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2009年5月12日 (火)

昔話① ~ON世代~

 私の少年時代の頃のヒーローと言えばON(王貞治・長嶋茂雄)である。私は王さん、長嶋さんの現役時代を知っているだけでなく、今は亡き父親に連れられ、当時天然芝だった後楽園球場で、生でスーパースターご両人のプレーをこの目でしかと見届けた。二人の活躍を目の当たりにし、巨人ファンになったのは勿論だが、野球という存在を知り、少年野球(当時はソフト)にも熱中した。毎晩のナイター中継では、テレビやラジオに釘付けとなり、試合展開が気になって風呂場にも機材を持ち込むほど陶酔していた。巨人のV9黄金時代と共に、私は小学生時代を過ごしたので、それだけにONの活躍は、野球少年だった私には眩しかった。そして父親が仕立ててくれたジャイアンツのユニフォームを身にまとい(私は背番号1、兄は背番号3)、当時、家から5kmも離れた水天宮の広場まで車で出向き、ノックやキャッチボールなどしてくれたものだ。

 長嶋さんは私が小4だった昭和49年に現役を引退。忘れもしない野球史上に残る引退セレモニー。「栄光の背番号3」と電光掲示板に映し出され、マウンド上でスポットライトに照らし出された彼は、「我が巨人軍は永久に不滅です」という名文句を残した。その模様を一部始終録音したレコードが発売されるや否や、親を説き伏せて購入し、針がすり減るくらい何度も聞き、「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来・・・」で始まるあの時の名台詞を今でもスラスラ言うことができる。

 長嶋さんは引退の翌年、巨人の監督に就任したが、ON砲の片翼が欠けた代償はあまりにも大きく、球団史上初の最下位のいう不本意な成績に沈んだ。常にチケットが入手困難なほど連日大入り満員だったスタンドも、空席が目立ったシーズンでもあった。その屈辱を返上すべく、今では当たり前になったが、当時としては斬新で、画期的な大改造トレードを断行した。当時、巨人の左のエース格だった高橋一三と、山本浩二、田淵幸一と共に東京六大学三羽ガラスの一員・富田内野手をプラスして、日本ハムの「安打製造機」の異名をほしいままにし、後にロッテに移ってから3000本安打の偉業を達成し、現在は「喝!」で有名な張本勲を2対1で交換したのだ。その年、ONにも負けるとも劣らない新生巨人のOH砲が誕生した。長嶋巨人は、翌年の昭和51年、すぐさまペナントレースを制し、球界の盟主の座を奪回した。その年、私の地元に、巨人戦がやってきて、親父が首尾よくバックネット裏のチケットを入手し、学校を早引きして見に行った記憶がある。間近でOHを見て、大興奮したことを覚えている。その試合は巨人の圧勝だった。試合後も興奮冷めやらぬ私と野球仲間でもある同級生たちは、彼らが宿泊している常宿、サンルート郡山に夜まで張り込んでサインをもらおうとしたのを覚えている。巨人の選手は姿を現さなかったが、当時野球中継を実況していた日本テレビの浅見アナウンサーがホテルから出てきたのをつかまえて、サインを貰った。

 私は長嶋ファンには申し訳ないが、ONでは世代的に王さんの大ファンだった。ホームランの世界記録更新が近付いてきた時の、日本列島の大フィーバーぶりは筆舌に尽くしがたいものがあった。昭和49年のシーズンオフには、大リーガーのホームラン世界記録保持者のハンクアーロン氏が来日し、王さんと夢のホームラン競争まで演じた。今考えると凄いことだ。王さんの魅力は、あの華麗な一本足打法から繰り出される、滞空時間の長い豪快な一発だろう。長嶋さんが天才肌なのに対し、王さんは言うなれば努力の人。私のような凡人でも頑張って練習すれば、ホームランが打てたり、野球がうまくなることを身をもって教えてくれた人だけに、あれだけの大記録を打ち立てたスーパースターでありながら、親しみがあったのだ。いつか彼のようになりたいと、ひたすら練習に打ち込んだ。また、彼の載っている本やカードなど片っぱしからかき集めたり、自宅を調べ、ファンレターを書いて送ったこともあった。また、彼のバッティングフォームを真似したり、連続写真に撮ってみたり、彼のサインを練習したことすらあった。当時の私は、それくらい大好きで、ソフトボールの練習中、自分が本塁打を打つと、「第○○号ホームラン」とか勝手に番号を付け、ダイヤモンドを回ったり、こっそり記録なんかも付けたりしていた。それほど憧れの人だった。

 そして、プロ野球ファンなら誰もがあの場面をしっかり脳裏に焼き付けているだろう、運命の時を迎えることになった。それは昭和52年の9月3日、日本中が待ち焦がれていた756号の世界新記録達成の瞬間だ。対戦相手はヤクルト。当時新人だった、鈴木康二朗投手からライトスタンドへ運んだ1本のホームランが、日本列島を大フィーバーさせたのだ。テレビ局は、その数日前から、放送時間を延長して、その瞬間を待っていた。記録達成の直後、アメリカからアーロン氏のお祝いのメッセージが球場に流れた。それほど日本中を興奮の坩堝にさせた王さんの快挙は、同時代を生きた私にとっても至福極まりない出来事だった。その後3年間、彼は地道に本塁打数を積み重ね、未だ世界記録として燦然と輝く868号の大金字塔を打ち立てたのは周知の事実である。 

 また、彼がすごいのは、昭和55年、40歳で引退した年に、シーズン30本の本塁打を打っていながら、「もう王貞治としてのバッティングができなくなった」と言って、バットを置き、何の未練もなく、まして派手なセレモニーもなく、潔く現役を退いたことだ。スーパースターとして君臨した彼なりの引き際の美学というのを感じた瞬間だった。長嶋が「動」なら、王は「静」というのが相応しい形容詞だろう。彼の偉業を讃え、彼の背番号1は永久欠番となり、初の国民栄誉賞を受賞し、野球殿堂入りも果たした。引退後、彼は巨人阪神OB戦にちょくちょく出場しているが、驚いたのは、彼が引退して15年後の55歳の時、名投手・古澤憲司からライトスタンドにライナー性のホームランを叩き込んだことだ。力は衰えても、つらい練習で築き上げたあのフォームは健在で、バッテイングは決して力ではないことを自らが実践し、証明してみせたのだ。

 また、監督としての経歴は、言わずもがなではあるが、巨人では5年間で一度のリーグ優勝、ダイエーでも苦難を乗り越えリーグ優勝3度、日本一にも2度輝いた。現役時代にあれだけの実績を残しているにもかかわらず、決して驕りたかぶるような態度をとらず、極めて紳士的で、飾らない誠実な人柄によって、周囲の信望は厚く、その後もご存知のように、今から3年前には第1回WBCの日本代表監督にも推挙され、見事な采配を振い、世界一にも貢献した。常に一流の野球人であり続けることは並大抵ではないだろう。

 一世を風靡し、一時代を築いたヒーロー・ONも、ここ数年、両雄ともに病魔に蝕まれ、また、夫人に先立たれるという不幸にも見舞われ、往年の勇姿は影を潜めているが、彼らの栄光は今後も永遠に後世に語り継がれていくことだろう。今はただ、長年の激務に耐え忍んで来たために損なわれた健康面が一刻も早く快復すること、そして生涯を賭けて捧げてきた根っからの「野球人・王貞治」の集大成として、今後とも野球界のますますの発展とプロ野球の行く末をしかと見届けてくれることを願ってやまない。

 <栄光のV9戦士たち>

 1番センター柴田  2番セカンド土井  3番ファースト王  4番サード長嶋  5番ライト末次  6番レフト高田  7番ショート黒江  8番キャッチャー森  9番ピッチャー堀内

 これが私の理想のオーダーだった。彼らの一挙手一投足に釘づけになった野球少年時代。つくづく幸せだったと思う。

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