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2010年3月 3日 (水)

学生時代 in 北海道 (1984.4~1985.3)

 ネタに困ると北海道の話を持ち出す悪い癖がある。これまで幾度となく当ブログに記事を紹介して来た通り、私は大学生活の4年間を北海道と東京で過ごした。それは人生に於いて、自分を成長させてくれる貴重な経験を与えてくれた場所であり、今思えば、実にかけがえのない日々だった。四半世紀前の記憶を甦らせるのは至難の業だが、とりわけ北海道での出来事は印象に残ることだらけで、毎日が新鮮だった。今回はそんな学生時代の出来事を思い出せる範囲で書き出し、エピソードにコメントを添えて振り返りたい。

 1984年、高校時代の同級生と2人で同じK大学へ進学した。北海道へ旅立つ直前まで、親に内緒で自動二輪の教習に没頭していた。一本橋でふらつくミスを犯したものの、3月31日に卒業検定を切り抜け、翌々日の2日には、福島市まで出向き、庭坂の運転免許センターで適性検査を受け、即日交付。教習開始から10日余りで取得し、何とか間に合わせた。北海道と言えばバイクツーリング。それに憧れて、夏休みまでバイトをして、何とか購入資金に充てようと目論んでいたのだ。当時、一世を風靡していたのは、ホンダVTやヤマハRZ、スズキγ、カワサキKRなどのオンロードタイプのスポーツクォーターバイク。今思えばミーハーの代表格なのだが、それでもフロントマスクにカウリングを施した斬新のデザインに心躍り、何としても手に入れたかった。

 最初の北海道上陸の交通手段は、何とフェリーだった。学生の身分だったので、一番安い交通手段を選んだ。4月4日に郡山の実家を発って、友人と二人新幹線で仙台へ。そしてそこから仙台港行きのバスに乗り換え、岸壁に接岸していた名古屋・大洗経由の「太平洋フェリー」に乗り込んだ。初めてフェリーに乗ったが、堤防で囲まれた湾内から外洋に出た途端、大揺れ。大型フェリーでも、高低差100mは上下する。2等客室のフロアーにいたが、一発で酔った。その航路は、仙台から苫小牧まで15時間半の地獄絵図とも呼べるような航海だった。寝ようと思っても吐きそうになり、おちおち寝てなんかいられない。夕刻に発った初めてのフェリーでも、外の景色に浸る暇など到底なかった。そして、もがき苦しみながらも、何とか15時間耐え抜いた。朝方、船室の窓から初めての北海道の海岸線が見えて来た。この時の感動は未だに脳裏から離れない。しかし、船内で日付が変わった4月5日、見える景色は何と雪が舞っていて、真冬の世界へ逆戻り。近づくフェリーターミナルの岸壁には雪の塊が見えた。福島では桜の便りが間近に迫っている頃合いだったのに、何か一種の疎外感を抱いたことを覚えている。

 その後、タクシーに相乗りして、苫小牧駅に向かい、そこから当時の国鉄に乗り換え、住まいを構える岩見沢市に辿り着いた。すべてが生まれて初めて見る景色。建物は奇妙な屋根の形をしていて、民家の玄関がやたらと高い位置にあったこと、玄関の前にもうひとつ玄関があることに驚かされた。防風と結露対策、更には外気が部屋に直接入りこまないような配慮のようだった。中学時代、社会の先生が「寒い季節には北海道へ行き、暑い季節には南へ行け。備えは万全だから」と言っていた意味が実感できた瞬間だった。駅前には「中央バス」の赤のラインが賑やかな市バス。そして旧国道12号線の交差点の先にはそのターミナルがあった。その真正面の白いビルの屋上には何故かシンボリックな「自由の女神像」が立っていた。私が住むのは、岩見沢西高校という、今も実在する高校の真向かいにあった今は無き「エンゼルハイツ」というアパートだった。並木町という地名で、国道234号線からAコープの角を脇道に入った美容室と隣接した10世帯は入るような建物だった。アパートと言っても玄関はひとつで、中に廊下があって、台所は各部屋についていたが、風呂やトイレは共同だった。洗濯機も100円コインのタイプだった。つまりは学生寮みたいな作りだった。驚いたのは、4月初旬でも、北側の一階部分には、雪が積み上げられ、窓をすっぽり塞いでいた光景だった。やはり北海道は半端じゃないと思った。行く前は夏でも長袖じゃないのかとか、もしかしたら日本語が通じない場所なんじゃないかと真面目に思ったほどだった。その他で岩見沢の有名な物は、「ばんえい競馬」くらいのものだった。

 続いて引越し整理が一段落した頃、大学の入学式が執り行われ、薔薇色の学生生活が始まった。実は、大学生になったら、一度は出てみたいTV番組があった。それは「やすきよのプロポーズ大作戦」に登場する「フィーリングカップル5対5」だった。しかし、私が大学生になった年に、放送が終了してしまった・・・。入学式自体のエピソードも強烈な印象として残っている。友人と連れ立って、会場入りしてびっくり。腰を抜かすほどの衝撃を受けた。壇上には大きな仏壇がいくつも置いてあって、何故だか会場全体が線香がばんばん炊いてあって、煙が充満している。一瞬不安がよぎった。そしていよいよ式が始まったと思ったら、通常なら起立・礼・着席となるところを、かかった号令は「起立・合掌・着席」である。そして「教授入場」とアナウンスがかかったと思ったら、あろうことか会場に入って来たのは、全員袈裟に身を固めたどこからどう見ても「お坊さん達」。「何だこれは?」一瞬、会場を間違えて、どこかの宗教団体の集会に紛れ込んだのかと思った。自分としてみれば、苦労して入った大学だった筈なのに、一瞬で夢が覚めた思いだった。薔薇色どころかのっけから玉虫色にたたき落とされてしまったのだ。考えてみれば、K大は仏教系の大学だった。自分の家の宗派は、弘法大師空海が開祖の真言宗だが、その大学は別の宗派だったのだ。

 4月から7月までは、大学の講義自体は1年時からカリキュラムの取り方で、土日を休みにした。大学までは徒歩で10分程度のかなり近い場所にあったので通学はことのほか楽だった。大学のキャンパスは、流石は北海道と思わせるほど広大だった。附属の高校が大学に隣接し、ヒグマ打線との異名をとるほどの甲子園の常連校だけあって、専用の球場と巨大スコアボード兼バックスクリーンの中には屋内練習場を完備していた。大学の講義がある日はまだしも、空き時間には家に戻ってTVなどを見ていた。テレビは室内アンテナしかなく、映りは極端に悪かった。特にUHBとHTBのUHF系がイマイチだった。VHF系のHBCとSTVはバッチリだった。コマーシャルも内地(北海道の人は本州の事をこう呼ぶ)とは、まるで違うものだった。中でも有名なのは、「白い恋人」でお馴染みの石屋製菓のCMや、ルスツ高原、「ここはお風呂の遊園地~なんてったって宇宙一~♪」という歌で有名な定山渓温泉、セスナ機が札幌上空を飛ぶ「北海道新聞社」などのCMが印象に残っている。あとは「皆様の丸井今井」も何回も目の当たりにした。また、食料の買い出しに行くのは重労働で、徒歩で500m離れた目抜き通りに北海道教育大学があって、その近くが春木屋という書店とバス停があった。その一本裏手にこじんまりとしたスーパーがあった。よくそこまで野菜などを買い込み、ビニール袋に溢れるほどの食材を入れ、往復した記憶がある。

 4月の下旬に学科の先輩と教授達を囲んでの新歓コンパが市内の居酒屋で開かれた。その時、当時流行っていた「イッ気飲み」をやらされ、調子に乗って飲んでいたら、帰りのバスの中で酩酊状態。アパートに着いた時には先輩の助けがないと部屋まで上がれない状態。その夜はトイレと随分仲良くした記憶がある。そんな時に限って実家の母親が電話をよこした。「水をいっぱい飲め」だのアドバイスする。この日はマジ辛かった。あとサークルで人数合わせで名前だけ入った「写真部」でも歓迎会を催した。それぞれ出身県の訛りを披露したが、郡山弁が思いつかず、つい語尾に「~づら」を付けたところ、それって「栃木弁じゃね?」となって、それ以来胡散臭い奴だと思われてしまった。

 また同郷の友人Nがアパート内の隣りの部屋に住み、彼はとにかくアクティブで、市内をあちこち探検するほどの物好きで、いろいろな店の所在を彼から教えてもらった。234号線沿いにはAコープというスーパーがあったり、国道を挟んで生協があった。その友人はとにかくお洒落。着る物も「ホットドッグプレス」や「ポパイ」という雑誌を愛読し、研究していた。こだわりがあって、スタジャンなどもよく好んで着ていた。そいつの部屋から流れて来た「浜田省吾のSand Castle」のカセットが気に入り、レンタルレコードで借りて、録音した。ステレオは、姉気の使い古しの物を借りて持って来たが、夏に郡山に帰郷した時、「うすい」にて彼が持っていた横長で、両脇のスピーカーが取り外せるAIWA製のWカセットと同じ物を購入し、音楽を聴きまくった。音楽に関しては彼の影響が大きかった。また、土曜日にFM東京で放送していた「ポップスベスト10」が大のお気に入りで、よくエアチェックしていた。当時一世を風靡していた洋楽は、TOTOの「Africa」、カルチャークラブ「カーマは気まぐれ」、シンディローパー「ハイスクールはダンステリア」、マイケルジャクソン「スリラー」、ワム「ケアレスウィスパー」、ガゼボ「アイライクショパン」、マドンナ「ライク・ア・バージン」、ケニーロギンス「フットルース」、スティビーワンダー「心の愛」、その他バンヘイレン、ジャーニー、ホール&オーツ、a-ha、ジンギスカン、ブズスキャッグス、シャカタク、アラベスク、フィルコリンズ、シカゴ、ビリージョエル、ブルーススプリングスティーン、ノーランズ、ABBA、ボンジョビ、日本人シンガーでは、マッチ、菊池桃子、チェッカーズなどアイドル全盛だった。それだけに実力派シンガーの浜田省吾の世界観との出会いは衝撃的だった。一方、私の好きなテレビでは、小林克也DJで深夜に放送していたベストヒットUSAや、松山千春がMCを務めていた「ハローミッドナイト」、テレ朝は「トゥナイト」、日本テレビ系では「独占おとなの時間」や「11PM」を引き継いだ「テレビ海賊チャンネル」など特異な番組が盛り沢山で、「ティッシュタイム」や「シャワータイム」なるお色気興奮番組もあった。その友人とは5月のGWに、札幌観光にバスで出向いた。当時は札幌から岩見沢まで高速道路が唯一開通していて、高速バスを使えば500円という格安で1時間以内で札幌の中心市街地まで行けた。TVの画面でしかお目にかかったことがないテレビ塔、大通り公園、遥か彼方に聳える大倉山シャンツェ、夢にまで見た時計台、オーロラタウンとポールタウンの地下街、そして何とゴムタイヤ式の地下鉄など、見る物すべてが新鮮そのもの。当時の札幌は170万人の大都市だったのだ。

 また、1年上(2年生)に、現役で合格した中学の同級生もいた。その友人はやはり、バイクに乗り、気が向いた時にはどこにでも出掛ける典型的なB型タイプの奴で、とにかくマイペース。1週間に一度、愛車のオフロードバイクホンダのXL200に乗って、赤のジェットヘルを被っていた。そいつはとにかく神出鬼没で、いつも予告なしにいきなり現れるのだ。そして昨日は「どこどこまで行って来た」とか逐一報告してくれた。そういう彼の土産話によって、ますますバイクに乗りたいという衝動に駆り立てられたのだった。彼とは今でも親友だ。彼は経済学部に在籍し、その後、郡山に本社がある大手スーパーの社員に採用され、いわき市の小名浜や泉、宮城県塩竃や山形県米沢市、寒河江市を転々とし、最近ようやく43歳にて結婚した。今は、那須の支店にいる。その友人は、北海道キャンパスから東京に移った時、オフローダーでしかも小柄ながら一発で「限定解除」を成し遂げた運転技術に長けた人だった。さすが好奇心旺盛で凝り性、負けず嫌いでのめり込むB型だけのことはあった。また、その友達で、やはり郡山市出身の奴もいた。そいつも小型バイクに乗り、その後一緒に道東へツーリングに出かけたことがあるのだが、10月過ぎに、キャンパス内のロータリーでバイクに乗っていて、車とぶつかり、足に大怪我を負って、しばらく入院していた。

 また、これは横浜出身の2浪して入って来たひとつ年上の友人だったが、久本雅美が入信していることでも有名な宗教団体に入っていて、そいつの賄い付きの下宿先にお邪魔した時に、いきなり部屋に小さな仏壇があって、せつせつと俺に宗教(日蓮正宗)の悟りを語り出した。一時は、知らないでついて行ったら、そんな人たちの集まりで、寄って集って俺に入信を勧めて来て、途方に暮れたことがあった。そんな宗教活動を行うために大学へ来た訳ではないので、丁重にお断りした。そいつは不思議な奴で、入った大学は曹洞宗、しかし本人が強く信仰しているのが日蓮正宗、家は踊念仏で、父親が天理教で母親はPL教団と言う一家で異なる宗教を信仰していたのだ。いくら憲法で「信教の自由」を保障していても、マジ大丈夫なのだろうか?そして同じアパートにも、その後仲良しになるB型野郎がいた。そいつは現役で入って来たひとつ年下なのだが、横浜の旭区に住む都会っ子なのだが、どちらかと言えば自然派タイプで、地理学科の為か、電車や旅行が大好きで、「国鉄チャレンジ3万キロ」を実行していた友人だった。その後、大の仲良しになったが、そいつが凄いのは、「青春18きっぷ」を利用し、各駅停車の列車を使って、日本全国津々浦々すべての駅で降り、そこのプラットホームで駅名を入れた標識をバックに撮った証拠写真と、待合室に置いてあるスタンプのコレクションがアルバムに綺麗に整理してあって、見る者を圧倒していた。そしてもうひとり、同じ学科の友人で仲が良かったのは、石川県の松任市から遥々来た、ベースを弾くS君だった。彼はヘビースモーカーだが、新築のワンルーム(カレッヂハウス)に住んでいて、時々入り浸っていた。そして学部にはいわき市出身の2人がいて、それもまた心強い存在だった。

 私が住んでいた岩見沢市は、当時は札幌から40kmの交通至便にあって、人口は8万人いた。雪が半端じゃなく降り積もることで有名な土地柄で、市内を巡回するA・B2つのコースのバスは、どこからどこまで乗っても100円均一だった。また、街中に大小様々な牧場があって、牛がいたり、北国特有の酪農風景が展開され、サイロがあった。市街地は空知支庁があり、ホクレンの巨大な建物がドーンと聳える。また、駅周辺には唯一、「金市館」という、かつて郡山にあった津野デパートと似た作りの5~6階建てのデパートがあった。そこでグレーと黒のジャケットを購入した。それを着てキャンパス内を歩いていたら、附属の高校生から「よっ、シティーボーイ」と声を掛けられたことも覚えている。また、古ぼけた電力会社の建物の近くには、名前を忘れたが、ディスカウント店があった。そこで当時、私が使っていた日立マスタックスのVHSビデオレコーダーのテープを購入していたが、驚くことなかれ、北海道は輸送費が嵩むのか、たかがVHSテープ一本が1500円もした。高嶺の花状態だったのだ。勿体ないので番組は標準モードではなく、3倍モードで録画していた。まさに「所変われば品変わる」で、いろいろと新発見は尽きなかった。また、恐ろしい事件も発生した。いきなり知らないオヤジから電話がかかって来て、「昨日はよくもウチの若いもんを可愛がってくれたな」「今から子分をお前の所にやるから首洗って待っとけ!」などという身に覚えのない話をされて、一方的に切られた。それから30分後、いきなりチンピラ風の2人がドアを開けて入り込んで来た。徐に俺の顔を見るなり、「こいつじゃねえ」と言ったかと思うとそのまま出て行った。何が何だか分からなかったが、予想では、何か夕べ飲み屋あたりでトラブルがあって、そいつのことを殴った大学生がいたのだ。でまかせに適当にアパートの名前と俺の苗字をとっさに使ったのだと思った。全く、迷惑な話だ。大学生活は、授業はさほどきつくなかった。アットホームな感じだったし、助教授や教授との距離もわりかし近かった。特に英語の授業では、リンガホンという英会話教材をやっていたせいか、発音には多少ンリとも自信があった。教授に皆の前で「SUZU君の発音は素晴らしい!」と褒められ、それで更に発音に磨きをかけたものだった。ただ、藤女子大卒の女性の英会話講師Kと論文の書き方がわからず、苦労させられたのだが、毎回同じシャツとネクタイのG先生とは波長が合わず、成績は良くなかった。

 そうこうしているうちに、夏休みになった。その年の夏は「ロサンゼルスオリンピック」の話題で持ちきりだった。開会式でのロケットマンの派手な演出、カールルイスの4冠達成など見どころは十分だった。具志堅幸司の体操個人総合金メダルも素晴らしかった。この時点では、交通手段はバスしかなかったので、行動半径は狭く、どこに何があるかはあまり把握していなかった。7月に初めて帰郷。函館までは電化されている千歳本線の電車で函館まで5時間かけて行き、青函連絡船(大雪丸)に乗り換え3時間50分の航海。そして急行「津軽」に乗って8時間。ようやく郡山に辿り着いたのだった。初めて乗った青函連絡船もまた格別だった。どこか旅の情緒や郷愁を誘う。この連絡船何が凄いって24時間、フル操業。6種類の船が3時間おきに一本ずつ出ていたことと、国鉄から搭乗口までタラップで一度も外に出ずに乗り換えができることだった。津軽海峡は波も穏やかで、さほど揺れることはなかった。寝そべることのできるフロアと座席式の船室があった。どちらかと言えば、この連絡船には夜に乗船することが多かった。だから、あまり景色を堪能することは少なかった。

 郡山へ戻って数日後、そこで運命の出会いを果たすこととなった。家の手伝いで車に乗っていた時の事、市内長者のホンダウィングの前を通りかかった時、まさに私が高3の時に雑誌で見て、それ以来ずっと恋い焦がれていた黒のVTが置いてあった。新車だと399,900円だったのだが、メーター6千キロで340,000円だった。バイトで溜めた資金を元手に即決した。そのバイク屋とは、親同士が良く知っていたが、とにかくこんな田舎でこれだけの上物はなかなかなく、足元を見られた感は否めない。それでもようやく念願がかなった。最初は緊張した。教習以来3カ月振り以上の実車だったからだ。前のオーナーは山形県の女性ライダーだった為、傷もなく丁寧に乗っていたようだ。それから9月に北海道に戻るまで、慣らし運転を続けた。やはり、250ccとは言え、1万回転以上までエンジンが回る高性能V型ツインの4気筒。スロットルを開けるとボーンという独特なエンジン音がして、加速が凄まじかった。タンクの容量は12リットル。バイクには燃料計がなく、走行距離と燃費を常に把握していなければならない。そのため、エンストを避けるため、燃料コックには、R(リザーブ)があって、その数キロの間にGSを探さなければならなかった。VTは当時流行りだった2気筒のRZやγとは異なり、燃費は良くて20キロ以上走った。あと自分でオイル交換は出来る様に、工具を揃え、もしもの時に備えて、チューブレスタイヤのパンク修理キッドを購入した。箱形の吸収スポンジのような廃油を回収できる物が売られており、何と家庭のゴミと一緒に捨てられた。そして、HONDAに請求し、パーツリストやサービスマニュアルまで取り寄せた。

 やがて2か月近く実家で過ごした夏休みも終わりに近づき、北海道に戻る日がやって来た。確か仙台港を18時過ぎ発の東日本フェリーだったと思う。9月上旬、秋の気配を感じながら4号線をひた走り、仙台港までかかる時間を逆算して割り出した。4時間あれば大丈夫だろうと思い、14時頃実家を出発した。しかし、福島市内を越えてから渋滞などで思うように距離が稼げず、更には途中から道順がわからなくなり、迷走した。刻一刻とフェリーの出航時間が迫る。マジ焦った。また出直しか?と覚悟した時、暗闇の中から船体が浮かび上がって来た。その時は冷や汗の連続だっただけにホッとした。恐らく出航まであと5分だった。急いで乗船手続きを済ませ、ゲートから船に乗り込んだ。まさに危機一髪だった。翌朝、船酔い状態で苫小牧に降り立った。いよいよ北海道での憧れのRUNの始まりである。いきなり、国道36号線で信号で停車した時、ツーリングライダーと思しきライダーと初めてのピースサインを交わした。何かとてつまもなく感動した。まったく知らない人と触れあえた瞬間だった。そしてR234に合流し、岩見沢まで1時間半のライディングで無事生還した。XLの友人Mに早速披露。今後、彼と北海道の旅に出ることになる。アパートにはもう一人、「γ」に乗る先輩のF氏がいた。ところが、夕張の手前の峠を攻めていた時に車と衝突して敢え無く廃車の一途を辿った。アパートの目の前の砂利に留め、カバーを掛けていた。ところが、一度、取り外し可能な両側のサイドカバーを盗まれたことがあった。これはショックだった。北海道では部品は高くて、調達にもえらく日数を要した。それを教訓にカバーに穴を開け、針金で頑丈に括りつけて対策を万全に行った。バイクは「福島ナンバー」だった。これには2つの理由があった。ひとつは、北海道に住んでいた2年間、住民票を移していなかったのだ。だから実際2年間北海道に住み、暮らしてはいたが、正式に(書類上)は北海道に住んだという記録は何も残っていないのだ。もう一つは、北海道を走るのなら、札幌ナンバーよりも、福島ナンバーの方がツーリングで遥々来たという感じがして、北海道の人のウケが良いのでは?と考えた。バイクが手に入ってから行動半径が飛躍的に向上した。大学への通学もバイクで行ったし、駅前周辺や札幌の古本屋まで何往復したことか。駅前には唯一一軒だけ「レンタルレコード(当時はまだCDは無かった)屋」があって、ヒット曲のSPやLPを借りて聴いていた。色んな面でバイクは重宝した。

 旅に出る準備として、「ユースホステル」の会員になろうと決め、隣りの北海道教育大学の学生協に出向いた。中に入ってビックリ。さすがは国立大。食堂は綺麗で広く、メニューも豊富だった。ランチは280円という安さ!そこに張り紙がしてあって、「K大生は来るな!」と書いてあった。生協で登録料500円を払って、ユースの会員になった。ユースは、学生にとって有り難い存在だった。一泊1,500円で宿泊でき、食事やベッドメイキングはすべてセルフで、部屋自体も1部屋6人で、2段ベッドがあるだけ。ミーティングにも必ず出席が義務化していた。まずは学校とアパートの往復でバイクを使用していた。ある時、講義終わりに、徒歩で帰宅途中の隣りの部屋の友人を見かけ、気前よく後ろに乗れと言ってしまった。ところが、ノーヘルで校門を出て暫く走った途端、いきなりミラーにはパトライトが・・・。初めてパトカーに乗せられ、切符を切られた。点数のみ1点引かれ、反則金はとられなかった。勘違いしていたが、バイクと四輪は点数が別々だと思っていた。これにはびっくりだった。

 そして、記念すべき初めてのツーリング。パートナーは同郷のXLを駆っていたM。選んだルートは、小樽経由積丹半島回り函館行き。2年生のため、翌年は東京のキャンパスに移ることになる彼にとって、この9月・10月が最後のチャンスだったのだ。11月には雪が降り積もるので、実家にバイクを届けに戻らなければならなかった。9月14日(金)~16日(日)の北海道バイクツーリングは、やはり寒いものだった。しかしながら、積丹半島周辺の海の青さには感銘を受けた。エメラルドブルーで、透明度は抜群だった。島武意海岸の展望台の眺望や神威岬までの登山も想像を絶するものだった。海岸線走行で、リーン・インとリーン・アウトのコーナリングの仕方をここで覚えた。ユースホステルでの宿泊もレクレーションゲームに興じたり、楽しかった。函館の夜景を初めて目の当たりにして感動したことやイカソーメンを食べた時の感触は未だに忘れられない。この旅の想い出をどうにかして形に残したいと考え、それには高校時代に修学旅行の課題に出た「紀行文」を大学時代のツーリングでも書いてみようと思い立った。ここから始まった紀行文執筆は、4年間続き、大学ノート10冊分、ページ数で1,500ページを超える大作となった。そしてこれももう一つの試みとして、Mが実行していたことだが、部屋に白地図を貼り、自分がバイクで実際に走ったルートを赤で塗りつぶすことにした。そうすることで、人間の心理として、出来るだけ早くかつ多くの場所を真っ赤にしたいという衝動に駆り立てられるのだ。実際正味一年のバイクツーリングで、走っていない道がないくらい白地図が真っ赤に染まった。

 その後、忘れもしない9月下旬に事故が起きた。「悲別ロマン座」を目指し、初めての単独ツーリングに行こうとして道を間違えた峠道で、進入速度を間違えて下り左カーブを曲がり切れず、道路右側の砂利の側道に突っ込み、転倒。我が愛車VTは側溝に転落。怪我は足を擦りむいた程度だったが、側溝に入ったバイクが心配だった。たまたま運良く大型バイクで通りかかったライダーに助けを求め、2人で引きづり出した。公衆電話からM君に電話し、駆け付けて貰った。バイクは、この事故でカウルが損壊。マフラーも傷とへこみが入った。ガソリンが滴り落ちていたが、でも走れない訳ではなかった。転倒した瞬間は、二度とVTに乗れないと思ったが、大事には至らなかったようだ。

 続いて10月7日(日)にはM君と定山渓経由で登別へ。昭和新山、洞爺湖などを訪れた。彼のバイクはオフ車なのだが、こっちはオンロード。オロフレ峠という断崖絶壁のダートを通ったが、20km/hも出せず、引き離されてしまった。急勾配でバランスがとれず怖かった。そして、登別温泉では、地獄谷を見た後、ロープウェイでクマ山に登り、クマ牧場へ。そこは動物園のように、檻に囲まれた広いスペースにヒグマがウヨウヨいた。しかし、かつては野生で捕獲されたのだろうが、今では観光客が投げ入れるエサ欲しさに、手招きしたり、手を叩いて芸をする始末。獰猛さは影を潜めていた。「本当は着ぐるみを着た人間が入っているのでは?」とさえ思えた。そこには、アイヌの集落や住居を再現したエリアがあって、アイヌの織物や飾りなどの民芸品も販売されていた。その後、帰りも夜道なのにわざわざ寒さで震える中、藻岩山展望台へ夜景まで見に立ち寄った。Mは超タフだった。頂上からの下りは燃費節約にとライトを消し、エンジンを切って惰性で走行。これも意外に怖かった。そして12号線を耐久レースの如く、寒さに震えながらデッドヒート。家に着いたのは夜の帳がとうの昔に降りた後のことだった。このツーリングは、バイクは寒いという印象しか残らなかった気がする。

 更に、寒さが募り、初雪がチラつき始める中、Mが最後だから道東へ行くけど一緒に行くか?と誘って来た。同郷のF君も一緒に行くようだ。正直寒くて嫌だったが、滅多に一人では行けないし、夏場の道東は霧が立ち込め、摩周湖などの景色は見えないことが多いのと、Mと旅していると笑える事件ばかりなので、便乗させてもらった。それは10月12日(金)から16日(火)までの4泊5日の日程だった。当然2日間は授業をさぼった。この時期、好き好んでバイクで道東に行くツーリングライダーはいなかったと思う。初日はサロマ湖の夕日を見て、竜宮台の先端まで行った。そして常呂の町で、お洒落な「船長の家」というペンションに宿泊した。2日目は網走刑務所を皮切りに、美幌峠・摩周湖(濃霧と雨で何も見えず)・硫黄山・砂湯・知床の宇土呂泊。3日目は雨の中、知床五湖を巡り、嵐の知床峠越えを敢行。暴風と霧で、生きた心地がしなかった。やはり北海道では私は雨男だった。私が家を出るとそれまで晴れていても、天気が急に悪くなり、雨や雪が決まって降り出す始末。天気には見放されていたようだ。そして羅臼から尾岱沼(トドワラ)・根室。根室のユースは、幽霊が出そうな古びたぼっこれ旅館(ユースと併設)だった。旅館ではなく、ユースに泊まりたいと聞いた途端、その宿の主人の応対が急変した。あまりの酷い扱いにキレ、その宿では悪行三昧をしでかした。松本伊代のポスターを拝借したり、夜遅くまで酒を飲んでどんちゃん騒ぎをした。4日目には、納沙布岬・開陽台・阿寒湖・足寄(松山千春の生家)・池田(ワイン城)へ。その日は「まきばの家」という民宿に泊まった。そして最終日はきつかった。連日300kmを越す距離数だった。帯広から有名な愛国駅と幸福駅・絶景の狩勝峠を越え、TVドラマ「北の国から」発祥の布部駅や富良野の麓郷の森を経由した。「北の国から」は、私は当時あまり見ていなかったので友人の水先案内に導かれるまま歩いただけで、ピンと来なかった。そして運命の「悲別ロマン座」を見て、上砂川駅へ。ここがドラマ「昨日、悲別で」のロケ地だった。岩見沢に戻ったのは夜遅くだった。耐久力が試されたツーリングとなった。

 やがて雪が降り出して、今年のツーリングはこれで走り納めと思ったら、11月4日(日)、魔の空白と思える陽気に包まれる日があった。9月に素通りした小樽に、どうしても年内に行っておきたくて、その一日だけ、バイクを引っ張り出した。そして単独でツーリングを行った。小樽の古い建物群や運河、北一硝子、旭展望台などを巡り、映画「Station」のロケで使われた「銭函駅」、そして日本海に沈む夕日を探しに、札幌新港という埠頭と石狩浜という砂浜を訪れた。日中は良かったが、11月の北海道の夕刻以降の寒さは尋常ではなかった。バイク=寒いというような図式しかなかった。そしてこの年は名実ともに走り納めとなった。冬の間、VTはバッテリーを端子から外し、大家さんの家の物置に入れてもらった。その後すぐに雪が降り積もり、一面の幻想世界となった。11月初旬に本格的に降った雪は、一度は解けた。北海道の冬の備えは万全で、四六時中雪上車が出て、道路の雪を掃いていた。また主要道路では、路面からお湯が噴き出し、雪を溶かす仕組みになっていた。当時はスパイクタイヤで、粉じんも凄かった。11月からはあまり外に出ず、部屋に引き籠る機会が多くなった。地理学科の友人Aの部屋に入り浸ったり、その隣りの車を乗り回していたK先輩は、しょっちゅう可愛い女の子を部屋に連れ込んで×××をしていた。その時の声が隣室まで響いて大迷惑だった。アパートでは悪いこともしていた。金がないので100円コインの洗濯機に針金で細工してタダで洗濯した者までいた。また、この頃、夢中になったのが、競馬だった。もちろん金を賭けた訳ではないが、当時、一世を風靡した「シンボリルドルフ」というサラブレッドが大好きで、テレビに向かって大声で声援していた。11月のジャパンカップに出走したが、初めて国産馬として初制覇したのは「カツラギエース」だった。大興奮したのを覚えている。12月に入ると徐々に道路の両側の雪の丈が高くなり、冬休みに入る頃は2mほどの雪壁が出来た。しかし、不思議なことに寒いと思ったことはなく、まるで冷凍庫の中にいるような冷気が全身を包み込む感覚だった。「しばれる」という表現がまさにぴったりだった。そして冬休みにまた、郡山へ帰郷した。もちろん電車と連絡船、夜行列車を乗り継いで16時間の長旅だった。この時乗った船は「羊諦丸」だった。

 正月を実家で迎え、1月は早々と北海道に戻らなければならなかった。1月中旬から下旬にかけて年度末の単位認定試験に臨むからだ。1月初旬には北海道へ舞い戻った。やはり夜行急行「八甲田」で8時間かけて青森へ。そして青函連絡船「八甲田丸」に乗り継ぎ、函館へ。そこからは特急で札幌へ。この時のことはよく覚えていて、札幌までの特急が混んでいて、私は内地からの乗り継ぎ側だったので、函館始発だったので、自由席でも十分座れたのだが、途中から乗り込んで来た乗客は、Uターンラッシュの客で大混雑。通路に立っている綺麗なお姉さんがいて、時々こちらをチラチラ見るので、心苦しかった。また札幌駅が近づいた時に、旅の情緒を醸し出すために車内放送のBGMとして「恋の町札幌」を流せば盛り上がると思った。そして各駅停車で岩見沢へ。1月の年明けに見た北海道の風景は一面真っ白な世界。どこもかしこも雪。雪壁は3m近くにもなっていた。だから「しんしんと雪が垂直に降り、風はなく、単純に冷えるだけだった。私より遅れて東京から飛行機で千歳空港入りした隣室の友人Nが「東京は滅茶苦茶暖かかった」と語った言葉が妙に頭に残っている。

 また、冬の話で書き漏らすことが出来ないのは、まずスキーだろう。せっかく北海道に来たのだからスキーの一つでも覚えようというのが発端だった。実は12月のうちに友人Mと札幌の老舗「スキーハウス」へ出向き、店員に勧められるまま「ダイナスター」(渋い!)の190cmもある板と、当時流行っていたリヤエントー型ではなく、締め付けの微調整が出来るフロントバックル式のイタリアの「テクニカ」製のブーツ、それにポール、ビンディングはLOOK製だったと思う。赤とシルバーでコーディネイトしたサロペットウェアと帽子(アポロ)、グローブ、スキーカバーまで一式を揃え、〆て10万円かかった。そして冬休みに実家へ宅急便でスキーを送り、姉と共に塩沢スキー場で、初めてスキーらしいことを行った。もちろんその時は超初心者ゲレンデで、教えてくれる人もなく、リフトにも乗らず、ターンすら出来ず、ひたすら直滑降だった。そして再びスキーセットをアパートに送った。そして念願の北海道での初滑りは、1月20日(日)、岩見沢から一番近い超マイナーな知る人ぞ知る「萩の山市民スキー場」。移動手段はバスで、M君と九州出身の先輩Mと私の3人で初滑りを楽しんだ。ボーゲンから始めたが、友人はあまり教えてくれず、いきなりリフトの頂上に連れて行かれ降りて来るのに1時間はかかったと思う。スキーがこんなに難しいとは思わなかった。実は、そのスキーの上達を妨げたのが、道具の悪さだった。初心者なのに滅茶苦茶重いブーツと身長+10cm、という店員のアドバイスを鵜呑みにした結果の失敗だった。しかし、雪質はパウダースノーそのもので、サラサラ。握っても雪の玉が作れないほどだった。また、冬場、北海道の子供達が雪だるまを作ったり、かまくらを作っている光景は見た試しがない。多分雪が固まりにくいのでやらないのだろう。あと、どんなに雪が降っていても、北海道の人は傘は差さない。足が滑って転んだ時に危ないからだ。雪の日に傘を差している人は、大抵は内地からきた人と判断できる。

 そのスキーの直後から年度末試験に突入した。大学の試験はレポートが主体だった。結果、教授運に泣かされ、「法学憲法」と「フランス語」「英会話」「着たきりすずめのG先生の講義」は敢え無く撃沈で「可」。それ以外はほとんどが「優」だった。でもまずまず。宗教学では、必死に般若心経を覚えたし、歴史学では、その先生の著作本をわざわざ札幌の北海道大学の傍の古本屋で買い、「邪馬台国の所在」についての記述を読み漁ったりして準備は怠らなかった。そしてその頃、北海道では、「昨日、悲別で」というテレビドラマが再放送された。廃れた炭鉱町・上砂川町(悲別)を舞台に、若者の夢と挫折を取り上げた青春ストーリーだった。出演者は、天宮良(竜)・石田えり(おっぱい)・布施博(駅長)・梨本謙次郎(与作)らで、脚本は倉本聡だった。これを見て、冬の北海道の魅力が倍増した。そして2月5日(火)、画面にも出て来た真冬の「ロマン座」や「悲別駅」「砂川駅」をこの眼に焼き付けていたかった。そして、スキーへ一緒に行ったM先輩に声をかけ、電車で砂川駅まで行き、そこから歌志内線という単線に乗り換え上砂川へ。秋にもバイクで来たが、冬の景色はまた格別だった。真の北海道の姿を垣間見れた。ズリ山という石炭を積んでいる山や冬の駅の情景も雰囲気が出ていた。実は私が北海道に住んでいた頃は、国鉄の民営化に向け、赤字路線を廃止しようという機運が盛り上がっていて、真っ先に北海道中のローカル線が矢面に立たされていた。歌志内線・興浜北線・南線・万字線・広尾線など全部で10路線以上が廃線に追い込まれた。そこからバスに乗り換えて10分ほど雪道をひた走り、「ロマン座」に辿りついた。辺りは新雪が降り積もり、腰の丈ほどの雪が積もっていた。道を作り、標札まで行き、写真を撮った。真冬にこんな所を訪れる物好きな観光客などいないようだ。でもドラマの雰囲気を味わえた、想い出のひとコマとなった。 

 あとは冬の話題で忘れてはならないのが、毎年2月に開かれる冬の祭典「さっぽろ雪祭り」。それは世界各地から観光客が集まる北国の冬の一大イベントだった。昔、父親が「雪祭り」を見せようと母親の給料袋からお金を借り、「千歳」までの航空券を手配しようと試みたが、入手困難で目的を果たせなかったエピソードがあった。敢え無く断念した想い出があった。2月10日(日)、雪祭りは足が治った友人FとMの3人で見に行った。午前中、せかっくなので是非一度は見たいと思っていたスキージャンプ競技を見た。その前にSTV杯大倉山大会を見ていたが、世界の強豪が一堂に会すワールドカップは見応えがあった。日本勢は西方千春選手と当時の日本のエース、秋元正博選手。対するライバルはドイツのバイスフロクと当時バッケンレコードを持っていたオーストリアのフェットーリ、そしてワールドカップ年間王者のフィンランドの英雄・マティニッカネン選手だった。当日はあいにくの雪と追い風の悪コンディション。しかし、秋元選手が何と日本勢で初の優勝を成し遂げたのだ。これは大盛り上がりを見せた。ジャンプは飛ぶというより、落ちて来るものだと悟った。あんな山の頂上から、角度のあるアプローチを滑り降り、時速90km/h近くで踏切り、札幌の市街地目掛けて飛び出すサッツの瞬間の感覚はどうなのだろうか。ランディングバーンに落ちるまでの僅か数秒の間に何を考え、何を感じるのだろう。そしてブレーキングトラックで減速する。この一連の動作や、大倉山の周辺の風景(ジャッジタワー・段になった観客席)は、まさにテレビで見たものそのままだった。とても人間業とは思えない。投身自殺とあまり変わりがなさそう。ジャンパーの度胸は凄まじいものがある。この時のスタイルは、現在のようなV字飛型ではなく、足を閉じたままのスタイルだったことを付け加えておく。

 その大興奮の後、日中のうちに、真駒内会場の巨大雪像を眺め、夕方から夜にかけては、大通り公園で幻想的にライトアップされた雪像の数々や、主だった有名観光地はあらかた回った。ラーメン横丁、すすきの、狸小路、時計台、赤レンガ道庁など。「すすきの」でも氷祭りが開催され、大きな氷に彫刻を施した作品がズラリ並んでいた。とにかく、人の波は絶えることなく、時間帯によっては、イベントで全国に生中継され、有名タレントが登場した。私の訪問時には「芳本美代子」が雪像の上から階段を降りながら歌っている場面に出くわした。夜にはテレビ塔に昇った。カラフルにライトアップされた雪像が映えて、その街のネオンとコラボし、この世の物とは思えないほど夜景が眩しく思えた。周辺はカップルで甘い雰囲気に酔いしれていた。ジュークボックスからは、ワムの「ケアレスウイスパー」が流れ、ロマンチックムードを演出していた。ところが何を思ったか、B型人間の友人M、甘いムードに水を差すかのように、いきなり吉幾三の「オラ東京さ行ぐだ」をかけた。せっかくの雰囲気がいっぺんで吹き飛んでしまった。その後、地下街を散策し、雑貨屋や服屋を巡った。友人のFは呉服問屋経営で金持なので、黒のコートや革靴でビシッと決めていたが、こっちはスキーウェア。どうみても釣り合わず場違いの様相だった。夜遅く帰宅したが、既に年度末試験を終えた後だけに、心に残る「真冬の夜の夢」の如き一日だった。

 また、冬の話題で付け加えたいのが、2月の厳冬期に、母親から電話がかかって来て、玄関の脇の温度計を見たら、建物の中なのにマイナス20度の表示にはぶったまげた。また、大学から川沿いに近道を歩いて帰ろうとして、猛吹雪に遭い、視界はゼロで呼吸困難に陥り、一歩も進めず窒息寸前で死を覚悟する場面もあった。また、北海道は冬場-20℃以下になるため、水道凍結防止のための工夫がされているが、就寝前に、その水道管から水を抜く作業を怠り、何度か水が出なくなった。2~3回は大家さんを介して水道業者に直して貰った。更に、憤りが大きかったのが、R12沿いの山型の橋を渡った後、岩見沢市街地への入り口に当たる場所にダイエーがあった。そこで、冬用のコートを買おうと思って訪れたのだが、そこで目星を付けたのが黒のウール製のカッコいい大人のロングコートだった。それが売れ残っていて、見に行くたびに値段が変わっていた。最初は値札が15,800円だったが、二度目には、全く同じコートなのに何故だか定価が上がっていて、17,800円の値札が付いていてそこから2割引のシールが貼ってあった。つまりは14,240円になっていた。それでも売れなくて、三回目に訪れた時には、定価の値札がまた付け替えられていて、19,800円の値札で4割引きとなっていた。つまりは11,880円の支払い。値札の付け替えでちょっとでも割引率が大きくてお買い得感をアピールしていた訳だ。しかし、これは明らかな違法行為(商法違反)だ。でも最初の値札の15,800円よりも4,000円も安くなった訳なので、これは買いとばかりにようやく購入した。でもあまり着るような場面はなかった。そして冬季間、鼻の下に髭を生やしてみたが、学部の友人にはあまり評判が良くなかった。

 これで冬の話題は終了かと思いきや、駄目押しとも思えるような炉辺談話があった。超アクティブ野郎の友人Mは凄かった。彼からすれば東京へ行ってしまう前に、出来るだけ多くの想い出を北海道に残そうというのか、2月中旬に周遊券を使って電車とバスで丹頂鶴と流氷を見に行こうと誘って来たのだ。これには躊躇せず即答。実は、この数年前テレビドラマ「池中玄太80キロ」で、カメラマン役の西田敏行が、北海道で鶴を追い求めて撮影するシーンがあった。実はこれにずっと憧れていたのだ。2月15日(金)から17日(日)まで2泊3日の予定だった。メンバーは顔馴染みの4人。当日、札幌駅集合だったのだが、朝から大雪で、バスが来ないので2kmも雪の中を歩く羽目になった。当然集合時刻には遅刻。しかし、全員が同じく遅れてしまい、結局一本遅い夜行特急列車で釧路へ向かうことになった。言いだしっぺのMは、親父さんが国鉄職員だったため、社員家族割引という特典が付き、何と国鉄全線が半額で乗車できたのだった。周遊券は、道内の特急の自由席なら乗り放題だが、10日間も有効で13,800円もした。電車は石勝線という日高山脈の山間を貫く路線で、占冠付近ではスノーシェルターが覆っていた。夜中にプラットホームに降り立ったら、ものすごい地吹雪。これでよく運行中止にならないものだ。帰郷の際もそうだが、私にとって車内で寝るのは至難の技だった。ほとんど寝れないままで翌朝、綺麗に晴れ渡った冷え込みきつい釧路駅に到着した。釧路は意外にも雪の量はすこぶる少ない。どちらかと言えばホッケーやスケートが盛んで有名な様に氷の町だった。駅舎が大きくて驚いた。そこで記念乗車券を購入し、路線バスで丹頂の故郷・鶴居村の「タンチョウ観測センター」へ向かった。丹頂鶴との初めての対面は神聖で、厳かな雰囲気があった。土曜日だったこともあって、大勢のプロカメラマンが詰め掛け、さながらドラマのワンシーンそのものだった。早朝、ダイヤモンドダストが煌めく中で、山里から一羽、また一羽と飛来し、優雅に降り立つ。そして「パフゥー」という甲高い鳴き声と時折見せる華麗なダンスは「神の鳥」を思わる雰囲気は十分だった。その後、秋にツーリングで訪れた阿寒湖へ。キタキツネが土産屋の店先で出迎えてくれた。ここは友人Fの情報で「阿寒ビューホテル」に宿泊することに決めていた。シーズンオフのため、CMによると、一泊朝食付き3,000円という破格プランがあるとの情報だったが、あいにく本日は休前日に当たることからその金額では泊まれなかった。交渉して5千円で渋々泊まることにした。4人で6畳の部屋に二人ずつ詰め込まれ、私はM先輩と同部屋に。翌朝、ホテルを抜け出して周辺散策。ホテルの裏は湖で、湖面は雪原と氷で覆われていた。ワカサギ釣りやスノーモービルが滑走していた。そのホテルの裏手に氷で作った滑り台やゴジラの氷像があった。その日はいよいよ最終日、阿寒湖からバスで美幌駅まで行き、そこからガラ空きの特急列車に乗って、網走へ。路線バスに乗り換え、秋にも訪れた極寒の網走刑務所を再訪。これが本当の刑務所の実態だ。そして網走駅から季節運行の「流氷バス」に乗って、能取岬を目指した。ところが、満員の乗客を乗せたバスが走り出して間もなく故障。いったんバス会社の車庫に入り、別のバスに乗り換えて再出発となった。岬までの道のりは険しく、周囲の景色はさいはて感たっぷりだった。車窓から覗く景色は樹氷。道の両側には数メートル雪が降り積もっている。どうにか辿り着いた岬の突端は風が強く、駐車場から流氷が見える断崖の灯台まで1kmほど歩き、断崖の上から覗く景色は、流氷という風情ではなく、雪の雪原。氷がプカプカ浮かんでいる絵を想像していたので、ちょっと拍子抜け。雪の大海原である。40人揃って記念写真。この時プロが撮った写真を注文したが、催促するまでなかなか届かなかった。また、こんな辺鄙な場所にも二ポポ人形のモニュメントが。ここは駅・刑務所にもそれを象った電話BOXがあったり、二ポポ人形に象徴される町だった。ニポポ人形とは受刑者が更生の願いを込めて木彫りで作ったものだ。この1泊3日の旅行は大満足だった。そしてやはり特急電車で岩見沢へと戻った。結局この旅行では29,600円も使った。この旅行を最後に、3人は私を残して東京へと一足先に旅立って行った。私は一人部屋に篭り、紀行文の執筆に明け暮れた。

 そして2月下旬の帰郷は、電車と青函連絡船「摩周丸」そして「津軽」にて郡山へ帰って来た。このパターンが一番多かったが、学割使用でも片道15,000円以上かかったと記憶している。思いがけず長くなったが、以上が大学一年生時分の主な記憶に残っている出来事だ。でも意外や意外。覚えているものだ。それだけ内容の濃い一年だったと言えるだろう。

 ~1984年の出来事~

 ・冒険家・植村直巳がマッキンリーで消息を断つ(2/13)

 ・PL学園がK・K(桑田・清原)コンビの活躍で優勝

 ・新札登場(1万円札:福澤諭吉/5千円札:新渡戸稲造/千円札:夏目漱石)

 ・グリコ森永事件(江崎社長誘拐)

 ・マハラジャオープン

 ・世田谷ケーブル火災事件

 ~流行歌~

 もしも明日が(わらべ)/つぐない(テレサ・テン)/近藤真彦(ケジメなさい)/泣かないで(舘ひろし)/小泉今日子(ヤマトナデシコ七変化)/もしかしてPart2(小林幸子)/中森明菜(十戒)/前略道の上より(一世風靡セピア)

*写真等を見たい方は、右上のサイドバーの「趣味ING」をクリックしてお入りください。

 

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