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2009年7月

2009年7月30日 (木)

「18歳成人」についてモノ申す!

 「エッ 18歳で成人?」「マジ?」そんな声が聞こえてきそうな政府報告があった。

 7月29日に政府の法制審議会部会は、選挙権年齢引き下げを前提に民法の定める成人年齢を18歳に引き下げるとする最終報告をまとめ、総選挙後の法制審総会で承認されれば法相に答申、その後国民投票を経て、早ければ2010年に施行したい考えだ。この決定に対しては、各年齢層で反応はまちまちで、共に賛否両論あり、今後施行までの期間、異論反論さまざまな物議を醸し出しそうな気配だ。

 今朝の情報テレビ番組によると、この「18歳成人制」について、比較的若年層は一様に肯定的で歓迎ムードが見てとれる。これは私にも経験があるが、未成年だと法的に権利や自由が狭められてしまい、その結果、行動が制約されてしまうことが多い。早く一人前の大人として認めてもらいたいという願いからである。しかし一方で、それを不安視する学識者や世代もいる。現代のティーンエージャーは、身体の成熟は早いが、精神面の成長はそのスピードに追いついていない。なぜなら、「ゆとり教育」という、従来の学生と比較して、履修内容が大幅に削減された教育を受けて来た世代であり、、本来学ぶべきはずの基礎学力や一般常識、教養といった社会生活に最低限必要な事項が十分に身についていないからだ。もちろん人生経験が不足し、問題解決能力が乏しいこともあながち否定できない。もし、これを容認すれば、世間に常識の無い大人たちが蔓延るのではないかといった懸念がある。満20歳で迎える成人式で、毎年テレビで良識の無い若者が飲酒して暴れまわったり、式典をぶち壊したりして警察が出動する光景を見たことがあるだろう。20歳でさえあの様なのだから、18歳に引き下げることが何を意味するかは、火を見るより明らかだ。早く大人として認めてもらいたいというのは、若者の都合で、果たしてそれに見合うだけの自覚や素養、責任感といったものを身につけているかと言えば、いささか疑問である。

 また、冷静に考えると18歳と言えば、現役の高校3年生が達する年齢である。今回の議論のメインテーマである、選挙権を与えようという発想は見方を変えれば意義があることかもしれない。高校生であっても参政権が得られることは、それまで縁遠く、他人事としてあまり関心がなかった政治や経済、そして選挙に目を向けることを意味し、私たちの生活に直結する現実の問題として考えるようになり、或る程度の知識も深まるだろう。これには納得できる点もある。しかし、18歳という年齢で一有権者としてその権利を公正な立場で判断し、適正に行使できるのだろうか。単に「投票所に行くのが面倒くさい」という短絡的な理由で棄権したり、「誰がなっても政治は変わらない」などと、最初から諦めてしまって、せっかくの権利を自ら放棄したりしないだろうか。現時点でさえ、20代・30代の若年層ほど投票率は低く、政治への関心は希薄なのである。

 次に、従来「20歳成人」で認められていた権利について考えるとどうだろう。第一に喫煙や飲酒が可能となる。高校生であっても18歳であれば、白昼堂々と制服でもコンビニや自販機でタバコが購入できる。そうなると、法的に認められている以上、校舎内で吸おうがその人(大人)の判断に委ねられ、校則で禁じることはできない。学校側としては喫煙所を設ける必要が出てくるのではないか。身体への悪影響も含めて教育的にどうか。もし校則の範囲内で下手に喫煙禁止を謳えば、同じ18歳でも有職無職少年は何のお咎めもないのに、高校生と言うだけで停学などの謹慎処分ともなれば、法律上ねじれ現象となり、矛盾が生じるだろう。飲酒についても、「部活や勉強疲れに学校帰りに居酒屋でちょっと一杯」とか行事のたびごとに「打ち上げだ」なんてことにもなりかねない。まぁこれは極端な例かもしれないが、生徒指導は至極やりづらくなるだろう。

 第二に、現在20歳で許されているパチンコや競馬など、いわゆるギャンブルが高校生を含めて18歳から可能となる。教室では「昨日パチンコで~万円儲けた(擦った)」とかいう会話が平然と罷り通る。高校生が放課後、制服姿のままパチンコをしている光景は珍しいことではなくなる。教室に馬券が落ちている日が来るのもそう遠いことではない。そうなると、遊び金欲しさに強盗や恐喝、金銭強要といった犯罪を助長してしまうかもしれない。何か末恐ろしい気がする。

 第三に、契約事項に関して親権者の同意や承諾が不必要となり、個人の意思で消費者金融や各種ローンから自由にお金を借りられてしまう。クレジットも保護者の印鑑や年齢制約が取り払われ、衝動買いや無計画な借り入れで借金がネズミ算式に膨れ上がり、返済が滞って、いつの間にか借金地獄に陥り、自己破産や思い悩んだ末の自殺が増える危険性も孕んでいる。株取引も同様である。高校生などは、学業が本業でなので、自ら金を稼ぐという意識も機会も少ない。金銭感覚に乏しい者は、ネット等を介して悪徳商法にひっかかって消費者被害が拡大する恐れもある。親の知らないところで多額の借金を抱え、就学困難な状況となることも容易に想像できてしまう。

 第四に、そもそも成人年齢を18歳にしたということ自体が問題なのだ。これで何かにつけて未成年者を擁護していた少年法の適用を外れる訳で、犯罪を犯した場合、これまでは精神的知能の未発達や本人の将来を鑑みて、新聞やテレビでは実名報道はされないなどの特別措置があった。これが一切排除される訳で、高校生であっても例外ではなく、殺人などの重犯罪では、否応なしに死刑判決と言うのもありえるだろう。また、18歳と17歳は同じ高校生で見た目はそんなに変わらない。喫煙や深夜徘徊で補導するにも判断が難しくなり、取り締まりにも公平性を欠く恐れがある。

 以上ざっとデメリットばかりを述べたが、寛容的な見方をすれば、大人としての自覚が早期の段階から芽生え、自立心を伸長させてくれるかもしれない。「罪を犯せば顔が出る」という意識が備わり、犯罪の未然防止にも一役買うのかもしれない。いずれにしても恐らくは、国民投票を経て来年度早々にも施行となることが見込まれるこの新制度は、公職選挙法、民法、少年法の改正も必要になることから、今後全国民レベルで議論に議論を重ね、周知徹底を図り、誰もが不平不満を持たず、納得した上で導入となることが望ましい。そして施行されたからには、個々が一社会人として責任ある行動をとることを願いたいものだ。

2009年7月29日 (水)

ライダーの知恵

 かつて私はライダーだった。と言ってもサーキットを走るレーサーだった訳ではなく、峠道をギンギンに攻めるような真似もしなかった。いわゆる旅をこよなく愛するツーリングライダーだったのだ。バイクは好きだが、ただ単に走りにだけ楽しみを見出すのではなく、時には旅の足として、また或る時には、風を体感しながら周りの風景を楽しむ手段として用いていた。その日の気分や思いつきで、好きな場所、お気に入りの場所へ向けてスロットルを握っていた。特に、幸運だったのは、私が学生時代の2年間、北海道に住むという機会が得られたことだ。広い北海道を見て歩くには、バイクが一番便利で機動力に優れており、その手軽さは他の追随を許さないほどだった。特に北海道では、それなしでは語れぬほど重宝した。当時はクォーターバイク(250cc)ブームで、車検がなく、女性にも比較的取り回しが楽なのと高速道路も走行可能、更には手頃な価格設定やスポーティーなスタイルがウケて、その人気に目を付けたバイクメーカー各社はこぞって製品開発し、主力商品として販売していた。私も今ではもう手放してしまったが、当時一世を風靡し、一番人気で超ミーハーバイクと目されていたホンダ・初代VT250F(黒)に乗っていた。その単車は、フロントマスクにセミカウルを施した斬新な流線形のデザインと、当時、新開発の水冷DOHCのV型ツインエンジンで4サイクルの2気筒。35馬力あった。このエンジンの特徴は、タコメーターが12,000回転まで表示があって、エンジンがレッドゾーンを超えて1万回転以上も良く回ること。そしてある回転域になると、4気筒独特の「ボーン」という金属音がマフラーから聞こえ、エグゾーストノートや振動がたまらなく心地良いのだ。ゼロヨンなど絶対に負けないスタートダッシュを見せていた。新車価格は399,000円。それを近所のホンダウィング店にて中古で購入した。前のオーナーが山形県の女性で、走行距離は6,000km程度のかなり状態が良いマシンだった。確か購入価格は、334,000円だったか?ボッタクラれた感は否めないが、当時絶大な人気があったこのバイクが、中古で市場に出回ることは希少で、まして田舎のバイク屋に置いてあるなどということはあり得ない話だった。それ以外ではヤマハ・RZ250、カワサキKZ250、スズキ・ガンマ250など人気を博していたバイクが街中に溢れていた。

 ところで、バイクに乗り出してから自分自身が大きく変わったと思えることが幾つかある。それまでは気に留めなかったことにも気を配るようになった。まず、第一に注意力や集中力が高まった。反射神経が俊敏になり、器用になった。理由は簡単。四輪車とは異なり単車は常に身体が剥き出しの状態である。良く言えば開放的だが、一歩間違えば命を落とす危険と常に隣り合わせである。例えば、路上に誰かが無造作に投げ捨てた空き缶ひとつでも命取りになるし、調子に乗って飛ばして、コーナーへの侵入速度を誤るとセンターラインを食み出し、対向車と正面衝突ということにもなりかねない。走行中は絶えず神経を研ぎ澄まし、五感のすべてを駆使して自分の身に降りかかる危険を予め察知し、ことごとく排除していかなければならない。これが出来ないと、その先に待ち構えているのは100%「死」だ。

 第二に、私はツーリングに出かける時には、空模様に人一倍細心の注意を払っていた。事前に予報をチェックするのは言うまでもないが、走行中も進行方向の雲の動きや照度、雲の量、肌に感じる風速、気温差、体感温度、路面の状況にまで気を配っていた。もちろん、先行車との車間距離やキープレフトの励行など事故を事前に回避する知識と技能も経験から身についた。また、雨が降り出した際には、どのタイミングで雨具を着るかとか、タンクにマグネットで装着してあるバッグに、地図を見易いように配置したり、夜間走行中には、手元を照らす着脱式のクリップライトを装備したりといろんな知恵を絞ったものだ。更には、旅行中に私が実行していたことは、交差点で赤信号で停車する度に、グローブを脱ぎ、ペンに持ち替え、メモ(ポイントの通過時刻や目印、気になった風景や出来事など)を執っていたことだ。そのタイミングもまた頭を使うことだった。Uターン禁止場所では、あえて先頭でエンジンを切り、バイクから降り、単車を手で押して交差点を渡って方向転換を行った。こうすれば歩行者扱いとなり、違反にはならない。また、高速道路利用時には、料金所で手間取らないように、前もってPA等で休憩している時に、料金分の小銭と通行券を用意し、取り出しやすい位置にセット(今はETC精算で素通りなのでそんな苦労は無用だろうが)していた。このように知らず知らずのうちにいろいろな知恵を身に付け、実行していた。

 上記以外で、より良いライディングやツーリングのために私自身が実践していたことを列挙しよう。まず、今では当たり前になったが、バイクは昼間でもライトオン。これは安全のためには極めて重要なことで、自分の存在を周囲に知らせる働きがある。とかく一般ドライバーの意識からすると、バイクは目障りな存在で、車より遅い物だと錯覚している傾向がある。よって多少無理をしても追い越して前に出ようとする。ひどい時には抜いてる最中に対向車が来て、あわててハンドルを切って幅寄せしたり、「どけ!」と言わんばかりにパッシングする悪質な輩もいる。また、交差点に進入する際は、特に注意が必要である。なぜなら直進してくるバイクは、右折待ちのドライバーから見ると小さく遠く見える。だから右折のほうが早くできると判断してしまう。結果、間に合わず衝突という事故が思いのほか多い。そこで自分を大きく見せる意味でも、ライトオンは身を守る上で最善の策なのだ。

 次に走行中、対向車線側の路面状況やすれ違う車両で、進行先の天気が一目瞭然なのはご存知だろうか。もし反対車線の路面が少しでも濡れていれば、たとえ進行方向側の路面がドライでも、その先は天気が崩れる。なぜならその先で降っていた雨を対向車が運んでくるからで、濡れたタイヤ痕が動かぬ証拠になる。もちろん対向車の車体に水滴がついていたり、ワイパーを消し忘れたりしていれば、当然その先は雨。やがて数分も経たないうちにたちどころに上空が暗くなり、ヘルメットのシールドにぽつぽつと雨粒が叩くことだろう。また、郊外の一般道で数珠つなぎの渋滞を見かけたら、先頭を走っている車が実は一番遅いのをご存じだろうか?サーキット場などではもちろん、先頭を行く車が一番早いのは当然だが、一般道路(特に片側一車線)では、先頭の車がペースを作れずもたついて平均速度を乱しているからで、このケースでは最後尾の車が一番早いという可能性が高い。恐らく抜きに抜けず内心イライラしていることだろう。そういう車に限って、周囲のことは気にも留めない我が道を行くタイプで、決して譲ることもしない。

 続いて、これは簡単な算数の計算だが、スピードメーターで到着時間を予測できる。あえて経済速度の60km/hで走れば、1時間後には60km先を走っている計算になる。当たり前と言えば当たり前だが、北海道では、恰も一般国道や道道が高速並みのスピードで流れていて、信号が極端に少なく、ペースを乱すような遅延車両もいない。よってその速度をキープしていれば、容易に到着時間が読めるという寸法だ。また、これはバイクの特権と言えるのだが、たとえ首都圏であっても渋滞とは無縁だ。駐車場所に困ることもそうはない。私個人は、赤信号は大歓迎だった。走行中、いくら先行車両が遅いからと言って、その左側をスルーして前に出ることは違反である。信号待ちで停車中の車の間をすり抜けて走れば、先頭に立てる。もちろん通行区分やセンターラインが黄色でなければの話だが。随分前だが、私が北海道を離れ、東京のキャンパスに移った1986年頃、これを利用した画期的な二輪車優遇制度が首都圏を中心とした一般道で運用された。交差点でよく見かけたと思うが、二輪車が前で四輪車が後ろの停車位置を示す、路面に標示された白いラインである。最近はあまり見かけないが、80年代後半はバブル景気全盛で、人々の懐具合は潤い、街を行き交うバイクの数は半端ではないほど多かった。当然、アンダーパスやオーバーパス、交差点の至る所に白バイや警官の目が光り、ねずみ取りや一時停止違反、通行区分違反、整備不良車両の摘発など取り締まりも厳しかった。そんな場面を何度も目の当たりにし、走行中に追い越しをする際は、必ず周辺の安全確認を怠らず、またその車両のナンバープレート、乗車人数、車種、車内の形状の異状を確認してから慎重に行っていた。覆面パトは、当時は88や33ナンバーが多く、バックミラーが教習車のようにダブルミラーになっていたり、助手席側のドアのピラーに目視確認者用の小さな黒のミラーが付いていた。当時は覆面はドアミラーではなく、旧式のサイドミラーだった。また、必ず2名乗車し、白バイ隊員が着ている青の制服に白いマフラーを首筋に巻くお馴染みのスタイル。夜間は警視庁仕様のY字の蛍光テープが貼られたメットを被っていた。そして、リア-ウインドウ越しに車内を見ると、パトライトを格納する箱と雨を排水するパイプが屋根の真下に装着していた。そして極めつけは車種である。当時は、覆面の代表格は、クラウンとセドリックだった。大排気量でないと逃げる車両を追いかけられないというのが理由か。暴走族やルーレット族を取り締まる交通機動隊の覆面は、GT-Rやスープラ、Zといったスポーツカーも多かった。今はデジタル化し、傍受不能だが、当時の警視庁無線はアナログ式で、マルチバンドレシーバーがあれば、いかようにも受信できた。特に土曜日の夜は犯罪多発で、それはさながら刑事ドラマのようだった。私は直接聞いたことはないが、私の友人がアクションバンドやラジオライフを愛読していたほどの警察好きで、通信指令室や所轄系の無線の模様を録音した音声テープを、一度聴かせてもらったことがある。

 話が変な方に行ってしまったが、このようにありとあらゆる安全策を講じてきたからこそ今、自分が生きながらえてここにいるのだと思う。そんな自分も二度事故(二度とも東京から郡山に帰る途中、左折巻き込み)って一度は派手に転倒(北海道時代)している。また、東京~郡山間は、料金が高い新幹線は使わず、高速も使わず、250km近い道のりを約5時間かけて4号国道と環七を通ってバイクで往復していた。係る費用はガソリン代の1500円程度だった。恐らく、2年の間に10回近く往復したと思う。経済的には節約だが、その分、危険度は増すことになった。幸いにして、これまで命を脅かすような危機的状況には陥っていないが、バイクを通じていろいろと学ぶことは多かった。ライダーは、単車というが如く、運転時は孤独である。自分自身のセーフティーライドと運転テクニックが絶えず命運を握っているのだ。コーナー侵入では、アウトインアウトやスローインファーストアウトといった基本動作が肝要で、とっさの身のこなしや反射神経の鍛錬になったと思うし、四輪車に乗り換えた今でも、これらの経験が危険回避や状況判断に一役買っている感じがしてならない。そして今も実行していることは、「死亡事故現場」という看板の前を通る時は、無意識のうちにハンドルの所で両手を合わせ、そこで犠牲になって亡くなった死者にお祈りを捧げていることだ。そうすることで、安全に気を配り、自分自身に降りかかろうとしている事故を遠ざける気がしてならないのだ。

 今現在、個人所有のバイクはCBR-250R(ハリケーン)というフルカウリングのスポーティーバイクだ。もう10年以上エンジンをかけていないし、既にナンバーも返納した。5年くらい前に、また乗りたくなって、3万円以上かけてキャブやバッテリーを交換するなどしてレストアを試みたが、そのバイクに再び生命を吹き込むことはできなかった。故にバイクは、そのCBRがまだ現役だった平成4年に、北海道を一周した際に使ったきりで、もう17年間も運転していないことになる。もうライディングテクニックは忘れているだろうし、40代も半ばに差し掛かった自分には、それを自由自在に操るだけの体力も腕もないと思う。自分自身は、以前バイクを降りた時、「次に自分がバイクに乗る時は死ぬ時だろう」と考えていた部分があった。しかし、ビッグスクーターなる、運転がすこぶる容易なバイクも登場している今、また乗ってみたいという秘かな胸の内もある。現在、関心があるのはホンダのフォルツァだ。シートの下に大容量のラゲージスペースがあって、荷物を収納できるのが気に入っている。どうもミーハー癖から脱け出せないが、今から勘を取り戻し、退職後の人生に、もうひと花彩りを添えたい気がする。そして第二の故郷である北海道を、もう一度バイクで駆け巡りたいと考えている。若かりしあの頃に感じた「風」を再び感じるために・・・。

2009年7月28日 (火)

昔話③ ~変わりゆく郡山の町並み~

 今は亡き祖父から、昔の思い出としてこんな話を聞いたことがある。昭和10年代後半、太平洋戦争が激化していた頃、当時の郡山駅の裏(東)側は軍事工場や化学工場があり、B29が飛来しては爆撃を行っていた。
 また、現在の安積黎明高校周辺にはパラマウント工場があって、そこもかなりの空爆を受けたようだ。不発弾も見つかっている。また、街中至るところに防空壕があったそうだ。郡山一帯は、昭和20年4月から終戦間際の8月にかけて合計5回に渡って被爆したと記録されている。特に4月12日の爆撃は、最大規模で、多数の被害者を出したようだ。
 さらにまた、現在の日本大学工学部付近は、旧海軍の飛行場で、更にその昔(明治~昭和中頃)、開成山一帯は競馬場だったらしい。更に、今は日本一汚い川との汚名を着せられている逢瀬(大重)川は、昔は水が澄んで綺麗で、魚釣りはもちろん子どもたちが歓声を上げて泳いでいたとか。生粋の郡山人である私からみて、今から想像すると、俄かには信じ難いほどの変わりようで、時代の流れや郡山の繁栄や発展を痛切に感じる。

Dvc00059  私は東京オリンピック開催年の生まれだが、その後、四十数年の間に我が故郷は大きく様変わりした。まず、電話番号の市内局番はひとケタだったものが、今では3ケタ。私の実家は、郡山駅からまっすぐに伸びた目抜き通り沿いにあったが、当時はまだ砂利道だった。当然、庶民が自家用車を持つなど夢のまた夢の時代で、道路の交通量は少なかった。また、時代を映す鏡と言われるテレビは、幼少時代まで脚がついた箱型の大きなブラウン管の白黒テレビだった。今のように民放放送が少なく、当時はNHKと民放が2局(FTVとFCT)しかなかった。菓子パン一個40円で、コーヒーは一杯60円の時代だった。買い物はというと、近所の肉屋や魚屋、八百屋、雑貨屋といった地元に根差した個人経営の商店で生活必需品を賄っていた。背の高いビルは皆無で、4号線沿いに建つ、消防署の火の見櫓からは繁華街が一望できた。
 今でこそ郡山警察署は4号線と49号線の交差点にあるが、昔は消防署の北側に隣接していた。百貨店と言えば、「うすい百貨店」と「丸光デパート」、それに呉服店というイメージが強かった「津野デパート」しかなかった。「うすい」はその後、「第一うすい」と「第二うすい」に分かれた。母親に連れられて7階のレストランでお子様ランチを食べた楽しい想い出がある。一方、「丸光」は駅のすぐ前で、屋上には当時、エレベーターも珍しい頃に大型電動遊具(コーヒーカップ・回転飛行機・ゲーセン等)があった。何が凄いかと言うと、その飛行機が回転しながら高く持ち上がり、一度ビルの外側に飛び出してしまうことが、子供時分にはかなり恐怖だった。一方の「津野デパート」は、駅前大通りと4号線交差点の北東側の角地(現在はホテルリッチフィールド)にあって、銀塗りのパネルが張り巡らされ、窓が少ない風変りで印象的な建物だった。その経営者の津野一族は、代々郡山一円の大地主であり、実家の近所にはその親類が住んでいた。

Dvc00066  私が幼稚園に通う頃には、町並みは劇的に変貌を遂げた。市役所庁舎が現在の合同庁舎から開成山の向かい側の朝日町に移転し、新築された。また、さくら通りはすべて舗装され、49号線までつながった。私は子供の頃、家から2km以上離れた幼稚園まで、兄と二人、バス通学させられた。昭和50年代になると、国鉄郡山駅は、新幹線発着用に大型化増改築工事が始まり、駅前には「ダイエー」や「西武デパート」、「丸井デパート」と続々進出して来た。「西武デパート」の外側が丸見えのガラス張りエレベーターは画期的で、物珍しさもあって人気があった。私はこまっしゃっれた子供だったので、両デパートを交互に探検し、エレベーターガールの美しさを勝手に友達と自己採点していた。今となっては「ダイエー」VS「うすい」で安売り合戦を展開していた時のことが妙に懐かしい。また客寄せのために、当時ブームを巻き起こしていた本物のスーパーカーの展示イベントまで催していた。「第一うすい」の屋上がその会場で、クレーンで車を吊り上げたのだ。斬新なガルウイングのランボルギーニカウンタックやフェラーリなど超レアな高級スポーツカーを間近で見て、幼心にわくわく興奮した記憶がある。しかし、「うすい」を除く3店舗は、その後、郊外に住宅地が造成されると、客足は遠のき、売り上げはガタ落ち、先を争うように撤退してしまった。
 また、中心市街地の空洞化によって、その空きビルの再利用が立ち行かなくなっている。「ダイエー」はその後、同じ系列の「トポス」という名のディスカウントストアーになったが、それも長続きせず、完全閉店してからすでに20年近い年月が過ぎた。一等地にありながら、買い手がつかず、空きビル状態のままであることから、「幽霊ビル」というありがたくないレッテルを張られている始末だ。「丸井」も未だに再利用の目途が立っていない。

Dvc00060  駅前の西口再開発事業は、計画段階から地権者と折り合いがつかずに何度も頓挫し、その都度見直しを強いられて来たが、現在は「MOLTI」が入る高層商業複合ビル「ビッグアイ」が建っている。通信制・定時制の公立高校まで入っているのは首をかしげるが。駅前広場も大きく綺麗に整備された。仙台駅を髣髴させるペデストリアンデッキも玄関口としては立派な造りだ。郡山の開拓には欠かせない安積疎水のシンボル、麓山の名瀑を模したモニュメントがひと際目立ち、周辺は植え込みも多く、ちょっとした市民の憩いの場となっている。半円状で利用しやすいと評判のバスターミナルやタクシープールもすこぶる景観が良くなった。また、現在の「住友生命ビル」が建つあたり(平成23年1月に古い地図との照合により、現在の「スカイパーク」と判明)に、昔は「郡山中央スケートリンク」という屋内スケート場まであった。2階のデッキから滑っている様子を見物出来た。その後、安積町日出の山にある現「アミューズパークこおりやま」に移転したが。また、目を西に移すと私の学区だった郡山市虎丸町には、雑居ビル(野替ビル)があった。当時は斬新な5階建てビルで、「まるさた」というおもちゃ屋やその隣の文房具屋などに良く買い物に行った。当時流行していた仮面ライダーのグッズやプラモデルを買ってもらった想い出がある。
 また、その近くの「ヨークベニマルさくら通り店」(今はもうない)の裏手には、子供たちの社交場「鐘堂公園」があって、15時くらいになるとどこからともなく紙芝居のおじさんが自転車で現れ、紙芝居実演後に販売している水飴やニッキを塗りたくった菓子煎餅が大人気だった。そのベニマルの前(現在はブックオフ)にはトキワスーパーという衣類や玩具、生活品を売る店まであった。その近辺に「染本ホテル」や「倫敦」という喫茶があったのを何人の方が覚えているだろうか。また、駅前周辺にあった懐かしい店舗を幾つか挙げると、駅前通りと中央通りの両側から出入り可能で、内部が迷路のような作りとなっていて、文具&日用雑貨専門店として名を馳せた「山乃井」、駅前大通りの一等地、現在「ビューホテルアネックス」がある場所には、「角海老」という焼き鳥屋さんがあった。
 更に中央通りには、現在の「うすい」の向かい側に女子中高生に大人気のファンシーショップ「チロンヌップ」があった。個人的には、今の中町立体駐車場がある場所に「イトートーカドー」があったこと、そしてその近所に「ヤマト無線」というアマチュア無線の専門店があったことのほうが懐かしい。どうでしょう。少しは30年以上前の郡山にタイムスリップ気分を味わってもらえたでしょうか?

Dvc00065  次の話題に移るが、小学生時分によく通っていたのは、やはり駄菓子屋だろう。学校の近くにあった「おのざわ」にしょっちゅう入り浸っていた。おばさんが作る特製のお好み焼きや玉子焼き丼は絶品で、よく買い食いをしていた。また、小学校の前にあった文房具屋「まるせい」では、夕方にソフトボールで疲れ、空腹を満たすのに、バラで一個から買えるサンドウィッチをよく食べたものだ。今思えば、小学校の頃の出来事が一番思い出に残っている。また、現在は「Mall」になっているが、かつて巨大な日東紡第二工場があった場所は、近所の子供たちの格好の遊び場で、一方通行で車が少なかったので、よく路上でローラースケートや壁に向かってボール投げ、テニスの壁打ちなどをやったものだ。更に、さくら通りを跨ぐ歩道橋を渡った北側には、百軒長屋と呼ばれる家屋・店舗が軒を連ねていた。カメラ小僧だった私がよく現像を頼んだ松美写真館、道路にまで煙が充満して、いかにも食欲をそそる焼き鳥屋や床屋、印刷屋などが林立していた。そしてその四つ角には、今ではもうないが、釣具店まであった。
 また、私が通った小学校の北側には、寺院でもないのに巨大な鉄骨造りの五重塔があった。それは女子の洋裁専門学校の校舎だった。また、実家の近くに通称長者通り商店街があって、子供の頃はよく買い物に出向いた。それはワンブロックの横並びの商店街で、床屋から始まり、靴屋、小さなパン屋、八百屋、衣料品店、パーマ屋、クリーニング屋、電気屋、工業所、魚屋、駄菓子屋(後にマッサージ屋)、私がよく買い物に訪れる酒屋、そして大工屋、そして西側の外れには軽食(たぬきうどんやかき氷は絶品)のできる駄菓子屋(現在はお茶屋)があった。ドリフターズのコントに出てきそうな昔ながらの風情がある商店街の配置で、そこには義理や人情味が溢れていた。残念ながら、今ではその大半が採算が合わなくなったのか、はたまた後継者不足なのかは定かではないが、立ち退いてしまい、姿を消してしまっている。現在大型ドラッグストアがある場所も、一昔前にはベニマルが、そのまた昔は「朴」のガソリンスタンドがあった。よくそのコンクリート製の壁に投げ込みをしたり、今は亡き父親とキャッチボールをした。その裏手は広い田んぼだったのだが、現在は20年ほど前に建てられた高層マンションになっている。
 今、郡山の旧市内は、高層マンションが所狭しと立ち並んでいる。駅まで至便で、土地の有効利用の最善策だからなのだと思う。スタンドの東隣りにあった製麺所のビルは、最近になって建物の老朽化により取り壊されてしまった。

 また、昔のおぼろげな記憶として、子どもの頃(昭和44年)、磐梯熱海町にあった温泉保養娯楽施設、「磐光パラダイス」が火事になった際、実家の前をけたたましくサイレンを響かせ、赤い消防車が何台も緊急走行して行ったのを覚えている。その火災では31人の尊い人命が失われた。また、SLが全面的に廃止された昭和45年には、国鉄郡山駅から大型トレーラーに載せられた黒塗りのどでかいD51(デゴイチ)がさくら通りをゆっくりと移動し、家の前を運搬されていく様を目の当たりにした。その後、その車両は開成山公園に安置され、一般公開された。40年近く経過した今でもそこに展示されており、毎年5月の「こども祭り」には、車両に乗ることもできる。私は、その通りには一段と感慨深い想い出がある。それは小学6年生の時の鼓笛隊パレードだ。細沼町の合同庁舎を出発点に、旧ザベリオ学園前を闊歩し、実家の前、旧安積女子高校の前を通り、テレビ中継される資生堂前を抜け、開成山東側駐車場にゴールする、総歩行距離2キロの、当時小学生にとって晴れ舞台と言える一大イベントだった。残念ながら理由は不明だが、現在は行われていない。私は、トランペット隊の一員として「錨を上げて」と「ビューティフルサンデー」を演奏しながら通りを練り歩いた。その際、何と私の顔がテレビ中継の映像で大アップになってしまい、翌日学校で冷やかされた覚えがある。VTRなどなかった時代(小学校は別だが、中学校で出会った金持ちの友人が当時、ドカベンカセットと呼ばれるビデオに録画していて、後で見せてもらったが)で、私の記憶に鮮明に残っている出来事だ。

Koriyama_city_1  最後に、昔は宿場町として栄えた郡山市は、県内のほぼ中心に位置し、交通の要衝であったことから、昭和39年に新産業都市に指定され、高度経済成長と共に商工業の中心地として目覚ましい発展を遂げた。最近では、ライフラインの地中化工事が進められ、電信柱が街道から姿を消した。また、「水と緑のまち」というキャッチフレーズの通り、やたらと公園が多く、緑豊かで美しい街づくりが進んでいる。生活環境は抜群である。また、栄枯盛衰は自然の成り行きだとしても、「商都こおりやま」に相応しい経済発展の陰で、子供の頃に遊んだ懐かしい風景が失われていくのは実に忍びない。今思えば、想い出の町並みを写真に残しておけば良かったと反省している。記憶の中にある少年時代の故郷は、不思議なことに、なぜか色褪せたモノクローム画像なのだ。時々こうやって「古き佳き時代」を回顧しながら、郡山の歴史や昔話を紐解き、書き綴ることで失われつつある自分の記憶を取り戻していきたい。そして自分自身の心のフィルムに彩りを添えていきたいと思う。

 郡山市出身でこの話を読んで懐かしいと感じた方は、コメントを頂ければ幸いです。

2009年7月14日 (火)

仙台日帰り出張

 今日は或る会議に出席するために仙台出張だった。周囲に「お土産は牛たんでいいよ」とか「萩の月大好き!」とか、やれ「私バーゲンがいい」とか言いたい放題で揶揄されつつも、そんな無責任な外野の声を無視し、11時15分までぎりぎり仕事をこなし、職場を20分に出発。前回の出張で見つけた郡山駅までの裏道を走り、20分で駅に隣接した市営駐車場へ(11:41)車を入庫。当初12:31発の下り新幹線に乗る予定が、思いのほか駐車場に早くたどり着けたのと超お得なWきっぷ(郡山~仙台新幹線往復8,600円)購入(つい先週、20年勤続のお祝いで5万円分のJR券が貰えたので5,000円分使用)がスムーズに行き、改札で確認し、次発の新幹線・11:58発のやまびこ49号の4号車に飛び乗った。ホームでお茶(150円)を購入し、待ち時間なしで乗れ、しかも自由席でも余裕で座れた。                                                                                                                                                                   349  

 早速、車内のワゴンサービスで駅弁(福島牛弁当1,000円)を買い、僅か34分間の乗車中に平らげた。そして暇つぶしにこのブログ記事を執筆。12:32に仙台駅へ滑り込み、早足で市営バス乗り場へ。しかし目指す9番乗り場には、既に長蛇の列。最後尾に並ぶが、何とか座れた。なんと職場を出てから1時間強でもう仙台にいるというすご技。すべてがスムーズで待ち時間はすべて5分以内という完璧な移動。ところが予定時刻より1時間も早く到着したにもかかわらず、市営バスは超満員。後から乗り込んで来た乗客ですし詰め状態。宮教大や東北大方面行きなので、学生と思しき若者に交じって、恐らく同業者で同じ会場に向かうものと一発でわかる人たちもいた。約15分後、博物館前バス停で下車。180円。かなり早い会場入りとなった。

 仙台は何度来ても良い街だ。市街地の道路は、既に開業している地下鉄・南北線に加え、現在東西線を工事中。ますます栄えそう。ややごちゃごちゃしているイメージは拭えないが、高層ビルも郡山の比ではない。私自身、ここへは一昨年、車で仙台港に釣りに来た帰り、出版の説明会でサンルートに立ち寄ったのと、同じ年、或る説明会で駅隣りの都市型ホテルへ新幹線往復した。また、昨年夏には、5日間、或るイベントへの参加でグランディ21に通った。それ以来の訪問となった。

 会議までの1時間、ひたすら睡魔と闘いながらも、ブログ記事を書いて時間をつぶし、いつでも帰りのバスへ飛び出せるようドアに近い、最後部の端に席をとった。その会場は、ちょっとしたコンサートでも開けそうな、1,000人は裕に入れる規模だった。会議自体は休憩を挟み、3時間に及ぶ長丁場で、協議らしきものは一切なく、一方的な説明と伝達事項に終始した極めて退屈なものだった。

 やがて中ほどの休憩中、ロビーに出て自販機でお茶を買い(150円)、ソファーで寛いでいると、いきなりトントンと膝を叩かれた。顔を上げると、そこにいたのは3月までお世話になった職場の元主任。もしかして・・・とは思っていたが、こんなに離れた場所で再会するなんて想定外だった。束の間の近況報告。私無き後の職場は、仕事が滞り、上へ下への大騒ぎだとか。司令塔役になる者が誰もいなくて、主任が大変らしく、ゴタゴタ続きらしい。だから私をもっと大事にすれば良かったものを・・・。

 その後、くだらない会議の中、健気にもメモをとり、いよいよ閉会の10分前くらいに満を持して会場を後にした。速攻でバス停に並び、ほどなくしてやって来たバスに乗車。やはりぎゅうぎゅう詰め。今度は立っての移動。そしてふと横を見ると、休憩で話した元主任がそこに。話の続きをしながら15分間の移動となった。仙台駅前で180円払って下車。小雨が降り出した中、駅まで歩いていたら、今度は別の女性に声を掛けられた。なんとその方も2つ前の職場の元同僚で現在は福島に勤務している。家は近所だ。世間は狭い・・・。駅でその2人と別れそれにしても仙台の高校生はスカート短かすぎ。眼のやり場に困る。化粧もすごいし。でも一般的に女性は郡山から比べると綺麗な人が多い気がした。しばらく地下の名店街を右往左往し、よさげな店を見つけ入った。去年食べた店とは別の店。「みやぎ乃」という店名で、1,480円の「牛たん炭火焼き定食」とノンアルコール飲料550円を注文した。味はそんなに美味いとも言えないが、そこそこか。でも冷たい飲み物が疲れた体と喉には最高だった。やはり駅ビルは観光客目当てにすぎず、味を求めてはいけないようだ。(写真を撮ったが、niftyブログは何故かエラーが出るのでアップ掲載不能)

 その後、土産売り場を徘徊し、鐘崎の笹かまを2セット、銘菓「萩の月」を1セット、そしてウケ狙いで、牛タンチップスを購入。〆て合計4,830円也。いやはや高くつく出張だ。そしてホームに停車中の各駅停車の新幹線・やまびこ22号の5号車に乗り(始発なのでガラガラで十分座れた)、18:13に仙台を後にした。途中福島駅で、はやての通過待ちでタイムロスがあった。行きは34分の乗車時間だったが、帰りは50分。今日は福島のあずま球場で巨人対ヤクルト戦が開催されている。そしてようやく郡山に到着したのは19:03のことだった。長い通路を車を預けた市営駐車場まで早足で歩き、何人もの人を追い越した。駐車場の自販機で精算してビックリ!何と1,300円もかかった。職場の事務に駐車場代は出ないと釘を刺されていただけに青ざめた。

 更にその後、20時の閉店に間に合いそうだったので、昨日購入して裾上げを頼んでおいた「洋服の○山」に立ち寄り、スラックス2本(何と2本で3,980円の超破格値!)を受け取る。なんとも店員の女性(おそらく50代後半の大ベテラン)がそつのない素晴らしい応対で一発で気に入った。それに引き換え、若い男の店員はぶっきらぼうで最悪。爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらい。結局何だかんだで帰宅は19:30だった。

 当初は、せっかく仙台にきたのだから、帰りに国分町に出向いて、遊び呆けて最終の新幹線で帰ろうかと思案していたが、悪天候に加え、所持金がないのと、旅の恥掻き捨てはあまりにも見栄見栄だし、更には明日も仕事なので大人しく帰る決断をした。まあこれが賢明な選択だったと思う。

 出費合計18,420円  出張旅費 8,960円分差し引くと 9,460円(ただし5,000円はJR旅行券使用につき、実質は4,460円)

  

 

 

 

2009年7月 7日 (火)

苦労した話 ~恐怖の町内会~

 七夕の日にするような話ではないが、私が現在の場所に居を構えてから、かれこれ14年になる。市街地からほどよく離れた郊外の、いわゆる閑静な新興住宅街の一角にある。実はそこに住み始めてからビックリ仰天したことが3つある。

 ひとつはこの14年の間に、周辺の生活環境が目覚ましい発展を遂げたことだ。元々近所には幼稚園・小学校・中学校があって、幼い子供を抱えた者にとっては抜群の教育環境だった。特に小学校と中学校は自宅から半径100m以内と極めて至近距離にあり、この点では、不便を感じたことはない。そんな場所に我が一家は、平成7年の年の瀬も押し迫った暮れに引っ越した訳だが、その直後から近隣の道路は大幅に整備され、区画整理も順次行われ、交通の面ではアクセスが抜群に良くなった。その後も立て続けにホームセンターや大型電気量販店が進出。全国展開の人気カジュアルショップや回転寿司、100円ショップ、郡山市に本社を置く大型スーパー、全国展開のドラッグストアが2店舗、紳士服店3店舗、大手眼鏡のチェーン店が4店舗、ラーメン屋が3店舗、居酒屋や飲食店も多数、理美容室が3店舗、個人病院が10院以上、コンビニが3~4店舗、美味しいケーキ屋やパン屋、ランドリーショップ、タクシー会社、焼き肉店、バイキングレストラン、ギフトショップなどが何れも新規開店で立ち並ぶまでになり、生活には事欠かない市内でも有数のロケーションとなっている。きわめつけは警察署まで新設され、パトカーや白バイが幾度となく周辺を巡回し、治安の面でも格段に良くなり、信じられない変貌ぶりだ。もちろんこうなることを予想して買った訳ではないが、先見の明があったということか・・・。

 2つ目は、土地の下落である。これだけ生活環境がアップすると、必然的に地代が値上がりし、さぞや税金負担が大変だろうと思いきやまったくの逆で、私が建売を購入した当時と比較して、価格が3分の2以下にまでなった。退職するまでローン返済に追われている我が身とは裏腹に、ローンの利率は下がるは、地代は急落して租税公課の負担も減り、これに昨今の麻生内閣の目玉政策の特別減税措置が加わり、羨ましい限りである。当時と現在を比べれば、支払総額で1000万円以上は安い筈だ。何とも割に合わない話だ。だから自民党の政策は、選挙の前だけいい顔する完全日和見主義で、「肉を切らせて骨を断つ」的な発想と、あからさまで手段を選ばない何でもござれの手法がどうも気に入らない。

 3つ目がいよいよ今回のテーマである苦労した話である。少々愚痴っぽくなるが、自分に置き換えて聞いて(読んで)ほしい。私が一番驚いたことは、地域(町内会)行事の多さである。町内会に加入している以上、地域の行事に参加するのは市民の務めだとしても、その回数が半端ではない。他の比ではないと思う。地区の清掃や廃品回収などはどこでもやっていることで、それは多少目をつぶるにしても、実に年間行事が40以上にも上るのだ。そこには筆舌に尽くしがたい過酷な苦労がある。めぼしい行事を挙げると、まず清掃活動。年間3回程度なら理解できるが、私の住む地域は、なんとそれだけで年間6回。しかも欠席する際には、冠婚葬祭以外の理由は認められず、一律1000円の協力金を否応なしに徴収される。病気の欠席では理由にならない、まさに問答無用のお役所仕事的体質が露呈される。更に驚愕なのは、体育的行事が年間4回もあることだ。まずは春と秋に球技大会。そして夏には町内の親善体育祭。更にダメ押しとなるのが、その上部組織に当たる地区対抗の球技大会。住宅街の特徴でもあるお年寄りが大多数を占める当地において、この体育的行事の多さはもはや敬老どころではなく、実態も顧みない、年寄りいじめもはなはだしい地域なのだ。当然、毎年怪我人が複数出て救急車が駆け付けるなど、本末転倒としか言いようがない命がけの行事参加となる。だから、辞退者も数知れず、参加者は毎年・毎回決まって同じ顔ぶれなのだ。地区内の住民の人間関係の構築と体力向上、健康増進をお題目にしているようだが、こんな有様では何の意味もない。

 これだけ挙げても信じられないだろうが、我が地区の飽くなき行事はまだまだ続く。お盆には小学校の校庭を貸し切っての夏祭り兼盆踊り大会。秋には神事の代表格、子ども会とタイアップしての秋祭り。神輿で町内を練り歩き、お菓子を配ったり、豚汁を振舞うオーソドックスな内容。それ以外にもお決まり行事である資源物回収も年間3回実施しているし、それだけではまだまだこと足りないらしく、忘年会・新年会・町内会の総会、そして事務引き継ぎ会と、役員には寝るいとまも与えないほどの過密日程と多忙スケジュール。更にひどいのは、ひとつのイベントを行う場合には、その前段階として度重なる会議・会合・打ち合わせ等を強いられる。それらを含めると月に3回は会議で時間を束縛されてしまう。まさに私が住む地域は、そんな殺伐とした健康上好ましくない環境下にある、異常な所だ。もしこういう現状を事前に察知していたのなら、生活が便利になったとはいえ、当然引越しなどしていなかっただろう。

 この聞きしに勝る、超過激で恐怖の町内会は、全部で14もの班に分かれている。私の班は、22世帯の会員で構成され、全体では240世帯以上もいる。総住民は1000人は下らないだろう。そんな中、仕事先でも多忙を極めていた私に、突然災難が降りかかってきた。自分が所属する班の班長の役が私に回ってきたのが、今から4年前の平成17年のことだ。その際、町内会の輪番制とかなんとかで、あろうことか、なんと町内会長の御鉢が回って来たのだ。班長すら初めてやるのに、その上部組織にあたる町内会を仕切れというのだ。これには当初逆上した。藪から棒にそんなことを言われても、何のありがたみも感じていないこの地区で、何の因果でそんな役職までやらされるのか?文句の一つでも捲し立てて町内会を脱退してやろうかとまで考えた。しかし、この地区ではそれが忌々しきならわしであり、あまり波風立てて村八分の目に遭いたくないのと、子供に災いが及ぶのを回避したくて、冷静に考えてやむを得ずその大それた役職に携わることになった。当然のことながら、自分が所属する班の班長も兼務である。それまで仕事の忙しさに感けて、清掃活動以外の行事にろくに参加したことがなく、よもや自分が会議を主催し、40以上も目白押しの事業計画を立てて、それを執行する立場になるなど夢にも思わなかったし、自分にできる訳がないと思っていた。

 通常は、町内会長と言うと、仕事などはとうの昔に退き、時間に余裕がある人で、その地域に長く暮らし、町内の隅々まで知り尽くし、周囲の信頼も厚い、いわば長老的立場の方がなるのが本筋だろう。ところがどうだ。輪番制で引越し間もない新参者が会長に祀り立てられる、なりふり構わぬ押しつけ勝手の町内会。それは自分にとってみれば死刑宣告に近い内容だった。案の定、いざ各班の班長を集めてみると、家庭の主婦が多く、共働きで育児も行っている方々ばかりで、会議の出席率が低いだけでなく、前向きに町内会行事にかかわろうという人は皆無で、周囲は極めて迷惑ごと扱いで非協力的。「手は出さないが口は出す」みたいな閉鎖的で投げやり的な発想の輩が多く存在しており、がっかりさせられた。結果、すべての責任を町内会長が被るというなんとも厄介な役どころとなってしまった。まさしく役員になったものだけが苦労を強いられるロシアンルーレット式の不合理で不平等なシステムだ。その中でも私が一番嫌だったのは、自分の都合や自由が利かなくなり、時間が制約されたり、会議のために行動を束縛されることだった。そして一連の煩雑な職務の中で一番大変だったのは、会議を主催するための文書を作成したり、印刷したり、それを14の班長宅に回覧板として回す作業。更には毎月、市から送られてくる大量の回覧文書や各種案内、広報誌を全世帯分に分けて、各班長宅の玄関先に届けるのに夜中に車で周回したこと。これは家族総動員で仕分け作業を行った。「なぜ自分だけがこんな目に遭うのか」と心底辛かった。もちろん一銭にもならないボランティア活動である。だれも褒めてくれない。それ以外にも町内会長の職務は多く、地域住民の苦情(ゴミの始末)を聞いたり、町民の意見や要望を聞いて市に陳情に出向いたり、街灯の電球が切れてると苦情が来れば、市役所に連絡したり、寄付金を集めに週末に各会社を回ったり、「交通災害保険」の募集といった保険会社の手先まがいの勧誘までさせられた。その一年の間で、私は激やせした。74kgあった体重が一気に6kg減り、大学生以来となる60kg台に。そして睡眠不足やストレスから、不幸にも髪の毛は真っ白になってしまった。この外見の夥しい変化が激務ぶりを象徴していたと思う。そしてこの年は、私にとって42歳の本厄とぶつかっていたが、公私ともにまさしく大厄年だった。もう二度とこんな割に合わない役職はご免こうむりたい。

 しかしながら1年間、このような理不尽な仕事をさせられた訳だが、費やした時間と苦労の見返り(得た物)というのも少なからずあることはあった。それは、それまで見ず知らずだった近隣の住民と顔見知りになれたこと。幸い副会長が職場の同僚だったことや、若干ではあるが、協力的かつ前向きに職務に取り組む方がいて、それらの方々に助けられて、事業計画を滞ることなく何とか大過なく遂行できたこと。この経験と培った人間関係は何物にも代え難い宝物だと思う。ここで学んだことは、嫌なことから逃げて遠ざけてばかりいると、手元には何も残らないということ。正しいと思うことを一生懸命頑張っていれば、誰かがそれを見ていてくれ、必ずサポートしてくれるということだ。途中、紆余曲折はあったとしても、遅かれ早かれ結果はついてくるということが証明できた。これは実際苦労してみないとわからない真価なのだと思うし、それを悟っただけでも収穫だったと思う。そんな年回りだった。逆にあの時、ずっと町内会長を断り続けていたらどうなっていたことか、考えるだけでぞっとする。「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉の意味が少し理解できた気がする。これが平成17年に経験した出来事の一部始終であり、厄年の私の苦労話である。

 臨時ニュース

 今回のブログ記事の作成中に、突然携帯が鳴った。1か月近く前に打診しておいた出版社から、私のHP「趣味-ING」の中に編纂し、掲載している詩集「都会の片隅で」について、問い合わせと出版の案内が飛び込んだのだ。15分以上話したが、何らかのアクションをしてみたいというのと時間をかけて審査・吟味したいとの返答。少しは脈がありそうだ。これまでにない類のジャンルを開拓したいという私なりのコンセプトと熱意を訴えたつもりだが、それがどこまで伝わるのか楽しみにして結果を待ちたい。 

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