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2009年10月15日 (木)

自動車業界の光と影

1964年、東京オリンピックがアジアで初めて開催された。第二次大戦終結から19年後、日本がようやく敗戦のショックから立ち直り、名実ともに復興を果たし、国際社会への復帰を成し遂げた瞬間だった。その東京五輪の前後、日本は朝鮮戦争の特需以来の好景気に沸く。1955年から約2年間続いた神武景気、1958年から3年ほど続く岩戸景気、そしてこのオリンピック景気、成功裏に終わった後も1966年から5年ほど続いたいざなぎ景気というように、オリンピック開催が決定となった後から首都圏を中心にインフラ整備が進んだ。特に「夢の超特急ひかり号」として期待が大きかった東海道新幹線(東京~新大阪)や突貫工事で行われた首都高速道路が次々竣工となり、高速交通網が着々完成し、今から想像するに、当時の人々は夢と希望に満ち溢れた、或る意味、古き佳き時代だったと言えるだろう。

この東京オリンピックを契機とした一連の好景気を総称して高度経済成長期(1955~1973)と呼ぶが、内需拡大に伴いGNPが増大し、庶民の懐具合も潤い、個人所得も大幅に向上した。人々の暮らし向きが良くなり、いわゆる家電の三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)が世間に普及するようになったのもこの頃だ。その時代の繁栄を支えていたのが、鉄鋼業(新日鉄・日本鋼管・川崎製鉄)や機械工業、重工業、さらには石炭産業から移行した石油化学工業だった。初期の頃は公害問題が深刻化するという負の遺産もあったものの、国民は一様に伸びゆく「日本の未来」に多くの夢を馳せ、地方からは出稼ぎ労働者や集団就職による若い労働力が都会に流入し、それはそれは活力に満ち溢れていた。

その後、産業界も貿易黒字を溜め込み、外貨を獲得するようになると、経済的にも国際社会の中で中心的な役割を担うまでとなり、やがて先進国の仲間入りを果たすことになる。その産業界をリードしたのが、紛れもなく自動車産業だった。そして1960年代には、三種の神器を引き継いだ3C(カラーテレビ・クーラー・カー)が時代の寵児としてもてはやされるようになった。その頃にこの自動車産業の繁栄ぶりを示す格好の歌が登場した。それは小林旭の「自動車ショー歌」である。車名を唄の歌詞にコミカルに盛り込んだ曲で、一度は耳にしたことがあるだろう。やがて1970年代に入り、「日本列島改造論」を引っ提げて田中角栄が首相に就任。全国的に高速道路や新幹線が整備され、ますます自家用車の需要が増え、それと同時に車の利便性が高く評価されるようになり、もはや車は一家に一台の時代となった。このことは、同時にいわゆるマイカーの時代が到来したことを意味していた。そこで今回は、これまで日本の経済界、産業界をリードしてきた国産の自家用自動車に限定し、市場の移り変わり(変遷)と販売事情に関してさまざまなアングルから各項目に分けて考察していきたいと思う。

まず、60年代から70年代にかけては、自動車業界は時代のニーズに合わせた車づくりを目指していた。普通乗用車の生産はトヨタと日産自動車、三菱自動車の三社が担い、ホンダ、スズキなどは二輪と軽四輪というように政府が過当競争で共倒れにならないよう保護的な枠組みや線引きを行っていた。特にその時代は、デザインや形状をとことん追求し、若者にターゲットを絞ったスポーツカー部門とあくまで実用性や利便性を重視し、実社会への普及を目指した一般ユーザー向けのファミリー部門車というように両極端だった。今から思うと、もはや死語となり、懐かしい響きすら感じるスポーツカーは、当時若者の夢であり、「憧れの車」というコンセプトから開発された。特長としては空気抵抗を極力抑えた流線型で、2枚ドアのクーペ。代表的な車は、コスモスポーツ、フェアレディZ、トヨタ2000GT、マツダRX-7、いすゞ117クーペ、そしてスカイライン。80年代に入り、本田宗一郎の念願が叶い、基本的に自動車製造の寡占製造が廃止、排気量による製造制限も撤廃となり、どのメーカーでも自動車の製造に関しては原則自由化されたのを機に、開発競争が一気に激化。ホンダがスポーツ性能重視のCR-X、大衆向けのインテグラ、国産最高峰のNSXというスポーツカーを発売すれば、トヨタも無改造でそのままサーキットを攻められそうな走行性能やレスポンスを重視したMR2、ハイラグジュアリーなセンスとスタイリッシュさで若者に絶大な人気を誇ったソアラ、初のリトラクタブルライト搭載のセリカXX(その後はスープラに移行)、映画で取り上げられスキーにも引っ張りだことなったセリカGTFOUR、軽くて峠道をドリフト走行も可能な懸架方式(FR)で、今も中古車市場では高値で取引されているカローラレビン、その姉妹車のスプリンタートレノを次々販売した。そして更に、一時期ではあるが安上がりで軽量化に踏み切ったサイノスやカレンも開発され、販売台数を伸ばした。また日産は、完全に若者ユーザーにターゲットを絞ったエアフォース・シルビア、その姉妹車で、丸みを帯びたボディーが印象的な180SXが爆発的に売れた。町でシルビアを見ない日はなかった。セフィーロもまた2枚ドアのクーペだった。そしてトップクラスの加速性能や0→400m(ゼロヨン)では他の追随を許さない夢のスポーツカーが今もバリバリ現役のスカイラインGT-Rだった。また、レパードはソアラの対抗馬だった。一方、三菱はあくまで独自路線を貫き、ランサーを一般大衆向けのクーペとして開発。その後ハイクオリティのレース仕様車として市場に投入したレボリューションは根強い人気を誇っている。また、インプレッサも手頃なスポーツカーとして人気がある。スタリオンも他社にはない奇抜なモデルだった。そして満を持して登場したのが次世代4WDスポーツのGTOだった。同グレードの最高峰、日産スカイラインを異常なまでにライバル視しかつ意識したこの車は、コンセプトから価格帯までもが酷似していた。その後FTOも発売された。

またファミリー部門では、大衆向けの4枚ドアのセダンが普及した。一番売れたのはトヨタカローラ(セレス)である。その兄弟車のスプリンター(マリノ)も市場を席巻した。カリーナやコロナ、プレミオも大衆車の最たる車。広島に本拠地を置くマツダはファミリアやペルソナ、三菱はミラージュとギャラン、ホンダはアコードやアスコットがそのクラス。日産はサニーがカローラの好敵手としてこのグレードの市場を独占した。ブルーバード(ARXを含む)やパルサーもまた街角でよく見かけた。その後、プリメーラやプレセアもファミリーには人気が高いセダンとなった。スバルはレオーネを販売していた。マツダは大衆車カペラやクロノスが売れ筋だった。この頃は女性や大衆向けの取り回しが楽なコンパクトカー部門にもメーカー各社は新車を導入し、販売台数は急激に伸びた。その旗手としてチョイ乗りや街乗りに最適なホンダのシティやシビックが爆発的に売れ、ハッチバック式の車も登場し始めた。後にSM-Xがバカ売れし、最近はフィットが好調に売れている。また、可愛いスタイルから女性の人気を独り占めにした日産マーチ、独特なスタイルが若い世代に受けたBe-1、パオ、フィガロ、商用としての使い勝手のいいカタツムリ型のエスカルゴもよく売れた。トヨタは、それまで高級志向が強かったが、他社に押され、かっとびスターレットを始め、コルサやターセルという低価格な大衆車も世に送った。最近ではVitzが好調のようだ。一方マツダはデミオが主軸でダイハツはシャレードだった。

80年代半ばには、セカンドカーとしての位置づけや奥さまや初心者の女性にターゲットを絞った軽乗用車が多くなった。ダイハツミラ、ムーブ、スズキアルト、ワゴンR、三菱ミニカ・トッポ、ホンダトゥディが挙げられる。マツダAZワゴン、若い女性の圧倒的支持を取り付けたピンク色のキャロルなどが台頭した。スバルはヴィヴィオやプレオで対抗した。

その後80年代後半のバブル期には、経済的にゆとりができたユーザーがこぞって購入した高級車がもてはやされた。いつかはクラウンを筆頭に、高級志向のセルシオ、政治家やヤクザ御用達のセンチュリー、サラリーマンにも手が届くマークⅡ、チェイサー、クレスタ3兄弟、プロミネント、カムリ、ビスタ、ウィンダム、アリストなど。日産はシーマを頂点にプレジデント、クラウンとライバルのセドリック、グロリア、マークⅡクラスのライバルのローレルがもてはやされた。ホンダはレジェンドに加え、アコードからのハイコンセプトとして開発されたインスパイヤーやビガーが飛ぶように売れた。スバルはレガシーを切り札として発表し、三菱は「あの車とは違う」というキャッチフレーズでBMWの真似ごとではないことを懸命に訴えた、ガチでクリソツのディアマンテがかなり人気を集めた。デボネアは年配ドライバー向き。

この頃はメーカーにも余力があり、次々と個性的な車を発表した。当時オープンカーの代名詞となったマツダ(ユーノス)ロードスターは物珍しさと希少価値とがあいまって一時期、爆発的ヒットとなった。また、軽ながら独自路線のオープンカー、ホンダビートやスズキのコンパーチブルカー・カプチーノもまた、ユーザーのハートをがっちりと掴んだ。トヨタは日本車初のガルウィングドアを採用したセラを発売して話題を呼んだ。ダイハツはコペンを発売し、女性ユーザーが飛びついた。

90年代に入るとバブル崩壊が自動車業界にも深く影を落とし、高級志向にも翳りが見え始めた。ところが、若い世代を中心に新たなジャンルが脚光を浴びることになる。それはクロカンブームである。4WDで雪道に強いRV車とかSUVと言われた車たちである。空前のスキーブームが起こり、それが後押ししたことは言うまでもないが、この手の車は車重があり、場所を取るとか小回りが利かないなどの短所もあったが、スパイクタイヤが粉塵問題により緊急自動車を除くすべての車での使用が禁止となり、スタッドレスでは心もとないユーザーにとっては冬の雪道では心強く頼りになった。代表的なのは火付け役になった三菱パジェロで、その後Jr.やミニまで出した。陸上自衛隊を彷彿させるJEEPもまた根強い人気があったし、新規開発のRVRは、小回りが利いて新境地を開くまさにレクレーショナルビークルだった。現在は、アウトランダーが大人気である。トヨタはクロカンRVの代名詞として一時代を築いたハイラックスサーフ、ランドクルーザー、プラドなど大型化し、リフトアップ車まで世に出回った。その後、高級志向のハリアー、軽快なRAV4、最近ではクルーガ―なども大ヒットとなった。日産と言えばミスターRVのテラノが売れに売れた。大型ではランクルーに対抗してサファリ、面白い位置づけでは荷台が外にあるダットサントラック、現在はその火を消さないようにエクストレイルが引き継いでいる。ラシーンも独自路線を行くユニークカーだった。また、いすゞ自動車はビッグホーンやコンパクトなのに横幅があるミュー、ビークロスもまた面白いユニークな趣向の車だった。ホンダはCR-VRAV4の対抗馬としてぶつけた。また、HR-VというGoodデザイン車も登場した。マツダはこの分野への進出は出遅れたものの、後にトリビュートで巻き返しを図った。スズキはスポーツメーカーやファッションメーカーとのタイアップで限定車を多く発売したが、その代表格はエスクードだった。更に軽のクロカンは当時斬新だったジムニーも売れた。スバルは最近フォレスターが市場に出回っている。しかし、繁栄を極めたRVもスキーブームが下火になるにつれ、大型車だけに、特に燃費が悪く、街乗りでは使い勝手が悪いこともあり、徐々に姿を消した。

また、この時期はRVに近い存在で、荷物スペースが広く取れるステーションワゴンが流行った。その代表格は、スバル重工のレガシーのステーションワゴンだった。そしてトヨタは、コロナのバンとカリーナをベースに改良を施したカルディナが町を闊歩した。ビスタは生き残りをかけてアルデオを発売した。ホンダはアコードワゴンが相当数世に出回っていた。日産はアベニールを皮切りにやがて新しく開発されたステージアが現存している。三菱はリベロやハイラグジュアリーなレグナムが流行った。

やがて2000年を迎えると、ワゴン車やミニバンが脚光を浴びることになった。これは若い世代の車離れや少子化により、スポーティーな車の需要が見込めなくなったメーカーが、かつて車の虜となり、相当のめり込んだユーザー達が家族を持ち、通勤にも使え、家族揃ってのお出かけやレジャーにも使えるというコンセプトから誕生したジャンルである。ワゴン車では、昔から箱形のハイエースはあったが、どちらかというと商用車のイメージが強かった。それをオシャレに改善し、内装もハイソサエティ化し、8人乗りの定員を確保し、シートアレンジにも気を配った。そしてラゲージスペースにも配慮した。代表作はトヨタのライトエースとタウンエースの姉妹車。それがやがて爆発的ヒットとなるエスティマへと引き継がれた。その後、高級車レジアスやアルファード(ベルファイヤー)も重用された。また、この分野でおそらく旗振り役をしたのは三菱自動車で、80~90年代にデリカ(スペースギア)がバカ売れした。日産はキャラバンから始まり、ホーミーやラルゴを始めとして、高級志向でトヨタアルファードのライバル車としてエルグランドを発表した。マツダは独自路線で、キャンピングカー的な発想から屋根にテントが備え付けのボンゴフレンディが売れた。ホンダは、クリアランスが広く取れるステップワゴンを皮切りに、最近になって高級志向のエリシオンを発売し、市場に殴り込みをかけた。

次に、やや大型のワゴンから派生した車で、現在も大ブームとなっているのがミニバンというジャンルだろう。その火付け役がトヨタのイプサムとホンダのオデッセイだ。6~7人乗りのコンパクトサイズが売りだった。その後トヨタは二番煎じを狙い、グランビア、ノア・VOXY、両面ドア開きのラウムやスパシオ、ガイア、ナディア、アイシス、ウィッシュなどを次々世に送った。日産は、ウィングロードやセレナ、リバティ、プレーリー、ハイウェイスター、パルサージュで対抗。マツダはプレマシーとその進化型のMPV、三菱はディオンを皮切りにグランディスが飛ぶように売れた。

このように時代時代で流行り廃りを繰り返し、車でその時代や世相を語ることができるまでになった。残念だが、かつては一世を風靡しながら今はもう製造中止や廃車となった車も決して少なくない。

さて、次の話題は、車の名前に纏わることである。車が爆発的に売れた80年代バブルの絶頂期に、共通項となりえるような不思議な法則があった。それは、車の名前には頭文字のアルファベットがSかCで始まるものが圧倒的に多く、次いでMとL、そしてTとPの順だった。ここではその例を紹介したい。メーカーや車種など順不同だが、まずSとC。セルシオ・クラウン・コロナ・カローラ・スプリンター・スターレット・サイノス・クレスタ・チェイサー・セリカ・ソアラ・カムリ・カリーナ・セラ・センチュリー・カルディナ・カレン・セレス・スープラ・コルサ・スパシオ・シーマ・シルビア・サニー・スカイライン・セドリック・セフィーロ・セレナ・サファリ・キャラバン・センティア・シティ・シビック・CR-X・CRV・ステップワゴン・ストリーム・SM-X・カプチーノ・クロノス・コルト・ステージア・スタリオンなど。MはMPV・ムラーノ・ミュー・MR2・マリノ・ミラ・ミニカ・ムーブ・マーチ、Lはレガシー・レオーネ・ローレル・ランサー・レジェンド・レビン・リバティ・ルネッサ・ルキノ・リベロ、Tはタウンエース・トルネオ・トゥディ・ターセル・テラノ・ティーダ・ティアラ・トレノ、Pはパジェロ(Jr.ミニを含む)・プレセア・プラド・プレリュード・プリメーラ・パルサー・ペルソナなど。こう考えると数ある車名には、語呂が良いものや響きの良いカタカナを組み合わせたものが使われ、どうしてもサ行やカ行それにタ行が多くなる傾向にあるようだ。

次に、一時期は飛ぶ鳥を落とす勢いだった三菱自動車について語ってみたい。バブル景気に沸く80年代は、三菱自動車が繁栄の時代を築いていた。元々パジェロというエース格の実績はあったが、スキーブームで更に多人数でも対応可能なデリカ(スペースギア)を発売し、ブームに完全に乗っかった。次にセダンタイプでは、昔から大衆車として販売実績が高かったギャランを時代受けするように改良を加えたVR4が売れ、次いで一世を風靡したのがBMWに外観が酷似したディアマンテ。これはCMもすごかったが、高級感があった。また、RVブームにも後れを取らず、コンパクトカーながら個性的なRVRを発売するとこれも狙い通り当たり、その後スポーツカーの分野に挑戦したGTOも価格帯は割高だったが、デザイン、4WD,リトラクタブルライト採用で若者のハートを鷲掴みにした。次に市場に投入したのはファミリーに的を絞ったRV系のミニバンのグランディスである。フロントマスクやハッチバックデザインも受け、シートアレンジ次第でラゲージスペースも広くとれる7人乗りタイプで、アウトドアや街乗りにも対応可能な人気車となった。更に攻勢はまだまだ続いた。パジェロはリセールバリューこそ高いが、元々の価格設定がかなり高いので、また車体が重く、目線が高いため取り回しが難しいことから、かなり割安で女性にもターゲットを置いたJr.や軽のミニを追加設定した。これらが発売されるや否や一気に人気爆発し、入庫半年待ちの大人気となった。さらにスポーツカーとして一番の古株だったランサーを大胆にチェンジし、レボリューションとして見事再生させた。まさにこの当時の三菱には勢いがあった。2台に一台とまで言われたトヨタをいずれは越えるのではないかとまで囁かれた。しかし、パジェロのリコール隠しが発覚すると、次々ユーザーの不満や対処の悪さが露呈。まるで夢物語だったかのように一気に社会的信用を失墜した。傲慢さと足元を見ることを怠ったことがこのような非常事態や失態を招いたと言って過言ではない。

これまで自動車産業の光と影を見てきたが、最後に総括した上で、なおかつ今後の展望を語って結びとしたい。現在、自動車業界は危機的状況といって良い。長引く不況からなかなか抜け出せない。貿易では円高が80円台まで進んだため、肝心の自動車の輸出が頭打ち。外貨を獲得できない。自動車の下請けだった零細企業は、車の受注の減少に伴い、運転資金が底を打ち、従業員に給料も払えず、解雇や就労時間を減らす始末。かつての地方にあった部品製造などを賄う大きな工場も統合や閉鎖が相次いだ。また、労働力の面でも賃金の安い外国へ工場を移転するなど、日本経済にとってはマイナス材料ばかりが目立ち、負の連鎖が続いている。また、社会全体も二重構造により、貧富の格差がますます広がり、歪やしわ寄せが大きくなり、庶民の財布のひもはますます固くなっている。更に輪をかけて少子高齢化により、若者の車離れも深刻化している。車は贅沢品という固定観念からか、以前から課税割合が高い。主だったものを挙げると、自動車を買う時に課税される取得税や重量税、車検の際にも重量税がかかる。排気量に応じて毎年課税徴収される自動車税、更には自賠責保険、任意保険、2年に一度(新車は3年に一度)車検にも出す。また、リサイクル法によって一律1.5万円を徴収。また、維持費も馬鹿にならない。200万円の新車を購入すれば、諸経費で乗り出すまでには240万円にもなるが、毎月のガソリン代やタイヤ代、オイル交換に修理代などを含めれば相当な出費を強いられるのだ。車を持てば金が湯水のごとく出て行く金食い虫でしかなくなったのだ。現在の雇用状況も考えれば、とても車など持てない時代なのだ。よく俗世間的に「車は時代を映す鏡だ」と言われる。まさしく今の世相を反映している。ようやく最近、政府もトヨタを始めとする自動車産業が活気を取り戻さないと日本経済の浮揚はないということを悟り、ETCの高速道路1,000円措置やエコカー特別減税で窮地を脱しようとする試みは見られる。またメーカー側も敢えて子ども店長を担いで懸命に減税を訴え、PRに躍起となっている。しかし、毎回、満員大入り大盛況となっていた新車や未来の車のコンセプトのバロメーターとなり、先行きを占う意味で開催される「東京モーターショー」も年々出品車の数や参加メーカーの数が激減。こういうところにも自動車業界の衰退ぶりがあからさまに如実に見てとれる。 

では今後はどうなるのだろうか?21世紀に入って10年近くが過ぎた。子どもの頃は、この時代には車は空を飛んでいると考えられていた。ところが、未だ交通戦争と呼ばれるほど交通事故は頻繁に起きるし、犠牲となる死者も後を絶たない。更にはNOXガスの放出で地球温暖化という招かれざる副産物まで生んでいる。そこで今秋、政権交代が実現して民主党政権が発足し、鳩山首相が真っ先に全世界に発信したことは、日本が地球温暖化の防止策として二酸化炭素の放出を25%削減すると訴えたことだ。一見して実現不可能な高水準の目標のブチかましに、さぞかし自動車業界は戦々恐々したことだろう。これは更なるエネルギー革命をも意味する。現在環境に優しいエコカーの開発は、プリウスに代表されるようなガソリンと電気モーターの組み合わせによるハイブリッドが主流。これをさらに研究開発を重ね、これを更に発展させた車が登場するだろう。たとえば電気自動車の低価格化による普及を図ったり、水しか出ない水素エンジンを主体とした車の実用化を図ることなどが挙げられる。実際、現在の価格はかなり高いが、電気自動車は一部で実用化されている。科学テクノロジーを始めとした産業技術は日進月歩だが、今後、さまざまな面でコストを下げる試みや解決に取り組まなければならない課題が山積している。植物から抽出するバイオエタノールを燃料とする開発、燃料電池の効率化、1回の充電で走れる距離の延伸、充電時間の短縮、充電できる施設の拡充などの問題をひとつひとつクリアーしていく必要がある。

1964年生まれの私にとっては、日本の自動車産業の反映と衰退、光と影をつぶさに見てきた訳で、これから先、日本の行く末を左右する自動車に新たな革命が起きてほしいと願う。かつて戦後のどん底から這い上がって、見事に復興を果たした先人たちの知恵と勇気、そして日本人が元来が持ち合わせている不屈の精神力、そして高い技術力を駆使し、自動車産業の息を吹き返して貰いたいと切に願うものである。そこには発想の転換も必要だろうし、新たな取り組みや新素材の開発も必要になるだろう。官民一体となって、この不況から脱する糸口を見出していければ何とかなるだろうと考えている。そして、かつて子どもの頃、マイカーを持つことが夢だった時代のようにいつまでも自動車が私たちの心ときめかせてくれる存在であってほしいと思っている。

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