあまりにも大きく、球団史上初の最下位のいう不本意な成績に沈んだ。常にチケットが入手困難なほど連日大入り満員だったスタンドも、空席が目立ったシーズンでもあった。その屈辱を返上すべく、今では当たり前になったが、当時としては斬新で、画期的な大改造トレードを断行した。当時、巨人の左のエース格だった高橋一三と、山本浩二、田淵幸一と共に東京六大学三羽ガラスの一員・富田内野手をプラスして、日本ハムの「安打製造機」の異名をほしいままにし、後にロッテに移ってから3000本安打の偉業を達成し、現在は「喝!」で有名な張本勲を2対1で交換したのだ。その年、ONにも負けるとも劣らない新生巨人のOH砲が誕生した。長嶋巨人は、翌年の昭和51年、すぐさまペナントレースを制し、球界の盟主の座を奪回した。その年、私の地元に、巨人戦がやってきて、親父が首尾よくバックネット裏のチケットを入手し、学校を早引きして見に行った記憶がある。間近でOHを見て、大興奮したことを覚えている。その試合は巨人の圧勝だった。試合後も興奮冷めやらぬ私と野球仲間でもある同級生たちは、彼らが宿泊している常宿、サンルート郡山に夜まで張り込んでサインをもらおうとしたのを覚えている。巨人の選手は姿を現さなかったが、当時野球中継を実況していた日本テレビの浅見アナウンサーがホテルから出てきたのをつかまえて、サインを貰った。

 私は長嶋ファンには申し訳ないが、ONでは世代的に王さんの大ファンだった。ホームランの世界記録更新が近付いてきた時の、日本列島の大フィーバーぶりは筆舌に尽くしがたいものがあった。昭和49年のシーズンオフには、大リーガーのホームラン世界記録保持者のハンクアーロン氏が来日し、王さんと夢のホームラン競争まで演じた。今考えると凄いことだ。王さんの魅力は、あの華麗な一本足打法から繰り出される、滞空時間の長い豪快な一発だろう。長嶋さんが天才肌なのに対し、王さんは言うなれば努力の人。私のような凡人でも頑張って練習すれば、ホームランが打てたり、野球がうまくなることを身をもって教えてくれた人だけに、あれだけの大記録を打ち立てたスーパースターでありながら、親しみがあったのだ。いつか彼のようになりたいと、ひたすら練習に打ち込んだ。また、彼の載っている本やカードなど片っぱしからかき集めたり、自宅を調べ、ファンレターを書いて送ったこともあった。また、彼のバッティングフォームを真似したり、連続写真に撮ってみたり、彼のサインを練習したことすらあった。当時の私は、それくらい大好きで、ソフトボールの練習中、自分が本塁打を打つと、「第○○号ホームラン」とか勝手に番号を付け、ダイヤモンドを回ったり、こっそり記録なんかも付けたりしていた。それほど憧れの人だった。

 そして、プロ野球ファンなら誰もがあの場面をしっかり脳裏に焼き付けているだろう、運命の時を迎えることになった。それは昭和52年の9月3日、日本中が待ち焦がれていた756号の世界新記録達成の瞬間だ。対戦相手はヤクルト。当時新人だった、鈴木康二朗投手からライトスタンドへ運んだ1本のホームランが、日本列島を大フィーバーさせたのだ。テレビ局は、その数日前から、放送時間を延長して、その瞬間を待っていた。記録達成の直後、アメリカからアーロン氏のお祝いのメッセージが球場に流れた。それほど日本中を興奮の坩堝にさせた王さんの快挙は、同時代を生きた私にとっても至福極まりない出来事だった。その後3年間、彼は地道に本塁打数を積み重ね、未だ世界記録として燦然と輝く868号の大金字塔を打ち立てたのは周知の事実である。 

 また、彼がすごいのは、昭和55年、40歳で引退した年に、シーズン30本の本塁打を打っていながら、「もう王貞治としてのバッティングができなくなった」と言って、バットを置き、何の未練もなく、まして派手なセレモニーもなく、潔く現役を退いたことだ。スーパースターとして君臨した彼なりの引き際の美学というのを感じた瞬間だった。長嶋が「動」なら、王は「静」というのが相応しい形容詞だろう。彼の偉業を讃え、彼の背番号1は永久欠番となり、初の国民栄誉賞を受賞し、野球殿堂入りも果たした。引退後、彼は巨人阪神OB戦にちょくちょく出場しているが、驚いたのは、彼が引退して15年後の55歳の時、名投手・古澤憲司からライトスタンドにライナー性のホームランを叩き込んだことだ。力は衰えても、つらい練習で築き上げたあのフォームは健在で、バッテイングは決して力ではないことを自らが実践し、証明してみせたのだ。

 また、監督としての経歴は、言わずもがなではあるが、巨人では5年間で一度のリーグ優勝、ダイエーでも苦難を乗り越えリーグ優勝3度、日本一にも2度輝いた。現役時代にあれだけの実績を残しているにもかかわらず、決して驕りたかぶるような態度をとらず、極めて紳士的で、飾らない誠実な人柄によって、周囲の信望は厚く、その後もご存知のように、今から3年前には第1回WBCの日本代表監督にも推挙され、見事な采配を振い、世界一にも貢献した。常に一流の野球人であり続けることは並大抵ではないだろう。

 一世を風靡し、一時代を築いたヒーロー・ONも、ここ数年、両雄ともに病魔に蝕まれ、また、夫人に先立たれるという不幸にも見舞われ、往年の勇姿は影を潜めているが、彼らの栄光は今後も永遠に後世に語り継がれていくことだろう。今はただ、長年の激務に耐え忍んで来たために損なわれた健康面が一刻も早く快復すること、そして生涯を賭けて捧げてきた根っからの「野球人・王貞治」の集大成として、今後とも野球界のますますの発展とプロ野球の行く末をしかと見届けてくれることを願ってやまない。

 <栄光のV9戦士たち>

 1番センター柴田  2番セカンド土井  3番ファースト王  4番サード長嶋  5番ライト末次  6番レフト高田  7番ショート黒江  8番キャッチャー森  9番ピッチャー堀内

 これが私の理想のオーダーだった。彼らの一挙手一投足に釘づけになった野球少年時代。つくづく幸せだったと思う。

2009年5月 5日 (火)

淡い初恋、叶わぬ恋 ・・・

 もう30年以上も前の出来事を、今更むし返すつもりなどさらさらないが、僕の胸の内に仕舞い込んでいた甘くも切ない初恋の想い出。何気ない暮らしの中で、ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ彼女の横顔。決して忘れられない大切な日々。アラフォー過ぎの中年男が振り返るには、歯が浮きそうな遠い昔の恋物語だが、ブログという形でなら差し障りのない範囲でなんとか話が伝えられそうだ。

 彼女と出逢ったのは小6の春のこと。同じ英語塾に通う、同じ歳のいかにも知的で清楚という言葉がぴったりの優しい笑顔が印象的な長い黒髪の女の子だった。一見して育ちの良い、いいところのお嬢さん風の彼女だった。ひと目彼女を見て、僕はそれまで経験したことがないほどの胸の高鳴りを覚えた。英語塾といっても、女性教師一人が自宅でやりくりしている、1クラス6名程度の少人数制で、アットホームな所だった。僕はひとつのテーブルを挟んで、彼女とは対角線の席で、毎回90分のレッスンを週2回受けていた。彼女は英語が得意で、いとも簡単に英文を暗記し、定期テストはいつも満点だった。出来損ないの僕とは釣り合わない憧れの存在で、俗に言う高嶺の花だった。その後、僕と彼女は中3の夏まで同じ時間、同じ空間を共有していた。その間も彼女のことがずっと気になっていて、当たり前のようだがもっとよく彼女のことを知りたくなって行った。すると彼女と塾の先生が交わす何気ない会話から、彼女の祖母が塾の近くで書道教室を開いていることが判明した。そして彼女の家が、僕の家からは10km以上も離れた隣町であることも。

 当時、僕は野球部に所属し、毎日へとへとになるまで練習し、その後で週2回、その塾にも通っていた。そのため疲れてしまい、塾では居眠りや自分の頭の悪さを被い隠そうと時々席を離れてはおふざけばかりしていた。そんな僕を彼女が相手にしてくれるはずはないし、きっと迷惑な存在だろうと勝手に決めつけていた。でも彼女に会える、いや正確に言うと彼女の横顔を眺めていられる週2回の塾は、僕にとって至福の時で、特別な時間だった。

 そんな時間は束の間で、やがて転機となるような運命の出来事が2人に訪れた。彼女が家の都合で、僕とは違う曜日に塾通いの時間を変更してしまったのだ。「もう二度と彼女に会えないのか…」そう思うと僕はすっかりやる気が失せ、塾に行くのも嫌になった。きっとうるさい僕に嫌気がさして、自ら僕と顔を合わせなくて済む時間帯を希望したんだろうとさえ思った。このまま会えなくなってしまうのが我慢できず、僕は意を決して、当時僕にできる精一杯の或る行動に出た。中3の正月に、書道教室に彼女の名前で年賀状を送った。「塾で会えなくなって残念です」という文章と共に、「笑顔の素敵な君へ」の言葉を添えて。突然の葉書にさぞかし驚いたに違いない。すると思いもよらぬ返事が僕の元に届いた。そこには「私が笑顔が素敵な君」なら、僕は「笑顔が爽やかなあなたがぴったりです」という一筆が綴られてあった。僕は一瞬自分の目を疑った。「もしかして彼女も僕のことを・・・」「いやそんな筈はない・・・妄想だ」などと自問自答を繰り返した。でも、お互い高校受験が目前だったので、支障をきたさぬよう、その後何回か励ましの手紙をやり取りするだけにとどまった。

 その数ヶ月後、僕はなんとか無事、希望の公立高校に合格し、塾の先生に挨拶をしに行った。同じく合格を果たした塾生達が何人か報告に来ていたが、そこに彼女の姿はなかった。僕は気になって久しぶりに彼女に手紙を書いた。すると「高校受験に失敗してあなたに会わせる顔がない。でも、もし私立高校に通う私でも良かったら、今までと変わらぬおつきあいをしてほしい」そんな旨の返事だった。「もしかして僕が余計な葉書を送ったから、それまで成績優秀だった彼女を悩ませてしまい、受験に身が入らなくなってしまったのだろうか」僕はその事が心配になった。僕にとっては、彼女がどこの高校にいようが関係なかった。彼女と何とかしてつながっていたい。その一心だった。そして、手紙にはその高校の制服を身に纏った彼女の凛々しい写真も同封されていた。その後、手紙のやりとりが半年くらい続いた。かたことだが、2人が出会うきっかけとなった英語を使って、気取って手紙を書いたこともあった。また、3年間も一緒の塾にいたのに、実はお互いのことを知らないことが多くあったので、それぞれ好きなものなどを書き綴ってプロフィールの交換などをした記憶がある。

 そんな純粋かつ楽しいやりとりがしばらく続いた後、塾で会えなくなってから1年くらい経った頃、僕はどうしても彼女の顔が見たくなり、久しぶりに2人で会う約束をした。しかしその当日、急な用事ができてしまい、僕は待ち合わせの公園に行けなくなった。もちろん、彼女の家の電話番号を知らず、当時はケータイなどなかった時代。それを知らせる術などなかった。きっと怒って愛想をつかすに違いなかった。後日、そのことを詫びる手紙をしたためた。すると「その日、私も用事があって遅れてしまい、待ち合わせ場所に着いた時は、既に僕の姿はなく、会えなくてゴメンなさい」とだけ書かれてあった。「なんという思いやりのある子だろう」 僕は彼女がますます愛おしくなった。しかしその後、お互い高校生活が忙しくなり、手紙の回数が徐々に減り、音信不通の状態が1か月、2カ月と過ぎ、それでお互い気まずくなったのか、いつしかそのまま手紙を出さなくなり、2人の関係は自然消滅してしまった。

 お粗末ながら、これが僕の初恋だった。人から見れば「なんて情けないやつだ」「お前は本当に彼女のこと大切に思っていたのかよ」とお叱りを受けそうな醜態ぶりだが、当時の僕には「女の子と付き合うことがどういうことなのか」「デートってどうすればいいのか」「2人っきりで何を話せばいいのか」それすらもわからない、初心な意気地無しのダメ男だった。その後、何人かの女性とお付き合いしたが、彼女のことがいつも心の片隅にあって、時々「今頃、彼女はどこで何をしているだろう」と気に掛けていた。やがて僕が25歳くらいの時、人づてに「彼女は高校卒業後に出逢った彼と、彼女が20歳の時に結婚して、隣の県にお嫁に行き、今では子供もいる」ことを聞いた。私自身、それを知って長年の呪縛から解放された気がした。私も妻子持ちの身となった今、彼女もきっとどこかの空の下で幸せな家庭を築いているに違いない。そうあってほしいと心底思っている。

 えてして初恋は実を結ばないもの。でも「あの時、公園に行って彼女と会っていたらどうなっていただろう。」と思い返す時がある。もしかして運命はその時変っていたのかもしれない。(すべては神様が仕組んだことだと思うが・・・) しかしそれ以来、なぜか僕は近所にありながら一度もその公園を訪れてはいない。 

 いったんは若き日の佳き想い出として、胸の奥に仕舞い込んだ私の淡い初恋は、甘酸っぱくもほろ苦い経験とともに、まるで空に浮かぶうろこ雲のように、風に吹かれ今もさまよい続けている・・・。

2009年5月 4日 (月)

日本酒の魅力

 私は日本酒が大好きだ。と言っても初めから好きだった訳ではない。専ら若い時分はビール専門だった。20代の頃はバブルの絶頂期で、大学生の時はビールの一気飲みが流行った頃で、質より量の時代だった。また職場では若者会なるものがあって、毎月飲み会があり、夜中の2時までカウンターを占領し、店一件貸し切り状態で飲み明かしたものだ。もちろん次の日(正しくはその日)仕事もあった。若くて元気だったとつくづく思う。そんな大酒を食らっていた頃には、日本酒というと「おじん臭い」とか「酔っぱらいの嫌な匂い」というイメージが自分の中に既成事実として出来上がっていて、居酒屋などで自ら選んで注文することはなかった。今振り返るとビール(ドライやバド)とおしゃれなカクテル(代表格はソルティドッグ・女性ならカルアミルク)が20代、水割りと健康ブームに乗って焼酎がもてはやされた30代、そして酒の味がわかるようになってきた40代になって、本当に味のある美味しい酒を求めてたどり着いたのが日本酒という訳だ。

 ひと口に日本酒といっても奥が深い。昔は2級酒や1級酒、特級酒などという分類だったが、今や酒質や作り方、特に精米歩合によって大吟醸・純米吟醸・吟醸・純米・本醸造などという分け方に変わった。酒造りに使用する米(酒好適米)によっても、それぞれ味わいが違うし、しかも酒造りには長い月日と手間がかかる。地方やその土地によって独自の製法や技法があり、季節ごとに仕込み法が異なったりする。「越の寒梅」に代表される地酒ブームが数年前にあったが、全国津々浦々の地酒を味わえる喜びはよくぞ日本人に生まれけりである。ところで、私の亡き祖父の生まれは、豊かな風土と大自然に囲まれた福島県の会津であることから、私にとって会津は切っても切れない縁を感じている。清冽な水と全国第4位の米どころが相乗効果を生み、酒造りには最適の土地柄であることに加え、会津人には「ならぬものはならぬ」の厳しい精神が宿り、頑固なほど物事に妥協しない気質が持ち味である。だから美味しい酒ができない訳がない。それを証明するかのように、ご当地福島県は、毎年開催される全国新酒鑑評会では、最高賞である金賞の受賞数が、堂々の全国1位である。そんな酒どころに生を受けた自分が、運命に導かれるように日本酒の魅力に取りつかれていったのも当然だろう。

 日本酒の味は、次の4つのポイントで決まると思っている。1つ目は日本酒度と酸度の値。淡麗辛口、濃醇甘口などという言葉を聞いたことがあるだろうか?淡麗辛口はこの日本酒度が基準値(±0)より高く、酸度が平均値1.4より低いお酒のこと。人間の舌には辛いがすっきりしていて飲みやすいと感じる。日本人は本質的に強いお酒に耐える体力や肝臓を有していないので、淡麗の酒を求める傾向にあるようだ。地酒ブームに乗っかって有名ブランドにのし上がった酒のほとんどはこのグループだ。この両者のバランスによって日本酒の旨味が違ってくると考えて良い。

 2つ目は使用する好適米の質と水。酒造りに使用される米のことだが、山田錦、五百万石、美山錦が代表的。米を原料とする日本酒が米の出来によって味が異なるのは当たり前の話。その年が天候不順などで不作になれば、酒の味に影響が出るのは必至。もちろん削り方も大事で、「精米歩合40%」というと最高品質の大吟醸酒を指すが、これは米を60%分磨いて削り、元の米(玄米)から40%分だけ残りました、という意味。だから精米歩合が低い数値ほど等級が高くなるわけです。そしてそれを混ざりものが一切ない雪解けの清流水を酒造りにふんだんに用いることで、味にふくよかさが加わるのです。米どころ・酒どころと呼ばれる場所が、雪深い土地柄に多い理由がこれで頷けよう。

 3つ目は酒を造る杜氏の腕。蔵元には酒造りの最高責任者である杜氏を筆頭に仕込み桶(タンク)の数に応じて蔵人の人数が決まってくる。仕込数が多いとさまざまな酒類を醸すことはできるが、それだけ品質管理が難しくなる。大々的にCMなどで宣伝し、オートメーション化していて、衛生的で万人受けするような酒を造る蔵が本当に美味しい酒を醸し出すかといえば一概にそうとは言えない。少人数でも確かな味覚を持った杜氏が、指示を明確に出し、絶妙のタイミングと温度管理を徹底している蔵は、酒の味も確かだ。もっとも仕込み数が少ない蔵のほうが、事実、味や品質にこだわりを持っていて、市場に出回る数が希少な分、幻の酒ともてはやされることのほうが多い。要は宣伝力に踊らされるのではなく、口コミのほうが確かな情報なのである。日本酒の味を知らない人などは、有名銘柄やCMで名の知れた酒をついつい選んでしまいがちだが、日本酒の味がその銘柄によって千差万別であるように、個人の舌も様々である。よっていくつかの酒を飲み比べてみて、自分の好みにあった日本酒を選んでもらいたい。きっとそれがあなた好みの酒になるはずだからだ。

 4つ目はお酒の管理。これは酒販店の日本酒の陳列の仕方と家庭での保管方法の話。せっかく蔵元が丹精込めて良心的な酒造りをしても、それが流通ルートに乗る際に、販売元である小売りの酒販店の扱い方が悪ければ元も子もない。酒は生き物で、それを生かすも殺すも保存状態次第なのだ。私が行きつけの酒屋さんは、昔気質の売り方をしている老舗で、古くから多くの蔵元と厚い信頼関係を築いていて、それが他店にはない銘柄の酒を数多く置いてある所以なのだと思う。その酒屋さんは、食品販売には打ってつけの北道路に店を構え、店内に入ると冬場でも寒いくらいの室温で、照明を薄暗く抑え、温度管理も徹底している。まるでわが子を扱うように、造り手の情熱を受け継いだきわめて良心的な売り方をしている。そんな店の日本酒が旨くないはずがない。私自身も何度か酒を買いに行くうちに、そんな店の「男気」に惚れて、私の「趣味ING」のホームページ内でもリンクし、紹介させてもらっている。

  また私自身が励行していることは、自宅では、せっかく入手した酒を粗末に扱うようなことはせず、冷酒は必ず冷蔵庫に保存し、冬場は床下に置いている。間違っても日当たりのよい場所に放置したりはしない。日本酒は生き物というのは前述したが、保存状態が悪いと味に影響が出るのは必定である。このブログを読んでいる方は、相当の日本酒ファンだとお見受けした。おそらく安さが売りの酒のディスカウントやスーパー・コンビニなどで酒を購入している人はいないと思うが、私は知識が豊富な日本酒専門店で買うようにしている。そもそも日本酒は、ビールとは違い安売りするような代物ではないし、ただ安いだけの酒は魅力がない。日本酒は大量に飲むものではなく、あくまで嗜好品なのだ。だから安さを求めてディスカウント店に行っても、まずくてどこでも手に入る酒しか置いていない。おまけに店員は酒の知識は乏しく、酒を直接照明に当て、無造作に並べてある。最悪なのは冷酒でさえ、冷蔵庫ではなく、一般の陳列棚に置かれていたりする。これじゃ酒も泣いている。こんな売るだけの店で、酒の事を質問してもまともな答えが返ってくる筈はないし、何回酒を買っても客の顔さえ覚えてないだろう。私の行きつけの酒屋さんは、利き酒師の資格を持っていて、酒の知識が豊富なので、色々話すうちに自分の舌に合いそうな酒を選んでくれる。私が日本酒に多少詳しくなったのも、実はこの酒屋さんの受け売りなのだ。自分の口に入れる飲み物は、自分好みの美味しい酒であるべきだとは思いませんか?

 以上、日本酒の味と美味しく味わう上での留意事項を書き綴った。まだまだよもやま話は尽きないが、それはまた別の機会ということで楽しみにしておいてほしい。最後に私が飲んだ酒で、おいしいと思った酒(さっき書いた酒屋さんですべて手に入ります!)ベスト5を紹介して結びとしたい。

第1位 縄文能代(秋田県) 吟醸酒 3,150円(郡山市内ではそこでしか手に入らない)

第2位 國権(福島県・田島)特別純米夢の香 2,415円(地元の特産米を使用) 

第3位 出羽桜・雪漫々(山形県)大吟醸 5,744円(ご存じ全国で人気ベスト5に入る酒)

第4位 くどき上手(山形県)酒未来 2,835円(郡山市内ではそこでしか手に入らない)

第5位 天明(福島県・坂下)無濾過純米吟醸火入れ 3,150円(地元でブームになっている酒)

 ちなみこの酒屋さんは、久保田・越州の正規取扱店になっていて、法外な値段で売る店が多い中(大手スーパーでは倍以上の値段なのに)、千寿が定価の2,446円、萬寿でも8,169円で売っています。数は少ないが、飛露喜も扱っています。その他、田酒、豊盃、出羽桜、浦霞、刈穂などの東北地方の希少酒や大部分の福島県の地酒(全国的に人気が高い末廣・奈良萬・蔵粋・花泉・穏・雪小町・大七)も扱っています。

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