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2010年1月29日 (金)

短命で終わる日本の首相  前篇

 平成になって21年が経過し、今年で22年目に突入した。昨年、日本の政治史上大転換期となる自民党政権が終焉を迎え、新たな時代の幕開けとなった。政権交代が実現し、新政府への期待が大きくなると同時に、過去を振り返るとこの僅かな期間に一体日本では何人の首相が交替したのだろうか。今回は、なぜか長続きせず、短命政権で終わってしまう日本の歴代首相に焦点を当て、政治腐敗や政治問題を論点に考察したい。

 昭和天皇が崩御し、年号が平成と改まった1989年。当時首相の座に君臨していたのは、第74代内閣総理大臣・竹下登である。ご存知タレント・DAIGOの祖父である。常に政界の中心的役割を担い、「数は力」を基本理念に最大派閥として大物議員を数多く有し、七奉行を抱えた大所帯・旧田中派の流れを汲み、経世会の創始者として影響力はもとより、強権体制で猛威を振るっていた。しかし、政治とカネの問題が露呈し、リクルート事件が明るみになると失脚。総辞職となった。(首相在位576日)

 続いてバトンを受けたのは、宇野宗佑だった。これが首相在位の中でも超短命政権で終わった。古風な黒ぶちの眼鏡をかけた、語るのも忌々しいほど情けない総理大臣だった。彼は党三役の経験もないまま、外相だった折に、突如退陣した竹下登の後釜として名前が急浮上した。参院選とサミットを目前に控え、総裁選を行う時間的余裕がなかったことから急場を凌ぐ形、つまり代行という感じで横滑りしたのが間違いの元で、その後短命政権が相次ぐ負の連鎖の始まりとなった。彼は1989年の6月3日に第75代首相に任命されたが、僅か2ヶ月余りの在任期間69日という短さで首相の座を追われた。その原因は、お堅いイメージの外見とは裏腹の、何と前代未聞の女性スキャンダルだった。就任直後、週刊誌によってこの一件が明るみとなり、金まみれの実態と共に報道され、支持率は急落。そのまま突入した同年7月の参院選で消費税問題とセットで国民からNOを突きつけられ、改選議席の半分近くを失う大敗を喫した。全責任を取る形で辞任に追い込まれたが、その会見では、憮然とした表情で記者の質問に答え、「明鏡止水の心境だ」と述べていた姿が妙に印象に残っている。

 次に、政治不信の最中に貧乏くじを引く形で首相になったのが第76・77代の首相となった海部俊樹だった。彼は二階堂派に所属し、三木元首相の秘蔵っ子として三木を尊敬していた。総裁選には林義郎や石原慎太郎らが出馬したが、竹下派の支持を取り付けた海部が圧勝した。彼の出現はまさに起死回生、歴代首相に比べ、爽やかでクリーン、スマートなイメージで就任直後から女性ファンの喝采を浴びた。特に「水玉模様」のネクタイはトレードマークとなり、センスの良さを見せつけた。政治的手腕にも長け、政権運営も順調で、数々の修羅場を切り抜けて行った。在位2年半(1989年8/10~1991年11/5)、818日の長きに渡り政権を担当した。主な功績は、在任途中で勃発した湾岸戦争の多国籍軍に130億ドルの資金提供など。しかし政策の目玉の一つだった政治改革関連法案が参議院で議席を失ったことによるねじれ国会で苦戦を強いられ、YKKなどの自民党内にも反発があって頓挫。結局廃案に追い込まれた。これを受け、本来解散総選挙を意味する「重大な決意で臨む」と発言したことにより、党内で異論が噴出、紛糾は決定的となり、「海部おろし」の大合唱の中、責任を取る形で内閣総辞職を選ぶことを余儀なくされた。若かった海部首相は、「身近な存在の総理」というイメージで、国民から絶大な人気を誇っていた。退任直前でさえ、支持率は50%を超え、時には64%という抜群の国民支持があった。この首相交代劇は、自民党内の勢力争いの構図によるもので、何一つ汚点を残さなかった首相を辞任にまで追い込んだことへの国民世論の批判は大きかった。

 海部退陣の後を受け、満を持してやっと首相の椅子に座ったのが宮澤喜一(1991年11/5~1993年8/9、在位644日、第78代内閣総理大臣)だった。大蔵省の官僚上がりで常にエリート畑を歩き、英語が堪能で外相を始めとして閣僚経験が豊富な彼だったが、過去に数回ニューリーダーとして出馬した総裁選にいずれも敗北。「宮澤はもう首相になれないのでは」と囁かれ出した矢先に、幸運が巡って来た。当時、72歳としては高齢の首相就任となった。保守本流のエースとして、国際感覚を持った大物の総理として期待は大きかったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営とはならなかった。主な在任中の施策は、PKO協力法成立と自衛隊カンボジア派遣、バブル崩壊後の金融不安を巡って対応に苦慮。自らの失言も相まって求心力は低下。政治改革を断行できないまま1993年6月に内閣不信任案が提出され、自民党内が分裂。解散を選択して選挙戦に突入するが敗北し、自民党38年間の長期支配にピリオドを打った際の最後の首相となった。

 自民党一党独裁体制に終止符を打ち、第79代首相になったのは、日本新党・新生党・新党さきがけ・社会党・公明党ら8会派から成る、烏合の衆が相乗りする形となった、いわゆる民主改革連合だった。その初代総理になったのが、「熊本の殿様」細川護煕だった。彼はおしゃれでスマート、クールな物腰で国民の人気を独り占めした。発足直後の支持率は7割を超えた。彼は就任するや否や新しい試みを行った。記者会見は欧米スタイルを取り入れ、記者をペンで指名することや内閣発足時には屋外にてワイングラスにシャンパンを注いで乾杯と斬新なアイディアで従来の慣例を打ち破ると共に、様々な改革に着手した。就任直後に襲った冷夏によるコメ不足を背景に食管法を改正し、ヤミ米を合法化した。ブレンド米の輸入については慎重だったが、深刻化するコメ不足を前に決断した。また、政治関連4法案の成立に向け、調整を行うも難航。選挙制度に関する新たな定数・区割りを提案するが与党内の造反に遭い、廃案に追い込まれた。その後、新たな選挙改革案を模索し、現在の「小選挙区比例代表並立制」を提案。野党自民党の河野総裁と折衝を続け、何とか合意を取り付け成立。これが細川内閣の数少ない実績のひとつになった。しかしその後小沢一郎の入れ知恵によって消費税を3%から7%に引き上げ、名称を福祉目的税とすることを模索。これに新党さきがけの武村代表と社会党の村山委員長が反対し、折からの佐川急便の借入金未返済疑惑も明らかになり、自民党の厳しい追及を招く事態となった。そして国会は空転し、首相は四面楚歌の状況に陥った。4月5日に「やめたい」と漏らしたことが報じられ、総予算審議の直前の8日に退陣を表明した。国民の大きな期待を背負って誕生した細川内閣は、1年にも満たない短命政権で終結した。これにより、新党さきがけは日本新党との統一会派を解消、連立与党から離脱することとなった。中曽根元首相の「雇われマダムにしてはよくやった」という同情にも似た発言が、未だに私の耳に残っている。首相在位263日(1993年8/9~1994年4/28)

 細川内閣の退陣を受け、第80代内閣総理大臣に就任したのは、新生党の党首だった羽田孜だった。羽田内閣の船出は前途多難、誰の目にも短期政権で終わることは明らかだった。彼が首相だったことを何人の日本人が覚えていることだろう。首班指名と政策調整を巡り、社会党が政権を離脱したため、羽田内閣は少数与党政権に転落した。彼は「改革と強調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を注いだ。しかし永野法相の失言があって早々と罷免。予算案こそ成立したが、社会党の連立復帰交渉が決裂、追い打ちをかける様に自民党が内閣不信任案を提出。否決不可能な情勢に羽田首相は6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は政策を実行する前に、政局のごたごたに巻き込まれた格好で在任64日間という戦後2番目の短命に終わった。単なるお飾りで、不本意に終わった不運の首相となった。(1994年4/28~1994年6/30)

 超短命におわた羽田内閣を受け、日本社会党が突如政策転換し、まさかの予期せぬ寝返り。「自社連立が成った暁には首相をお願いしたい」旨の密約と打診が自民党側からあったとされる。連立与党側は海部元首相を担ぎ出し、国会で首班指名選挙に臨んだが、衆院で過半数に達せず、決選投票の末、村山富市が実に片山哲以来47年振りとなる社会党総理に指名され、ここに自社さきがけの連立政権誕生となった。まさに「今日の友は明日の敵」である。55年体制で、あれほど「自衛隊は違憲」を叫び、マドンナ旋風を巻き起こし、売上税を廃案に追い込んだ自社の対決の歴史を一切かなぐり捨て、180度方針を転換し、よもや自民党と手を組むなどと誰も予想し得なかったに違いない。ここまで来るともはや茶番である。土井たか子元党首が衆議院議長に就任し、緊張しながらも国会を取り仕切った光景は未だに忘れられない。第82代となる村山内閣は1994年6月30日に発足し、1996年1月11日までの561日間在任した。その間「自衛隊合憲・日米安保堅持」という立場を貫き、従来の社会党の存在意義を自らが否定した形となり、国民は冷ややかだった。首相自身は垂れ下った長いまゆげがトレードマークで、その親しみやすい風貌から「黄門様」と慕われた。しかし、その翌年1月に未曾有の大惨事・阪神淡路大震災が起こり、政府の対応の遅れが取りざたされ、批判の的となり支持率は急落した。また、3月には「オウム真理教」幹部らによる地下鉄サリン事件が起き、事件や事故に振り回され、その対応に追われる内閣だった。主な実績は、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(不戦決議)」を可決。「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」を発足。1996年に、住専の6800億円を超える不良債権の財政支出問題で紛糾した責任をとり首相を退陣した。可もなく不可もなく、波風も立たぬ「長老によるつなぎ」的な政権イメージだった。

 村山首相の退陣により、自社さきがけ3党の協議により、自民党総裁だった橋本龍太郎を首班指名することで連立政権維持の合意を取り付けた。そして1996年の1月11日の内閣総辞職を受け、第1次橋本連立内閣が誕生した。彼は旧田中派・竹下派に所属し、政界のプリンスかつ若手大物である彼の首相就任を国民は待望していた。多くが安定政権を望んでいた。就任間もなく大相撲初場所の表彰式に歴代首相として初めて本人が姿を表し、満場の喝采を浴びた。一部には人気取りとの批判もあったが。施政方針演説では改革の必要性を訴え、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4点を重要課題に据えた。しかし住専の不良債権処理でもたつき批判を浴びる。翌2月にはクリントン米大統領と会談し、普天間基地の飛行場の返還を要求し、4月には全面返還と名護への移転で合意。これにより支持率は69%に回復した。その後、59歳の誕生日に1996年7月29日に現職総理として11年振りに靖国神社を参拝し、外国からの非難を浴びる。9月には小選挙区制への改革後、初の総選挙が行われ、自民党は239議席を獲得して復調し、橋本人気は最高潮を迎えた。これで内閣を改造し、11月には第2次改造内閣が発足したものの、議席を減らした社会党と新党さきがけが閣外協力に転じ、3年振りの自民単独政権となった。「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保証構造改革」「教育改革」の6大改革を提唱した。彼の在任中の業績は、「ペルー日本大使公邸占拠事件」の解決、2000年までにロシアとの平和条約締結を取り付けたこと、11月の財政構造改革法案成立、アメリカ駐留軍用特措法成立など。しかし、第2次橋本内閣発足時に、中曽根元首相の強い押しに屈し、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を総務庁長官に起用したことで世論の非難が集中。この一件だけで支持率は30%台まで急落。1998年の7月の衆院選では、景気低迷や失業率の悪化、恒久減税に関して発言が迷走したことなども響き、当初70議席を獲得すると見られていた自民党が44議席と惨敗。この責任を取る形で橋本内閣は総辞職に追い込まれた。(1996年1/11~1998年7/30)在位932日だった。

 橋本首相の退陣を受けて、後継首相の座を射止めたのは小渕恵三だった。彼を一躍有名にしたのは、昭和天皇崩御に際しての元号改正に当たり、記者会見で「平成」と公表したことだった。当時竹下内閣の官房長官だった彼は、大喪の礼などの重要行事を取り仕切った。参院選の敗北の責任を取って辞任した橋本元首相と同派閥出身で外相だった小渕氏の首相起用は各方面から批判を浴びた。田中真紀子氏からは「凡人」と罵られながら7月30日に第84代内閣総理大臣に指名された。与野党が逆転した参議院では、民主党代表の菅直人氏が首班指名を受けるねじれ状態の中での船出となった。彼は目指すべき国家像として、「富国有徳」を打ち出す。11月に公明党が押し切る形で導入に踏み切った「地域振興券」だが、バラマキと酷評された。その後安定政権を目指し、自由党との連立政権を発足。日米ガイドライン、憲法調査会設置、国旗国歌法、通信傍受法案成立、住民コード付加法(国民背番号制度)など重要法案を次々と成立させるなど、近年では順風満帆にその政治的手腕を発揮した首相となった。そして、日本で久し振りに開催された沖縄サミットを記念し、後に流通せずに無用の長物と言われた「2千円札」の発行に踏み切った。在任中は日銀のゼロ金利政策やアメリカの好景気もあって経済は比較的好調。加えてITバブルが発生し、経済を後押しした。2000年には衆院の比例代表の定数を20議席減らす定数削減法案を強行採決。3月には教育改革に本腰を入れ始めた。しかし、翌月に自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されたまさにその翌日に脳梗塞を発症して緊急入院する予想外の事態に苛まれた。執務不能に陥り、意識が戻らないまま自民党執行部は次期首相選びに乗り出す。青木参院幹事長ら5人組による国民不在の中、密会の会談を催し、4月4日には首相不在のまま総辞職を決行。森喜朗を総理とする森内閣が発足した。小渕恵三首相はその40日後、帰らぬ人となった。在職616日で、大平正芳氏に次ぐ現職首相の死去に国民は嘆き悲しんだ。

 本日はスペースの都合上ここまでとさせて頂きたい。原稿は既に完成しているが、続きは明日までお待ちください。次回は小渕内閣を引き継いだ森内閣の顛末記から政権交代を実行した民主党・鳩山首相発足までの政局動向を振り返り、結論を申し添えたいと思う。お楽しみに!

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