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2009年8月

2009年8月 3日 (月)

「裁判員制度」にモノ申す!

 今日、法治国家の根源を揺るがす大きな出来事があった。朝の情報番組からお昼のワイドショー、NHKのニュースまでずっとこの話題で持ちきりだった。そう、いよいよ我々一般人が裁判員として公判に出廷し、人を裁くことを義務化した「裁判員制度」が実際にスタートした。この導入については、去年暮れあたりから急に脚光を浴び始め、今年になってその認知度がようやく高くなった新制度であり、我々にとっては自由権、生存権そのものを奪われかねない今世紀最大の愚策であるように思える。一体いつの間に国民不在の中で、こんな議論を重ねていたのか、一般人には十分告知されないまま、見切り発車となってしまった感は否めない。ここでは、敢えて異論を唱える形でさまざまな角度、視点からこの制度を検証したい。

  問題点① その選出方法

 まず、この裁判員制度の候補者資格であるが、日本国籍を有する20歳以上の者ならば、誰でも選出される可能性がある。本日初公判が開かれた東京都の場合、裁判員の候補者となる名簿登載者は295,000人もいる。本制度を日本でも検討し、導入するまでに至った経緯は、単に先行実施している先進諸国の踏襲が主な理由で、法の名の下に出席を義務化したのが大きな論点である。候補者として選出された者は、正当な理由なくしては拒否できないのである。民主国家・日本である筈なのに、なぜ個人の時間や自由を奪われた上に、仕事を休んでまでしてそんなわけのわからないものに出席しなければならないのか大きな疑問である。本日の6名に絞った経緯についても、ちゃんちゃらおかしい選出方法である。無作為に選んだ100名の裁判員候補者に呼び出し状を一方的に送りつけ、正当な理由だと裁判所によって欠席を認められた人や引っ越しなどで手元に呼び出し状が届かなかった人を除き、実際に裁判所に出向いたのは47名。更に、当日時間をかけて説明を受けた後、質問票を記入するなど時間を拘束された末に、最終的に6名に絞った。その選出方法が全くもって遺憾で合点がいかない。何とパソコンを使って無作為に選出されたのだ。裁判員となる人の知識や教養など一切物差しを入れず、年代や性別までも関知せず、勝手に機械任せにしている点。運命まで左右するであろう人を裁くという重責をそんな素性もはっきりしない人物に、司法の判断を委ねていいのか。人生経験が乏しい人間、心身に問題や欠落のあるものが公正な判断ができるのか。結果、機械が選んだのは女性5名、男性1名とかなり偏りがあったのも理解に苦しむ。もし、審理内容が女性が最も憎むべき犯罪(強姦・強制猥褻・暴行などの性犯罪)だった場合、女性側の立場で共感的にとらえてしまい、被害者感情が増幅し、偏重した意見が大勢を占め、状況証拠や証言、質疑応答など慎重審議を経たとしても、冷静な判断ができないのではないか。

 問題点② 憲法で保障する思想良心の自由に反していないか。

 ある日突然、召喚状が裁判所から送りつけられる。否応なしに時間が拘束される。正当な理由なく断れない。民主国家日本では到底ありえない義務化である。これは言うまでもなく憲法第19条で定める「思想良心の自由」を奪うものである。この制度は見切り発車の感が否めない点から、国民にその情報や内容について十分な説明がなされていない。よって制度自体が周知徹底がされていない訳で、たとえ裁判開始から判決まで最短で4日間の審理だとしても、そんなに連続で仕事を休めるだろうか。当然、周囲の環境は整っていないだろう。また、決して他言できないことだけに、仕事を休んでいる間、自分が裁判所に出向いていることをどうやって理解してもらえるのだろうか。仕事に穴を開けるのは必至だし、自営業者は、閉店を余儀なくされ、まるまるその日数分の売り上げがなくなる。その損害を裁判所が肩代わりすることは一切ないのだ。また、裁判の内容をうっかり酒の席などで他人に話してしまうかもしれない。そうなると自身も処罰の対象となり得る。そんな危ない橋は誰しも渡りたくないと思っていることだ。できれば回避したいことだろう。また、選ばれた場合の精神的なプレッシャーは想像を絶する。何の因果で望みもしないのに人を裁く立場にさせられるのか?もし自分が指名されたら、自分がそんな権利を有する人間ではないと主張し、そんな役目は御免こうむりたい。なぜなら無知が故に気づかぬ所で法令に反している可能性もあるからだ。また、個人の時間や自由を法律で規制したり、束縛することはもはや民主国家や自由権そのものを否定していることにほかならないのだ。このようなことは義務化すべきではない。実際、今回呼び出しに応じなかった人も2名いた。何かペナルティが科せられるというのだろうか。おちおち病気にもなれないのか。

 問題点③ 税金の無駄遣い

 今回、74名が裁判所に出向いた。当然、日当が支払われた。ひとり1万円である。ということは、抽選に外れた人がほとんどになるが、本日だけで74万円、その人たちに支払われたことになる。もちろん、我々の血税が使われた。今回は、初の試みということで、大きく注目されたが、これが全国各地で、毎週のように繰り返される訳で、今後、日当として一体どれだけの税金が使われるのだろうか。また、裁判を容易にわかりやすく進めるために、複数のパソコンを利用しての審理を行ったようだ。そのための設備投資だってばかにならない額になる。こんな馬鹿げた使われ方をしていいのだろうか。まさしくこれは税金の無駄遣い以外の何物でもない。

 問題点④ 審理が長引くとどうなる?

 被告が罪状認否で、素直に自分の犯した罪を認め、審理が短期間で済めばいいが、万が一否認した場合どうなるのか。証拠の提出や証言者の召喚、弁護人と検察側の質問の応酬などで審理が1ヶ月間と長期化した場合、裁判員となる者はそんなに休めるはずがない。判決までずっと公判に出廷し続ける訳にはいかない。そんなに休んだら会社から自分の席はなくなってしまうことだろう。休業補償も無論ない。また、法律の専門家でも心理学者でもない者が、責任重大な決定事項である有罪か無罪かの判断やその量刑にまで踏み込んで適正な判決が下せるわけはない。曲解すれば、本当は無実の人間を有罪(冤罪)にしてしまうこともあるだろうし、犯罪者の証言台での嘘を見抜けず、誤って無罪判決を下せば、取り返しがつかない重大なミスとなるのだ。

 問題点⑤ 裁判員のこころのケア、プライバシーは大丈夫か?

 望みもしない裁判員にある日突然選出されて自由を奪われただけでも、相当な苦痛なのに、実際の裁判の審理では、殺人事件など重要犯罪も含まれる。よって証拠提示で、生々しい殺害場所や死体の画像も目の当たりにすることになる。もちろん、本来ならば見たくもない、見なくていい写真であろう。それを見た時の精神的なショックは想像を絶する。場合によっては、公判中に極度の緊張から具合が悪くなったり、耐えきれない場面も出てくる可能性もあろう。精神的ストレスを抱え、心身症などを発症した場合、誰が責任をとるのか。また、裁判員に選ばれ、裁判に立ち会った人のプライバシーを含めた身の安全はどこまで保証できるのか。逆恨みや仕返しなどの対象にならないのか。本人だと判明するような個人情報の管理は、はたして大丈夫なのか。また、傍聴人は、裁判員の容姿や名前、顔など覚えてしまい、それが流失するようなプライバシーの侵害が起こることはないのか?また、一番厄介なのは、裁判員となった本人が、事件や裁判の様子、秘密などをうっかり酒の席で他言・吹聴してしまうという危険がある。守秘義務がどこまで統一できるのか。ここまで考えて導入に踏み切ったとはどうも考えにくい。まったくもって国の考えること、やることは庶民的発想とは相当のズレがあるようだ。また、一番腹立たしかったのは、裁判を担当した者には全員シリアルナンバー入りの記念バッヂが貰えるということだ。何故人を裁くことが記念になるというのだ。こんなことを考えた人の良識を疑いたい。日本の法制度はこの程度なのか。たかが知れてる。こんなはた迷惑な制度は即刻廃止すべきだと思う。

 日本人は、何かにつけ物分かりがよすぎる。争いを好まぬ平和主義者が多い。民意も反映できず、ただの国のいいなりではないか。特に今の世代は、政治に無関心で、昔の安保理の際の学生運動のような団結力や社会への問題意識も希薄すぎる。もっと声を大にして訴えたほうがいいような気がする。総じて、この制度は導入が時期尚早すぎたと考えている。右習えで何でも欧米化する必要など鼻っからない訳で、食事でも欧米の模倣した結果、肉食化してメタボ中年が増えたようになるだけである。日本国憲法を尊び、我が国独自の法制度の整備をしていく必要があるのだ。

 最後に、犯罪に対する私個人の意見を述べたい。私自身は、人を殺すような重犯罪は、厳罰をもって臨むべきだと考える。過って人をあやめようが、計画的であろうが、一人であろうが複数であろうが、また、情状酌量があろうがなかろうが、どんな理由があっても尊い人命を奪った事実に一切変わりはない。ゲームとは違って「一度死んだ人間は二度と戻らない」のだ。裁判員となるべき人間は、常に被害者やその遺族の立場で考えるべきだと思っている。私は、弁護というと聞こえがいいが、冤罪を救うという意味では欠かせない存在だが、犯罪者の味方につくという意味では、あまりその存在自体も疑問が残る。もし、弁護人本人が自分の子供を殺されたとして、憎しみの感情を持たずに、冷静にそうした犯人(被告人)の弁護が出来るかと言えば、絶対にできない。まして情状酌量を求めたり、減刑を望むなどと言った感情は起こり得ないだろう。「二度と戻らない人の一生を奪った」ということは肝に銘じておくべきだし、人数にかかわらず極刑もやむなしと考えたい。しかし、死刑を肯定し、死刑判決者や執行者の数を増やしたからと言って犯罪の抑止力にはならない。今回の「裁判員制度」実施を契機に、法律に対する知識の啓蒙を図り、決して他人事ではなく、いつか自分にも降りかかってくる重要問題という意識でこの問題をとらえ、冷静に考えて判断し、対処していく潮流となることを祈ってやまない。

 

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