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2009年5月18日 (月)

昔話② ~誕生エピソード~

 信じてもらえないかもしれないが、私はこの世に生れ出た瞬間の映像を覚えている。「そんな馬鹿な!」と思うだろうが、これは紛れもなく本当の話だ。

 私が誕生したのは福島県の郡山である。当時、新産業都市に指定されたばかりで、商工業を中心に目覚ましい発展を遂げていた絶頂期にあり、それに拍車をかけるかのように、東京オリンピックがその一ヵ月後に開催、また交通網整備の名目で、東海道新幹線が開業した年でもあった。その6月には、新潟大地震という招かれざるおまけまでついたが、その後訪れる高度経済成長を予感させるような、言うなれば夢と希望に満ち溢れた繁栄の時代でもあった。そんなさなか、私は駅から北東に1kmほど離れた、大町という地名にある、町医者というべき小さな産婦人科医院で産声を上げた。

 当時、母親は私のお産の際、私が逆子だったこともあって通常分娩では危険と判断され、急遽帝王切開手術に切り替えられた。そして難産に次ぐ難産の末に、私はこの世に生を授かったようだ。私が覚えているのは、まさに母親のお腹の中から取り出された時の映像(画像)なのだ。記憶を紐解くと、重々しい機械類が周囲を取り囲む中、やたらと眩しい光に照らし出され、すぐ横には丸いパイプの形状をした細長い管。その中を上下する液体。更には、黒っぽい水枕のような物体が膨らんだり萎んだりしていて、また薄っすらとタイルのような壁があった。もちろん、それが何かを知る由もなかったが、小学生の頃まで、幾度となくその絵柄が夢の中に出てきて、その度に僕は魘されたりしたが、同時に正体不明の記憶をいつか突き止めてやりたいという衝動に駆られていた。

 やがて、もの心がついた小学校高学年の頃、テレビで田宮二郎主演の「白い巨塔」という医師の功罪を取り上げたドラマが放映された。番組内で手術のシーンが登場した時、その手術室の映像を目の当たりにし、思わず私は、ハッとして息を飲んだ。私が積年、脳裏の奥底にへばりついていたあの映像は、まさしくこれだと悟ったのだ。機械類は心電図計を始めとする医療機器のことで、黒っぽい水枕とは自発呼吸が困難になった時に酸素を強制的に送り込む吸入器、そして細長い管は輸血する際に使用するパイプ、決定的なのは、明るい光というのは、手術台の上部に設置され、患部を照らす大型円形型の反射鏡ライトのことだったのだ。これですべてのつじつまが合ったのだ。私自身の中で眠っていた負の記憶が鮮明に呼び覚まされた瞬間だった。

 最近になって、この一部始終を70歳を越えた母親に話すと、腰を抜かすくらい驚いていた。私の口から発する一言一言が、麻酔をかけられる前に手術台で母親が見た記憶と面白いまでに合致していたのだ。こんなことが実際に起こり得るものなのだろうか?医学的にも極めて珍しい症例かもしれない。ただ確かなことは、母親が私をこの世に誕生させるために、未曾有の苦しい思いをしたこと。そしてお腹まで切って私のために生命を与えてくれたという事実だ。幼い頃、お風呂で母親の痛々しいお腹の傷跡を見る度に、子供心に申し訳ないと感じていた。

 誕生後の私は、超がつくほどの未熟児で、しばらくは予断が許さぬ状況だった。「この子は育ちませんよ」とまで医師に宣告され、今は亡き祖父母は、いつ何時病院から死亡連絡が入ってもいいようにと、遺体を入れる棺桶用のミカン箱まで用意していたという。その後、両親の懸命の看護と子育てによって一命を取り留めるどころか、危機を脱して以降は、順調にすくすくと育ち、人並み以上の身長と体重を授かるまでに至った。そして学生時代は、野球に没頭する健康的な生活を送り、大学にまで行かせてもらった。大学は私立大学で、しかも北海道と東京に住むという贅沢までさせてもらい、過分なお金を使わせてしまった。それでも両親は、親の務めとばかり、愚痴ひとつこぼさず、せっせと働き、何不自由ない生活をさせてくれたのだ。今はただ、親に感謝する日々である。いつか親孝行の恩返しをとは思っていても、既に父親は病気で他界。母親にも未だに甘えてばかりで、何一つ実行できていない自分が情けなく感じている。

 最後に、私がこうして40年以上もの間、大病を患うことなく、今日まで生きて来れたのは、損得なしの献身的な親の愛情と家族の強い絆に支えられてこそである。私には3歳年上の姉がいるが、実は姉と私の間には、もう一人、兄弟がいたはずたった。ところが流産してしまい、この世に生を受けることができなかった水子がいたのだ。母親は最近までこのことを黙して語らずだったが、母親は半世紀近くたった今でも、そのことを悔やんでいるし、折に触れて涙し、毎日供養を欠かさない。そんな悲しい出来事があったからこそ、難産の末に生まれた私を余計に可愛がってくれたのだと思う。その話を聞いて、私自身、流産した兄か姉の分まで生きなければならないと思うし、また私に病魔や生命を脅かすような危険が差し迫った時には、その分身が命がけで私を守り、害が降りかからないように防いでくれるような気がしてならない。本来なら一度は危機に晒された我が命が、たくさんの人の愛情を受け、ここまでたどり着けたという事実に感謝し、これまで親が注いでくれた愛情を自分の我が子にも分け与えていきたいと考えている。両親が私にしてくれたことと同じことをしていくことが、親への真の恩返しになると思うからだ。

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