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2009年10月

2009年10月31日 (土)

昔話⑥ ~子供の頃の遊びと流行りもの~

 私が小学生時分というと、昭和45年から52年頃だった。郡山市内でも中心市街地のど真ん中にあった歴史と伝統がある小学校に通った。当時、「遊び」と言えば、現在のようなゲーセンはなく、遊園地もなかった。もちろんスポーツで汗を流したくてもスポ少すらなかった。その頃、娯楽と呼べるものはテレビぐらいで、それを見て時代の流行を知り、社会の動きや時勢に遅れないように、そして翌日の学校で話題に付いて行けるようにしていた。そこで今回は、テレビから火がついてブームとなった「遊び」や子供の頃に流行ったものを取り上げてみたい。

① 陣取り合戦

 これは道具は何も要らない。土の地面に1m×1.5m四方の長方形を描き、その対角線に親指と中指を伸ばして1/4の円を描く。これが自分の陣地となる。そしてその辺に転がっている小石を自陣内から指ではじき、3回以内で戻ってきたらその面積分の陣地が増える。もちろん3回で戻れたら、かなり広い陣地が手に入るが、リスクは高くなる。もし、戻れなければ無効。また、2回で戻った場合は、ボーナスとして自陣から指をコンパス代わりにして円を描き、更に増やせるのです。これを対戦相手と交互に行い、長方形が埋まり、これ以上陣地が増やせなくなった時点で終了。陣地が多いほうが勝ちとなる。

② グループ遊び

 友達と一緒に遊んだゲームや遊びを紹介すると、「カン蹴り」「鬼ごっこ」「だるまさんが転んだ」「長縄跳び」「馬跳び」「馬乗り」「独楽回し」。特に「カン蹴り」は近所の空き地を利用してよくやった。何でもそうだが、ジャンケンで負けた者がなる鬼の役はいつも辛い。馬乗りは、危険ということで教育委員会から禁止令が出た。独楽は普通は一緒に投げて、一秒でも長く回っていた方が勝者となるが、我々のルールでは、「ガンつけ」と言ってわざと相手の回っている独楽目掛けてぶつける様に上手投げで投げ、相手の物に傷を負わせて力ずくで止めるのだ。これも結構やることがないとよく遊んだ。

③ テーブルゲーム遊び

 主役はトランプと花札。よくやったのは、「ページバン」「セブンブリッジ」「七並べ」「ババ抜き」で、中学生になると「ポーカー」が流行った。この頃はUNOや「大貧民」はメジャーではなかった。また、「オセロ」や「将棋」「軍人将棋」もよくやった遊びである。

④ 人形遊び

 人形と言っても、女の子が好む「リカちゃん人形」や「バービー人形」の類ではない。当時開発され、絶大な人気を誇ったのが超合金ロボットである。「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「グレンダイザー」がその走りで、一大センセーションを巻き起こした「ガンダム」はその後のことだ。他に「ゲッター・ロボ」もあり、可動式で合体ロボの元祖と言えよう。それが開発されるまでは、「ゴジラ」や「ウルトラマン」対怪獣のソフトビニール人形を集め、勝手に対決させていた。

⑤ 牛乳蓋

 これは我々の一世代前の「メンコ」のような物で、当時はパック型の牛乳ではなく、給食等で出たのは瓶詰め牛乳だった。その紙製の蓋がこの遊びの主役だった。牛乳蓋にも色々なデザインがあって、他人が持っていない丸蓋を持っているだけで自慢で来たが、それを奪い合うことこそがこのゲームの真髄。やり方は、牛乳蓋をテーブルの上に撒き、指だけを使って裏返しにする。攻撃は一回で交代交代。裏返しに失敗すれば自分の物にはならない。テーブル上の蓋が無くなった時点で終了。

⑥ 流行り物

 かつてダッコちゃん人形が世の中を席巻したように、小学生時分に流行したものを紹介したい。古いほうでは、「笑い袋」。もちろん外国製で、袋の真ん中辺りを強く押すと、勝手にスイッチが入り、いきなり「ワッハッハッハ」と笑いだすおもちゃがあった。2つ目は「スマイルバッヂ」だ。皆持っていて、帽子やバッグに付けていた。丸い黄色の缶バッヂなのだが、今風の「ニコちゃんマーク」の絵柄で、持っていれば女の子にモテるような格別な雰囲気があった。3つ目は「ローラースルーゴーゴー」。これはキックボードのことで、ブームは一年足らずだったが、流行り物の中でも代表格だろう。T字バーのハンドル付きのスケボーの形をしていて、後ろ側にキックペダルが付いている。片足でバランスを取りながら滑り、もう片足でキックすると進むのだ。また4つ目は、「ホッピング」と言う竹馬を一本にしたような形で、地面に接する部分が強力なスプリングになっていて、かなりピョンピョン弾み、意外とジャンプ力があって危険な乗り物(遊び道具)だった。この後に、ローラースケートやスケボーが主流となった。また、スプリングを使ったおもちゃがあった。階段などの段差では、順序良く一段一段ひとりでに落ちて行くおもちゃで、子供心に物理や理科の連続動作の勉強になったと「思う。(学習と科学の付録についていそう)。その後、「スライム」という緑色のネバネバした粘着力のある謎の物体が登場した。掴みどころがなく、でも手は汚れない不思議な流行だった。また、おもちゃではないが、お菓子についている応募券を集め、ハガキに貼って応募すると抽選で当たる「オイラはあるま~じろ~」でお馴染みのふわふわ型のポシェットのような小物入れが貰えた。私は何回ハガキを出しても一度も当たらなかったが、近所に住む友人は2~3個も持っていた。運が良い奴はいるものだ。

⑦ アメリカ仕込みのおもちゃ

 ひとつ目は「アメリカンクラッカー」。さくらんぼを大きくしたような形状をしていて、リングから枝分かれした2本の紐の先端にそれぞれ玉がついている。リングを軸にして上下させることで玉同士がぶつかり合い、連続で「カンカンカン」と音を出す遊びだった。「懐かし~」という声が聞こえそうだが、これも理科の「振り子の原理」や「慣性の法則」を利用した優れた玩具であった。もうひとつは、「ヨーヨー」「ハイパーヨーヨー」である。これは小学校の高学年になった頃、アメリカから入って来た玩具だ。これもまた、理科の上下運動を上手に利用した玩具。しかし、大の大人も夢中にさせるほど、「東京タワー」や「ブランコ」、「犬の散歩」などのハイレベルな技があった。「宇宙遊泳」なる回転技もあった。

⑧ ソフトボール

 これは紛れもなくスポーツであるが、毎日放課後になるとやっていた健全な遊びだった。いつもいったん自宅に帰ってから、道具一式を持って学校のグランドに集まる。そしてウラオモテといって手のひらの向きでその日のチーム分けをした。とにかく一番夢中になった遊びと言って過言ではない。

⑨ 収集物

 小学校時代は、何かにつけ色々な物を集めた気がする。まず、切手が最初。様々な国の切手(使用済み・未使用)を東京切手センターを介して集めまくった。続いて⑤で書いた「牛乳蓋」、そして仮面ライダーカードやそれを収納するアルバムなど。違う番号のカードを100枚くらいは集めたと思う。友人同士でお互い持っていないカード同士を交換したりもした。今で言う「ポケモンカード」のような物。そして中1になると、折からのBCLブームがあって、テレビ局やラジオ局の放送番組を視聴し、受信報告書を郵送すれば、御礼として「ベリカード(QSLカード)」が貰えたのだ。これも裏ワザを用いて100枚以上集めた。海外の短波放送を聞いていたせいか、知らないうちに英語の勉強にも役立っていた。

⑩ インベーダーゲーム

 これは正確に言えば、中1(昭和52年~53年)頃のゲーム。卓上型で1回100円。横一列のインベーダー達が徐々に手前に向かってミサイルを撃ちながら攻めて来る。それを壁に隠れながら応戦し、相手のインベーダーに当たると消え、得点になる。時々上段をUFOが飛んできて、それに当たれば得点は高い。当時は大ブームで、ゲーセンだけではなく、近所の駄菓子屋やラーメン屋にも置いてあった。ブームに翳りが見え始めると、一斉値下げし、1回50円とか20円にまでなった。ブームが終われば、そのゲーム台自体を売りに出していた。

 また、これは遊びではないが、昔の想い出として、学校の昇降口の出た所の道端に、色々な物を売りに来る行商がいた。多かったのは、カブトムシやクワガタ虫、ヒヨコなどの生き物で、ゴムを飛ばす針金細工の鉄砲など子供心をくすぐる商品が露天に並んでいたのだ。このように、昔は遊ぶにも友達とコミュニケーションを取りながら皆で遊べる遊びがあった。現在の子供は、室内でゲームや漫画を見て余暇を楽しむ傾向がある。独り遊びが上手になってしまい、その結果、人間関係を築く場面がかなり減少している。そこにはインターネットを介して見知らぬ人と対戦ゲームを行っても、血の通いあうような人間関係は決して築けないだろう。私は、テレビゲームすらあまりやったことがないが、それで十分幸せだし、その頃遊んだ友人たちとは、今でも親交があり、たまに飲みに行くこともある。流行り廃りはある世の中だが、本当に大事なことだけは見失わないで欲しいと思っている。

 オマケ 「日本シリーズ初戦」の総括

 初戦からしびれる展開。そして追いつ追われつの独特の緊張感があった好ゲームだった。勝敗こそ逆になってしまったが、前日(戦前)の私の予想がことごとく当たったと思う。

 取ったら取り返す、ピンチの後にチャンス、チャンスを潰した後はピンチ、最後までもつれる、大試合ではベテランと外人の活躍がポイント、日本ハムの守備力、先制したチームが有利に試合展開を運べる、古巣でリベンジなど大部分で予想通りだった。そして野球の独特な流れを感じた試合となった。まず、いきなり的中したのがキーマンとして予想した谷と阿部のベテラン勢の活躍。谷の先制本塁打に始まり、その裏には外人助っ人スレッジの同点弾。谷については、この試合3安打の大当たり。特に5~7回の攻防は玄人目にも見応え充分だった。2点差を追う日本ハムの攻撃で、代打・坪井の更なる代打で二岡が登場。安定感抜群の山口からファールで粘って、執念のレフト前タイムリーを放ち、二塁走者を還し、1点差(3-2)に詰め寄る。やはり大舞台に強く巨人に対する復讐心に燃えていた。役者が違う気がした。その直後、やはり巨人を追われた林が登板した。今度は昨年までバッテリーを組んでいた阿部との直接対決があった。阿部がセンター前にはじき返し、貫録を見せつけた。一死後、左キラーとして代打・大道がコールされると、すかさず梨田監督は、右横投げの江尻にスイッチ。すると今度は原監督が動き、代打の代打、切り札「李」を送った。この辺の駆け引きや作戦、采配は実に見応えがあった。李は期待に応え、突き放す一打(4-2)を放った。やはり、今日はもつれにもつれた。最終回万全を期して送ったクルーンが1点を失い、サヨナラのランナーが出た時は万事休すかと思ったが、何とかラストバッターを三振で切り抜け、大事な初戦を巨人が辛くも物にした。やはり、予想通り、先制点を取ったチームが圧倒的に有利に試合を運べたし、巨人の層の厚さが際立ったゲームだったと言えると思う。マスコミが騒いでいるように、日本ハムは連敗を避けるために、ダルビッシュを強行登板させるのか?順当なら内海、八木の両左腕対決だろう。巨人が敵地で勝ったことにより、断然巨人有利である。明日、巨人が連勝するようなことになれば、東京ドーム2勝1敗で優勝決定となり、それだけは日本ハムとしては何が何でも避けたいだろう。今日奮わなかった小笠原とラミレスの動向にも注目したい。

2009年10月24日 (土)

今日の釣果

 今日は寝不足状態で相馬まで往復したので、ブログを書く気力が失せました・・・

よって今日のブログは本日釣行した成果を写真にてお知らせいたします。

 場所:相馬沖堤防 1番  時間:4:45~12:25                                                                                                               

 釣果:28尾(持ち帰りは16尾)             

 どんこ3尾 ハゼ2尾 マコガレイ1尾 サバ12尾 小アジ8尾  シャコ2尾  計28尾

 <釣法>

 投げサビキ・投げ(胴突き)・投げ(天秤)・ルアー・ブラクリ

  Pa2412631

2009年10月23日 (金)

会津の魂(こころ)

 ちょっと前の話になるが、不倒不屈の精神で不死鳥のごとく甦った或るアスリートの記事がスポーツ紙の一面を飾った。その人の名は、今年8月に開かれた世界陸上の男子マラソンで日本人最高の6位に入賞し、見事復活を果たした佐藤敦之である。そのちょうど一年前、彼は地獄をみた。日本のエースとして全国民の期待を一身に背負い、北京オリンピック代表として同種目に出場しながらレース前の調整に失敗し、完走した選手の中で、最下位(76位)という屈辱的な結果に終わった。帰国後、彼はマスコミ各社に叩かれ、「日本の恥さらし」とばかりに強烈なバッシングを浴びた。あまりの仕打ちに、精神的にダメージを受け、一時は走るのが怖くなり、本気で引退を考えたという。

 しかし彼は、不屈の精神でどん底から這い上がり、奇跡的に立ち直った。彼を支えていたのは、「このままでは終われない」という意志の強さと同じトップアスリートとしてオリンピックに出場し、同時に女子800m日本記録保持者でもある妻の杉森美保の内助の功であった。瀬戸際まで追い込まれた彼を窮地から救うと共に、互いに励ましあい、気持ちを尊重し合った真の意味での美しき夫婦愛。この苦難と大きな人生の壁をも乗り越えた、まさに二人三脚で掴んだ復活だった。

 その彼は、何を隠そう福島県の会津出身である。その土地柄は、「ならぬものはならぬ」と代々伝わる会津武士道の厳しい精神を受け継ぎ、上下関係を尊び、礼節をわきまえるといった、古来からの作法や教え、躾までもが行き届いた所なのだ。そして会津人は忠義を重んじ、情け深い。この地出身の有名人では、「総理の椅子を蹴った男」として政治史にその名を残す大政治家の伊東正義や実直かつ頑固一徹でありながら反面、人情家でもある現民主党議員の「政界の黄門様」こと渡部恒三がいる。また、芸術の分野では、会津をこよなく愛し、郷土に根ざした純粋な作品を数多く残した版画家の斎藤清らがいる。こうした著名人を数多く輩出している会津とはどのような特徴があるのかと言えば、まず、四方八方を大自然の山々に囲まれた豊かな風土を持ち、厳しい冬の環境下にも人と人とが互いに助け合いながら生活する、いわば人付き合いの良さが際立ち、人情味に溢れている。そうした会津の気候や気質を如実に物語るに格好の言葉が存在する。それは「会津三泣き」である。ご存知だろうか?一つ目は転勤などでその地に赴くことになった者が「そんなに冬が寒くて自然が厳しい場所に行きたくない」と言って泣き、実際に訪れてみて、現実の寒さに直面して泣く。二つ目は、赴任した者が、「最初、頑固であまりにもとっつきにくく、閉鎖的な人間関係に泣く」。しかし一度馴染んでしまえば、その人の良さに感激するのだが。三つ目は、「生活するうちに会津人の人情の深さに触れ、最後は会津から出たくないと言って別れが辛くて泣く」のだ。

 佐藤敦之選手もこうした生真面目とも思える武士道精神を受け継ぎ、それを陸上競技でいかんなく発揮し、「会津魂」というものを全国的にアピールした結果となった。彼自身も礼節を重んじる生粋の会津人らしく、レース終了後は四方八方に深々と一礼する礼儀正しさは、観衆の感動を誘い、惜しみない大きな拍手が送られる。フルマラソンでは、2007年の別府大分毎日マラソンでの2位が最高位の彼ではあるが、いつか悲願の優勝を成し遂げて男の花道を飾って貰いたいと願うのは決して私だけではないだろう。また、これは余談だが、ご当地福島県には、陸上で名を馳せた各選手がたくさんいる。古くは東京オリンピックで銅メダルを獲得し、その後、国民の信託に応えられないと自らい命を断った須賀川出身の円谷幸吉選手、我が後輩でもあり、一時は日本のエース格にまで熨し上がった富士通の藤田敦史選手、3年前まで正月の箱根駅伝で、五区山登りにおいてぶっちぎりで快走し、「山の神」とまで言わしめた小高町出身の今井正人選手、更には今年の箱根駅伝で、もはや記録更新は不可能とまで言われた今井選手の記録をあっさり破った、東洋大学優勝の立役者・一年生エースの柏原竜二選手(いわき市出身)など錚々たる顔ぶれである。

 思わぬところで脱線したが、ところで私は、会津は「心の故郷」だと思っている。なぜなら私の祖父は、会津磐梯町の出身で、旧制会津中学を卒業した。伊東正義はその時の一年後輩で、それ以来お互い政治の道へ進み、伊東氏が亡くなるまで親交が続いた。また祖母は、会津河東町の農家の出身。その後結婚し、郡山に移り住んだ。会津魂が骨の髄まで染みついた典型的な明治人で、剣の道を究め、師範としても長くその名を刻んだ、それは立派な祖父だった。その古来からの会津人の精神を、私の代まで脈々と受け継いだ。したがって、私自身の身体にも、そうした会津人気質の血が隅々まで流れている気がしてならない。会津には、当時の藩主・保科(ほしな)正之が掲げた「家訓15カ条」という御触れがある。一節を紹介すると、その冒頭に「大君の儀一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず」とある。会津人としての本懐を示したものだ。また「主を重んじ法を畏るべし」「法を犯すものは許すべからず」など秩序ある武家訓を謳っている。これを教訓として、会津人の「ならぬものはならぬ」の精神が根づいたのだと思う。

 最後に、幕末期の騒乱に巻き込まれ、戊辰戦争に駆り出され、若くして戦場に散った数多くの会津人の魂を想い、「鎮魂」の意味で、私が以前に書き綴った詩を紹介して、結びとしたい。この詩を戊辰戦争で亡くなったすべての会津藩士に捧ぐ。

白虎の魂 飯盛の地に果てぬ  ~峠の虚像~

時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世 
倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
その存在を世に知らしめた新撰組
戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった

禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転

慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に 
錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
城を抜け江戸へと逃げ帰る 
あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意 
会津は後ろ盾を失い 京を追われた
やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ 
倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった

「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
その猛威の前に退却を余儀なくされた

奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
それが会津人の魂
その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
「ならぬものはならぬ」の尊い教え
よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
誰一人として想像した者はいなかった

やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図

戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷 
そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前 
息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
それこそが武士道 それこそが武士の本懐
かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った

僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
死んでいったに相違ない
悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった

時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
もうひとつの悲劇があった
妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
壮絶な最期であったとされる

「なよ竹の 風にまかする身ながらも
           たわまぬ節はありとこそ聞け」

その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった

あれから百数余年が経ち 
平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
遠い昔の出来事が現世に甦る
旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡 
柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み 
霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
しかと見届け脳裏に刻み込む
そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
今も後を絶たない 
そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
後世まで語り継がれることとなった

志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした

終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
死んでいった多くの防人たちの魂の叫び 
今もこの胸に去来して止まず
その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている

彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである


「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」

 薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である

2009年10月22日 (木)

私の受験回顧録

 今から時を遡ること25年前の3月の或る朝、私が徹夜で受験勉強をして爆睡していると、突然父親が階段を駆け上がってきて、ドアを開けるなり、「SUZU(仮名)、○○大学当たったって!」と興奮して私に教えてくれた。しかもその吉報は、当時別居していた祖父が新聞に私の名前が載っているのを見つけてくれ、電話で父親に伝えてくれたものだった。その瞬間、一年間に及ぶ浪人生活の蛍雪の功が成り、ようやく苦しみから解放されたことを実感した。そして二年越しの受験勉強に終止符が打たれたことが何より嬉しかった。しかしその日、東京にある別の大学の試験を控えていて、既に受験料を払い込んでいたため、歓びの余韻に浸っている暇もなく、私は新幹線(当時は大宮発着)に乗り込み再度上京した。その日受験したのは、天下に名を轟かせる「青山学院大学」。どうせ合格する筈はないと半ば記念受験気味だったし、渋谷という若者の憧れの地にキャンパスを構えていたことから、たぶん観光旅行気分で行ったと思う。第一志望だった大学の合格の報を聞いたばかりだったので、安堵感と余裕があった。

 ところが、一つ気懸かりなことがあった。私が合格を果たしたその大学は、北海道と東京に校舎があって、入試の得点が若干不足の場合は、北海道にあるキャンパスで2年間の教養課程を過ごさなければならないのだ。一応保険の意味で、北海道への移行合格も希望していたが、新聞に合格の記事は載ったものの、その合格通知の書類一式が自宅に届くのが、翌日のことで、すなわち青山学院大学を受けに行ったその日のことで、まさに入れ違いの状態だった。本音を言えば、東京暮らしには昔から憧れがあり、一生に一度は薔薇色の大学生活を東京で過ごしてみたい。いろんな体験をしてみたいし、いろんな人と出会ってみたいという気持ちが無性に強かった。当然、郡山という地方都市だけで「井の中の蛙」では終わりたくなかった。でも心のどこかに、滅多に行く機会は皆無に等しいだろう北海道にも少なからず魅力を感じていた。

 青山学院の入試は、心にゆとりがあったせいか、思いのほか簡単だった。高校生の時に、普通科ではなかった私は、古文は授業時間数が少なく、それは外国語より難しい代物だった。従って、私は国語に自信がなく、入試を社会と英語の2科目で受けた。社会は政治経済を選択したが、そちらは大得意だった。政経だけで合格したのではないかと思えるくらい自信があった。思えば浪人時代は、予備校にもろくに通わず、開成山公園のベンチや市役所の展望台で独り、勉強していた。「人から教わることはあまり覚えていないものだが、必要に迫られ、自ら覚えようとして取り組んだものは忘れないものだ。」ということをこの時期に学んだ。そして12月頃からは、夜中に当時、一世を風靡していたラジオの深夜放送「オールナイトニッポン」、3時からの「いすゞ歌うヘッドライト」を聞きながら、夜明けまで受験勉強に打ち込んだ。この頃になってようやく、地元のラジオ福島では深夜放送のネット放送を開始した。ちなみに私が好きだったDJは木曜日深夜の「ビートたけし」、土曜日の「笑福亭鶴光」、そして「石渡のり子」さんだった。特に、深夜の生リクエスト番組「いすゞ歌うヘッドライト」のオープニングソングとエンディングの「夜明けの仲間たち」は当時、深い思い入れがあり、テープに録音していた。長距離トラックの運転手のドライブの友だった長寿番組だった。

 受験が済み、心臓がドキドキの状態で自宅に確認のTELをしたところ、やはり、点数が足りず、北海道への移行合格だった。東京からこの一報を聞いたので、何か複雑な心境だった。北海道は2年間通うだけで、残りの専門課程の2年間は、無条件で東京で暮らすことが可能だったので、すぐに気を取り直した。結局、第一志望の大学に入学金や授業料を含めた初年度納付金75万円を振り込み、入学手続きを完了した。どうせ青山学院に合格できる筈はないと思っていたし、事実その合格発表は、第一志望の入学手続きが締め切り後だったため、待っていられなかったのである。ところが・・・何とその数日後、私の元に青山学院大学の合格通知が届いてしまったのだ。これには驚愕そして落胆。まさかまさかである。失敗した・・・早まった・・・・と何度も思ったし、「もったいない」と悔やんだ。しかし、親が苦労して用意立ててくれた75万円を今更取り戻せないし途方に暮れた。しかし、冷静に考えると実は青山学院大学は、受験科目に関して自分の得意科目で学科を選択して受験してしまったので、本当に自分が学びたい学科(将来自分が就きたい仕事に結びつくもの)ではなかったのだ。残念ながらそこは経済学部だったのだ。でもやりたいことは他にあったし、なまじ経済を取れば、大の苦手な数学を是が非でも勉強せざるを得ないことなどから考えて、最後は納得した。

 結局その年は、現役時代に落ちた東北学院大学にも補欠合格した。また、専修大学にも願書を出していたが、東京に受験のため連泊して試験日を待っている間、大雪で交通網が麻痺してしまい、行くのが面倒くさくなって辞めてしまった。また、横浜への憧れも強かったので、現役時代と浪人時代の2年間に渡って、金沢八景というお洒落な場所にある関東学院大学も受験したが、なぜか2年連続で不合格となった。ここはどうも相性が悪かったとしか言いようがない。4校受験し、一番偏差値が低かった(SS48)関東学院だけが不合格で、上は当時、偏差値65もあった青山学院に合格してしまうという恐ろしさ。

 私は2年間、大学受験にチャレンジした訳だが、その時、学んだ教訓めいたことは、「努力は嘘をつかない」ということと、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということである。神様はよく見て、その人に見合うだけの結果を与えてくれるという事実だ。この2年間やり遂げたことは、その後の自分の生き方に大きな影響を与えたし、確かに苦しかったけれども頑張りぬいたという自信につながった。今、仕事でちょっとした壁にぶつかっても、あの時の苦しみから比べれば、何でもない。目の前の壁を余裕で乗り越えられる気がしてしまう。何事もやはり経験がものを言うということをこの時期に身を持って知った。

 その後の大学生活は、今から思うとやはり薔薇色だったのだろう。2年間という限られた期間を有意義に過ごそうと、1年目から北海道で行動を開始した。バイクを駆って、至るところへ旅をした。特にテレビドラマのロケ地になったような場所にはすぐ飛びつき、赴いた。バイクは行動半径が広い。当時の北海道は札幌だろうがどこだろうが、駐車禁止区域でも「二輪は除く」だった。北は宗谷岬、東は納沙布岬、東は襟裳岬、そして南は世界三大夜景として知名度抜群の函館まで、ありとあらゆる観光地、知られざる秘境にまで足を伸ばし、隅々まで見て歩いた。北海道の大自然の懐に抱かれて過ごせる幸福感、そしえ真冬の北海道の厳しさと荘厳さは、現在の私の基礎を形成してくれている気がしてならない。あの時の受験勉強の苦しみがあったからこそ、北海道を思う愛しい気持ちもまた一入なのだと思う。

 その考えは、東京キャンパスに移ってからも生きた。渋谷から新玉川線で二つ目の「三軒茶屋」に住み、東京もいろんな場所へバイクを走らせた。幼い頃に亡き父親に連れて行ってもらった思い出の場所や女友達をバイクの後部座席に乗せ、タンでデムで京浜島までツーリングしたこともあった。しかし、勉学を疎かにしていたことは一度もなく、講義をサボったというような記憶もさほどない。至って真面目な学生だったと自分では思っているが、3年時終了時点で、ほとんどの単位を取得していて、4年時からは或る取得を取るために特別講座を受講していたのと、残りは卒論だけだった。その後、或る公務員の採用試験や就職活動も入って来た。他の免許や資格取得に感けてかなり忙しい時間を過ごした。更に、一時期は俳優に憧れて、或る劇団のテストを受けて合格したこともあった。稽古費用がままならず、短期間でやめる羽目にはなったが、これも今となっては貴重な経験をした。このようにありとあらゆることに自ら首を突っ込んでいた。しかし、そんな多忙な時期にあって、あえて私は更に、より険しい道を選んだ。新宿センタービルの43階にある、とある会社で長期間ではなかったが、アルバイトをしたのだ。それは京王観光系列の旅行会社で、当時「男女7人夏・秋物語」が流行っていて、主役の明石家さんまが扮する今井がツアーコンダクターの役を演じていた。それを見て不覚にも憧れを抱いてしまったのだ。幸いなことに、バイトの身でありながら、係長が大学の先輩だったという偶然。さらに課長さんにひどく可愛がってもらい、新宿のヒルトンにある超高級バーに連れて行ってもらったりもした。最後は、卒業間近には、「正社員として採用するからウチで働いてくれ」とまで言われていた。その会社の業務は、旅行のツアーを計画し、実際の添乗も行う。更には、顧客の要望に応じて、当時バブルの絶頂期で空前のスキーブームもあり、彼女とふたりでお洒落なペンションやロッジ、そしてホテルを予約して押さえるという代行業務を仕事として行っていた。当時は、こうした旅行業界は花形だった。今思うと、そのバイトの日々は夢のようだった。初めて体験する満員電車に揺られ、渋谷駅乗換で山手線にて新宿へ向かう。新宿駅で乗降し、新宿高層ビル街をオフィス戦士達と肩を並べて闊歩し、会社までのいわば勝ち組ストリートを歩くのだ。そして会社はというと、新宿の中でも一等地にある、超高層ビル群の一角。しかも最上階近くの地上200m近い展望フロア。そこから見下ろす大都会東京の景色は格別だった。眼下にいる人や車の群れは、小さな蟻の如く見え、大小様々なビルが取り囲むが、どれもセンタービルの比ではなかった。また、その景色が一番映えるのが夕景から夜景だ。まるで宝石を散りばめた様な輝きを放つ。遠くにキャンドルライトのような東京タワーの赤と白、建設中で半分ほど膨らんだ東京ドームの白テントなど夢にまで見た景色が眼の前にあり、大東京を独り占めしているようだった。その大パノラマたるや言葉が出ないほど。溜息のドリームナイトといった風情を醸し出していた。一生この街で暮らせたら最高だろうとさえ思えた程だった。

 しかし、運命の歯車が動き出し、郷里からこの上ないような美味しい就職話が舞い込み、そこで都会の未練を断ち切り、地元へ舞い戻って来たのだ。それからは県内各地を転々とする転勤の多い身の上。須賀川1年、会津1年、勿来に4年、船引に6年、地元郡山に9年間通った。今春からまた、居住地・郡山を離れ、通勤時間が15分程度の郡部にある現在の職場に顔を出している。今年、勤続20年目となり、ようやく賞を頂いた。考えてみればもうそんな年である。今は、このようなブログを夜な夜な書ける余裕と月2回程度出向く海釣りという趣味に溺れる日々を送っている。人から見れば、羨ましがられそうだが、こうした生活を築けるようになったのも、若い時分に苦労をして来たからだと思う。それが今の自分を間違いなく支えていると思っている。「若い時の苦労はお金を出して買ってでもしろ」と言われるが、この年になるとようやくその意味を理解できる。

 受験勉強もきっとそうだろう。現在、受験真っ盛りで、今すぐにでも現状から逃避したいとか思っている受験生もいることだろう。だが、その苦労を乗り越えた先には、きっと明るい未来が待っていることだろう。これまで体験できなかったことにもチャレンジできる機会が待っていると思う。ぜひそれを信じてあともうひと踏ん張り頑張ってみよう。ここでその困難や壁から逃げてしまうと、一生同じことを繰り返す人間になってしまうと思う。そうした時に人間は成長し、また一段大人へのステップを上がれると思う。「夢に時めけ!明日に煌めけ!」という映画のフレーズがきっと実感できる日がもうすぐあなたを待っている。自分を信じて、人を信じてもう一息・・・・。最後に、頑張っているあなたへこの言葉を贈ります。 GOOD LUCK TO YOU!

2009年10月21日 (水)

福島「発電地帯」

 福島県の地図を広げると東(浜通り)は太平洋、中央(中通り)は高速交通ネットワークが整った盆地、西(会津地方)は奥羽山脈が連なる山岳地帯というように、極めて起伏に富んだ地形をしている。そこには大自然の恵みである海の幸、山の幸がふんだんにあり、食材の確保には事欠かない。果物もたわわに実り、自給自足や地産地消を昔から先進的に実践している土地柄でもある。

 また、このような自然の地形を生かし、福島県内には原子力、火力、水力、風力、そして地熱までも利用した発電所が点在しているのが特徴となっている。特に太平洋沿岸部は、日本でも有数の大規模な原子力発電所が2か所、火力発電所が4か所設置され、主に首都圏に向けて電力の安定供給に努めている。一方、阿武隈山系や福島や郡山といった都市部近郊の山間の高原には、風力発電所がある。人畜無害で作りだされたクリーンエネルギーの代表選手で、地球温暖化防止の観点からも今後ますます必要性や需要が高まることは容易に想像できる。

 更に、ダムによって一旦堰き止めた水を山の斜面の高低差を活かし、落下させた時の水圧を利用して電力発生用のタービンを回し、発電を行う水力発電所は、福島市北西部の摺上川や郡山近郊の磐梯熱海温泉界隈、猪苗代湖北部の裏磐梯周辺に数多く存在する。そしてまた、会津若松の西部に位置する柳津町には、日本では珍しい地熱発電所も既存の施設として現存している。


 それでは日本の総電力に占める発電源別の割合はどうなっているのかというと、2006年時点の統計では、火力(石油・石炭・天然ガス)が59.9%を占め断トツのトップ。次いで原子力発電が30.6%、水力が9.1%、そして残りの0.9%がその他の発電(地熱・風力・太陽光などの新エネルギー)という具合である。平成19年度の福島県内の発電所が作り出す総発電量は、1,240億1400万kwで、驚くなかれこの数字は都道府県別では堂々日本一を誇っている。これは面積が広く、発電所の建設に必要な土地の広さを備えていることや人口密度が低いこと、なおかつ地震などの自然災害が少ないことなど設置に必要な条件(ガイドライン)を満たしているからにほかならない。しかし、福島県沖はご承知の通り、北米プレートと太平洋プレートの境目があり、地震の頻度が高い地域である。それにもかかわらず、発電所がやたら多いのは何故だろうか?種明かしをすれば、福島県は地盤がかなり強固で、福島県沖を震源地とする、震度3~5程度の揺れには十分耐えるくらい安定しているのだ。元から液状化によって地盤沈下などが起きづらい地層なのだ。逆に言えば、始めから震度6以上の大地震は起きないだろうという想定で安全基準が設けられている。


 今後、ますますの需要、およびその増設が見込まれる原子力発電所であるが、特に福島県の太平洋沿岸部には、大熊町にある東京電力福島第一原子力発電所と富岡町にある同福島第二原子力発電所を抱えている。両方を合わせれば、その出力は約9,100万kwにも達し、第2位の新潟柏崎刈羽原子力発電所(8,212万kw)を凌いで全国トップである。これは日本全国の原子力発電所が産出する発電量の約20%に値し、それだけ多くの電力を福島県内の原発で賄っていることになるから、ある意味とてつもなくすごい数字なのだ。これに火力発電所(常磐共同162万kw・広野380万kw・原町200万kw・相馬共同200万kw)を加えれば、相当な規模になる。一部東北電力も含まれるが、大部分は東京電力の施設で、東京を始めとする首都圏への電力供給のための施設が、何故か福島県内にある訳なので、福島県民からすると多少の違和感を覚えるだろう。


 しかし反面、地元へ与える影響や公害問題、そして招かれざる副産物に対する心配は絶えず付き纏う。例えば、一度燃やした核燃料からプルトニュウムを抽出する工場、いわゆる再処理工場の建設や高レベル放射能廃棄物の最終処分場の建設問題があり、またチェルノブイリ事故に代表されるように、死の灰を降らせる事態に陥ってしまう危険性が指摘される原発事故。また、1999年に実際日本でも起きてしまった東海村のJCOの臨界事故では、従業員が放射能を浴びて被爆し、2人が犠牲となった。更に、福島県でも前知事が再三の東京電力からの要請にも、安全面の理由から頑として首を縦に振らなかった「プルサーマル(プルトニュウムを核分裂させ、発電を行う)」計画など、こうした安全上の課題がクリアーにならない以上、地元住民の不安は解消されることはない。


 ところで海釣りを趣味とし、これまでに70回以上も釣行を繰り返している私にとって、これらの問題はとても身近で、ともすれば死活問題に発展しかねないような危機さえ感じる。それは火力にせよ原子力にせよ、発電の際には増殖炉やタービンの過熱による爆発や火災を未然に防ぐために、それらを冷却するための大量の海水が使用される。その使用済みの温水を排水として、そのまま海へ流し込んでいる。無論その周囲の海水温は上昇し、冬でも様々な種類の魚が根着き、また回遊する。海水温が高い区域は、プランクトンが増殖し、それを食べる小魚が集まり、更にその小魚を餌とする大型のカンパチやヒラマサ、スズキ、クロダイなどの人気の魚を呼び込む。いわゆる食物連鎖が起こる。県内には広野、原町、新地の各火力に「釣り公園」を整備し、多くの大物狙いの釣りファンが多数詰めかけ、連日ごった返している。各電力会社は、大規模な発電所建設の見返りとして、このようなレジャー施設を併設して地元に提供したり、その従業員を現地採用で行うなどして、地元へ還元しているのだ。また、広野火力がある楢葉町には、道の駅や温泉保養施設があるが、こちらへの資金提供も行っており、更にはJビレッヂなるサッカー専用の練習施設までこさえて、地元の繁栄に加担し、なおかつ貢献をしているのだ。もちつもたれつの関係が成立することになる。でも実際問題として、そうした場所で釣れた魚は食用として食べて大丈夫なのだろうか?原発の温排水の安全面は確認できているのか?もしその排水が多少なりとも放射能に汚染されていたとしたら・・・そう考えるだけでぞっとする。


 いくら資金を地元に落とし、見返りに箱物を贈って地域貢献したからといって、地産地消でもない単なる首都圏への電力供給ために、わざわざ茨城や福島といった常磐エリアにそれほど多くの発電所を集中的に建設する必要があるのかが理解に苦しむところだ。まして安全保安の面で保証もできないような得体の知れない「プルサーマル導入」などはもってのほかで、おしなべて異次元の話である。現知事は青森県六ケ所村を例に、「どこかがやらねばならない」という寛容姿勢で臨むらしいが、この原子力発電に関する知識がどこまで備わっているかは未知数だ。したがってこのような重大事案に対しては安易な発想ではなく、努めて慎重に判断して貰いたい。特に直接被害を被るであろう地元住民の意見に十分耳を傾け、必然性はどの程度なのか、なぜ福島県でそれを引き受けるのか、などの説明責任を果たし、その安全性と危険度を包み隠さず明示し、十分な議論を重ね、ひいては住民投票などで理解を得た後に最終決断という手順で決断を促したい。これをせずに、いきなり大上段に構えて、知事権限を強硬に発令したところで、反発は必至である。もはや弱者切り捨ての政治手法では、道理は通らないだろう。ここはひとつ民主的な話し合いで解決の糸口を見出して貰いたいものだ。


 最後に、性急な地球温暖化防止策が世界中で叫ばれる昨今、日本は敢えて先頭に立ち、棘の道を突き進むことを首相自らが選択し、宣言したばかりである。具体策や勝機、突破口はあるのか?当然、環境に優しい新エネルギーの開発とその運用に向けて速やかな移行が求められる訳だが、その財源はどこから捻出るのか?新エネルギーの開発では、その担い手として期待されているのが風力発電と太陽光(ソーラー)発電である。これらは、もっともクリーンで環境への負担が少なく、燃費効率も優れていることから、最近富みに脚光を浴びている。更には火山国である日本、温泉景勝地が多い福島県では、実用性が高いのが蒸気の噴き出す熱を利用した地熱発電も自然のエネルギーを効率よく活用できるので有力である。日本では希少だが、海外などでは干満の差を利用して発電を行う潮汐発電があり、これも自然現象をそのまま利用している点で価値は大きい。無用な温室効果ガスや二酸化炭素の排出量は皆無に等しいからだ。


 しかし、新エネルギーに代替したところで、完全解決とはいかず、まだまだ課題は山積している。その建設に伴う立地場所の確保、一見無害に見える風力発電ですら、実は夜中の高周波騒音(風切り音や風車を回す時のモーター音)に伴う健康被害の問題が露呈している。そして風力発電用の大型の風車の設置の為に、森林を伐採したりといった環境破壊も負の材料となる。また、電磁波が人の健康にどのような悪影響を及ぼすかはまだ明確にはわからない状況である。太陽光発電は、寒冷地などでは日照時間に左右されやすく、真冬の積雪によっては用を足さなくなる。ソーラーパネル自体も未だその価格は高価で、購入は経済的にゆとりのある家庭に限られてしまうほか、パネルの耐久年数も半永久的とはいかない。そう考えればどれも一長一短である。エネルギー問題を考える時に、どこかにしわ寄せが行くのは必然で、やはりある程度の妥協やすり合わせが求められるだろう。


 電化製品の開発や普及で暮らしが便利になるのは確かに良いことだが、その分間違いなく消費電力は増大する。エコポイント導入で、エネルギー効率を考えた製品が市中に出回っているようだが、やはりそれに見合うだけの発電量は必要である。もともと電力は作り置きや貯めておくことが出来ない。発電量が増大することは、地球温暖化防止の考えにまるっきり逆行することで、地球にとってもマイナス材料である。いくら発電方法に革命があったにせよ、それを使いこなす人間が、相も変わらず旧態依然の生活を継続していれば、地球温暖化への対策など夢のまた夢である。そこには発想の転換も必要だろうし、生産だけに終始してきた作り手(メーカー)側の責任も重大なのである。今、お互いが住みやすい環境の為に何をなすべきかを真剣に考え、行動するような機運の盛り上がりが大事で、むしろ一人ひとりの些細な努力から始めれば、最終的に真の温暖化防止につながっていくのではないだろうか。

2009年10月15日 (木)

自動車業界の光と影

1964年、東京オリンピックがアジアで初めて開催された。第二次大戦終結から19年後、日本がようやく敗戦のショックから立ち直り、名実ともに復興を果たし、国際社会への復帰を成し遂げた瞬間だった。その東京五輪の前後、日本は朝鮮戦争の特需以来の好景気に沸く。1955年から約2年間続いた神武景気、1958年から3年ほど続く岩戸景気、そしてこのオリンピック景気、成功裏に終わった後も1966年から5年ほど続いたいざなぎ景気というように、オリンピック開催が決定となった後から首都圏を中心にインフラ整備が進んだ。特に「夢の超特急ひかり号」として期待が大きかった東海道新幹線(東京~新大阪)や突貫工事で行われた首都高速道路が次々竣工となり、高速交通網が着々完成し、今から想像するに、当時の人々は夢と希望に満ち溢れた、或る意味、古き佳き時代だったと言えるだろう。

この東京オリンピックを契機とした一連の好景気を総称して高度経済成長期(1955~1973)と呼ぶが、内需拡大に伴いGNPが増大し、庶民の懐具合も潤い、個人所得も大幅に向上した。人々の暮らし向きが良くなり、いわゆる家電の三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)が世間に普及するようになったのもこの頃だ。その時代の繁栄を支えていたのが、鉄鋼業(新日鉄・日本鋼管・川崎製鉄)や機械工業、重工業、さらには石炭産業から移行した石油化学工業だった。初期の頃は公害問題が深刻化するという負の遺産もあったものの、国民は一様に伸びゆく「日本の未来」に多くの夢を馳せ、地方からは出稼ぎ労働者や集団就職による若い労働力が都会に流入し、それはそれは活力に満ち溢れていた。

その後、産業界も貿易黒字を溜め込み、外貨を獲得するようになると、経済的にも国際社会の中で中心的な役割を担うまでとなり、やがて先進国の仲間入りを果たすことになる。その産業界をリードしたのが、紛れもなく自動車産業だった。そして1960年代には、三種の神器を引き継いだ3C(カラーテレビ・クーラー・カー)が時代の寵児としてもてはやされるようになった。その頃にこの自動車産業の繁栄ぶりを示す格好の歌が登場した。それは小林旭の「自動車ショー歌」である。車名を唄の歌詞にコミカルに盛り込んだ曲で、一度は耳にしたことがあるだろう。やがて1970年代に入り、「日本列島改造論」を引っ提げて田中角栄が首相に就任。全国的に高速道路や新幹線が整備され、ますます自家用車の需要が増え、それと同時に車の利便性が高く評価されるようになり、もはや車は一家に一台の時代となった。このことは、同時にいわゆるマイカーの時代が到来したことを意味していた。そこで今回は、これまで日本の経済界、産業界をリードしてきた国産の自家用自動車に限定し、市場の移り変わり(変遷)と販売事情に関してさまざまなアングルから各項目に分けて考察していきたいと思う。

まず、60年代から70年代にかけては、自動車業界は時代のニーズに合わせた車づくりを目指していた。普通乗用車の生産はトヨタと日産自動車、三菱自動車の三社が担い、ホンダ、スズキなどは二輪と軽四輪というように政府が過当競争で共倒れにならないよう保護的な枠組みや線引きを行っていた。特にその時代は、デザインや形状をとことん追求し、若者にターゲットを絞ったスポーツカー部門とあくまで実用性や利便性を重視し、実社会への普及を目指した一般ユーザー向けのファミリー部門車というように両極端だった。今から思うと、もはや死語となり、懐かしい響きすら感じるスポーツカーは、当時若者の夢であり、「憧れの車」というコンセプトから開発された。特長としては空気抵抗を極力抑えた流線型で、2枚ドアのクーペ。代表的な車は、コスモスポーツ、フェアレディZ、トヨタ2000GT、マツダRX-7、いすゞ117クーペ、そしてスカイライン。80年代に入り、本田宗一郎の念願が叶い、基本的に自動車製造の寡占製造が廃止、排気量による製造制限も撤廃となり、どのメーカーでも自動車の製造に関しては原則自由化されたのを機に、開発競争が一気に激化。ホンダがスポーツ性能重視のCR-X、大衆向けのインテグラ、国産最高峰のNSXというスポーツカーを発売すれば、トヨタも無改造でそのままサーキットを攻められそうな走行性能やレスポンスを重視したMR2、ハイラグジュアリーなセンスとスタイリッシュさで若者に絶大な人気を誇ったソアラ、初のリトラクタブルライト搭載のセリカXX(その後はスープラに移行)、映画で取り上げられスキーにも引っ張りだことなったセリカGTFOUR、軽くて峠道をドリフト走行も可能な懸架方式(FR)で、今も中古車市場では高値で取引されているカローラレビン、その姉妹車のスプリンタートレノを次々販売した。そして更に、一時期ではあるが安上がりで軽量化に踏み切ったサイノスやカレンも開発され、販売台数を伸ばした。また日産は、完全に若者ユーザーにターゲットを絞ったエアフォース・シルビア、その姉妹車で、丸みを帯びたボディーが印象的な180SXが爆発的に売れた。町でシルビアを見ない日はなかった。セフィーロもまた2枚ドアのクーペだった。そしてトップクラスの加速性能や0→400m(ゼロヨン)では他の追随を許さない夢のスポーツカーが今もバリバリ現役のスカイラインGT-Rだった。また、レパードはソアラの対抗馬だった。一方、三菱はあくまで独自路線を貫き、ランサーを一般大衆向けのクーペとして開発。その後ハイクオリティのレース仕様車として市場に投入したレボリューションは根強い人気を誇っている。また、インプレッサも手頃なスポーツカーとして人気がある。スタリオンも他社にはない奇抜なモデルだった。そして満を持して登場したのが次世代4WDスポーツのGTOだった。同グレードの最高峰、日産スカイラインを異常なまでにライバル視しかつ意識したこの車は、コンセプトから価格帯までもが酷似していた。その後FTOも発売された。

またファミリー部門では、大衆向けの4枚ドアのセダンが普及した。一番売れたのはトヨタカローラ(セレス)である。その兄弟車のスプリンター(マリノ)も市場を席巻した。カリーナやコロナ、プレミオも大衆車の最たる車。広島に本拠地を置くマツダはファミリアやペルソナ、三菱はミラージュとギャラン、ホンダはアコードやアスコットがそのクラス。日産はサニーがカローラの好敵手としてこのグレードの市場を独占した。ブルーバード(ARXを含む)やパルサーもまた街角でよく見かけた。その後、プリメーラやプレセアもファミリーには人気が高いセダンとなった。スバルはレオーネを販売していた。マツダは大衆車カペラやクロノスが売れ筋だった。この頃は女性や大衆向けの取り回しが楽なコンパクトカー部門にもメーカー各社は新車を導入し、販売台数は急激に伸びた。その旗手としてチョイ乗りや街乗りに最適なホンダのシティやシビックが爆発的に売れ、ハッチバック式の車も登場し始めた。後にSM-Xがバカ売れし、最近はフィットが好調に売れている。また、可愛いスタイルから女性の人気を独り占めにした日産マーチ、独特なスタイルが若い世代に受けたBe-1、パオ、フィガロ、商用としての使い勝手のいいカタツムリ型のエスカルゴもよく売れた。トヨタは、それまで高級志向が強かったが、他社に押され、かっとびスターレットを始め、コルサやターセルという低価格な大衆車も世に送った。最近ではVitzが好調のようだ。一方マツダはデミオが主軸でダイハツはシャレードだった。

80年代半ばには、セカンドカーとしての位置づけや奥さまや初心者の女性にターゲットを絞った軽乗用車が多くなった。ダイハツミラ、ムーブ、スズキアルト、ワゴンR、三菱ミニカ・トッポ、ホンダトゥディが挙げられる。マツダAZワゴン、若い女性の圧倒的支持を取り付けたピンク色のキャロルなどが台頭した。スバルはヴィヴィオやプレオで対抗した。

その後80年代後半のバブル期には、経済的にゆとりができたユーザーがこぞって購入した高級車がもてはやされた。いつかはクラウンを筆頭に、高級志向のセルシオ、政治家やヤクザ御用達のセンチュリー、サラリーマンにも手が届くマークⅡ、チェイサー、クレスタ3兄弟、プロミネント、カムリ、ビスタ、ウィンダム、アリストなど。日産はシーマを頂点にプレジデント、クラウンとライバルのセドリック、グロリア、マークⅡクラスのライバルのローレルがもてはやされた。ホンダはレジェンドに加え、アコードからのハイコンセプトとして開発されたインスパイヤーやビガーが飛ぶように売れた。スバルはレガシーを切り札として発表し、三菱は「あの車とは違う」というキャッチフレーズでBMWの真似ごとではないことを懸命に訴えた、ガチでクリソツのディアマンテがかなり人気を集めた。デボネアは年配ドライバー向き。

この頃はメーカーにも余力があり、次々と個性的な車を発表した。当時オープンカーの代名詞となったマツダ(ユーノス)ロードスターは物珍しさと希少価値とがあいまって一時期、爆発的ヒットとなった。また、軽ながら独自路線のオープンカー、ホンダビートやスズキのコンパーチブルカー・カプチーノもまた、ユーザーのハートをがっちりと掴んだ。トヨタは日本車初のガルウィングドアを採用したセラを発売して話題を呼んだ。ダイハツはコペンを発売し、女性ユーザーが飛びついた。

90年代に入るとバブル崩壊が自動車業界にも深く影を落とし、高級志向にも翳りが見え始めた。ところが、若い世代を中心に新たなジャンルが脚光を浴びることになる。それはクロカンブームである。4WDで雪道に強いRV車とかSUVと言われた車たちである。空前のスキーブームが起こり、それが後押ししたことは言うまでもないが、この手の車は車重があり、場所を取るとか小回りが利かないなどの短所もあったが、スパイクタイヤが粉塵問題により緊急自動車を除くすべての車での使用が禁止となり、スタッドレスでは心もとないユーザーにとっては冬の雪道では心強く頼りになった。代表的なのは火付け役になった三菱パジェロで、その後Jr.やミニまで出した。陸上自衛隊を彷彿させるJEEPもまた根強い人気があったし、新規開発のRVRは、小回りが利いて新境地を開くまさにレクレーショナルビークルだった。現在は、アウトランダーが大人気である。トヨタはクロカンRVの代名詞として一時代を築いたハイラックスサーフ、ランドクルーザー、プラドなど大型化し、リフトアップ車まで世に出回った。その後、高級志向のハリアー、軽快なRAV4、最近ではクルーガ―なども大ヒットとなった。日産と言えばミスターRVのテラノが売れに売れた。大型ではランクルーに対抗してサファリ、面白い位置づけでは荷台が外にあるダットサントラック、現在はその火を消さないようにエクストレイルが引き継いでいる。ラシーンも独自路線を行くユニークカーだった。また、いすゞ自動車はビッグホーンやコンパクトなのに横幅があるミュー、ビークロスもまた面白いユニークな趣向の車だった。ホンダはCR-VRAV4の対抗馬としてぶつけた。また、HR-VというGoodデザイン車も登場した。マツダはこの分野への進出は出遅れたものの、後にトリビュートで巻き返しを図った。スズキはスポーツメーカーやファッションメーカーとのタイアップで限定車を多く発売したが、その代表格はエスクードだった。更に軽のクロカンは当時斬新だったジムニーも売れた。スバルは最近フォレスターが市場に出回っている。しかし、繁栄を極めたRVもスキーブームが下火になるにつれ、大型車だけに、特に燃費が悪く、街乗りでは使い勝手が悪いこともあり、徐々に姿を消した。

また、この時期はRVに近い存在で、荷物スペースが広く取れるステーションワゴンが流行った。その代表格は、スバル重工のレガシーのステーションワゴンだった。そしてトヨタは、コロナのバンとカリーナをベースに改良を施したカルディナが町を闊歩した。ビスタは生き残りをかけてアルデオを発売した。ホンダはアコードワゴンが相当数世に出回っていた。日産はアベニールを皮切りにやがて新しく開発されたステージアが現存している。三菱はリベロやハイラグジュアリーなレグナムが流行った。

やがて2000年を迎えると、ワゴン車やミニバンが脚光を浴びることになった。これは若い世代の車離れや少子化により、スポーティーな車の需要が見込めなくなったメーカーが、かつて車の虜となり、相当のめり込んだユーザー達が家族を持ち、通勤にも使え、家族揃ってのお出かけやレジャーにも使えるというコンセプトから誕生したジャンルである。ワゴン車では、昔から箱形のハイエースはあったが、どちらかというと商用車のイメージが強かった。それをオシャレに改善し、内装もハイソサエティ化し、8人乗りの定員を確保し、シートアレンジにも気を配った。そしてラゲージスペースにも配慮した。代表作はトヨタのライトエースとタウンエースの姉妹車。それがやがて爆発的ヒットとなるエスティマへと引き継がれた。その後、高級車レジアスやアルファード(ベルファイヤー)も重用された。また、この分野でおそらく旗振り役をしたのは三菱自動車で、80~90年代にデリカ(スペースギア)がバカ売れした。日産はキャラバンから始まり、ホーミーやラルゴを始めとして、高級志向でトヨタアルファードのライバル車としてエルグランドを発表した。マツダは独自路線で、キャンピングカー的な発想から屋根にテントが備え付けのボンゴフレンディが売れた。ホンダは、クリアランスが広く取れるステップワゴンを皮切りに、最近になって高級志向のエリシオンを発売し、市場に殴り込みをかけた。

次に、やや大型のワゴンから派生した車で、現在も大ブームとなっているのがミニバンというジャンルだろう。その火付け役がトヨタのイプサムとホンダのオデッセイだ。6~7人乗りのコンパクトサイズが売りだった。その後トヨタは二番煎じを狙い、グランビア、ノア・VOXY、両面ドア開きのラウムやスパシオ、ガイア、ナディア、アイシス、ウィッシュなどを次々世に送った。日産は、ウィングロードやセレナ、リバティ、プレーリー、ハイウェイスター、パルサージュで対抗。マツダはプレマシーとその進化型のMPV、三菱はディオンを皮切りにグランディスが飛ぶように売れた。

このように時代時代で流行り廃りを繰り返し、車でその時代や世相を語ることができるまでになった。残念だが、かつては一世を風靡しながら今はもう製造中止や廃車となった車も決して少なくない。

さて、次の話題は、車の名前に纏わることである。車が爆発的に売れた80年代バブルの絶頂期に、共通項となりえるような不思議な法則があった。それは、車の名前には頭文字のアルファベットがSかCで始まるものが圧倒的に多く、次いでMとL、そしてTとPの順だった。ここではその例を紹介したい。メーカーや車種など順不同だが、まずSとC。セルシオ・クラウン・コロナ・カローラ・スプリンター・スターレット・サイノス・クレスタ・チェイサー・セリカ・ソアラ・カムリ・カリーナ・セラ・センチュリー・カルディナ・カレン・セレス・スープラ・コルサ・スパシオ・シーマ・シルビア・サニー・スカイライン・セドリック・セフィーロ・セレナ・サファリ・キャラバン・センティア・シティ・シビック・CR-X・CRV・ステップワゴン・ストリーム・SM-X・カプチーノ・クロノス・コルト・ステージア・スタリオンなど。MはMPV・ムラーノ・ミュー・MR2・マリノ・ミラ・ミニカ・ムーブ・マーチ、Lはレガシー・レオーネ・ローレル・ランサー・レジェンド・レビン・リバティ・ルネッサ・ルキノ・リベロ、Tはタウンエース・トルネオ・トゥディ・ターセル・テラノ・ティーダ・ティアラ・トレノ、Pはパジェロ(Jr.ミニを含む)・プレセア・プラド・プレリュード・プリメーラ・パルサー・ペルソナなど。こう考えると数ある車名には、語呂が良いものや響きの良いカタカナを組み合わせたものが使われ、どうしてもサ行やカ行それにタ行が多くなる傾向にあるようだ。

次に、一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いだった三菱自動車について語ってみたい。バブル景気に沸く80年代は、三菱自動車が繁栄の時代を築いていた。元々パジェロというエース格の実績はあったが、スキーブームで更に多人数でも対応可能なデリカ(スペースギア)を発売し、ブームに完全に乗っかった。次にセダンタイプでは、昔から大衆車として販売実績が高かったギャランを時代受けするように改良を加えたVR4が売れ、次いで一世を風靡したのがBMWに外観が酷似したディアマンテ。これはCMもすごかったが、高級感があった。また、RVブームにも後れを取らず、コンパクトカーながら個性的なRVRを発売するとこれも狙い通り当たり、その後スポーツカーの分野に挑戦したGTOも価格帯は割高だったが、デザイン、4WD,リトラクタブルライト採用で若者のハートを鷲掴みにした。次に市場に投入したのはファミリーに的を絞ったRV系のミニバンのグランディスである。フロントマスクやハッチバックデザインも受け、シートアレンジ次第でラゲージスペースも広くとれる7人乗りタイプで、アウトドアや街乗りにも対応可能な人気車となった。更に攻勢はまだまだ続いた。パジェロはリセールバリューこそ高いが、元々の価格設定がかなり高いので、また車体が重く、目線が高いため取り回しが難しいことから、かなり割安で女性にもターゲットを置いたJr.や軽のミニを追加設定した。これらが発売されるや否や一気に人気爆発し、入庫半年待ちの大人気となった。さらにスポーツカーとして一番の古株だったランサーを大胆にチェンジし、レボリューションとして見事再生させた。まさにこの当時の三菱には勢いがあった。2台に一台とまで言われたトヨタをいずれは越えるのではないかとまで囁かれた。しかし、パジェロのリコール隠しが発覚すると、次々ユーザーの不満や対処の悪さが露呈。まるで夢物語だったかのように一気に社会的信用を失墜した。傲慢さと足元を見ることを怠ったことがこのような非常事態や失態を招いたと言って過言ではない。

これまで自動車産業の光と影を見てきたが、最後に総括した上で、なおかつ今後の展望を語って結びとしたい。現在、自動車業界は危機的状況といって良い。長引く不況からなかなか抜け出せない。貿易では円高が80円台まで進んだため、肝心の自動車の輸出が頭打ち。外貨を獲得できない。自動車の下請けだった零細企業は、車の受注の減少に伴い、運転資金が底を打ち、従業員に給料も払えず、解雇や就労時間を減らす始末。かつての地方にあった部品製造などを賄う大きな工場も統合や閉鎖が相次いだ。また、労働力の面でも賃金の安い外国へ工場を移転するなど、日本経済にとってはマイナス材料ばかりが目立ち、負の連鎖が続いている。また、社会全体も二重構造により、貧富の格差がますます広がり、歪やしわ寄せが大きくなり、庶民の財布のひもはますます固くなっている。更に輪をかけて少子高齢化により、若者の車離れも深刻化している。車は贅沢品という固定観念からか、以前から課税割合が高い。主だったものを挙げると、自動車を買う時に課税される取得税や重量税、車検の際にも重量税がかかる。排気量に応じて毎年課税徴収される自動車税、更には自賠責保険、任意保険、2年に一度(新車は3年に一度)車検にも出す。また、リサイクル法によって一律1.5万円を徴収。また、維持費も馬鹿にならない。200万円の新車を購入すれば、諸経費で乗り出すまでには240万円にもなるが、毎月のガソリン代やタイヤ代、オイル交換に修理代などを含めれば相当な出費を強いられるのだ。車を持てば金が湯水のごとく出て行く金食い虫でしかなくなったのだ。現在の雇用状況も考えれば、とても車など持てない時代なのだ。よく俗世間的に「車は時代を映す鏡だ」と言われる。まさしく今の世相を反映している。ようやく最近、政府もトヨタを始めとする自動車産業が活気を取り戻さないと日本経済の浮揚はないということを悟り、ETCの高速道路1,000円措置やエコカー特別減税で窮地を脱しようとする試みは見られる。またメーカー側も敢えて子ども店長を担いで懸命に減税を訴え、PRに躍起となっている。しかし、毎回、満員大入り大盛況となっていた新車や未来の車のコンセプトのバロメーターとなり、先行きを占う意味で開催される「東京モーターショー」も年々出品車の数や参加メーカーの数が激減。こういうところにも自動車業界の衰退ぶりがあからさまに如実に見てとれる。 

では今後はどうなるのだろうか?21世紀に入って10年近くが過ぎた。子どもの頃は、この時代には車は空を飛んでいると考えられていた。ところが、未だ交通戦争と呼ばれるほど交通事故は頻繁に起きるし、犠牲となる死者も後を絶たない。更にはNOXガスの放出で地球温暖化という招かれざる副産物まで生んでいる。そこで今秋、政権交代が実現して民主党政権が発足し、鳩山首相が真っ先に全世界に発信したことは、日本が地球温暖化の防止策として二酸化炭素の放出を25%削減すると訴えたことだ。一見して実現不可能な高水準の目標のブチかましに、さぞかし自動車業界は戦々恐々したことだろう。これは更なるエネルギー革命をも意味する。現在環境に優しいエコカーの開発は、プリウスに代表されるようなガソリンと電気モーターの組み合わせによるハイブリッドが主流。これをさらに研究開発を重ね、これを更に発展させた車が登場するだろう。たとえば電気自動車の低価格化による普及を図ったり、水しか出ない水素エンジンを主体とした車の実用化を図ることなどが挙げられる。実際、現在の価格はかなり高いが、電気自動車は一部で実用化されている。科学テクノロジーを始めとした産業技術は日進月歩だが、今後、さまざまな面でコストを下げる試みや解決に取り組まなければならない課題が山積している。植物から抽出するバイオエタノールを燃料とする開発、燃料電池の効率化、1回の充電で走れる距離の延伸、充電時間の短縮、充電できる施設の拡充などの問題をひとつひとつクリアーしていく必要がある。

1964年生まれの私にとっては、日本の自動車産業の反映と衰退、光と影をつぶさに見てきた訳で、これから先、日本の行く末を左右する自動車に新たな革命が起きてほしいと願う。かつて戦後のどん底から這い上がって、見事に復興を果たした先人たちの知恵と勇気、そして日本人が元来が持ち合わせている不屈の精神力、そして高い技術力を駆使し、自動車産業の息を吹き返して貰いたいと切に願うものである。そこには発想の転換も必要だろうし、新たな取り組みや新素材の開発も必要になるだろう。官民一体となって、この不況から脱する糸口を見出していければ何とかなるだろうと考えている。そして、かつて子どもの頃、マイカーを持つことが夢だった時代のようにいつまでも自動車が私たちの心ときめかせてくれる存在であってほしいと思っている。

2009年10月 7日 (水)

夢を運ぶ L特急ひばり

 昔話をしだすと年をとった証拠と言われそうだが、私は小学生時分、何かにつけ好奇心だけは旺盛な子供だった。始末が悪いことに、色々なことに首を突っ込んでは長続きせず、すぐに飽きてしまい、そしてまた同じことの繰り返しだった気がする。そんな少年時代にあって、私が嵌まったのは「鉄道」である。電車の写真を撮りに行くのも好きだったし、乗るのも大好きで、持ち前の研究心に火が付き、親に強請って買って貰った、当時小学館で発行していた「鉄道大百科」や「特急大辞典」などというコンパクトサイズの本を読み漁ったものだった。そのきっかけとなったのが、毎年夏休み中に、まるで決まりごとのように実施していた東京方面への家族旅行だった。その際、初めて特急列車に乗った時の感動は今も忘れられない。クリーム色に赤のラインが入った車体は、ずっと私の憧れだったし、今でも瞳を閉じれば、当時のあの勇姿が鮮明に瞼に甦ってくる。特に私が熱をあげていたのは、「L特急ひばり号」である。

 昭和40年代後半から50年代にかけて、当時小学生だった私は、郡山駅の東京へ向かう上り5番線ホームの上で、遥か線路の彼方からヘッドライトが眩しい長く連なった車両が現れると、胸の鼓動は高鳴り、身震いするほど気分は最高潮になった。私を「東京」という憧れの世界へといざなう、まさしく夢の特急だった。この頃の車両は食堂車とグリーン車を伴った12両編成で、先頭部分が流線型のボンネット型(正面の運転席の窓の上には力士のチョンマゲを彷彿させる形のライトが印象的)の481・483・489系の電車で、その後新幹線0系のモデルになったと言われている。それから暫くして、特急列車の代名詞と呼ばれるまでになったフロントマスクが凹凸がなく平面で垂直型の485系や583系にバトンタッチされた。この「ひばり号」は仙台~上野間を一日20往復以上する、東北本線で最多の特急だった。L(エル)特急とは、Limited ExpressとかLinerの略語で、昼行で運転本数が多い旧国鉄在来線の特急列車を指す。表定速度は時速80km台後半ながら、瞬間最高時速は140km/h以上で巡行。郡山・上野間を2時間半弱で走り抜けた。

 私たち家族が東京旅行に赴くのは、家業がひと段落するお盆明けの日曜日。つまり2学期始業式の直前となる最後の日曜日だった。だから思い入れも一入だったし、夏休み最後の思い出づくりにはもってこいだった。毎回乗車する電車は決まっていて、7時49分郡山駅発「L特急ひばり1号」だった。上野到着は10時14分なのだが、その道中はわくわくドキドキもので、寝ている暇などなかった。窓の外を矢のように飛び交う見慣れぬ景色の連続に心は躍り、期待感で充足される。停車駅ごとに車内アナウンスが入ると、聞き慣れない路線との接続(乗換案内)にも心が時めいた。2時間半の旅の途中、車内では幾つか面白い出来事が起こる。まず、県境を越え栃木県に入って最初の停車駅が黒磯だが、ここでいきなりハプニングに巻き込まれる。突如として車内の電気が一斉に消えるのだ。これは、黒磯を境に交流から直流に切り換わるためで、その間、電車は惰性で徐行する。モーター音がパタリと止み、あるポイントを通過すると、再び室内灯がともり、モーターが再始動するのだ。その黒磯は、国鉄車両の基地兼車庫もになっていて、広大な敷地に夥しいほどのレールが並び、見慣れぬ色の電車が休んでいる。また、宇都宮を過ぎると、私鉄東武線の立体交差が頭上を横切ったり、小山駅の先からは、それまでの田園風景は姿を消し、替わって見渡す限り、アスファルトとコンクリートジャングルへと変貌する。

 さらに「L特急ひばり」が大都会・東京に近づくと、更に周りの風景は一変する。想い出話として、見送りの母親から「大宮を過ぎたら、トイレへ行っておきなさい」と言われたことを今でもなぜか耳に残っている。郡山では決してお目にかかれない高層ビルの群れ。そして街角には人、人、人、そしてまた人の波。線路沿いには高い防護壁。そしてその上には林立する雑居ビルたち。やがて信じられないようなレールの数。更には一分置きに通過する駅のプラットホーム。やがて水色や黄緑色した国電の車両と並走。終点上野駅が近づくとゆっくりと車両は下りだし、地下のトンネルへと入っていく。ほどなく終点を告げる最終の車内メロディー「鉄道唱歌」が鳴り響くと乗車時間の終焉を意味する。列車はゆっくりとスピードを落とし、やや暗がりのプラットホームに滑り込む。電車の乗降口(タラップ)から降りて、まず違うのは独特な匂いと騒々しい雑音。そして「モアッ」と来るような熱気。これが都会の匂いなのだ。すぐさま周りの人は皆、一分一秒を争うかのように、そそくさと乗換のために早足に改札へ向かう。都会の景色は何かと忙しい。終着駅である上野駅には、まるで大宮に出来た鉄道博物館のように、地方からここを目指して集まって来た見慣れない列車たちが居並ぶ。常磐線経由の「ひたち」や上越線回りの「とき」、高崎線・信越本線を通る「あさま」、金沢行きの「白山」などがそうである。そして長い「ひばり号」の車体の横を名残りを惜しみながら改札口を目指して歩く。そして先頭車両の先には、行き止まりを意味する車止めがある。そこからボンネット型の先頭車両の写真を記念撮影するのが、年中行事だった。そうしてから、改札を出るのだが、ただでは済まない。乗車券は「東京都区内行き」なので、都内の駅舎を出るまで使える仕組みになっているので、駅員に渡さないが、指定席の特急券を回収する際、使用済みのスタンプを押してもらい、それを旅の土産として持ち帰るのだ。これが往路の一部始終だ。

 その後、約半日、東京で楽しいひと時を過ごす。よく亡き父親に連れて行ってもらったのは、後楽園、豊島園などの遊園地、皇居、東京タワー、国立博物館・上野動物園、NHK放送センター、巨人のナイター観戦、神宮外苑、船の科学館、秋葉原にあった交通博物館、銀座、新宿副都心など。2回ほど「はとバス」に乗車し、霞が関ビルで夜景を見ながらの夕食やいしだあゆみの歌謡ナイトショーたこともあった。日帰りが多かったが、宿泊を伴う場合は、ホテルは何故か安く泊まれる恵比寿の特定指定旅館だった。そしていよいよ帰路となる。

 日帰りの場合は、夜行急行列車で帰路に就くというのが定番だった。「L特急ひばり」は仙台発着なので、上野から4時間以上かかる。今でも新幹線はそうだが、当時から特急列車はその速度ゆえ、騒音と振動が大きく、午前零時を跨いでの運転は行われていなかった。従って帰りの足は、特急の次に早い急行列車での帰還というのが専らのパターンだったという訳だ。20~21時台の電車の時刻まで時間に余裕があると、決まって時間潰しに訪れたのは御徒町駅から上野駅まで連なるアメヤ横町(通称アメ横)だった。時に浅草まで足を延ばすこともあったが、普段はこれが定石。お土産を買い込み、いざ電車へ。この急行列車、演歌「津軽海峡冬景色」を思わせるような郷愁列車で、ホームに入線して来て、ドアが開くタイミングに少しでも遅れると、すぐに満席となり、帰りはずっと立ちっ放しか乗降口のタラップ付近に新聞紙を敷いて座ったものだった。この急行列車は、たいていが「あづま号(福島行き)」か「ばんだい号(会津若松行き)」で、クリーム色に横に小豆色のラインが入ったツートンカラーの電車だった。色合いが田舎くさいと何度思ったことか。この車両、今でも在来線の普通列車でよく見かける型で、475系か457系と呼ばれる車体だった。このタイプも、外見の見た目の形は全く同じに見えるが、間違えないように路線によってカラーリングが異なっている。見たことが一度はあると思うが、東北本線は宇都宮止まりの列車だと緑とオレンジのツートンカラー、関東近郊や横須賀線などはクリーム色と紺色のツートンというように、見た目の色で識別化を図っている。少し説明が過ぎたようだが、帰りのその急行を利用すると、郡山までの所要時間は、特急よりも1時間近く遅い3時間半。更に夜間走行なので、スピードは控えめで、停車駅も若干多い。赤羽・大宮・小山・宇都宮・西那須野・黒磯・白河・須賀川、そして下車駅となる郡山の順。だから、到着はいつも深夜近くになる。郡山駅到着後は、決まってタクシーで自宅前へ。これが真夏の世の夢の如く、私が毎年楽しみにしていた、特急列車に纏わる家族旅行の一部始終である。

 ここで当時、東北本線(常磐線経由を除く)を運行していた特急や急行を紹介したい。

 昼行特急

 「ひばり」(上野~仙台)、「やまびこ」(上野~盛岡)、「やまばと」(上野~山形)、「つばさ」(上野~秋田」、「あいづ」(上野~会津若松)

 寝台特急

 「はつかり」(上野~青森)、「はくつる」(上野~青森)、「あけぼの」(上野~秋田)

 急行 

 「あづま」(上野~福島)、「あぶくま」(上野~福島)、「ばんだい」(上野~会津若松)、「まつしま」(上野~仙台)、「いいで」(上野~新潟・磐越西線経由)、「出羽」(上野~酒田)、「蔵王」(上野~山形)

 夜行急行

 「八甲田」(上野~青森)、「津軽」(上野~青森)、「北星」(上野~盛岡・寝台急行だが後に特急に) 

 以上見てきたように、私の鉄道に対する思い入れは人並み以上のものがあった。今で言う「鉄道オタク」っぽい感覚があった。鉄道に関して、他に私が実践していたことを列挙すると・・・

 ① 鉄道写真(主に小5~小6) 線路内に立ち入って運転士に警笛を鳴らされた。カメラに凝り、アングルやシャッター速度、絞りなどのテクを身につけ、これが高じて白黒フィルムながら、自分で現像、印画紙に焼き付けや引き延ばしをするまで熱中した。

 ② Nゲージ(小6) プラレールから始まり、本格的なNゲージへ。SLや特急列車の車両を集めた。積水金属製やTOMIX製が主流の大人のおもちゃとも言える道楽的な趣味。

 ③ 「鉄道百科」で全国の特急列車(電車・ディーゼル特急・寝台特急・列車名・路線名など)について調べ上げ、小学生としては「特急博士」と言われるくらいの知識を身につけた。

 ④ 時刻表の研究 日本交通公社(現JTB)や鉄道弘済会発行の大判の時刻表を買い込み研究した。気節列車や臨時列車、電車の接続、電車の名称、車両記号、編成、切符の種類、乗車料金や特急料金の計算方法、更には宿泊先まで。そして空想の中で、旅行計画なども立てたりして遊んでいた。

 ⑤ 旅番組や鉄道番組のチェック 現在もDVDに録画している。特にBS-Japanで金曜日の夜に放映している「鉄道模型」は毎週チェックしている。また、昨年NHK教育の「趣味悠々」で放送していた三波豊和司会の「鉄道模型制作入門」は毎回録画していた。

 ⑥ 記念切符や駅のスタンプ集め(大学時代) これは大学時代、北海道の同じアパートに住んでいた地理学科の友人が、当時流行っていた「国鉄チャレンジ3万キロ」というイベントに挑戦していた影響で始めた。その友人は、「青春18きっぷ」(1枚2,000円の5枚つづりで、普通車なら国鉄全線2,000円で1日乗り放題のトクトク切符)をフルに使い、日本中のすべての路線を制覇した。そして各駅で停車した際に、プラットホームの駅名の描かれた標識の前で写真を撮り、駅舎に備え付けのスタンプを集めていた。世の中にはどえらいことにチャレンジする奴がいるもんだと感動した。

 以上、述べてきたように、少年時代に夢中になったことや自分の生き方に影響を与えたものは、年をとってからも絶大だ。残念ながら私が愛した「特急ひばり号」は、1982年に、東北新幹線が大宮駅暫定で開業を始めたのを機に全線廃止されてしまった。「ひばり号」の名称も、東北新幹線の車両の名前として生き残ることはなかった。在来線特急だった「やまびこ」や「つばさ」のネーミングが新幹線の名前として後世に受け継がれていくのであれば、仙台発着の新幹線も「あおば」ではなく、当時鉄道ファンから絶大な人気を誇り、惜しまれながら姿を消した、なおかつ存在価値が大きかった「ひばり」で良かったのではないかという疑念を今でも抱いている。「はつかり」もまたしかりだが、ぜひ遺産として残して貰いたい気持ちでいっぱいだ。そして今後であるが、もし時間と経済的な余裕があるのであれば、もう一度鉄道模型の世界に足を踏み入れてみたい。部屋中をコンパネを敷き詰め、発泡スチロールや紙粘土で地形(ジオラマ)を作り、オリジナリティー溢れるレイアウトを自作し、そこを自らが操縦(運転)する列車(Nゲージ)を走らせたい。ささやかな夢だが、退職後にでも行動を開始できればと思う。また、あと5年で私も50代となる。JRの乗車券や旅行クーポン券が割引となる「大人の休日倶楽部」のミドルパスに入会し、5%オフで旅行をしまくりたい。やがて65歳以上になれば、30%オフとなるジ・パングに入って日本中を隈なく旅してまわりたいものだ。そう考えると、年をとるのも悪くない気がする。そして何れ何年後かにこの記事を見返した時に、この時分の夢を実際に追いかけているかどうかを検証することができるだろう。その日を楽しみにしつつ、今回のブログを閉じることにしよう。

13d58e9a9dab0d6e49256634004a67fam11  東北本線を闊歩する「L特急ひばり」の往年の勇姿。ボンネット型は一番古い型で、481・483系と呼ばれた車両。当時、仙台~上野間を4時間で結んだ。1984年の東北新幹線開業に伴い、多くの鉄道ファンに惜しまれつつ廃止された。現在は、鉄道博物館に先頭車両が展示されている。

 

 

  

2009年10月 6日 (火)

家電量販店事情と電化製品の賢い買い方

 私が住む郡山市は不思議な街である。人口33万人を抱え、福島県の中央に位置し、経済県都と目される商業の中心地である。この地方都市に昭和50年以降、数多くの県外資本が流入してきた。全国展開の百貨店を始め、大型店舗が進出しては撤退を繰り返してきた。百貨店に関しては、7/28付けの当ブログでその辺の経緯や事情を詳細したので今回は割愛するが、とりわけ家電量販店の出入りは激しい。半ば自滅気味の過当競争を強いられ、食うか食われるかの大激戦区となっている。ここではそうした郡山における大型電器店の事情について記載し、併せて電化製品の賢い買い方を伝授したい。

 郡山に生を受け、途中で大学や仕事の関係で9年間、地元を離れたものの、36年間暮らした私にとって、町の様子がどのように変わったかを語るのは訳の無いことだ。昭和50年代当時は、電気店と言えば、商店街などで目にするような小さな店構えの「町の電気屋さん」や百貨店の家電売り場くらいしかなかった。そこへ大型電器店が進出してきたのが昭和55年頃のことで、記念すべき第一号は「庄司デンキ」だった。コマツ醤油屋の近く、軍用道路(現うねめ通り)沿いに新設された。その後、60年代に「電激倉庫」と名称を変更し、電気店の激安競争に拍車をかけた。現在は「業務スーパー」となっている。この先代「庄司デンキ」は、安積町の「セントラルホール」の近くにも支店があった。次に登場したのは「よつば電機」で、市内亀田の現在「かっぱ寿司」がある付近に根を下ろした。私は須賀川の4号線沿いにあった同じ店で白黒モニター付きのキャノワード・ワープロ機(かなり重量があってサイズも大きかった)を買った覚えがある。残念ながら、この「よつば電機」、茨城に本店がある「カトーデンキ」に吸収され、その後ケーズデンキと名称変更されたため、現在は自然消滅となった。続いて3番目に店を開いたのは、4号線と49号線の交差点の角地に進出して来た、栃木県を本拠地とするコジマ電気(現コジマ)だった。ここのオープンセールは華々しく、赤字覚悟の乱売価格で客寄せを図り、パソコンやエアコンなどが超激安特価。「安さ日本一への挑戦」を謳い文句に、家電戦争に殴り込みをかけて来た格好。当時、駐車場が入れないくらい4号線が大渋滞した記憶がある。「コジマ」は富田町の49号線沿いの現「開放倉庫」にも支店を出して客への融通を図り、利便性を高めた。

 続いて4番目に進出して来たのは、宮城県を中心に展開している「いせやデンキ」だった。これは内環状線沿い、現在「トライアル」というディスカウントストアになっている場所に店舗を構えた。実家から場所的にも近く、小さい割に品揃えが良く、価格も手頃で重宝したため、折に触れ贔屓にした。また、「いせやデンキ」は大槻町安高通りにも小さな支店を出した。そして次に現れたのは、青森が発祥の「デンコードー」だった。元々は市内南部の安積町、4号線から西に向かって福島南インターへ繋がる4車線道路に開店した。あまり価格的には安くなかった。現在、その場所はリサイクルショップ「HARD OFF」となっている。業績があまり芳しくなかったため、場所替えを断行せざるを得なくなり、結果として市内北部の日和田町(ジャスコ隣り)へ移転し、「MAX Dencodo」として再オープンした。私はここで10年以上前、ウィンドウズMe搭載のNECのパソコン・キャノンのプリンター・カシオのデジカメ一式を買い揃えた。しかし、ディスプレイにドット欠けがあるなど、製品は最悪だった。残念なことに「デンコードー」は業績不振に陥り、その結果「ケーズデンキ」に吸収されてしまった。

 その後、やってきたのはご存知「ヤマダ電機」である。こちらは群馬県に本社を置き、ポイント還元を強烈にアピールする新たな商法を展開した。場所は郡山警察署の北向かい。目と鼻の先に「コジマ」があり、安売り合戦が熾烈化した。「ヤマダ」は売り場面積が広く、逆に駐車スペースが狭小だったが、急勾配の屋上駐車場を兼ね備えることで弱点をカバーした。買い物しなくても来店者への特典として、カードを機械に通すとスロットルが回り、絵柄に応じて最低でも10円分ポイントアップとなる。この「ヤマダ」の進出で、勢いを殺がれた「コジマ」は、その後増改築し、当時フロア面積東北一の店へと生まれ変わった。そして、これに対抗するかのように「ヤマダ電機」もまた、市内北部の喜久田町に郡山2店舗目となる郡山本店を建設し、今年営業を開始した。何と売り場面積は単独の電気店では東北一の規模を誇る。その後、7番目に郡山に登場したのは、全国展開をしている「Yesそうご電器」だった。市内朝日町、うねめ通り沿いにこれまた華々しくオープンした。広告チラシには、「ノートパソコンが1万円!」という見出しが躍り、客がわんさか訪れた。2階建ての店舗が珍しかった。ここは実際あまり長続きせず、その後、ジャスコの2階に移転し、店構えも小さくなった。現在朝日町のその場所は、1階がリサイクルショップ「DOKIDOKI」、2階にはレンタルCD・DVDの「ゲオ」が入っている。ここまで見ても相当の入れ替えがあった訳だが、この大型家電狂騒曲はまだまだ続く。

 8番目に郡山へやって来たのは、「よつば電機」と「カトーデンキ」、更には「デンコードー」を傘下に収めて大企業へと成長した「ケーズデンキ」だ。場所は郡山市西ノ内、うねめ通り沿いにかつて「西部自動車学校」があったが、それが奥羽大学近くの方へ移転したのを機に、その広大な跡地に大型ショッピングモールが誕生し、その1階店舗に広いフロアを独占する形でオープンした。その2階には、ゼビオスポーツが陣取り、屋内通路でイトーヨーカドーと連絡している。ここの特徴はポイントカードは設けず、あくまで現金値引きにこだわっているところだ。また、ここは不思議なところで、店内のパソコンはネットにあまり繋がらない。悪戯が多いせいなのか店の方針なのかは定かではない。もちろん、日和田町にあった「MAX dencodo」の大型店舗もそっくり「ケーズデンキ」に移管された。そして9番目に登場したのが、福岡県に本店を持ち、九州一円を縄張りとする「第一家電」だった。日和田町に「ジョイフル山新」、「ブックオフ」、回転寿司「海洋丸」、ゲーセン「SEGAワールド」を備えたショッピング基地の一角にそれは開店した。かなり広大な敷地に建造され、フロア面積は当時、郡山のどの電器店にも引けをとらないほどの広さを誇っていた。その後、過当競争に負け、数年後には郡山市内のさくら通り沿いに、昔からの老舗だった「インテリアダイイチ」の店舗を間借りして再オープンしたが、それも数年後には閉店し、今では完全撤退した。現在、日和田のその場所には、半分のスペースに100円ショップ「ダイソー」が入店している。さて、いよいよ最後となる10番目の家電量販店は、「ま~るい緑の山手線~♪」というメロディでお馴染みの「ヨドバシカメラ」である。これが進出して来た時、「我が郡山も都会になったな~」と実感した。ここはJR郡山駅に隣接し、学校帰りの高校生や仕事終わりのサラリーマンやOLでごった返す。ここは2年間有効のポイント制。価格もそれなりだが、陳列されている製品の数は多い。無料駐車場がないのが難点だが、価格の面では抜群である。以上、めまぐるしく「変幻自在」した郡山の電気店の変遷を回顧したが、一部記憶が抜けてる可能性もある。それくらい激しく変化してきた。残念ながら現在、何店かは存在しないものもある。

 次に、これほど多くの家電量販店が地元郡山に進出して来た訳なので、これを上手に利用しない手はない。ここから先は、タイトルの通り「賢い電化製品の買い方」を具体的に紹介したい。電器店が聞いたら震え上がるような、私がいつも実践している買い方である。まずカタログ等で対象製品を吟味し、十分検討した上で目ぼしい製品をピックアップする。そして、週末になると決まって入ってくる家電量販店のチラシを集め、それらを比較検討する。この市場価格(実勢価格)の調査と分析は絶対に欠かせない。私の場合、「ケーズ」「コジマ」「ヤマダ」の3社を中心に、プラス「ヨドバシ」を判断材料とする。そして次にインターネットを使い、「価格.com」のページを開き、最安値(底値)を調査し、チラシとの価格差を把握する。ここまでは事前準備。次にさっそく各店舗を訪問し、値段交渉に入る。やり方はこうだ。まずは値札を見て、「価格は係員に相談」の表示があれば、すっとぼけて「この商品、どれくらいまで下がります?」と尋ねて探りを入れる。ひとまず金額を聞いてメモ。できれば店員の名刺を受取り、日付と販売価格を記入。当然この時点では、店は利益が必要なので底値までは下げない。ここで開口一番「○○円まで下がるんだったら本気で考えるんだけどな」と言って店員の顔色を見る。この時点で更に価格を下げてくれれば儲けもの。場合によっては、店員がいなくなった時を見計らって証拠の写メ(値札を撮影)しておくのも手だ。またカタログにA店~円とわざと目立つように記入しておく。次に別の店へ移動。同じことを実行するのだが、ここでは「A店ではここまで下げると言っていましたよ」と言って競争心を煽る。この時、前の店で言われた価格よりも若干低い価格(これがポイント!あまり安く言うと逆に疑われる)をその店員に伝えるのだ。そして、その証拠物件として前の店で貰った店員の名刺を出す。そして更に「でもこの価格は明日までの期限付きの価格だって言ってましたが・・・」とハッタリをかます。これで店員は、その価格が期間限定の特別な価格設定であると考え、これに負けじと1円でも安い価格を提示してくる筈だ。特に「安さ日本一への挑戦」をキャッチフレーズにしている店では、他店に負けたくないし、他店の方が安かったという印象を客に持たれたくないので(それがやがて口コミで広がってしまうのを恐れるから)、状況的に頑張るしかなくなるのだ。更に「でも私としてはA店よりもここが一番近い電気屋なので、何かあった時のためにここで是非購入したいんだけど・・・」という取って置きの決め台詞を付け加える。これを聞くと店員はイチコロだろう。「今すぐ決めてくれれば○○円まで下げますよ」と折れてくれるだろう。しかし、それで契約となるわけではない。えげつないかもしれないが、これを更に他の店舗でも繰り返し、最終的には「価格.com」に掲載されている全国最安値との差を詰めていくのだ。この方法でぎりぎり限界寸前まで購入価格は下がって行く。私は毎回、価格交渉の際、店員が事務所やカウンター内に設置された店専用のパソコン画面とにらめっこし、仕入れ値を確認し、利益幅を計算するところまでやらせるし、店内専用のインカムで店員同士が連絡をとるところまでやる。また、応対してくれた店員が事務所へ行って上司と相談する場面が出たら、恐らくそこが限界だろうと見ている。もちろんこのやりとりの途中で、白旗を上げた店はそこが限界だと判断する。そして最終的に最安値を付けたA社と二番目に安値をつけたB社が提示した価格に差がない場合やこれ以上の値引きが難しいと見たら、今度は附属品のおまけを要求する。パソコン販売などはよく、セール期間中などに成約キャンペーンを実施し、マウスやマウスパッド、メモリースティック、CD-ROM、プリンターの印刷用紙などの非売品を無料で配布したりするが、中には売れ残ったものもある。それを付けてくれとお願いしてみる。ダメもとでお願いしたことが、O.Kとなれば買い得感はアップするし、予期せぬ拾い物をゲットできてしまう。これが商売の鉄則であり、交渉術なのだ。こんなことは車の購入では商談として実際に行われていることであり、それを家電に応用したに過ぎない。間違っても買いたい商品がのどから手が出るほど欲しいという素振りを店員に見せてはいけないし、そう悟られてもいけない。まして足元を見られるようなことをしてはいけない。「あくまで値段が安かったら考えても良い」くらいの態度で臨むことだ。もちろんこのような交渉や駆け引きをしたからと言って、店員の心証を悪くし、不良品をつかませるようなことは一切ない。もしそんなことがあれば、店の信用にかかわるからだ。

 一応ここで更なる留意点を述べたい。それは最近流行りのポイントカードの存在と利用法である。「ヤマダ電機」と「ヨドバシ」は値引き交渉は限界と見えて、その分ポイントによる還元を奨励した売り方をしている。これは一見賢い売り方である。現金では引かないが、「自分の店で買い物をしてくれたら、ポイント分の品物を別に買い物できますよ」というシステムだ。ご承知のように、店側にしてみれば、同じ金額でも現金よりも品物で還元した方が損益にならない。品物は元々定価の半額程度、型落ち製品では7割引きで仕入れている。よって客は、ポイント分の商品を額面通りに買い物が出来ることになり、お得感が得られるが、店側の立場で見ると、客が来店してポイントを使わない限り、本来還元すべき掛け金は、宙に浮いた状態で消化されないままだ。要は銀行の預金と同じである。また販売店にすれば、自分の店のカードを所有してくれれば、それは同時に顧客になることを意味し、何かにつけリターン客として足を運んでもらえ、以後も安定した客入りが見込めるし、それなりに売り上げも期待できる。しかし、現金値引きを第一に考える人にとっては、このシステムはマイナス。しょっちゅう電化製品やAV関連グッズを購入する用意がある人ならまだしも、そうでないなら迷わず現金値引きを常套手段にしている「ケーズ」や「コジマ」で買ったらいいと思う。正直言うと私が購入した「ケーズデンキ」の製品(液晶大画面テレビ・DVDレコーダー)は故障続きで、ろくでもない製品しか置いていないが、5年無料保証や店員の対応が早くて良いと思っている。それに他店の価格を提示すると頑張りすぎるぐらい勉強してくれる。しかし、この方法は電気店が比較的近い場所に住んでいる人に有効であって、「そんな時間がない」とか「ガソリン代の方が高くつく」といった人にはお勧めできない。幸い私の自宅は、ケーズデンキ2店舗のちょうど中間地点にあり、更に、先に述べた通り、今年始めに自宅の近所に、郡山で最大のフロア面積を誇る「ヤマダ電機郡山本店」が新設された。地の利を生かせるロケーションがあってこそ始めてこのような芸当も可能なのだ。また土日の混雑期ではなく、平日の夕方、仕事終わりにでも軽い気持ちで立ち寄ることをお勧めしたい。店員さんとじっくり話が出来ること受け合いだ。空いていると向こうから「売り」の姿勢で来るからだ。多少時間をかけても値段交渉やおまけグッズのおねだりがしやすい。また、交渉相手としてベテランではなく若手を選ぶことも大事。ベテランだと若手店員への手前、メンツがあってあまり値引かずに交渉をうまくまとめようとする傾向がある。そして大事なのは月末に商談や購入を行うこと。店員さんにもノルマがあって、毎月、一ヶ月の間に、どれだけ多くの客にどれだけ多くの商品を売ったかを示す「担当者別売上グラフ」で、その店員の営業成績が一目瞭然となる。したがって月末近くともなると、給与査定に加味されることから、どこの店員でもノルマ達成や帳尻合わせのために、多少無理をしてでも必死に「売り」を仕掛けて来ることがある。ぜひこのことも念頭に置いて買い物を考えると良い。いろいろ記述したが、これらのことを総合的に判断し、実際私は「ヤマダ電機」→「コジマ」(この2店舗は警察署の近くで競争心が強いので価格競争を煽る)で探りを入れ、実勢価格を調査した上で、最後に「安さ日本一への挑戦」を堂々と謳っている「ケーズデンキ」で勝負を賭けるようにしている。これで大抵はうまくいくと思うし、現に当初の価格(広告価格)よりもかなり安い買い物を実践して来た。

 また、電化製品を買う際に注意を払わなくてはいけないのは、どんなに安かろうが決して展示品を購入してはいけない。パソコンや液晶テレビならなおさらのことで、在庫切れですぐにでも欲しい場合でも絶対妥協すべきではない。何故かと言うと、テレビなどは店内において、四六時中電源が入れっぱなしの状態で、通常使用の倍の消耗をしていると考えられるからだ。特に液晶は消耗度が激しく、耐用時間数こそがその価値を左右する。商品としての寿命が新品に比べ、数段縮んでいるのは明らかだ。これはパソコンも同様で、不特定多数の客がそれをいじくり回していると容易に想像できるし、どの部品がどれだけへたっているかわからない。だから広告に「展示品限り」という記載があったら、いかに安くても始めから無視したほうが得策だ。また、そういう意味から考えれば、電化製品は10年で壊れることを常に意識し、1年のメーカー保証だけでなく、長期無料保証が付いている店を選ぶべきだと思う。「ケーズ」で購入した「TOSHIBA」製のDVDレコーダーは、私は本体を3回交換、その後もクレーム修理で2回心臓部のユニットを丸ごと交換した。その際、長期5年保証に加入していたため、通常なら1万円以上するユニットの部品代と工賃代が無料になった。これは率直に言って助かった。そして更に、これから電化製品の購入を考えている人にアドバイスしたい。大型家電量販店の決算は、毎年2月(ヤマダ電機は3月)と相場が決まっている。したがって本社へ業績を報告する為に、決算が近づくと、少しでも売上総額を伸ばすために、在庫をいち早く整理し、あの手この手でお金の工面を図るのがちょうどこの時期なのだ。だから、それに合わせるかのように特価セールを実施する。特に、年末年始の特大広告が入る時期は電化製品購入の狙い目。型落ちであっても在庫品であれば問題はない。モデルチェンジで多少の改良やデザインの変更をしていても、基本性能は同じで機能的にはあまり変化がない。この手の商品は在庫一掃商品なので、信じられないくらい値引きをしてくる。もちろん保証は買ったその日からとなるので何ら心配はない。現に私は今年、現在使用している地デジ/BS/CS内臓の22型ワイド画面、CPUがデュアルコアのディスクトップ型パソコン(NEC)を信じられないような大特価(14万円以下)で購入できたし、半年以上経った今も、何の不都合も起きていない。

 最後に、ここまで読んでくれた方にサービスの意味で付け加えるが、これは東京に本社を持つ、郡山の大手電気店に就職した私の知り合いから聞いた耳寄りな話だ。電化製品の価格は、最近のカタログを見ると、オープンという表示になっていることが多い。これはメーカーと販売店の実績や信頼関係で、メーカー希望価格を特に設けないということ。仕入れ価格にいくら利益分を上乗せするかは、販売店の判断に委ねられている。話がややこしいのは、この仕入れ値、実は一律ではなく、月ごとに流動的なのだ。しかもメーカーによって異なるし、商品を卸す電気店の販売実績に応じても異なるらしい。したがって、月によっては同じ商品でも安いプライス設定もあれば、前月よりも高くなる場合もある。折り込みチラシを例にとっても、タイムセールのように日によって目玉商品が設けられ、驚くような激安価格にプライスダウンする商品があるのはこのためだ。だから、知り合い曰く「ダメ元でも店員さんにいろいろと吹っかけてみたほうがいい」というアドバイスをされた。もちろんそんなこと、言われる前から私自身はずっと実践してきたことだが、たったこれだけのことで、劇的に支払額が下がるんだったら、恥とは思わずにやってみた方がいいに決まっているだろう。パソコンや液晶テレビなど商品単価が大きい製品の購入の際には、ぜひ試して貰いたい。

 以上長々と話をしてきたが、「そんなの当たり前じゃない」とか「とっくにそんなのやっているよ」という方には釈迦に説法で申し訳ないと思う。「目からうろこ」とか「これは寝耳に水だ」という方がいれば、ただ単に安い広告が出たからと飛びつくのではなく、このような点に留意して電化製品や周辺機器を購入してもらえればこれ幸いである。経済危機が叫ばれて久しい昨今、不況からの脱却がなかなかままならない日本の経済情勢。一消費者として、自分たちにもできる工夫を凝らし、少しでも家計の足しになるような賢い買い物をして行けたらいいと願っている。

2009年10月 4日 (日)

釣り談義④ ~私の釣法の変遷 Part2~

 3.ウキ(フカセ)釣り

 釣り歴3年目に入ると余裕が生まれ、欲が出てきた。もっといろいろな釣法を試してみたくなったのだ。私に釣りを教えてくれたS氏の影響が最も大きいのだが、ウキ釣りなるものにチャレンジしたくなったのだ。そのきっかけは、相馬の沖堤防でインターラインの磯竿にサビキ仕掛けで実釣していたところ、隣りで様子を見ていたクロ釣り師から「それじゃ何も面白くないべ」と言われたことにある。その時は、「何なんだこのオヤジ、喧嘩でも売ってんのか?」くらいにしか感じなかった。しかし、ひたすらクロダイを目指し、撒き餌を繰り返すS氏の傍らで、無性に興味を掻き立てられた。また、TV「ザ・フィッシング」のグレ釣りにも少なからず感化された部分もあった。ウキ釣りの導入がここまで遅れた原因は、仕掛けを作るのが難しそうで、海に撒き餌して捨てるので無駄が多く、勿体なく感じたからだ。更にバッカンがコマセや集魚剤で汚れ、洗浄にひと苦労を強いられることも容易に想像できたからだ。いろいろと紆余曲折はあったが、釣り具屋のアドバイスを貰いながら、タックル一式を揃え、いざ初陣へ。決戦の場は中之作沖堤防。その日は秋分の日ということもあって、乗船者はたったの4名。防波堤に着くやいなやイチ早く北側の先端をキープ。ここからドラマが始まった。

 はやる気持ちを抑えて、一旦ここでウキフカセ釣りのタックルを紹介しておこう。3~4号の道糸に、順番にウキ止め、シモリ玉、2B~2.0号の円錐ウキ、そしてカラマン棒を付けていき、その下にサルカン、それからハリスと釣り針を結ぶ(私は下手なのでカットチヌという1.6mのハリスとハリがセットになったものを使う)ことになる。チヌバリは2~4号がメイン。そして、そのハリを海中に沈めるために、そのハリスの途中に2B~4B程度のガン玉を打つ。これがいわゆるウキ釣りのオーソドックスな遊動仕掛けと言われる物で、ウキ止めとカラマン棒の間をウキが上下し、タナを調節できる寸法だ。これは慣れるまでは仕掛けづくりの順番を間違えたり、オキアミをハリに付けるのに結構神経を使う。ハリをすっぽり覆い隠すようにエビに通すのだが、これがなかなか難しい。腹がけや背がけ、抱き合わせがけなどがあり、餌の付け方が甘いとラインの送り出しの際にすぐに外れてしまう。以上がウキ釣りの基本形だが、この釣りは当たりをウキの動きや沈み込みでとるのでわかりやすい。その後、インターローカルTVの「我ら釣りキング」を手本とし、ウキ止めを排除した全層釣法に移行した。しかしこの釣り方は、すべてのタナを探れる反面、魚がハリ掛かりしてもウキが沈まないため、当たりを取るのが非常に難しい。また、常時ラインを指で保持して当たりを感じる(体感ショックというネーミングがついている)ので複数の竿の面倒を見れないという欠点がある。餌は原則オキアミで、あとはターゲットに応じて短く切ったイソメを用いる。

 さて、中之作沖堤の実釣に話を戻すと、ウキ釣りのファーストヒットはサバだった。長さ38cmの良型だった。青物のサバは、ハリ掛かりすると横走りが凄く、弾力のある柔らかな1.5号の磯竿がグングンしなった。竿を持つ手にビンビン反応が伝わり、感触がこれまで体感した釣りとは一味違ってこれは面白い。魚と直接対峙している感覚があって病みつきになりそう。でも、その時困ったのは、中之作の沖堤は海面までの高さが結構あって、手持ちの5.4mの玉網が届かず、抜くこともできず右往左往した。一人で玉網入れするのも、この時が初体験だった。結局、この日はフカセだけでサバ6尾(ヒットは10尾)、メバル5尾の満足のいく釣果が得られた。何か釣りの可能性が広がったことを実感した釣行となった。相馬のオッサンが言っていたのは、恐らくこういうことだったのかと妙に納得した。

 続いて訪れたいわき・サンマリーナのテトラ付近でも、自身初となる40cmオーバーのアイナメをこのウキフカセでゲットした。そのアイナメはお腹に卵を抱えたメスで、竿が半円状に大きくしなった。この時も玉網が近くにない状況下でのヒットで、魚を引きずりながら移動させて玉網入れ(これも届かずひと苦労)となった。これを教訓とし、直後に7.2mの超ロングの玉網を購入したのは言うまでもない。その年を皮切りにウキ釣りにもちょくちょく手を出してはいるが、撒き餌をすると餌獲りがわんさか群がり、ことごとく餌を持って行かれてしまことから嫌気がさしてしまい、次第に疎遠になっている。その翌年に小名浜の沖堤防メバルとメジナ、請戸でボラを複数枚上げて以降、パッタリと釣果なし。現在は、毎回竿ケースに仕掛けをセットした状態で釣り場に持って行っているが、出番は少なくなっている。故にここでは1釣果らしい報告は出来ないのが現状。恐らくこれは好みの問題なのだと思う。磯竿は計4本所持しているが、そのうち2本は一度も使用したことがない。

 4.ブラクリ釣り

 これはアイナメやソイなど岩礁帯や根に棲む魚(根魚)を対象とした釣り。当然根周りを攻めるため、根ズレや根掛かりは必至。その対策として登場したこの釣法は、オモリに特徴がある。道糸を直接仕掛けのちわわ結びの輪に括りつけ、錘とハリが波で揺らがないようにつながった構造をしている。しかも錘は2~5号程度で色はアイナメが好む赤色。錘の真下に針がセットになっていて、私はOWNERバリというメーカーが販売している4号3個セットで294円の物を購入して、毎回使用している。主な使い方は、針にイソメやソフトルアーをぶら下がるようにして刺し、タナは道糸で調整。錘が軽い分、投げには向かず、防波堤に沿って真下に垂らし、際に着く魚を狙う。一見シンプルだが、堤防にへばりつく魚は意外に多く、私自身、この仕掛けを使って相馬の沖堤で、30cmのアイナメや23cmのでかメバルを釣り上げた。新潟東港でも20cmを超えるカサゴを立て続けに2尾釣ったことがある。この釣りは、根周りを探る分、そこに潜み、隠れ家にしている魚たちを結構高い確率でゲットできてしまう。元々ブラクリはテトラとテトラの間に落とし込む、いわゆる穴釣り用に開発されただけあって、アイナメ、ソイ、タナゴ、ドンコもターゲットとなる。このブラクリと似た造りでブラーというのも存在する。錘からハリまでの間が多少空いていて、錘が薄くカーブしていて、それをうまく波に漂わせることで魚の食い気を煽る仕組みだ。

 5.ルアー釣り

最後は昨年から始めた、どちらかと言えば新しい釣法となるルアー釣り。私には縁がない釣りだと敬遠していたきらいがある。きっかけは昨年のゴールデンウィークに新潟東港大突堤での話。私が何とかブラクリでカサゴを2尾釣り上げたものの、その後ぱったり釣果に恵まれず四苦八苦している傍で、私の両サイドに入って来たルアーマンが、立て続けに45cm前後のサワラをヒットしては、キャッチ&リリースする場面に出くわしたのだ。こんなに簡単に大物がゲットできる釣りを見逃す手はないとばかりに、早速行きつけの釣り具屋Kでいつもの仲良し店員Sさんに竿を選んでもらった。そして購入したのがメジャークラフト製でシーバス用の9フィートのルアー竿。値引きが利かないらしく、15,800円也。私が持っている竿の中でも一番高価な竿となった。ルアーの醍醐味は、フィッシュイーターをターゲットにする点。従って当たれば大物となる。スズキ、カンパチ、ヒラメ、マゴチ、クロダイ、イナダ、サバなど。また、ルアー釣りの魅力はその種類の多さだろう。スプーン、ミノー(シンキングタイプ・フローティングタイプ)、ジグ、ワームなどのソフトルアー、エギといった疑似餌をTPOに応じて使い分け、ジギング、エギング、メバリング、アジング、ロックフィッシュというようにターゲットごとに様々なアクションを駆使して魚に食いつかせ(または引っ掛け)るのだ。残念なことに、ルアー導入後2年目の今年まで、未だ釣果ゼロというお寒い状況が続いており、自分にとって縁遠い釣りになってしまっている。今年お会いした地元のルアーマンは、ポイントを知り尽くしていて、その道の人なら誰でも憧れるシーバスを何匹もゲットしているつわものだ。私も今後、彼を手本とし、場に応じた適切なルアー選び、ロッドのしゃくり方やルアーアクションなど鍛錬を重ね腕を磨いていきたい。

 以上が、これまで7年という短いキャリアの中で、私が実践した各種釣法の数々である。今後は、更に未体験ゾーンに足を踏み入れてみたい。中之作漁港やアクアマリンで地元の釣り師がよく実釣しているテンヤを使ったタコ釣りや太平洋は魚影が薄いようだが、何れかのフィールドでアオリイカを狙ってエギング釣法を取り入れてみたいとも思っている。このように釣りの手法は多種多様にある。まだまだ未知の釣り方も沢山存在することだろう。やればやるほど釣りは奥が深いことに気づく。真剣に魚と向き合い、表層、中層。底物とタナの違いで仕掛けを使い分けたり、季節や波の状況、潮汐の具合、時間帯によって釣れる魚も異なるし、フィールドやポイントによって釣果に差が出る。知れば知れば嵌まるのが釣りの面白さなのだろう。最近は、魚の数が激減し、防波堤の釣り(陸っぱり)では、狙い通りの魚を釣り上げることは至難の業のようだ。そこであれやこれや知恵を絞り、思案を重ね、工夫を凝らす、これがまた楽しい。自分が選んだ仕掛けが大当たりした時の気分は最高である。「自分のやり方はやはり間違いではなかった。魚に通用したんだ」という一種の征服感や達成感に満ち溢れる。これだから釣りは止められない。私が「ようこそ釣り天国へ」なるホームページや当ブログを立ち上げたのも、自分が趣味として行ったことを記録として残したいがためであるし、また、釣りを通していろんな釣り師と交流し、友達になれたらこれ幸いである。お陰さまで少しずつ、当ページも認知度が高くなってきたのか、アクセス数が日増しに増えて来ているのを実感している。恐らく一両日中には4万件を越える見込みだ。実に有り難いことだ。また今年は、釣り場で声を掛けられる機会も一気に増えた。何よりである。こうした出会いをこれからも大事にして行きたいと思う。それを毎回当ホームページをご覧いただいた方にお誓いすると共に、今回も当ブログをご精読頂いた方々に感謝しながら二日連続に渡ってお送りした、釣り談義「私の釣法の変遷」を閉じたいと思う。

2009年10月 3日 (土)

釣り談義④ ~私の釣法の変遷 Part1~

 釣りを始めて7年が経過した。これまで私が経験した釣法について、時間の経過とともにどのように変化したか、エピソードを交えながら紹介したいと思う。

 1.サビキ釣り

 この釣りは、回遊魚等の数釣りに適した釣法だ。私が初めて海釣りを体験したのは、家族で訪れた真夏の請戸漁港。カーラジオからは、当時東北高校の2年生だったダルビッシュ有が甲子園で好投していた。そこでたまたま義理の兄が港の岸壁で釣りをしていると言うので合流した訳だが、その際にやっていたのがこのサビキ釣りだった。その竿を借りて試しにやってみたところ、たまたま持ち上げた竿に、イシモチがかかってしまったのだ。その時まで一匹も釣っていなかった義兄は驚き、目を丸くしていた。もしこの時、ボウズだったら釣りを始めていなかったと思う。その後、義兄のアパートに持ち帰り、それを焼いて食べたところ、格段に美味かった。それですっかり釣りにハマってしまい、今日に至っている。この日の出来事がきっかけになった訳が、それまで海釣りに一度も興味を持ったことがなかった私にとって、釣りの仕掛けや道具の知識など持ち合わせている訳などなかった。このサビキ釣り、実は初心者にとって一番気軽にしかも安上がりにできる万能な仕掛けだった。私は義兄や師匠でもある元同僚のアドバイスを受けて、サビキ釣りの中で、最も手軽で釣果が上がるトリックエース仕掛けから入った。この仕掛け、作りは至ってシンプル。スナップに始めから幹糸が2mほど繋がれ、そこに一定の間隔で枝分かれするように7つハリスが結ばれそこにダブル針が付いて、もう片方の端にはスナップと錘(5号)がついている。実売価格が294円で、どこの釣り具屋でも簡単に入手可能。この仕掛け、魚の釣り方はこうである。冷凍ブロックのコマセを専用のバケツに開け、錘を持ってラインを一直線にピンと張り、7連のダブルバリに擦りつけるようにコマセの上をスライドさせて針に餌をくっつけるだけ。これで準備完了。あとは錘を静かに海中に沈めていく。すると針に纏わりついていた餌の小エビが海中にばら撒かれるという寸法だ。すぐに効果が表れ、海中が騒がしくなる。防波堤に寄り添うように漂っていた小魚が、一気にコマセめがけて突進し、餌の奪い合いとなる。時を置かずして直に竿先にピクピクと生体反応が伝わってくる。この時の手ごたえがこの釣りの醍醐味だ。暫く間を置いて竿を上げ、ラインを回収すると、数珠つなぎとなって小魚が上がってくることだろう。逆にこの釣りの難点は、すぐに餌がなくなること。だからおよそ3分置きに竿を上げ、釣針を確認する同じ作業の繰り返しとなることから、やや忙しい釣りでもあるのだ。また、餌取りの攻撃を受けやすい。更には餌を針先に一時的に引っ掛けているだけなので、遠投して仕掛けごと錘を飛ばし、海中にドボンという具合にはいかない。防波堤のヘチ(際)に近い所におそるおそる落とし込む必要がある。よってこの釣りは、実際に竿の長さ分の範囲しか探れないのだ。長い竿でもせいぜい5m前後が限界。主に表層から中層のタナ狙いで、対象魚もメバル、イワシ、小アジ、ウミタナゴ、サヨリなどの小魚がメインとなる。それでも大概、魚というものは外敵から身を守るために防波堤の際や身を隠しやすいケーソンブロックの隙間、テトラ周り、岩などの障害物、根周りに潜んでいる。型は小さくても、結構この種の仕掛けでも確実な釣果が期待できる。現に、私はこの仕掛けオンリーで一日で70匹以上の結果を残したことがある。

 また、この釣りの進化形で、やや遠めの沖合いを狙う時や仕掛けを潮の流れに任せてウキで流すことで広範囲を探れるように開発されたのが遠投サビキである。この釣りの特徴は、通常サビキというと5m周囲程度のエリアしか探れないが、それだけに留まらず、360度、20m以上もの視野をフィールドとすることが可能となる。タックルは4号前後のやや長めの磯竿(ガイドが多くついている竿)に、3~4号ラインを150mほど巻いたリール。それに市販のサビキ仕掛けと錘をスナップで接続。ここまでは通常のサビキ釣りと同様。これに大きめの12号ウキとコマセを詰めるためのカゴ(網製のカゴ、もしくはプラスチック製のロケットカゴ)を装着する。そして後方(人がいないか、道糸から錘まで絡みがなくピンと張っているか)を確認後、あとは気合い一発「おりゃぁ~」と力いっぱい沖に向かって投げるだけ。竿の反動をうまく使うと距離が出る。着水後、リールからのラインの飛び出しが止まったところでドラグを返し、糸フケをとったら、2~3回竿を上下に大きく振り、コマセカゴから餌を出す。そうして魚を誘うのだ。するとコマセの強烈な匂いに引き寄せられた魚が方々から集まってくる。撒き餌と同調した疑似バリ(魚皮やスキン)に食いつくことで当たりとなる。遠投サビキは、やや沖目を探るため、防波堤の際よりも若干サイズアップしたターゲットが狙える。対象魚は、アジ、イワシ、サバ、ワカシ、ボラ、メバル、ウマズラハギといったところだ。

 2.投げ釣り

 サビキ釣りはどちらかと言えば小物の釣り。良型と呼ばれる大物の魚は、体重が重いため、海底近くを棲みかとしていることが多い。サビキは数釣りはそれなりに楽しめるが、毎回魚種が限られることやせいぜい魚の型が20cm止まりである。そこで私は、釣り歴2年目の途中から、主に底物の魚をターゲットにできる投げ釣りへと移行した。投げ釣りとは言っても、砂浜から沖めがけて豪快に200mも投げ込む釣り(サーフ)ではない。あくまで上品に、防波堤や岸壁の上から軽く50mほど錘を飛ばして投げ入れる、いわゆるチョイ投げ程度のものだ。しかし、この釣法の導入によって、飛躍的に対象魚が増え、フィールドも広がった。しかし、当初は勝手がわからず失敗ばかりしていた。まずタックルだが、投げ専用の硬めの竿を要する。私は今では長さ3.9m~4.25mで、錘負荷30号前後の投げ竿を5本所有しているが、投げを始めたばかりの頃、何も分からず磯用の万能竿に20号の天秤錘をつけて投げたところ、竿先から木っ端みじんに折れたことがった。しかも替えの竿はコンパクトのショート竿しかなく、おまけにそこは相馬の沖堤防で第一投目でのアクシデント。さすがにその日はショックで一日釣り場でつまらない時間を過ごした。この釣りの難点は、生き餌を使うこと。初めて目にしたアオイソメはまるでミミズそのもの。こんな得体のしれない生き物を何食わぬ顔で手でつまんでハリに付けるなど、そんな大それた芸当は私には100%無理だと思っていた。しかも韓国産のアオイソメは、針に付けた後、反撃し、指に噛みついてくることがあるし、針に刺す際にピュッと水を出すのが無性に嫌だった。また、それ自体針に刺すのが非常に難しく、チョン掛け程度だと投げた時に針から外れ、餌だけが別方向に飛んで行くことも何度かあった。今では鍛錬の賜で、房掛けもお手の物となったが。このイソメ類は、何にでも相性抜群の万能餌なのだが、手が荒れるという欠点がある。最近私の手は、イソメにつく粉を流すため、海水で手を洗っていることもあって、指の皮が10本全部剥けてしまっている。また、女性アングラーには、その風貌からしてニョロニョロで気味悪がられる餌なので、あまり好まれないだろう。実はこのイソメ類にもいろいろな種類がある。最もポピュラーなのがアオイソメで価格も安い。全国チェーンのJ屋では、160gで1,050円。70gだと525円でプラのパックに入っている。J屋のイソメはてんこ盛りでモチが良く、160gひとパックあれば一日防波堤で釣りを楽しんでもお釣りがくるほどだ。また、アイナメに抜群の効き目を発揮するのが小名浜でしか入手できない通称「マゼ」という生き餌。これは値段が高いが、一匹が長く、何回か切って使うらしい。更に、アカイソメというのがマムシのこと。これも値段的にはアオイソメより断然高価だ。70gで725円する。しかしこれはカレイが大好物。また、ウミタナゴやシロギスの食いがいいのがジャリメやゴカイである。これは細いのでよくちぎれてしまう。いわき地区特有の特エサでシュウリシタというのがあるらしい。私はお目にかかったことはないが、これは長くて固いらしい。モチが半端じゃなく良くて、切って使うようだ。この餌は何が凄いかって言うと、どうもクロダイしか食わないらしい。だからもし当たれば自然にクロダイということになる。他にもフクロイソメというのがあるが、対象魚や用途によって使い分ければ良いだけの話だ。

 次に肝心の仕掛けだが、大きく2種類あると思って差し支えない。ひとつは通称「ぶっこみ」とも呼ばれるが、天秤(海草・ジェット)錘に仕掛けを結んで投げる釣り方である。錘が海底に沈み着底する。糸フケをとって後は当たりを待つだけの単純明快な釣法だ。仕掛けがべた底で、餌が独自の動きを見せ、それを付近を徘徊する魚が見つけ、食わせる。いわゆる向こう合わせの釣りである。これは「待ち」と「忍耐」を要する釣りでもある。このポイントは、餌がどれだけ活発に海底を動き回り、餌がここにいることをアピールしてくれるかどうかにかかっている。投げ釣りのメインターゲットと言えば、アイナメとカレイだろう。カレイについては誘いが大事とよく言われる。だから仕掛けはド派手。エッグボールや色鮮やかなシモリ玉や飾りをつけて魚にどんどんアピールすることが必要。一方アイナメは赤い色が大好き。仕掛けに赤色のハリやブラクリ錘を使うことが多いのはそのため。しかしながら正直、天秤用の仕掛けも色々ありすぎてどれを選んだらよいのか苦慮してしまう。私は基本的に2本バリのシンプルなものを使う。3本バリだと根掛かりは必至。仕掛けが回収できなくなり、錘を失うかハリスごとハリ自体を失うか、またひどい時にはラインが切れ、仕掛けを丸ごと失うこともある。これが釣り師にとって一番悔しいことだ。ところで私のタックルは、5号以上のラインを使い、ハリスも4号以上でハリ自体も12~14号、餌はイソメ類を一つのハリに大小2つ以上付ける。これくらいの頑丈さがないと、根掛かりや不意の根ズレに対応できない。そして錘は20号が最低ライン。重いほど竿の反動を利用でき、仕掛けを遠くに飛ばせるからだ。また、錘が軽いと仕掛けごと潮に流され、気がつくと根掛かりばかりという悲惨な目に遭うことになる。しかし、実際のところ、仕掛けを遠くに飛ばせば釣れるというものではないらしく、海底の起伏に富んだ所や根周り、波消しブロック(テトラポット)などの障害物に魚はつきやすい。そこをポイントと呼ぶが、釣果を上げるためにはいち早くそういう場所を探り当てることが勝敗を分ける。特に防波堤では、砂浜のサーフとは違ってチョイ投げ(20m程度の軽い投げ釣り)で十分だと言われる。防波堤は元来、大波や津波から船や港内を守る役目があり、沖に向かって海側にせり出している。よって波が激しくぶつかることから潮流が生まれ、テトラ帯が魚の着き場となるのだ。逆に大海原にポツンと餌があっても広い海の底でその餌を探し当てることの方が至難の業ということになる。この釣りの醍醐味は、仕掛けを回収してみないと何が釣れているのかわからないところにある。魚影が水面に現れた時の感激と興奮は他の釣りにはないものだ。よって私が一番好きなのが投げ釣りなのだ。この釣り、寒くても大丈夫。逆に冬場にこそ活躍する季節を選ばない釣法なのだ。冬になると水温が下がるため、魚はより水温が安定する深場へと落ちる。その魚を狙い撃ちできるのだ。主なターゲットは、アイナメ、ハゼ、スズキ、ソイ、ドンコ、アナゴ、カレイなどで、いずれもイソメ類が大好きな魚たちで、一発大物の夢が膨らむ釣りと言える。また、向学のため付けくわえれば、カレイとハゼはやや泥底を好み、シロギスやイシモチ、ヒラメなどは砂底を好むようだ。

 次にもう一つ、投げ釣りの仕掛けを紹介すると、胴突き(下錘)である。これは仕掛けの両側にスナップが付いている。その片側の端には錘を、もう片方の端には道糸を結ぶ。根掛かり対策としてショックリーダー(力糸)を結ぶと怖いもの無しだが、私は使用した試しがない。この釣りは餌が海底に着底せずに、斜めにピンと張ったラインの途中、海底から10~20cm上のところを餌が漂うことで魚の食い気を煽る。この釣りの対象は、主にメバルやセイゴ、カサゴ、シロギス、そしてイシモチである。だが、私のこれまでの経験から言うと、天秤仕掛けに比べると、胴突き仕掛けは、ハギ類やフグなどの餌取りの被害に遭いやすく、べた底の天秤よりも釣果は悪い気がする。当たりがあっても、餌をハリごと飲み込む天秤とは違い、ばらしやすいという欠点がある。この投げ釣りを始めてから、何かと根気が必要だが、真冬でも釣行が可能になるなど私に釣りの楽しみを倍増させてくれた、何かと感謝すべき釣法なのだ。

 ここでもう一つ紹介しておきたい投げ釣りがある。それは広野町にある火力海浜公園仕様とも言うべき投げ釣りだ。それは投げ竿ではなく、4号程度の磯竿を使う。ウキは使わず、いわば広野流ぶっこみ釣りだ。タックルは10号の中通し錘に道糸4号を通し、ストッパー用のクッションゴムをつける。その下はサルカンとハリス&一本針としてチヌバリ3~4号をセットする。餌は主にオキアミのエビ。なぜこの様なスタイルかと言うと、ここは火力発電所の温排水が常時勢いよく排水口から出されていて、その急流めがけて仕掛けを投げ入れるからだ。当然、錘や仕掛けは流され、釣り場はオマツリ必至。更に悪いことにこの釣り場の海底は沈み根だらけ。根掛かりしない方が珍しい感じだ。そこで生み出されたのがこの釣法なのだ。ここは何が凄いって1~2月の冬場に50cmを超すクロダイが釣れること。現に私は4~5回ここを訪れたが、毎回誰かしらはクロダイを上げている。そして夏場は、40cm前後のカンパチが回遊していること。私自身も夏に、この2種類をこの釣り方でゲットしている。ここ3年は、釣り場がえらい混むのと駐車場から釣り場まで急勾配の階段を上り下りするしんどさなどから飽きてしまって行っていないが、この地ならではの釣法である。

 思いのほか文面が長くなったため、ウキフカセ釣りとブラクリ釣り、それにルアー釣りに関しては次回の記事に先送りしたいと思う。

 

 

2009年10月 1日 (木)

我が故郷

 今日から10月、暦も改まり心機一転の今朝方、街角には冬服に装いを替えた中高生の姿が大勢見受けられた。それにしても「暑さ寒さも彼岸まで」とは言うものの、ここ数年は、この時期の朝夕の冷え込みはさほどではなく、一概に暖かい日々が続いている。金木犀の花が一週間ほど香わしい仄かな匂いを漂わせ、周囲を優しく秋色に包んだ後、これからいよいよ本格的な紅葉シーズン、更には行楽シーズン到来となる。先週末、釣りの帰路で20年振り以上で通った夏井川渓谷は、まだその気配が予兆程度にしか感じとれなかったが、標高の高い吾妻連峰や安達太良の頂きでは、薄っすらと色づき始め、秋の足音が迫りつつあることをほのめかしている。そんな季節の移ろいを肌で感じながら、この現世に生きている幸せを身近に感じていたいと願う今日此の頃である。それだけ自分も知らず知らずのうちに年を重ねてきたのだとしみじみ思い、感傷に浸ることしばしである。

 さて、今回は故郷について語りたいと思う。わが故郷は、言わずもがなであるが、福島県である。東北の最南端に位置し、とりわけ面積では、日本全国47都道府県中、3番目の広さを誇る。都会の雑踏や喧騒からは程遠く、公害や雑念とはおよそかけ離れた無縁の土地柄で、かの有名な高村光太郎の妻、智恵子の生まれ故郷でもあり、その彼女を持って言わしめた名台詞が「東京には空がない。福島にはほんとうの空がある」である。海と山々と川に囲まれた豊かな環境下にある。また、お国自慢になるが、地酒がすこぶる美味く、また果物王国と異名をとるほど食い物にかけては事欠かない。そんな自然に育まれた風土と風習、そして何より人情味あふれる人付き合いがあるのだ。ここで特筆しておきたいのは、独特のお国訛り、いわゆる方言についてである。生粋の郡山っこである私は、何の違和感も持たずに自然と訛りが身についたようだが、興味深いのは郡山の夏を彩る「采女祭り」の歌詞である。その中には、「みなさん見でねでまざんねがい」という一節がある。更には、語尾に「~だばい」と締めくくる。何とも垢ぬけしないようで、田舎者の象徴といった印象は拭い去れないが、私くらい年輪を重ねたものにしてみれば、妙に愛着があって嫌がおうにも郷愁を誘う文句である。

 しかしながら、私は子供のころから、こうした訛りを尊重していた訳ではない。どちらかと言えば、敬遠しあまり使いたくはなかった。実はこんなエピソードがある。十代の頃、北海道の大学に進学した私は、或るサークルの新歓コンパで、お酒の勢いも手伝い、話に夢中になっているうち、つい「そうだばい」と言ってしまい、それを聞いた県外出身の友人に笑われたことがあった。それ以来、方言で話すことを恥のように感じ、忌み嫌うようになった。また、郡山では、お年寄り言葉として、「疲れる」ことを「こわい」と表現する。これも通じなかった。逆に誤解を招いた。その2年後、東京のキャンパスに移動してからは、方言は固く封印してしまった。むずかゆさと違和感を感じながらも、「~じゃん」とか「~だよね」といった横浜言葉や標準語を努めて話すようにした。また、個人的に私は人混みが嫌いで、移動は電車を使うことを憚っていた。通学は専ら二輪。買い物や帰京の際の交通手段すら電車を使うことを避けた。別段、人との接触を回避したわけではないが、自然とこうなった。一度、友人と六本木で終電後の深夜まで酒を飲んだ帰り、タクシーを使ったことがあった。行き先を告げ、滞在先の品川のホテルまで運転手と会話をする中で、「お客さん、東北の方?」とズバリ見抜かれ、ドキッとした経験があった。どう取り繕ってもどこかでバレてしまうらしい。

 実際、私は東北人の言葉は濁りが強く、普通に会話しても発音が汚く、雑に聞こえるような気がしていた。よく「づーづー弁」とか「東北訛り」とか耳にすると、何か蔑まれている気がしてならない。ところが関西人は我々東北人とは感覚が180度違う。中学1年の時、家族旅行で訪れた大阪でそのことに気づいた。すべてがあからさまで、電車の中だろうが、道端であろうが、公衆の面前でも正々堂々と大阪弁で話を通す。東京でも関西の人は同様で、人目を憚らず、標準語などには目もくれず、話している最中でも人に言葉を合わすことすらなく、関西弁を崩さず喋りまくっている。恐らくは関西地方は、日本の歴史や文化の中心だったという自負と気候風土、更には民族性がそうさせるに違いない。陽気で話好きで口達者の気質に加えて、芸を好み、必ず会話の中にボケと突っ込みを交ぜ、最後にはオチを入れる。その楽観性と滑稽さに、周囲から見れば羨ましいとさえ感じる。

 私自身、東京の大学を卒業し、郷里に戻ってから22年の月日が流れた。「故郷は遠くにありて思うもの」という言葉があるが、大学生活の4年間は、私に改めて故郷の良さを見つめなおす良いきっかけとなったと思う。確かに中高生時代は、都会への憧ればかりが強く、田舎の良さを認めようとはしなかった。新し物好きで、常に流行を追いかけていた。「いつかはこの土地を飛び出して、陽のあたる場所に出て、ひと旗あげて故郷に錦を・・・」という気持ちが強かった。ところがどうだろう。いざ自分が年を重ねてみると、自らが住みなれた町にはやはり次第に愛着が芽生えてきたのだ。結局行きつく場所はここでしかないのだ。あれほど毛嫌いしていた訛りも受け入れられるようになり、今ではある種の愛しさのような感情すら抱いている。これはやはり、県外に出てみて、外から故郷を見つめたことで初めて感慨深く気づくことなのだろう。

 最後に、我が故郷を世間にPRする意味で、福島県の観光地や名所、その土地の名産品などを紹介して結びとしたい。ご存知の通り、福島県は東西に長い県である。北東の端に位置する新地町から南西の端にある桧枝岐村までは直線距離でも200km以上ある。これだけ広大な面積を抱えると、見どころはふんだんにある。県内は主に縦割りで浜通り、中通り、会津(通称はまなかあいづ)に区分される。以下箇条書きで列挙したい。

 浜通り

 新地―海釣り公園がすごい!夏場は火力の温排水の恩恵で毎日カンパチやイナダといった回遊魚が200匹以上釣れる。相馬―松川浦大橋のライトアップがドライブに最適。夏には潮干狩りを楽しめる。国道沿いに岩壁に彫られた百済観音もご立派。南相馬(旧原町市)―勇壮な野馬追い・無線局跡、シーサイドパーク・火力海釣り公園で青物釣り。浪江―DASH村、請戸秋鮭の遡上。富岡~大熊―原子力発電所。広野―日韓ワールドカップではアルゼンチンが合宿を張ったJビレッジ、天人岬でバーベキュー、広野火力海釣り公園は真冬に良型クロダイが上がる。いわき―国宝・白水阿弥陀堂、恐竜遺跡発掘で有名な大久川、アンモナイトセンター、夏井川渓谷の紅葉、常磐湯本温泉、スパリゾートハワイアンズの巨大室内プール、恐竜化石石炭博物館、小名浜ららみゅうで新鮮な魚介類のお買い物、アクアマリンふくしまで家族でお勉強、遊覧船でカモメに餌付け、マリンタワーで360度の巨大パノラマ展望、勿来の関所で古の歴史に触れる。勿来火力発電所では砂洲でヒラメ釣り、いわき七浜海水浴場で夏を満喫。

 銘菓・名産品は「じゃんがら」、「みよし」、好間「ジャンボシュークリーム」「めひかり」

 中通り

 福島周辺―有料観光道路「磐梯吾妻スカイライン」を登り詰めれば、すり鉢状の火口が印象的な吾妻小富士、土湯温泉ではこけし作り体験、飯坂温泉で旅の疲れを癒し、四季の里では、ガラス工房でオリジナルカップ制作、花見山公園では四季折々の花に触れ、アンナガーデン(教会)で眺望を楽しむ。中野不動尊は滝に打たれて夕涼み、福島地方競馬で一攫千金を目論み、霊山子供の村で童心に帰る。飯野町UFOふれあい館で異次元体験。二本松―安達が原ふるさと村ではバッピーちゃんと戯れ、霞が城で歴史探訪。11月の提灯祭りで艶やかさに陶酔し、菊人形でNHK大河ドラマを回想する。岳温泉では温泉三昧、昭和の森・オートキャンプ場ではトレーラーハウスに泊まって優雅なアウトドア体験、安達太良山登山で気分爽快。本宮周辺―コミュニティFMモットコムで地域の生の情報を入手、アサヒビール園では、ジンギスカンとスーパードライで舌鼓。三春―ハーブ園でポプリやラベンダーの香りに心酔。杜のくまさんでお気に入りのパンを食し、三春ふるさと村の民話茶屋で小休憩。三春ダムでバス釣りを体験したら、日本三大桜に数えし滝桜の威容に生命力を取り戻す。常葉町のムシムシランドでカブトムシと語り合えばあなたも昆虫博士。郡山周辺―ユラックス熱海でアイススケートを満喫し、温泉で疲れをとる。石莚ふれあい牧場で乳搾りやポニーと出会い、布引公園風車群で眼下に広がる猪苗代湖の眺望を満喫する。スペースパークに昇ればプラネタリュウムで星の浪漫に現世を忘れるほどの宇宙体験。須賀川周辺―牡丹園で花々と季節を感じ、大桑原つつじ園では何千本ものカラフルな躑躅に心を奪われる。乙字ケ滝で涼んだ後は岩瀬牧場で乳牛と触れ合う。羽鳥湖でゴルフ場・スキー場でスポーツに熱中し、レジーナの森でもテニス・バス釣り・キャンプのアウトドア体験。キョロロン村は子供パラダイス。ブリティッシュヒルズで異国文化と出会う。白河周辺―ここでカップルでボートはタブーの南湖公園、白河だるま市は全国でも有数の賑わい、黒塗りのシックな三重櫓の小峰城で歴史を語り、アウシュビッツ記念館では命の大切さを学ぶ。ルネッサンス棚倉で乗馬体験。滝根町―あぶくま洞、入水鍾乳洞、では外気温を忘れるほどの幻想空間。星の村展望台で新星を発見?小野町―りかちゃんキャッスルで昔を回顧。

 銘菓・名産―桃・葡萄、飯館牛、武者煎餅、霊山漬、薄皮饅頭、ままどおる、檸檬、エキソンパイ、白河ラーメン、かんのやゆべし、あさか舞い。 

 会津

 猪苗代湖周辺―天鏡閣は明治を感じる由緒正しき建造物、南が丘牧場でミルクアイスを頬張り、スキー場でいい汗を掻く。野口英世記念館で偉人の生涯を辿り、世界のガラス館では職人技に驚嘆。裏磐梯五色沼では、紅葉の下ボートで語らい、桧原湖はワカサギ釣り・ボートフィッシングのメッカ。宝の山と形容される磐梯山の威容に圧倒され、旧熱塩駅では日中線の記憶を辿る。日中ダムでは湖の底にある村の景色を想う。喜多方―蔵の町で馬車に風情を感じ、坂内食堂で名物を味わう。荻野漕艇場では地元高校生たちのボートの練習を見守り、山都では新そばに舌鼓。会津若松周辺―飯盛山・白虎隊祈念館では幕末の戊辰戦争の犠牲となり、非業の最期を遂げた厚顔無恥の隊士の遺影に哀悼の意を捧げ、珍しい建造物さざえ堂で工法を探り、日新館では、「ならぬものはならぬ」の会津武士道の精神を注入される。瀧澤本陣では刃の痕跡に戦の悲惨さに平和を誓う。、会津武家屋敷では武士の家屋や生活様式を体感でき、会津村では巨大慈母観音の高さに見とれる。東山温泉では名物、味噌田楽や川魚に腹具合を整え、鶴ヶ城では、松平容保の徳川家への忠誠心に触れ、隣町の本郷町では焼き物体験に心弾ませ、田島に向かう途中の芦の牧温泉で露天風呂につかり、旅の疲れを癒す。茅葺屋根の湯野上温泉駅で旅の情緒を味わった後は、旧街道の道すがら、奥座敷・大内宿では江戸時代にタイムスリップ。川沿いにかかる塔のへつりの吊り橋に揺られ、茶処で鮎の塩焼きを食らう。断崖に築かれた柳津虚空像尊の石段を上ってお参りを済ませれば、茶屋で名物あわまんじゅうを味わう。斎藤清美術館で版画の世界に魅了された後、山奥深くに分け入る。やがて尾瀬で水芭蕉や野草や水生植物と交わる。そして旅の締めは田子倉湖。天高く馬肥える秋を地で行く大自然の懐に抱かれて本当の自分を取り戻す。これが旅の醍醐味なのだろう。

 銘菓・名産品―強清水てんぷら饅頭、喜多方ラーメン、山都そば、日本酒(飛露喜・天明・花泉)、みそ田楽、こづゆ、白孔雀ジャンボカツ、柳津あわまんじゅう、高田梅

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