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2010年2月 2日 (火)

二本松の想い出

 「東京には空がない」と言ったのは、詩人・高村光太郎の妻で画家の「智恵子」だった。明治19年、二本松の造り酒屋に生まれ育った彼女は、油絵を学ぶために東京へ出て、日本女子大学校を卒業した。そして明治45年、写生に行った千葉県犬吠埼で、高村光太郎と運命の出会いを果たす。大正2年に高村と結婚したが、嫁いだ先の東京は、西洋文明の影響を色濃く受け、大正ロマンというハイカラな時代風景と共に産業化の波が押し寄せ、工場が吐き出す煙で空が見えない状況を心情的に物語ったものだった。そんな環境の中、総合失調症を患い、自殺未遂を図る。その後、病床に伏し、昭和13年、粟粒性肺結核により53歳の生涯を閉じた。彼女の作品とその生涯は、夫・光太郎によって「智恵子抄」として後世に残されることとなった。冒頭の台詞はこの作品の中にも収録されている。

 私の母は、智恵子と同じ二本松にゆかりがある。その父親(祖父)が警察官だったこともあり、戦時中、台湾に駐留していた際に現地で出生した。その後、転勤に伴いいわきの錦町や棚倉など県内を転々とし、終の住処として辿り着いたのが「二本松」だったという訳だ。居を構えたのは、市内の榎戸という土地で、旧4号国道から北側に分け入り、急勾配の坂道を登り切った先にあった。かつてそこが母の実家だった。昭和52年に小学校が移転してきて以来、付近一帯は造成されて住宅街になり、私が幼少の頃とは景色はすっかり様変わりしてしまった。そこに祖父母が暮らしていたのだが、郡山から車で約30分程度で行ける交通至便の場所だったので、小中学生時分の頃には、正月やお盆はもとより、何かにつけ用事で母親に連れられて訪れる機会は多かった。母親のその実家とは、昔ながらの平屋建ての佇まいであり、玄関先には古いポンプ式の井戸があった。部屋に入ると湿気交じりの独特な畳と木の匂いがした。祖父は明治大学を卒業した博識のある人で、歴史に造詣が深く、よく昔話を聞かせて貰ったものだ。祖母は、結婚前は尋常小学校の教師をしていたと聞く。子供時代に遊びに行くと、決まって祖父は私達孫を或る場所へと連れ出した。それは北側にある裏山の約500mほど山道を登った先にある愛宕神社の境内だった。その一帯は通称・愛宕山と言い、その山道は細くて険しく、獣道と呼ぶに相応しい風景だった。草木がうっそうと生い茂り、昼間でも薄暗かった。時々、青大将や昆虫が顔を出すような場所だった。よくそこへ蝉などの虫捕りに出掛けた記憶がある。

Kikuningyou  二本松市は、2005年の「平成の大合併」により、周辺の3つの町(安達町・岩代町・東和町)を吸収し、人口6万人の広域都市となった。地方都市としては小規模だが、されど古くから全国にその名を知らしめるような行事を持っていた。それは毎年10月初旬に開催される日本三大提灯祭りのひとつ、「二本松提灯祭」、更には10月1日から11月23日まで約2か月のロングラン開催で、期間中は全国から15万人のファンを呼び寄せる「二本松菊人形」である。私も小中学生の頃までは、祖父母の家から会場まで近いことから、挨拶方々毎年欠かさず見物に出向いたものだった。昭和30年に始まったこのイベントは、テーマは毎年変わるが、時代劇がモチーフとなっており、大抵はNHKの大河ドラマのタイトルがそのまま使用される代物だった。ちなみに昨年は第55回を数え、直江兼続の生涯を描いた「天地人」だった。今年は間違いなく「龍馬伝」であろう。戊辰戦争に巻き込まれ、多数の犠牲者を出した二本松の人にとって、憎き敵(かたき)ではあるが、歴史の真実を来場者に知ってもらう上でも、必要なことと推察したい。各場面や名シーンごとに舞台セットが築かれ、全身に赤紫や黄色など鮮やかな菊の花を豪華絢爛にあしらった人形達が、時には電動で作動し、あるいは回転したりして臨場感を醸し出すのだ。また各場面には立て札で、シーンの説明や音声付きナレーションでも知らせてくれるし、ツアーガイドもいる。会場は、山城だった霞が城の麓一帯の傾斜地を利用しており、起伏が富み、順路づたいに見学して歩けるよう工夫されている。特に人気が高いのは、細い坂道の途中にいる、戊辰戦争で儚く散った二本松少年隊の像や芝居小屋での十段返しの歴史時代絵巻を描いた人形歌舞伎は圧巻である。また、五重塔や滝のあるスポットもちょとした休憩処になっている広場になっていて、滝に沿って登る「上り竜」も組み込まれている。更に極めつけは、広い池に船を浮かべ、合戦などを再現するシーンが人気を集めている。階段状になった見晴らし台から一望できる。そして見物の最後は、食事処で食す団子や草餅、味噌おでんや甘酒もまた格別だった。この菊人形の華やかさに昼間は酔いしれて、夜は壮観な提灯祭りの艶やかさに郷愁を感じる。これがお決まりの観光スタイルだった。この霞が城公園は昔に比べ、城壁も綺麗に再現され、入り口には戊辰戦争の追悼を兼ねた平和祈念の銅像も建立されている。 一方、提灯祭りは市内に数多く存在する急な坂道を、何台もの提灯をたくさん飾りつけた山車を引いたいなせな若い衆たちが、掛け声も勇壮に坂道を下って練り歩き、見せ場は市内中心部の歩道橋のあるロータリーでの山車回しである。観客のボルテージが最高潮となる。歩く隙間もないくらい人出もまた凄じい。ぜひ必見の価値ありである。

Chochin2_2  ところで私は家族とでなく、二度ほど友人とこの二本松まで冒険の旅に出たことがある。一度目は、まず中学2年生の時で、同じ町内に住むやはり、本家が二本松にある幼馴染の同級生を誘い、25キロ離れた二本松の祖父母の家まで自転車で行ったのだ。自分のサイクリング車を駆ってわざわざ往復したのだ。これは正直きつかった。国道4号線はただでさえ交通量が激しく、更に日和田の一本松周辺や二本松の入り口に当たる枡記念病院、バイパスを離れ、岳下体育館があるあたりは勾配がきつく、なおかつ本宮周辺は安達太良連山から吹き下ろす風が強いため、ペダルを漕いでもなかなか前に進まない難所であった。友人は体型が細く、体力があってスピードを上げてどんどん先へ行ってしまい、とても追いつけなかった。何度私が遅れて行くのを待ってもらったことか。「行きはよいよい帰りは恐い」の状況だった。確か帰りは2時間以上かかってしまい、夕方になったと思う。家に着いた時はグロッキー状態だった。二度目は高校時代に、中学校の同級生を連れだって、やはり二本松の菊人形を見ようと電車で訪れた時のことだった。どうしても当時憧れていた国鉄の特急列車に乗りたくて、「どうせわかりゃしないだろう」と安易な発想で郡山駅から東北本線の下り特急に乗ってしまったのだ。そして二本松駅で下車して、どうにかうまくやり過ごそうと企てた。物事そんなに上手くいく訳などなかった。目指す二本松までは約20分ほどの乗車なので、デッキに潜んでいたら、廻って来た車掌に不審に思われ、切符の提示を求められた。あいにく乗車券しか見せなかったら、しっかり700円分の特急券を払わされた。この時点で私は帰りの電車賃しかなくなり、その友人から菊人形の見学料を借りた覚えがある。そして二本松駅から1時間以上かけて坂道を乗り越え、霞が城公園までの道のりをくたくたになりながら、のらりくらりと往復したことを覚えている。また、これとは別に、姉と一緒にバイクでツーリングして菊人形を見に行ったことがあった。私が大学生だった当時、姉貴も何を血迷ったか中型自動二輪の免許を取得し、こともあろうに私と同型のVT250Fの色違い(私は黒で、姉は白)を購入したのだ。そこでVT2台を連ねて試運転も兼ねて旧国道をスローペースで往復した記憶もある。いろいろなエピソードがこの二本松路には残されているのだ。

 二本松という地区は、雄大な安達太良連峰の麓に位置している。町中には山が聳え、小高い丘が至る所にあって、ひとえに「坂の町」と言うことが出来る。智恵子が生前、こよなく愛した風光明媚な美しき山河は、四季の移ろいや花鳥風月をふんだんに観賞できる土地柄だった。智恵子の実家は漆原町という細い街道沿いにポツンと建つ造り酒屋(米屋)である。そこで「花霞」という銘柄の酒を造っていた。今は記念館として一般公開されている。昔ながらの古びた木造平屋建ての当時の風情と面影を偲ばせる建て物だ。そこから彼女は東京へ出て、油絵を専門的に学び、そして後の夫となる光太郎と出会い、嫁いだのだった。私にしてみれば、子供の頃の想い出がぎっしり詰まった母の郷里・二本松だが、今から15年ほど前に祖父が病気で他界し、その数年後には祖母も祖父と同じ病院で亡くなり、帰らぬ人となった。法事が一段落した途端、次第に足が向かなくなり、疎遠になった。姉夫婦が住む福島には、出張などでよく出掛けるが、途中にある筈の二本松には立ち寄らず、通過圏と化してしまった。今、祖父母が長く暮らしていた榎戸の民家は、末っ子の息子(私の叔父)が一人で住んでいるだけとなった。

 しかしながら瞳を閉じれば、今でも懐かしい風景と共に、セピアに色褪せそうな昔の想い出も不思議と色鮮やかに甦って来る。30年以上が経過し、当時の面影とはすっかり変わってしまっただろうが、心の風景は私の胸の中にしっかり刻み込まれている。そして今も変わらず、提灯祭りと菊人形の伝統行事は続いている。「そうだ、春になって暖かくなったら、母を伴い光現寺にある祖父母の墓参りに出掛けてみよう」そして15年振り以上で懐かしい菊人形を眺め、在りし日の祖父母と共に胸の奥深くに仕舞い込んだ「想い出」と言う宝箱を紐解いてみたいと思っている。それが先に冥土に旅立った先祖に対してのせめてもの供養につながると思うからだ。

 

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