2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« 学生時代 in 北海道 (1984.4~1985.3) | トップページ | 鉄道の「来し方行く末」(鉄道事情考) »

2010年3月 4日 (木)

学生時代 in 北海道 (1985.4~1986.3)

 本日は1985年、私が大学2年生になった時期を振り返って回想してみたい。何せ25年も前の出来事ゆえ、所々記憶がおぼつかない部分は容赦願いたい。

 友人Mが東京に引っ越して、一緒に旅行にも出かけた3人が北海道から去って行った。不安と心配が交錯し、精神面での支えを失ったようで辛かった。楽しみ半減のつまらない一年になりそうな予感が年度当初から付き纏った。旅行はすべて単独になるだろう。そこで、北海道に住めるのもあと今年一年と割り切り、特にバイクで走れるのは、夏休みに帰郷の際にバイクを郡山に乗って来なければならないことから、正味5か月しかツーリング期間は残されていなかった。だから一日一日を大事に過ごそうと決めた。とりわけ行けそうな場所には行ける時に行っておこうと思った。昨年同様、カリキュラムを工夫し、土日を休みにした。その友人Mが春休みに実家に来て、愛車XLを品川ナンバーに付け替えたことを見せびらかしに来た。思わず「いいなぁ~」。

 4月初旬、大学の始業に合わせるかのように北海道へ戻った。この時の交通手段は盛岡まで新幹線。そこで接続の特急「はつかり」に乗り換えて2時間ほどで青森へ。ここまで5時間。夜行急行よりも3時間近く短縮。青函連絡船は2度目の羊蹄丸だった。そして函館からいつもなら網走まで直通の「特急おおとり」なのだが、今回は新幹線使用のために時刻が合わず、「北斗」という列車。この特急、実は札幌が終着。そして札幌から「ライラック」という別の特急に乗り換えた。しかし、特急券は函館~岩見沢間の1枚しか持っていなかった。そして降り立った岩見沢駅の改札を出る時に、駅員に呼び止められた。何も不正している実感は無かった。どこで特急券が2枚必要なことを指摘されたが、「今回は大目に見るが、次回からは注意して下さい」と言われ無罪放免に。無知が生んだ災いだった。

 最初は、友人Mのいない北海道生活は空虚な気持だった。しかし、その不安を取り払うかのように、夕方17時から或る面白いTV番組が始まった。それは片岡鶴太郎司会の中高生対象の「夕やけニャンニャン」というバラエティ番組だった。月曜から金曜日まで5日間放送されていた。おニャン子クラブととんねるずがレギュラーで、今は亡き逸見政孝アナとの掛け合いも面白かった。毎回様々なゲストが出演し、番宣したり、イベント紹介などの告知も行っていた。名物コーナー「タイマンテレホン」や「君の名は」など1時間番組で盛りだくさん。特に「ザ・スカウト・アイドルを探せ!」では、ずぶの素人がプロモーションVTRに出演したり、特技を披露し、猛アピール。タレントになれるチャンスが得られ、合格すると「おニャン子クラブ」のメンバーに入れるのだ。昔の「スター誕生」のパクリなのだが、ミーハーだとは分かっていてもついつい見てしまった。土曜深夜の「オールナイトフジ」に起源を発したその番組から誕生したタレントは、河合その子、新田恵利、うしろゆびさされ組(高井麻巳子・ゆうゆ)、ニャンギラス、うしろ髪ひかれ隊(工藤静香ら3人)らで、今思えば、「モーニング娘」や「AKB48」の先駆けとなったグループだった。私は富川春美と永田ルリ子の癒し系の子が気に入っていた。そして「セーラー服を脱がさないで」を皮切りに、「涙の茉莉花LOVE」「冬オペラグラス」「うしろゆびさされ組」「バレンタインデーキッス」など出す曲出す曲が大ヒット。その頃、音質の良いデジタル録音のCDが開発され、人気と歌に拍車をかけた。「会員番号の唄」まで作られ、メンバーもどんどん増えて行った。そして、河合その子と中島美春の卒業を契機に、番組内で卒業式まで行い、私が大学4年生まで2年半も続き、「女子高生ブーム」は社会現象にまでなった。私は個人的には「恋のチャプターA to Z」、「真っ赤な自転車」、「青いスタシオン」が好きだった。大学生だったので、表立っては言えない部分があったが、皆、その番組を見ていたし、メンバーの誰かしらには興味があったに違いない。時間帯も良かったし、結構これに救われた部分があった。

 そして大家さんにお願いして、冬場の間に保管してもらった物置から愛車を引っ張り出してエンジンを掛けようとするが、案の定バッテリーが上がっていて、イグニッションのスターターモーター自体が回らない。シートを外し、YUASAバッテリーを取り出し、R234沿いにあったGSへ持ち込み、半日かけて充電してもらった。そしてプラグもかぶっていて、磨き、何回目かにようやくエンジンがかかった。この瞬間は流石にほっとした。これでツーリングへのスタンバイOKに。最初のツーリングは、近場と決めていた。北海道在住の残り日数を常に頭に置き、夏場に回れそうもないようなエリアから攻めることにした。4月14日(日)が初っ端で、山の峰にはまだ雪が残る季節だった。ルートは石狩月形・浜益村・当別という日本海側の国道でも砂利道の難所ルートだった。訪れた場所は何と月形の少年刑務所と浜益村の萎びた漁港。それでも往復240km。ライディングの勘を取り戻すにはちょうど良かった。実際寒くて辛い物になったが、景色は抜群だった。海をのんびり眺め、長閑な風景を満喫できた。続いて4月21日(日)に2回目のツーリング。今回は宗教好きのMとタンデムでの旅行。野幌の森林公園に新しくできた開拓の村へ。ここは明治時代の北海道の開拓に携わった歴史の変遷を垣間見れる施設であり、愛知県にある明治村のミニチュア版で、その時代を代表するような建築物が建ち並ぶテーマパークだった。高さ50m以上あるシンボルタワーの開拓記念塔に登り、一面石狩平野の真っ平らな眺望を満喫した。その後、北海道らしさを求めて、帰りがてら長沼町にある「ハイジ牧場」に立ち寄ったが、オープンに数日早く来てしまい、まだゲートは閉じて見学は不可だった。旅行から帰ると5日間は、徹夜で紀行文を書く生活が続いた。何か紀行文を書くためのツーリングという感じもしないではなかった。

 3回目のツーリングは、天皇誕生日の4月29日(月)だった。このように、毎週どこかには行っていた。パートナーは、前回タンデムしたMがどこからか原付バイク(AR50)を借りて来て、それでデュアルツーリング。場所は支笏湖。日本一深いとされる透明度抜群の湖だ。まず、千歳で「サントリーの工場」に見学しに行ったが、この日は休みでシャットアウト。ハイジ牧場に続き門前払い。その後、林の並木道が続く「支笏湖道路」を駆け抜け、支笏湖畔に到着。確かに透明度が高い湖だった。ここは山奥にひっそり佇む湖なので、あまり観光地化されてなく、秘境感を味わえるスポットだった。その湖一周の遊覧船の発着場がある土産物屋などが軒を連ねる、ひと際賑やかな場所に、何と偶然、「福島県人会連絡所」があった。そこの人は「三春出身」の方が経営していた。思いがけない出逢いに話が弾んだ。このツーリングは、結構近場で、Mが慣れないバイク運転のため、無理な追い越しなどは自重した。続いて同じGW中の5月4日(土)には、紀行文に掲載する上で、大事な札幌観光を抜かしていたと思い、急遽入れた。再び教祖Mとタンデムで40km走って札幌へ。訪れた場所はサッポロビール園・紀伊国屋・大通り公園・時計台・旧道庁・北大ポプラ並木・大倉山&宮の森シャンツェ・中島公園・ススキノ・ラーメン横丁・狸小路という順路だった。主だった有名観光地を行く、所謂おのぼりさんコースだった。単に写真に撮って証拠作りの周遊だった。

 次に訪れたのは洞爺湖・昭和新山・有珠山というメジャーコース。Mと同じ下宿で北海道教育大学に通う高ちゃんを紹介してくれた。高ちゃんはRZ250に乗る爽やか青年だった。彼と初めてツーリングへ出向いた。実施日は5月12日(日)、コースは札幌経由で中山峠を攻め、洞爺湖畔(武四郎坂・桟橋・烏帽子岩・キムンドの滝)、昭和新山・有珠山(ロープウェイで山頂まで)、洞爺湖畔(湖園地・浮見堂・観湖台)、定山渓経由で戻った、総走行距離309km。この高ちゃん、教育者を目指しているとは思えぬほどガンガンに飛ばす。RZは2ストなので、加速と乾いた音が半端じゃない。とてもついて行けない。マフラーから白煙をまき散らしながら抜きまくっていた。中山峠から見える富士山と瓜二つの羊蹄山は見応え充分。この数年前に爆発した有珠山は、噴煙が立ち上り、活火山を肌で感じ取った。また、眼下に見える昭和新山は、単なる畑が突然に隆起して山になったとは信じられないほどの高さがあった。続いて5月28日(火)には、その11日前に大規模災害(ガス爆発)があって、炭坑内に閉じ込められて、火災を消すために水没させ、62名の死者を出した夕張炭鉱のルポと銘打って訪問した。僅か10日ほど前に、新聞やテレビ報道を賑わした場所だ。やはりここは寂れていた。町の活気は失せ、悲劇の舞台と言う様相を呈していた。隣りの北炭夕張はとうの昔に閉山し、今は無人の石炭歴史村という名の大型遊園地へと変貌していた。まず訪れたのは、新しく町おこしを始めた夕張メロンのブランド化。そのシンボルとして建造した「メロン城」。実はそこに至るまでも髪の毛が伸びるお菊人形が安置されている万念寺やアパートのF先輩が事故った超タイトコーナーが幾重にも続く、急勾配の峠を通らなければならない曰くつきのルートだった。だから安全運転だけを心掛けた。道すがら、冬に訪れた萩の山市民スキー場や恐らくそこを通っていただろう廃止後の万字線の線路跡やレール無き隧道や鉄橋が何度も登場した。そんな侘しい風情がたっぷりだった。駅に立ち寄って証拠写真を残した後、清水沢から問題の南大夕張炭鉱の門の前に。さすがに中に入ることは憚った。そして山合いに分け入り、大自然豊かなシュウパロ湖を訪問。淀んだ泥色の湖だった。そして帰りがてら立ち寄ったのが滝の上の千鳥滝・竜仙峡だった。ここには恐ろしいエピソードがあった。駐車場にバイクをとめ、そこの滝を見ようと、急勾配の崖を下って行った。すると急流の川に出た。降り立ったその場所は、弧の形をしたシェルターの屋根の部分のような場所だった。その下を濁流が勢いよく流れている。足を滑らせて転落すれば一巻の終わり。溺死は必至で、生きた心地がしなかった。マジで冷や汗ものだった。というのは、崖を下りて来たのは良いが、登る手段を持ち合わせていなかったのだ。ドキドキしながら必死になって登るが足場が悪く、滑って思うように上がれない。背中のディパックも邪魔。バランスを失いかけて落っこちそうになった時、天の恵みか木に巻き付いたチェーンが垂れ下がっていた。藁をもすがる思いでそれを掴み、何とか地獄からの生還を果たした。まさに神が授けた命綱だった。こうして別の意味での危険なツーリングは終了した。

 さて、北海道物語はまだまだ続く。次のツーリングは、夕張から僅か4日後の6月1日(土)。だんだん紀行文の執筆が追いつかなくなって溜まって来た。パートナーは、前々回のツーリングで意気投合した高ちゃんと再び出掛けた。目的地は一度素通りしたことがある、「滝群と奇岩高層壁が入り乱れる大自然の神秘」というネーミングが打ってつけの層雲峡。ここは是が非でも訪れておきたかった場所だった。ルートをおさらいすると、砂川・滝川・旭川・深川と石狩川から由来したと思しき川の付く地名を走り、層雲峡へ。万景壁・白蛇ノ滝・温泉街・流星の滝・銀河の滝・双瀑台・雲井ノ滝・小函・ 羽衣岩・姫岩・神削壁・錦糸の滝・岩間の滝・小函トンネル・ライマンの滝・大函遂道・大函と見た。特に流星の滝と銀河の滝を正面に望むことが可能な双曝台という展望台を目指して登山。心臓バクバクで胸が張り裂けそうだった。高ちゃんはライダーブーツで登った。タフな人だった。ここはまさに大自然を直に感じられるスケールの大きい場所だった。高さ100mはありそうな断崖絶壁にも圧倒された。そして大雪湖ダムで折り返し、帰路に就いた。往復349kmだった。このツーリングでは往路の際、後から追いかけて来たミニパトの警官に止められた。前を走るトラックに追いつき、追い越し禁止区間だったため、その左側をすり抜けて前に出たのを見て、危険だと思った警官がパトライトを回して追尾して来たのだ。国道沿いに止められ、道行くドライバーに「頑張れよ~」と冷やかされたりした。しかし、咄嗟の詭弁で「追禁場所だったので、「前のトラックが譲るために中央線沿いに寄って道を空けたからそこをすり抜けただけです」と言ったら、その警官も納得。実は最近、そこで同じことをやったライダーが車と接触して死亡したとのこと。青切符は切られずに、白い「現場指導警告書」というのを書いた。取り調べの際、ナンバーや免許証は福島なのに、現住所を書けと言われて、誤って岩見沢市の住所を書いたことでひと悶着あった。この一件が戒めとなって、安全運転に配慮するようになった。

 やがて6月も中旬に入って、北海道をバイクで走れる時間も少なくなって来た。本州はこの時期梅雨入りだが、そこは梅雨のない北海道。晴天が続いた。しかし、6月でも朝夕など肌寒い日があった。私が住む岩見沢市は、北海道のほぼ中央に位置していたので、東西南北どこの方面にも旅行しやすい環境下にあった。そんな地の利を生かしたツーリングが、6月15日(土)、16日(日)の襟裳岬方面への一泊二日だった。春、郡山に帰郷した際に、「うすい」で買い求めた一人用テント(シーズンオフの為1万円以上もした。)とシェラフを試す機会が訪れた。野宿は初体験で、友人Mのように、どこでも所構わず眠れるほど図太い神経は持ち合わせていなかった。自分がそういうことが出来るかの試金石でもあったのだ。コースは、北海道を代表する場所のひとつ。十勝山脈の尾根に沿って麓に横たわる通称「サラブレッドロード」だった。北海道と言えばまず牧場。そこには映画「優駿」に代表されるように人と競走馬の熱き絆があった。そして、彼が生きているうちにひと目、自分の瞳にその姿を焼き付けておきたかったのだ。ここで言う彼とは不世出の名馬「ハイセイコー」だった。初日の15日(土)、早朝から行動開始。岩見沢を出て、R234を南下。鵡川からR235へ。ずっと右手に太平洋を眺めながらの走行。門別(家畜センター)を通過し、新冠(日本一長い直線滑り台・泥火山・牧場銀座・明和牧場でハイセイコーと対面・浦河・様似・日高耶馬溪・襟裳岬・百人浜・黄金道路・フンベの滝・広尾町(駅・大丸山ツツジ公園)・広尾シーサイドにてキャンプ泊。ここで特に印象に残っているのは、襟裳岬の風の強さだった。歌の通り「何もない」荒涼感と殺風景の場所だった。またそこに隣接した百人浜の草原地帯にひっそり佇む悲恋沼に夕日が映え、とても綺麗だった。そこから続く黄金道路がまた凄かった。海岸端の絶壁をくり抜いて建設された道路だった。途中、シェルター内まで波しぶきがかかるような道路だった。そこを抜けるとそして夕暮れになってもテントを張る場所が見つからず、右往左往した。広尾駅で野宿しようか。だんだん暗くなって来て焦った。336号線から電波塔がある地点から海側に分け入ったところ、砂浜の海岸に降りられる土の道を発見。そこを下りると、不気味な海の家が廃墟になった建物があって、そこから砂浜が続いていた。ここを一夜の宿に決めた。薄暗い中、バイクのヘッドライトを頼りに、急いでドーム型のテントを設営。何とか間に合った。夜、携帯用ラジオで、巨人のルーキー宮本が初登板し、好投していた。夜中、寄せては返す波の音をBGMに何とか寝ようと試みるが、背中がごつごつする違和感といつもの寝床とは感触が異なり、更にはテントのビニールの匂いが充満し、眠れなかった。逆に、今が干潮で、朝になったら満潮になってテント内に海水が進入してきたらどうなる?とそればかり気になっていた。朝方は、6月とはいえやはり冷え込んだ。北海道の夏の朝はすこぶる早い。4時頃、テントの傍に車が2台止まった音で起きる。押し込み強盗か?と思ったら、投げ釣りに来た地元の釣り師だった。昨夜は暗くてわからなかったが、そこは広野発電所の近くで、一帯はシーサイドパークという場所らしかった。遠くに発電所らしき鉄の建物とそれらしき煙突が見えた。出発支度をしているとおじさん釣り師が戻って来て、「起こしてご免ね」と声を掛けられた。6月16日(日)は朝の5時前から走り出した。目的地は昨秋3人で訪れた幸福駅だった。この広尾線にあって、数10年前に一大ブームを巻き起こした「愛国から幸福へ」の記念切符。その舞台となった駅舎だった。行ってびっくり。あんなに有名になったのに実は無人駅。駅舎は時代を感じさせる木造板張りの小さな物置みたいな佇まい。そこに全国から訪れた鉄道ファンやカップルが押し寄せたのだ。壁中に所狭しと貼られた切符や刻み込まれた相合傘。駅舎自体が売店で、記念品等を販売していた。私が訪れた時は、まだ廃線になっておらず、2両連結のディーゼル車が運行していた。線路に座ってグラビア風の写真を撮った。もちろんその先の愛国駅へも訪れた。そして碁盤の目の様に区画が整備された帯広を通り、十勝ケ丘で世界一花時計を見て、北上。人工湖の糠平湖や大自然を満喫できる風景が広がる然別湖を巡回し、清水町を経て日勝峠、日高町を経由しUFOの目撃例が多いことからピラミッド型のUFO基地まで作ってしまった平取村へ。穂別町からは近道をと考え、10km以上ダートが続く悪路を我慢の走りでショートカット。清水沢に出て、由仁町からR234に戻り、何とか岩見沢へ帰って来た。この二日間で756km走行。6,984円。帰宅後、1週間以上かけて旅の記録を紀行文にまとめ上げた。

 紀行文を書き上げると、また次のツーリングが待ち構えていた。私の大学生活はそんな日の連続だった。だから、文章を書くのが不得手では無くなったのだ。辞書で言葉を調べて、毎回異なる文言を使い、それで表現力に磨きをかけた。これが大学のレポートに大いに役立ったのだった。次のツーリングも本当は時間や回りに束縛されないように、単独で行う予定だった。今度は前回とはまるっきり方角が反対で道北方面。これは初。日本最北端で有名な宗谷岬を目指しての2泊3日の旅行計画を立てた。しかし、同じアパートの地理学科のAが、その日に電車で稚内駅を目指すと言うので、現地で再会しようという試み。出発は6月25日(火)で、初日の旅程は砂川、留萌(千望台・黄金岬)、羽幌、手塩、サロベツ原生花園、兜沼、抜海、稚内だった。何もかもが初めて尽くしだった。日本海に沿って北上。見どころはその海岸ルートと時折位置が変わっていく、日本海に浮かぶ島々。焼尻島、天売島、そして更に進むと遥か前方に利尻富士との異名をとる利尻島、そしてその隣りには礼文島。この島々だけは行く余裕がなかった。サロベツ原野は見渡す限りどこまでも続く広大な平原地帯だった。怖かったのは、稚内へと向かう国道40号線。国道なのに、30分近く対向車はゼロ。信号もない道路だった。もし事故ったら、救急車が到着する前には死んでしまうことだろう。その日は「ビジネスホテル北海」に宿泊した。6月26日(水)の翌朝早くに出発しようとしたら、客の車で塞がれて出せない。苦情を言って客を叩き起こして貰い、移動して何とか出発。目指すは友人と待ち合わせの稚内駅だった。夜行を乗り継いで到着したAと束の間の再会を果たした。友人も俺が雨男だとわかっていて、呆れ顔。そして彼と別れ、まずは稚内市内を散策。小雨の中、ドーム式堤防・稚内公園・展望台・氷雪ノ門・9人の乙女の碑・百年記念塔を見て回った。そしてノシャップ岬を見物。悪天候で、海の先に見える筈の利尻島は視界不良で拝めなかった。ここでどうしても立ち寄りたい場所があった。宗谷岬とは方向が正反対で戻る形となるのだが、そこは砂丘で有名な抜海だった。そしてど是が非でも駅に行きたかった。その何日か前、小泉今日子主演の「少女に何が起こったか」というドラマで、抜海駅が出たのだ。その駅は中のドアに特徴があって、朱塗りの格子柄だったのだ。それを実際見た時は、ここでキョンキョンがロケをしたのかと感慨深いものがあった。漁港・抜海岩・原生花園・砂丘を見て、再び南稚内から宗谷岬へ。あいにくの雨模様で、せっかくの樺太が見えなかった。有名な三角形モニュメントの「日本最北端ノ地碑」で写真。ここは何でもかんでも日本最北が売り。売店でお馴染みの「最北端到着証明証」を購入。今日の日付のスタンプを押印した。そしてそこからオホーツクロードを行く。とにかく寒くて震えた。全身が雨でズブ濡れ状態。6月と言えば初夏なのだが、恐らく10度程度しか気温はなかったと思う。浜鬼志別の風雪の塔・インデギルカ号慰霊碑を見て、クッチャロ湖、斜内山道、ウタタイベ千畳岩を眺めた。雄武町でたまらず入ったホクレンのGSでは何とこの時期、ストーブを焚いていた。そしてその日は紋別まで到着した。野宿をする予定でいたが、寒さに挫け、現地調達のビジネスに宿をとった。最終日の6月27日(木)は紋別(駅・流氷展望台)から滝ノ上(滝上渓谷)を見て、峠道をひた走り、マイナーだが岩尾内湖・ダムを見て、朝日町(三望台シャンツェ)、士別を抜けて朱鞠内湖に達した。ここは日本で最も低い気温を記録した場所。何とマイナス41度の表示が記念碑に残されていた。そして幌加内、旭川(スタルヒン球場・旭橋・買い物公園・外国種見本林・優佳良民織工芸館)を経由して神居古譚(橋・駅・SL・岩)から赤平、ロマン座上砂川に立ち寄って岩見沢へと帰還した。3日間の走行距離は955km。予定外の出費で17,256円も使った。6月の世間の話題では、聖サレジオ教会で執り行われた松田聖子と神田正輝の「聖輝の」結婚が巷で独占していた。

 紀行文の執筆が2回分溜まり、暫く次のツーリングまで間が必要だった。この頃は、富良野周辺で「ラベンダー」が咲き誇る時期だった。散る前にどうしても見ておきたいと思っていた。大学は夏休みに入った。その機会はようやく7月16日(火)にやって来た。この頃になると、旅も終焉に向かっていた頃で、バイクのメーターも既に1万キロをとうに過ぎ、走りにも慣れて来た時期だった。ソロツーリングも板に付き、今やそれが当たり前になっていた。今回は近いこともあって、久々に日帰り。ルートは、砂川、芦別、富良野(ジャンプ台・北海道中心標・駅)、中富良野(森林公園)、上富良野(日の出ラベンダー園)、十勝岳、望岳台、白金温泉、天人峡(羽衣・敷島の滝)、旭川、滝川、岩見沢の順。348.2kmの日帰りプラン。しかし北海道では、350km近くの距離を1日で走り切るのが当然の世界だった。印象深かったのは、富良野の丘陵地帯にカラフルな色彩の花畑が広がった光景。そして富田ラベンダーファームと上富良野にある広大な敷地の日の出ラベンダー園。ちょうど見ごろだった。そこで何と「北の国から」の撮影が行われていた。花畑をジープで走って来るシーンを収録していた。あと、天人峡の絶景も言語を絶するほどのパノラマだった。幾重にも段差が出来て、かなりの高さから落下する羽衣の滝は圧巻だった。沢に沿って遊歩道を歩く手間はかかったが、それだけの甲斐はあった。敷島の滝は横長だが高さは全くなし。また十勝岳の山ルートは急で、望岳台から下界に下りるルートは砂利道ダートで、人気のない森の中を下る一本道で、どこからでもクマが出てきそうな怖い道路だった。帰り際のR12の美唄付近で、同じ学科のいわき出身のAがジープに乗って友達数人と走っている場面に遭遇。後で確認したところ、彼等もこの日、ラベンダー見物に出掛けたことが判明した。ところで、こうして旅を重ねて行くうちに、充実感と達成感に包まれていく自分に気付いた。バイクに乗って良かった。北海道の大学まで行かせてくれた両親にも感謝していた。

 いよいよ最後のツーリングが間近に迫っていた。ところがそんな或る日、信じられないようなニュースが実家から飛び込んで来たのだ。母親が急に倒れ、救急車で病院に搬送され、入院したというのだ。それはもともと持っていた能の病気だった。すぐにでも飛んで帰りたかったが、安否を聞くと、親父の話では、大事に至らなかったとのこと。暫く安静にしていれば良くなるとの診断。もしかして、バイクを乗り回している自分を心配し過ぎて気苦労でこうなったのかと反省もした。しかし親不孝なことに、こんな出来事があった後も、最後の旅に出ることを決心した。後で後悔したくなかったからだ。もちろん旅の途中でも毎日容態を確認するTELを入れていたが。北海道を飾る最後のツーリングは、昨秋の再来となる道東のリベンジコースだった。しかも7月20日(土)から24日(水)まで4泊5日の長丁場だった。ラベンダーツーリングの執筆終了の翌日にはもう出発という気忙しさだった。

 7月20日(土)の旅程は、岩見沢―旭川―比布駅―層雲峡(大雪湖・石北峠)―留辺蕊―サロマ湖畔(ピラオロ台・サンゴ草群生地・キムアネップ崎)―常呂(夕日ケ浜)―能取湖(卯原内駅)―網走湖―網走(刑務所・天都山オホーツク流氷館・網走監獄博物館) ビジネスH泊 絵葉書によく使われるサロマ湖の夕日の桟橋の光景が今でも焼きついている。そして、網走の天都山の麓に作られた網走監獄という網走刑務所の歴史を紹介したり、施設内部を再現した観光客向けのオープンセットもまたインパクトがあった。せっかくテント持参なのに、寝不足を恐れてキャンセル。

 7月21日(日)は、網走(永専寺・駅)―美幌町―美幌峠―屈斜路湖(池の湯・砂湯)―硫黄山―小清水原生花園―斜里―オシンコシンの滝―宇登呂(三角岩・港・酋長の家)―知床五湖―カムイワッカの滝露天風呂―知床峠―羅臼 泊  2度目の美幌峠もまた濃霧で屈斜路湖を一望できる絶景には肖れなかった。知床ではようやく晴れ間が覗き、五湖周辺の散策では眺望が素晴らしかった。掘り出し物は、カムイワッカの滝。湯の川を登り、崖を超え、滝壺が湯船の温泉に入った。自然の造形美と開放感を満喫でき、超気分が良かった。知床は一番野生のクマが出没するエリアの為、野宿は元より考えていなかったので、その日は羅臼のビジネスHに宿泊した。  

 7月22日(月)は、羅臼(望郷台・ひかり苔洞窟)―標津(北方領土館)―野付半島(ナナワラ・ドドワラ)―中標津・開陽台―別海町―厚床―落石岬(無線局跡)―花咲岬(車石)―根室 泊 もしかすると、この日がこのツーリングで一番印象に残ったかもしれない。まず、前回も霧だったが、トドワラ。朽ち果てたナナワラなどの天然樹木が無残にも散らばって点在。死後の世界を演出していた幻想的な場所だった。また、二度目の訪問となった開陽台の超メジャーな直線道路。そして東京へ旅立ったMが、是非俺に行って欲しい秘密の場所と言っただけで、詳細は黙して語らなかった落石無線局跡。霧の中から白い洋館風の廃墟が姿を見せた時はぞっとし、背筋が冷たくなるものを感じた。また、同じく珍しい車輪の形をした巨大化石の「車石」にも驚いた。そしてこの日も野宿を出来ず、根室駅の「観光案内所」にて宿を手配して貰い、一番安い素泊まりの宿をキープした。そこの案内嬢が滅茶苦茶綺麗な方で、翌日も写真を撮りに行ったが、別の方にチェンジ。その女性もまたかなりの美人だった。

 7月23日(火)は、根室(金毘羅神社)―納沙布岬(四島のかけ橋・北方館・望郷の家)―根室駅―浜中町―霧多布(森林公園展望台・岬・琵琶瀬展望台・あやめが原)―厚岸町(国泰寺・アイカップ崎・大橋)―釧路(幣舞橋・米町展望台・市立博物館・春採湖)―釧路湿原―塘路湖(ザルボ展望台)―標茶―弟子屈 泊 この日は朝から濃霧だった。夏の道東はやはりこんな状況。北方領土の島々は一切見れず。また、霧多布もまたその地名の由来の通り同様の世界。冬以来の釧路に再訪。そして広大な湿原地帯を見る為に国道391号線を北上していた時、猛スピードで対向して来た白バイ2台が下り坂を一気に飛ばして去って行った。どうみても天下の公道でふざけて競走(バトル)をしている様だった。展望台からはあまりに湿原が広すぎて一部しか見渡せなかった。この日は弟子屈止まりだった。またしてもビジネスホテル泊。黒い革ジャンの小太りでサングラスのどこから見ても横浜銀蠅のドラマーのライダーが同じように一日の旅の記録をびっしり記入してまとめていた。やはり私と同じ試みをしている人がいて嬉しくなった。

7月24日(水)は最終日。弟子屈―摩周湖(第一・第三展望台)―双岳台―双湖台―阿寒湖(ボッケ)―オンネトー―足寄(駅・千春の家)―上士幌―鹿追―新得―狩勝峠―富良野―砂川―岩見沢というルート選定を計画したが、やはり摩周湖は深い霧の中。第一展望台のレストハウスで暫く「霧の缶詰」や「瓶詰マリモ」を眺めて霧が晴れるのを待っていると、展望台から歓声が上がった。行ってみると霧の隙間からうっすらと湖面と小さな中島が見えた。神秘的な情景だった。湖面までは断崖でかなりの高さがあった。「霧の摩周湖」と言われる所以だろう。この日のハイライトはオンネトーだった。摩周湖や屈斜路湖、阿寒湖は観光地化されている面があるが、ここは手つかずの北海道らしい自然が残っている場所だった。北海道のラストを彩るには多少悔いが残る不完全燃焼のツーリングとなった。やはり連日快晴と言う訳にはいかず、この日もご多分に漏れず、天気はイマイチ。私の北海道でのスナップ写真を見れば、大抵カッパを着込んでいる。日頃の行いが悪いのか天気に祟られたラストランとなった。

 病に倒れた母親が気掛かりではあったが、大丈夫という連絡についつい甘え、紀行文を10日間の徹夜作業で一気に70ページ以上仕上げた。また、もうひとつ北海道に居残った理由は、郷里の福島では「夕ニャン」をネットしていなかったからだ。だからぎりぎりまで粘った。3倍モードで録画すれば一週間分は録画できるので、二週間の郡山滞在で戻れば、見れないのは一週間分で済むという計算が働いた。何たるミーハー根性。情けない。「母親の命とテレビと一体どっちが大事なのか」。当時の私は、こんな親不幸な息子だったのだ。今思うと実に申し訳ない。そして帰郷。今回ばかりは、陸路バイクを郡山に届けなければならない。そこでまた、前回不完全燃焼だったのを理由に、道南方面をツーリングしながら、プラス東北地方の名所を幾つか周りながら、3日間かけて帰ろうという計画を立てた。運よく、青森でその時期に「ねぶた祭り」を開催していることが判明し、「渡りに船」とばかりに立ち寄る策略を練った。そして部屋の白地図は、道南地方の瀬棚町から以南部分が白いままだった。松前町や北海道最南端に位置する白神岬から福島町を経て函館市へ至るルートだった。旅程は次の通り。

8月5日(月)岩見沢―苫小牧―室蘭―長万部―八雲―熊石―江差(鴎島・えぼし岩)―上の国―松前テント泊
8月6日(火)松前城―白神岬―木古内―トラピスト修道院―函館(教会群・立待岬・函館山山頂)~東日本フェリー~青森フェリーターミナル ねぶた祭り見物 F・T泊(雑魚寝)
8月7日(水)青森F・T―黒石ねぷた―十和田湖―奥入瀬渓流―十和田町~4号線~盛岡―水沢IC~東北自動車道~国見IC―福島―本宮―郡山

 ここで印象深いのは、初日の江差の海岸線の風景と日本海に沈む真っ赤な大きな夕日だった。松前の海岸にテント張り、野営を行った。やはり眠れない一夜を過ごしたが、潮騒の調べは心地よかった。2日目はトラピスト修道院の一本道の並木道。残念ながら、訪問した時は改装工事中で、工事用シートで覆われて中の様子を窺い知ることは不可能だった。函館では久々の快晴青空。教会群が映え、坂道からの眺望は素晴らしかった。また、二輪車禁止と知らず、函館山を展望台まで登ってしまった。夜景と違って昼間見る函館山からの眺望もまたスケールが違った。それは心打たれる風景だった。そして午後の便で東日本フェリーにて青森に渡った。青森のフェリーターミナルは、全国から集まったツーリングライダー達のテントで溢れかえっていた。夕方から待合室で声をかけられたライダーと一緒に「ねぶた祭り」を見学に市街地へ往復。さすがは日本三大祭りだけのことはある。ねぶたの大きさには圧倒され、また沢山の人出にもみくちゃになった。帰りは雷が鳴っていて、走行中も落雷が怖くて猛スピードで飛ばしてターミナルへと戻った。そこのロビーでシェラフだけで仮眠した。最終日は、そこで知り合った3人のライダーで十和田湖や奥入瀬渓流を見ながら、高速道路で(金を節約のため出来るだけ4号線を行く予定で)帰ることにした。当時は四輪と二輪が同額料金だったのだ。「ねぷた」で有名な黒石市から峠道を走り、まだ早朝の6時過ぎに、靄がかかった湖面がひっそり静かに佇む展望台に到着した。そして緑の葉の木々が茂った奥入瀬渓流沿いの道を走った。そしてそこで他の2人と別れ、二戸辺りで4号線に入った。そして青森県から岩手県に入り、ずっと国道を南下。岩手はとにかく南北に長い県。思うように距離が稼げない。早めに青森を発ったのに盛岡市を通った辺りでもうすでに昼下がり。そして業を煮やし、水沢ICから本宮ICまで東北自動車道を走行した。初めて高速道路をバイクで走った。250ccでも高性能バイクを売りにしているだけはあって、加速と高速を維持する能力には長けていた。風圧は凄いが、安定していた。気づくと直線で150km/hも出ていたことに気づき、慌ててスロットルを戻した。さすがは高速は早い。時間短縮に大いに役立った。226kmを3時間弱で駆け抜けた。そして夕刻前には自宅に辿り着いた。この3日間の総走行距離は1,116kmにも上った。この時の写真をつい最近まで紛失してしまっていた。この回だけが唯一紀行文に掲載できなかったツーリングとなってしまった。理由は、その旅から2週間も空いてしまい、記憶が覚束なかったことと、3日間の出来事を記すと50ページはまず下らないだろうと思い、とりかかる勇気がなかったから。これで愛車VTと駆けた北海道ツーリングは幕を下ろしたことになる。総走行距離7,870kmは、私の大切な、そしてかけがえのない想い出の印となった。

7870km

 実家に帰っても「夕ニャン」のことが気掛かりで、落ち着かなかった。家の手伝いをしながら束の間の二週間を過ごした。そんな中、日本列島を揺るがす大事故が勃発した。8月12日の夜、羽田空港を飛び立った大阪行きJAL123便が、群馬県の御巣鷹山の上空で消息を絶ったのだ。テレビの画面のニュース速報が流れ、視線が釘付けになった。お盆の帰省で満員の乗客を乗せていた。524人全員が絶望かと思われた。翌朝煙が立ち上った事故現場からの中継で、奇跡的にも生存者が4名救出されたと報じられた。その死者の中には、何と歌手の「坂本九」や「伊勢が浜親方の婦人」も含まれていた。結局520人もの尊い命が一瞬で消えた。この夏は、この話題と、吉田義男を監督に迎えた阪神タイガースの快進撃の話題で持ちきりだった。秋には21年振りのリーグ優勝と西武と対戦した日本シリーズにも勝って日本一を成し得た。ご存知主力は真弓・掛布・バース・岡田・平田・弘田・長崎・川藤、そして投手陣は、中西・山本・福間・ゲイル・池田・中田・仲田などがいて最強だった。

 やがて二週間滞在した実家を旅立つ日がやって来た。「夕ニャン」を見たかったら北海道まで帰らなければ見れない悲しさ。父親が「バイクがないんだったら一度は飛行機に乗ってみろ」とアドバイス。しかもつい数日前に墜落した飛行機に・・・。「今なら各社、機体の点検整備に躍起になっているから大丈夫だ」と念を押されて決断。一度は乗ってみたいと思っていた。大学生には「スカイメイト」という割引制度があり、それを使えば35%オフ。しかし、予約は一切できず、満員ならキャンセル待ちしか出来ないものだった。その日は8月21日だった。その日は夏の甲子園大会の決勝戦。PL学園のKKコンビが3年生で、文字通り最後の試合を行っていた。電車で仙台駅まで新幹線で行き、バスに乗り換えて仙台空港へ。ANAのカウンター案内で1,000円払って登録し、さっそく搭乗券を手にした。初めて乗った飛行機はやはり驚いた。滑走路で一旦停車してエンジン出力を最大に上げ(物凄い音)、いきなり引っ張られるように急加速。500km以上で滑走路を走り、急上昇&急旋回。仙台空港は海のすぐ脇に滑走路があって、いきなり海に投げ出される感覚。地上の景色がみるみる遠ざかり、旋回する度に斜めになる。気圧の変化で耳がキーンと鳴る。あっという間に雲の上の晴れ渡る世界。こんなに雲が低い位置にあると思わなかった。フェリーや陸路とは異なり、飛行機は快適そのもの。1時間ほどで北海道の大陸が眼下に見え出した。苫小牧付近のまっすぐな海岸線。青い海と陸地の境界線部分のコントラストは綺麗。やがて高度を下げて着陸態勢に。千歳空港に16時頃到着。なんと実家を出てからここまで4時間強。電車ならまだ青森にも達していない。世の中にこんな便利なものがあったとは。でも学生には贅沢だった。電車なら1.3万円なのだが、飛行機はスカイメイト料金でも1.8万円近くかかる。空港の到着ロビーで高校野球の標識をやっていた。やはりPL学園が優勝した模様を報じていた。やはりK・Kコンビは最強だった。桑田は甲子園通算20勝3敗だった。決勝戦を戦わなかったのは一度きりといい常勝軍団だった。札幌経由で自宅に戻ったのは「夕ニャン」が始まる直前だったと思う。ところが希望を託した予約録画に失敗。空白の2週間(10回分)をすべて録画出来ていなかった。これには唖然&茫然自失。何のために帰郷を遅らせたかわからなかった。

 さて、気を取り直して、北海道で過ごせる期間も残すところ半年余りとなった。バイクが無くなり、行動が狭められることに危機感を強め、あと数カ月しか乗れないのを知っていて、9月に自転車を衝動買いした。R12沿いにあるダイエーの敷地の一角に、「マツザキ」というホームセンターがあって、そこで15,800円の黄色いチャリを購入。中心街への買い物には出やすくなった。でも勿体ない出費だった。その自転車は年明けにも美容室経営の大家さんが、お客さんで自転車を欲しがっている人を見つけてくれ、5千円で引き取ってくれた。9月11日に大好きだった「夏目雅子」の急死の訃報があったり、l秋(10月)は阪神優勝一色だった。大の阪神ファンの教授がいて、気を良くしてその年の試験は「優」のオンパレードだった。そこから先はあまり行事を覚えていない。粛々と生活した筈だ。この年は10月中旬に初雪が降ったが、一度も解けることなくそのまま根雪になった。雪も多く降り、あまり外へは出ないで、大学との往復以外は家に閉じ籠っていた。アクティブ少年の「M」の存在はやはり大きかった。北海道の建物の造りは完ぺき。外気の侵入と結露を防ぐように、窓はすべて二重窓。学生生活で一番困ったのは散髪だった。節約のため、自分で切っていたら、変に禿げあがって収拾がつかなくなって、学校へ行ったら思い切り笑われた。この頃から、遅ればせながら「夕ニャン」が全国ネットを開始し、地元福島県でも観れるようになった。これで気兼ねなく帰れることとなった。

 12月の帰郷は、空路を使った。千歳空港から仙台空港までひとっ飛びだった。千歳は一面雪景色だったが、着陸した仙台空港は雪などどこにもなく、カラカラだった。そこから国鉄東北本線の至近の「館腰駅」までタクシーを使ったが、運ちゃんに「北海道の学生さん?北大生なんでしょ?」と聞かれ、返す言葉が無く、咄嗟に「そうです」と嘯いてしまった。年明けて一月、家族と正月を過ごし、最後の北海道生活へ。ここも飛行機三昧だった。この時の仙台空港は、Uターンラッシュと重なり、スカイメイトでは取れず、キャンセル待ちで何とか潜り込んだ。この時は、定員が多く収容可能な258人乗りの中型機だった。座席は横7列の、窓際ではなく真ん中だった。何と機体正面のスクリーンに、滑走路を走る機体の模様を内部カメラで撮って生中継していた。興奮した。上空に飛び立つと連動してカメラが下向きになった。真冬の北海道に戻り、すぐ試験の準備に入った。1月下旬にすべての単位認定試験を受け、単位を無事取得。晴れて4月から東京キャンパスへ籍を移すこととなった。2月に最後の想い出となる行事、「さっぽろ雪祭り」に出向いた。最初、さすがに独りでは行けず、パートナー探しに明け暮れた。しかし、石川出身のS君が手を挙げてくれた。2回目だったので、一度目よりは感動は薄かった。それでも真駒内と大通公園の会場を闊歩し、その雰囲気を味わった。

 友人達は、次々と進級を決め、2月中には北海道のアパートを引き払って行った。アパートでは一人だけ、学校にも行かず部屋で酒と煙草と麻雀三昧だった奴が留年した。私は、北海道生活に名残が惜しく、3月初旬まで居座った。遂に北海道と「さよなら」する日が来た。日付は忘れたが、最後はしみじみ別れを惜しむため、飛行機を避けて陸路を選んだ。一週間ほど前から、引越しの荷造りをしながら涙が出る思いだった。1年時に比べるとこの2年生はあっという間に時が過ぎたと思う。大家さんに挨拶し、鍵を返し、光熱費の日割分を支払ってアパートと岩見沢市を後にした。函館まで「特急列車」を使い、結局電車は、電化されている室蘭本線を使い、一度も「特急北海」が走る倶知安、小樽周りの無電化路線の函館本線は使わなかった。こちらは相当な難所の山越えなので、千歳周りよりも時間がかかってしまうのだ。そして最後の青函連絡船は「十和田丸」だった。デッキで最後の記念スタンプを押した。青森駅からは急行「津軽」に乗車した。赤い電気機関車に曳かれるブルートレインの客車だった。始発なので座れないことは一度もなかった。そして後ろ髪をひかれる思いのまま、郷里のプラットホームに降り立った。

 東京のアパート探しは、思いのほか早く決まった。わざわざ東京に行かずとも、その年、同じ大学を卒業した先輩が近所にいて、それが両親が良く知っている人だった。その息子さんが住んでいたアパートにそのまま入れることになった。そこは大学がある世田谷区で、玉川通り沿いから少し入った閑静な住宅街。銭湯も近く、スーパーマルエツもあって、何不自由ない環境の良い場所だった。最寄りの駅は、三軒茶屋とK大学駅の中間地点。家賃は3.8万円だったが、6畳一間。台所はついていたが、風呂は無かった。住所は上馬一丁目といって、環状七号線より内側にある土地代がかなり高い場所だった。バイクで通学なので、あまり近くなくても良かったが、渋谷や原宿に遊びに行くのにも近くて便利だった。

 以上が2年間、貴重な大学生活の一部始終だ。細かいことを挙げればキリがないが、大筋はこんなところだ。人前(全国ネット)でカミングアウトするような内容ではないが、自分の想い出として、また自分自身の備忘録となれば幸いかと思い、敢えて掲載に踏み切った。最初の2年間は女っ気ゼロ。恋話を期待していた人には申し訳ないが、それは東京キャンパス以降の話で盛り上げたい。しかし、学生時代のことを語り出すと止まらなくなり、ついつい長くなってしまう悪い癖がある。次回は、息抜きということもあって、暫く別の話題に触れたいと思う。

 ~1985年の出来事~

 ・ 電電公社がNTTに、日本専売公社がJTに民営化(4月)

 ・ 阪神、バックスクリーン三連発

 ・ 男女雇用機会均等法成立

 ・ 三菱石炭鉱業夕張南炭鉱ガス爆発62名死亡(5月)

 ・ 豊田商事の永野会長刺殺事件 

 ・ バックトゥーザフューチャー封切り(7月)

 ・ 日本航空123便墜落520名死亡(8月)

 ・ ロス疑惑の三浦和義逮捕、女優・夏目雅子死去(9月)

 ・ 阪神タイガース21年振りのリーグ優勝(10月)、日本一(11月)

 ・ 第2次中曽根改造内閣発足(12月)

 ~流行歌・TV~

 ・なんてったってアイドル(小泉今日子)、ロマンチックが止まらない(CCB)、ふたりの夏物語(杉山清貴&オメガトライブ)、雨の西麻布(とんねるず)、ふられ気分でロックンロール(トムキャット)

 ・ニュースステーション、毎度おさわがせします、天才たけしの元気が出るテレビ、澪つくし、8時だョ全員集合!(9/28終了)

Onyanko

« 学生時代 in 北海道 (1984.4~1985.3) | トップページ | 鉄道の「来し方行く末」(鉄道事情考) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

 こんにちは。初めてメールします。ふとしたことからこのブログをみつけました。私は郡山市に持ち家がありますが、理由あって現在は東京に在住しております。実は1981年4月から1983年3月まで岩見沢市のK大の学生でした。SUZUさんとは2年先輩になります。ブログの内容が懐かしくメールをさせていただきました。当時私は岩見沢市美園の家賃1万円のアパートに住む貧乏学生でした。アルバイトをしながら、パチプロの友人におごってもらいながら、なんとか学校に行っていたという思い出があります。当時の岩見沢市は、郡山市同様に駅前がにぎやかで、パチンコ店や飲食店がたくさんありました。5年ほど前に仕事で岩見沢市に行ったのですが、もうあの当時の面影はまるでなく、駅前はシャッター街になっていました。通学したK大はすでに無く、私の住んでいたアパートも無くなっていました。去年の夏に郡山に帰っ時、震災の影響でしょうか、中央公民館や記憶の森、ミナミボールといった建物が無くなっていました。思い出の建物が無くなるのはやっぱり寂しいものですね。またブログ読ませていただきます。

 ・・・はまなすさん、いや、はまなす先輩、はじめまして。おっしゃるとおり、私はK大卒ですよ。同じ環境で過ごしたとは懐かしいですし、うれしい限りです。これがネットやブログの良い点ですね。今は大学も廃校、高校も募集停止となってしまいました。かつてはヒグマ打線として甲子園に何度も出場しましたね。東京世田谷の本校は現存してますが、何か母校が無くなったようで寂しいです。昨夏、久しぶりに北海道旅行に行ってきました。小樽、札幌、美瑛、富良野、布部と2泊3日で飛行機&観光バス、レンタカーなどで旅行してきました。もし良かったら、当ブログの旅行・地域のカテゴリーからご覧ください。記事に書いたとおり、当時札幌のベッドタウンとして賑わっていた岩見沢ですが、おっしゃるとおり、今では教育大だけとなり、学生が減って活気が無くなっていますね。かつての駅舎も火事で焼失し、金市館やフォト所ぷ太陽、駅前にあったレンタルレコード屋も無くなっちゃいましたね。残念です。
 昔の岩見沢の話題で盛り上がれれば幸いです。たぶん、もうごらんいただいたと思いますが、この記事の前に、1984.4~1985.3分のものもありますので、またコメント等をいただければ幸いです。
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/1984419853-60b1.html

また、リンクしてある私のホームページ「趣味ING」には、「僕が北海道にいた頃」というツーリングの記録を掲載していますので、もしよろしければごらんください。懐かしい写真もありますよ。
http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%203.htm
 (SUZU)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 学生時代 in 北海道 (1984.4~1985.3) | トップページ | 鉄道の「来し方行く末」(鉄道事情考) »

福島県の天気


無料ブログはココログ