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2009年10月 7日 (水)

夢を運ぶ L特急ひばり

 昔話をしだすと年をとった証拠と言われそうだが、私は小学生時分、何かにつけ好奇心だけは旺盛な子供だった。始末が悪いことに、色々なことに首を突っ込んでは長続きせず、すぐに飽きてしまい、そしてまた同じことの繰り返しだった気がする。そんな少年時代にあって、私が嵌まったのは「鉄道」である。電車の写真を撮りに行くのも好きだったし、乗るのも大好きで、持ち前の研究心に火が付き、親に強請って買って貰った、当時小学館で発行していた「鉄道大百科」や「特急大辞典」などというコンパクトサイズの本を読み漁ったものだった。そのきっかけとなったのが、毎年夏休み中に、まるで決まりごとのように実施していた東京方面への家族旅行だった。その際、初めて特急列車に乗った時の感動は今も忘れられない。クリーム色に赤のラインが入った車体は、ずっと私の憧れだったし、今でも瞳を閉じれば、当時のあの勇姿が鮮明に瞼に甦ってくる。特に私が熱をあげていたのは、「L特急ひばり号」である。

 昭和40年代後半から50年代にかけて、当時小学生だった私は、郡山駅の東京へ向かう上り5番線ホームの上で、遥か線路の彼方からヘッドライトが眩しい長く連なった車両が現れると、胸の鼓動は高鳴り、身震いするほど気分は最高潮になった。私を「東京」という憧れの世界へといざなう、まさしく夢の特急だった。この頃の車両は食堂車とグリーン車を伴った12両編成で、先頭部分が流線型のボンネット型(正面の運転席の窓の上には力士のチョンマゲを彷彿させる形のライトが印象的)の481・483・489系の電車で、その後新幹線0系のモデルになったと言われている。それから暫くして、特急列車の代名詞と呼ばれるまでになったフロントマスクが凹凸がなく平面で垂直型の485系や583系にバトンタッチされた。この「ひばり号」は仙台~上野間を一日20往復以上する、東北本線で最多の特急だった。L(エル)特急とは、Limited ExpressとかLinerの略語で、昼行で運転本数が多い旧国鉄在来線の特急列車を指す。表定速度は時速80km台後半ながら、瞬間最高時速は140km/h以上で巡行。郡山・上野間を2時間半弱で走り抜けた。

 私たち家族が東京旅行に赴くのは、家業がひと段落するお盆明けの日曜日。つまり2学期始業式の直前となる最後の日曜日だった。だから思い入れも一入だったし、夏休み最後の思い出づくりにはもってこいだった。毎回乗車する電車は決まっていて、7時49分郡山駅発「L特急ひばり1号」だった。上野到着は10時14分なのだが、その道中はわくわくドキドキもので、寝ている暇などなかった。窓の外を矢のように飛び交う見慣れぬ景色の連続に心は躍り、期待感で充足される。停車駅ごとに車内アナウンスが入ると、聞き慣れない路線との接続(乗換案内)にも心が時めいた。2時間半の旅の途中、車内では幾つか面白い出来事が起こる。まず、県境を越え栃木県に入って最初の停車駅が黒磯だが、ここでいきなりハプニングに巻き込まれる。突如として車内の電気が一斉に消えるのだ。これは、黒磯を境に交流から直流に切り換わるためで、その間、電車は惰性で徐行する。モーター音がパタリと止み、あるポイントを通過すると、再び室内灯がともり、モーターが再始動するのだ。その黒磯は、国鉄車両の基地兼車庫もになっていて、広大な敷地に夥しいほどのレールが並び、見慣れぬ色の電車が休んでいる。また、宇都宮を過ぎると、私鉄東武線の立体交差が頭上を横切ったり、小山駅の先からは、それまでの田園風景は姿を消し、替わって見渡す限り、アスファルトとコンクリートジャングルへと変貌する。

 さらに「L特急ひばり」が大都会・東京に近づくと、更に周りの風景は一変する。想い出話として、見送りの母親から「大宮を過ぎたら、トイレへ行っておきなさい」と言われたことを今でもなぜか耳に残っている。郡山では決してお目にかかれない高層ビルの群れ。そして街角には人、人、人、そしてまた人の波。線路沿いには高い防護壁。そしてその上には林立する雑居ビルたち。やがて信じられないようなレールの数。更には一分置きに通過する駅のプラットホーム。やがて水色や黄緑色した国電の車両と並走。終点上野駅が近づくとゆっくりと車両は下りだし、地下のトンネルへと入っていく。ほどなく終点を告げる最終の車内メロディー「鉄道唱歌」が鳴り響くと乗車時間の終焉を意味する。列車はゆっくりとスピードを落とし、やや暗がりのプラットホームに滑り込む。電車の乗降口(タラップ)から降りて、まず違うのは独特な匂いと騒々しい雑音。そして「モアッ」と来るような熱気。これが都会の匂いなのだ。すぐさま周りの人は皆、一分一秒を争うかのように、そそくさと乗換のために早足に改札へ向かう。都会の景色は何かと忙しい。終着駅である上野駅には、まるで大宮に出来た鉄道博物館のように、地方からここを目指して集まって来た見慣れない列車たちが居並ぶ。常磐線経由の「ひたち」や上越線回りの「とき」、高崎線・信越本線を通る「あさま」、金沢行きの「白山」などがそうである。そして長い「ひばり号」の車体の横を名残りを惜しみながら改札口を目指して歩く。そして先頭車両の先には、行き止まりを意味する車止めがある。そこからボンネット型の先頭車両の写真を記念撮影するのが、年中行事だった。そうしてから、改札を出るのだが、ただでは済まない。乗車券は「東京都区内行き」なので、都内の駅舎を出るまで使える仕組みになっているので、駅員に渡さないが、指定席の特急券を回収する際、使用済みのスタンプを押してもらい、それを旅の土産として持ち帰るのだ。これが往路の一部始終だ。

 その後、約半日、東京で楽しいひと時を過ごす。よく亡き父親に連れて行ってもらったのは、後楽園、豊島園などの遊園地、皇居、東京タワー、国立博物館・上野動物園、NHK放送センター、巨人のナイター観戦、神宮外苑、船の科学館、秋葉原にあった交通博物館、銀座、新宿副都心など。2回ほど「はとバス」に乗車し、霞が関ビルで夜景を見ながらの夕食やいしだあゆみの歌謡ナイトショーたこともあった。日帰りが多かったが、宿泊を伴う場合は、ホテルは何故か安く泊まれる恵比寿の特定指定旅館だった。そしていよいよ帰路となる。

 日帰りの場合は、夜行急行列車で帰路に就くというのが定番だった。「L特急ひばり」は仙台発着なので、上野から4時間以上かかる。今でも新幹線はそうだが、当時から特急列車はその速度ゆえ、騒音と振動が大きく、午前零時を跨いでの運転は行われていなかった。従って帰りの足は、特急の次に早い急行列車での帰還というのが専らのパターンだったという訳だ。20~21時台の電車の時刻まで時間に余裕があると、決まって時間潰しに訪れたのは御徒町駅から上野駅まで連なるアメヤ横町(通称アメ横)だった。時に浅草まで足を延ばすこともあったが、普段はこれが定石。お土産を買い込み、いざ電車へ。この急行列車、演歌「津軽海峡冬景色」を思わせるような郷愁列車で、ホームに入線して来て、ドアが開くタイミングに少しでも遅れると、すぐに満席となり、帰りはずっと立ちっ放しか乗降口のタラップ付近に新聞紙を敷いて座ったものだった。この急行列車は、たいていが「あづま号(福島行き)」か「ばんだい号(会津若松行き)」で、クリーム色に横に小豆色のラインが入ったツートンカラーの電車だった。色合いが田舎くさいと何度思ったことか。この車両、今でも在来線の普通列車でよく見かける型で、475系か457系と呼ばれる車体だった。このタイプも、外見の見た目の形は全く同じに見えるが、間違えないように路線によってカラーリングが異なっている。見たことが一度はあると思うが、東北本線は宇都宮止まりの列車だと緑とオレンジのツートンカラー、関東近郊や横須賀線などはクリーム色と紺色のツートンというように、見た目の色で識別化を図っている。少し説明が過ぎたようだが、帰りのその急行を利用すると、郡山までの所要時間は、特急よりも1時間近く遅い3時間半。更に夜間走行なので、スピードは控えめで、停車駅も若干多い。赤羽・大宮・小山・宇都宮・西那須野・黒磯・白河・須賀川、そして下車駅となる郡山の順。だから、到着はいつも深夜近くになる。郡山駅到着後は、決まってタクシーで自宅前へ。これが真夏の世の夢の如く、私が毎年楽しみにしていた、特急列車に纏わる家族旅行の一部始終である。

 ここで当時、東北本線(常磐線経由を除く)を運行していた特急や急行を紹介したい。

 昼行特急

 「ひばり」(上野~仙台)、「やまびこ」(上野~盛岡)、「やまばと」(上野~山形)、「つばさ」(上野~秋田」、「あいづ」(上野~会津若松)

 寝台特急

 「はつかり」(上野~青森)、「はくつる」(上野~青森)、「あけぼの」(上野~秋田)

 急行 

 「あづま」(上野~福島)、「あぶくま」(上野~福島)、「ばんだい」(上野~会津若松)、「まつしま」(上野~仙台)、「いいで」(上野~新潟・磐越西線経由)、「出羽」(上野~酒田)、「蔵王」(上野~山形)

 夜行急行

 「八甲田」(上野~青森)、「津軽」(上野~青森)、「北星」(上野~盛岡・寝台急行だが後に特急に) 

 以上見てきたように、私の鉄道に対する思い入れは人並み以上のものがあった。今で言う「鉄道オタク」っぽい感覚があった。鉄道に関して、他に私が実践していたことを列挙すると・・・

 ① 鉄道写真(主に小5~小6) 線路内に立ち入って運転士に警笛を鳴らされた。カメラに凝り、アングルやシャッター速度、絞りなどのテクを身につけ、これが高じて白黒フィルムながら、自分で現像、印画紙に焼き付けや引き延ばしをするまで熱中した。

 ② Nゲージ(小6) プラレールから始まり、本格的なNゲージへ。SLや特急列車の車両を集めた。積水金属製やTOMIX製が主流の大人のおもちゃとも言える道楽的な趣味。

 ③ 「鉄道百科」で全国の特急列車(電車・ディーゼル特急・寝台特急・列車名・路線名など)について調べ上げ、小学生としては「特急博士」と言われるくらいの知識を身につけた。

 ④ 時刻表の研究 日本交通公社(現JTB)や鉄道弘済会発行の大判の時刻表を買い込み研究した。気節列車や臨時列車、電車の接続、電車の名称、車両記号、編成、切符の種類、乗車料金や特急料金の計算方法、更には宿泊先まで。そして空想の中で、旅行計画なども立てたりして遊んでいた。

 ⑤ 旅番組や鉄道番組のチェック 現在もDVDに録画している。特にBS-Japanで金曜日の夜に放映している「鉄道模型」は毎週チェックしている。また、昨年NHK教育の「趣味悠々」で放送していた三波豊和司会の「鉄道模型制作入門」は毎回録画していた。

 ⑥ 記念切符や駅のスタンプ集め(大学時代) これは大学時代、北海道の同じアパートに住んでいた地理学科の友人が、当時流行っていた「国鉄チャレンジ3万キロ」というイベントに挑戦していた影響で始めた。その友人は、「青春18きっぷ」(1枚2,000円の5枚つづりで、普通車なら国鉄全線2,000円で1日乗り放題のトクトク切符)をフルに使い、日本中のすべての路線を制覇した。そして各駅で停車した際に、プラットホームの駅名の描かれた標識の前で写真を撮り、駅舎に備え付けのスタンプを集めていた。世の中にはどえらいことにチャレンジする奴がいるもんだと感動した。

 以上、述べてきたように、少年時代に夢中になったことや自分の生き方に影響を与えたものは、年をとってからも絶大だ。残念ながら私が愛した「特急ひばり号」は、1982年に、東北新幹線が大宮駅暫定で開業を始めたのを機に全線廃止されてしまった。「ひばり号」の名称も、東北新幹線の車両の名前として生き残ることはなかった。在来線特急だった「やまびこ」や「つばさ」のネーミングが新幹線の名前として後世に受け継がれていくのであれば、仙台発着の新幹線も「あおば」ではなく、当時鉄道ファンから絶大な人気を誇り、惜しまれながら姿を消した、なおかつ存在価値が大きかった「ひばり」で良かったのではないかという疑念を今でも抱いている。「はつかり」もまたしかりだが、ぜひ遺産として残して貰いたい気持ちでいっぱいだ。そして今後であるが、もし時間と経済的な余裕があるのであれば、もう一度鉄道模型の世界に足を踏み入れてみたい。部屋中をコンパネを敷き詰め、発泡スチロールや紙粘土で地形(ジオラマ)を作り、オリジナリティー溢れるレイアウトを自作し、そこを自らが操縦(運転)する列車(Nゲージ)を走らせたい。ささやかな夢だが、退職後にでも行動を開始できればと思う。また、あと5年で私も50代となる。JRの乗車券や旅行クーポン券が割引となる「大人の休日倶楽部」のミドルパスに入会し、5%オフで旅行をしまくりたい。やがて65歳以上になれば、30%オフとなるジ・パングに入って日本中を隈なく旅してまわりたいものだ。そう考えると、年をとるのも悪くない気がする。そして何れ何年後かにこの記事を見返した時に、この時分の夢を実際に追いかけているかどうかを検証することができるだろう。その日を楽しみにしつつ、今回のブログを閉じることにしよう。

13d58e9a9dab0d6e49256634004a67fam11  東北本線を闊歩する「L特急ひばり」の往年の勇姿。ボンネット型は一番古い型で、481・483系と呼ばれた車両。当時、仙台~上野間を4時間で結んだ。1984年の東北新幹線開業に伴い、多くの鉄道ファンに惜しまれつつ廃止された。現在は、鉄道博物館に先頭車両が展示されている。

 

 

  

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