短命で終わる日本の首相 後篇
国民不在の中、半ば談合とも言える「タナボタ」状態で決まり、第85(86)代内閣総理大臣の椅子に座ったのは森喜朗だった。この時の政権与党は、小沢氏が率いる自由党が離脱した矢先のことで、自民・公明・保守党の3党による連立内閣であった。この森内閣は、自民党結党以来、最悪の内閣と呼ぶに相応しい散々たる有様で、お粗末にも程が過ぎる超弱体内閣となった。2000年の4月5日に発足して間もなく、閣僚の失言や官房長官に抜擢した中川秀直の愛人スキャンダル事件が相次いで発生。また、自民党内からもYKKトリオによる「加藤氏の反乱」も勃発。いきなり出鼻をくじかれ支持率は常にジリ貧状態で低迷。そこに重大事件が輪をかける。ハワイ沖で日本の高校の練習船(えひめ丸)がアメリカの原子力潜水艦と衝突。多数の生徒が海に投げ出されて死亡する惨事となった。この報を受けた首相は呑気にゴルフの真っ最中。しかも事故の報告を受けてもなお1時間半もゴルフを続行するという失態を演じ、大きな反発と非難を浴びた。危機管理の甘さを露呈しながら、本人は悪びれた様子すらなく、首相を続投。その後、自らも立場を弁えない「神の国」発言や「無党派層は選挙には行かず寝ててくれればいい」などと資質と配慮に欠ける失言を連発。支持率低迷や国民の批判を浴び続けてもなお自らの進退には言及せず、首相の座に居座り続けた。「最低の総理大臣」との烙印を押された。国民の信託ではなく密室で選ばれた大臣だけに、こうなることは目に見えていた筈だ。在位387日(2000年4/5~2001年4/26)
相次ぐ政治腐敗に国民感情は爆発寸前。国民の政治離れが一層加速する中、救世主の如く颯爽と登場し、国民的アイドル首相として近年稀にみる長期政権を維持したのが郵政民営化を改革の本丸と位置付け、熱弁を振るい国民の圧倒的支持を取り付けた小泉純一郎だった。彼の人気は一国の首相としては異常とも思えるほど加熱フィーバーぶり様相を呈した。5年(1980日)に及ぶ在位期間は歴代首相の中で、大政治家・佐藤栄作、吉田茂に次いで第3位となり、彼の内閣は第3次改造内閣まで息長く続いた。彼は2001年4月の総裁選で橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香らと共に出馬した。清新なイメージで人気があった小泉待望論に加え、主婦層に圧倒的人気があった田中真紀子氏の応援協力を受け、優位に選挙戦を展開。大衆の圧倒的な信任を得て小泉旋風なる社会現象をも起こし、予備選で地滑りを起こして圧勝。4月26日に第87代首相に就任した。組閣に当たっては、慣例となっていた派閥からの推薦や意見を一切聞かず、全て自分の独断で決めるなどのっけから改革を実行。「官邸主導」と呼ばれる流れを構築した。行政改革大臣に国民に人気がある若手の石原伸晃を充て、民間経済学者だった竹中平蔵を経済財政担当大臣に起用。また竹馬の友の田中真紀子を外務大臣に抜擢し、知名度抜群の強力な布陣でスタートした。「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに道路4公団、石油公団、住宅金融公庫などの特殊法人を次々と民営化し、「小さな政府」、国と地方の三位一体の改革を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、自らの持論である郵政3事業の民営化を大々的に宣言した。発足時の内閣支持率は驚異的な87.1%を記録し、歴代内閣の最高を叩き出し、国民の期待の大きさを窺わせた。そして就任してすぐの、すっかり恒例となった両国国技館の大相撲の表彰式では、負傷しながら優勝を成し遂げた横綱貴乃花を讃え、「痛みに耐えて良く頑張った。感動した!」と絶叫し、多くの共感を呼び、ボルテージはうなぎ登りに。この小泉人気に乗って7月の参院選で自民党は圧勝。また、終戦の日には靖国神社を参拝することを公約した。9月11日に突如勃発した米同時多発テロを受け、アメリカの「テロとの戦い」を全面的に支持。テロ対策特措法を成立し、海上自衛隊を後方支援に出動させた。その後、外務省機密費流用事件で世論の批判を受けた外務省は、スキャンダル暴露もあった田中真紀子外相を更迭。彼女もまた後に秘書給与疑惑が持ち上がり、議員辞職することとなった。彼が残した功績で一番輝かしいものは、2002年9月に突然北朝鮮を電撃訪問し、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現。日朝平壌調印した。ここで日本人拉致を公式に認めさせ、5人の被害者を帰国させた。この成果により、田中氏更迭で一時冷えかけた支持率は再び上昇した。2003年にはイラクへ米軍が侵攻してフセインを打倒した。これに伴い7月にはイラク特措法を可決成立。更に勢いに乗って有事関連3法案をも成立させた。その後の内閣改造で、彼は直近に迫った選挙戦を睨み、女性ウケが良かった若き安倍晋三を幹事長に抜擢する刷新人事を断行した。11月の総選挙では、絶対安定多数の確保に成功。第2次小泉改造内閣を発足させた。2004年に陸上自衛隊をイラクのサマーワへ派遣。同年6月には、国民保護法などを含む有事関連七法案を成立させたものの7月の参院選で自民党が改選議席割れとなり、安倍幹事長が辞任。武部勤が幹事長職に就いた。破綻しかけた年金制度改革にも着手し、6月に年金改革法を成立させた後、いよいよ悲願である本丸の郵政民営化に乗り出した。しかし実際は、郵政民営化法案は党内や族議員の反対に遭い党内は分裂。民営化反対派の亀井、平沼、綿貫ら大物議員と執行部の対立を招き、衆院本会議で小差で可決されたものの、反対票を投じた者を厳しく断罪、また閣僚ポストにありながらで唯一署名しなかった島村農林水産大臣を罷免。参院で自民党所属議員22名が民営化に反対票を投じ、否決となった。国会は紛糾し、小泉首相は民営化の是非を国民に問うとして突如衆議院の解散を宣言。総選挙に打って出た。反対者には公認を取り消し、無所属での出馬という厳しい処分を行い、「自民党をぶっ壊す」との公言通りの展開となり、事実上自民党は分裂した状態で選挙戦に突入。「郵政選挙」と銘打ったこの選挙では、ベテラン揃いの反対派議員に刺客を差し向け、あえて新人をぶつけた。結果は反対派がことごとく議席を失う結果となった。この一連のドタバタ劇は「小泉劇場」と呼ばれ、郵政民営化推進派が圧勝。大挙して初当選を果たした新人議員達は「小泉チルドレン」と呼ばれた。その後、2005年9月21日に小泉純一郎は第89代総理大臣に任命された。そして、特別国会で再び提出された郵政民営化法案は、賛成多数で可決された。悲願達成で、諸般の目的を達成した彼は、次期総裁選には出馬しないことを公言し、後進に道を譲る決断を行った。2006年8月15日、任期満了を前に彼は公約通りに靖国神社へ紋付き袴という正装で訪れ、戦没者に哀悼の意を捧げた。ここに足かけ5年に及んだ「小泉劇場」は完結し、自らその幕を引いた。高い支持率をバックボーンに、決して信念を曲げず、初志貫徹で政策を断行した類まれな人気首相となり、惜しまれつつ退任。2009年9月には政界からも静かに身を引いた。
ここから先は、記載するのも憚りたくなるような、目を覆いたくなる悲惨な状況の連続となる。いずれも2年の任期を全うできず、1年程度で政権を投げ出した面々である。たいして功績がないので手短にすることとする。
絶大な国民の支持を誇った小泉氏の後継に選ばれたのは、安倍晋三だった。彼は、実父が外務大臣や党三役など内閣の重要ポストを歴任した安倍晋太郎、祖父は岸信介元首相という政界のサラブレッドで、成蹊大卒業の苦労知らずのボンボンだった。しかし、あまりにも急ぎ過ぎた小泉内閣の構造改革のツケ(負の遺産)を一手に払わされることになる。所信方針演説では「美しい日本」というテーマのもと「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」「ホワイトカラーエグゼンプション」など学識者からのウケ入り的な理想論に振り回され、持論が展開できなかった。すべてが後手後手に回り、誠実でスマートなイメージとは裏腹で、若さゆえの強いリーダーシップは感じられなかった。郵政造反組の議員達を禊も済んでいないうちから復党させたり、慰安婦問題で失言し「二枚舌」と罵られた。教育改革として導入した「教員免許更新制度」は日教組の反発を買い、「愚策の骨頂」とまで言われた。在任中に相次ぐ閣僚の暴言や失態、疑惑まみれで渦中にあった松岡農林水産大臣が自殺、年金記録改ざんなどの問題が続出。政策の実行どころか後始末に奔走する毎日だった。首を挿げ替えた赤木農林水相もまた更迭、この遅すぎる対処に非難が殺到、国民だけでなく自民党議員からも執行部の弱体に対して不満が噴出、「安倍おろし」が公然と行われた。8月27日に内閣改造し、急場を乗り越えようと画策したものの、組閣直後にも任命した閣僚の不祥事が明るみになり、一気に求心力を失うこととなった。9月10日の所信表明演説で「職責を全うする」と表明した僅か2日後の9月12日に突如退陣を表明。国民の信頼と期待を著しく裏切っただけのお粗末さだった。表向きは病気だが、これは個人の名誉を守るためであって、事実上は無責任極まりない「政権の丸投げ」であった。人気を優先し、当選僅か3回の経験不足の若手を総理に抜擢した自民党の罪は重い。私自身も、この一件で自民党に見切りをつけたひとりである。第90代首相(2006年9/26~2007年9/26)在位366日
ダメ政権を引き継ぐ羽目になったのは、これまた元首相の息子・福田康夫だった。彼は小泉政権下で官房長官を務め、真面目で誠実な人柄は国民の信頼を得ていた。参議院が、民主党が第一党を占めるねじれ国会の中、2007年9月25日に開かれた衆議院本会議の首班指名選挙において当選。第91代内閣総理大臣に就任した。彼はとにかく冷めた感じで、首相になったことさえ「なりたくてなったわけではない」「仕方なくやってるんだ」というような他人事の様相だった。自らを「背水の陣内閣」と命名し、11月には安定した政権運営に向け、民主党との「大連立構想」を模索したが頓挫した。参議院で問責決議が採択される異常事態を招いた。彼ほど在任中、影が薄く、何の功績を残さなかった首相はいないだろう。しかし、家柄が良いためプライドだけは人一倍強く、質問した記者に対してぶっきらぼうの応答。仕舞いには「あなたとは違うんです」と捲し立てる。学者肌の彼は首相の器ではなく、その資質に欠けていた。「自立と共生」「ストイック型社会」「男女共同参画社会」「道路特定財源制度」「知的財産権の策定」などを提唱したが、看板だけ掲げていずれも道半ばで断念した。2008年9月1日、突然緊急記者会見を開き、その席上、退陣を発表した。周囲の誰もが予想だにし得なかった突然の表明だった。無責任を絵に描いたような失政だったが、引き際もまたあっさりしたものだった。(2007年9/26~2008年9/24)在位365日
福田の後を引き継いだのは「総理になりたくて仕方なかった男」、麻生太郎の出番となった。彼もまた系譜だけは素晴らしい。先祖は大久保利通に始まり、祖父があの大政治家・吉田茂、そして鈴木善幸元首相を義父に持つ。本人はハードボイルド気取りだったが、内情は学習院大学出のお坊ちゃまだった。独特な濁声と自ら「漫画と秋葉原好き」と公言し、若者の人気を集めようと画策した。彼は第92代首相に就任し、自公連立内閣として発足した。彼は様々な要職を歴任していたことから政策通として知られていたが、論理で罵倒するタイプではなく、どちらかと言えばキャラクターで誤魔化し、その場を切り抜けていくタイプだった。一度は選挙対策に「定額給付金」をばら撒き、国民の機嫌を伺ったが、結局の所は景気回復は見込めず、彼もまた支持率は低迷し続けた。「政局よりも政策の実行」を旗印に、なかなか辞めず、空気の読めない首相だった。自ら「日本経済は全治3年」と言い放ちながら、対策は打つものの経済回復の兆しは見えず、発言は朝令暮改の如くブレまくりであった。郵政民営化推進派だった「小泉チルドレン」を蔑に扱い、自らも閣僚の一員だったにもかかわらず、「私は民営化には本当は反対だったんです」と呆れる答弁。主体性を欠き首相としての資質はなく、国民からも見放されていった。また、所信表明演説や各種委員会の会合では、官僚が書いた原稿を読もうとして漢字を読み違えたり、2009年2月のG7では、盟友・中川昭一の酩酊状態でのお粗末な記者会見により、更迭を余儀なくされた。彼自身の任命責任も鋭く追及された。更に、天下り問題、雇用悪化、年金記録改ざん問題などの懸案事項を解決策を見いだせないまま悪戯に時間だけが過ぎた。4月の北朝鮮のミサイル発射に関しても危機管理が甘く対応が遅れた。自己認識が無いのか、はたまた後継者不在なのか不明だが、連日マスコミに叩かれ続けても頑として首相の座を降りようとしなかった。解散総選挙を先送りにし、政策の実行をあくまで優先させた。しかし政権交代を旗印に機運を盛り上げ攻勢を仕掛ける民主党の前に苦戦を強いられ、やむなく衆院の任期満了直前での解散となった。法律の範囲をフルに使った真夏の40日間に及ぶ選挙戦が繰り広げられ、2009年8月30日の投開票日で自民党が歴史的大敗を喫した。与野党の議席数が正反対に逆転する結果となり、民主党を始めとする新与党が安定多数を確保し、ここに「政権交代」が実現した。この時点でようやく麻生首相は退陣を表明した。あまりにも遅すぎた決断だった。その後、中川氏の急死もあって魂の拠り所を完全に失った。この一件は落ちぶれた自民党政治の末路を象徴する出来事のように思えた。自民党は政権を失った訳だが、これで自民党の首相は3代連続で一年程度しか政権を維持できない短期政権となり、国民の怒りは頂点に達し、逆風が一段と強まる結果となった。
圧倒的な国民の支持と「政権交代」の追い風を背景に民主党・社民党・国民新党の三党が連立を組み、細川政権以来となる非自民政権による与党の座に就いた。2009年9月16日の本会議で、鳩山由紀夫が第93代内閣総理大臣に指名され、同日就任した。支持率は70%を超え、期待の大きさを窺わせた。組閣では、「国家戦略室」の設置を明言。党三役のひとつ、幹事長には長年袂を分かちあって来た盟友・小沢一郎を起用。内閣府特命担当大臣と経済財政担当を兼務した最重要ポストには、民主党を取り仕切り、支えて来た功労者の菅直人が拝命。総務大臣には若手きっての弁達者・原口一博(50歳)を起用。外相に岡田克也元党首、国土交通大臣には元党首で若手No.1の前原誠司が担当。財務大臣にはベテランで政策通の藤井裕久を起用し、豪華フルキャストの盤石な布陣で臨んだ。そして連立組からは、福島瑞穂社民党党首が消費者・食品安全担当に、国民新党代表の亀井静香は金融担当としてそれぞれ入閣を果たした。そして当面の政治課題である「脱官僚依存・政治主導」「高速道路無料化」「税金の無駄遣いの排除」「公立高校の無償化」「2000億円規模の子育て支援」など55項目に及ぶマニフェストの実現に着手した。真っ先に話題となり、矢面に立たされたのは前原国交大臣だった。早々に「八ツ場ダム」の建設中止を明言、「関空・羽田の国際空港ハブ化」をぶち上げ、様々な物議を醸した。また、行政刷新会議を新設。事業仕分けにより税金の使い道や無駄遣いを明確にし、透明性を持たせるなど新たな取り組みを大々的に行い、改革をアピールしている。選挙の総括や事後処理に追われる自民党を尻目に、世論を味方につけて順風満帆の船出となった「鳩山丸」だったが、思わぬところから綻びや亀裂が見え出した。それは昨年暮れ以降に表面化した政治資金疑惑である。首相御自ら、実母からの総額11億円にも上る献金を受け、それを政治資金報告書に記載しなかったことに端を発した。また、側近中の側近である小沢幹事長もまた、西松建設からの違法献金疑惑が露呈。土地売買を巡り、4億円もの資金の出どころが不明であることが問題になっている。これにより、会計を担当する陸山会の政治資金収支報告書に不記載、または虚偽記載があることが判明し、現職の国会議員(当時は小沢氏の秘書)や公設秘書合わせて3名の関係者が逮捕される事件へと発展した。当の小沢氏は関与を全面的に否定し、行き過ぎた検察庁の捜査を強く批判。暫くは事情聴取にも応じず、真っ向対立の構図を深めた。この一件は、鳩山首相の政権運営にも大きな打撃となり、連日ニュースや雑誌にも取り上げられ、支持率低下につながっている。ところがこの件を巡り、公正な立場である筈の総理大臣が、小沢氏を終始擁護する態度を貫いた。挙句の果てには、清廉潔白を主張し、検察側と全面対決する姿勢を示した小沢氏に対し、「どうぞ戦ってください」と発言。仮にも検察庁を始めとする行政のトップたる首相が、このような偏った発言をしたことに野党自民党が猛反発。今国会においても予算審議の前に、追及の手は長時間に及んだ。こうして今日に至っている。政権以上から4か月経過したが、相変わらず小沢氏を巡る「政治とカネ」の問題は解消されず、また、あれほど破竹の勢いだったマニフェスト実行の気勢は、ここに来て一気にトーンダウン。「暫定税の撤廃」は地方自治体の猛反発に遭って見送り、「高速道路無料化」はいつしか地域限定になるなど、案の定、財源不足が露呈して公約自体を縮小。描いた青写真はセピア色に褪せてしまった。この辺りはO型内閣に相応しく、八方美人の日和見傾向がありあり。その不安を自らが振り払うように、昨日、国会で施政方針演説を行い、「命を守る」というキーワードの基に、歴代首相の中で最長となる51分間にも及ぶスピーチを行った。抽象的で具体性に欠くとも揶揄されたが、自身の信条や強い決意は伝わったと思う。
さて、二回に渡ってお送りした「短命で終わる日本の首相」、如何だっただろうか。「いつかは総理大臣になろう」と夢を見て政治家の道を志しておきながら、このようなお粗末ぶりについ感情的な表現になってしまったことをお詫びしたい。しかし、今の日本の政治は腐敗そのものだ。鼎の軽重を問う場面が多いため、政局が混迷しやすく、互いの足の引っ張り合いに終始して来た結果がこれである。平成以降、20年の間に15人もの首相が替わった。一国の顔でもある首相がこれほど入れ替わるのは日本を置いてほかにはない。アメリカはこの20年間に、大統領は4人(ブッシュ・クリントン・ブッシュ・オバマ)だし、イギリスも首相は4人(サッチャー・メジャー・ブレア・ブラウン)、ロシアも大統領は4人(ゴルバチョフ・エリツェン・プーチン・メドベージェフ)、韓国は大統領が4人(金泳三・金大中・蘆武絃、季明博)、フランスに至っては20年でたった3人(ミッテラン・シラク・サルコジ)である。日本の首相がいかに短命政権で「責任放棄」の丸投げかがよくわかる。平成の間に、長期政権を維持した小泉首相を除けば、昨年末までで首相の平均在位は386日となり、僅か一年あまりで次々と首相が入れ替わって来たのがよくわかる。これでは腰を落ち着けて政策の実行など成せる筈はない。毎年優勝を期待される巨人と同じで、早々に結果を求めすぎる国民感情も悪いのかもしれない。
しかし、このままでは日本は間違いなく滅びるだろう。経済ではすでに中国に抜かれ、インドも僅少差に迫っている。両国が急成長した経済状況の背景は、爆発的な人口増にある。一方の日本は、少子高齢化によって若い生産者の数が減少し、新卒の雇用状況も過去最悪であることから、就労意欲そのものが低下している。反面、平均年齢が老齢化したことで国全体の総人口の減りも著しい。こうなると事態は深刻で、内需は縮小し、経済発展などは到底見込めない。こうなった原因は、日本の政治が長らく政権交代がなく、自民党がずっと独裁で幅を利かせてやって来たことの代償である。増税ばかり行い、国民から絞り取った税金を無駄遣いし、その結果、国民の生活は苦しくなり、子供を二人以上持てるような生活環境ではなくなったのだ。財布の紐は固くなり、国民は無駄遣いをやめ、切り詰めた節制生活を強いられ、当然ながら消費は滞った。すべて自民党の悪政のなれの果てが主たる要因で、国民がそのツケを払わされ、犠牲となった格好なのだ。ご承知の通り、自民党の総裁の任期は2年となっている。順番待ちの派閥の領袖やニューリーダー達が次の総理の椅子を虎視眈々と狙っていることや派閥順送りの人事をやって来た結果なのだ。だから、派閥間で利権争いが激化し、党内であっても協力するどころか、いろんな所にお目付け役が多くいて、何かのミスに付け込んでは「首相下ろし」が公然と罷り通って来たのである。自民党総裁に登り詰めながら、首相になれなかったのは、河野洋平と現総裁の谷垣禎一だけである。また、私はこうした自民党政権下で、ずっと疑問に感じていたことがある。それは選挙敗北の責任をとって辞任したり、失言などの不祥事を起こして職を追われた者が、次の内閣改造人事でより重要なポストに重用されることである。これは民間ならあり得ない人事である。通常なら懲戒解雇や運良く会社に残れても窓際族が関の山。どうも霞が関の習わしやしきたりは理解し難い。高学歴や派閥所属だけを有難がって、人柄や政治信条、求心力を重要視しない体制下では、到底未来永劫など望める訳がない。今の日本を救えるのは、かつての敗戦後の日本を窮地から救うために奔走した吉田茂やロッキード事件でその職を追われはしたが、日本列島を高速交通網ネットワークでつなぎ、物流を活性化して経済を立て直した田中角栄、更には大平元首相が在職中に急逝した時に、首相代行を無難に務め、首を縦に振れば首相になれたものを、「自分では役不足で、若い人を立てるのが本筋」と敢えて首相の椅子を蹴った男、ご存知生粋の頑固者の会津人・伊東正義のような、個性的であり、求心力も兼ね備えた大物政治家の出現なのだ。そして何より言葉で言うのは簡単だが、強い結束力の挙党体制で政治に当たることこそ肝要だと心得る。政治家は初心を忘れず、国民の代表者としての自覚と責任を持って政を司って貰いたい。選挙の時だけ地元に帰って愛想を振りまいたくらいでは有権者はもはや騙されない。「オラが先生」の時代は、当の昔の出来事となったのだ。このことを肝に銘じ、政局ではなく政策遂行を第一に考えて欲しいものである。さて我々が藁をもすがる思いで託した民主党・鳩山内閣は、果たして長期安定政権となるだろうか。この苦境をどう乗り越えるか、まずはお手並み拝見である。
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