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2010年2月

2010年2月22日 (月)

我が永遠なる歌姫

 「歌は世につれ、世は歌につれ」という名文句が後世に語り継がれるようになったのは、先日亡くなった「ロッテ歌のアルバム」の司会者だった玉置宏の名調子によるところが大きい。「一週間のご無沙汰でした」という名台詞で幕を開ける、毎週日曜日にお茶の間の人気を浚った番組だった。そこで歌われる名曲の数々。幼心に格別な響きと歌が持つ不思議な力を感じた瞬間でもあった。この番組は私が生まれる前からTBS系列で放送され、15歳の秋まで続いた。そんな歌番組は現在までいろいろあった。古くはNHKのど自慢、紅白歌合戦、スター誕生、スター千一夜、家族そろって歌合戦、夜のヒットスタジオ、ザ・ベストテン、紅白歌のベストテン、ミュージックステーションなどが、私が見ていた番組である。そこで登場する歌手に胸を時めかした時期があった。大晦日のレコード大賞などはドキドキしながら発表の瞬間を待ったものだ。松田聖子やチェッカーズなどアイドルと同じ髪型が流行ったり、ピンクレディーに代表されるような振付を真似たチビッ子も多かったと思う。入浴中に鼻歌を口ずさむ流行歌もあっただろうし、カラオケでひたすら歌い捲くった時代もあったのではないだろうか。今ならi-podでイヤホンで聴きながら勉強したり、you tubeでミュージックビデオを見ることもあるだろう。手段は変わっても、それくらい歌は生活に溶け込んでいる必需品と言うことが出来るだろう。私は今45歳だが、これまでの人生の中で駆け引きなく、歌姫と呼ぶに相応しい大好きな女性歌手を三人を挙げ、その魅力や人となり、人を魅了してやまない楽曲の数々について考察してみたい。

Misora1  まず、私の中で押しも押されもしない第一人者は、美空ひばりである。若い時分は何にも感じなかったが、年を取るにつれ、その波乱に満ちた生きざまや魂を揺さぶるような「歌の心」に触れられる唯一の歌手という気がしている。彼女の数あるヒット曲の中で、集大成とも言うべき曲は、古賀メロディーの代表作「悲しい酒」だと思う。この曲を歌う時、彼女は自分の生い立ちや辛い境遇と重なり、ついつい感情移入し、歌っている最中に感極まって涙してしまう。そこまで出来る歌手は彼女を置いてそうはいまい。彼女は紛れもなく「心」で歌うことの出来る数少ない歌姫なのだ。もっとも彼女のデビューは古く、キャリアは長い。国民的なアイドル子役としてスクリーンに登場し、世相を風刺した独特な歌(東京ブギウギ・悲しき口笛)や踊りで銀幕のスターとして脚光を浴び、人気を一人占めした。子役からやがて成長すると、江利チエミや雪村いずみらと三人娘として人気を博した。長嶋茂雄や石原裕次郎と並んで昭和を代表する大スターと言えるだろう。また、周囲からは「お嬢」と呼ばれ、芸能界ではカリスマ的存在で、尊敬の眼差しで見られ、誰もが一目置く存在だった。そんな彼女ではあるが、私生活は悲劇と苦労の連続だった。俳優・小林旭との短すぎる結婚生活や弟二人、母親と身内を相次いで失う不幸に見舞われながら、彼女は気丈にも懸命に人生を歌い上げた。まるで波乱万丈で、天涯孤独な自分自身の人生劇場を叫ぶが如く歌い続けた。だから自然に気持ちが入り、歌詞に魂が吹き込まれていくのだ。名曲「愛燦燦」は、彼女の人生の縮図を如実に物語っており、生き様そのものだと思う。彼女は同じ時代を生き抜き、苦労を共感できる同世代の女性達に絶大な人気があった。晩年は病魔との闘いを強いられた。1987年には公演先の福岡で倒れ、慢性肝炎及び両側大腿骨骨頭壊死と診断され、もう歩くことも出来ず、美空ひばりは二度とステージには復帰できないとまで囁かれた。しかし、病気と闘い、彼女は不屈の精神力で不死鳥のように甦った。そして、いわきにゆかりの塩屋崎をモチーフにした名曲「みだれ髪」を発売し、華々しく自らの復帰を飾った。そして、その後伝説となるコンサートが計画された。1988年4月11日、開場間もない東京ドームにて「不死鳥コンサート」を実施。歩くのもままならない状態で、脚の痛みに耐えながら計39曲を熱唱し、完全復帰であることをファンにアピールした。その後、遺作となった「川の流れのように」を1989年に発表する。しかしこの時のひばりの肺は病に冒されていた。同年2月、北九州市での公演(これが生涯最後のステージになった)後に検査入院。一旦は退院し、同年3月には、ラジオの特集番組へ生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後の仕事となった。そのラジオ生放送終了直後、体調が急変したために都内の順天堂大学附属病院に再入院する。そして、復帰の夢を果たすことなく、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸器不全のため52歳で亡くなった。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。この衝撃的な訃報はたちまち日本列島を駆け巡り、歌姫の死を悼む全国のファンから悲痛な叫び声が上がった。7月22日に青山葬儀所で執り行われた葬儀告別式には何と4万2千人もの参列者が墓地の周囲を取り囲んだ。昭和を代表する歌手・美空ひばり(本名・加藤和枝)は伝説の歌姫として永遠に語り継がれる本当のスターとなったのである。彼女の生前の功績を讃え、1989年(平成元年)7月に国民栄誉賞が贈られた。

Teresa_ten   二人目は「テレサ・テン」である。彼女は「アジアの歌姫」と呼ばれていた。演歌と言うよりムード歌謡の分野でひとつの時代を築いた。「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」「別れの予感」などが大ヒット。カラオケでは歌われない日はないくらい人気があり、切ない女心を情感豊かに歌い上げた。彼女もまた時代や国籍に運命を翻弄されたミステリアスな魅力に満ち溢れた歌手だった。彼女は本名デン・リージョンと言い、国籍は台湾。父親が職業軍人だったことから、彼女自身も生前軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。それまで中国人のアイドル・アグネスチャンが絶大なる人気を有していたため、日本では1973年にアイドル路線を意識してデビューさせた。しかし、二番煎じと言うイメージが先行し、あまり売れなかったため、演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。しかし、1979年、日本入国の際に違法の手続きで取得したパスポートを使用したことが発覚し、国外退去処分となる。その後再来日を果たしたのは1984年だった。日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚、「時の流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる。1984年~86年にかけて日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞し、人気と実力を不動のものにした。その後は活動拠点を日本に移すが、香港やパリに居住する。そして中国で勃発した天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代には、出所は不明だが、日本をはじめとするアジア各国で二回ほど、その後の不可解な彼女の死を暗示するかのように、彼女の死亡説が流れたりもした。そして運命の1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。1990年から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。しかし、彼女のあまりにも唐突で不可解な死について、当初は暗殺説や自殺説など様々な憶測が流れ、その死因を巡ってもいろんな噂が飛び交った。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。台湾のみならず日本国民にも愛された「アジアの歌姫」は、永遠の眠りについたのである。彼女の急死を以って伝説が完結したのは、些か悲しむべきことなのだが、晩年、年齢に似つかわぬほどの妖艶な魅力は、日本でも世の男性諸氏の心を虜にしたのは言うまでもない。慎んで彼女のご冥福を祈るばかりである。

Sakai_izumi  最後はポップス系の歌姫である。まだ彼女の死は受け入れがたい。彼女が天国へ旅立ってから3年近く経つが、彼女の面影を探すと心切なくて、未だに信じたくない気持ちでいっぱいだ。その人の名はZARDのボーカル・坂井泉水。あの透き通る美声と天は二物を与えたかのような美しい顔立ち、そしてデビューする前にはモデルだったことも頷けるような誰もが羨む抜群のプロポーション。しかし、あまりにもピュアで美しすぎる容姿とは裏腹に、どこか影があって近寄りがたい謎めいた雰囲気を醸し出していた。CDデビューから暫くはマスコミや歌番組には出演せず、従来とはまるっきり異なる新しい手法の活動で、周囲の度肝を抜き、ZARDは架空のグループなのではないかとまで囁かれた。私は彼女のシングルCDは全部持っている。1990年以降、彗星の如く音楽界に登場したZARD。そのデビューは当初、坂井泉水(本名・蒲池幸子)のソロだった。抜擢され、ドラマの主題歌を歌うことになり、モデル出身の彼女が、諦めきれなかった歌手への夢が叶う第一歩となった。その後、ZARDというバンドのボーカル兼作詞を担当し、メジャーデビューを果たすことになるが、まるで彼女の過去が世間に知られるのを覆い隠すかのような秘密多き覆面グループとなっていった。私は「Goodbye my loneliness」からずっと注目し、CDを買い続けたひとりだ。軽快で一度聞いただけですぐに頭に残るような、綺麗なメロディーライン。恋する女性の心情を見事に表現した詩の世界。何もかもが美しく、繊細で新しかった。ZARDを一躍世間に知らしめたのが、1993年に発売された6枚目のシングル「負けないで」だった。この曲はメッセージソングとして日本中で口ずさまれるほどの大ヒットを記録。ミリオンセラーとなり、オリコンでも一位を獲得した。そして更にこの曲は、翌年の高校野球の入場行進曲にもなった。今でも24時間テレビのマラソンのシーンでは欠かせない曲である。そして8枚目のシングル「揺れる想い」でも100万枚の売り上げを達成した。その後も出す曲出すアルバムが次々大ヒット。ZARDのCDは飛ぶように売れた。そしてメジャーバンドの仲間入りを果たすと、テレビの音楽番組にも頻繁に出演するようになった。画面で初めてその美しい姿を見た人々のハートを鷲掴みにし、人気に拍車をかけた。その後も年に4回のペースで新曲をリリース。ドラマの主題歌や「名探偵コナン」のオープニング&エンディング曲としても使用された。彼女の歌声は若い人達だけでなく、男女を問わず、様々な年齢層に受け入れられた。活動15年目には記念の27曲入のベストアルバムCD『Golden Best~15th Anniversary~」、活動15年間のPVを集めたDVD「ZARD Le Oortfolio 1991-2006」、それまでに発表された坂井泉水のCDジャケットを集めた写真集を同時発売。オリコンアルバムチャート・DVDチャート(総合・音楽)共に初登場1位を獲得し二冠を達成した。彼女の発表したシングルのタイトルは、大部分が意味深で、まるで早い段階から自らに襲いかかって来る死期を悟っていたかのように思えてならない。例えば「もう探さない」「眠れない夜を抱いて」「きっと忘れない」「サヨナラは今もこの胸に居ます」「君に逢いたくなったら」「永遠」「息もできない」「運命のルーレットを廻して」「痛いくらい君があふれているよ」「この涙星になれ」「かけがえのないもの」「星のかがやきよ」「翼を広げて」。

 彼女の音楽人生は、誰の目にも順風満帆に映っていたし、この栄光が永遠に続くと信じて疑わなかった。しかし、2006年6月、突然発覚した子宮頸癌により入院。快復に向かいつつあったものの、2007年4月には肺への転移が発見され、再度入退院を繰り返していた。そして運命の日となった同年5月26日に、彼女は入院中の病院で散歩の帰りに階段から転落。後頭部を強打し、これが致命傷となって、脳挫傷により翌5月27日に帰らぬ人となってしまった。(その階段は坂井が入院中、散歩の際によく休憩に立ち寄っていた場所だという)。彼女の急死は、ファンだけでなく世間に驚きと深い悲しみを以って受け止められた。不慮の事故なのか病気を苦にして、思い詰めた末に自ら命を断ったのかは今もって真相は不明だが、私達は、生きる力を歌という形で訴え続けてくれた彼女の存在の大きさというものを改めて知ることとなった。その日を境に彼女は伝説の歌姫となった訳だが、今でも信じられないし、彼女の死を受け入れられないでいる。40歳というあまりにも早すぎる死に、ファンは言葉を失い、途方に暮れた。葬儀自体は家族による密葬の形で行われたが、その後、音楽葬が盛大に執り行われ、大勢のファンが会場に詰めかけた。生前に発売した42枚のシングル(死後も含めると44枚)、11枚のオリジナルアルバム、4枚のベストアルバム、そして4枚のセレクションアルバムが彼女の遺作となった。限られた時間を全力疾走で駆け抜けたそんな彼女の人生だったが、私達ファンの心に彼女の歌声は今でも、そして永遠に生き続けていくに違いない。合掌。

Zard Sakai

2010年2月 2日 (火)

二本松の想い出

 「東京には空がない」と言ったのは、詩人・高村光太郎の妻で画家の「智恵子」だった。明治19年、二本松の造り酒屋に生まれ育った彼女は、油絵を学ぶために東京へ出て、日本女子大学校を卒業した。そして明治45年、写生に行った千葉県犬吠埼で、高村光太郎と運命の出会いを果たす。大正2年に高村と結婚したが、嫁いだ先の東京は、西洋文明の影響を色濃く受け、大正ロマンというハイカラな時代風景と共に産業化の波が押し寄せ、工場が吐き出す煙で空が見えない状況を心情的に物語ったものだった。そんな環境の中、総合失調症を患い、自殺未遂を図る。その後、病床に伏し、昭和13年、粟粒性肺結核により53歳の生涯を閉じた。彼女の作品とその生涯は、夫・光太郎によって「智恵子抄」として後世に残されることとなった。冒頭の台詞はこの作品の中にも収録されている。

 私の母は、智恵子と同じ二本松にゆかりがある。その父親(祖父)が警察官だったこともあり、戦時中、台湾に駐留していた際に現地で出生した。その後、転勤に伴いいわきの錦町や棚倉など県内を転々とし、終の住処として辿り着いたのが「二本松」だったという訳だ。居を構えたのは、市内の榎戸という土地で、旧4号国道から北側に分け入り、急勾配の坂道を登り切った先にあった。かつてそこが母の実家だった。昭和52年に小学校が移転してきて以来、付近一帯は造成されて住宅街になり、私が幼少の頃とは景色はすっかり様変わりしてしまった。そこに祖父母が暮らしていたのだが、郡山から車で約30分程度で行ける交通至便の場所だったので、小中学生時分の頃には、正月やお盆はもとより、何かにつけ用事で母親に連れられて訪れる機会は多かった。母親のその実家とは、昔ながらの平屋建ての佇まいであり、玄関先には古いポンプ式の井戸があった。部屋に入ると湿気交じりの独特な畳と木の匂いがした。祖父は明治大学を卒業した博識のある人で、歴史に造詣が深く、よく昔話を聞かせて貰ったものだ。祖母は、結婚前は尋常小学校の教師をしていたと聞く。子供時代に遊びに行くと、決まって祖父は私達孫を或る場所へと連れ出した。それは北側にある裏山の約500mほど山道を登った先にある愛宕神社の境内だった。その一帯は通称・愛宕山と言い、その山道は細くて険しく、獣道と呼ぶに相応しい風景だった。草木がうっそうと生い茂り、昼間でも薄暗かった。時々、青大将や昆虫が顔を出すような場所だった。よくそこへ蝉などの虫捕りに出掛けた記憶がある。

Kikuningyou  二本松市は、2005年の「平成の大合併」により、周辺の3つの町(安達町・岩代町・東和町)を吸収し、人口6万人の広域都市となった。地方都市としては小規模だが、されど古くから全国にその名を知らしめるような行事を持っていた。それは毎年10月初旬に開催される日本三大提灯祭りのひとつ、「二本松提灯祭」、更には10月1日から11月23日まで約2か月のロングラン開催で、期間中は全国から15万人のファンを呼び寄せる「二本松菊人形」である。私も小中学生の頃までは、祖父母の家から会場まで近いことから、挨拶方々毎年欠かさず見物に出向いたものだった。昭和30年に始まったこのイベントは、テーマは毎年変わるが、時代劇がモチーフとなっており、大抵はNHKの大河ドラマのタイトルがそのまま使用される代物だった。ちなみに昨年は第55回を数え、直江兼続の生涯を描いた「天地人」だった。今年は間違いなく「龍馬伝」であろう。戊辰戦争に巻き込まれ、多数の犠牲者を出した二本松の人にとって、憎き敵(かたき)ではあるが、歴史の真実を来場者に知ってもらう上でも、必要なことと推察したい。各場面や名シーンごとに舞台セットが築かれ、全身に赤紫や黄色など鮮やかな菊の花を豪華絢爛にあしらった人形達が、時には電動で作動し、あるいは回転したりして臨場感を醸し出すのだ。また各場面には立て札で、シーンの説明や音声付きナレーションでも知らせてくれるし、ツアーガイドもいる。会場は、山城だった霞が城の麓一帯の傾斜地を利用しており、起伏が富み、順路づたいに見学して歩けるよう工夫されている。特に人気が高いのは、細い坂道の途中にいる、戊辰戦争で儚く散った二本松少年隊の像や芝居小屋での十段返しの歴史時代絵巻を描いた人形歌舞伎は圧巻である。また、五重塔や滝のあるスポットもちょとした休憩処になっている広場になっていて、滝に沿って登る「上り竜」も組み込まれている。更に極めつけは、広い池に船を浮かべ、合戦などを再現するシーンが人気を集めている。階段状になった見晴らし台から一望できる。そして見物の最後は、食事処で食す団子や草餅、味噌おでんや甘酒もまた格別だった。この菊人形の華やかさに昼間は酔いしれて、夜は壮観な提灯祭りの艶やかさに郷愁を感じる。これがお決まりの観光スタイルだった。この霞が城公園は昔に比べ、城壁も綺麗に再現され、入り口には戊辰戦争の追悼を兼ねた平和祈念の銅像も建立されている。 一方、提灯祭りは市内に数多く存在する急な坂道を、何台もの提灯をたくさん飾りつけた山車を引いたいなせな若い衆たちが、掛け声も勇壮に坂道を下って練り歩き、見せ場は市内中心部の歩道橋のあるロータリーでの山車回しである。観客のボルテージが最高潮となる。歩く隙間もないくらい人出もまた凄じい。ぜひ必見の価値ありである。

Chochin2_2  ところで私は家族とでなく、二度ほど友人とこの二本松まで冒険の旅に出たことがある。一度目は、まず中学2年生の時で、同じ町内に住むやはり、本家が二本松にある幼馴染の同級生を誘い、25キロ離れた二本松の祖父母の家まで自転車で行ったのだ。自分のサイクリング車を駆ってわざわざ往復したのだ。これは正直きつかった。国道4号線はただでさえ交通量が激しく、更に日和田の一本松周辺や二本松の入り口に当たる枡記念病院、バイパスを離れ、岳下体育館があるあたりは勾配がきつく、なおかつ本宮周辺は安達太良連山から吹き下ろす風が強いため、ペダルを漕いでもなかなか前に進まない難所であった。友人は体型が細く、体力があってスピードを上げてどんどん先へ行ってしまい、とても追いつけなかった。何度私が遅れて行くのを待ってもらったことか。「行きはよいよい帰りは恐い」の状況だった。確か帰りは2時間以上かかってしまい、夕方になったと思う。家に着いた時はグロッキー状態だった。二度目は高校時代に、中学校の同級生を連れだって、やはり二本松の菊人形を見ようと電車で訪れた時のことだった。どうしても当時憧れていた国鉄の特急列車に乗りたくて、「どうせわかりゃしないだろう」と安易な発想で郡山駅から東北本線の下り特急に乗ってしまったのだ。そして二本松駅で下車して、どうにかうまくやり過ごそうと企てた。物事そんなに上手くいく訳などなかった。目指す二本松までは約20分ほどの乗車なので、デッキに潜んでいたら、廻って来た車掌に不審に思われ、切符の提示を求められた。あいにく乗車券しか見せなかったら、しっかり700円分の特急券を払わされた。この時点で私は帰りの電車賃しかなくなり、その友人から菊人形の見学料を借りた覚えがある。そして二本松駅から1時間以上かけて坂道を乗り越え、霞が城公園までの道のりをくたくたになりながら、のらりくらりと往復したことを覚えている。また、これとは別に、姉と一緒にバイクでツーリングして菊人形を見に行ったことがあった。私が大学生だった当時、姉貴も何を血迷ったか中型自動二輪の免許を取得し、こともあろうに私と同型のVT250Fの色違い(私は黒で、姉は白)を購入したのだ。そこでVT2台を連ねて試運転も兼ねて旧国道をスローペースで往復した記憶もある。いろいろなエピソードがこの二本松路には残されているのだ。

 二本松という地区は、雄大な安達太良連峰の麓に位置している。町中には山が聳え、小高い丘が至る所にあって、ひとえに「坂の町」と言うことが出来る。智恵子が生前、こよなく愛した風光明媚な美しき山河は、四季の移ろいや花鳥風月をふんだんに観賞できる土地柄だった。智恵子の実家は漆原町という細い街道沿いにポツンと建つ造り酒屋(米屋)である。そこで「花霞」という銘柄の酒を造っていた。今は記念館として一般公開されている。昔ながらの古びた木造平屋建ての当時の風情と面影を偲ばせる建て物だ。そこから彼女は東京へ出て、油絵を専門的に学び、そして後の夫となる光太郎と出会い、嫁いだのだった。私にしてみれば、子供の頃の想い出がぎっしり詰まった母の郷里・二本松だが、今から15年ほど前に祖父が病気で他界し、その数年後には祖母も祖父と同じ病院で亡くなり、帰らぬ人となった。法事が一段落した途端、次第に足が向かなくなり、疎遠になった。姉夫婦が住む福島には、出張などでよく出掛けるが、途中にある筈の二本松には立ち寄らず、通過圏と化してしまった。今、祖父母が長く暮らしていた榎戸の民家は、末っ子の息子(私の叔父)が一人で住んでいるだけとなった。

 しかしながら瞳を閉じれば、今でも懐かしい風景と共に、セピアに色褪せそうな昔の想い出も不思議と色鮮やかに甦って来る。30年以上が経過し、当時の面影とはすっかり変わってしまっただろうが、心の風景は私の胸の中にしっかり刻み込まれている。そして今も変わらず、提灯祭りと菊人形の伝統行事は続いている。「そうだ、春になって暖かくなったら、母を伴い光現寺にある祖父母の墓参りに出掛けてみよう」そして15年振り以上で懐かしい菊人形を眺め、在りし日の祖父母と共に胸の奥深くに仕舞い込んだ「想い出」と言う宝箱を紐解いてみたいと思っている。それが先に冥土に旅立った先祖に対してのせめてもの供養につながると思うからだ。

 

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