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2010年1月

2010年1月30日 (土)

短命で終わる日本の首相  後篇

 国民不在の中、半ば談合とも言える「タナボタ」状態で決まり、第85(86)代内閣総理大臣の椅子に座ったのは森喜朗だった。この時の政権与党は、小沢氏が率いる自由党が離脱した矢先のことで、自民・公明・保守党の3党による連立内閣であった。この森内閣は、自民党結党以来、最悪の内閣と呼ぶに相応しい散々たる有様で、お粗末にも程が過ぎる超弱体内閣となった。2000年の4月5日に発足して間もなく、閣僚の失言や官房長官に抜擢した中川秀直の愛人スキャンダル事件が相次いで発生。また、自民党内からもYKKトリオによる「加藤氏の反乱」も勃発。いきなり出鼻をくじかれ支持率は常にジリ貧状態で低迷。そこに重大事件が輪をかける。ハワイ沖で日本の高校の練習船(えひめ丸)がアメリカの原子力潜水艦と衝突。多数の生徒が海に投げ出されて死亡する惨事となった。この報を受けた首相は呑気にゴルフの真っ最中。しかも事故の報告を受けてもなお1時間半もゴルフを続行するという失態を演じ、大きな反発と非難を浴びた。危機管理の甘さを露呈しながら、本人は悪びれた様子すらなく、首相を続投。その後、自らも立場を弁えない「神の国」発言や「無党派層は選挙には行かず寝ててくれればいい」などと資質と配慮に欠ける失言を連発。支持率低迷や国民の批判を浴び続けてもなお自らの進退には言及せず、首相の座に居座り続けた。「最低の総理大臣」との烙印を押された。国民の信託ではなく密室で選ばれた大臣だけに、こうなることは目に見えていた筈だ。在位387日(2000年4/5~2001年4/26)

 相次ぐ政治腐敗に国民感情は爆発寸前。国民の政治離れが一層加速する中、救世主の如く颯爽と登場し、国民的アイドル首相として近年稀にみる長期政権を維持したのが郵政民営化を改革の本丸と位置付け、熱弁を振るい国民の圧倒的支持を取り付けた小泉純一郎だった。彼の人気は一国の首相としては異常とも思えるほど加熱フィーバーぶり様相を呈した。5年(1980日)に及ぶ在位期間は歴代首相の中で、大政治家・佐藤栄作、吉田茂に次いで第3位となり、彼の内閣は第3次改造内閣まで息長く続いた。彼は2001年4月の総裁選で橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香らと共に出馬した。清新なイメージで人気があった小泉待望論に加え、主婦層に圧倒的人気があった田中真紀子氏の応援協力を受け、優位に選挙戦を展開。大衆の圧倒的な信任を得て小泉旋風なる社会現象をも起こし、予備選で地滑りを起こして圧勝。4月26日に第87代首相に就任した。組閣に当たっては、慣例となっていた派閥からの推薦や意見を一切聞かず、全て自分の独断で決めるなどのっけから改革を実行。「官邸主導」と呼ばれる流れを構築した。行政改革大臣に国民に人気がある若手の石原伸晃を充て、民間経済学者だった竹中平蔵を経済財政担当大臣に起用。また竹馬の友の田中真紀子を外務大臣に抜擢し、知名度抜群の強力な布陣でスタートした。「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに道路4公団、石油公団、住宅金融公庫などの特殊法人を次々と民営化し、「小さな政府」、国と地方の三位一体の改革を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、自らの持論である郵政3事業の民営化を大々的に宣言した。発足時の内閣支持率は驚異的な87.1%を記録し、歴代内閣の最高を叩き出し、国民の期待の大きさを窺わせた。そして就任してすぐの、すっかり恒例となった両国国技館の大相撲の表彰式では、負傷しながら優勝を成し遂げた横綱貴乃花を讃え、「痛みに耐えて良く頑張った。感動した!」と絶叫し、多くの共感を呼び、ボルテージはうなぎ登りに。この小泉人気に乗って7月の参院選で自民党は圧勝。また、終戦の日には靖国神社を参拝することを公約した。9月11日に突如勃発した米同時多発テロを受け、アメリカの「テロとの戦い」を全面的に支持。テロ対策特措法を成立し、海上自衛隊を後方支援に出動させた。その後、外務省機密費流用事件で世論の批判を受けた外務省は、スキャンダル暴露もあった田中真紀子外相を更迭。彼女もまた後に秘書給与疑惑が持ち上がり、議員辞職することとなった。彼が残した功績で一番輝かしいものは、2002年9月に突然北朝鮮を電撃訪問し、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現。日朝平壌調印した。ここで日本人拉致を公式に認めさせ、5人の被害者を帰国させた。この成果により、田中氏更迭で一時冷えかけた支持率は再び上昇した。2003年にはイラクへ米軍が侵攻してフセインを打倒した。これに伴い7月にはイラク特措法を可決成立。更に勢いに乗って有事関連3法案をも成立させた。その後の内閣改造で、彼は直近に迫った選挙戦を睨み、女性ウケが良かった若き安倍晋三を幹事長に抜擢する刷新人事を断行した。11月の総選挙では、絶対安定多数の確保に成功。第2次小泉改造内閣を発足させた。2004年に陸上自衛隊をイラクのサマーワへ派遣。同年6月には、国民保護法などを含む有事関連七法案を成立させたものの7月の参院選で自民党が改選議席割れとなり、安倍幹事長が辞任。武部勤が幹事長職に就いた。破綻しかけた年金制度改革にも着手し、6月に年金改革法を成立させた後、いよいよ悲願である本丸の郵政民営化に乗り出した。しかし実際は、郵政民営化法案は党内や族議員の反対に遭い党内は分裂。民営化反対派の亀井、平沼、綿貫ら大物議員と執行部の対立を招き、衆院本会議で小差で可決されたものの、反対票を投じた者を厳しく断罪、また閣僚ポストにありながらで唯一署名しなかった島村農林水産大臣を罷免。参院で自民党所属議員22名が民営化に反対票を投じ、否決となった。国会は紛糾し、小泉首相は民営化の是非を国民に問うとして突如衆議院の解散を宣言。総選挙に打って出た。反対者には公認を取り消し、無所属での出馬という厳しい処分を行い、「自民党をぶっ壊す」との公言通りの展開となり、事実上自民党は分裂した状態で選挙戦に突入。「郵政選挙」と銘打ったこの選挙では、ベテラン揃いの反対派議員に刺客を差し向け、あえて新人をぶつけた。結果は反対派がことごとく議席を失う結果となった。この一連のドタバタ劇は「小泉劇場」と呼ばれ、郵政民営化推進派が圧勝。大挙して初当選を果たした新人議員達は「小泉チルドレン」と呼ばれた。その後、2005年9月21日に小泉純一郎は第89代総理大臣に任命された。そして、特別国会で再び提出された郵政民営化法案は、賛成多数で可決された。悲願達成で、諸般の目的を達成した彼は、次期総裁選には出馬しないことを公言し、後進に道を譲る決断を行った。2006年8月15日、任期満了を前に彼は公約通りに靖国神社へ紋付き袴という正装で訪れ、戦没者に哀悼の意を捧げた。ここに足かけ5年に及んだ「小泉劇場」は完結し、自らその幕を引いた。高い支持率をバックボーンに、決して信念を曲げず、初志貫徹で政策を断行した類まれな人気首相となり、惜しまれつつ退任。2009年9月には政界からも静かに身を引いた。

 ここから先は、記載するのも憚りたくなるような、目を覆いたくなる悲惨な状況の連続となる。いずれも2年の任期を全うできず、1年程度で政権を投げ出した面々である。たいして功績がないので手短にすることとする。

 絶大な国民の支持を誇った小泉氏の後継に選ばれたのは、安倍晋三だった。彼は、実父が外務大臣や党三役など内閣の重要ポストを歴任した安倍晋太郎、祖父は岸信介元首相という政界のサラブレッドで、成蹊大卒業の苦労知らずのボンボンだった。しかし、あまりにも急ぎ過ぎた小泉内閣の構造改革のツケ(負の遺産)を一手に払わされることになる。所信方針演説では「美しい日本」というテーマのもと「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」など学識者からのウケ入り的な理想論に振り回され、持論が展開できなかった。すべてが後手後手に回り、誠実でスマートなイメージとは裏腹で、若さゆえの強いリーダーシップは感じられなかった。郵政造反組の議員達を禊も済んでいないうちから復党させたり、慰安婦問題で失言し「二枚舌」と罵られた。教育改革として導入した「教員免許更新制度」は日教組の反発を買い、「愚策の骨頂」とまで言われた。在任中に相次ぐ閣僚の暴言や失態、疑惑まみれで渦中にあった松岡農林水産大臣が自殺、年金記録改ざんなどの問題が続出。政策の実行どころか後始末に奔走する毎日だった。首を挿げ替えた赤木農林水相もまた更迭、この遅すぎる対処に非難が殺到、国民だけでなく自民党議員からも執行部の弱体に対して不満が噴出、「安倍おろし」が公然と行われた。8月27日に内閣改造し、急場を乗り越えようと画策したものの、組閣直後にも任命した閣僚の不祥事が明るみになり、一気に求心力を失うこととなった。9月10日の所信表明演説で「職責を全うする」と表明した僅か2日後の9月12日に突如退陣を表明。国民の信頼と期待を著しく裏切っただけのお粗末さだった。表向きは病気だが、これは個人の名誉を守るためであって、事実上は無責任極まりない「政権の丸投げ」であった。人気を優先し、当選僅か3回の経験不足の若手を総理に抜擢した自民党の罪は重い。私自身も、この一件で自民党に見切りをつけたひとりである。第90代首相(2006年9/26~2007年9/26)在位366日

 ダメ政権を引き継ぐ羽目になったのは、これまた元首相の息子・福田康夫だった。彼は小泉政権下で官房長官を務め、真面目で誠実な人柄は国民の信頼を得ていた。参議院が、民主党が第一党を占めるねじれ国会の中、2007年9月25日に開かれた衆議院本会議の首班指名選挙において当選。第91代内閣総理大臣に就任した。彼はとにかく冷めた感じで、首相になったことさえ「なりたくてなったわけではない」「仕方なくやってるんだ」というような他人事の様相だった。自らを「背水の陣内閣」と命名し、11月には安定した政権運営に向け、民主党との「大連立構想」を模索したが頓挫した。参議院で問責決議が採択される異常事態を招いた。彼ほど在任中、影が薄く、何の功績を残さなかった首相はいないだろう。しかし、家柄が良いためプライドだけは人一倍強く、質問した記者に対してぶっきらぼうの応答。仕舞いには「あなたとは違うんです」と捲し立てる。学者肌の彼は首相の器ではなく、その資質に欠けていた。「自立と共生」「ストイック型社会」「男女共同参画社会」「道路特定財源制度」「知的財産権の策定」などを提唱したが、看板だけ掲げていずれも道半ばで断念した。2008年9月1日、突然緊急記者会見を開き、その席上、退陣を発表した。周囲の誰もが予想だにし得なかった突然の表明だった。無責任を絵に描いたような失政だったが、引き際もまたあっさりしたものだった。(2007年9/26~2008年9/24)在位365日

 福田の後を引き継いだのは「総理になりたくて仕方なかった男」、麻生太郎の出番となった。彼もまた系譜だけは素晴らしい。先祖は大久保利通に始まり、祖父があの大政治家・吉田茂、そして鈴木善幸元首相を義父に持つ。本人はハードボイルド気取りだったが、内情は学習院大学出のお坊ちゃまだった。独特な濁声と自ら「漫画と秋葉原好き」と公言し、若者の人気を集めようと画策した。彼は第92代首相に就任し、自公連立内閣として発足した。彼は様々な要職を歴任していたことから政策通として知られていたが、論理で罵倒するタイプではなく、どちらかと言えばキャラクターで誤魔化し、その場を切り抜けていくタイプだった。一度は選挙対策に「定額給付金」をばら撒き、国民の機嫌を伺ったが、結局の所は景気回復は見込めず、彼もまた支持率は低迷し続けた。「政局よりも政策の実行」を旗印に、なかなか辞めず、空気の読めない首相だった。自ら「日本経済は全治3年」と言い放ちながら、対策は打つものの経済回復の兆しは見えず、発言は朝令暮改の如くブレまくりであった。郵政民営化推進派だった「小泉チルドレン」を蔑に扱い、自らも閣僚の一員だったにもかかわらず、「私は民営化には本当は反対だったんです」と呆れる答弁。主体性を欠き首相としての資質はなく、国民からも見放されていった。また、所信表明演説や各種委員会の会合では、官僚が書いた原稿を読もうとして漢字を読み違えたり、2009年2月のG7では、盟友・中川昭一の酩酊状態でのお粗末な記者会見により、更迭を余儀なくされた。彼自身の任命責任も鋭く追及された。更に、天下り問題、雇用悪化、年金記録改ざん問題などの懸案事項を解決策を見いだせないまま悪戯に時間だけが過ぎた。4月の北朝鮮のミサイル発射に関しても危機管理が甘く対応が遅れた。自己認識が無いのか、はたまた後継者不在なのか不明だが、連日マスコミに叩かれ続けても頑として首相の座を降りようとしなかった。解散総選挙を先送りにし、政策の実行をあくまで優先させた。しかし政権交代を旗印に機運を盛り上げ攻勢を仕掛ける民主党の前に苦戦を強いられ、やむなく衆院の任期満了直前での解散となった。法律の範囲をフルに使った真夏の40日間に及ぶ選挙戦が繰り広げられ、2009年8月30日の投開票日で自民党が歴史的大敗を喫した。与野党の議席数が正反対に逆転する結果となり、民主党を始めとする新与党が安定多数を確保し、ここに「政権交代」が実現した。この時点でようやく麻生首相は退陣を表明した。あまりにも遅すぎた決断だった。その後、中川氏の急死もあって魂の拠り所を完全に失った。この一件は落ちぶれた自民党政治の末路を象徴する出来事のように思えた。自民党は政権を失った訳だが、これで自民党の首相は3代連続で一年程度しか政権を維持できない短期政権となり、国民の怒りは頂点に達し、逆風が一段と強まる結果となった。

 圧倒的な国民の支持と「政権交代」の追い風を背景に民主党・社民党・国民新党の三党が連立を組み、細川政権以来となる非自民政権による与党の座に就いた。2009年9月16日の本会議で、鳩山由紀夫が第93代内閣総理大臣に指名され、同日就任した。支持率は70%を超え、期待の大きさを窺わせた。組閣では、「国家戦略室」の設置を明言。党三役のひとつ、幹事長には長年袂を分かちあって来た盟友・小沢一郎を起用。内閣府特命担当大臣と経済財政担当を兼務した最重要ポストには、民主党を取り仕切り、支えて来た功労者の菅直人が拝命。総務大臣には若手きっての弁達者・原口一博(50歳)を起用。外相に岡田克也元党首、国土交通大臣には元党首で若手No.1の前原誠司が担当。財務大臣にはベテランで政策通の藤井裕久を起用し、豪華フルキャストの盤石な布陣で臨んだ。そして連立組からは、福島瑞穂社民党党首が消費者・食品安全担当に、国民新党代表の亀井静香は金融担当としてそれぞれ入閣を果たした。そして当面の政治課題である「脱官僚依存・政治主導」「高速道路無料化」「税金の無駄遣いの排除」「公立高校の無償化」「2000億円規模の子育て支援」など55項目に及ぶマニフェストの実現に着手した。真っ先に話題となり、矢面に立たされたのは前原国交大臣だった。早々に「八ツ場ダム」の建設中止を明言、「関空・羽田の国際空港ハブ化」をぶち上げ、様々な物議を醸した。また、行政刷新会議を新設。事業仕分けにより税金の使い道や無駄遣いを明確にし、透明性を持たせるなど新たな取り組みを大々的に行い、改革をアピールしている。選挙の総括や事後処理に追われる自民党を尻目に、世論を味方につけて順風満帆の船出となった「鳩山丸」だったが、思わぬところから綻びや亀裂が見え出した。それは昨年暮れ以降に表面化した政治資金疑惑である。首相御自ら、実母からの総額11億円にも上る献金を受け、それを政治資金報告書に記載しなかったことに端を発した。また、側近中の側近である小沢幹事長もまた、西松建設からの違法献金疑惑が露呈。土地売買を巡り、4億円もの資金の出どころが不明であることが問題になっている。これにより、会計を担当する陸山会の政治資金収支報告書に不記載、または虚偽記載があることが判明し、現職の国会議員(当時は小沢氏の秘書)や公設秘書合わせて3名の関係者が逮捕される事件へと発展した。当の小沢氏は関与を全面的に否定し、行き過ぎた検察庁の捜査を強く批判。暫くは事情聴取にも応じず、真っ向対立の構図を深めた。この一件は、鳩山首相の政権運営にも大きな打撃となり、連日ニュースや雑誌にも取り上げられ、支持率低下につながっている。ところがこの件を巡り、公正な立場である筈の総理大臣が、小沢氏を終始擁護する態度を貫いた。挙句の果てには、清廉潔白を主張し、検察側と全面対決する姿勢を示した小沢氏に対し、「どうぞ戦ってください」と発言。仮にも検察庁を始めとする行政のトップたる首相が、このような偏った発言をしたことに野党自民党が猛反発。今国会においても予算審議の前に、追及の手は長時間に及んだ。こうして今日に至っている。政権以上から4か月経過したが、相変わらず小沢氏を巡る「政治とカネ」の問題は解消されず、また、あれほど破竹の勢いだったマニフェスト実行の気勢は、ここに来て一気にトーンダウン。「暫定税の撤廃」は地方自治体の猛反発に遭って見送り、「高速道路無料化」はいつしか地域限定になるなど、案の定、財源不足が露呈して公約自体を縮小。描いた青写真はセピア色に褪せてしまった。この辺りはO型内閣に相応しく、八方美人の日和見傾向がありあり。その不安を自らが振り払うように、昨日、国会で施政方針演説を行い、「命を守る」というキーワードの基に、歴代首相の中で最長となる51分間にも及ぶスピーチを行った。抽象的で具体性に欠くとも揶揄されたが、自身の信条や強い決意は伝わったと思う。

 さて、二回に渡ってお送りした「短命で終わる日本の首相」、如何だっただろうか。「いつかは総理大臣になろう」と夢を見て政治家の道を志しておきながら、このようなお粗末ぶりについ感情的な表現になってしまったことをお詫びしたい。しかし、今の日本の政治は腐敗そのものだ。鼎の軽重を問う場面が多いため、政局が混迷しやすく、互いの足の引っ張り合いに終始して来た結果がこれである。平成以降、20年の間に15人もの首相が替わった。一国の顔でもある首相がこれほど入れ替わるのは日本を置いてほかにはない。アメリカはこの20年間に、大統領は4人(ブッシュ・クリントン・ブッシュ・オバマ)だし、イギリスも首相は4人(サッチャー・メジャー・ブレア・ブラウン)、ロシアも大統領は4人(ゴルバチョフ・エリツェン・プーチン・メドベージェフ)、韓国は大統領が4人(金泳三・金大中・蘆武絃、季明博)、フランスに至っては20年でたった3人(ミッテラン・シラク・サルコジ)である。日本の首相がいかに短命政権で「責任放棄」の丸投げかがよくわかる。平成の間に、長期政権を維持した小泉首相を除けば、昨年末までで首相の平均在位は386日となり、僅か一年あまりで次々と首相が入れ替わって来たのがよくわかる。これでは腰を落ち着けて政策の実行など成せる筈はない。毎年優勝を期待される巨人と同じで、早々に結果を求めすぎる国民感情も悪いのかもしれない。

 しかし、このままでは日本は間違いなく滅びるだろう。経済ではすでに中国に抜かれ、インドも僅少差に迫っている。両国が急成長した経済状況の背景は、爆発的な人口増にある。一方の日本は、少子高齢化によって若い生産者の数が減少し、新卒の雇用状況も過去最悪であることから、就労意欲そのものが低下している。反面、平均年齢が老齢化したことで国全体の総人口の減りも著しい。こうなると事態は深刻で、内需は縮小し、経済発展などは到底見込めない。こうなった原因は、日本の政治が長らく政権交代がなく、自民党がずっと独裁で幅を利かせてやって来たことの代償である。増税ばかり行い、国民から絞り取った税金を無駄遣いし、その結果、国民の生活は苦しくなり、子供を二人以上持てるような生活環境ではなくなったのだ。財布の紐は固くなり、国民は無駄遣いをやめ、切り詰めた節制生活を強いられ、当然ながら消費は滞った。すべて自民党の悪政のなれの果てが主たる要因で、国民がそのツケを払わされ、犠牲となった格好なのだ。ご承知の通り、自民党の総裁の任期は2年となっている。順番待ちの派閥の領袖やニューリーダー達が次の総理の椅子を虎視眈々と狙っていることや派閥順送りの人事をやって来た結果なのだ。だから、派閥間で利権争いが激化し、党内であっても協力するどころか、いろんな所にお目付け役が多くいて、何かのミスに付け込んでは「首相下ろし」が公然と罷り通って来たのである。自民党総裁に登り詰めながら、首相になれなかったのは、河野洋平と現総裁の谷垣禎一だけである。また、私はこうした自民党政権下で、ずっと疑問に感じていたことがある。それは選挙敗北の責任をとって辞任したり、失言などの不祥事を起こして職を追われた者が、次の内閣改造人事でより重要なポストに重用されることである。これは民間ならあり得ない人事である。通常なら懲戒解雇や運良く会社に残れても窓際族が関の山。どうも霞が関の習わしやしきたりは理解し難い。高学歴や派閥所属だけを有難がって、人柄や政治信条、求心力を重要視しない体制下では、到底未来永劫など望める訳がない。今の日本を救えるのは、かつての敗戦後の日本を窮地から救うために奔走した吉田茂やロッキード事件でその職を追われはしたが、日本列島を高速交通網ネットワークでつなぎ、物流を活性化して経済を立て直した田中角栄、更には大平元首相が在職中に急逝した時に、首相代行を無難に務め、首を縦に振れば首相になれたものを、「自分では役不足で、若い人を立てるのが本筋」と敢えて首相の椅子を蹴った男、ご存知生粋の頑固者の会津人・伊東正義のような、個性的であり、求心力も兼ね備えた大物政治家の出現なのだ。そして何より言葉で言うのは簡単だが、強い結束力の挙党体制で政治に当たることこそ肝要だと心得る。政治家は初心を忘れず、国民の代表者としての自覚と責任を持って政を司って貰いたい。選挙の時だけ地元に帰って愛想を振りまいたくらいでは有権者はもはや騙されない。「オラが先生」の時代は、当の昔の出来事となったのだ。このことを肝に銘じ、政局ではなく政策遂行を第一に考えて欲しいものである。さて我々が藁をもすがる思いで託した民主党・鳩山内閣は、果たして長期安定政権となるだろうか。この苦境をどう乗り越えるか、まずはお手並み拝見である。

2010年1月29日 (金)

短命で終わる日本の首相  前篇

 平成になって21年が経過し、今年で22年目に突入した。昨年、日本の政治史上大転換期となる自民党政権が終焉を迎え、新たな時代の幕開けとなった。政権交代が実現し、新政府への期待が大きくなると同時に、過去を振り返るとこの僅かな期間に一体日本では何人の首相が交替したのだろうか。今回は、なぜか長続きせず、短命政権で終わってしまう日本の歴代首相に焦点を当て、政治腐敗や政治問題を論点に考察したい。

 昭和天皇が崩御し、年号が平成と改まった1989年。当時首相の座に君臨していたのは、第74代内閣総理大臣・竹下登である。ご存知タレント・DAIGOの祖父である。常に政界の中心的役割を担い、「数は力」を基本理念に最大派閥として大物議員を数多く有し、七奉行を抱えた大所帯・旧田中派の流れを汲み、経世会の創始者として影響力はもとより、強権体制で猛威を振るっていた。しかし、政治とカネの問題が露呈し、リクルート事件が明るみになると失脚。総辞職となった。(首相在位576日)

 続いてバトンを受けたのは、宇野宗佑だった。これが首相在位の中でも超短命政権で終わった。古風な黒ぶちの眼鏡をかけた、語るのも忌々しいほど情けない総理大臣だった。彼は党三役の経験もないまま、外相だった折に、突如退陣した竹下登の後釜として名前が急浮上した。参院選とサミットを目前に控え、総裁選を行う時間的余裕がなかったことから急場を凌ぐ形、つまり代行という感じで横滑りしたのが間違いの元で、その後短命政権が相次ぐ負の連鎖の始まりとなった。彼は1989年の6月3日に第75代首相に任命されたが、僅か2ヶ月余りの在任期間69日という短さで首相の座を追われた。その原因は、お堅いイメージの外見とは裏腹の、何と前代未聞の女性スキャンダルだった。就任直後、週刊誌によってこの一件が明るみとなり、金まみれの実態と共に報道され、支持率は急落。そのまま突入した同年7月の参院選で消費税問題とセットで国民からNOを突きつけられ、改選議席の半分近くを失う大敗を喫した。全責任を取る形で辞任に追い込まれたが、その会見では、憮然とした表情で記者の質問に答え、「明鏡止水の心境だ」と述べていた姿が妙に印象に残っている。

 次に、政治不信の最中に貧乏くじを引く形で首相になったのが第76・77代の首相となった海部俊樹だった。彼は二階堂派に所属し、三木元首相の秘蔵っ子として三木を尊敬していた。総裁選には林義郎や石原慎太郎らが出馬したが、竹下派の支持を取り付けた海部が圧勝した。彼の出現はまさに起死回生、歴代首相に比べ、爽やかでクリーン、スマートなイメージで就任直後から女性ファンの喝采を浴びた。特に「水玉模様」のネクタイはトレードマークとなり、センスの良さを見せつけた。政治的手腕にも長け、政権運営も順調で、数々の修羅場を切り抜けて行った。在位2年半(1989年8/10~1991年11/5)、818日の長きに渡り政権を担当した。主な功績は、在任途中で勃発した湾岸戦争の多国籍軍に130億ドルの資金提供など。しかし政策の目玉の一つだった政治改革関連法案が参議院で議席を失ったことによるねじれ国会で苦戦を強いられ、YKKなどの自民党内にも反発があって頓挫。結局廃案に追い込まれた。これを受け、本来解散総選挙を意味する「重大な決意で臨む」と発言したことにより、党内で異論が噴出、紛糾は決定的となり、「海部おろし」の大合唱の中、責任を取る形で内閣総辞職を選ぶことを余儀なくされた。若かった海部首相は、「身近な存在の総理」というイメージで、国民から絶大な人気を誇っていた。退任直前でさえ、支持率は50%を超え、時には64%という抜群の国民支持があった。この首相交代劇は、自民党内の勢力争いの構図によるもので、何一つ汚点を残さなかった首相を辞任にまで追い込んだことへの国民世論の批判は大きかった。

 海部退陣の後を受け、満を持してやっと首相の椅子に座ったのが宮澤喜一(1991年11/5~1993年8/9、在位644日、第78代内閣総理大臣)だった。大蔵省の官僚上がりで常にエリート畑を歩き、英語が堪能で外相を始めとして閣僚経験が豊富な彼だったが、過去に数回ニューリーダーとして出馬した総裁選にいずれも敗北。「宮澤はもう首相になれないのでは」と囁かれ出した矢先に、幸運が巡って来た。当時、72歳としては高齢の首相就任となった。保守本流のエースとして、国際感覚を持った大物の総理として期待は大きかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営とはならなかった。主な在任中の施策は、PKO協力法成立と自衛隊カンボジア派遣、バブル崩壊後の金融不安を巡って対応に苦慮。自らの失言も相まって求心力は低下。政治改革を断行できないまま1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党内が分裂。解散を選択して選挙戦に突入するが敗北し、自民党38年間の長期支配にピリオドを打った際の最後の首相となった。

 自民党一党独裁体制に終止符を打ち、第79代首相になったのは、日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党ら8会派から成る、烏合の衆が相乗りする形となった、いわゆる民主改革連合だった。その初代総理になったのが、「熊本の殿様」細川護煕だった。彼はおしゃれでスマート、クールな物腰で国民の人気を独り占めした。発足直後の支持率は7割を超えた。彼は就任するや否や新しい試みを行った。記者会見は欧米スタイルを取り入れ、記者をペンで指名することや内閣発足時には屋外にてワイングラスにシャンパンを注いで乾杯と斬新なアイディアで従来の慣例を打ち破ると共に、様々な改革に着手した。就任直後に襲った冷夏によるコメ不足を背景に食管法を改正し、ヤミ米を合法化した。ブレンド米の輸入については慎重だったが、深刻化するコメ不足を前に決断した。また、政治関連4法案の成立に向け、調整を行うも難航。選挙制度に関する新たな定数・区割りを提案するが与党内の造反に遭い、廃案に追い込まれた。その後、新たな選挙改革案を模索し、現在の「小選挙区比例代表並立制」を提案。野党自民党の河野総裁と折衝を続け、何とか合意を取り付け成立。これが細川内閣の数少ない実績のひとつになった。しかしその後小沢一郎の入れ知恵によって消費税を3%から7%に引き上げ、名称を福祉目的税とすることを模索。これに新党さきがけの武村代表と社会党の村山委員長が反対し、折からの佐川急便の借入金未返済疑惑も明らかになり、自民党の厳しい追及を招く事態となった。そして国会は空転し、首相は四面楚歌の状況に陥った。4月5日に「やめたい」と漏らしたことが報じられ、総予算審議の直前の8日に退陣を表明した。国民の大きな期待を背負って誕生した細川内閣は、1年にも満たない短命政権で終結した。これにより、新党さきがけは日本新党との統一会派を解消、連立与党から離脱することとなった。中曽根元首相の「雇われマダムにしてはよくやった」という同情にも似た発言が、未だに私の耳に残っている。首相在位263日(1993年8/9~1994年4/28)

 細川内閣の退陣を受け、第80代内閣総理大臣に就任したのは、新生党の党首だった羽田孜だった。羽田内閣の船出は前途多難、誰の目にも短期政権で終わることは明らかだった。彼が首相だったことを何人の日本人が覚えていることだろう。首班指名と政策調整を巡り、社会党が政権を離脱したため、羽田内閣は少数与党政権に転落した。彼は「改革と強調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を注いだ。しかし永野法相の失言があって早々と罷免。予算案こそ成立したが、社会党の連立復帰交渉が決裂、追い打ちをかける様に自民党が内閣不信任案を提出。否決不可能な情勢に羽田首相は6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は政策を実行する前に、政局のごたごたに巻き込まれた格好で在任64日間という戦後2番目の短命に終わった。単なるお飾りで、不本意に終わった不運の首相となった。(1994年4/28~1994年6/30)

 超短命におわた羽田内閣を受け、日本社会党が突如政策転換し、まさかの予期せぬ寝返り。「自社連立が成った暁には首相をお願いしたい」旨の密約と打診が自民党側からあったとされる。連立与党側は海部元首相を担ぎ出し、国会で首班指名選挙に臨んだが、衆院で過半数に達せず、決選投票の末、村山富市が実に片山哲以来47年振りとなる社会党総理に指名され、ここに自社さきがけの連立政権誕生となった。まさに「今日の友は明日の敵」である。55年体制で、あれほど「自衛隊は違憲」を叫び、マドンナ旋風を巻き起こし、売上税を廃案に追い込んだ自社の対決の歴史を一切かなぐり捨て、180度方針を転換し、よもや自民党と手を組むなどと誰も予想し得なかったに違いない。ここまで来るともはや茶番である。土井たか子元党首が衆議院議長に就任し、緊張しながらも国会を取り仕切った光景は未だに忘れられない。第82代となる村山内閣は1994年6月30日に発足し、1996年1月11日までの561日間在任した。その間「自衛隊合憲・日米安保堅持」という立場を貫き、従来の社会党の存在意義を自らが否定した形となり、国民は冷ややかだった。首相自身は垂れ下った長いまゆげがトレードマークで、その親しみやすい風貌から「黄門様」と慕われた。しかし、その翌年1月に未曾有の大惨事・阪神淡路大震災が起こり、政府の対応の遅れが取りざたされ、批判の的となり支持率は急落した。また、3月には「オウム真理教」幹部らによる地下鉄サリン事件が起き、事件や事故に振り回され、その対応に追われる内閣だった。主な実績は、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(不戦決議)」を可決。「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足。1996年に、住専の6800億円を超える不良債権の財政支出問題で紛糾した責任をとり首相を退陣した。可もなく不可もなく、波風も立たぬ「長老によるつなぎ」的な政権イメージだった。

 村山首相の退陣により、自社さきがけ3党の協議により、自民党総裁だった橋本龍太郎を首班指名することで連立政権維持の合意を取り付けた。そして1996年の1月11日の内閣総辞職を受け、第1次橋本連立内閣が誕生した。彼は旧田中派・竹下派に所属し、政界のプリンスかつ若手大物である彼の首相就任を国民は待望していた。多くが安定政権を望んでいた。就任間もなく大相撲初場所の表彰式に歴代首相として初めて本人が姿を表し、満場の喝采を浴びた。一部には人気取りとの批判もあったが。施政方針演説では改革の必要性を訴え、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4点を重要課題に据えた。しかし住専の不良債権処理でもたつき批判を浴びる。翌2月にはクリントン米大統領と会談し、普天間基地の飛行場の返還を要求し、4月には全面返還と名護への移転で合意。これにより支持率は69%に回復した。その後、59歳の誕生日に1996年7月29日に現職総理として11年振りに靖国神社を参拝し、外国からの非難を浴びる。9月には小選挙区制への改革後、初の総選挙が行われ、自民党は239議席を獲得して復調し、橋本人気は最高潮を迎えた。これで内閣を改造し、11月には第2次改造内閣が発足したものの、議席を減らした社会党と新党さきがけが閣外協力に転じ、3年振りの自民単独政権となった。「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保証構造改革」「教育改革」の6大改革を提唱した。彼の在任中の業績は、「ペルー日本大使公邸占拠事件」の解決、2000年までにロシアとの平和条約締結を取り付けたこと、11月の財政構造改革法案成立、アメリカ駐留軍用特措法成立など。しかし、第2次橋本内閣発足時に、中曽根元首相の強い押しに屈し、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用したことで世論の非難が集中。この一件だけで支持率は30%台まで急落。1998年の7月の衆院選では、景気低迷や失業率の悪化、恒久減税に関して発言が迷走したことなども響き、当初70議席を獲得すると見られていた自民党が44議席と惨敗。この責任を取る形で橋本内閣は総辞職に追い込まれた。(1996年1/11~1998年7/30)在位932日だった。

 橋本首相の退陣を受けて、後継首相の座を射止めたのは小渕恵三だった。彼を一躍有名にしたのは、昭和天皇崩御に際しての元号改正に当たり、記者会見で「平成」と公表したことだった。当時竹下内閣の官房長官だった彼は、大喪の礼などの重要行事を取り仕切った。参院選の敗北の責任を取って辞任した橋本元首相と同派閥出身で外相だった小渕氏の首相起用は各方面から批判を浴びた。田中真紀子氏からは「凡人」と罵られながら7月30日に第84代内閣総理大臣に指名された。与野党が逆転した参議院では、民主党代表の菅直人氏が首班指名を受けるねじれ状態の中での船出となった。彼は目指すべき国家像として、「富国有徳」を打ち出す。11月に公明党が押し切る形で導入に踏み切った「地域振興券」だが、バラマキと酷評された。その後安定政権を目指し、自由党との連立政権を発足。日米ガイドライン、憲法調査会設置、国旗国歌法、通信傍受法案成立、住民コード付加法(国民背番号制度)など重要法案を次々と成立させるなど、近年では順風満帆にその政治的手腕を発揮した首相となった。そして、日本で久し振りに開催された沖縄サミットを記念し、後に流通せずに無用の長物と言われた「2千円札」の発行に踏み切った。在任中は日銀のゼロ金利政策やアメリカの好景気もあって経済は比較的好調。加えてITバブルが発生し、経済を後押しした。2000年には衆院の比例代表の定数を20議席減らす定数削減法案を強行採決。3月には教育改革に本腰を入れ始めた。しかし、翌月に自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されたまさにその翌日に脳梗塞を発症して緊急入院する予想外の事態に苛まれた。執務不能に陥り、意識が戻らないまま自民党執行部は次期首相選びに乗り出す。青木参院幹事長ら5人組による国民不在の中、密会の会談を催し、4月4日には首相不在のまま総辞職を決行。森喜朗を総理とする森内閣が発足した。小渕恵三首相はその40日後、帰らぬ人となった。在職616日で、大平正芳氏に次ぐ現職首相の死去に国民は嘆き悲しんだ。

 本日はスペースの都合上ここまでとさせて頂きたい。原稿は既に完成しているが、続きは明日までお待ちください。次回は小渕内閣を引き継いだ森内閣の顛末記から政権交代を実行した民主党・鳩山首相発足までの政局動向を振り返り、結論を申し添えたいと思う。お楽しみに!

2010年1月24日 (日)

見せた福島魂!

 ラスト300mからのデッドヒートは、手に汗握る緊張感と興奮とが入り混じり、感動の嵐だった。我が福島県代表チームのアンカー、佐藤敦之選手と駅伝王国兵庫の竹澤健介選手の壮絶なラストスパートは、凄まじいものがあり、最後の最後まで目が離せない見応えがあった。

Ekiden1  ご存知佐藤敦之(さとうあつし)選手は、会津若松市出身で、会津高校から早稲田大学へ進学、箱根駅伝でも活躍し、その後中国電力に入社。今回の駅伝の舞台となった広島市は、まさに彼の活動の拠点で、地元の「さとう~頑張れ!」という大声援を背にしての激走となった。一昨年の北京オリンピックでは調整の失敗で、完走者の中で最下位という屈辱を味わい、その時の自分自身へのふがいなさや精神的ショックもあって、走るのが怖くなり、「このまま引退か」とまで囁かれた。しかし、不屈の精神力で不死鳥のごとく甦り、その後の世界陸上選手権で入賞を果たし、奇跡の復活を成し遂げた。(詳しくは10月23日の当ブログを参照)今回の駅伝では、昨年に引き続き、福島県チームのふるさと選手としてエントリーし、最終7区・13km区間を任され、しかも主将まで務めた。3位でタスキを受けとると、序盤からハイペースで首位の埼玉県を猛追。じりじりとその差を詰め、残り1km地点では待望の先頭に立った。しかし、早稲田大学の後輩でもある竹澤健介選手にラスト300m地点で交わされ、惜しくも2位でのゴールとなった。しかしそれでも、昨年の5位を越える過去最高順位タイの2位、この10年間で最高タイムとなる2時間20分5秒という好記録を残せたのは、彼の粘り、実績なくしてなせる成せる業ではなかった筈だ。隆盛期を思わせる圧巻の走りだったと言えよう。序盤から「勝利」の二文字をしっかり見据え、必死になって追いかける真摯な姿には感銘を受けた。

 一方、壮絶な一騎打ちを制した竹澤選手は、駅伝の名門・報徳学園から早稲田大学へ進学。将来を嘱望された陸上界のホープで、早くから「瀬古二世」として注目を浴び、箱根駅伝では、エース区間である華の2区に1年生から2年連続でエントリー。その後転向した3区で新記録を打ちだし、その区間記録は未だに破られていない。大学卒業後は、大先輩の瀬古を慕って「エスビー食品」に入社し、現在に至っている。彼は、スプリント勝負にはめっぽう強く、ゴール前では佐藤選手が懸命に逃げ切りを図ったが、3秒差で交わされた。その前段階で、彼は終始、先輩を盾にし、背後につくスリップストリーム(風除け)状態で余力を溜め込み、温存していたのが勝因となった。最終区のタスキ渡しでは、ほぼ福島と同着だったので、あと10秒差があれば、逃げ切れたかもしれない。それくらい竹澤選手の賢い読みと勝負強さは光るモノがあった。ゴール直後、佐藤選手と同様、ゴールに向かって深々と一礼し、礼儀正しい一面を覗かせ、更には互いの健闘を讃え合って両者がガッチリ握手を交わす姿はスポーツマンとしての清々しさが滲み出ていた。そしてレース後のインタビューでは、「尊敬する佐藤先輩と優勝を争うようなレースが出来て光栄でした」と先輩を立てる発言は立派だったし、すこぶる好感が持てた。彼は日本陸上界を背負って立つ逸材だと断言できるだろう。

Ekiden2  また、箱根駅伝の伝説の山上りから3週間。疲れが残っているものと懸念された「新山の神」の柏原竜二は3区を走った。7位から3位に順位を押し上げた粘り強い走りも凄かった。3区は社会人も走る実力派区間。そこに殴り込みをかけ、堂々とした走りを展開した。彼はとにかく負けず嫌いと見た。「前へ前へ」という強固な意志が宿り、いわばファイティングスピリットの塊だ。タスキを貰うと、まるで3週間前の再現とばかりに、のっけから激しく追い上げる。一見オーバーペースと思えるような走りで、あっという間に先頭集団に追い付き、躊躇せずに一気に先頭に躍り出た。持ち味の勝気な性格と彼らしい走法を余すことなくいかんなく発揮し、顔を歪めながらも相手を挑発するかのように、何度も何度も相手をチラ見する。途中、鬼のような形相と内臓から胃液が逆流するアクシデントにもめげず、歯を食いしばって力走を続け、最後はオーバーペースが祟り、区間3位となったが、福島県を3位に順位を引き上げて次の4区にタスキを渡した。3週間前の激走を思えば、社会人の強者を敵に回してあそこまで粘り強く闘ったことを思えば、それでも十分満足な走りだった。もっとアップダウンが激しければ、自分のペースに相手を引き込めたかもしれない。それ以外にも箱根駅伝で活躍した選手がこの大会にも続々と出場していた。栃木県代表で駒澤大学4年生のエース宇賀地強や長野県チームでは東海大卒の佐藤悠基らも、ごぼう抜きの快走を見せた。

Ekiden  今日は予想以上の結果に、この第15回全国都道府県対抗駅伝大会に釘付けとなった。つい先週、京都にて16位に終わった女子の分まで男子がリベンジに燃え、頑張り、国民の期待に見事応えてくれたと思う。久し振りに気分が爽快となった。「福島魂これにあり!」と絶叫したい気分だった。ところで、あれだけ地元の大声援を受けたので、佐藤敦之選手は、来年はひょっとすると「ふるさと選手」としてではなく、恩返しを兼ねて広島県代表として走るかもしれない。それぐらい広島市民の熱い声援が嬉しかったに違いない。そして、今回のこの快走をきっかけに、いったんは諦めかけ、脳裏をよぎった引退の二文字を撤回し、ますます一騎盛んに現役生活を続行してくれることだろう。「何はともあれ準優勝おめでとう!」

 今回、東京オリンピックで銅メダルに輝いた往年の名選手・円谷幸吉氏に始まる「陸上王国・福島」の名を再び天下に轟かせてくれた。実力のほどは、間違いなく全国レベルに達している。着実に次世代の選手層が厚くなっていることを内外に示してくれた。後輩達の良き手本、励みとなったと思う。来年は、2年前の箱根駅伝で、「初代・山の神」と呼ばれた、元順天堂大学の今井正人選手やかつてのフルマラソン日本記録保持者だった、社会人「富士通」の藤田敦史選手もエントリーしてくれれば、向かうところ敵なしの状態なのだが。我が福島県にはこのような優秀な逸材が多数存在していることを誇りに思うものである。優勝タイムとは僅か3秒差。ぜひ、来年こそは頂点を目指して貰いたいと思う。やってやれないところまで来ているのだから。とにもかくにも今日は、準優勝を成し遂げた彼らの頑張りを讃え、私自身、今宵は「勝利の美酒」にとことん酔いたい気分である。

 

2010年1月21日 (木)

仙台出張ふたたび・・・

 今日は多忙を極める日だとは薄々わかっていた。しかしのっけから寝相の悪さが腰痛を引き起こす。11時30分に仕事を切り上げ、11時40分に職場を出て、取り急ぎ郡山駅へと向かう。11時52分、前回市営西口駐車場に入れて失敗したのを教訓に、今回は速攻でスカイパークに入れ、強風が吹き荒ぶ中、歩いて駅ビルへ。みどりの窓口でWきっぷ(8,600円)をクーポン券利用で購入。自腹は600円のみ。出張旅費で落とすため、領収証を貰う。同僚の到着を待たずして、先に早着の12時9分発の新幹線「Maxやまびこ207号」に飛び乗る。二階建の上側の自由席を確保。この時期の新幹線はがら空きだ。移動中に駅弁を買って食べようという腹積もりだったのだが、車内販売がなく、仙台まで空Dvc00068_2 腹をじっと我慢する。12時49分仙台着。天気予報が外れ、青空が顔を覗かせる。風は強いが気温もさほど低くない。駅の構内にある「ふる里料理みちのく」という居酒屋に入り、昼食を摂る。注文したのは写真の「いろどり膳」だった。1,480円也。仙台名物、牛タン4切れと刺身、それにカキフライが3つ付きの豪華定食だった。その後、本屋で時間を潰し、当初同僚と乗る筈だった後発の列車の到着を待ち、改札口でしばらく同僚の姿を探すが、見つからず。明日謝罪せねば。今日の出張は、14時開始の或る会議への出席。ペデストリアンデッキ続きにある「メトロポリンタン仙台」というホテルが会場だった。駅を出ると気付いたのは女子校生のスカートの短さ。前回も思ったが、仙台の高校生のスカートの丈は半端じゃない。太腿丸見えで、パンツ見えそう。目のやり場に困る。仙台という所は色情狂が多いのか?13時25分のあまりにも早い到着となった。案の定、参加者は200席以上ある中で5番目くらい。その会議自体は14時から15時40分までだが、一方的に業務内容の説明を聞いて、持ち帰り検討するというもの。茶・コーヒー・氷水と立て続けに飲み物を貰う。転勤前の元職場の同僚も3人、郡山から駆け付けていた。

 本当ならば、折角の昨年7月以来の久々の仙台出張。前回同様、牛タンを食べてゆっくり仙台の夜を満喫する予定だった。しかし昨夜、仕事を終えて自宅へ帰ると、ショッキングな知らせが飛び込んできた。家内の祖母が昨夜急逝したというのだ。通夜がこの日の夕方から執り行われることになり、急遽、郡山にとんぼ返りとなってしまったのだ。そして明日が午後から葬儀・告別式という流れに決まったようだ。本音を言えば、本日の出張も誰かに代わって貰いたかったのだが、ウチの職場にはタマがいない。私が出向かないと埒が明かない出張だったため、キャンセルだけは憚った。これがサラリーマンの悲しい性なのだろう。15時に会場を飛び出た。そして駅構内の売店で、鐘崎の笹かまぼこ2箱を購入(2,100円)した。自宅用と職場用だった。15時21分発の直近の新幹線「やまDvc00069びこ58号」に乗った。何と仙台在住、僅か2時間32分の早業だった。ガリレオ風に「実に勿体ない・・・。」新幹線は「こまち型」で、横2×2列シートでゆったりだった。こちらも自由席でもがら空き状態。逆に指定席の方が割高なのに混んでたくらいだ。繁忙期と閑散期を見極めないといけないのだ。福島駅に15時43分到着。はやての通過待ちのため、4分停車。この福島駅のレールは何と6本もある!仙台ですら4本なのに凄い!恐らく山形新幹線とのドッキングするために余分な線路が必要なのだろう。そして福島を出発してすぐに職場から電話が・・・。「パソコンのパスワードを教えてくれ」というものだった。マジ焦った。「今すぐ職場に戻れ・・・」ではなくて良かった。16時ジャストに郡山駅プラットホームに滑り込んだ。郡山はどんよりとした分厚い雲に覆われていた。通夜開始まで1時間、何とか間に合いそうだ。スカイパークの駐車場代900円は職場からは出ず、身銭を切ることに。会津街道を走り、途中コンビニのATMで給料を下ろす。慶弔費の分も含め、いつもより幾分多めに引き出す。明細を見ると、毎回毎回減額のような気がする。やれやれである。16時30分に自宅へ。私が通夜には到底間に合わないと思っていた家内が目を丸くし、急いで喪服に着替え、私の車に便乗。バイパスを南へ走り、一家総出で通夜会場へ。16時45分の到着。この度亡くなったのは、同居している祖母ではなかったが、変わり果てた姿との久し振りの体面に、思わずぐっと来た。祖父が亡くなった年に、私の実父が同じ煙草の吸い過ぎで肺気腫で亡くなっていることから、祖母も心臓の病気だったようで、私の実母もまた、数年間に心臓にカテーテルを入れているので、前夜電話で注意を促した。17時から僧侶がお出ましになり、お経を読み、焼香。このお坊さん、若いながら法話は滅茶苦茶上手。声が低くてよく通り、滑舌も抜群だった。ところで祖母は数えで90歳の高齢での旅立ちだっただけに大往生で、天寿を全うしたと言える。しかし、予期せぬ唐突な「死」の知らせに戸惑いと驚き、そして悲しみは隠せない。静粛・沈痛な面持ちにならざるを得ない。

 どうも去年あたりからお悔みが急に増えた。人の死に接すると自分の健康にも気を遣うようになる。それが身内なら尚更身につまされる。私の父も突然亡くなった。従兄弟もそうだった。それが我が一族の定めであるかのように。皆、周囲を気遣い、介護を必要としない死に方をしているのだ。最近、自身、後悔しない人生を送ることを富に考える様になった。自分の身体を考えた時に、決定的にまずいのが運動不足だ。スキーをしていた頃はまだしも、釣りを趣味としてからは、あまり身体を動かさなくなり、いつしか体力はガタ落ち。職場の階段を3階まで駆け上がっただけでも息が上がり、苦しくなる。煙草など一切口にしていないのに。自分が情けない。こう見えて学生時代は、野球を少し齧っていて、100m走は12秒で走ったし、1,500m持久走でも5分で走破したのだ。40代とはそうした身体的な衰えを痛感する世代なのかもしれない。スポーツのアスリート(野球・サッカーなど)も40歳を境に引退する例が多いのもそのためだろう。

 明日は本葬。またしても午前中で早退となる。このところ睡眠不足と腰痛、両足首痛がする。1年近く経った今も、骨折の傷跡は癒えていないようだ。この痛みと一生付き合っていくのか?やはり「注意一秒怪我一生」は本当だった。本日は「ハードスケジュールだった。」自宅に着いたのは21時だったが、そこから入浴で就寝は23時を優に越えていた。

2010年1月12日 (火)

「よくぞ福島に生まれけり!」

 「所変われば品変わる」という言葉がある。例えばコンビニ業界において1/3のシェアを占める最大手「セブンイレブン・ジャパン」ではあるが、なぜか青森県には「セブンイレブン」の店舗がなく、代わりに「サークルKサンクス」がコンビニ業界を牛耳っている。実は全国展開のセブンイレブンかと思えば、実は意外にも秋田県、鹿児島県、四国地方、北陸地方には未だ存在しない。また、関西と関東、それに東北地方では蕎麦つゆを始め、ラーメンスープの出汁の濃度までかなり異なっている。地域によってさまざまな特産物があって、独特な味わいが楽しめるのも、南北に長い地形を有し、寒暖の差が激しい日本ならではであろう。そこで今回は、気候風土豊かな福島県に生を受け、育った私が、地元に恩返しではないが、福島県の誇れるデータを紹介したいと思う。

 まず福島県の位置だが、関東(栃木・茨城県)の北、東北地方では最南端に位置する。つい10年前までは、前知事・佐藤栄佐久氏の「森に沈む都市」というキャッチフレーズの大号令の下、福島県に「首都機能移転を」という機運が高まり、候補地に名乗りを上げた。県民一体となって招致運動を展開し、あわよくば実現の可能性が最も高かった土地だった。その誘致場所とは、須賀川と玉川村周辺の山間で、2001年の「うつくしま未来博」の開催や福島空港建設などでその布石を盤石に敷くと共に、磐越自動車道と東北縦貫自動車道とを三角形に結ぶトライアングルハイウェイ構想、はたまた企業や工場の誘致も活発化し、県民の誰もが「福島県に首都が来るかもしれない」と密かな期待を抱いたものだった。しかし、急転直下、石原現東京都知事の、絶対王政的な鶴の一声で、この計画は頓挫し、空中分解となり、すべてが儚き夢の如く幻と消え去ってしまった。

 命題だった首都機能移転こそならなかったが、地元福島県は文字通り福の宝庫、宝の山である。大自然に恵まれ、海・山・湖・河川・そして都市部が横たわるというように調和と均衡がとれている。まず、面積は北海道・岩手に次いで日本第3位の広さを持つ。東西に長く、温暖で魚介類の恩恵に肖れる浜通り。新幹線が貫き、盆地が多く、商工業都市が集中する中通り。雪深いが、人情が厚く、豊かな緑と農作物がふんだんにある会津というように3つの地方でに分断されて形成している。また、人口は約210万人で、東北では宮城に次ぐ第2位。1人当たりの県民所得は266万円で、47都道府県中第25位だが、県内総生産額は全国第18位の7兆6千億円。実質経済成長率は、全国第16位の+1%で、全国平均を+0.5%上回っている。自然がもたらす恩恵を受け、農林水産業と商工業とがバランスよく波及効果を生んでいるのだ。そして土地が豊富で、首都圏に近いことから地の利を活かし、古くから大企業の工場が点在し、地元の労働者を雇用していることも経済発展や県内産業の内需拡大に大きく貢献している。とりわけ国道4号線と国道49号線が交差し、東北自動車道と磐越自動車道が交わる郡山周辺は、物流の拠点として栄えて来た。元々郡山市は、県内のほぼ中央に位置し、交通の要衝だったことから宿場町として繁栄して来た。現在もホテルや旅館の数は多い。そこに来て東北新幹線、東北本線、磐越西線、磐越東線、水郡線が発着し、東北でも仙台に次ぐNO.2の乗降客数を誇っている。

 次に農作物について考えると、福島と言えば米と果物が代表格。米の作付面積(生産量)は、全国の市町村で見ると郡山市が全国第1位である。特にブランド米の「あさか舞」は、郡山市内で生産された「コシヒカリ」と「ひとめぼれ」の一等米として販売している。豊かな水と米づくりに最良の気候に恵まれた郡山産の米は、生産量、食味とも全国でもトップクラスです。郡山市は養殖の鯉の出荷量も全国第1位だ。また、福島県の中通りは、くだもの王国でも名高い。「もも」の収穫量は福島県が全国第2位、全国シェアの19%を占めている。それ以外にも「なし」や「いちご」「ぶどう」「さくらんぼ」などの果物がたわわに実る。野菜では、きゅうりの生産量が郡山市は全国第1位である。数年前まで日本一の透明度を誇った猪苗代湖の水が、安積疎水という上水道を通って郡山市に運ばれて来るため、水質は日本で指折りに入る美味しさなのだ。そんな上質な水を使って育てられたお米や野菜が不味い訳はない。私の地元・郡山市は、平成9年に中核市の指定を受け、経済県都と呼ばれるほどの商業都市であるが、製造品の出荷額、年間の商品販売額は共に東北の市町村では第2位である。更に高度情報化の進展度は全国第21位、東北北海道では第3位にランクインしている。そして郡山と言えば音楽都市である。安積黎明高校は前身の安積女子高校の時代から全日本合唱コンクールにおいて30年連続金賞受賞という快挙を成し遂げた。年齢を問わずコーラスが盛んな土地柄である。

 続いて、会津地方だが、会津と言えば地酒である。福島県の6割以上の酒は、会津地方の酒蔵で醸造される。雪深い会津にあって、湧水や雪解け水の清冽さは群を抜き、透明度は高く、まことしやかで、筆舌に尽くしがたい。新酒は米どころ・会津のお米(山田錦・美山錦など)と水を使って仕込まれる。しかも「会津人は頑固だから」という会津気質を表す適語が存在するように、酒造りにも一切妥協を許さない。そうして醸し出された地酒は、全国の品評会でも高い評価を受けている。3年前は金賞獲得数と金賞獲得率で、日本の穀倉地帯と言われる新潟を凌ぎ、堂々の日本一を獲得。一昨年、昨年は全国第2位とその確かな味は全国の地酒ファンの折り紙つきである。また、会津産のコシヒカリは極めて高い評価を得て、特Aクラスである。また、会津身不知柿は皇室への献上品となるほどの上質な甘味が売り。ところで、このところの経済悪化に伴い、長く地元に貢献してくれた「富士通」が工場を閉鎖、撤退したのは誠に慙愧に堪えない。

 浜通りは漁獲量で全国18位にランキングされる通り、漁業が中心だが、最近は「日産自動車」や「アルパイン」など自動車関連産業の台頭が目立つようになってきた。小名浜には鉄鋼や石油化学関連の工場が隣接し、勿来界隈には発電所やパルプ産業が操業を行っている。水揚げされる主な魚介類は、遠洋漁業によるカツオやサバ、サンマが主流で、近海ではカジキマグロやいわき名産のメヒカリ、ドンコ、養殖も盛んなヒラメなどが漁獲量としては多い。また、周辺海域でウニやアワビも収獲される。よって新鮮な獲れたての魚がその日のうちに食卓に並ぶ確率が高いのだ。そして近年は製造業にも力を注ぎ、製造品出荷額ではいわき市が堂々の東北第1位である。

 ところで、ご当地福島県は、陸上王国である。特にマラソン界では注目の的である。古くは東京オリンピックで、日本陸上界で初の銅メダルをもたらした円谷幸吉選手を筆頭に、当時日本最高タイムを叩きだした富士通の藤田敦史選手、北京オリンピックで日本代表となった佐藤敦之選手、そして順天堂大時代、山上りで新記録を樹立した「元祖・山の神」、今井正人選手、そして2年連続、周囲の度肝を抜く快走で「新・山の神」に君臨した柏原竜二選手もまた福島県出身ランナーである。女子では世界選手権金メダリストの鈴木博美選手も同様である。そして大学日本一に何度も輝いている「福島大学」があり、丹野麻美選手や青木沙弥佳選手などのオリンピック選手を4名も輩出している名門があるのも強みだ。これだけ凄いと何だか涙が出そうだ。この「陸上王国」を確立させたと言っても良い大きな出来事が毎年、晩秋の福島路を駆け抜ける「ふくしま駅伝」である。全市町村のランナーが襷を繋ぎ、地元の名誉のために健脚を競いあう。この地域振興をも兼ねた市民参加のロードレースによって、走る楽しみが倍加し、多くの有能なランナーを生みだす原動力とも言える。円谷幸吉メモリアルマラソン(10月)、湯のまち飯坂・ふくしまマラソン(10月)、郡山シティマラソン(4月)、東和ロードレース(7月)、伊達ももの里マラソン(8月)、猪苗代湖を一周する磐梯高原ウルトラマラソン(7月)、相馬市松川浦大橋ふれあいマラソン(10月)いわきシーサイドマラソン(2月)など県内の自治体主催のレースは数多い。日本を背負って立つような有能な選手たちは、みんなここから巣立って行ったのだ。

 芸能界でもさまざまな方が福島県にゆかりがある。まず、ウルトラマンやゴジラなどの特撮映画の分野を確立した映画監督・円谷英二、「嗚呼栄冠は君に輝く」などで有名な作曲家・古関裕而、都はるみに楽曲を提供した市川昭介、現代音楽の魁となった湯浅譲二、森進一・五木ひろしにも曲を提供した猪俣公章、名曲「高校三年生」で知られる作詞家・丘灯至夫、俳優・西田敏行(郡山市)、佐藤慶(会津若松市)、梅沢富美男(福島市)、佐藤B作(福島市)、女優・秋吉久美子(いわき市)、伊東美咲(いわき市)、相楽晴子(郡山市)、芸人・加藤茶(福島市)、三瓶(本宮町)、スポーツ選手・江川卓(いわき市)、中畑清(矢吹町)、競輪・伏見俊昭(白河市)、バイクレーサー・平忠彦(原町市)、フィギュアスケート・本田武史(郡山市)、タレント・野村沙知代(西白河郡)、宝塚・白羽ゆり(福島市)など。特に、加藤茶は福島市出身で、ザ・ドリフターズの一員としてお茶の間の人気者になった。そして、テレビ「池中玄太80キロ」や「おんな太閤記」、そして映画「釣りバカ日誌」などに主演し、個性あふれる演技派俳優として活躍した西田敏行も郡山市小原田出身である。そして県内を舞台にしたテレビには、「ひまわり」(NHK連続テレビ小説):福島市、「はね駒」(NHK連続テレビ小説):相馬市、「白虎隊」 (日本テレビ系テレビドラマ)(日本テレビ系テレビドラマ):会津若松市、「白虎隊」 (テレビ朝日系テレビドラマ)(テレビ朝日系テレビドラマ):会津若松市などがあり、またちょくちょくサスペンスドラマのロケ地として使用される。一方映画では、「フラガール」:いわき市、「釣りバカ日誌8」:いわき市、「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」:ロケ地の一つとして会津若松市、「容疑者 室井慎次」:ロケ地の一つとしていわき市、「遊びの時間は終らない」:いわき市が舞台となった。

 その他の福島県関係のデータをドキュメントで紹介しよう。発電量全国第1位。出生率第3位。歳入額第14位。地方交付税額第9位。高速道路実延長距離第3位。新聞発行部数第14位。自動車登録台数第19位。勤労者の実収入額第4位。薬剤師数第19位。まだまだあるが、キリが無いのでこれくらいにしておきたい。福島県が日本全国誇れる物は多種多様にあるということだ。ひとつ残念なのは、広い県内を反映して、10年ほど前までは、福島県の市町村は90を数えた。しかしながら近年の平成の市町村合併によってその数は減り続け、現在は60になってしまった。福島テレビの「自転車でGO!」を見ていると、何か虚しさを感じてしまう。それに国宝の数がやたら少ない。私が知る限りでは、いわき市内郷にある白水阿弥陀堂だけではなかろうか。けれどもそこは御愛嬌。

 若い頃、「田舎者」と馬鹿にされそうで、自分の出身県を口にするのも憚った時期もあった。しかし、親元を離れて暮らすと、つくづく親のありがたみや故郷の素晴らしさを身をもって知ることになる。やはり「故郷は遠くにありて想うもの」なのだ。だから、今は堂々と胸を張って大きな声で言える。「よくぞ福島にうまれけり!」と。骨を埋めることになるであろう福島県の今後のますますの発展を願ってやまない。

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