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2009年10月23日 (金)

会津の魂(こころ)

 ちょっと前の話になるが、不倒不屈の精神で不死鳥のごとく甦った或るアスリートの記事がスポーツ紙の一面を飾った。その人の名は、今年8月に開かれた世界陸上の男子マラソンで日本人最高の6位に入賞し、見事復活を果たした佐藤敦之である。そのちょうど一年前、彼は地獄をみた。日本のエースとして全国民の期待を一身に背負い、北京オリンピック代表として同種目に出場しながらレース前の調整に失敗し、完走した選手の中で、最下位(76位)という屈辱的な結果に終わった。帰国後、彼はマスコミ各社に叩かれ、「日本の恥さらし」とばかりに強烈なバッシングを浴びた。あまりの仕打ちに、精神的にダメージを受け、一時は走るのが怖くなり、本気で引退を考えたという。

 しかし彼は、不屈の精神でどん底から這い上がり、奇跡的に立ち直った。彼を支えていたのは、「このままでは終われない」という意志の強さと同じトップアスリートとしてオリンピックに出場し、同時に女子800m日本記録保持者でもある妻の杉森美保の内助の功であった。瀬戸際まで追い込まれた彼を窮地から救うと共に、互いに励ましあい、気持ちを尊重し合った真の意味での美しき夫婦愛。この苦難と大きな人生の壁をも乗り越えた、まさに二人三脚で掴んだ復活だった。

 その彼は、何を隠そう福島県の会津出身である。その土地柄は、「ならぬものはならぬ」と代々伝わる会津武士道の厳しい精神を受け継ぎ、上下関係を尊び、礼節をわきまえるといった、古来からの作法や教え、躾までもが行き届いた所なのだ。そして会津人は忠義を重んじ、情け深い。この地出身の有名人では、「総理の椅子を蹴った男」として政治史にその名を残す大政治家の伊東正義や実直かつ頑固一徹でありながら反面、人情家でもある現民主党議員の「政界の黄門様」こと渡部恒三がいる。また、芸術の分野では、会津をこよなく愛し、郷土に根ざした純粋な作品を数多く残した版画家の斎藤清らがいる。こうした著名人を数多く輩出している会津とはどのような特徴があるのかと言えば、まず、四方八方を大自然の山々に囲まれた豊かな風土を持ち、厳しい冬の環境下にも人と人とが互いに助け合いながら生活する、いわば人付き合いの良さが際立ち、人情味に溢れている。そうした会津の気候や気質を如実に物語るに格好の言葉が存在する。それは「会津三泣き」である。ご存知だろうか?一つ目は転勤などでその地に赴くことになった者が「そんなに冬が寒くて自然が厳しい場所に行きたくない」と言って泣き、実際に訪れてみて、現実の寒さに直面して泣く。二つ目は、赴任した者が、「最初、頑固であまりにもとっつきにくく、閉鎖的な人間関係に泣く」。しかし一度馴染んでしまえば、その人の良さに感激するのだが。三つ目は、「生活するうちに会津人の人情の深さに触れ、最後は会津から出たくないと言って別れが辛くて泣く」のだ。

 佐藤敦之選手もこうした生真面目とも思える武士道精神を受け継ぎ、それを陸上競技でいかんなく発揮し、「会津魂」というものを全国的にアピールした結果となった。彼自身も礼節を重んじる生粋の会津人らしく、レース終了後は四方八方に深々と一礼する礼儀正しさは、観衆の感動を誘い、惜しみない大きな拍手が送られる。フルマラソンでは、2007年の別府大分毎日マラソンでの2位が最高位の彼ではあるが、いつか悲願の優勝を成し遂げて男の花道を飾って貰いたいと願うのは決して私だけではないだろう。また、これは余談だが、ご当地福島県には、陸上で名を馳せた各選手がたくさんいる。古くは東京オリンピックで銅メダルを獲得し、その後、国民の信託に応えられないと自らい命を断った須賀川出身の円谷幸吉選手、我が後輩でもあり、一時は日本のエース格にまで熨し上がった富士通の藤田敦史選手、3年前まで正月の箱根駅伝で、五区山登りにおいてぶっちぎりで快走し、「山の神」とまで言わしめた小高町出身の今井正人選手、更には今年の箱根駅伝で、もはや記録更新は不可能とまで言われた今井選手の記録をあっさり破った、東洋大学優勝の立役者・一年生エースの柏原竜二選手(いわき市出身)など錚々たる顔ぶれである。

 思わぬところで脱線したが、ところで私は、会津は「心の故郷」だと思っている。なぜなら私の祖父は、会津磐梯町の出身で、旧制会津中学を卒業した。伊東正義はその時の一年後輩で、それ以来お互い政治の道へ進み、伊東氏が亡くなるまで親交が続いた。また祖母は、会津河東町の農家の出身。その後結婚し、郡山に移り住んだ。会津魂が骨の髄まで染みついた典型的な明治人で、剣の道を究め、師範としても長くその名を刻んだ、それは立派な祖父だった。その古来からの会津人の精神を、私の代まで脈々と受け継いだ。したがって、私自身の身体にも、そうした会津人気質の血が隅々まで流れている気がしてならない。会津には、当時の藩主・保科(ほしな)正之が掲げた「家訓15カ条」という御触れがある。一節を紹介すると、その冒頭に「大君の儀一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず」とある。会津人としての本懐を示したものだ。また「主を重んじ法を畏るべし」「法を犯すものは許すべからず」など秩序ある武家訓を謳っている。これを教訓として、会津人の「ならぬものはならぬ」の精神が根づいたのだと思う。

 最後に、幕末期の騒乱に巻き込まれ、戊辰戦争に駆り出され、若くして戦場に散った数多くの会津人の魂を想い、「鎮魂」の意味で、私が以前に書き綴った詩を紹介して、結びとしたい。この詩を戊辰戦争で亡くなったすべての会津藩士に捧ぐ。

白虎の魂 飯盛の地に果てぬ  ~峠の虚像~

時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世 
倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
その存在を世に知らしめた新撰組
戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった

禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転

慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に 
錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
城を抜け江戸へと逃げ帰る 
あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意 
会津は後ろ盾を失い 京を追われた
やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ 
倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった

「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
その猛威の前に退却を余儀なくされた

奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
それが会津人の魂
その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
「ならぬものはならぬ」の尊い教え
よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
誰一人として想像した者はいなかった

やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図

戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷 
そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前 
息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
それこそが武士道 それこそが武士の本懐
かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った

僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
死んでいったに相違ない
悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった

時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
もうひとつの悲劇があった
妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
壮絶な最期であったとされる

「なよ竹の 風にまかする身ながらも
           たわまぬ節はありとこそ聞け」

その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった

あれから百数余年が経ち 
平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
遠い昔の出来事が現世に甦る
旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡 
柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み 
霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
しかと見届け脳裏に刻み込む
そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
今も後を絶たない 
そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
後世まで語り継がれることとなった

志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした

終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
死んでいった多くの防人たちの魂の叫び 
今もこの胸に去来して止まず
その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている

彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである


「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」

 薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である

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