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2009年10月22日 (木)

私の受験回顧録

 今から時を遡ること25年前の3月の或る朝、私が徹夜で受験勉強をして爆睡していると、突然父親が階段を駆け上がってきて、ドアを開けるなり、「SUZU(仮名)、○○大学当たったって!」と興奮して私に教えてくれた。しかもその吉報は、当時別居していた祖父が新聞に私の名前が載っているのを見つけてくれ、電話で父親に伝えてくれたものだった。その瞬間、一年間に及ぶ浪人生活の蛍雪の功が成り、ようやく苦しみから解放されたことを実感した。そして二年越しの受験勉強に終止符が打たれたことが何より嬉しかった。しかしその日、東京にある別の大学の試験を控えていて、既に受験料を払い込んでいたため、歓びの余韻に浸っている暇もなく、私は新幹線(当時は大宮発着)に乗り込み再度上京した。その日受験したのは、天下に名を轟かせる「青山学院大学」。どうせ合格する筈はないと半ば記念受験気味だったし、渋谷という若者の憧れの地にキャンパスを構えていたことから、たぶん観光旅行気分で行ったと思う。第一志望だった大学の合格の報を聞いたばかりだったので、安堵感と余裕があった。

 ところが、一つ気懸かりなことがあった。私が合格を果たしたその大学は、北海道と東京に校舎があって、入試の得点が若干不足の場合は、北海道にあるキャンパスで2年間の教養課程を過ごさなければならないのだ。一応保険の意味で、北海道への移行合格も希望していたが、新聞に合格の記事は載ったものの、その合格通知の書類一式が自宅に届くのが、翌日のことで、すなわち青山学院大学を受けに行ったその日のことで、まさに入れ違いの状態だった。本音を言えば、東京暮らしには昔から憧れがあり、一生に一度は薔薇色の大学生活を東京で過ごしてみたい。いろんな体験をしてみたいし、いろんな人と出会ってみたいという気持ちが無性に強かった。当然、郡山という地方都市だけで「井の中の蛙」では終わりたくなかった。でも心のどこかに、滅多に行く機会は皆無に等しいだろう北海道にも少なからず魅力を感じていた。

 青山学院の入試は、心にゆとりがあったせいか、思いのほか簡単だった。高校生の時に、普通科ではなかった私は、古文は授業時間数が少なく、それは外国語より難しい代物だった。従って、私は国語に自信がなく、入試を社会と英語の2科目で受けた。社会は政治経済を選択したが、そちらは大得意だった。政経だけで合格したのではないかと思えるくらい自信があった。思えば浪人時代は、予備校にもろくに通わず、開成山公園のベンチや市役所の展望台で独り、勉強していた。「人から教わることはあまり覚えていないものだが、必要に迫られ、自ら覚えようとして取り組んだものは忘れないものだ。」ということをこの時期に学んだ。そして12月頃からは、夜中に当時、一世を風靡していたラジオの深夜放送「オールナイトニッポン」、3時からの「いすゞ歌うヘッドライト」を聞きながら、夜明けまで受験勉強に打ち込んだ。この頃になってようやく、地元のラジオ福島では深夜放送のネット放送を開始した。ちなみに私が好きだったDJは木曜日深夜の「ビートたけし」、土曜日の「笑福亭鶴光」、そして「石渡のり子」さんだった。特に、深夜の生リクエスト番組「いすゞ歌うヘッドライト」のオープニングソングとエンディングの「夜明けの仲間たち」は当時、深い思い入れがあり、テープに録音していた。長距離トラックの運転手のドライブの友だった長寿番組だった。

 受験が済み、心臓がドキドキの状態で自宅に確認のTELをしたところ、やはり、点数が足りず、北海道への移行合格だった。東京からこの一報を聞いたので、何か複雑な心境だった。北海道は2年間通うだけで、残りの専門課程の2年間は、無条件で東京で暮らすことが可能だったので、すぐに気を取り直した。結局、第一志望の大学に入学金や授業料を含めた初年度納付金75万円を振り込み、入学手続きを完了した。どうせ青山学院に合格できる筈はないと思っていたし、事実その合格発表は、第一志望の入学手続きが締め切り後だったため、待っていられなかったのである。ところが・・・何とその数日後、私の元に青山学院大学の合格通知が届いてしまったのだ。これには驚愕そして落胆。まさかまさかである。失敗した・・・早まった・・・・と何度も思ったし、「もったいない」と悔やんだ。しかし、親が苦労して用意立ててくれた75万円を今更取り戻せないし途方に暮れた。しかし、冷静に考えると実は青山学院大学は、受験科目に関して自分の得意科目で学科を選択して受験してしまったので、本当に自分が学びたい学科(将来自分が就きたい仕事に結びつくもの)ではなかったのだ。残念ながらそこは経済学部だったのだ。でもやりたいことは他にあったし、なまじ経済を取れば、大の苦手な数学を是が非でも勉強せざるを得ないことなどから考えて、最後は納得した。

 結局その年は、現役時代に落ちた東北学院大学にも補欠合格した。また、専修大学にも願書を出していたが、東京に受験のため連泊して試験日を待っている間、大雪で交通網が麻痺してしまい、行くのが面倒くさくなって辞めてしまった。また、横浜への憧れも強かったので、現役時代と浪人時代の2年間に渡って、金沢八景というお洒落な場所にある関東学院大学も受験したが、なぜか2年連続で不合格となった。ここはどうも相性が悪かったとしか言いようがない。4校受験し、一番偏差値が低かった(SS48)関東学院だけが不合格で、上は当時、偏差値65もあった青山学院に合格してしまうという恐ろしさ。

 私は2年間、大学受験にチャレンジした訳だが、その時、学んだ教訓めいたことは、「努力は嘘をつかない」ということと、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということである。神様はよく見て、その人に見合うだけの結果を与えてくれるという事実だ。この2年間やり遂げたことは、その後の自分の生き方に大きな影響を与えたし、確かに苦しかったけれども頑張りぬいたという自信につながった。今、仕事でちょっとした壁にぶつかっても、あの時の苦しみから比べれば、何でもない。目の前の壁を余裕で乗り越えられる気がしてしまう。何事もやはり経験がものを言うということをこの時期に身を持って知った。

 その後の大学生活は、今から思うとやはり薔薇色だったのだろう。2年間という限られた期間を有意義に過ごそうと、1年目から北海道で行動を開始した。バイクを駆って、至るところへ旅をした。特にテレビドラマのロケ地になったような場所にはすぐ飛びつき、赴いた。バイクは行動半径が広い。当時の北海道は札幌だろうがどこだろうが、駐車禁止区域でも「二輪は除く」だった。北は宗谷岬、東は納沙布岬、東は襟裳岬、そして南は世界三大夜景として知名度抜群の函館まで、ありとあらゆる観光地、知られざる秘境にまで足を伸ばし、隅々まで見て歩いた。北海道の大自然の懐に抱かれて過ごせる幸福感、そしえ真冬の北海道の厳しさと荘厳さは、現在の私の基礎を形成してくれている気がしてならない。あの時の受験勉強の苦しみがあったからこそ、北海道を思う愛しい気持ちもまた一入なのだと思う。

 その考えは、東京キャンパスに移ってからも生きた。渋谷から新玉川線で二つ目の「三軒茶屋」に住み、東京もいろんな場所へバイクを走らせた。幼い頃に亡き父親に連れて行ってもらった思い出の場所や女友達をバイクの後部座席に乗せ、タンでデムで京浜島までツーリングしたこともあった。しかし、勉学を疎かにしていたことは一度もなく、講義をサボったというような記憶もさほどない。至って真面目な学生だったと自分では思っているが、3年時終了時点で、ほとんどの単位を取得していて、4年時からは或る取得を取るために特別講座を受講していたのと、残りは卒論だけだった。その後、或る公務員の採用試験や就職活動も入って来た。他の免許や資格取得に感けてかなり忙しい時間を過ごした。更に、一時期は俳優に憧れて、或る劇団のテストを受けて合格したこともあった。稽古費用がままならず、短期間でやめる羽目にはなったが、これも今となっては貴重な経験をした。このようにありとあらゆることに自ら首を突っ込んでいた。しかし、そんな多忙な時期にあって、あえて私は更に、より険しい道を選んだ。新宿センタービルの43階にある、とある会社で長期間ではなかったが、アルバイトをしたのだ。それは京王観光系列の旅行会社で、当時「男女7人夏・秋物語」が流行っていて、主役の明石家さんまが扮する今井がツアーコンダクターの役を演じていた。それを見て不覚にも憧れを抱いてしまったのだ。幸いなことに、バイトの身でありながら、係長が大学の先輩だったという偶然。さらに課長さんにひどく可愛がってもらい、新宿のヒルトンにある超高級バーに連れて行ってもらったりもした。最後は、卒業間近には、「正社員として採用するからウチで働いてくれ」とまで言われていた。その会社の業務は、旅行のツアーを計画し、実際の添乗も行う。更には、顧客の要望に応じて、当時バブルの絶頂期で空前のスキーブームもあり、彼女とふたりでお洒落なペンションやロッジ、そしてホテルを予約して押さえるという代行業務を仕事として行っていた。当時は、こうした旅行業界は花形だった。今思うと、そのバイトの日々は夢のようだった。初めて体験する満員電車に揺られ、渋谷駅乗換で山手線にて新宿へ向かう。新宿駅で乗降し、新宿高層ビル街をオフィス戦士達と肩を並べて闊歩し、会社までのいわば勝ち組ストリートを歩くのだ。そして会社はというと、新宿の中でも一等地にある、超高層ビル群の一角。しかも最上階近くの地上200m近い展望フロア。そこから見下ろす大都会東京の景色は格別だった。眼下にいる人や車の群れは、小さな蟻の如く見え、大小様々なビルが取り囲むが、どれもセンタービルの比ではなかった。また、その景色が一番映えるのが夕景から夜景だ。まるで宝石を散りばめた様な輝きを放つ。遠くにキャンドルライトのような東京タワーの赤と白、建設中で半分ほど膨らんだ東京ドームの白テントなど夢にまで見た景色が眼の前にあり、大東京を独り占めしているようだった。その大パノラマたるや言葉が出ないほど。溜息のドリームナイトといった風情を醸し出していた。一生この街で暮らせたら最高だろうとさえ思えた程だった。

 しかし、運命の歯車が動き出し、郷里からこの上ないような美味しい就職話が舞い込み、そこで都会の未練を断ち切り、地元へ舞い戻って来たのだ。それからは県内各地を転々とする転勤の多い身の上。須賀川1年、会津1年、勿来に4年、船引に6年、地元郡山に9年間通った。今春からまた、居住地・郡山を離れ、通勤時間が15分程度の郡部にある現在の職場に顔を出している。今年、勤続20年目となり、ようやく賞を頂いた。考えてみればもうそんな年である。今は、このようなブログを夜な夜な書ける余裕と月2回程度出向く海釣りという趣味に溺れる日々を送っている。人から見れば、羨ましがられそうだが、こうした生活を築けるようになったのも、若い時分に苦労をして来たからだと思う。それが今の自分を間違いなく支えていると思っている。「若い時の苦労はお金を出して買ってでもしろ」と言われるが、この年になるとようやくその意味を理解できる。

 受験勉強もきっとそうだろう。現在、受験真っ盛りで、今すぐにでも現状から逃避したいとか思っている受験生もいることだろう。だが、その苦労を乗り越えた先には、きっと明るい未来が待っていることだろう。これまで体験できなかったことにもチャレンジできる機会が待っていると思う。ぜひそれを信じてあともうひと踏ん張り頑張ってみよう。ここでその困難や壁から逃げてしまうと、一生同じことを繰り返す人間になってしまうと思う。そうした時に人間は成長し、また一段大人へのステップを上がれると思う。「夢に時めけ!明日に煌めけ!」という映画のフレーズがきっと実感できる日がもうすぐあなたを待っている。自分を信じて、人を信じてもう一息・・・・。最後に、頑張っているあなたへこの言葉を贈ります。 GOOD LUCK TO YOU!

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