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2009年7月29日 (水)

ライダーの知恵

 かつて私はライダーだった。と言ってもサーキットを走るレーサーだった訳ではなく、峠道をギンギンに攻めるような真似もしなかった。いわゆる旅をこよなく愛するツーリングライダーだったのだ。バイクは好きだが、ただ単に走りにだけ楽しみを見出すのではなく、時には旅の足として、また或る時には、風を体感しながら周りの風景を楽しむ手段として用いていた。その日の気分や思いつきで、好きな場所、お気に入りの場所へ向けてスロットルを握っていた。特に、幸運だったのは、私が学生時代の2年間、北海道に住むという機会が得られたことだ。広い北海道を見て歩くには、バイクが一番便利で機動力に優れており、その手軽さは他の追随を許さないほどだった。特に北海道では、それなしでは語れぬほど重宝した。当時はクォーターバイク(250cc)ブームで、車検がなく、女性にも比較的取り回しが楽なのと高速道路も走行可能、更には手頃な価格設定やスポーティーなスタイルがウケて、その人気に目を付けたバイクメーカー各社はこぞって製品開発し、主力商品として販売していた。私も今ではもう手放してしまったが、当時一世を風靡し、一番人気で超ミーハーバイクと目されていたホンダ・初代VT250F(黒)に乗っていた。その単車は、フロントマスクにセミカウルを施した斬新な流線形のデザインと、当時、新開発の水冷DOHCのV型ツインエンジンで4サイクルの2気筒。35馬力あった。このエンジンの特徴は、タコメーターが12,000回転まで表示があって、エンジンがレッドゾーンを超えて1万回転以上も良く回ること。そしてある回転域になると、4気筒独特の「ボーン」という金属音がマフラーから聞こえ、エグゾーストノートや振動がたまらなく心地良いのだ。ゼロヨンなど絶対に負けないスタートダッシュを見せていた。新車価格は399,000円。それを近所のホンダウィング店にて中古で購入した。前のオーナーが山形県の女性で、走行距離は6,000km程度のかなり状態が良いマシンだった。確か購入価格は、334,000円だったか?ボッタクラれた感は否めないが、当時絶大な人気があったこのバイクが、中古で市場に出回ることは希少で、まして田舎のバイク屋に置いてあるなどということはあり得ない話だった。それ以外ではヤマハ・RZ250、カワサキKZ250、スズキ・ガンマ250など人気を博していたバイクが街中に溢れていた。

 ところで、バイクに乗り出してから自分自身が大きく変わったと思えることが幾つかある。それまでは気に留めなかったことにも気を配るようになった。まず、第一に注意力や集中力が高まった。反射神経が俊敏になり、器用になった。理由は簡単。四輪車とは異なり単車は常に身体が剥き出しの状態である。良く言えば開放的だが、一歩間違えば命を落とす危険と常に隣り合わせである。例えば、路上に誰かが無造作に投げ捨てた空き缶ひとつでも命取りになるし、調子に乗って飛ばして、コーナーへの侵入速度を誤るとセンターラインを食み出し、対向車と正面衝突ということにもなりかねない。走行中は絶えず神経を研ぎ澄まし、五感のすべてを駆使して自分の身に降りかかる危険を予め察知し、ことごとく排除していかなければならない。これが出来ないと、その先に待ち構えているのは100%「死」だ。

 第二に、私はツーリングに出かける時には、空模様に人一倍細心の注意を払っていた。事前に予報をチェックするのは言うまでもないが、走行中も進行方向の雲の動きや照度、雲の量、肌に感じる風速、気温差、体感温度、路面の状況にまで気を配っていた。もちろん、先行車との車間距離やキープレフトの励行など事故を事前に回避する知識と技能も経験から身についた。また、雨が降り出した際には、どのタイミングで雨具を着るかとか、タンクにマグネットで装着してあるバッグに、地図を見易いように配置したり、夜間走行中には、手元を照らす着脱式のクリップライトを装備したりといろんな知恵を絞ったものだ。更には、旅行中に私が実行していたことは、交差点で赤信号で停車する度に、グローブを脱ぎ、ペンに持ち替え、メモ(ポイントの通過時刻や目印、気になった風景や出来事など)を執っていたことだ。そのタイミングもまた頭を使うことだった。Uターン禁止場所では、あえて先頭でエンジンを切り、バイクから降り、単車を手で押して交差点を渡って方向転換を行った。こうすれば歩行者扱いとなり、違反にはならない。また、高速道路利用時には、料金所で手間取らないように、前もってPA等で休憩している時に、料金分の小銭と通行券を用意し、取り出しやすい位置にセット(今はETC精算で素通りなのでそんな苦労は無用だろうが)していた。このように知らず知らずのうちにいろいろな知恵を身に付け、実行していた。

 上記以外で、より良いライディングやツーリングのために私自身が実践していたことを列挙しよう。まず、今では当たり前になったが、バイクは昼間でもライトオン。これは安全のためには極めて重要なことで、自分の存在を周囲に知らせる働きがある。とかく一般ドライバーの意識からすると、バイクは目障りな存在で、車より遅い物だと錯覚している傾向がある。よって多少無理をしても追い越して前に出ようとする。ひどい時には抜いてる最中に対向車が来て、あわててハンドルを切って幅寄せしたり、「どけ!」と言わんばかりにパッシングする悪質な輩もいる。また、交差点に進入する際は、特に注意が必要である。なぜなら直進してくるバイクは、右折待ちのドライバーから見ると小さく遠く見える。だから右折のほうが早くできると判断してしまう。結果、間に合わず衝突という事故が思いのほか多い。そこで自分を大きく見せる意味でも、ライトオンは身を守る上で最善の策なのだ。

 次に走行中、対向車線側の路面状況やすれ違う車両で、進行先の天気が一目瞭然なのはご存知だろうか。もし反対車線の路面が少しでも濡れていれば、たとえ進行方向側の路面がドライでも、その先は天気が崩れる。なぜならその先で降っていた雨を対向車が運んでくるからで、濡れたタイヤ痕が動かぬ証拠になる。もちろん対向車の車体に水滴がついていたり、ワイパーを消し忘れたりしていれば、当然その先は雨。やがて数分も経たないうちにたちどころに上空が暗くなり、ヘルメットのシールドにぽつぽつと雨粒が叩くことだろう。また、郊外の一般道で数珠つなぎの渋滞を見かけたら、先頭を走っている車が実は一番遅いのをご存じだろうか?サーキット場などではもちろん、先頭を行く車が一番早いのは当然だが、一般道路(特に片側一車線)では、先頭の車がペースを作れずもたついて平均速度を乱しているからで、このケースでは最後尾の車が一番早いという可能性が高い。恐らく抜きに抜けず内心イライラしていることだろう。そういう車に限って、周囲のことは気にも留めない我が道を行くタイプで、決して譲ることもしない。

 続いて、これは簡単な算数の計算だが、スピードメーターで到着時間を予測できる。あえて経済速度の60km/hで走れば、1時間後には60km先を走っている計算になる。当たり前と言えば当たり前だが、北海道では、恰も一般国道や道道が高速並みのスピードで流れていて、信号が極端に少なく、ペースを乱すような遅延車両もいない。よってその速度をキープしていれば、容易に到着時間が読めるという寸法だ。また、これはバイクの特権と言えるのだが、たとえ首都圏であっても渋滞とは無縁だ。駐車場所に困ることもそうはない。私個人は、赤信号は大歓迎だった。走行中、いくら先行車両が遅いからと言って、その左側をスルーして前に出ることは違反である。信号待ちで停車中の車の間をすり抜けて走れば、先頭に立てる。もちろん通行区分やセンターラインが黄色でなければの話だが。随分前だが、私が北海道を離れ、東京のキャンパスに移った1986年頃、これを利用した画期的な二輪車優遇制度が首都圏を中心とした一般道で運用された。交差点でよく見かけたと思うが、二輪車が前で四輪車が後ろの停車位置を示す、路面に標示された白いラインである。最近はあまり見かけないが、80年代後半はバブル景気全盛で、人々の懐具合は潤い、街を行き交うバイクの数は半端ではないほど多かった。当然、アンダーパスやオーバーパス、交差点の至る所に白バイや警官の目が光り、ねずみ取りや一時停止違反、通行区分違反、整備不良車両の摘発など取り締まりも厳しかった。そんな場面を何度も目の当たりにし、走行中に追い越しをする際は、必ず周辺の安全確認を怠らず、またその車両のナンバープレート、乗車人数、車種、車内の形状の異状を確認してから慎重に行っていた。覆面パトは、当時は88や33ナンバーが多く、バックミラーが教習車のようにダブルミラーになっていたり、助手席側のドアのピラーに目視確認者用の小さな黒のミラーが付いていた。当時は覆面はドアミラーではなく、旧式のサイドミラーだった。また、必ず2名乗車し、白バイ隊員が着ている青の制服に白いマフラーを首筋に巻くお馴染みのスタイル。夜間は警視庁仕様のY字の蛍光テープが貼られたメットを被っていた。そして、リア-ウインドウ越しに車内を見ると、パトライトを格納する箱と雨を排水するパイプが屋根の真下に装着していた。そして極めつけは車種である。当時は、覆面の代表格は、クラウンとセドリックだった。大排気量でないと逃げる車両を追いかけられないというのが理由か。暴走族やルーレット族を取り締まる交通機動隊の覆面は、GT-Rやスープラ、Zといったスポーツカーも多かった。今はデジタル化し、傍受不能だが、当時の警視庁無線はアナログ式で、マルチバンドレシーバーがあれば、いかようにも受信できた。特に土曜日の夜は犯罪多発で、それはさながら刑事ドラマのようだった。私は直接聞いたことはないが、私の友人がアクションバンドやラジオライフを愛読していたほどの警察好きで、通信指令室や所轄系の無線の模様を録音した音声テープを、一度聴かせてもらったことがある。

 話が変な方に行ってしまったが、このようにありとあらゆる安全策を講じてきたからこそ今、自分が生きながらえてここにいるのだと思う。そんな自分も二度事故(二度とも東京から郡山に帰る途中、左折巻き込み)って一度は派手に転倒(北海道時代)している。また、東京~郡山間は、料金が高い新幹線は使わず、高速も使わず、250km近い道のりを約5時間かけて4号国道と環七を通ってバイクで往復していた。係る費用はガソリン代の1500円程度だった。恐らく、2年の間に10回近く往復したと思う。経済的には節約だが、その分、危険度は増すことになった。幸いにして、これまで命を脅かすような危機的状況には陥っていないが、バイクを通じていろいろと学ぶことは多かった。ライダーは、単車というが如く、運転時は孤独である。自分自身のセーフティーライドと運転テクニックが絶えず命運を握っているのだ。コーナー侵入では、アウトインアウトやスローインファーストアウトといった基本動作が肝要で、とっさの身のこなしや反射神経の鍛錬になったと思うし、四輪車に乗り換えた今でも、これらの経験が危険回避や状況判断に一役買っている感じがしてならない。そして今も実行していることは、「死亡事故現場」という看板の前を通る時は、無意識のうちにハンドルの所で両手を合わせ、そこで犠牲になって亡くなった死者にお祈りを捧げていることだ。そうすることで、安全に気を配り、自分自身に降りかかろうとしている事故を遠ざける気がしてならないのだ。

 今現在、個人所有のバイクはCBR-250R(ハリケーン)というフルカウリングのスポーティーバイクだ。もう10年以上エンジンをかけていないし、既にナンバーも返納した。5年くらい前に、また乗りたくなって、3万円以上かけてキャブやバッテリーを交換するなどしてレストアを試みたが、そのバイクに再び生命を吹き込むことはできなかった。故にバイクは、そのCBRがまだ現役だった平成4年に、北海道を一周した際に使ったきりで、もう17年間も運転していないことになる。もうライディングテクニックは忘れているだろうし、40代も半ばに差し掛かった自分には、それを自由自在に操るだけの体力も腕もないと思う。自分自身は、以前バイクを降りた時、「次に自分がバイクに乗る時は死ぬ時だろう」と考えていた部分があった。しかし、ビッグスクーターなる、運転がすこぶる容易なバイクも登場している今、また乗ってみたいという秘かな胸の内もある。現在、関心があるのはホンダのフォルツァだ。シートの下に大容量のラゲージスペースがあって、荷物を収納できるのが気に入っている。どうもミーハー癖から脱け出せないが、今から勘を取り戻し、退職後の人生に、もうひと花彩りを添えたい気がする。そして第二の故郷である北海道を、もう一度バイクで駆け巡りたいと考えている。若かりしあの頃に感じた「風」を再び感じるために・・・。

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