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2009年11月30日 (月)

死刑廃止論の是非

 「あなたは死刑廃止についてどう思いますか?」 唐突にこう質問されても誰もが戸惑うだろう。では「もしあなたの愛する人(家族や恋人、友人)が、ある日突然、残忍極まりない方法で殺されたら、あなたはその犯人を許せますか?」「犯人に対し何を言いたいですか?」「犯人がどうなってほしいですか?」おそらく十中八九、答えは「死んで詫びろ!」となることは必定だろう。この質問に対する国民世論は、圧倒的に死刑廃止に反対である。つまり、「死を以て償いをする」現在の死刑制度の存続(死刑存置)を求めている。その数79.3%。一方で強く廃止を求めている人は、8.8%に過ぎない。なのにどうして毎年のように死刑廃止論が脚光を浴び、弁護士を中心に「人権擁護」が叫ばれるのだろうか?まずはそれぞれの主張を考えてみたい。

 まず、死刑制度存続派の意見。「死刑制度が犯罪の抑止力になる」と考えている国民は少なくない。死刑を廃止してしまえば、「人を何人殺そうが自分は死刑にならない」という発想が社会に蔓延し、殺人行為などの凶悪犯罪を助長するのではないかという懸念がある。私たち庶民感覚では、それに対して畏怖の念や危惧を抱くことになる。つまりは「死刑を廃止すれば箍が外れたように犯罪が増えるのではないか」と言う懸念だ。死刑があることで、犯罪への歯止めになるだろうと考えられるのだ。これが現在存続派の方の大多数の意見だ。そしてあくまで被害者や社会規範という立場で物事を考えるというのがこの制度の原点となっている。ただでさえ、最近は凶悪かつ凄惨な事件が多い。テレビや新聞に目を通せば、連日のように日本各地で殺人事件が起きている。地下鉄サリン事件や秋葉原の無差別殺傷事件など、いつ何時どんな事件に巻き込まれて命を落とすかわからない怖さがあるのもあながち否定できない。そしてもう一つは、被害者の遺族は、犯人への憎しみや復讐心から、自らの手で犯人を殺してやりたいと思うだろう。それを防ぐためにも死刑制度は法の名の下にそれが実行できるという点で有効なのだ。現在、全国の死刑確定囚の数は103人。執行しなければ、今後ますます増えることだろう。

 一方、死刑制度反対論者の意見はこうだ。第一に死刑を執行した後で、真犯人が出たら冤罪となり、取り返しがつかなくなる恐れがある。また、犯罪者が真実を語らなかった場合、死刑執行してしまうと事件の真相究明が不可能になる。第二に、たとえ人を殺害するようなどんなに憎むべき犯罪者であっても、同じ人間である私たちが、その尊い人命を奪って良いのか?つまりは死刑は、「人権侵害に当たる」という人権擁護の思想から来る主張。第三に、法に携わる者なら誰でも知っている「罪を憎み人を憎まず」という言葉に代表されるだろう。人を殺すような重大な犯罪行為を犯したとしても、犯罪を犯すからには何か特別な事情があってのことであり、情状酌量の意を汲み取るべきだという意見。そして第四には、国際的な傾向として、全世界が死刑廃止に向けて動き出していること。そして第五は、死刑執行したからと言ってその罪が消える訳ではなく、もちろん被害者も帰っては来ない。それよりむしろ、犯罪者は一生重い十字架を背負い、罪の重さ、大きさを十分に認識させ、心から反省させて更生させるという人道的な考え方によるもの。

 以上が、死刑廃止論がいつまでも燻っている要因だろう。言論・思想の自由や信教の自由が憲法で保障されている限り、誰が何を言ってもお咎めはない訳で、この問題に関して収拾を図る方がむしろ困難だろう。それより私が疑問に感じるのは、法務大臣が「死刑執行命令書」にサインをすることで、実際に死刑が執り行われる訳だが、歴代の法相を見てみると、時代背景や個々の判断、または死生観の相違によってサインする人と拒否する大臣がいるという事実だ。また、「宗教上の理由」を掲げて任期中、一度もサインをしなかった人までいた。これはどう考えても法務大臣の責任放棄であろう。もしそのような立場を貫くのであれば、始めからそのような重大な判断を迫られる主要ポストへの就任を断ってもらいたいと思う。また、別の見方として悪行を繰り返し、「必殺仕事人」にこの世から葬り去られるような極悪人もいるかもしれないが、テレビの前でそういう者がやっつけられれば、国民感情からすると長年の仇打ちが達成されたり、鬱積した恨みや復讐心、憎しみがスカッと晴れて痛快だろう。しかし、それだって仕事人自身が人を殺めているという事実は変わらないのだ。そこには矛盾が生じる。また、死刑執行に当たる刑務官の苦悩もあるだろう。上司である法務大臣の命令が下れば、自分の良識や呵責、私情にかかわらず、人の命を奪うことに自らの手を下さなければならない。これは相当のストレスを伴うらしい。法令の基準に則って死刑を行っても、人を死に至らしめた事実は消えないからだ。

 ところで、一歩間違えば国民新党の亀井静香郵政金融担当大臣が、法務大臣の役職に就いていたかもしれない。彼は元来、強烈に死刑反対を唱え、推進する性善説論者だった。彼の主張は、死刑制度が廃止になったからといって、犯罪が増えるとは思っていないのだ。もし彼の言うとおり、死刑が廃止になれば、最高刑が無期懲役(終身刑)となる。すると刑務所は、死刑囚に代わる膨大な数の終身刑受刑者で膨れ上がり、すぐに定員オーバーになってしまうだろう。極論を言えば、現在の長引く不景気下で、収入保障もないような世知辛い世の中(シャバ)にいるよりも、衣食住が保障される刑務所の暮らしの方がずっと良いと考え、犯罪を繰り返す輩が出て来ないとも限らない。そうなると弊害も生じる。刑務所を増築せざるを得ないし、それを管理する刑務官の数も足りなくなる。また、犯罪者を一生涯刑務所に服役させることになれば、その生活費(食事代)は、私達の税金(血税)が使われるのだ。もっと怖いのは、無期懲役の犯罪者は、現法制度下では、模範囚であれば、刑期が短縮され、最短で10年服役すれば仮出所申請が可能となる。終身刑が増えれば、収容しきれなくなり、もっと早い段階で出所を認める可能性が出て来るだろう。人を殺して10年で出所。果たしてそれで本当に罪が償えたと言い切れるのだろうか?口惜しくも「死んだ人間は浮かばれない」と言わざるを得ない。

 そして、残念ながら現鳩山内閣の法務大臣は、参議院選出で女性の千葉景子氏である。彼女は元弁護士であり、これまで「死刑廃止を推進する議員連盟」に所属し、死刑廃止を訴えてきた側の人間である。したがって、彼女のような立場の人が、重要閣僚になったからと態度を豹変させて「死刑執行命令書」に判を押せる筈がない。もしそうであれば、人間性自体を疑問視されることになる。現に9月の就任以降、一度も死刑を執行していない。被害者の遺族感情を蔑にしている張本人だし、彼女を法務大臣というポストに起用した鳩山首相の任命責任は極めて重いと言わざるを得ない。

 私自身は死刑制度存続に賛成、廃止には反対である。絶えず被害者の人権や無念さ、その遺族の感情を優先して貰いたいと考えているからだ。日本は、世界各国と比較しても刑が軽すぎる。外国では、大麻を持ち込んだだけでも死刑(中国・シンガポール)である。人命を奪ったとしても、人ひとりを殺害した程度では、平均7~8年の有期刑で、最高でも15年程度である。判例を見ても、死刑は複数殺害しなければまずあり得ないだろう。この法制度自体が問題なのである。私は、正当防衛や偶発性(過失致死)の場合を除き、故意や計画殺人だった場合は、被害者の人数にかかわらず否応なしに死刑を宣告しても罰は当たらないと思っている。そもそも鬼畜同様の残忍な方法で、一方的に被害者の人権を踏みにじった上に殺害行為に及んだ者に、人道的配慮や人権など存在するのだろうか。人を殺すことに正当な理由など見当たらないからだ。私は、そうした犯罪者には厳罰を以ってしかるべきだと考える。江戸時代の時代劇のような「敵討ち」などが認められていない以上、法の裁きによって合法的に死刑に処すしか、被害者や遺族に報いる手段はないのだ。人を殺めた凶悪犯罪の加害者が生きながらえて、何の落ち度もなく命を奪われた被害者は何の補償もない。やはり死んで罪を償うしか方法はないのだ。

 しかし、このことを論じる前に、今、私は無性に法律を学びたい衝動に駆られている。法律を知らずして感情論だけで死刑廃止を叫ぶのは説得力に欠けるという思いがあるからだ。今年から始まった裁判員制度もまた然り。一般論や常識だけで状況証拠を元に冷静に人を裁けるとは思えないからだ。法律の仕組みや条文をきちんと覚え、その運用方法も習得した上で、適切な判断を下したいと考えている。国会議員や学識者達は、死刑廃止の是非を論じる余裕があるのなら、犯罪を減らす方策や憲法第25条で保障している「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」が実現できる国づくりに全精力を傾けてもらいたいものである。そのほうがよっぽど犯罪の未然防止に役立つと思う。そして、世界中が死刑廃止に傾倒したとしても、独立法治国家として日本特有の法制度を確立してもらいたいと考えている。それが日本の文化を守り、独自の価値観を持つことに繋がるのだから。そして更にマスコミに対して言いたいことがある。それは報道の在り方である。一見、マスコミに携わる者には良識がないのかという場面も数多く見られる。スクープ欲しさに常識外れの行動や根も葉もないうわさをでっち上げ、タレント等に名誉棄損で告訴されるケースが後を絶たない。これはともすれば騒乱罪にも匹敵する。憲法第21条で保障している「言論・表現の自由」の真の意味を取り違えているだけである。「道徳心を失ったら人間一貫の終わり」であることを再認識する必要があるだろう。

 今回、2年半に渡る逃亡生活の末に、英国人英会話講師を殺害した容疑で逮捕された市橋容疑者の扱いもそうだ。食事を摂った摂らないで騒ぎすぎ。どれだけ残忍な方法で殺人行為をしたかを棚上げし、逃亡中の足取りや、その間の生活ばかりをクローズアップしている。どうしてここまで警察の手を逃れ、逃げ遂せたのかばかりに注目している。自分の都合の悪いことには口を閉ざし、自分の悪行を、自分が医師になれなかったことを理由に、さも自分が正しいかのように両親を逆恨みしたり、責任転嫁も甚だしい。そして尊い人命を奪った事実を棚上げし、権利ばかりを主張しても説得力はない。顔まで整形し、最後まで逃げ通そうとした事実の方が言語道断であろう。最も許しがたいのは、「殺すなら誰でもよかった」という、いわゆる無差別殺人である。また、自殺の道連れとして関係のない人を巻き込む行為も同様である。弁護士も仕事とはいえ、そういう良心の呵責の欠片もないような人間を擁護する必要があるのだろうかと疑念さえ抱く。さてあなたはどう考えるだろう?

 最後に、死刑廃止論とは結びつかないが、明日から師走。犯罪が多発する時期にあって、防犯意識という観点から、我が町で起きた殺人事件を取り上げて結びとしたい。どこの町でも犯罪は起こり得るだろうが、我が故郷は、森と緑に囲まれた住みやすい街だが、その昔、「東北のシカゴ」と例えられたほど犯罪は多く、物騒な所だった。そこで平穏を取り戻した今、昔話を穿り返すようで悪いが、私が40年近く暮らしている郡山市で、かつて起きた凄惨な殺人事件(私が覚えているもの)を取り上げ、犯罪防止への啓蒙や防犯意識の向上に役立ててもらいたい。念のため断っておくが、被害者の感情を逆なですることは一切ない。慎んで被害に遭われた方々のご冥福をお祈りするものである。

① 郡山一の進学校の前にあった小料理屋の女性経営者殺人事件(1990年)

② 郡山市富久山町4号線沿いマンションでの殺人事件(時期不明)

③ 郡山市麓山の土木塗装会社社長が殺害された事件(1993年)→時効

④ 富田町の某小学校前の理髪店での韓国人殺害事件(時期不明)

⑤ 女子高生が県立高校の男子生徒に殺害され、その母親が死体遺棄を幇助した事件(1996年)

⑥ 公立高校教師が清水台の自宅で刃物で刺され殺害された事件(発生時期不詳)

⑦ 逢瀬町大久保川17歳無職少女殺害事件(2000年)→未解決

⑧ 現金輸送車強盗殺人事件(2001年)

⑨ 未成年者による女性暴行殺人事件(2002年)→家裁から逆送刑事告訴

⑩ 国道49号線沿いビリヤード場殺人事件(時期不明)

⑪ 国道49号線近くマンション1Fゲーム喫茶店主殺人事件(2002年2月19日)

⑫ スーパー店長による店員暴行死事件(時期不明) ⑩~⑫は半径300m以内で発生。

⑬ 中田町民家老女殺人事件(2004年)

⑭ 郡山市町東アパート歯科技工士殺人事件(2005年)

⑮ 細沼町アパート住人殺人事件(時期不明)

⑯ 熱海町ホテルで日本青年会議所宴会で火を付け殺害(2006年)→傷害致死事件で処理

⑰ 久留米アパート息子の嫁殺害事件(2008年)

⑱ 富久山町久保田73歳無職男性殺害事件(2009年12月8日)→記事掲載以降発生

⑲ 逢瀬公園東側入口で43歳の男性が殺害された事件(2010年8月18日)    

 

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