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2010年3月

2010年3月31日 (水)

私が好きだったCM

 先日若くして亡くなった「しばたはつみ」さんは、かつて一世を風靡した丸善石油の「OH!モーレツ」というお色気CMの曲を歌い、時代を席巻した。また1980年代には、宮崎淑子(美子)の「ミノルタX7」の生着替えや更に時を遡れば、植木等が広め、「なんであるアイデアル」という流行語まで誕生させるなどして時代を映した数々のCM(CF)があった。もちろん、有名タレントを起用すれば話題作りになるし、様々なキャッチコピーが生まれ、人気シンガーとのコラボでBGMとして取り入れた曲が大ブレークしたり、もちろん初期の目的である販売促進にもなるし、イメージキャラクターの起用によって売り上げに大きく影響することから、CMが果たす役割は極めて甚大だと言わざるを得ない。今回は、前回のPVに続き、私のお気に入りのCM(CF)について取り上げたい。

 第1位 コカ・コーラCoke  

 ご存知「Yes Coke Yes !」や「No Reason」などのフレーズを生んだ大人気CMシリーズ。ウキウキ感や躍動感、爽快感などをモチーフにして若さを前面に押し出し、仲間意識や同属感、「Enjoy  the life !」をメッセージとして訴えていた。1980年代に流れていた「♪初めてじゃないのさ~いつでも一緒なら~今何か感じてるコカコーラ~爽やかティスティ~ I Feel Coke~♪」の唄とCMの演出が私は何より大好きだった。長きに渡ってシリーズ化したこのCMを毎回更新されるのを心待ちにしていたほどだ。そして2000年代には、桑田佳祐の「波乗りジョニー」や「愛しのミーナ」など、ご機嫌なサウンドに乗せた「No Reason」のCMも時代を彩った。ストーリー性のあるCMは当時大人気で、出演するモデルもまたイケメン揃いのナイスガイや美女系が多かった。大評判のこのCMシリーズは、1987年のテレビ広告大賞を受賞した。

 第2位 JR東海(クリスマス・エクスプレス)Jr

 一番人気は「シンデレラエクスプレス」やクリスマスの時期になると必ず流れていた「クリスマスエクスプレス」。山下達郎の「クリスマスイブ」をBGMに、恋人と駅のプラットホームでの再会する場面を人気女優の深津絵里、牧瀬里穂、高橋玲奈らが好演した。また、「アリスのエクスプレス」や「プレイバックエクスプレス」、「ホームタウンエクスプレス」、佐野元春の♪Some day♪のメロディに乗せた旅立ち編「ファイトエクスプレス」も当時の人々の心を打った名作だった。その中で私が好きだったのは、「ハックルベリーエクスプレス」シリーズだった。お盆休みに家族で父母の実家へ里帰りして、田舎で夏休みを過ごし、ひと夏の想い出を作るという内容のもの。このシリーズは、CMの最後に女性の声で「JR東海」と告げた後のチャイム風のジングルが良い感じで旅愁を誘った。

 第3位 日立の樹Hitachi

 「♪この~木なんの木、気になる木~♪」でお馴染みの、日本人なら誰もが知っていて、一度は口ずさんだことがあるCMである。この通称「日立の樹」はハワイのオアフ島にあるモンキーポッドの木である。金曜日の夜7時30分から放送していた野生の王国で必ず流れていた。1973年から始まったが、最初はアニメーションの木が使われ、この木が実際にCM映像に使われたのは1975年からだった。日立グループの関連会社をすべて紹介する60秒スポットの長編CMは、当時としては非常に珍しかった。

 第4位 PanasonicPanasonic  

 「小さな命の物語」「姉妹のファッションショー」「人」「Family」「オキナワブルー」など2007年の暮れにまとめて放送された感動シーンばかりを集めた物語仕立てのCM。特に「人」は涙なくしては見れない。入院中のおばあちゃんが、孫の顔を見れずに死んでしまうことを悟り、病床でパソコンを使い、まだ見ぬ孫に充てた天国からのメールを作成する。「真っ赤なランドセルを買ってあげたかった」「夏には一緒に浴衣でお祭りに行きたかった」「運動会や参観日にも行ってみたかった」「おばあちゃん、残念だけどあなたに会えそうもありません。一度でいいから抱っこしてあげたかった」「おばあちゃんって呼んでほしかった」というおばあちゃんの願いがひしひしと伝わって来て号泣せずにはいられない。

 第5位 ミノルタX-7Minolta

 1980年、齋藤哲夫の♪いまの君はピカピカに光って~♪でお馴染みの軽快な曲に乗せて、当時熊本大学生だった宮崎美子がTシャツを脱いで青いビキニに着替えるシーンは、当時大人気を博した。そしてカメラに向かってハニカむ姿は世の男性のハートを鷲掴みにした。その10年くらい前に、来日して人気があったアグネス・ラムを髣髴させるような衝撃を受けたのを覚えている。このCMで大ブレークした彼女は、NHK「元気です!」の朝ドラに大抜擢され、その後演技派女優としての道を歩むことになった。ぽっちゃり系だったが、とにかく可愛らしかった。今は「クイズQさま!」などのクイズ解答者としても活躍中で、つい先日は番組内で漢字検定1級を取得した才媛である。

 第6位 サントリーCANSuntory 

 1983年に世間の人気を集めた缶ビールのCM。松田聖子の「Sweet Memories」の曲に合わせてペンギンたちがドラマ仕立てのストーリーを展開する。お洒落なバーを舞台背景に、ムード歌謡の如く可愛らしく歌ったり踊ったりしていた。所ジョージがナレーションを担当した。このCMは放送初期の段階から反響が大きく、好評を博し、その後もシリーズ化され、海の家編やボクシング編、駅のプラットホーム編、黄昏編など様々なシチュエーションで次々とその続編が制作された。

 第7位 いすゞジェミニ(街の遊撃手)Gemini

 チャイコフスキーのクラシック曲「花のワルツ」のBGMに乗ってアクロバティックなカースタントで世間をあっと言わせた。イタリアやパリなどの町中広場や有名な通り、地下鉄のホームなどを縦横無尽に闊歩するなどメチャ振りな演出は、今思えば斬新で画期的だった。ジェミニが2台、寸分の狂いもなく並走したり、走行する車の上を軽やかにジャンプして交差したり、片輪走行などを行い、当時CGなど無かった頃に「一体どうやって撮影したの?」という疑問が沸き起こったくらいカーアクションが凄まじく、注目の的だった。これも1980年代を飾ったCMであった。

 第8位 グリコSeiko_toshi

 アーモンドチョコレートやポッキーなどの販売促進に、当時旬なアイドルを起用して話題を集めた。アイドル同士の共演で、高原のデートが一躍有名になって理想のデートとまで持て囃された田原俊彦と松田聖子の主演CMから渡辺徹、本田美奈子、沢口靖子、南野陽子、岡本舞子、高橋美枝、酒井法子、掘ちえみ、反町隆史、新垣結衣など若手歌手や俳優の登竜門的なイメージがあった。お菓子、チョコ、ガム、アイスなど商品数も多かったため、それぞれにCMが制作されていた。現在は北川景子や石原さとみ、小栗旬などが画面に登場している。

 第9位 三井のリハウスMiyazawa

 当時、絶世の美少女と謳われた宮沢えりが、転校生「白鳥麗子」役で彗星のごとく芸能界デビューを果たした話題作として脚光を浴びた。一見お嬢様風の彼女が、教室でクラスメートに挨拶する姿は実に初々しかった。彼女自身は、父親がオランダ人のハーフで、目鼻立ちが通り、均整の取れた顔は、それまで可愛い系が多かった芸能界において、新たなアイドル像の出現を予感させた。しかし、やや人気に翳りが出始めた頃に、電撃的なヌードを披露し、その写真集を発売し、話題を浚った。(当時10代アイドルのヌード写真集は珍しく、衝撃的だったと同時に思わず私も勢いで買ってしまった・・・)

 第10位 トワインニィング

 紅茶のCMで、特に私が好きだったのは、「クイーンエリザベスⅡ世号」が航海するシーンが盛り込まれたCM。「Twining Tea on The Queen Elizabeth」という歌の節に乗せて流れたのが何故か強い印象と記憶に残っている。中学時代によくTVCMで流れていたものだ。

 次点 オロナミンC(元気ハツラツ)

 かつては巨人軍の選手が大勢出演したCM。古くは黒ぶち眼鏡がトレードマークだった大村昆さんが主演していた。とにかく息の長いCMである。「ファイト~一発!」のリポビタンDが出るまでは、栄養ドリンク剤の草分け的存在としてCM界を席巻した。

 これ以外にもNTTの「カエルコール」や「私はこれで会社を辞めました」など流行語になったCMも多数ある。また、公共広告機構(AC)に代表されるような、その時代時代の社会問題や日常生活について、深く考えさせられるCMも存在する。ところで今朝の「めざましテレビ」で放送していたが、明日から昔懐かしいアイドルがカルテットで共演するCMが流されるようだ。その4人のアイドルとは、「伊藤つかさ」「荻野目洋子」「石川秀美」そして「河合その子」である。いずれも80年代に一時代を築いた人々。伊藤つかさは3年B組金八先生や「少女人形」という歌でデビュー。荻野目洋子は80年代に「ダンシングヒーロー」が大ヒット。踊りと独特なステップも流行した。私は大学3年生の頃、原宿の竹下通り沿いにあったHARADA’Sという店で取材中の彼女を目の前で見た。やはり芸能人のオーラが漂っていた。石川秀美はミニスカートから伸びた長くてキレイな脚が魅力で、「ゆれて湘南」という曲が私は好きだった。元シブがき隊のヤックンこと薬丸英秀と結婚したのはビックリだったが。シブがき隊では、布川敏和がやはりアイドルだった土屋かおりと結婚したし、映画「おくりびと」ですっかり実力派俳優となった本木雅弘は、何と内田裕也と樹木希林の愛娘とそれぞれ結婚した。そして最後の河合その子は、1985年から2年半、ひとつの時代を築いたおニャン子クラブのひとりで、最初にソロデビューし、「恋のチャプターA to Z」、「涙の茉莉花」、「落ち葉のクレッシェンド」、「青いスタシオン」などをヒットさせた。彼女がテレビに登場するきっかけとなったテレビ「夕やけニャンニャン」の番組とクラブを他のメンバーに先だって最初に卒業した。その後、作曲家・後藤次利と結婚。現在44歳で、一児の母になっている。

 さて、CM業界は今、長引く不況によって窮地に立たされている。CM制作費は全国ネットだと放送権料も含めると巨額な費用を要する。有名タレントを起用すれば、下手すれば億単位の出費は当たり前。特に、産業界や経済界をリードして来たTOYOTA自動車が広告費として投じる費用は、年間1,000億円以上とも言われている。車種ごとにCMが存在するし、昼夜問わずいろいろな番組のスポンサーとして天文学的な宣伝費を投じて来たし、雑誌を開けばどこかしこでカラー写真のグラビアを飾っている。東京ドームに行けば、外野の大看板に車の写真が・・・。もちろんTOYOTA自体は、自社製品のPRだけでなく、様々な業界に舵取り役としても散々貢献して来た。その時代の寵児とさえ思われたあのTOYOTAですら、この度広告費3割減という苦渋の決断を迫られるに至った。もちろん理由は、アメリカで起こった「プリウス」のリコール問題で、その対応に多額の経費と時間を強いられたことと、その謂れのない風評被害で不買運動が起こったことによる。こうしたことを背景に減収減益は避けられず、やむを得ず経費削減の道を模索した結果に違いない。最近、CMも制作費を削ることが多いせいか、手の込んだ演出や斬新なアイディアが少なくなり、昔のような目を皿のようにして観る魅力的なCMが少なくなった。チャンネルを変えられるCMばかりになってしまった感が否めない。今日、ランキングで紹介したような、ストーリー性があって、思わず動きを止めて食い入るように見つめるCMが再び出てくれることを願ってやまない。 

2010年3月24日 (水)

プロジェクトX ~リーダー達の名言~

Project_x  かつて私が毎週、首を長くして楽しみにしていたテレビ番組があった。火曜日の22時からNHK総合で放送していた「プロジェクトX~挑戦者たち~」である。その番組のコンセプトは、戦後のさまざまな開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服し成功に至ったかを紹介するドキュメンタリーであった。無名の日本人リーダーと、それに従い支えた名もなき多くの企業戦士達にスポットを当て、彼等による新製品の開発を巡り、飽くなき挑戦と絶え間ぬ努力、日々格闘する姿を描いた真実の物語であった。そして更には、その成果の紹介がテーマであった。もちろんその道のりは決して順風満帆ではなく、新製品の開発を巡っては、紆余曲折や大きな障壁にぶつかってしまい、途中で頓挫してしまうこともしばしばであった。しかし逆境に挫けそうになりながら、八方塞でどん底の窮地を味わいながらも、不屈の精神力で不死鳥の如くで這い上がり、ふとしたことをきっかけにして活路を見出し、決して諦めずに初志貫徹する技術者たちの懸命な姿。そうした地道な努力がやがて実を結び、最後の最後で大仕事をやってのける感動の物語だった。毎週ビデオに録画して繰り返し見ていた。私自身も仕事で行き詰まった時に、それを見て、どれほど勇気づけられ、励まされたことか。まさに魂を揺さぶられる感動のストーリーが多かったように思う。

 この番組は2000年の3月から2005年12月まで、約5年9か月続いた。放送回数は実に185回を数えた。それぞれのストーリーにそれぞれの熱いドラマがあった。技術者の人知れぬ苦労や成功した時の無上の喜び、夢や希望、汗と涙といった人間ドラマが随所に散りばめられ、それぞれが主人公であると同時に、それはまるで人間社会の縮図のような演出も随所で際立っていた。司会は東大出身の国井雅比古アナと慶應大学卒の久保純子アナ(後に産休に入り、東大医学部出身の膳場貴子アナが代行)のコンビが担当。そして素晴らしかったのは、ナレーションを務めた独特な語り口調が売りで共感を誘った田口トモロヲ。あのゆったりとし、呟くようなナレーションは、森本レオを彷彿させ、一言一言に重みがあった。そしてこの番組に付加価値を与えたのは、オープニングとエンディングに流れる番組の主題歌である。中島みゆきが切ない声で震えながら歌い上げる「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」は圧巻。更なる感動を加えた。かつての谷村新司の「昴」を彷彿させる、その歌詞と曲調は中高年男性の圧倒的支持を取り付け、番組の内容と相まって、記録的なロングヒットとなった。実に涙なくしては見れないドキュメンタリーであったと思う。

 ではここで、私が独断と偏見で選んだ「マイベストセレクション10」を紹介したい。初期の頃に感動的な名作が多かった気がするが、実はどれも秀作揃いで、「DVD化」された作品も決して少なくない。

 1.第 2回「窓際族が世界規格を作ったVHS・執念の逆転劇」(2000年4月4日)

 2.第39回「不屈のドラマ 瀬戸大橋」( 2001年 2月6日)

 3.第53回「炎上 男たちは飛び込んだ」(ホテルニュージャパン火災 2001年5月22日)

 4.第 3回「友の死を越えて 青函トンネル・24年の大工事」(2000年 4月11日)

 5.第14回「厳冬黒四ダム 断崖絶壁の輸送作戦」( 2000年6月27日)

 6.第21回「東京タワー 恋人たちの戦い」(2000年9月5日)

 7.第28回「ロータリー47士の戦い 夢のエンジン・廃墟からの誕生」(2000年11月7日)

 8.第83回「国産コンピューター ゼロからの大逆転」(2002年4月9日)  

 9.第30回「つっぱり生徒と泣き虫先生」(11月21日)

10.第36回「奇跡の心臓手術に挑む」(バチスタ手術 2001年1月16日)

 第1位に推挙した、「ミスターVHS」と呼ばれた日本ビクターの高野鎭雄の物語は感動の連続だった。業界8位の業績に低迷していた会社で、一年やれば首が飛ぶとまで言われた窓際部署に47歳で配属となり、VTR事業部長として幾多の困難に立ち向かい、僅か3人の技術者と本社に内緒で密かにプロジェクトを結成。4年に及ぶ開発の末、VHS方式を展開。ソニー・東芝を中心とするベータ陣営と壮絶な販売合戦の末に勝利し、VHSの名を天下に、そして全世界に轟かせた。会社自体も総販売額の70%をビデオが売り上げる一大拠点に育て上げた。彼が何より凄いのは、窮地に追い込まれ、会社からリストラを迫られ、業績不振で叱責されてもなお、部下270名の誰ひとりとしてリストラせず、社員を守り抜いた「人こそ命」という基本精神を貫いた人間性にあった。人望が厚く。彼を慕って多くの部下が集まり、ビデオ事業の職務に専念した。最終的に1986年に副社長に就任した。彼は副社長退任の二年後に肺がんを患いこの世を去った。高野の棺を乗せた霊柩車は、寺へ向かう途中、長年苦労を共にしたVHSの開発工場だった横浜工場へ立ち寄った。クラクションが何度も鳴り響く中、全社員が見送りに勢ぞろいした構内をスピードを落として車は周回した。誰もが深々と一礼し、涙で顔は濡れていた。構内の中央に差し掛かった時に、一枚の手書きの横断幕が掲げられた。そこには「ミスター・VHS・高野鎭雄さん ありがとうございました。安らかにお眠りください」。その幕の横をゆっくりと通過する霊柩車。私もその画面を見て、大粒の涙が止めどなく零れ落ちた。そして武者震いが全身を包み込んだことを覚えている。果たして自分は、彼のように人に愛され、世の中の役に立ち、何かを成し遂げれる人間で一生を終えることが出来るだろうか。そう考えた時に、「この世でやり残すことがないよう精一杯生きたい」という、いわば「生きる力」がひしひしと込み上げて来たのだった。

 次に、番組の節々で紹介された「リーダー達の言葉」を紹介したい。

  • 「とにかくやってみなはれ。やる前から諦める奴は一番つまらん人間だ」
  • 「とにかく困難に挑戦してそれを例えばやり遂げます。その時の嬉しさというのはちょっと比類がない」
  • 「男は一生に一度でいいから、子孫に自慢できるような仕事をすべきである」
  • 「すべての開発は感動から始まる」
  • 「挑戦者に無理という言葉はない」「お前は限界に挑戦していない。欠点が見えてどうしようもないくらい考えろ」
  • 「情熱を持ったプロフェッショナルになれ」「不安を取り除いてくれるのが情熱だ」
  • 「夢中でしたね 夢中っていうのはたいへん素晴らしいことだと思う」「神様がね こんな素晴らしい人達を私の周りに置いてくださった」「ぜひ皆さんも、何でもいいですから夢中になってください」
  • 「どんな仕事でも本当に打ち込んでやっていれば自分の天職になるかもしれない」
  • 「おいみんな、北海道に行くぞ。ここが約束した北海道だぞ」
  • 「いつかはみな死ぬ 今は苦しくても死ぬ時に誰も出来ないことをやったと思えたらそれでいいじゃないか」
  • 「部下がついてくるかどうかは、リーダーが苦しんだ量に比例する」
  • 「部下の幸せのために上司はいる」
  • 「医者というのは患者のためにいるわけで、医者としての地位や名誉などどうでもいいことです。大切なのは、医者が患者から見捨てられないようにすることです。」
  • 「技術の前には、上司も部下もない。俺にアイディアをぶつけろ」
  • 「偉大なる人生とはどんな生活を言うのか。これは非常に難しい問題でありまして、瀬戸大橋をつくるより遥かに難しい。」
  • 「思いは叶う。努力する人間を運命は裏切らない。道は必ず切り開ける。」  

 どれもこれも魂に響く名文句である。私はついその本を買ってしまったほどだ。そういえば最近、体の底から沸き上がるような希望や浪漫を伴う震えがめっきり影を潜めてしまった。若い頃は燃え上がる情熱や夢があり、「やってやろう」という気力に満ち溢れていた。「攻めの姿勢」を遠い昔に忘れていた気がする。不惑をとうに過ぎ、どうやら守りに入っていた自分になっていたことに気づいた。もう一度自分自身を奮い立たせ、燃えるような生き方をしたいと思う。自分自身を見失わないために・・・。

 最後に、人生において私を勇気づけてくれた二つのテーマソングを掲載して結びとしたいと思う。

 ~地上の星~

 風の中の昴 砂の中の銀河 

 みんなどこへ行った 見送られることもなく

 草原のペガサス 街角のビーナス

 みんなどこへ行った 見守られることもなく

 地上にある星を 誰も覚えていない

 人は空ばかり見てる

 ツバメよ高い空から 教えてよ地上星を

 ツバメよ 地上の星は 今どこにあるのだろう

 

 ~ヘッドライト・テールライト~

 語り継ぐ人もなく 吹き荒ぶ風の中へ

 紛れ散らばる星の名は 忘れられても

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない 

 足跡は降る雨と 降る時の中へ消えて

 称える歌は 英雄のために過ぎても

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

  

 付記

 プロジェクトXファンの皆様に、懐かしく回想出来るサイトを見つけましたので紹介します。 「我ら地上の星」→ http://www.marubaku.com/nyaomic/projectX/  

 

 

2010年3月21日 (日)

ドキュメンタリー「45歳の挑戦」~決断篇~

 昨日(3月20日)の14時、私にとって生涯忘れない運命の時刻を迎えることになった。それは、予ねてから願書を提出していた某大学から合格通知書が書留郵便で到着したのだった。45歳の私にとって、大学生をやり直そうなどと大それた発想と行動は、一瀉千里などでは到底なく、やはり苦渋の選択だったし、一世一代の決断だったと言える。今回はその模様の一部始終についてドキュメンタリータッチで語ってみたい。

 実は1月より密かに準備を進めていた。願書を取り寄せる手配をしたり、母校の大学に成績証明書や卒業証明書の交付を依頼したり、家内にも内緒で水面下で動いていたのだ。不惑をとうに過ぎた私が、この歳で新たに学問の道を志そうと大それたことを考えたのは、別段今の仕事に不満がある訳でもないし、人間関係をしくじって現状からの逃避を考えた訳でもない。まして高学歴が欲しくてこんな危ない橋を渡ろうとした訳でもない。自分で言うのもおこがましいが、幼少より、勉強の出来は芳しくなかったくせに、好奇心だけは人一倍旺盛で、わからない言葉があると、すぐに広辞苑やwikipediaで調べるなど飽くなき探究心を持ち合わせた性格が災いしたようで、もしかするとただ単に血迷っただけかもしれない。大学を卒業して実に22年目にして、自分の専攻とは違う分野の学問を身につけたいという願望が芽生えたのが決断の理由のひとつだった。それは法律や条例などを始めとする法規範であった。その延長線上には、あと15年で迎える60歳の定年退職後の生活を見据えて、「行政書士」や「司法書士」などの資格を取得したいというのがあった。念のために断っておくが、決して今流行りのテレビドラマに感化された訳ではない。

 ふたつ目の理由は、昨年より導入された「裁判員制度」である。その実施に踏み切った経緯やその是非も問題点は大ありだが、法律の「ほ」の字も知らない者が、ある日突然「招集令状」が届くような不意打ちに遭い、しかもまるで雲を掴むような得体の知れない法廷の場において、例えそれが悪逆無道の犯罪者であっても、人の運命をも左右しかねないような重大な判断を自分が下せるのかといった疑念が絶えず付き纏っていた。2月時点で、現行の死刑制度の存続を望む声が、85.6%と圧倒的多数を占める中で、万が一自分が殺人犯の裁判を担当したとして、法の知識も持たない一般人が、感情論やその場の状況、審理の行方次第で、「安易に死刑判決などを下して良いのか」という葛藤が起こり得るだろう。志操堅固とまで至らずとも、少なくとも法規範の意味を理解し、何時選任されるか予想だに出来ない裁判員に対して、こちらも或る程度心や知識の面で準備しておくのが礼儀だし、筋ではないかという考えに至ったのだ。その為に法律の分野に敢えて首を突っ込みたくなったのだ。

 三つ目の理由は、自分の学生時代を振り返ると、おぼろげだがやりたいことがあって、その学部学科を目指したのだが、確かに北海道と東京で学生時代を過ごし、貴重な時期に様々な経験を積むことはできたと思う。ご承知の通り、大学は私大の場合、とにかく授業料等の学費が高い。25年前の当時でも、年間の学費が50万円以上かかった。しかもその半分は休みであった。大学という場は、自分で行動を起こさなければ何も始まらず、誰もお膳立てなどしてくれはしない。「楽しく充実した日々を過ごすか」または「何も残さずに遊んで時間だけ浪費して終わってしまうのか」はすべて自分次第である。私自身、自分の学生生活を振り返った時に、苦手科目の教授が休んで休講となった場合、不覚にも喜んでしまうような学生だったと記憶している。これは刹那的かつ浅はかな発想で、親が苦労して工面してくれた高い学費を単にドブに捨てているようなものだった。申し訳ないと思う。「もし今、学生に戻れたら、どれだけ時間を大切に考え、熱心に勉学に励めることか」という考えが心のどこかに燻っていたのだ。

 四つ目の理由は、本音を言えば、このまま安泰で何の刺激もなく、変わり映えのしない、千篇一律でのんべんだらりとした日常と別離したかったことが挙げられる。福島県は確かに住むには自然環境が素晴らしい所だが、時々中央集権の巣窟と言うべき東京へ出向いて適度な刺激を受けないと、発想や思考が麻痺してしまうのではないかという強い不安と危機感を抱いたのである。既に人生の峠を過ぎ、残りの半生を考えた時に、「自分は何を生きた証としてその足跡をこの世に残せるのか」疑問だった。大袈裟かもしれないが、臨終の間際に未練を残したり、後悔するくらいだったら、周囲に迷惑をかけない範囲で、「体が動くうちにやりたいことはやっておこう」という結論に至ったのだ。

 しかし、「言うは易し、行うは難し」である。それは自分が考えるほど簡単なものではなかった。現在の仕事に穴を空けず、どうにか「法律」を学べる手立てはないものかと思案して、あれこれネットや雑誌などを検索。そうして辿り着いたのが通信制という手段だった。私が入学を強く望んだのは、国内でも屈指の名門大学で、恐らく日本で1・2を争う最高峰の私大である。どの道法律を学ぶなら、国家公務員 I 種や司法試験の合格率が高い難関大学の方がやり甲斐があるだろうし、決心が鈍らないよう退路を断つ意味でもハイレベルの環境下に自分を追い込みたかったのだ。でも通信制とは言え、如何せん実業高校と法律とは凡そ畑違いの大学の学部しか出ていない私が、偏差値70もあるような大学の学問(自主学習やスクーリングの講義)について行けるのか不安は内心拭い去れなかったし、実際問題として、本当に合格できるのかすら疑問だった。正直、合否は微妙で五分五分だろうと考えていた。一応こう見えても、大学時代は、バイクであちこちツーリングして遊び呆けていたものの、決して授業だけは疎かにせず、真面目に出席し、レポート提出も欠かさずマメに出していた。年度末の筆記試験の前には、泣きべそを掻きながら死に物狂いで、夜を徹して学習に励んでいた。よってその甲斐あって「優」の数は30個程度あったこと、また在学中に「英語検定2級」を取得していたこと、高校時代には簿記や珠算の検定にも合格していたことなども合否の際には有利に働くかもしれないという期待感はあった。

 ところが実際に願書を取り寄せてびっくりした。流石は私大の法学部では最高峰の大学だけの事はある。ただでは合格を許さない仕組みになっている。学力試験はないものの、いきなり、720字以内の志願理由書と「学びたい専攻分野に関する書籍を読み、そのあらましと自分なりの考察を加え、720字以内で論評せよ」というレポート提出が課せられていた。早めに願書を取り寄せたために出願まで一か月以上の猶予があったので、とりあえずブックオフに走り、岩波新書の本を2冊買って来て読むこととなった。その買い込んだ2冊とは「日本社会と法」、「マルチメディアと著作権」というお堅い本だった。私にとってレポート作成はお手の物だった。毎日当ブログで、原稿用紙換算で10枚以上書くことを自分のノルマとしていることも大いに役立ったし、レポートを仕上げることに関しても一抹の不安もなく、苦にもならないし、全く負担には感じなかった。そして書類一式を整えて出願したのはバレンタインデーの2月14日だった。ここまで要した費用は13,695円。もう後戻りできない状況だった。

 ところで、私が希望した大学の選抜方法は、主に4年制大学を卒業した人が受験する「学士入学制度」というものだった。これは卒業まで通常4年かかるところを、既にその資格を有する人には優遇措置があって、一般教養に当たる総合科目40単位分を免除。外国語は英語を選択したが、これにも仮認定の制度があり、それを希望すればレポート提出を免除され、テキストにて自主勉強し、筆記試験だけを受験して及第点を取れば単位認定されるというシステム。英語については、学生時代に嫌というほど勉強していたので多少なりとも自信があってさほど心配はしていない。従って、大部分は法律の専門科目の履修と卒論のみでO.Kというものだった。そして、東京と横浜にあるキャンパスで、夏にスクーリングが一週間ほどあって、それに出席して15単位分の単位取得ができれば卒業要件を満たすというものだった。しかも通学課程なら年間80万円もかかる学費だが、通信制なら年間10万円程度。最短コースで行けば2年半、24万円程度で卒業まで到達できるというかなり格安な学費で済むので家計にも優しく、先立つものの心配はさほど無用。入試は学科試験はなく、書類選考のみ。更に、これには特典と呼ぶべき優遇措置が付随している。45歳と言えども身分は学生。スクーリングで東京に出向く際は、JRが学割料金の適用を受けれるし、レポート提出の際にも郵便料金が通常より割安になる。また、首尾よく卒業出来た場合、卒業証書(学位授与証)や卒業証明書は「○○大学法学部卒業」となって、通信制の文字は一切入らない。したがって大手を振ってOBを気取れる。まぁ、これはあまり意味がないことだが・・・。要はコツコツと自分のペースで地道に学習を継続できるかがカギで、私は昔から通信教育にあれこれ手は出すものの、長続きしなかった苦い経験がある。さらには今度は仕事をやりながらなので、そうすんなりはいかないだろうが、曖昧模糊ではなく、自分へ明確な目標を与えることは、生活に張りを得られることだし、自分のペースで勉学に励むことができる点では助かる。最長12年まで在籍が可能。この4月より、合計84単位(外国語8単位+専門68単位+卒論8単位)の取得を目指すことになるが、今後、恐らく孤軍奮闘、いや悪戦苦闘になるかもしれないが、熱願冷諦にならぬよう、その模様は適宜、当ブログ内において、ドキュメンタリー形式で状況報告を行いたいと思う。もし同じ経験をされた方がいれば、小生の励みになるものと考える次第なので、コメント等を頂ければ幸甚です。

Pass_1

2010年3月13日 (土)

本日の釣果(2010/3/13)

今日、今年になって待望の初釣りに小名浜へ行きました。しかし、7年間愛用した投げ竿が折れるハプニングや、強風と工事の騒音、釣り餌がそっくり回収の厳しい魚影ゼロに等しい中、夜明け近くに今年初の獲物となる「アイナメ」(33cm)をゲットしました。また、小名浜のT字防波堤の西側先端で釣り場が隣同士だった須賀川から来た「SPARK」さんと1時間ほど話し込み、小名浜のポイントや根の位置、釣り物などの情報交換をした。単独釣行でもいろんな釣り師と親しくなれて嬉しい限りである。2010年シーズンは始まったばかり。今後、釣り場で私を見かけたらどうぞ声を掛けてください。(SUZU)

<本日の釣果> ― 小名浜港 ボッコ灯台 5:15 ショートパック2.1m ブラクリ仕掛け

 Ainame

2010年3月10日 (水)

日本酒天国「福島」

 二日続けての食べ物ネタで恐縮だが、私は度々当ブログで紹介して来た通り、日本酒が大好きである。もちろん好きだからと言って、四六時中酒浸りではないし、あるいは深酒ばかりしている訳ではない。自らを律し、適度に休肝日を設け、嗜む程度にしている。そもそも酒は「百薬の長」として古来から人々の生活にとけ込んで来た。適量を考え自分の体調と相談しながら、季節に応じて様々な種類の日本酒を楽しめるのは日本人に与えられた特権であり、「よくぞ日本人に生まれけり」である。日本酒は「酔っ払いの臭い匂いがするから嫌い」と言って敬遠する人がいるが、それはあまり良い酒を飲まず、安いからと言って大量に飲み干してしまい、結果として悪酔いしてしまうからだ。そしてそれは、本醸造酒に多く使われる醸造用アルコールの臭いでもある。本当に旨い酒は量より質を重視した造りをしている。だから大規模メーカーの大量生産よりも田舎の小さな造り酒屋で丹精込めて醸す、本数限定の希少酒に人気が集中するのも頷ける。私は純米酒や吟醸酒しか飲まない。しかも1回当たりの摂取量は2合を越えることはない。それ以上飲むと、せっかくの良い酒も酔ってしまって、能が麻痺して味覚が利かなくなり、味そのものを楽しむことが出来なくなるからだ。そして私は、日本酒の飲み方にも気を付けている。これは私がしょっちゅう出入りしている酒屋の店員さん(なんと利き酒師の資格を持っている!)から教わった吞み方だ。日本酒はまず、保存状態が最も大事で、これが美味しく味を保つ秘訣で決め手となる。冷酒を間違っても高温多湿の場所に保管してはいけない。そして温度が命。冷やして楽しめる酒、燗にしたほうが美味しく頂ける酒、貯蔵法や醸造法によってそれぞれである。最近は、企業努力で瓶のラベルに、原料米や掛け米、精米歩合、アルコール度数、日本酒度、酸度、アミノ酸度などを表示したり、「美味しい召し上がり方」として冷や・ロック・常温・ぬる燗・熱燗などを丁寧に記載している。では実際の飲み方だが、日本酒はやはり香りとその色を楽しむ。これはワインと同じ。そしてほんの一口だけ含んだら、すぐにゴクンとは飲まず、口の中で(舌の上で)泳がすようにする。するとその酒本来が持つ味と香りが鼻孔を通って脳に伝わり、心地よい気分を誘う。そして舌の位置によって「甘味・酸味・辛味・苦味」などの感覚が異なるので、それぞれ酒の特徴が如実に理解できる。しかし、日本酒は決して舌だけで楽しむのではない。ゴクンと一気に飲み干すのではなく、ゆっくり食道に流し込むようにするのがポイントだそうだ。それを2~3度繰り返せば、味そのものの奥深さに触れられ、量を飲まずとも十分楽しめるのだと言う。日本酒が苦手な人は、日本酒本来のその楽しみ方を知らない人である。そして最近では、合間に水を飲むのが上手な飲み方だと言われている。これは和らぎの水、和みの水と呼ぶのだが、日本酒のグラスやお猪口の隣に美味しい水を用意して、時々飲んで貰いたい。悪酔いを防ぎ、日本酒を更に美味しく味わえる秘訣なのだそうだ。

 更に特筆すべき点は、その効能である。その酒屋さんのホームページに興味深い記事を見つけた。それは、日本酒は美容と健康に最適だというのだ。第一に「体への効能」として、血行を促進し、肩凝りや冷え性を解消してくれる働き。毛細血管の働きを活性化し、入浴やマッサージと同じ筋肉の凝りをほぐしてくれる。 第二に「心への効能」。ストレスが蓄積すると血管は収縮してしまうが、日本酒はアセトアルデヒドとアデノシンが血管を拡張し、体の緊張を和らげ、陽気にかつ元気にさせ、ストレスを上手に解消してくれる。第三は「美容効果」についても言及している。日本酒にはアミノ酸が豊富に含まれ、美肌効果がある。血流が良くなることで毛細血管の先々まで酸素を運び、毛穴も広がり、肌荒れを防いでくれる。そして最後が「上手な活用法」。適量(1日1~2合程度)なら健康の増進、体質改善に大いに役立つというのだ。また、お酒の飲み方は、胃を痛めないようにアルコールの吸収は穏やかに、旬の肴と一緒に召し上がると一層日本酒の味わいが際立つことだろう。まさにそれは、私が日々実践していることを裏付けるものであった。

 さて、私の住む福島県は米どころ、酒どころとして有名である。米の生産量及び収穫高は、日本の穀倉地帯と呼ばれる新潟県がトップで、続いて国土の広い北海道が第2位。以下、第3位がブランド米「あきたこまち」で名高い秋田県、そして我が福島県は、堂々第4位にランキングしている。米と水が美味しい場所は、イコール酒どころという図式が成り立つようだ。例えば、関西の兵庫県は「六甲のおいしい水」がミネラルウォーターになるくらい昔から湧き水の美味さでは天下一品で、その清冽な地下水を汲み上げて古くから酒造りに活かし、「灘の酒」として大いに持て囃された時期があったのは周知の事実だし、蔵元の数も日本国内では屈指であろう。

 ところで、日本酒を醸している酒蔵は、全国酒蔵名簿2009年版によると1,709社ほど存在する。ここでデータをひとつ紹介しよう。日本国内で蔵元の数が多い都道府県10傑を挙げると、以下の通りである。

  1. 新潟県 96社     6.  広島県  60社
  2. 長野県 90社     7.  山形県  57社
  3. 兵庫県 87社     8.  茨城県  56社   
  4. 福島県 77社     9.  岐阜県  55社  
  5. 福岡県 63社      9. 岡山県   55社

 そして、各社それぞれに、少なくとも5種類以上の特定銘柄を仕込み、市場に販売しているから、品種は優に1万を越えるだろう。その中から、「自分の舌に合う、自分好みの理想の酒」を探し出すのは至難の業だ。入手困難な地方の酒(地酒)などは、一生かかってもありつけないプレミアになってしまっている物さえある。そこで、その年の日本酒の出来不出来の具合を測る上で、バロメーター(尺度)のひとつになり得そうな物が、例年5月に行われる「全国新酒鑑評会」である。この鑑評会は、国の機関である独立行政法人。酒類総合研究所が、酒の研究と酒蔵の奨励を目的に明治44年から始めたもので、平成20酒造年度(平成21年開催)で通算97回を迎えた、歴史的にもかなり古いものである。近年は、金賞を受賞すると、「確かな味の保証」の折り紙つきを貰え、その銘柄の売れ行きが上がる為、参加蔵元が大手メーカーを含め大規模化した。まさに日本酒の質を競い合う「全国コンクール」と言えるほどの存在価値があるようだ。実は、この鑑評会、かなり厳しい基準をクリアし、審査を勝ち抜かなければならない。吟醸酒部門のみの出品で、Ⅰ部(原料米として山田錦以外の品種を単独または併用、あるいは山田錦の使用割合が原料の50%以下で製造した吟醸酒)とⅡ部(原料米として山田錦の品種を単独または山田錦の使用割合が、原料の50%を超えて製造した吟醸酒)があるのだが、まず、あたかも高校野球のような予選会なるものが存在する。全国に11箇所ある国税局の中で行われる。ここを通過した厳選された日本酒が本選に当たる全国大会(つまりは全国新酒鑑評会)へと進出できる。しかしここまでは単に全国新酒鑑評会に出品できる権利を得たに過ぎない。入賞や金賞への道のりはまだまだ険しい。そこで更に予審があって、それにパスした物だけが入賞酒となり、決審でとくに優秀だと認められた酒が金賞酒となる。1~10位などのような序列は付けないことになっている。何故なら酒は元々嗜好品であり、人によって味や好みがまちまちであることから、順位自体つけようがないのだ。だから逆から言うと、あまり癖がなくて万人受けしそうな酒が上位に入る傾向があるのは否定できない事実である。更に、その審査に当たるのは少数の審査員なので、吟味する人の趣向もかなり影響される。特に決審では、時代背景やその年の流行に合致しているかどうかも審査基準のひとつになっている。そのために、金賞を獲得するような酒は、酒造りの技術に加え、流行の味を兼ね備えたお酒ということになる。流行する酒とは、その年の景気動向と相関があり、経済状況や雇用が良い時は、飽きが来ない何杯でも飲める淡麗辛口の系統が、不景気になると、懐具合を反映して、少量でも満足満足できる芳醇旨口の系統が主流になる傾向がある。従って、ここ数年来は我が福島県が生んだ超人気酒「飛露喜」のような酒が持て囃されることになるのも頷けよう。

 さて、我が福島県は、3年ほど前から金賞獲得数で日本一に輝いたり、一昨年、昨年と金賞数では新潟県や山形県に次いで第2位ながら、出品数に対する金賞獲得率では、堂々全国No.1を堅持している。新潟県は出品数が福島県に比べて、かなり多いので味の確かさでは実質的に日本一と言って過言ではない。ちなみに平成18酒造年度は金賞獲得数が21銘柄、19酒造年度は17銘柄、20酒造年度は18銘柄と、他県に比べても群を抜いた数値を残している。私は、そんな「酒どころ福島県」に生まれたことを誇りに思う。私の酒好きの遍歴については、5月以降、度々当ブログで紹介手して来たので、ここでは割愛したい。

 このHPをご覧になりたい方は http://www.nrib.go.jp/kan/h20by/h20bymoku_top.htmをクリックしてほしいと思う。

 ここ一週間、福島民報の郡山版では、「地酒と食の祭典 参戦!ふくしまの春の陣 倉元紹介」と題された記事が掲載され、思わずスクラップしてしまった。では最後に、それに準じて我が福島県を代表する蔵元名とその代表的な銘柄を紹介して結びとしたい。(福島県の蔵元67軒はとても紹介しきれないので、私が自分の舌と味覚で選んだ20蔵元について厳選した上で掲載したい。順不同)

  •  曙酒造株式会社(会津坂下町)・・・・・・「天明」「一生青春」「掌玉」
  •  小原酒造株式会社(喜多方市)・・・・・・「蔵粋」(マイストロ・交響曲・管弦楽・協奏曲)
  •  末廣酒造株式会社(会津若松市)・・・・「奈良萬」「末廣」「玄宰」「舞」
  •  國権酒造株式会社(南会津町)・・・・・・「大吟醸」「俺の出番」「道一筋」「宵まち」「てふ」「春一番」等
  •  花泉酒造合名会社(南会津南郷村)・・「花泉」(原酒・本醸造・本醸造辛口)
  •  大七酒造株式会社(二本松市)・・・・・・「箕輪門」「生酛」(辛口・ひやおろし)
  •  合資会社廣木酒造本店(会津坂下町)「泉川」「飛露喜」
  •  名倉山酒造株式会社(会津若松市)・・「月弓」「名倉山大吟醸」
  •  榮川酒造株式会社(会津若松市)・・・・「榮川」「榮四郎」
  •  辰泉酒造株式会社(会津若松市)・・・・「京の華」純米大吟醸
  •  有限会社仁井田本家(郡山市)・・・・・・「穏」「金寶」「自然酒」「たまご酒」
  •  有限会社渡辺酒造本店(郡山市)・・・・「雪小町」(大吟醸原酒)「疏水紀行」「あさか舞」
  •  若関酒造株式会社(郡山市)・・・・・・・・「さかみずき」(純米大吟醸)
  •  笹の川酒造株式会社(郡山市)・・・・・・「袋吊り」「開成」「すべて山田錦」「壺中有天」等
  •  稲川酒造店(猪苗代町)・・・・・・・・・・・・「純米吟醸無濾過原酒七重郎」
  •  白井酒造店(会津美里町)・・・・・・・・・・「萬代芳」
  •  開當男山酒造株式会社(南会津町)・・「開當男山」(大吟醸)「辛口男山」
  •  豊国酒造合資会社(会津坂下町)・・・・「學十郎」
  •  鶴乃江酒造株式会社(会津若松市)・・「会津中将」(純米酒)
  •  高橋庄作酒造店(会津若松市)・・・・・・「会津娘」(純米酒)

  * あくまで独断と偏見で無作為に私好みの酒を醸している蔵元を紹介しました。

Tenmei    

 

2010年3月 7日 (日)

女子アナ花盛り!

 最近は年をとったのか、睡眠時間がやたらと減った。6時間寝れば十分。そして釣りをやるようになってからは早起き(徹夜に近い)になった。ブログを始めてからはあまりテレビを見なくなったが、朝一番でやっている「めざましテレビ」は、毎朝の必需品(ビタミン剤)となっている。その中で、ひとつ気づくことは、女子アナはもしかして顔で採用しているのかと思えるほど綺麗系・可愛い系が多い。特にフジテレビはその傾向が強い。女子アナ好感度No.1を5年連続で獲得して殿堂入りを果たした高島彩を始め、お天気レポーターから昇格した皆藤愛子(愛ちゃんはアナウンサーではない)、3年目の生野陽子アナ、そして我が愛しきお天気リポーターの長野美郷など、朝の顔に相応しいような爽やか系と愛くるしい笑顔を振りまく秀逸した人材ばかりを適所に配している。ところで、芸能人の血液型は、その9割以上が既に私の頭脳にインプットされているが、女子アナの血液型と出身大学にはある共通項や不文律が存在するのがわかった。今回は、女子アナについてスポットを当て、東京をキーステーションとする民放に限定し、各局ごとの特徴やその魅力と不思議について探ってみたい。大勢いるのでフジを除き各局5人ずつに限定したい。

Nishio  まずはチャンネルが若い順で、日本テレビ(NTV)から。日本テレビの局の顔と言えば西尾由佳理アナ。彼女は血液型がO型で、千葉県出身で東京女子大学を卒業。良妻賢母で内に闘志を秘めるタイプ。身長が161cmある。(何かストーカーっぽくなって来たので情報はここまで)担当番組は「ズームインSUPER」や「世界まる見え!特捜部」などで、つい先日開催の東京マラソンに出場して完走を果たした。存在感はピカイチ。二人目は山本舞衣子アナ。彼女は何と東京大学医学部卒業の才媛。横浜市出身で、血液型は天真爛漫なB型。なんとなくわかる。知的好奇心の塊で、凝り性っぽい。頭が良いのに、ジャンルを選ばないマイペース肌で、バラエティ好き。ズームインSUPERでは「マイ☆トレ」に出演し、家電情報やお役立ち便利グッズを紹介して来た。私としては彼女の出番が情報リポーター的扱いが多く、露出度が少ないのが不満だ。三人目は馬場典子アナ。彼女は東京都豊島区出身のO型。早稲田大学卒業で、「おもいっきりDON!」や「SUPER SURPRISE」に出演している。お昼の顔という印象がある。四人目は夏目三久アナ。彼女は大阪府出身でO型。東京外国語大を卒業している。主な担当は、「笑ってこらえて!」や「日テレNEWS24」などである。屈託のない笑顔で、親しみのもてる性格を醸し出している。最後は佐藤良子アナ。山口県出身のO型で、東京外国語大卒である。「所さんの目がテン!」や「The サンデー NEXT」のアシスタント役を務めている。カーリングの「チーム青森」のメンバーにいそうな容姿をしている。

 日テレ所属の女子アナを調べたところ、全員で22名いるが、血液型O型が9名と断トツで多く、41%を占めた。次いでB型の6名(27%)、日本人に一番多いA型は4名(18%)と少なく、AB型は3名(15%)であった。何とOとBで7割近くに上った。B型はバラエティ向きで、固定概念を嫌う性格のため、原稿の棒読みは苦手とされ、どちらかと言えばアドリブの能力が卓越しているからだろう。そして出身大学だが、早稲田が5名(22.7%)でトップ、次いで慶應3名、東京外大と東京女子大が2名ずつ。他に東大、上智、大阪大、立教、明治、学習院、青山学院、明治学院、専修、東洋がそれぞれ1名ずつという結果だった。日本テレビはかつては徳光さんなど立教大が勢力を保ったが、男性アナを見ても明らかに早稲田学閥人事(羽鳥・河村など)である。残念なことに米森麻美アナ、大杉(鈴木)君江(AB型)アナと立て続けに若くして亡くなったのが悼まれる。合掌。ん~ますます女子アナオタクっぽくなって来た。

Aoki  次は「6」チャンネルのTBS(東京放送)。昔は三雲孝江(O型)や雨宮塔子(O型)、進藤晶子(O型)が局の顔だった。なぜか代表的な女子アナはO型が多い。今は青木裕子、木村郁美、高畑百合子らが露出度が高いようだ。TBSはどちらかと言えば堅くて、JNN(ニュース)に代表される通り、「報道」が主体のテレビ局という先行イメージが強い。前置きはそのくらいにして、早速順追って代表的な女子アナを5人ほど紹介しよう。まずは若手の代表格・青木裕子アナ。彼女は東京都出身のAB型である。細身で172.5cmの長身を持ち、スタイルは抜群。ああ見えても慶應大学を卒業している。今や彼女の代名詞ともなった「サンデージャポン」にメインキャスターとして登場。西川史子との小競り合いは毎回見ものだ。二人目は岡村仁美アナ。彼女は何と東京大学を卒業した頭脳明晰な才媛。色白でクリっとした大きな瞳とエクボがチャームポイント。神奈川県出身のA型で、167cmとこちらも背が高い。「総力報道! THE NEWS」や「報道特集 NEXT」など報道系番組にはなくてはならない存在となっている。三人目は木村郁美アナ。私生活ではいろいろあったが、数年前までは人気・実力とも局の顔と呼ぶべき存在だった。東京都出身でアメリカの高校と学習院大学を卒業した帰国子女。故に英語は堪能。血液型はA型。主な出演番組は、「TBSレビュー」。四人目は久保田智子アナ。広島県出身のA型で、「みのもんたの朝ズバッ!」や「報道特集NEXT」に出演している。東京外国語大学卒業。最後は「朝ズバッ!」のスポーツコーナーの顔、高畑百合子アナ。彼女も東京都出身のA型で明治大学を卒業した。番組当初はぎこちなかったが、長くコンビを組むうち、みのもんたの突っ込みをうまく交わせるようになった。彼女はK-1リポートや選手へのインタビューなどスポーツ系アナという印象が強い。あともう一人忘れてはならない人がいる。彼女はTBSのアナウンサーではないが、お天気リポーターの根本美緒である。もともとJNN系列の東北放送の女子アナだったが、退社してフリーになった。ベビーフェイスのあどけない笑顔が愛くるしい。笑うと目が無くなりそうなタレ下がった目と丸い顔がチャームポイント。彼女は東京都中央区の出身で慶應大学を卒業したB型である。最近おめでたの報道があったばかりである。

 さて、TBS所属の女子アナを調査したところ、日本テレビとは対照的な事実が判明した。全部で26名の女性アナウンサーがいるが、血液型別ではA型が13人と半分を占めた。次いでO型6名、B型4名、AB型3名の順。これは意外だった。これは気難しく、真面目な性質が売りのニュース報道に於いては、完璧主義者の多いこの型は打ってつけの存在。出身校を見ても早稲田学閥の日テレとは異なり、こちらはライバル慶應学閥が支配している。慶應大が6名(23%)、次いで上智と青学、学習院、東京外大、明治大が2名ずつ、その他、東京大、早稲田、東洋英和女学院、お茶の水女子大、国際基督教大、立命館、法政、立教、一橋大、成城が各1名ずつとなっている。血液型と出身大学で面白いように特徴が分かれる。機転を利かせることが求められるアナウンサーは、いずれにしても賢くなければ務まらない職業のようだ。ひとつ残念だったのが、川田亜子(O型)さんが車内にて練炭自殺をしてこの世を去ったことだった。合掌。

Takashima  次は、私が学生の頃から大のお気に入りの放送局、「8チャンネル」のフジテレビ。このフジテレビの女性アナは、何と業界断トツの40名が所属する大所帯である。従って、フジテレビだけは、代表的な女子アナを10名紹介したい。まず、フジの顔と言えばこの女性を抜きには語れない。高島彩アナである。彼女は東京都出身でB型。成蹊大学を卒業した。朝の情報番組からバラエティ番組の司会、クイズ番組まで広くこなす超売れっ子で、休む暇さえないくらい多忙な毎日を送っている。彼女のアシスタントとしての能力は他の追随を許さないくらい卓越している。咄嗟の判断力に長け、切り返しや場に応じた言葉選びが適切で即答できる。天賦の才能を有している。彼女は三十路を過ぎたが、いつまでも愛嬌があってチャーミングで好感が持てる。「女子アナ好感度No.1」において5連覇を達成し、殿堂入りを果たしたのも頷ける。自分の確固たる信念や世界観を有し、決して無理に自分を取り繕わずに素のままで率直に自分を曝け出しているのも魅力の一つだろう。担当は「めざましテレビ」「熱血!平成教育学院」「エチカの鏡」など。二人目はもちろん、高島の大親友の中野美奈子アナ。彼女は香川県の名門丸亀高校出身で、慶應大学に指定校推薦で合格し、卒業した。在学時はミス慶應に君臨していた。やはり血液型はB型。佐々木恭子アナの産休に伴い、「めざましテレビ」から「とくダネ!」に鞍替えした。自己中が過ぎる所は玉に疵だが、女子アナカレンダーの製作にはカメラマンとして奮闘した。てきぱきした歯に衣を着せぬアナウンサーらしからぬ語り口調とアクティブな行動力は称賛に値する。高島とのコンビは「あみん」の「待つわ」で結実?槇原敬之プロデュースの「アーリーバード」というユニットを結成し、CDまで発売した。フジの看板女子アナのひとり。三人目は「クイズ!ヘキサゴンⅡ」のアシスタントでお馴染みの中村仁美アナ。神奈川県出身のAB型。冷静沈着な物腰とお茶の水女子大を卒業した頭脳明晰さが売り。担当は他に「爆笑!レッドカーペット」など。ナレーションも訳なくこなしている。四人目は石本沙織アナ。歌が滅茶苦茶上手。O型は元来、声の通りが良いが彼女も同型。富山県出身で、早稲田大学在学中はチアリーダーとして活躍した。そのアクティブさを買われ、スポーツキャスターを務めることが多い。五人目は私も大好きな癒し系松尾翠アナ。彼女は千葉県出身で日本女子大学を卒業した。血液型はO型。見るからに甘えん坊な印象で、可愛い系の典型だ。陰日向無く、いつも明るい笑顔をお茶の間に振りまいている。旅情報番組やグルメのリポーターを務めることが自然と多くなった。代表は「めざまし土曜日」の「めざカルチャ」のコーナーである。どこにでもいそうな妹的な感じがウケている。次に紹介する同期入社の本田朋子アナと仲が良い。六人目はその本田朋子アナ。四国は愛媛県の出身で、立教大学を卒業した。血液型はB型。担当は「すぽると」や「ペケポン」のアシスタントとして活躍している。同じ四国でB型同士の「中み~」と似ているような気がする。七人目は長野翼アナ。清楚で端正な顔立ちと落ち着いた物腰は報道にぴったり。彼女は愛媛県出身のA型。早稲田大学を卒業した。横浜ベイスターズの内川選手との結婚が秒読み。美人で優しいお姉さんというイメージが滲み出て、癒してくれそうな雰囲気の持ち主である。担当は「FNNスーパーニュース」のキャスターである。八人目は若手のホープで、特に芸人からの人気が高い平井理央アナ。彼女は東京都出身で、慶應大学卒業。血液型はA型。えくぼがチャームポイントの甘ったるい顔からは想像もできないほど性格はシビア。先輩アナをいじめる荒技の持ち主。強がりで、口が悪い癖があって、結構きついこともあるが、小悪魔的な魅力に溢れている。男ウケしそうな雰囲気を持っている。アナウンサーになる前もテレビには結構出ていた。深夜放送の「すぽると」のキャスターや「ジャーなる!」など。九人目は加藤綾子アナ。彼女はアナウンサーとしては異色の国立音楽大卒業。埼玉県出身でO型である。まだ2年目の新進気鋭さとあどけなさが残っている。ジグロなのか健康的な印象がある。担当は、「まざましどようび」や「めざにゅ~」などで、F1のナビゲーターも務めている。屈託のない笑顔は将来の大物を予感させる。多少早とちりしそうなおっちょこちょいの面があってハラハラさせるが、それもあばたもえくぼなのだろう。そしてラストを飾るのは、期待料を込めて松村未央アナ。神奈川県出身で慶應大卒。血液型はA型。顔がベビーフェイス系なのとお嬢様風の雰囲気を合わせ持っている。彼女を画面で見ると何故か「ドキンちゃん」を想像してしまう。担当は朝イチの「めざにゅ~」と「ミオパン」。今後担当番組が増え、テレビへの出演が多くなることを願っている一人だ。どこにでもいそうな(コンパにひとりはいそうな)感じがウケそうだ。

 以上10名を挙げたが、他にも斎藤舞子や遠藤玲子、宮瀬茉祐子、高橋真麻、大島由香里、生野陽子、椿原慶子など、顔を良く知っている身近な存在の女子アナが目白押し。フジテレビは昔からアットホームな雰囲気を醸し出しているからだろう。アナウンサーが番組にしょっちゅう顔を出すので、親しみが沸く。「アナログ」や「アナバン」を毎週見ていたせいか、自然と多くの情報を知っている自分にも驚き。私が発見したのだが、フジテレビの女子アナはタレ目の人が多い気がするのは気のせいだろうか?フジテレビの女子アナの統計を見ると、癒し効果を与えてくれるO型が16名(40%)で一番多い。次いでA型が12名(30%)、B型とAB型が共に6名(15%)ずつでAB型が多いという意外な結果が出た。高島彩に代表されるようにB型のフジという私の固定観念は脆くも崩れ去った。また、出身大学を見ると、TBSと同様、女子アナの定番とも言えそうな慶應大学が8名(20%でつまり5人に一人は慶應卒)と断トツ。以下、上智大学が5名、早稲田が4名、日本女子大が3名、成蹊と立教と成城が各2名ずつ、そして法政、山形大、横浜国立大、東京学芸大、東京大、お茶の水女子大、国立音大、福岡大、フェリス女学院大、学習院大、津田塾大、聖心女子大、青山学院大、東京女子大が1名ずつだった。

 ことについでに局アナではないが、フジテレビに所縁の私がファンの二人を紹介しよう。まずは「愛ちゃん」こと皆藤愛子。彼女は千葉県四街道市出身で、早稲田大学第一文学部を卒業した。セントフォース所属のタレントだが、現在はフジテレビと専属契約を結んでいる。「めざましテレビ」では「お天気お姉さん」を卒業し、現在はエンタメコーナーを担当している。毎朝、仕事へ行く前に彼女の笑顔に癒されている方も多いのではないだろうか。血液型はB型。そしてもう一人。去年の春から愛ちゃんに代わって「めざましテレビ」のお天気を伝えている長野美郷。愛知県みよし市出身の彼女は上智大学経済学部を卒業したばかりの才媛である。愛ちゃんと同じセントフォースという事務所に所属している。私が一番熱を上げている女性である。自分のパソコンの壁紙も職場の人眼を憚らずアップの彼女の笑顔の画像を掲載している。学生時代に先輩からの言葉で踏ん切りがついて、お天気キャスター募集のオーディションに応募したのが、この世界へ入ったきっかけ。血液型はO型。2006年の上智大学ミスキャンパスに選ばれた。とにかく可愛くて今後、どんどんメジャーになって行くことだろう。

Dou  続いて10チャンネルの「テレビ朝日」。テレ朝の顔と呼べる女子アナは今イチピンと来ない。アナウンサーがメインの番組はニュースくらいしか思いつかない。ミュージックステーションの歴代アシスタントや「Qさま!」に登場するくらいしか思い浮かばない。民放では私が一番見ないテレビ局だからかもしれない。故に若手中心を基準に、敢えて5人を選ぶことにする。まずは堂真理子アナ。彼女は東京都出身で青山学院大学を卒業。血液型はA型。主な担当番組は「やじうまプラス」と「なにコレ珍百景」など。昔、新人アナの登竜門として「ミュージックステーション」でアシスタントを務めてから人気が急上昇した。彼女もフジテレビにいればもっとメジャーになれたと思う。二人目は大木優紀アナ。東京都出身で慶應大学を卒業した。血液型はA型。その高学歴からよく「Qさま!」に解答者として駆り出されることが多い。彼女はとにかくキュートな魅力に溢れている。思わず守ってあげたいタイプだろう。担当番組は「やじうまプラス」「もらえるテレビ!」「シルシルミシル」。三人目は武内絵美アナ。東京都出身で東洋英和女学院大学卒業。血液型はバイタリティ溢れるそのキャラそのままにO型。明るく元気印が好印象を与え、報道ステーションのスポーツを担当している。同局アナの大先輩の宮嶋泰子さんとイメージが重なる。そして四人目は、若手のホープの竹内由恵。血液型はO型。東京学芸大付属高校から慶應大学の法学部へ進み、卒業したエリートコースを歩いた秀才。現在、「ミュージックステーション」のアシスタントを務めている。何と彼女は出生地は東京都だが、帰国子女で、英語はお手のもの。一度別の番組の対談で対話しているのを聞いたが、発音やフレーズはネイティブそのもの。担当は他に「やべっちFC」。ラストは、フレッシュな宇賀なつみアナ。彼女はお天気おねえさんの印象が強いが、れっきとしたアナウンサーだ。まだ入社一年目ながら報道ステーションに毎日レギュラー出演している。メインキャスターの古館一郎と同じ立教大学卒業。血液型はA型(当初は未公表)で東京都出身。これ以外にも小柄で可愛らしい松尾由美子アナ、アクティブ少女の前田有紀アナ、先代ミュージックステーションのアシスタント下平さやかアナ、報道ステーションでアシスタント役の上山千穂アナ、石井希和アナ、そして矢島悠子アナなどが頻繁に画面に登場する。

 ではテレ朝の女子アナの統計を見てみたい。所属は総勢27名。血液型はA型が10名(37%)で最も多く、次いで0型の6名(22%)、そしてB型5名、AB型は1名のみ。出身校別では慶應がやはり強く、6名。次いで青山学院の3名、以下立教、お茶の水女子大が2名ずつ、東洋英和女学院、聖心女子大、東京女子大、フェリス女学院、日本女子大、東京外大、中央大、学習院、京都大が各1名ずつとなっている。このテレ朝の公式HPには、アナウンサーの血液型が掲載されておらず、調べるのにひと苦労だった。しかしながら、テレ朝は昔から社風があまり私の肌に合わない。好んで見ていた番組は少ない。「ワールドプロレス」と「欽どこ」、「必殺シリーズ」ぐらいか?マイナーな感じが抜け切れていない。特に、以前にもブログで書いたが、テレ朝の男性アナのしゃべり方といかつい表情が嫌いだ。古館一郎のプロレス中継に感化されたような逐一オーバーなイントネーションがどうしても感に障り、性に合わないのだ。

Ohashi  ラストを飾るのは12チャンネルのTV TOKYO(テレビ東京)だ。ここは地方ではネットしていないので、土日にまとめて放送しているだけに過ぎない。流している主な番組は「開運なんでも鑑定団」「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」「いい旅夢気分」「テレビチャンピオンズ」「完成ドリームハウス」「ポケモン」「出没!アド街ック天国」「田舎に泊まろう」「ザ・フィッシング」「和風総本家」「ケロロ軍曹」「世界を変える日本人」「遊戯王」「ドライブAGO AGO」などである。従ってテレ東の女子アナと言っても私は二人しか知らない。大橋未歩アナと大江麻理子アナだ。残り三人は、画像を見て、私の個人的趣味と好みで選びたい。まず、テレ東の顔は間違いなくこの人だろう。大橋未歩アナだ。兵庫県出身で16歳の時に阪神淡路大震災を経験し、九死に一生を得た経歴の持ち主。上智大学卒業のB型。彼女は初めて見た時、高島彩アナに似ていると思い、区別がつかなかった。可愛い系である。そして元ヤクルトの城石憲之選手と結婚した。主な担当は、「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」や「やりすぎコージー」である。二人目は、大江麻理子アナ。ご存知「出没!アド街ック天国」のアシスタントとして活躍中。彼女は福岡県出身のAB型だ。フェリス女学院を卒業。他には「モヤモヤさま~ず2」など。三人目は相内優香アナ。彼女は群馬県出身で立教大学卒。血液はO型。美人でお色気もたっぷり。主な担当は「世界を変える100人の日本人」「neo sports」など。四人目は大竹佐知アナ。彼女もまた群馬県出身で法政大学を卒業した血液型はA型。彼女は昨年、ヤクルトの青木宣親選手と結婚したばかり。プロ野球選手と女子アナの結婚の典型例のご多分に漏れなかった。「neo sports」や「ウィニング競馬」などを担当している。ラストは松丸友紀アナ。彼女は東京都出身の青山学院大学を卒業した。血液型はA型である。主な担当は「世界を変える100人の日本人」、「ゴッドタン」など。

 テレビ東京の所属女子アナは総勢17名。血液型別にみるとA型が6名、O型とB型が4名ずつ、そしてAB型は3名という結果だった。そして出身大学別に見ると慶應大と学習院大が3名ずつ、早稲田大と上智大が2名ずつ、その他は成城大、立教大、法政大、青学大、国際基督教大、千葉大、フェリス女学院大が1名ずつだった。

 以上見て来たように、各局ごとの興味深いデータが得られたと思う。女子アナは慶應大学出身者が多いことと、この職種はB型社会かと思いきや実際はO型が多数を占めるようだ。しかし、好感度調査の結果では、B型が圧倒的に上位を占めている。これは情報バラエティに数多く出演して顔を売る一方で、アドリブ上手で機転が利くからだと推測出来る。反面、A型のアナは報道をやらせたら右に出る者はいないだろう。男性でも堅いイメージのアナウンサーはニュース報道には欠かせなかった。例えば、ニュースの顔だった小林完吾、露木茂、久米宏、池上彰、須田哲夫らはA型である。バラエティに多く出演したB型男性は、徳光和夫、土井まさる、安東弘樹ら。O型は社交性に長けている分、総合エンターティナー番組の司会進行やスポーツの実況に向く。福澤朗、松下賢次、軽部真一、三宅政治など。AB型はそつがない応対がピカイチなので、助手やアシスタントをやらせれば完璧に対応できる。また、女子アナウンサーの共通項として、色白で瞳が大きく、長身の人が多いのが特徴となっている。以前と比べて、カメラ映りが良く、見栄えのする洗練された、端正で美形な顔立ちの人を多く採用しているように思えてならない。

 在京キーステーションの女子アナの総計は127名。血液型別ではA型が最も多く、45名(35.4%)、日本人全体でA型は39%なのでマイナス4%。O型は41名(32.2%)、日本人全体でO型は29%なのでプラス3%。B型は25名(19.6%)、日本人全体で22%なのでマイナス3%、最後はAB型で16名(12.5%)、AB型は日本人全体で10%だからプラス2.5%となった。故に人口比率でみると、O型の女子アナがこの業界を牛耳っているという調査結果となった。そして出身大学で見ればベスト5は次の通りとなった。第1位 慶應義塾大学26名(20%) 第2位 早稲田大学12名(9%) 第3位 青山学院大学8名(6%) 第4位 学習院大学7名(5.5%) 第5位 立教大学6名(4.7%)

 ところで、何故私が今回、このような女子アナと血液型の相関を分析したかと言うと、私達が普段、何気に見ているテレビ番組は、不思議な法則があるのだ。それは総合エンターティメントやバラエティ番組のMCは、一流芸人と局アナの組み合わせが多い。その関係を詳しく調べてみると、同じ血液型同士でコンビを組ませる例が圧倒的に多い。そしてそこに登場するゲスト陣などの出演者にも同じ血液型を集める傾向がある。司会の適役は相場が大体決まっている。タモリ・明石家さんま、ビートたけしの大御所ビッグ3に加え、最近は飛ぶ鳥を落とす勢いの島田紳助、所ジョージ、そして昔から有名どころは関口宏とみのもんた、堺正章らあたりだろう。私が好んで見ている番組について探ってみると、まず「サンデーモーニング」の司会は関口宏(A型)だが、アシスタントは橋谷能理子(O型)、滝本沙奈(A型)、柴田奈津子(A型)という組み合わせ。「噂の東京マガジン」は、森本毅郎(A型)と小島奈津子(A型)のペア。「世界まる見え!特捜部」の所ジョージ(O型)は西尾由佳理(O型)とのコンビ。「所さんの目がテン!」では所ジョージ(O型)と佐藤良子(O型)のO-Oコンビ。「がっちりマンデー!」は加藤浩次(O型)と進藤晶子(O型)のペア。「朝ズバッ」のみのもんた(A型)は久保田智子(A型)、高畑百合子(A型)の同型同士。「チューボーですよ!」の堺正章(A型)は小林麻耶(A型)の組み合わせ。「平成教育学院」のユースケサンタマリア(B型)は高島彩(B型)とのコンビ。「めざましテレビ」は大塚範一(B型)と高島彩(B型)の親子のような年の差コンビ。そして「とくダネ!」は小倉智昭(B型)と中野美奈子(B型)、「クイズヘキサゴンⅡ」では島田紳助(AB型)と中村仁美(AB型)の珍しいAB型同士。「ジャンクスポーツ」では、浜田雅功(A型)と内田恭子(A型)となっている。もともとA型とB型は、犬猿の仲で相性が悪い。性格も行動も対極に位置する両型は、お互いがプラス同士で衝突しやすい。意見の対立や亀裂を生みだしやすいのだ。従ってその緩衝材となるO型が必要となる。O型は、もともとAOとBOの2つの型を持っており、どちらにも合わせることが可能なのだ。O型が優柔不断とか八方美人と言われる傾向があるのはその為なのだ。A-Oの組み合わせは「王様のブランチ」の谷原章介と優香、「天才志村動物園」の志村けんと山瀬まみ、「ズームインSUPER」の羽鳥慎一と西尾由佳理、「エンタの神様」の福澤朗と白石美帆のコンビが挙げられる。また、B-Oのコンビは「おもいっきりDON!」の中山秀征と馬場典子、「エチカの鏡」のタモリと高島彩、「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」の所ジョージと大橋未歩がそうである。一方、出演者の傾向を見てみれば、和田アキ子(O型)の「アッコにおまかせ!」では出演者は峰竜太を始め、安田美沙子などO型で占める傾向あり。「さんまのス-パーカラクリTV」では、浅田美代子や小倉優子、長嶋一茂などやはり明石家さんま(B型)と同じB型の解答者を配置する傾向が見られる。恐らく調べれば、ドラマに於いても似たような傾向があるのではないかと思っている。 

 各テレビ局がここまで相性を考慮して人選を行っているとは思えないが、「類は友を呼ぶ」的な発想から自然とそういう傾向に収まるのだろう。番組の種類(ものまねバラエティ・情報番組・トーク中心など)で使い分けはあるだろうが、盛り上げや落とし所を考えれば同型のほうが、スタッフも扱いやすいのかもしれない。では最後に、毎年恒例の11月に調査発表される「女子アナ好感度ベスト10」をお送りして結びとしたい。

   高島彩(フジ) 殿堂入り(5年連続1位) B型

 1.中野美奈子(フジ)      B型   13.0%      慶應義塾大学卒     
 2.西尾由佳理(日テレ)     O型   10.3%    東京女子大学卒  
 3.皆藤愛子(フリー)       B型    4.9%   早稲田大学卒
 4.滝川クリステル(フリー)  AB型     4.1%   青山学院大学     
 5.小林麻央(フリー)       A型    4.0%   上智大学卒   
 6.小林麻耶(元TBS→フリー)  A型    3.5%   青山学院大学卒              
 7.堂真理子(テレ朝)       A型   3.0%   青山学院大学卒           
 8.平井理央(フジ)        A型    2.9%   慶應義塾大学卒            
 9.生野陽子(フジ)        O型    2.7%   福岡大学卒業                 
10.前田有紀(テレ朝)      B型   2.2%   慶應義塾大学卒  

2010年3月 6日 (土)

鉄道の「来し方行く末」(鉄道事情考)

 今、時代は21世紀である。東京五輪開催年に生を受けた私にとって、36年後の21世紀の未来は、かつて漫画家の手塚治虫が描いたように、さぞかし「ユートピア」に相応しいような光り輝く希望に満ちた世界が広がっているものと思われた。例えば、車やバスは上空を飛び交い、透明なカプセルの中をリニアモーターカーが疾走し、人はベルトコンベアーに乗って移動する。家庭生活では、家事全般をロボットが行い、ガンなどは特効薬が開発され、不治の病ではなくなっていると思っていた。しかし、その21世紀も10年が経過し、蓋を開けてみれば、確かにコンピューターなどの科学技術は日進月歩、飛躍的で目覚ましい進歩を遂げたが、我々の暮らし自体はさほど変わり映えしないものとなっている。特に、交通事情は「交通戦争」と呼ばれた頃から考えても、相も変わらず、交通事故で亡くなる人が高齢者を中心として後を絶たない現状だし、鉄道に目を転じても、開業から45年を経た今でも、全国に新幹線すら整備されていない旧態依然のお寒い事情である。1985年頃のバブル景気がその後も続いていれば、もしかしたら世の中はガラリと様相を異にしていたかもしれないが、所詮先立つものは金であって、財源が見込めない以上は、地方に一筋の光明を当て、列島改造ムードに沸いた1970年代の再来とはなかなかいかないようである。そういう訳で、今回はバブル崩壊で20年は遅れたと言われるリニア開発までの鉄道史の変遷を辿り、現状を踏まえ、問題点を浮き彫りにした上で、今後の行く末にスポットを当てて考察してみたい。

Sl  まずはその黎明期。言わずもがな、18世紀から19世紀にかけ、イギリスで産業革命が起こり、工場制機械工業が導入され、大規模産業と社会構造の変革があった。通説では、初期の軽工業中心の頃を「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼んでいる。産業の発達によって、労働力の需要が増し、雇用も改善された。いわゆる労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。やがて、1804年に英国のリチャード・トレビシックなる人物が、世界初の軌道上を走る蒸気機関車(SL)を製作した。その後、ジョージ・スチーブンソンによって改良が加えられ、1830年にリバプール&マンチェスター鉄道として開業し、実用化された。これがそもそもの事の発端である。そして日本に渡来したアメリカ人や英国人によって、蒸気機関車の存在が世に伝わり、明治維新後に敷設計画が本格化した。その鉄道敷設計画に基づき明治5年(1872年)、新橋(現在は廃止された汐留貨物駅)~横浜(現:桜木町)間に、日本が初めて建設した旅客鉄道が開業した。新橋駅前にSLがあるのは日本の鉄道発祥の地だからである。しかし、当時は29kmを53分で結び、最初に蒸気関車が走る雄姿を目の当たりにした当時の人々は、想像を絶するほどどでかい鉄の箱(塊)が、人力に頼らずに走る光景に驚きながらも、吐き出す煙と騒音の凄まじさからあまり評判は良くなかったようだ。また、実際、人が走る速度(表定速度は32.8km/h)とたいして相違ないことから、高すぎる運賃を払ってまで好んで乗車する客はいなかった。開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったが、下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであったという。庶民には所詮高嶺の花で、一部特権階級の贅沢として扱われたようだ。最初は半官半民の「日本鉄道」が主体となり、建設を行って、鉄道網を拡張していったが、政府の保護を受けた5大私鉄がそのキャススティングボードを握り、イニシアチブを担った。そして全国の地方へと敷設を進めていった。北海道では、その開拓に数多くの囚人を駆りだし、言語を絶する気象条件の下、あまりにも過酷な強制労働を強いたとの記録が残っている。暫くは、私鉄中心での鉄道建設が盛んであったが、日清・日露戦争を契機に軍事的理由から国家による一元的な鉄道の管理が要請されるようになり、1906年(明治39年)に鉄道国有法が公布され、日本の多くの幹線鉄道が国有化されることになった。こうして国の事業となってからは、鉄道は全国展開されるに至った。ちなみに上野~青森間が開業されたのは、1891年(明治24年)9月1日のことだった。営業距離が飛躍的に延び、列車も「急行」や「特急」、「食堂車」、「寝台車」、それに「長距離急行列車」なども登場するようになった。各地方で持て囃されたのはトロリーバスと市電の普及だった。そして、明治45年にはアプト式の電気機関車が運行を開始していた。昭和4年にはDC11形の電気式ディーゼル機関車が登場した。燃費消費効率に優れたディーゼルの登場によって、石炭を燃料とするSLは、斜陽の一途を辿ることになった。

Hibari  戦後を迎え、1949年に、「公共企業体日本国有鉄道」が発足した。時代背景として、戦争によって荒廃した鉄道の復興はこの頃ようやく軌道に乗り始めたが、国鉄の財政はインフレと復員兵・海外引揚者の雇用をさせられた関係などで極度に悪化しており、府の介入権が強いなど経営の自主性が薄く、それが後に財政破綻や労使紛争を引き起こす原因になった。それが引き金となったと思われる戦後の「国鉄三大ミステリー事件」が起こった。下山事件は、7月5日に初代国鉄総裁「下山定則」が出勤途中に失踪し、翌日未明に死体となって発見された事件。これは未解決のまま警察は捜査を打ち切った不可解な事件。2つ目は、僅かその10日後の7月15日に事件が起きた。中央本線で無人の暴走列車が三鷹駅の車止めを突破し、脱線転覆した。これを三鷹事件と呼ぶ。3つ目は何と地元福島県で起きてしまった松川事件。8月17日に松川駅と今の金谷川駅の間を走行中の貨物列車が、突如脱線転覆。機関士2名と機関助士の合わせて3名が死亡した。原因は何者かによるレール外しだった。警察は20名の労働組合関係者を逮捕起訴したが、1963年に全員の無罪が確定した。現場となった場所には、慰霊碑が建立されている。また、昭和30年には日本で初の交流電化試験が実施され、直流に比べ電化コストが安いことなどから、後に全国へと広まることになった。東北本線に乗車した方ならご存知だろうが、黒磯駅を境に首都圏方面は直流で、以北は交流だった時期がある。そこで切り替えが行われ、車内の電灯や電車のモーターが一旦停止したことを覚えていることだろう。今となっては懐かしい話だ。電化が進むにつれて鉄道は電車が主流となり、電気機関車が活躍した。そして年を追うごとに高速化に拍車をかけた。昭和40年代に流線形のボンネット型の特急が登場すると、鉄道ファンが一挙に増えた。鉄道写真を撮る少年達でプラットホームや踏切などは溢れた。そして昭和40年代には、「愛国から幸福駅へ」の記念切符もまた一大ブームを巻き起こし「旅行人気」を後押しした。東北本線では、1960年に上野~青森間を往復する「はつかり」が開業し、人気を集めた。やがて上野~仙台間を10往復以上するL特急「ひばり号」が運転を開始するやいなやその利便性が受け、郡山~上野間を2時間30分ほどで結び、東京への日帰り旅行も可能になった。

0kei  そしてさらなる鉄道高速化への布石を国鉄は模索していた。東京オリンピック開催が決まり、戦後の混乱期を脱し、国際社会への復帰を世間に知らしめる目的と日本の産業復興や技術力の高さを全世界の人々にアピールする絶好の機会だった。東京や大阪など大都市圏を中心にインフラ整備が一気に進んだ。道路は首都高速道路が突貫工事で進められ、同時に東京~大阪間を3時間半で結ぶ鉄道を建設していた。それは時速210km/hというかつての鉄道では常識を覆すようなまさに「夢の超特急」だった。幾度の試験が行われた。騒音、振動、高速走行に必要な技術、電力の供給方式、トンネル走行実験、レールの摩擦を最小限に抑える方策、カーブの際の遠心力をいかに抑えるか、空気抵抗の測定、安定走行に必要なレール幅の検討、そして安全対策など。在来線では、踏切事故や騒音によって、特急列車は日付を跨いで運行されないというネックがあった。そこで新幹線は高架橋の上を走行し、極力高低差を少なくし、踏切はゼロという斬新な発想で建設が始まったのだ。これは1964年の東海道新幹線開業以来、死亡事故ゼロを長年続けたことで、安全神話は現実のものとなった。10月1日に「ひかり」と「こだま」が運行を開始し、ぎりぎり東京オリンピックの開幕に間に合わせた。白を基調とし、ブルーのラインを縁取った0系新幹線は、庶民の憧れだったし、日本の産業や経済の発展の象徴だった。しかし、繁栄の陰で去りゆく物があった。石炭から石油へというエネルギー革命によってSLの需要は減り、全国の路線から文字通り煙たがられた「おか蒸気」は、徐々に姿を消し、1976年3月を最後に全廃となった。しかしその後、復活を願う全国のSLファンからの熱き要望に応える形で、大井川鉄道を皮切りに、不定期に全国のローカル線ではその雄姿を再び見ることができる。ここ福島県でも、磐越西線や只見線などでC11機関車や「デゴイチ」の愛称で親しまれたD51機関車にお目にかかることが出来る。しかし、これが大人気で、乗ろうとしても切符は発売開始と同時に即日完売となるほどの異常過熱ぶり。運行する沿線にはカメラを構えた鉄道ファンの砲列ができる。「ポーッ」という汽笛と「シュシュポッポ」という車輪と蒸気の音が遠い昔の郷愁を誘う。特に、只見線の綿帽子を被った雪山をバックに疾走する黒い機関車は、まるで絵葉書のひとコマのようによく映えるのである。

 やがて新幹線は田中角栄の力添えによって、1971年に東北新幹線と上越新幹線が起工。1982年に大宮~新潟(あさひ・とき)、大宮~盛岡(やまびこ・あおば)が暫定開業した。その4年後には、東京発着となり、改札を一旦出なくても乗り換えが可能になり、関西方面への乗り継ぎが楽になった。しかし、一方でそれまで在来線の花形として栄華を誇り、旅行者の足として愛され、活躍して来た特急列車が相次いで廃止された。「ひばり」「やまばと」「はつかり」「ゆうづる」「はくつる」など。東北新幹線では、運行本数が増え、旅行客から新幹線の名前が沢山あるとわかりづらいという理由から、「あおば」と「とき」が廃止された。東北新幹線では、「在来線乗り入れ型のミニ新幹線「つばさ」(東京~山形)、「こまち」(東京~秋田)、郡山や那須塩原発着のローカル新幹線的な存在の「なすの」、更には八戸開業に伴い、東京~仙台ノンストップの「はやて」が登場。オール二階建て新幹線「Max」も導入され、輸送力が大幅にアップした。そして、いよいよ今年、苦節28年目にしてようやく新青森駅まで繋がる。青森市民にとっては積年の悲願達成は目前である。乗り換えなしで東京直通。在来線特急の「はつかり」よりも約半分の3時間半程度で結ばれる予定なのだ。

 そして今でも忘れてはならない大改革が断行された。日本国有鉄道(JNR)の民営化である。1987年に国鉄はJRと名称を改め、JR北海道からJR九州まで6つのグループ(+JR貨物・鉄道総合技術研究所・鉄道情報システム)に再編された。新しく生まれ変わったJRは、その翌年、新たな鉄道の夜明けを予感させるような巨大プロジェクトを発表した。それは「日本列島が一本のレールで結ばれる日」をキャッチコピーに、北海道と本州を結ぶ青函トンネルと本州と四国を瀬戸大橋で結んだことだった。そして私鉄との誘客競争を激化させ、様々な仕掛けを実施。各種割引やびゅうなどの企画商品の導入で、サービスの向上を図った。ナイスミデイパスや大人の休日倶楽部、ジパングなどもその一環。しかし当時、この民営化に伴う弊害の最大の犠牲を払わされたのが北海道だった。民営化方針に沿って、業績が芳しくない地方のローカル線を廃止しようという機運が盛り上がり、地元住民は生活の足を奪われただけでなく、過疎化に拍車をかけるようになった。これは私が学生時代を過ごした時期とものも見事に被っている。私が住んでいた1984年から1986年にかけて、10路線以上が赤字が原因で相次いで廃止に追い込まれた。

  1. 胆振線(京極~伊達紋別・1986年廃止)

  2. 夕張線(紅葉山~登川・1981年廃止)

  3. 万字線(志文~万字炭山・1985年廃止)

  4. 瀬棚線(国縫~瀬棚・1987年廃止)

  5. 富内線(鵡川~日高・1986年廃止)

  6. 標津線(標茶~根室標津/中標津~厚床・1989年廃止)

  7. 深名線(深川~名寄・1995年廃止)

  8. 相生線(美幌~北見相生・1985年廃止)

  9. 渚骨線(渚骨~北見滝ノ上・1985年廃止)

10. 名寄本線(名寄~遠軽/中湧別~湧別・1989年廃止)

  11. 興浜北線(浜頓別~北見枝幸・1985年廃止)

12. 松前線(木古内~松前・1988年廃止) 

13. 広尾線(帯広~広尾・1987年廃止)

14. 三菱石炭鉱業線(清水沢~南大夕張・1987年廃止)

15. 岩内線(小沢~岩内・1985年廃止)

16. 函館本線・上砂川支線(砂川~歌志内・1994年廃止)

17. 士幌線(帯広~士幌・1987年廃止)

18. 羽幌線(留萌~幌延・1987年廃止)

19. 美幸線(美深~仁宇布・1985年廃止)

20. 湧網線(中湧別~網走・1987年廃止)

21. 興浜南線(興部~雄武・1985年廃止)

22. 天北線(音威子府~浜頓別~南稚内・1989年廃止)

 私は北海道在住時、生活の足を奪われ、活気を失い、寂れていく一方の町や村をつぶさに目の当たりにした。だから、沿線の地元住民の悲哀や苦労を痛いほどわかっているつもりだ。明治時代に端を発した鉄道の発展と繁栄の恩恵に絢かって、私達は今の便利で何不自由ない生活を営婿とが出来るのであって、しかし一方では、こうした多大な犠牲があったこと、多くの代償の上に成り立っていることを決して忘れてはいけない気がする。

Mlu002  現在、わが国の鉄道の営業キロは約27,043キロ(2007年)で、旅客輸送量は約 4,056億人キロ、貨物輸送量は約233億トンキロである。貨物輸送が主体の多くの国とは異り、旅客中心の高密度輸送を特徴としている。わが国の鉄道の経営主体としては、JR、地方公共団体、私鉄、第3セクターの4つがある。輸送の主体であるJRと私鉄について簡単に説明すると、JRは1987年の国鉄改革以前は、国有の全国一体の組織だった。この国鉄が6社の旅客会社と1社の貨物会社等に民営・分割され、現在に至っている。ではここで、今後の展望には欠かせない、「リニアモーターカーの来し方行く末」という視点で語りたい。リニアモーターカーの歴史は意外に古い。今から33年前の1977年(昭和52年)まで歴史は遡る。まず、宮崎県の日向市に浮上式鉄道実験センターが設置され、リニア実験線で有人走行も後には行われるようになった。最初は無人のML100という車体で、モノレールのようにレールを跨ぐ形態。その後、車体はML500に引き継がれ、1982年500km/hを超える高速走行を実現した。軌道式の車輪では300km/hが限界と言われた時代での快挙だった。1980年からは、有人走行が可能な後継車のMLU001、1987年からはMLU002を使って、実験が行われた。しかし、試運転での走行中に炎上するハプニングが発生。車体を焼失する事故が起きてしまった。これで実用化への道筋は一旦頓挫した。その後改良型のMLU002Nを開発した。そして現在は、JR式マグレブのMLXシリーズなる最新鋭の車体を使っての実験を行っている。これは一両当たり68席あり、3~5両編成である。ここで念のためおさらいしておこう。磁気浮上式リニアモーターカーとは、磁力の反発・吸引力により浮上し、リニアモーターで駆動する移動車両の総称である。推進にはリニアモーターが用いられ、高速化が可能である。主な利点は、リニアモーターは非常に薄いため通常の電車よりも台車を薄くでき、車両断面を小型化できる。このためトンネル断面を小さくでき、建設費を削減可能。駆動力を車輪とレールの摩擦に頼らないため、急勾配での走行性能が高い。大都市では地下鉄路線の過密化により直線的路線空間の確保が困難になっており、急勾配・急カーブを多く持つ線形にせざるを得ないが、そのような場合に有効である。 ギアボックス、撓み継ぎ手等の可動部分が無いので保守が容易など。このリニアの開発当初、もうひとつのリニア構想があったのをご存知だろうか?それは政府の支援を受けて営業して来た日本航空が開発したH・S・S・Tという名前の近未来鉄道だった。常電導磁石により浮上・案内を行い,リニア誘導モータ(LIM)で推進する新時代の交通システムである。現在地下鉄など幅広く実用化されているLIM技術と,常電導磁石により鉄レールに吸引しながら浮上する新しい技術を使って実現された。開発の経緯は、昭和49年のHSSTの開発が始まる。当時,新東京国際空港(成田)への交通手段として,日本航空の技術陣がHSSTの開発を始めた。昭和50年にHSST-01号機が完成し,吸引式磁気浮上リニアモータカーとして日本初の浮上走行に成功した。昭和53年に無人走行で300km/hを達成し,HSST-02号機~05号機まで次々に開発されていった。そして基本システムを実用化レベルまで発展させるため,名古屋の実験線(延長約1.5[km])で,HSST-100型の開発が進められている。 しかし、こちらも母体の日本航空が赤字による経営難のため、この計画も無期限停止の状況である。

Renear  やがて、未来への夢の架け橋として期待を一身に背負ったリニアモーターカーも、1997年には実験の舞台をより実用化に近い場所である山梨県大月市~都留市へとその試験場を移した。総延長18.2km足らずの実験線だが、2003年には何と581km/hの世界最高記録を樹立した。私もYou Tube で試験走行中の車内の模様を撮影した映像を見たが、加速の際の衝撃は大きく、恐らく通路を歩くことはままならないだろう。飛行機と同様、着席とシートベルトが必要そうだ。また、殆どがトンネル内の走行で、地上の景色を見れるのは8秒間のみ。トンネル内の照明が飛んで行く。浮上直後は揺れが凄まじく、僅か40秒後に300km/h近くに達しと思ったら、車内に響くほどの風切り音と雑音がかなり大きくて耳障り。75秒後には500km/hに到達。浮いて左右にブレるので1時間も乗っていたら酔ってしまいそう。お世辞にも快適だとは言えない。特に減速の際にはかなりのGを体に感じるようだ。電磁波の健康への影響も懸念されるし、心臓に持病がある人、ペースメーカー使用の方は危険だと感じた。今後も改良の余地は残っている。この文明の利器とも呼ぶべきリニアが、これまで実用化できなかったのは、生産コストがあまりにも嵩むからである。1kmあたりの建設費は、最短の南アルプスルートを通した場合でも20億円。東京~大阪間の総額は、9兆300億円と試算されている。また、電力消費量も新幹線の40倍にもなることから、環境への影響も憂慮されている。開発から今日まで、すでに3,035億円がこの実験の為だけに費やされた。しかし、21世紀を迎えた今に至っても、一向に実験の域を脱していないことに不安ともどかしさを感じてしまう。されど完成した暁には、東京~大阪を、驚くことなかれ、ほんの1時間で結ばれてしまうことになるのだ。今のところ、建設ルートも3案あって、どれも一長一短。結論は先送りとなってばかりで現在に至っている。本日折よく、JR東海の記者発表があったが、それによると15年後の2025年の等居~名古屋間開業が大幅に遅れる可能性があるとの見通しだった。理由は不況による収入の落ち込みで、建設資金の調達に影響が出ているから。まだ着工もしていない段階からこの有り様なのだから、惜しむらくは、子供の頃からの夢が夢のままで終わってしまいそうな危惧を抱かざるを得ない。この分では私が生きているうちに乗車することなど絵空事であろう。無論、それに先だって行われている整備新幹線の着工もままならない現状では、予算を計上する目途は到底立っていない。研究が開始された昭和37年から数えて半世紀近くを経た今でもだ。全世界に先駆けて始まったリニア計画は、経済発展著しい中国にリニア開発の分野でも先を越されてしまった。事実上海では、もたつく日本を尻目に、すでに2004年から430km/hでの運行を開始している。日本人のプライドはずたずたに引き裂かれた。ここは日本人の意地と威信にかけても、何とか早期に500km/h走行を実現されることを願ってやまない。

 最後に、利便性や快適性ばかりを追求してしまうと、一番大事な安全性が蔑に扱われてしまいそうで一抹の不安を感じてしまう。それを忘れないために、過去に国鉄時代から今日までに起きた大規模な列車事故災害を取り上げ、教訓や戒めとしたい。

  1. 桜木町事故(1951年) 火災による死者106名
  2. 三河島駅事故(1962年) 脱線した貨物列車に2つの列車が衝突 死者160名
  3. 鶴見事故(1963年) 脱線した貨物列車に旅客列車2つが衝突 死者161名
  4. 信楽高原鉄道列車衝突事故(1991年) 列車同士の正面衝突 死者42名
  5. 福知山線列車脱線事故(2005年) 速度超過で脱線マンションPに突っ込む 死者107名

 

2010年3月 4日 (木)

学生時代 in 北海道 (1985.4~1986.3)

 本日は1985年、私が大学2年生になった時期を振り返って回想してみたい。何せ25年も前の出来事ゆえ、所々記憶がおぼつかない部分は容赦願いたい。

 友人Mが東京に引っ越して、一緒に旅行にも出かけた3人が北海道から去って行った。不安と心配が交錯し、精神面での支えを失ったようで辛かった。楽しみ半減のつまらない一年になりそうな予感が年度当初から付き纏った。旅行はすべて単独になるだろう。そこで、北海道に住めるのもあと今年一年と割り切り、特にバイクで走れるのは、夏休みに帰郷の際にバイクを郡山に乗って来なければならないことから、正味5か月しかツーリング期間は残されていなかった。だから一日一日を大事に過ごそうと決めた。とりわけ行けそうな場所には行ける時に行っておこうと思った。昨年同様、カリキュラムを工夫し、土日を休みにした。その友人Mが春休みに実家に来て、愛車XLを品川ナンバーに付け替えたことを見せびらかしに来た。思わず「いいなぁ~」。

 4月初旬、大学の始業に合わせるかのように北海道へ戻った。この時の交通手段は盛岡まで新幹線。そこで接続の特急「はつかり」に乗り換えて2時間ほどで青森へ。ここまで5時間。夜行急行よりも3時間近く短縮。青函連絡船は2度目の羊蹄丸だった。そして函館からいつもなら網走まで直通の「特急おおとり」なのだが、今回は新幹線使用のために時刻が合わず、「北斗」という列車。この特急、実は札幌が終着。そして札幌から「ライラック」という別の特急に乗り換えた。しかし、特急券は函館~岩見沢間の1枚しか持っていなかった。そして降り立った岩見沢駅の改札を出る時に、駅員に呼び止められた。何も不正している実感は無かった。どこで特急券が2枚必要なことを指摘されたが、「今回は大目に見るが、次回からは注意して下さい」と言われ無罪放免に。無知が生んだ災いだった。

 最初は、友人Mのいない北海道生活は空虚な気持だった。しかし、その不安を取り払うかのように、夕方17時から或る面白いTV番組が始まった。それは片岡鶴太郎司会の中高生対象の「夕やけニャンニャン」というバラエティ番組だった。月曜から金曜日まで5日間放送されていた。おニャン子クラブととんねるずがレギュラーで、今は亡き逸見政孝アナとの掛け合いも面白かった。毎回様々なゲストが出演し、番宣したり、イベント紹介などの告知も行っていた。名物コーナー「タイマンテレホン」や「君の名は」など1時間番組で盛りだくさん。特に「ザ・スカウト・アイドルを探せ!」では、ずぶの素人がプロモーションVTRに出演したり、特技を披露し、猛アピール。タレントになれるチャンスが得られ、合格すると「おニャン子クラブ」のメンバーに入れるのだ。昔の「スター誕生」のパクリなのだが、ミーハーだとは分かっていてもついつい見てしまった。土曜深夜の「オールナイトフジ」に起源を発したその番組から誕生したタレントは、河合その子、新田恵利、うしろゆびさされ組(高井麻巳子・ゆうゆ)、ニャンギラス、うしろ髪ひかれ隊(工藤静香ら3人)らで、今思えば、「モーニング娘」や「AKB48」の先駆けとなったグループだった。私は富川春美と永田ルリ子の癒し系の子が気に入っていた。そして「セーラー服を脱がさないで」を皮切りに、「涙の茉莉花LOVE」「冬オペラグラス」「うしろゆびさされ組」「バレンタインデーキッス」など出す曲出す曲が大ヒット。その頃、音質の良いデジタル録音のCDが開発され、人気と歌に拍車をかけた。「会員番号の唄」まで作られ、メンバーもどんどん増えて行った。そして、河合その子と中島美春の卒業を契機に、番組内で卒業式まで行い、私が大学4年生まで2年半も続き、「女子高生ブーム」は社会現象にまでなった。私は個人的には「恋のチャプターA to Z」、「真っ赤な自転車」、「青いスタシオン」が好きだった。大学生だったので、表立っては言えない部分があったが、皆、その番組を見ていたし、メンバーの誰かしらには興味があったに違いない。時間帯も良かったし、結構これに救われた部分があった。

 そして大家さんにお願いして、冬場の間に保管してもらった物置から愛車を引っ張り出してエンジンを掛けようとするが、案の定バッテリーが上がっていて、イグニッションのスターターモーター自体が回らない。シートを外し、YUASAバッテリーを取り出し、R234沿いにあったGSへ持ち込み、半日かけて充電してもらった。そしてプラグもかぶっていて、磨き、何回目かにようやくエンジンがかかった。この瞬間は流石にほっとした。これでツーリングへのスタンバイOKに。最初のツーリングは、近場と決めていた。北海道在住の残り日数を常に頭に置き、夏場に回れそうもないようなエリアから攻めることにした。4月14日(日)が初っ端で、山の峰にはまだ雪が残る季節だった。ルートは石狩月形・浜益村・当別という日本海側の国道でも砂利道の難所ルートだった。訪れた場所は何と月形の少年刑務所と浜益村の萎びた漁港。それでも往復240km。ライディングの勘を取り戻すにはちょうど良かった。実際寒くて辛い物になったが、景色は抜群だった。海をのんびり眺め、長閑な風景を満喫できた。続いて4月21日(日)に2回目のツーリング。今回は宗教好きのMとタンデムでの旅行。野幌の森林公園に新しくできた開拓の村へ。ここは明治時代の北海道の開拓に携わった歴史の変遷を垣間見れる施設であり、愛知県にある明治村のミニチュア版で、その時代を代表するような建築物が建ち並ぶテーマパークだった。高さ50m以上あるシンボルタワーの開拓記念塔に登り、一面石狩平野の真っ平らな眺望を満喫した。その後、北海道らしさを求めて、帰りがてら長沼町にある「ハイジ牧場」に立ち寄ったが、オープンに数日早く来てしまい、まだゲートは閉じて見学は不可だった。旅行から帰ると5日間は、徹夜で紀行文を書く生活が続いた。何か紀行文を書くためのツーリングという感じもしないではなかった。

 3回目のツーリングは、天皇誕生日の4月29日(月)だった。このように、毎週どこかには行っていた。パートナーは、前回タンデムしたMがどこからか原付バイク(AR50)を借りて来て、それでデュアルツーリング。場所は支笏湖。日本一深いとされる透明度抜群の湖だ。まず、千歳で「サントリーの工場」に見学しに行ったが、この日は休みでシャットアウト。ハイジ牧場に続き門前払い。その後、林の並木道が続く「支笏湖道路」を駆け抜け、支笏湖畔に到着。確かに透明度が高い湖だった。ここは山奥にひっそり佇む湖なので、あまり観光地化されてなく、秘境感を味わえるスポットだった。その湖一周の遊覧船の発着場がある土産物屋などが軒を連ねる、ひと際賑やかな場所に、何と偶然、「福島県人会連絡所」があった。そこの人は「三春出身」の方が経営していた。思いがけない出逢いに話が弾んだ。このツーリングは、結構近場で、Mが慣れないバイク運転のため、無理な追い越しなどは自重した。続いて同じGW中の5月4日(土)には、紀行文に掲載する上で、大事な札幌観光を抜かしていたと思い、急遽入れた。再び教祖Mとタンデムで40km走って札幌へ。訪れた場所はサッポロビール園・紀伊国屋・大通り公園・時計台・旧道庁・北大ポプラ並木・大倉山&宮の森シャンツェ・中島公園・ススキノ・ラーメン横丁・狸小路という順路だった。主だった有名観光地を行く、所謂おのぼりさんコースだった。単に写真に撮って証拠作りの周遊だった。

 次に訪れたのは洞爺湖・昭和新山・有珠山というメジャーコース。Mと同じ下宿で北海道教育大学に通う高ちゃんを紹介してくれた。高ちゃんはRZ250に乗る爽やか青年だった。彼と初めてツーリングへ出向いた。実施日は5月12日(日)、コースは札幌経由で中山峠を攻め、洞爺湖畔(武四郎坂・桟橋・烏帽子岩・キムンドの滝)、昭和新山・有珠山(ロープウェイで山頂まで)、洞爺湖畔(湖園地・浮見堂・観湖台)、定山渓経由で戻った、総走行距離309km。この高ちゃん、教育者を目指しているとは思えぬほどガンガンに飛ばす。RZは2ストなので、加速と乾いた音が半端じゃない。とてもついて行けない。マフラーから白煙をまき散らしながら抜きまくっていた。中山峠から見える富士山と瓜二つの羊蹄山は見応え充分。この数年前に爆発した有珠山は、噴煙が立ち上り、活火山を肌で感じ取った。また、眼下に見える昭和新山は、単なる畑が突然に隆起して山になったとは信じられないほどの高さがあった。続いて5月28日(火)には、その11日前に大規模災害(ガス爆発)があって、炭坑内に閉じ込められて、火災を消すために水没させ、62名の死者を出した夕張炭鉱のルポと銘打って訪問した。僅か10日ほど前に、新聞やテレビ報道を賑わした場所だ。やはりここは寂れていた。町の活気は失せ、悲劇の舞台と言う様相を呈していた。隣りの北炭夕張はとうの昔に閉山し、今は無人の石炭歴史村という名の大型遊園地へと変貌していた。まず訪れたのは、新しく町おこしを始めた夕張メロンのブランド化。そのシンボルとして建造した「メロン城」。実はそこに至るまでも髪の毛が伸びるお菊人形が安置されている万念寺やアパートのF先輩が事故った超タイトコーナーが幾重にも続く、急勾配の峠を通らなければならない曰くつきのルートだった。だから安全運転だけを心掛けた。道すがら、冬に訪れた萩の山市民スキー場や恐らくそこを通っていただろう廃止後の万字線の線路跡やレール無き隧道や鉄橋が何度も登場した。そんな侘しい風情がたっぷりだった。駅に立ち寄って証拠写真を残した後、清水沢から問題の南大夕張炭鉱の門の前に。さすがに中に入ることは憚った。そして山合いに分け入り、大自然豊かなシュウパロ湖を訪問。淀んだ泥色の湖だった。そして帰りがてら立ち寄ったのが滝の上の千鳥滝・竜仙峡だった。ここには恐ろしいエピソードがあった。駐車場にバイクをとめ、そこの滝を見ようと、急勾配の崖を下って行った。すると急流の川に出た。降り立ったその場所は、弧の形をしたシェルターの屋根の部分のような場所だった。その下を濁流が勢いよく流れている。足を滑らせて転落すれば一巻の終わり。溺死は必至で、生きた心地がしなかった。マジで冷や汗ものだった。というのは、崖を下りて来たのは良いが、登る手段を持ち合わせていなかったのだ。ドキドキしながら必死になって登るが足場が悪く、滑って思うように上がれない。背中のディパックも邪魔。バランスを失いかけて落っこちそうになった時、天の恵みか木に巻き付いたチェーンが垂れ下がっていた。藁をもすがる思いでそれを掴み、何とか地獄からの生還を果たした。まさに神が授けた命綱だった。こうして別の意味での危険なツーリングは終了した。

 さて、北海道物語はまだまだ続く。次のツーリングは、夕張から僅か4日後の6月1日(土)。だんだん紀行文の執筆が追いつかなくなって溜まって来た。パートナーは、前々回のツーリングで意気投合した高ちゃんと再び出掛けた。目的地は一度素通りしたことがある、「滝群と奇岩高層壁が入り乱れる大自然の神秘」というネーミングが打ってつけの層雲峡。ここは是が非でも訪れておきたかった場所だった。ルートをおさらいすると、砂川・滝川・旭川・深川と石狩川から由来したと思しき川の付く地名を走り、層雲峡へ。万景壁・白蛇ノ滝・温泉街・流星の滝・銀河の滝・双瀑台・雲井ノ滝・小函・ 羽衣岩・姫岩・神削壁・錦糸の滝・岩間の滝・小函トンネル・ライマンの滝・大函遂道・大函と見た。特に流星の滝と銀河の滝を正面に望むことが可能な双曝台という展望台を目指して登山。心臓バクバクで胸が張り裂けそうだった。高ちゃんはライダーブーツで登った。タフな人だった。ここはまさに大自然を直に感じられるスケールの大きい場所だった。高さ100mはありそうな断崖絶壁にも圧倒された。そして大雪湖ダムで折り返し、帰路に就いた。往復349kmだった。このツーリングでは往路の際、後から追いかけて来たミニパトの警官に止められた。前を走るトラックに追いつき、追い越し禁止区間だったため、その左側をすり抜けて前に出たのを見て、危険だと思った警官がパトライトを回して追尾して来たのだ。国道沿いに止められ、道行くドライバーに「頑張れよ~」と冷やかされたりした。しかし、咄嗟の詭弁で「追禁場所だったので、「前のトラックが譲るために中央線沿いに寄って道を空けたからそこをすり抜けただけです」と言ったら、その警官も納得。実は最近、そこで同じことをやったライダーが車と接触して死亡したとのこと。青切符は切られずに、白い「現場指導警告書」というのを書いた。取り調べの際、ナンバーや免許証は福島なのに、現住所を書けと言われて、誤って岩見沢市の住所を書いたことでひと悶着あった。この一件が戒めとなって、安全運転に配慮するようになった。

 やがて6月も中旬に入って、北海道をバイクで走れる時間も少なくなって来た。本州はこの時期梅雨入りだが、そこは梅雨のない北海道。晴天が続いた。しかし、6月でも朝夕など肌寒い日があった。私が住む岩見沢市は、北海道のほぼ中央に位置していたので、東西南北どこの方面にも旅行しやすい環境下にあった。そんな地の利を生かしたツーリングが、6月15日(土)、16日(日)の襟裳岬方面への一泊二日だった。春、郡山に帰郷した際に、「うすい」で買い求めた一人用テント(シーズンオフの為1万円以上もした。)とシェラフを試す機会が訪れた。野宿は初体験で、友人Mのように、どこでも所構わず眠れるほど図太い神経は持ち合わせていなかった。自分がそういうことが出来るかの試金石でもあったのだ。コースは、北海道を代表する場所のひとつ。十勝山脈の尾根に沿って麓に横たわる通称「サラブレッドロード」だった。北海道と言えばまず牧場。そこには映画「優駿」に代表されるように人と競走馬の熱き絆があった。そして、彼が生きているうちにひと目、自分の瞳にその姿を焼き付けておきたかったのだ。ここで言う彼とは不世出の名馬「ハイセイコー」だった。初日の15日(土)、早朝から行動開始。岩見沢を出て、R234を南下。鵡川からR235へ。ずっと右手に太平洋を眺めながらの走行。門別(家畜センター)を通過し、新冠(日本一長い直線滑り台・泥火山・牧場銀座・明和牧場でハイセイコーと対面・浦河・様似・日高耶馬溪・襟裳岬・百人浜・黄金道路・フンベの滝・広尾町(駅・大丸山ツツジ公園)・広尾シーサイドにてキャンプ泊。ここで特に印象に残っているのは、襟裳岬の風の強さだった。歌の通り「何もない」荒涼感と殺風景の場所だった。またそこに隣接した百人浜の草原地帯にひっそり佇む悲恋沼に夕日が映え、とても綺麗だった。そこから続く黄金道路がまた凄かった。海岸端の絶壁をくり抜いて建設された道路だった。途中、シェルター内まで波しぶきがかかるような道路だった。そこを抜けるとそして夕暮れになってもテントを張る場所が見つからず、右往左往した。広尾駅で野宿しようか。だんだん暗くなって来て焦った。336号線から電波塔がある地点から海側に分け入ったところ、砂浜の海岸に降りられる土の道を発見。そこを下りると、不気味な海の家が廃墟になった建物があって、そこから砂浜が続いていた。ここを一夜の宿に決めた。薄暗い中、バイクのヘッドライトを頼りに、急いでドーム型のテントを設営。何とか間に合った。夜、携帯用ラジオで、巨人のルーキー宮本が初登板し、好投していた。夜中、寄せては返す波の音をBGMに何とか寝ようと試みるが、背中がごつごつする違和感といつもの寝床とは感触が異なり、更にはテントのビニールの匂いが充満し、眠れなかった。逆に、今が干潮で、朝になったら満潮になってテント内に海水が進入してきたらどうなる?とそればかり気になっていた。朝方は、6月とはいえやはり冷え込んだ。北海道の夏の朝はすこぶる早い。4時頃、テントの傍に車が2台止まった音で起きる。押し込み強盗か?と思ったら、投げ釣りに来た地元の釣り師だった。昨夜は暗くてわからなかったが、そこは広野発電所の近くで、一帯はシーサイドパークという場所らしかった。遠くに発電所らしき鉄の建物とそれらしき煙突が見えた。出発支度をしているとおじさん釣り師が戻って来て、「起こしてご免ね」と声を掛けられた。6月16日(日)は朝の5時前から走り出した。目的地は昨秋3人で訪れた幸福駅だった。この広尾線にあって、数10年前に一大ブームを巻き起こした「愛国から幸福へ」の記念切符。その舞台となった駅舎だった。行ってびっくり。あんなに有名になったのに実は無人駅。駅舎は時代を感じさせる木造板張りの小さな物置みたいな佇まい。そこに全国から訪れた鉄道ファンやカップルが押し寄せたのだ。壁中に所狭しと貼られた切符や刻み込まれた相合傘。駅舎自体が売店で、記念品等を販売していた。私が訪れた時は、まだ廃線になっておらず、2両連結のディーゼル車が運行していた。線路に座ってグラビア風の写真を撮った。もちろんその先の愛国駅へも訪れた。そして碁盤の目の様に区画が整備された帯広を通り、十勝ケ丘で世界一花時計を見て、北上。人工湖の糠平湖や大自然を満喫できる風景が広がる然別湖を巡回し、清水町を経て日勝峠、日高町を経由しUFOの目撃例が多いことからピラミッド型のUFO基地まで作ってしまった平取村へ。穂別町からは近道をと考え、10km以上ダートが続く悪路を我慢の走りでショートカット。清水沢に出て、由仁町からR234に戻り、何とか岩見沢へ帰って来た。この二日間で756km走行。6,984円。帰宅後、1週間以上かけて旅の記録を紀行文にまとめ上げた。

 紀行文を書き上げると、また次のツーリングが待ち構えていた。私の大学生活はそんな日の連続だった。だから、文章を書くのが不得手では無くなったのだ。辞書で言葉を調べて、毎回異なる文言を使い、それで表現力に磨きをかけた。これが大学のレポートに大いに役立ったのだった。次のツーリングも本当は時間や回りに束縛されないように、単独で行う予定だった。今度は前回とはまるっきり方角が反対で道北方面。これは初。日本最北端で有名な宗谷岬を目指しての2泊3日の旅行計画を立てた。しかし、同じアパートの地理学科のAが、その日に電車で稚内駅を目指すと言うので、現地で再会しようという試み。出発は6月25日(火)で、初日の旅程は砂川、留萌(千望台・黄金岬)、羽幌、手塩、サロベツ原生花園、兜沼、抜海、稚内だった。何もかもが初めて尽くしだった。日本海に沿って北上。見どころはその海岸ルートと時折位置が変わっていく、日本海に浮かぶ島々。焼尻島、天売島、そして更に進むと遥か前方に利尻富士との異名をとる利尻島、そしてその隣りには礼文島。この島々だけは行く余裕がなかった。サロベツ原野は見渡す限りどこまでも続く広大な平原地帯だった。怖かったのは、稚内へと向かう国道40号線。国道なのに、30分近く対向車はゼロ。信号もない道路だった。もし事故ったら、救急車が到着する前には死んでしまうことだろう。その日は「ビジネスホテル北海」に宿泊した。6月26日(水)の翌朝早くに出発しようとしたら、客の車で塞がれて出せない。苦情を言って客を叩き起こして貰い、移動して何とか出発。目指すは友人と待ち合わせの稚内駅だった。夜行を乗り継いで到着したAと束の間の再会を果たした。友人も俺が雨男だとわかっていて、呆れ顔。そして彼と別れ、まずは稚内市内を散策。小雨の中、ドーム式堤防・稚内公園・展望台・氷雪ノ門・9人の乙女の碑・百年記念塔を見て回った。そしてノシャップ岬を見物。悪天候で、海の先に見える筈の利尻島は視界不良で拝めなかった。ここでどうしても立ち寄りたい場所があった。宗谷岬とは方向が正反対で戻る形となるのだが、そこは砂丘で有名な抜海だった。そしてど是が非でも駅に行きたかった。その何日か前、小泉今日子主演の「少女に何が起こったか」というドラマで、抜海駅が出たのだ。その駅は中のドアに特徴があって、朱塗りの格子柄だったのだ。それを実際見た時は、ここでキョンキョンがロケをしたのかと感慨深いものがあった。漁港・抜海岩・原生花園・砂丘を見て、再び南稚内から宗谷岬へ。あいにくの雨模様で、せっかくの樺太が見えなかった。有名な三角形モニュメントの「日本最北端ノ地碑」で写真。ここは何でもかんでも日本最北が売り。売店でお馴染みの「最北端到着証明証」を購入。今日の日付のスタンプを押印した。そしてそこからオホーツクロードを行く。とにかく寒くて震えた。全身が雨でズブ濡れ状態。6月と言えば初夏なのだが、恐らく10度程度しか気温はなかったと思う。浜鬼志別の風雪の塔・インデギルカ号慰霊碑を見て、クッチャロ湖、斜内山道、ウタタイベ千畳岩を眺めた。雄武町でたまらず入ったホクレンのGSでは何とこの時期、ストーブを焚いていた。そしてその日は紋別まで到着した。野宿をする予定でいたが、寒さに挫け、現地調達のビジネスに宿をとった。最終日の6月27日(木)は紋別(駅・流氷展望台)から滝ノ上(滝上渓谷)を見て、峠道をひた走り、マイナーだが岩尾内湖・ダムを見て、朝日町(三望台シャンツェ)、士別を抜けて朱鞠内湖に達した。ここは日本で最も低い気温を記録した場所。何とマイナス41度の表示が記念碑に残されていた。そして幌加内、旭川(スタルヒン球場・旭橋・買い物公園・外国種見本林・優佳良民織工芸館)を経由して神居古譚(橋・駅・SL・岩)から赤平、ロマン座上砂川に立ち寄って岩見沢へと帰還した。3日間の走行距離は955km。予定外の出費で17,256円も使った。6月の世間の話題では、聖サレジオ教会で執り行われた松田聖子と神田正輝の「聖輝の」結婚が巷で独占していた。

 紀行文の執筆が2回分溜まり、暫く次のツーリングまで間が必要だった。この頃は、富良野周辺で「ラベンダー」が咲き誇る時期だった。散る前にどうしても見ておきたいと思っていた。大学は夏休みに入った。その機会はようやく7月16日(火)にやって来た。この頃になると、旅も終焉に向かっていた頃で、バイクのメーターも既に1万キロをとうに過ぎ、走りにも慣れて来た時期だった。ソロツーリングも板に付き、今やそれが当たり前になっていた。今回は近いこともあって、久々に日帰り。ルートは、砂川、芦別、富良野(ジャンプ台・北海道中心標・駅)、中富良野(森林公園)、上富良野(日の出ラベンダー園)、十勝岳、望岳台、白金温泉、天人峡(羽衣・敷島の滝)、旭川、滝川、岩見沢の順。348.2kmの日帰りプラン。しかし北海道では、350km近くの距離を1日で走り切るのが当然の世界だった。印象深かったのは、富良野の丘陵地帯にカラフルな色彩の花畑が広がった光景。そして富田ラベンダーファームと上富良野にある広大な敷地の日の出ラベンダー園。ちょうど見ごろだった。そこで何と「北の国から」の撮影が行われていた。花畑をジープで走って来るシーンを収録していた。あと、天人峡の絶景も言語を絶するほどのパノラマだった。幾重にも段差が出来て、かなりの高さから落下する羽衣の滝は圧巻だった。沢に沿って遊歩道を歩く手間はかかったが、それだけの甲斐はあった。敷島の滝は横長だが高さは全くなし。また十勝岳の山ルートは急で、望岳台から下界に下りるルートは砂利道ダートで、人気のない森の中を下る一本道で、どこからでもクマが出てきそうな怖い道路だった。帰り際のR12の美唄付近で、同じ学科のいわき出身のAがジープに乗って友達数人と走っている場面に遭遇。後で確認したところ、彼等もこの日、ラベンダー見物に出掛けたことが判明した。ところで、こうして旅を重ねて行くうちに、充実感と達成感に包まれていく自分に気付いた。バイクに乗って良かった。北海道の大学まで行かせてくれた両親にも感謝していた。

 いよいよ最後のツーリングが間近に迫っていた。ところがそんな或る日、信じられないようなニュースが実家から飛び込んで来たのだ。母親が急に倒れ、救急車で病院に搬送され、入院したというのだ。それはもともと持っていた能の病気だった。すぐにでも飛んで帰りたかったが、安否を聞くと、親父の話では、大事に至らなかったとのこと。暫く安静にしていれば良くなるとの診断。もしかして、バイクを乗り回している自分を心配し過ぎて気苦労でこうなったのかと反省もした。しかし親不孝なことに、こんな出来事があった後も、最後の旅に出ることを決心した。後で後悔したくなかったからだ。もちろん旅の途中でも毎日容態を確認するTELを入れていたが。北海道を飾る最後のツーリングは、昨秋の再来となる道東のリベンジコースだった。しかも7月20日(土)から24日(水)まで4泊5日の長丁場だった。ラベンダーツーリングの執筆終了の翌日にはもう出発という気忙しさだった。

 7月20日(土)の旅程は、岩見沢―旭川―比布駅―層雲峡(大雪湖・石北峠)―留辺蕊―サロマ湖畔(ピラオロ台・サンゴ草群生地・キムアネップ崎)―常呂(夕日ケ浜)―能取湖(卯原内駅)―網走湖―網走(刑務所・天都山オホーツク流氷館・網走監獄博物館) ビジネスH泊 絵葉書によく使われるサロマ湖の夕日の桟橋の光景が今でも焼きついている。そして、網走の天都山の麓に作られた網走監獄という網走刑務所の歴史を紹介したり、施設内部を再現した観光客向けのオープンセットもまたインパクトがあった。せっかくテント持参なのに、寝不足を恐れてキャンセル。

 7月21日(日)は、網走(永専寺・駅)―美幌町―美幌峠―屈斜路湖(池の湯・砂湯)―硫黄山―小清水原生花園―斜里―オシンコシンの滝―宇登呂(三角岩・港・酋長の家)―知床五湖―カムイワッカの滝露天風呂―知床峠―羅臼 泊  2度目の美幌峠もまた濃霧で屈斜路湖を一望できる絶景には肖れなかった。知床ではようやく晴れ間が覗き、五湖周辺の散策では眺望が素晴らしかった。掘り出し物は、カムイワッカの滝。湯の川を登り、崖を超え、滝壺が湯船の温泉に入った。自然の造形美と開放感を満喫でき、超気分が良かった。知床は一番野生のクマが出没するエリアの為、野宿は元より考えていなかったので、その日は羅臼のビジネスHに宿泊した。  

 7月22日(月)は、羅臼(望郷台・ひかり苔洞窟)―標津(北方領土館)―野付半島(ナナワラ・ドドワラ)―中標津・開陽台―別海町―厚床―落石岬(無線局跡)―花咲岬(車石)―根室 泊 もしかすると、この日がこのツーリングで一番印象に残ったかもしれない。まず、前回も霧だったが、トドワラ。朽ち果てたナナワラなどの天然樹木が無残にも散らばって点在。死後の世界を演出していた幻想的な場所だった。また、二度目の訪問となった開陽台の超メジャーな直線道路。そして東京へ旅立ったMが、是非俺に行って欲しい秘密の場所と言っただけで、詳細は黙して語らなかった落石無線局跡。霧の中から白い洋館風の廃墟が姿を見せた時はぞっとし、背筋が冷たくなるものを感じた。また、同じく珍しい車輪の形をした巨大化石の「車石」にも驚いた。そしてこの日も野宿を出来ず、根室駅の「観光案内所」にて宿を手配して貰い、一番安い素泊まりの宿をキープした。そこの案内嬢が滅茶苦茶綺麗な方で、翌日も写真を撮りに行ったが、別の方にチェンジ。その女性もまたかなりの美人だった。

 7月23日(火)は、根室(金毘羅神社)―納沙布岬(四島のかけ橋・北方館・望郷の家)―根室駅―浜中町―霧多布(森林公園展望台・岬・琵琶瀬展望台・あやめが原)―厚岸町(国泰寺・アイカップ崎・大橋)―釧路(幣舞橋・米町展望台・市立博物館・春採湖)―釧路湿原―塘路湖(ザルボ展望台)―標茶―弟子屈 泊 この日は朝から濃霧だった。夏の道東はやはりこんな状況。北方領土の島々は一切見れず。また、霧多布もまたその地名の由来の通り同様の世界。冬以来の釧路に再訪。そして広大な湿原地帯を見る為に国道391号線を北上していた時、猛スピードで対向して来た白バイ2台が下り坂を一気に飛ばして去って行った。どうみても天下の公道でふざけて競走(バトル)をしている様だった。展望台からはあまりに湿原が広すぎて一部しか見渡せなかった。この日は弟子屈止まりだった。またしてもビジネスホテル泊。黒い革ジャンの小太りでサングラスのどこから見ても横浜銀蠅のドラマーのライダーが同じように一日の旅の記録をびっしり記入してまとめていた。やはり私と同じ試みをしている人がいて嬉しくなった。

7月24日(水)は最終日。弟子屈―摩周湖(第一・第三展望台)―双岳台―双湖台―阿寒湖(ボッケ)―オンネトー―足寄(駅・千春の家)―上士幌―鹿追―新得―狩勝峠―富良野―砂川―岩見沢というルート選定を計画したが、やはり摩周湖は深い霧の中。第一展望台のレストハウスで暫く「霧の缶詰」や「瓶詰マリモ」を眺めて霧が晴れるのを待っていると、展望台から歓声が上がった。行ってみると霧の隙間からうっすらと湖面と小さな中島が見えた。神秘的な情景だった。湖面までは断崖でかなりの高さがあった。「霧の摩周湖」と言われる所以だろう。この日のハイライトはオンネトーだった。摩周湖や屈斜路湖、阿寒湖は観光地化されている面があるが、ここは手つかずの北海道らしい自然が残っている場所だった。北海道のラストを彩るには多少悔いが残る不完全燃焼のツーリングとなった。やはり連日快晴と言う訳にはいかず、この日もご多分に漏れず、天気はイマイチ。私の北海道でのスナップ写真を見れば、大抵カッパを着込んでいる。日頃の行いが悪いのか天気に祟られたラストランとなった。

 病に倒れた母親が気掛かりではあったが、大丈夫という連絡についつい甘え、紀行文を10日間の徹夜作業で一気に70ページ以上仕上げた。また、もうひとつ北海道に居残った理由は、郷里の福島では「夕ニャン」をネットしていなかったからだ。だからぎりぎりまで粘った。3倍モードで録画すれば一週間分は録画できるので、二週間の郡山滞在で戻れば、見れないのは一週間分で済むという計算が働いた。何たるミーハー根性。情けない。「母親の命とテレビと一体どっちが大事なのか」。当時の私は、こんな親不幸な息子だったのだ。今思うと実に申し訳ない。そして帰郷。今回ばかりは、陸路バイクを郡山に届けなければならない。そこでまた、前回不完全燃焼だったのを理由に、道南方面をツーリングしながら、プラス東北地方の名所を幾つか周りながら、3日間かけて帰ろうという計画を立てた。運よく、青森でその時期に「ねぶた祭り」を開催していることが判明し、「渡りに船」とばかりに立ち寄る策略を練った。そして部屋の白地図は、道南地方の瀬棚町から以南部分が白いままだった。松前町や北海道最南端に位置する白神岬から福島町を経て函館市へ至るルートだった。旅程は次の通り。

8月5日(月)岩見沢―苫小牧―室蘭―長万部―八雲―熊石―江差(鴎島・えぼし岩)―上の国―松前テント泊
8月6日(火)松前城―白神岬―木古内―トラピスト修道院―函館(教会群・立待岬・函館山山頂)~東日本フェリー~青森フェリーターミナル ねぶた祭り見物 F・T泊(雑魚寝)
8月7日(水)青森F・T―黒石ねぷた―十和田湖―奥入瀬渓流―十和田町~4号線~盛岡―水沢IC~東北自動車道~国見IC―福島―本宮―郡山

 ここで印象深いのは、初日の江差の海岸線の風景と日本海に沈む真っ赤な大きな夕日だった。松前の海岸にテント張り、野営を行った。やはり眠れない一夜を過ごしたが、潮騒の調べは心地よかった。2日目はトラピスト修道院の一本道の並木道。残念ながら、訪問した時は改装工事中で、工事用シートで覆われて中の様子を窺い知ることは不可能だった。函館では久々の快晴青空。教会群が映え、坂道からの眺望は素晴らしかった。また、二輪車禁止と知らず、函館山を展望台まで登ってしまった。夜景と違って昼間見る函館山からの眺望もまたスケールが違った。それは心打たれる風景だった。そして午後の便で東日本フェリーにて青森に渡った。青森のフェリーターミナルは、全国から集まったツーリングライダー達のテントで溢れかえっていた。夕方から待合室で声をかけられたライダーと一緒に「ねぶた祭り」を見学に市街地へ往復。さすがは日本三大祭りだけのことはある。ねぶたの大きさには圧倒され、また沢山の人出にもみくちゃになった。帰りは雷が鳴っていて、走行中も落雷が怖くて猛スピードで飛ばしてターミナルへと戻った。そこのロビーでシェラフだけで仮眠した。最終日は、そこで知り合った3人のライダーで十和田湖や奥入瀬渓流を見ながら、高速道路で(金を節約のため出来るだけ4号線を行く予定で)帰ることにした。当時は四輪と二輪が同額料金だったのだ。「ねぷた」で有名な黒石市から峠道を走り、まだ早朝の6時過ぎに、靄がかかった湖面がひっそり静かに佇む展望台に到着した。そして緑の葉の木々が茂った奥入瀬渓流沿いの道を走った。そしてそこで他の2人と別れ、二戸辺りで4号線に入った。そして青森県から岩手県に入り、ずっと国道を南下。岩手はとにかく南北に長い県。思うように距離が稼げない。早めに青森を発ったのに盛岡市を通った辺りでもうすでに昼下がり。そして業を煮やし、水沢ICから本宮ICまで東北自動車道を走行した。初めて高速道路をバイクで走った。250ccでも高性能バイクを売りにしているだけはあって、加速と高速を維持する能力には長けていた。風圧は凄いが、安定していた。気づくと直線で150km/hも出ていたことに気づき、慌ててスロットルを戻した。さすがは高速は早い。時間短縮に大いに役立った。226kmを3時間弱で駆け抜けた。そして夕刻前には自宅に辿り着いた。この3日間の総走行距離は1,116kmにも上った。この時の写真をつい最近まで紛失してしまっていた。この回だけが唯一紀行文に掲載できなかったツーリングとなってしまった。理由は、その旅から2週間も空いてしまい、記憶が覚束なかったことと、3日間の出来事を記すと50ページはまず下らないだろうと思い、とりかかる勇気がなかったから。これで愛車VTと駆けた北海道ツーリングは幕を下ろしたことになる。総走行距離7,870kmは、私の大切な、そしてかけがえのない想い出の印となった。

7870km

 実家に帰っても「夕ニャン」のことが気掛かりで、落ち着かなかった。家の手伝いをしながら束の間の二週間を過ごした。そんな中、日本列島を揺るがす大事故が勃発した。8月12日の夜、羽田空港を飛び立った大阪行きJAL123便が、群馬県の御巣鷹山の上空で消息を絶ったのだ。テレビの画面のニュース速報が流れ、視線が釘付けになった。お盆の帰省で満員の乗客を乗せていた。524人全員が絶望かと思われた。翌朝煙が立ち上った事故現場からの中継で、奇跡的にも生存者が4名救出されたと報じられた。その死者の中には、何と歌手の「坂本九」や「伊勢が浜親方の婦人」も含まれていた。結局520人もの尊い命が一瞬で消えた。この夏は、この話題と、吉田義男を監督に迎えた阪神タイガースの快進撃の話題で持ちきりだった。秋には21年振りのリーグ優勝と西武と対戦した日本シリーズにも勝って日本一を成し得た。ご存知主力は真弓・掛布・バース・岡田・平田・弘田・長崎・川藤、そして投手陣は、中西・山本・福間・ゲイル・池田・中田・仲田などがいて最強だった。

 やがて二週間滞在した実家を旅立つ日がやって来た。「夕ニャン」を見たかったら北海道まで帰らなければ見れない悲しさ。父親が「バイクがないんだったら一度は飛行機に乗ってみろ」とアドバイス。しかもつい数日前に墜落した飛行機に・・・。「今なら各社、機体の点検整備に躍起になっているから大丈夫だ」と念を押されて決断。一度は乗ってみたいと思っていた。大学生には「スカイメイト」という割引制度があり、それを使えば35%オフ。しかし、予約は一切できず、満員ならキャンセル待ちしか出来ないものだった。その日は8月21日だった。その日は夏の甲子園大会の決勝戦。PL学園のKKコンビが3年生で、文字通り最後の試合を行っていた。電車で仙台駅まで新幹線で行き、バスに乗り換えて仙台空港へ。ANAのカウンター案内で1,000円払って登録し、さっそく搭乗券を手にした。初めて乗った飛行機はやはり驚いた。滑走路で一旦停車してエンジン出力を最大に上げ(物凄い音)、いきなり引っ張られるように急加速。500km以上で滑走路を走り、急上昇&急旋回。仙台空港は海のすぐ脇に滑走路があって、いきなり海に投げ出される感覚。地上の景色がみるみる遠ざかり、旋回する度に斜めになる。気圧の変化で耳がキーンと鳴る。あっという間に雲の上の晴れ渡る世界。こんなに雲が低い位置にあると思わなかった。フェリーや陸路とは異なり、飛行機は快適そのもの。1時間ほどで北海道の大陸が眼下に見え出した。苫小牧付近のまっすぐな海岸線。青い海と陸地の境界線部分のコントラストは綺麗。やがて高度を下げて着陸態勢に。千歳空港に16時頃到着。なんと実家を出てからここまで4時間強。電車ならまだ青森にも達していない。世の中にこんな便利なものがあったとは。でも学生には贅沢だった。電車なら1.3万円なのだが、飛行機はスカイメイト料金でも1.8万円近くかかる。空港の到着ロビーで高校野球の標識をやっていた。やはりPL学園が優勝した模様を報じていた。やはりK・Kコンビは最強だった。桑田は甲子園通算20勝3敗だった。決勝戦を戦わなかったのは一度きりといい常勝軍団だった。札幌経由で自宅に戻ったのは「夕ニャン」が始まる直前だったと思う。ところが希望を託した予約録画に失敗。空白の2週間(10回分)をすべて録画出来ていなかった。これには唖然&茫然自失。何のために帰郷を遅らせたかわからなかった。

 さて、気を取り直して、北海道で過ごせる期間も残すところ半年余りとなった。バイクが無くなり、行動が狭められることに危機感を強め、あと数カ月しか乗れないのを知っていて、9月に自転車を衝動買いした。R12沿いにあるダイエーの敷地の一角に、「マツザキ」というホームセンターがあって、そこで15,800円の黄色いチャリを購入。中心街への買い物には出やすくなった。でも勿体ない出費だった。その自転車は年明けにも美容室経営の大家さんが、お客さんで自転車を欲しがっている人を見つけてくれ、5千円で引き取ってくれた。9月11日に大好きだった「夏目雅子」の急死の訃報があったり、l秋(10月)は阪神優勝一色だった。大の阪神ファンの教授がいて、気を良くしてその年の試験は「優」のオンパレードだった。そこから先はあまり行事を覚えていない。粛々と生活した筈だ。この年は10月中旬に初雪が降ったが、一度も解けることなくそのまま根雪になった。雪も多く降り、あまり外へは出ないで、大学との往復以外は家に閉じ籠っていた。アクティブ少年の「M」の存在はやはり大きかった。北海道の建物の造りは完ぺき。外気の侵入と結露を防ぐように、窓はすべて二重窓。学生生活で一番困ったのは散髪だった。節約のため、自分で切っていたら、変に禿げあがって収拾がつかなくなって、学校へ行ったら思い切り笑われた。この頃から、遅ればせながら「夕ニャン」が全国ネットを開始し、地元福島県でも観れるようになった。これで気兼ねなく帰れることとなった。

 12月の帰郷は、空路を使った。千歳空港から仙台空港までひとっ飛びだった。千歳は一面雪景色だったが、着陸した仙台空港は雪などどこにもなく、カラカラだった。そこから国鉄東北本線の至近の「館腰駅」までタクシーを使ったが、運ちゃんに「北海道の学生さん?北大生なんでしょ?」と聞かれ、返す言葉が無く、咄嗟に「そうです」と嘯いてしまった。年明けて一月、家族と正月を過ごし、最後の北海道生活へ。ここも飛行機三昧だった。この時の仙台空港は、Uターンラッシュと重なり、スカイメイトでは取れず、キャンセル待ちで何とか潜り込んだ。この時は、定員が多く収容可能な258人乗りの中型機だった。座席は横7列の、窓際ではなく真ん中だった。何と機体正面のスクリーンに、滑走路を走る機体の模様を内部カメラで撮って生中継していた。興奮した。上空に飛び立つと連動してカメラが下向きになった。真冬の北海道に戻り、すぐ試験の準備に入った。1月下旬にすべての単位認定試験を受け、単位を無事取得。晴れて4月から東京キャンパスへ籍を移すこととなった。2月に最後の想い出となる行事、「さっぽろ雪祭り」に出向いた。最初、さすがに独りでは行けず、パートナー探しに明け暮れた。しかし、石川出身のS君が手を挙げてくれた。2回目だったので、一度目よりは感動は薄かった。それでも真駒内と大通公園の会場を闊歩し、その雰囲気を味わった。

 友人達は、次々と進級を決め、2月中には北海道のアパートを引き払って行った。アパートでは一人だけ、学校にも行かず部屋で酒と煙草と麻雀三昧だった奴が留年した。私は、北海道生活に名残が惜しく、3月初旬まで居座った。遂に北海道と「さよなら」する日が来た。日付は忘れたが、最後はしみじみ別れを惜しむため、飛行機を避けて陸路を選んだ。一週間ほど前から、引越しの荷造りをしながら涙が出る思いだった。1年時に比べるとこの2年生はあっという間に時が過ぎたと思う。大家さんに挨拶し、鍵を返し、光熱費の日割分を支払ってアパートと岩見沢市を後にした。函館まで「特急列車」を使い、結局電車は、電化されている室蘭本線を使い、一度も「特急北海」が走る倶知安、小樽周りの無電化路線の函館本線は使わなかった。こちらは相当な難所の山越えなので、千歳周りよりも時間がかかってしまうのだ。そして最後の青函連絡船は「十和田丸」だった。デッキで最後の記念スタンプを押した。青森駅からは急行「津軽」に乗車した。赤い電気機関車に曳かれるブルートレインの客車だった。始発なので座れないことは一度もなかった。そして後ろ髪をひかれる思いのまま、郷里のプラットホームに降り立った。

 東京のアパート探しは、思いのほか早く決まった。わざわざ東京に行かずとも、その年、同じ大学を卒業した先輩が近所にいて、それが両親が良く知っている人だった。その息子さんが住んでいたアパートにそのまま入れることになった。そこは大学がある世田谷区で、玉川通り沿いから少し入った閑静な住宅街。銭湯も近く、スーパーマルエツもあって、何不自由ない環境の良い場所だった。最寄りの駅は、三軒茶屋とK大学駅の中間地点。家賃は3.8万円だったが、6畳一間。台所はついていたが、風呂は無かった。住所は上馬一丁目といって、環状七号線より内側にある土地代がかなり高い場所だった。バイクで通学なので、あまり近くなくても良かったが、渋谷や原宿に遊びに行くのにも近くて便利だった。

 以上が2年間、貴重な大学生活の一部始終だ。細かいことを挙げればキリがないが、大筋はこんなところだ。人前(全国ネット)でカミングアウトするような内容ではないが、自分の想い出として、また自分自身の備忘録となれば幸いかと思い、敢えて掲載に踏み切った。最初の2年間は女っ気ゼロ。恋話を期待していた人には申し訳ないが、それは東京キャンパス以降の話で盛り上げたい。しかし、学生時代のことを語り出すと止まらなくなり、ついつい長くなってしまう悪い癖がある。次回は、息抜きということもあって、暫く別の話題に触れたいと思う。

 ~1985年の出来事~

 ・ 電電公社がNTTに、日本専売公社がJTに民営化(4月)

 ・ 阪神、バックスクリーン三連発

 ・ 男女雇用機会均等法成立

 ・ 三菱石炭鉱業夕張南炭鉱ガス爆発62名死亡(5月)

 ・ 豊田商事の永野会長刺殺事件 

 ・ バックトゥーザフューチャー封切り(7月)

 ・ 日本航空123便墜落520名死亡(8月)

 ・ ロス疑惑の三浦和義逮捕、女優・夏目雅子死去(9月)

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Onyanko

2010年3月 3日 (水)

学生時代 in 北海道 (1984.4~1985.3)

 ネタに困ると北海道の話を持ち出す悪い癖がある。これまで幾度となく当ブログに記事を紹介して来た通り、私は大学生活の4年間を北海道と東京で過ごした。それは人生に於いて、自分を成長させてくれる貴重な経験を与えてくれた場所であり、今思えば、実にかけがえのない日々だった。四半世紀前の記憶を甦らせるのは至難の業だが、とりわけ北海道での出来事は印象に残ることだらけで、毎日が新鮮だった。今回はそんな学生時代の出来事を思い出せる範囲で書き出し、エピソードにコメントを添えて振り返りたい。

 1984年、高校時代の同級生と2人で同じK大学へ進学した。北海道へ旅立つ直前まで、親に内緒で自動二輪の教習に没頭していた。一本橋でふらつくミスを犯したものの、3月31日に卒業検定を切り抜け、翌々日の2日には、福島市まで出向き、庭坂の運転免許センターで適性検査を受け、即日交付。教習開始から10日余りで取得し、何とか間に合わせた。北海道と言えばバイクツーリング。それに憧れて、夏休みまでバイトをして、何とか購入資金に充てようと目論んでいたのだ。当時、一世を風靡していたのは、ホンダVTやヤマハRZ、スズキγ、カワサキKRなどのオンロードタイプのスポーツクォーターバイク。今思えばミーハーの代表格なのだが、それでもフロントマスクにカウリングを施した斬新のデザインに心躍り、何としても手に入れたかった。

 最初の北海道上陸の交通手段は、何とフェリーだった。学生の身分だったので、一番安い交通手段を選んだ。4月4日に郡山の実家を発って、友人と二人新幹線で仙台へ。そしてそこから仙台港行きのバスに乗り換え、岸壁に接岸していた名古屋・大洗経由の「太平洋フェリー」に乗り込んだ。初めてフェリーに乗ったが、堤防で囲まれた湾内から外洋に出た途端、大揺れ。大型フェリーでも、高低差100mは上下する。2等客室のフロアーにいたが、一発で酔った。その航路は、仙台から苫小牧まで15時間半の地獄絵図とも呼べるような航海だった。寝ようと思っても吐きそうになり、おちおち寝てなんかいられない。夕刻に発った初めてのフェリーでも、外の景色に浸る暇など到底なかった。そして、もがき苦しみながらも、何とか15時間耐え抜いた。朝方、船室の窓から初めての北海道の海岸線が見えて来た。この時の感動は未だに脳裏から離れない。しかし、船内で日付が変わった4月5日、見える景色は何と雪が舞っていて、真冬の世界へ逆戻り。近づくフェリーターミナルの岸壁には雪の塊が見えた。福島では桜の便りが間近に迫っている頃合いだったのに、何か一種の疎外感を抱いたことを覚えている。

 その後、タクシーに相乗りして、苫小牧駅に向かい、そこから当時の国鉄に乗り換え、住まいを構える岩見沢市に辿り着いた。すべてが生まれて初めて見る景色。建物は奇妙な屋根の形をしていて、民家の玄関がやたらと高い位置にあったこと、玄関の前にもうひとつ玄関があることに驚かされた。防風と結露対策、更には外気が部屋に直接入りこまないような配慮のようだった。中学時代、社会の先生が「寒い季節には北海道へ行き、暑い季節には南へ行け。備えは万全だから」と言っていた意味が実感できた瞬間だった。駅前には「中央バス」の赤のラインが賑やかな市バス。そして旧国道12号線の交差点の先にはそのターミナルがあった。その真正面の白いビルの屋上には何故かシンボリックな「自由の女神像」が立っていた。私が住むのは、岩見沢西高校という、今も実在する高校の真向かいにあった今は無き「エンゼルハイツ」というアパートだった。並木町という地名で、国道234号線からAコープの角を脇道に入った美容室と隣接した10世帯は入るような建物だった。アパートと言っても玄関はひとつで、中に廊下があって、台所は各部屋についていたが、風呂やトイレは共同だった。洗濯機も100円コインのタイプだった。つまりは学生寮みたいな作りだった。驚いたのは、4月初旬でも、北側の一階部分には、雪が積み上げられ、窓をすっぽり塞いでいた光景だった。やはり北海道は半端じゃないと思った。行く前は夏でも長袖じゃないのかとか、もしかしたら日本語が通じない場所なんじゃないかと真面目に思ったほどだった。その他で岩見沢の有名な物は、「ばんえい競馬」くらいのものだった。

 続いて引越し整理が一段落した頃、大学の入学式が執り行われ、薔薇色の学生生活が始まった。実は、大学生になったら、一度は出てみたいTV番組があった。それは「やすきよのプロポーズ大作戦」に登場する「フィーリングカップル5対5」だった。しかし、私が大学生になった年に、放送が終了してしまった・・・。入学式自体のエピソードも強烈な印象として残っている。友人と連れ立って、会場入りしてびっくり。腰を抜かすほどの衝撃を受けた。壇上には大きな仏壇がいくつも置いてあって、何故だか会場全体が線香がばんばん炊いてあって、煙が充満している。一瞬不安がよぎった。そしていよいよ式が始まったと思ったら、通常なら起立・礼・着席となるところを、かかった号令は「起立・合掌・着席」である。そして「教授入場」とアナウンスがかかったと思ったら、あろうことか会場に入って来たのは、全員袈裟に身を固めたどこからどう見ても「お坊さん達」。「何だこれは?」一瞬、会場を間違えて、どこかの宗教団体の集会に紛れ込んだのかと思った。自分としてみれば、苦労して入った大学だった筈なのに、一瞬で夢が覚めた思いだった。薔薇色どころかのっけから玉虫色にたたき落とされてしまったのだ。考えてみれば、K大は仏教系の大学だった。自分の家の宗派は、弘法大師空海が開祖の真言宗だが、その大学は別の宗派だったのだ。

 4月から7月までは、大学の講義自体は1年時からカリキュラムの取り方で、土日を休みにした。大学までは徒歩で10分程度のかなり近い場所にあったので通学はことのほか楽だった。大学のキャンパスは、流石は北海道と思わせるほど広大だった。附属の高校が大学に隣接し、ヒグマ打線との異名をとるほどの甲子園の常連校だけあって、専用の球場と巨大スコアボード兼バックスクリーンの中には屋内練習場を完備していた。大学の講義がある日はまだしも、空き時間には家に戻ってTVなどを見ていた。テレビは室内アンテナしかなく、映りは極端に悪かった。特にUHBとHTBのUHF系がイマイチだった。VHF系のHBCとSTVはバッチリだった。コマーシャルも内地(北海道の人は本州の事をこう呼ぶ)とは、まるで違うものだった。中でも有名なのは、「白い恋人」でお馴染みの石屋製菓のCMや、ルスツ高原、「ここはお風呂の遊園地~なんてったって宇宙一~♪」という歌で有名な定山渓温泉、セスナ機が札幌上空を飛ぶ「北海道新聞社」などのCMが印象に残っている。あとは「皆様の丸井今井」も何回も目の当たりにした。また、食料の買い出しに行くのは重労働で、徒歩で500m離れた目抜き通りに北海道教育大学があって、その近くが春木屋という書店とバス停があった。その一本裏手にこじんまりとしたスーパーがあった。よくそこまで野菜などを買い込み、ビニール袋に溢れるほどの食材を入れ、往復した記憶がある。

 4月の下旬に学科の先輩と教授達を囲んでの新歓コンパが市内の居酒屋で開かれた。その時、当時流行っていた「イッ気飲み」をやらされ、調子に乗って飲んでいたら、帰りのバスの中で酩酊状態。アパートに着いた時には先輩の助けがないと部屋まで上がれない状態。その夜はトイレと随分仲良くした記憶がある。そんな時に限って実家の母親が電話をよこした。「水をいっぱい飲め」だのアドバイスする。この日はマジ辛かった。あとサークルで人数合わせで名前だけ入った「写真部」でも歓迎会を催した。それぞれ出身県の訛りを披露したが、郡山弁が思いつかず、つい語尾に「~づら」を付けたところ、それって「栃木弁じゃね?」となって、それ以来胡散臭い奴だと思われてしまった。

 また同郷の友人Nがアパート内の隣りの部屋に住み、彼はとにかくアクティブで、市内をあちこち探検するほどの物好きで、いろいろな店の所在を彼から教えてもらった。234号線沿いにはAコープというスーパーがあったり、国道を挟んで生協があった。その友人はとにかくお洒落。着る物も「ホットドッグプレス」や「ポパイ」という雑誌を愛読し、研究していた。こだわりがあって、スタジャンなどもよく好んで着ていた。そいつの部屋から流れて来た「浜田省吾のSand Castle」のカセットが気に入り、レンタルレコードで借りて、録音した。ステレオは、姉気の使い古しの物を借りて持って来たが、夏に郡山に帰郷した時、「うすい」にて彼が持っていた横長で、両脇のスピーカーが取り外せるAIWA製のWカセットと同じ物を購入し、音楽を聴きまくった。音楽に関しては彼の影響が大きかった。また、土曜日にFM東京で放送していた「ポップスベスト10」が大のお気に入りで、よくエアチェックしていた。当時一世を風靡していた洋楽は、TOTOの「Africa」、カルチャークラブ「カーマは気まぐれ」、シンディローパー「ハイスクールはダンステリア」、マイケルジャクソン「スリラー」、ワム「ケアレスウィスパー」、ガゼボ「アイライクショパン」、マドンナ「ライク・ア・バージン」、ケニーロギンス「フットルース」、スティビーワンダー「心の愛」、その他バンヘイレン、ジャーニー、ホール&オーツ、a-ha、ジンギスカン、ブズスキャッグス、シャカタク、アラベスク、フィルコリンズ、シカゴ、ビリージョエル、ブルーススプリングスティーン、ノーランズ、ABBA、ボンジョビ、日本人シンガーでは、マッチ、菊池桃子、チェッカーズなどアイドル全盛だった。それだけに実力派シンガーの浜田省吾の世界観との出会いは衝撃的だった。一方、私の好きなテレビでは、小林克也DJで深夜に放送していたベストヒットUSAや、松山千春がMCを務めていた「ハローミッドナイト」、テレ朝は「トゥナイト」、日本テレビ系では「独占おとなの時間」や「11PM」を引き継いだ「テレビ海賊チャンネル」など特異な番組が盛り沢山で、「ティッシュタイム」や「シャワータイム」なるお色気興奮番組もあった。その友人とは5月のGWに、札幌観光にバスで出向いた。当時は札幌から岩見沢まで高速道路が唯一開通していて、高速バスを使えば500円という格安で1時間以内で札幌の中心市街地まで行けた。TVの画面でしかお目にかかったことがないテレビ塔、大通り公園、遥か彼方に聳える大倉山シャンツェ、夢にまで見た時計台、オーロラタウンとポールタウンの地下街、そして何とゴムタイヤ式の地下鉄など、見る物すべてが新鮮そのもの。当時の札幌は170万人の大都市だったのだ。

 また、1年上(2年生)に、現役で合格した中学の同級生もいた。その友人はやはり、バイクに乗り、気が向いた時にはどこにでも出掛ける典型的なB型タイプの奴で、とにかくマイペース。1週間に一度、愛車のオフロードバイクホンダのXL200に乗って、赤のジェットヘルを被っていた。そいつはとにかく神出鬼没で、いつも予告なしにいきなり現れるのだ。そして昨日は「どこどこまで行って来た」とか逐一報告してくれた。そういう彼の土産話によって、ますますバイクに乗りたいという衝動に駆り立てられたのだった。彼とは今でも親友だ。彼は経済学部に在籍し、その後、郡山に本社がある大手スーパーの社員に採用され、いわき市の小名浜や泉、宮城県塩竃や山形県米沢市、寒河江市を転々とし、最近ようやく43歳にて結婚した。今は、那須の支店にいる。その友人は、北海道キャンパスから東京に移った時、オフローダーでしかも小柄ながら一発で「限定解除」を成し遂げた運転技術に長けた人だった。さすが好奇心旺盛で凝り性、負けず嫌いでのめり込むB型だけのことはあった。また、その友達で、やはり郡山市出身の奴もいた。そいつも小型バイクに乗り、その後一緒に道東へツーリングに出かけたことがあるのだが、10月過ぎに、キャンパス内のロータリーでバイクに乗っていて、車とぶつかり、足に大怪我を負って、しばらく入院していた。

 また、これは横浜出身の2浪して入って来たひとつ年上の友人だったが、久本雅美が入信していることでも有名な宗教団体に入っていて、そいつの賄い付きの下宿先にお邪魔した時に、いきなり部屋に小さな仏壇があって、せつせつと俺に宗教(日蓮正宗)の悟りを語り出した。一時は、知らないでついて行ったら、そんな人たちの集まりで、寄って集って俺に入信を勧めて来て、途方に暮れたことがあった。そんな宗教活動を行うために大学へ来た訳ではないので、丁重にお断りした。そいつは不思議な奴で、入った大学は曹洞宗、しかし本人が強く信仰しているのが日蓮正宗、家は踊念仏で、父親が天理教で母親はPL教団と言う一家で異なる宗教を信仰していたのだ。いくら憲法で「信教の自由」を保障していても、マジ大丈夫なのだろうか?そして同じアパートにも、その後仲良しになるB型野郎がいた。そいつは現役で入って来たひとつ年下なのだが、横浜の旭区に住む都会っ子なのだが、どちらかと言えば自然派タイプで、地理学科の為か、電車や旅行が大好きで、「国鉄チャレンジ3万キロ」を実行していた友人だった。その後、大の仲良しになったが、そいつが凄いのは、「青春18きっぷ」を利用し、各駅停車の列車を使って、日本全国津々浦々すべての駅で降り、そこのプラットホームで駅名を入れた標識をバックに撮った証拠写真と、待合室に置いてあるスタンプのコレクションがアルバムに綺麗に整理してあって、見る者を圧倒していた。そしてもうひとり、同じ学科の友人で仲が良かったのは、石川県の松任市から遥々来た、ベースを弾くS君だった。彼はヘビースモーカーだが、新築のワンルーム(カレッヂハウス)に住んでいて、時々入り浸っていた。そして学部にはいわき市出身の2人がいて、それもまた心強い存在だった。

 私が住んでいた岩見沢市は、当時は札幌から40kmの交通至便にあって、人口は8万人いた。雪が半端じゃなく降り積もることで有名な土地柄で、市内を巡回するA・B2つのコースのバスは、どこからどこまで乗っても100円均一だった。また、街中に大小様々な牧場があって、牛がいたり、北国特有の酪農風景が展開され、サイロがあった。市街地は空知支庁があり、ホクレンの巨大な建物がドーンと聳える。また、駅周辺には唯一、「金市館」という、かつて郡山にあった津野デパートと似た作りの5~6階建てのデパートがあった。そこでグレーと黒のジャケットを購入した。それを着てキャンパス内を歩いていたら、附属の高校生から「よっ、シティーボーイ」と声を掛けられたことも覚えている。また、古ぼけた電力会社の建物の近くには、名前を忘れたが、ディスカウント店があった。そこで当時、私が使っていた日立マスタックスのVHSビデオレコーダーのテープを購入していたが、驚くことなかれ、北海道は輸送費が嵩むのか、たかがVHSテープ一本が1500円もした。高嶺の花状態だったのだ。勿体ないので番組は標準モードではなく、3倍モードで録画していた。まさに「所変われば品変わる」で、いろいろと新発見は尽きなかった。また、恐ろしい事件も発生した。いきなり知らないオヤジから電話がかかって来て、「昨日はよくもウチの若いもんを可愛がってくれたな」「今から子分をお前の所にやるから首洗って待っとけ!」などという身に覚えのない話をされて、一方的に切られた。それから30分後、いきなりチンピラ風の2人がドアを開けて入り込んで来た。徐に俺の顔を見るなり、「こいつじゃねえ」と言ったかと思うとそのまま出て行った。何が何だか分からなかったが、予想では、何か夕べ飲み屋あたりでトラブルがあって、そいつのことを殴った大学生がいたのだ。でまかせに適当にアパートの名前と俺の苗字をとっさに使ったのだと思った。全く、迷惑な話だ。大学生活は、授業はさほどきつくなかった。アットホームな感じだったし、助教授や教授との距離もわりかし近かった。特に英語の授業では、リンガホンという英会話教材をやっていたせいか、発音には多少ンリとも自信があった。教授に皆の前で「SUZU君の発音は素晴らしい!」と褒められ、それで更に発音に磨きをかけたものだった。ただ、藤女子大卒の女性の英会話講師Kと論文の書き方がわからず、苦労させられたのだが、毎回同じシャツとネクタイのG先生とは波長が合わず、成績は良くなかった。

 そうこうしているうちに、夏休みになった。その年の夏は「ロサンゼルスオリンピック」の話題で持ちきりだった。開会式でのロケットマンの派手な演出、カールルイスの4冠達成など見どころは十分だった。具志堅幸司の体操個人総合金メダルも素晴らしかった。この時点では、交通手段はバスしかなかったので、行動半径は狭く、どこに何があるかはあまり把握していなかった。7月に初めて帰郷。函館までは電化されている千歳本線の電車で函館まで5時間かけて行き、青函連絡船(大雪丸)に乗り換え3時間50分の航海。そして急行「津軽」に乗って8時間。ようやく郡山に辿り着いたのだった。初めて乗った青函連絡船もまた格別だった。どこか旅の情緒や郷愁を誘う。この連絡船何が凄いって24時間、フル操業。6種類の船が3時間おきに一本ずつ出ていたことと、国鉄から搭乗口までタラップで一度も外に出ずに乗り換えができることだった。津軽海峡は波も穏やかで、さほど揺れることはなかった。寝そべることのできるフロアと座席式の船室があった。どちらかと言えば、この連絡船には夜に乗船することが多かった。だから、あまり景色を堪能することは少なかった。

 郡山へ戻って数日後、そこで運命の出会いを果たすこととなった。家の手伝いで車に乗っていた時の事、市内長者のホンダウィングの前を通りかかった時、まさに私が高3の時に雑誌で見て、それ以来ずっと恋い焦がれていた黒のVTが置いてあった。新車だと399,900円だったのだが、メーター6千キロで340,000円だった。バイトで溜めた資金を元手に即決した。そのバイク屋とは、親同士が良く知っていたが、とにかくこんな田舎でこれだけの上物はなかなかなく、足元を見られた感は否めない。それでもようやく念願がかなった。最初は緊張した。教習以来3カ月振り以上の実車だったからだ。前のオーナーは山形県の女性ライダーだった為、傷もなく丁寧に乗っていたようだ。それから9月に北海道に戻るまで、慣らし運転を続けた。やはり、250ccとは言え、1万回転以上までエンジンが回る高性能V型ツインの4気筒。スロットルを開けるとボーンという独特なエンジン音がして、加速が凄まじかった。タンクの容量は12リットル。バイクには燃料計がなく、走行距離と燃費を常に把握していなければならない。そのため、エンストを避けるため、燃料コックには、R(リザーブ)があって、その数キロの間にGSを探さなければならなかった。VTは当時流行りだった2気筒のRZやγとは異なり、燃費は良くて20キロ以上走った。あと自分でオイル交換は出来る様に、工具を揃え、もしもの時に備えて、チューブレスタイヤのパンク修理キッドを購入した。箱形の吸収スポンジのような廃油を回収できる物が売られており、何と家庭のゴミと一緒に捨てられた。そして、HONDAに請求し、パーツリストやサービスマニュアルまで取り寄せた。

 やがて2か月近く実家で過ごした夏休みも終わりに近づき、北海道に戻る日がやって来た。確か仙台港を18時過ぎ発の東日本フェリーだったと思う。9月上旬、秋の気配を感じながら4号線をひた走り、仙台港までかかる時間を逆算して割り出した。4時間あれば大丈夫だろうと思い、14時頃実家を出発した。しかし、福島市内を越えてから渋滞などで思うように距離が稼げず、更には途中から道順がわからなくなり、迷走した。刻一刻とフェリーの出航時間が迫る。マジ焦った。また出直しか?と覚悟した時、暗闇の中から船体が浮かび上がって来た。その時は冷や汗の連続だっただけにホッとした。恐らく出航まであと5分だった。急いで乗船手続きを済ませ、ゲートから船に乗り込んだ。まさに危機一髪だった。翌朝、船酔い状態で苫小牧に降り立った。いよいよ北海道での憧れのRUNの始まりである。いきなり、国道36号線で信号で停車した時、ツーリングライダーと思しきライダーと初めてのピースサインを交わした。何かとてつまもなく感動した。まったく知らない人と触れあえた瞬間だった。そしてR234に合流し、岩見沢まで1時間半のライディングで無事生還した。XLの友人Mに早速披露。今後、彼と北海道の旅に出ることになる。アパートにはもう一人、「γ」に乗る先輩のF氏がいた。ところが、夕張の手前の峠を攻めていた時に車と衝突して敢え無く廃車の一途を辿った。アパートの目の前の砂利に留め、カバーを掛けていた。ところが、一度、取り外し可能な両側のサイドカバーを盗まれたことがあった。これはショックだった。北海道では部品は高くて、調達にもえらく日数を要した。それを教訓にカバーに穴を開け、針金で頑丈に括りつけて対策を万全に行った。バイクは「福島ナンバー」だった。これには2つの理由があった。ひとつは、北海道に住んでいた2年間、住民票を移していなかったのだ。だから実際2年間北海道に住み、暮らしてはいたが、正式に(書類上)は北海道に住んだという記録は何も残っていないのだ。もう一つは、北海道を走るのなら、札幌ナンバーよりも、福島ナンバーの方がツーリングで遥々来たという感じがして、北海道の人のウケが良いのでは?と考えた。バイクが手に入ってから行動半径が飛躍的に向上した。大学への通学もバイクで行ったし、駅前周辺や札幌の古本屋まで何往復したことか。駅前には唯一一軒だけ「レンタルレコード(当時はまだCDは無かった)屋」があって、ヒット曲のSPやLPを借りて聴いていた。色んな面でバイクは重宝した。

 旅に出る準備として、「ユースホステル」の会員になろうと決め、隣りの北海道教育大学の学生協に出向いた。中に入ってビックリ。さすがは国立大。食堂は綺麗で広く、メニューも豊富だった。ランチは280円という安さ!そこに張り紙がしてあって、「K大生は来るな!」と書いてあった。生協で登録料500円を払って、ユースの会員になった。ユースは、学生にとって有り難い存在だった。一泊1,500円で宿泊でき、食事やベッドメイキングはすべてセルフで、部屋自体も1部屋6人で、2段ベッドがあるだけ。ミーティングにも必ず出席が義務化していた。まずは学校とアパートの往復でバイクを使用していた。ある時、講義終わりに、徒歩で帰宅途中の隣りの部屋の友人を見かけ、気前よく後ろに乗れと言ってしまった。ところが、ノーヘルで校門を出て暫く走った途端、いきなりミラーにはパトライトが・・・。初めてパトカーに乗せられ、切符を切られた。点数のみ1点引かれ、反則金はとられなかった。勘違いしていたが、バイクと四輪は点数が別々だと思っていた。これにはびっくりだった。

 そして、記念すべき初めてのツーリング。パートナーは同郷のXLを駆っていたM。選んだルートは、小樽経由積丹半島回り函館行き。2年生のため、翌年は東京のキャンパスに移ることになる彼にとって、この9月・10月が最後のチャンスだったのだ。11月には雪が降り積もるので、実家にバイクを届けに戻らなければならなかった。9月14日(金)~16日(日)の北海道バイクツーリングは、やはり寒いものだった。しかしながら、積丹半島周辺の海の青さには感銘を受けた。エメラルドブルーで、透明度は抜群だった。島武意海岸の展望台の眺望や神威岬までの登山も想像を絶するものだった。海岸線走行で、リーン・インとリーン・アウトのコーナリングの仕方をここで覚えた。ユースホステルでの宿泊もレクレーションゲームに興じたり、楽しかった。函館の夜景を初めて目の当たりにして感動したことやイカソーメンを食べた時の感触は未だに忘れられない。この旅の想い出をどうにかして形に残したいと考え、それには高校時代に修学旅行の課題に出た「紀行文」を大学時代のツーリングでも書いてみようと思い立った。ここから始まった紀行文執筆は、4年間続き、大学ノート10冊分、ページ数で1,500ページを超える大作となった。そしてこれももう一つの試みとして、Mが実行していたことだが、部屋に白地図を貼り、自分がバイクで実際に走ったルートを赤で塗りつぶすことにした。そうすることで、人間の心理として、出来るだけ早くかつ多くの場所を真っ赤にしたいという衝動に駆り立てられるのだ。実際正味一年のバイクツーリングで、走っていない道がないくらい白地図が真っ赤に染まった。

 その後、忘れもしない9月下旬に事故が起きた。「悲別ロマン座」を目指し、初めての単独ツーリングに行こうとして道を間違えた峠道で、進入速度を間違えて下り左カーブを曲がり切れず、道路右側の砂利の側道に突っ込み、転倒。我が愛車VTは側溝に転落。怪我は足を擦りむいた程度だったが、側溝に入ったバイクが心配だった。たまたま運良く大型バイクで通りかかったライダーに助けを求め、2人で引きづり出した。公衆電話からM君に電話し、駆け付けて貰った。バイクは、この事故でカウルが損壊。マフラーも傷とへこみが入った。ガソリンが滴り落ちていたが、でも走れない訳ではなかった。転倒した瞬間は、二度とVTに乗れないと思ったが、大事には至らなかったようだ。

 続いて10月7日(日)にはM君と定山渓経由で登別へ。昭和新山、洞爺湖などを訪れた。彼のバイクはオフ車なのだが、こっちはオンロード。オロフレ峠という断崖絶壁のダートを通ったが、20km/hも出せず、引き離されてしまった。急勾配でバランスがとれず怖かった。そして、登別温泉では、地獄谷を見た後、ロープウェイでクマ山に登り、クマ牧場へ。そこは動物園のように、檻に囲まれた広いスペースにヒグマがウヨウヨいた。しかし、かつては野生で捕獲されたのだろうが、今では観光客が投げ入れるエサ欲しさに、手招きしたり、手を叩いて芸をする始末。獰猛さは影を潜めていた。「本当は着ぐるみを着た人間が入っているのでは?」とさえ思えた。そこには、アイヌの集落や住居を再現したエリアがあって、アイヌの織物や飾りなどの民芸品も販売されていた。その後、帰りも夜道なのにわざわざ寒さで震える中、藻岩山展望台へ夜景まで見に立ち寄った。Mは超タフだった。頂上からの下りは燃費節約にとライトを消し、エンジンを切って惰性で走行。これも意外に怖かった。そして12号線を耐久レースの如く、寒さに震えながらデッドヒート。家に着いたのは夜の帳がとうの昔に降りた後のことだった。このツーリングは、バイクは寒いという印象しか残らなかった気がする。

 更に、寒さが募り、初雪がチラつき始める中、Mが最後だから道東へ行くけど一緒に行くか?と誘って来た。同郷のF君も一緒に行くようだ。正直寒くて嫌だったが、滅多に一人では行けないし、夏場の道東は霧が立ち込め、摩周湖などの景色は見えないことが多いのと、Mと旅していると笑える事件ばかりなので、便乗させてもらった。それは10月12日(金)から16日(火)までの4泊5日の日程だった。当然2日間は授業をさぼった。この時期、好き好んでバイクで道東に行くツーリングライダーはいなかったと思う。初日はサロマ湖の夕日を見て、竜宮台の先端まで行った。そして常呂の町で、お洒落な「船長の家」というペンションに宿泊した。2日目は網走刑務所を皮切りに、美幌峠・摩周湖(濃霧と雨で何も見えず)・硫黄山・砂湯・知床の宇土呂泊。3日目は雨の中、知床五湖を巡り、嵐の知床峠越えを敢行。暴風と霧で、生きた心地がしなかった。やはり北海道では私は雨男だった。私が家を出るとそれまで晴れていても、天気が急に悪くなり、雨や雪が決まって降り出す始末。天気には見放されていたようだ。そして羅臼から尾岱沼(トドワラ)・根室。根室のユースは、幽霊が出そうな古びたぼっこれ旅館(ユースと併設)だった。旅館ではなく、ユースに泊まりたいと聞いた途端、その宿の主人の応対が急変した。あまりの酷い扱いにキレ、その宿では悪行三昧をしでかした。松本伊代のポスターを拝借したり、夜遅くまで酒を飲んでどんちゃん騒ぎをした。4日目には、納沙布岬・開陽台・阿寒湖・足寄(松山千春の生家)・池田(ワイン城)へ。その日は「まきばの家」という民宿に泊まった。そして最終日はきつかった。連日300kmを越す距離数だった。帯広から有名な愛国駅と幸福駅・絶景の狩勝峠を越え、TVドラマ「北の国から」発祥の布部駅や富良野の麓郷の森を経由した。「北の国から」は、私は当時あまり見ていなかったので友人の水先案内に導かれるまま歩いただけで、ピンと来なかった。そして運命の「悲別ロマン座」を見て、上砂川駅へ。ここがドラマ「昨日、悲別で」のロケ地だった。岩見沢に戻ったのは夜遅くだった。耐久力が試されたツーリングとなった。

 やがて雪が降り出して、今年のツーリングはこれで走り納めと思ったら、11月4日(日)、魔の空白と思える陽気に包まれる日があった。9月に素通りした小樽に、どうしても年内に行っておきたくて、その一日だけ、バイクを引っ張り出した。そして単独でツーリングを行った。小樽の古い建物群や運河、北一硝子、旭展望台などを巡り、映画「Station」のロケで使われた「銭函駅」、そして日本海に沈む夕日を探しに、札幌新港という埠頭と石狩浜という砂浜を訪れた。日中は良かったが、11月の北海道の夕刻以降の寒さは尋常ではなかった。バイク=寒いというような図式しかなかった。そしてこの年は名実ともに走り納めとなった。冬の間、VTはバッテリーを端子から外し、大家さんの家の物置に入れてもらった。その後すぐに雪が降り積もり、一面の幻想世界となった。11月初旬に本格的に降った雪は、一度は解けた。北海道の冬の備えは万全で、四六時中雪上車が出て、道路の雪を掃いていた。また主要道路では、路面からお湯が噴き出し、雪を溶かす仕組みになっていた。当時はスパイクタイヤで、粉じんも凄かった。11月からはあまり外に出ず、部屋に引き籠る機会が多くなった。地理学科の友人Aの部屋に入り浸ったり、その隣りの車を乗り回していたK先輩は、しょっちゅう可愛い女の子を部屋に連れ込んで×××をしていた。その時の声が隣室まで響いて大迷惑だった。アパートでは悪いこともしていた。金がないので100円コインの洗濯機に針金で細工してタダで洗濯した者までいた。また、この頃、夢中になったのが、競馬だった。もちろん金を賭けた訳ではないが、当時、一世を風靡した「シンボリルドルフ」というサラブレッドが大好きで、テレビに向かって大声で声援していた。11月のジャパンカップに出走したが、初めて国産馬として初制覇したのは「カツラギエース」だった。大興奮したのを覚えている。12月に入ると徐々に道路の両側の雪の丈が高くなり、冬休みに入る頃は2mほどの雪壁が出来た。しかし、不思議なことに寒いと思ったことはなく、まるで冷凍庫の中にいるような冷気が全身を包み込む感覚だった。「しばれる」という表現がまさにぴったりだった。そして冬休みにまた、郡山へ帰郷した。もちろん電車と連絡船、夜行列車を乗り継いで16時間の長旅だった。この時乗った船は「羊諦丸」だった。

 正月を実家で迎え、1月は早々と北海道に戻らなければならなかった。1月中旬から下旬にかけて年度末の単位認定試験に臨むからだ。1月初旬には北海道へ舞い戻った。やはり夜行急行「八甲田」で8時間かけて青森へ。そして青函連絡船「八甲田丸」に乗り継ぎ、函館へ。そこからは特急で札幌へ。この時のことはよく覚えていて、札幌までの特急が混んでいて、私は内地からの乗り継ぎ側だったので、函館始発だったので、自由席でも十分座れたのだが、途中から乗り込んで来た乗客は、Uターンラッシュの客で大混雑。通路に立っている綺麗なお姉さんがいて、時々こちらをチラチラ見るので、心苦しかった。また札幌駅が近づいた時に、旅の情緒を醸し出すために車内放送のBGMとして「恋の町札幌」を流せば盛り上がると思った。そして各駅停車で岩見沢へ。1月の年明けに見た北海道の風景は一面真っ白な世界。どこもかしこも雪。雪壁は3m近くにもなっていた。だから「しんしんと雪が垂直に降り、風はなく、単純に冷えるだけだった。私より遅れて東京から飛行機で千歳空港入りした隣室の友人Nが「東京は滅茶苦茶暖かかった」と語った言葉が妙に頭に残っている。

 また、冬の話で書き漏らすことが出来ないのは、まずスキーだろう。せっかく北海道に来たのだからスキーの一つでも覚えようというのが発端だった。実は12月のうちに友人Mと札幌の老舗「スキーハウス」へ出向き、店員に勧められるまま「ダイナスター」(渋い!)の190cmもある板と、当時流行っていたリヤエントー型ではなく、締め付けの微調整が出来るフロントバックル式のイタリアの「テクニカ」製のブーツ、それにポール、ビンディングはLOOK製だったと思う。赤とシルバーでコーディネイトしたサロペットウェアと帽子(アポロ)、グローブ、スキーカバーまで一式を揃え、〆て10万円かかった。そして冬休みに実家へ宅急便でスキーを送り、姉と共に塩沢スキー場で、初めてスキーらしいことを行った。もちろんその時は超初心者ゲレンデで、教えてくれる人もなく、リフトにも乗らず、ターンすら出来ず、ひたすら直滑降だった。そして再びスキーセットをアパートに送った。そして念願の北海道での初滑りは、1月20日(日)、岩見沢から一番近い超マイナーな知る人ぞ知る「萩の山市民スキー場」。移動手段はバスで、M君と九州出身の先輩Mと私の3人で初滑りを楽しんだ。ボーゲンから始めたが、友人はあまり教えてくれず、いきなりリフトの頂上に連れて行かれ降りて来るのに1時間はかかったと思う。スキーがこんなに難しいとは思わなかった。実は、そのスキーの上達を妨げたのが、道具の悪さだった。初心者なのに滅茶苦茶重いブーツと身長+10cm、という店員のアドバイスを鵜呑みにした結果の失敗だった。しかし、雪質はパウダースノーそのもので、サラサラ。握っても雪の玉が作れないほどだった。また、冬場、北海道の子供達が雪だるまを作ったり、かまくらを作っている光景は見た試しがない。多分雪が固まりにくいのでやらないのだろう。あと、どんなに雪が降っていても、北海道の人は傘は差さない。足が滑って転んだ時に危ないからだ。雪の日に傘を差している人は、大抵は内地からきた人と判断できる。

 そのスキーの直後から年度末試験に突入した。大学の試験はレポートが主体だった。結果、教授運に泣かされ、「法学憲法」と「フランス語」「英会話」「着たきりすずめのG先生の講義」は敢え無く撃沈で「可」。それ以外はほとんどが「優」だった。でもまずまず。宗教学では、必死に般若心経を覚えたし、歴史学では、その先生の著作本をわざわざ札幌の北海道大学の傍の古本屋で買い、「邪馬台国の所在」についての記述を読み漁ったりして準備は怠らなかった。そしてその頃、北海道では、「昨日、悲別で」というテレビドラマが再放送された。廃れた炭鉱町・上砂川町(悲別)を舞台に、若者の夢と挫折を取り上げた青春ストーリーだった。出演者は、天宮良(竜)・石田えり(おっぱい)・布施博(駅長)・梨本謙次郎(与作)らで、脚本は倉本聡だった。これを見て、冬の北海道の魅力が倍増した。そして2月5日(火)、画面にも出て来た真冬の「ロマン座」や「悲別駅」「砂川駅」をこの眼に焼き付けていたかった。そして、スキーへ一緒に行ったM先輩に声をかけ、電車で砂川駅まで行き、そこから歌志内線という単線に乗り換え上砂川へ。秋にもバイクで来たが、冬の景色はまた格別だった。真の北海道の姿を垣間見れた。ズリ山という石炭を積んでいる山や冬の駅の情景も雰囲気が出ていた。実は私が北海道に住んでいた頃は、国鉄の民営化に向け、赤字路線を廃止しようという機運が盛り上がっていて、真っ先に北海道中のローカル線が矢面に立たされていた。歌志内線・興浜北線・南線・万字線・広尾線など全部で10路線以上が廃線に追い込まれた。そこからバスに乗り換えて10分ほど雪道をひた走り、「ロマン座」に辿りついた。辺りは新雪が降り積もり、腰の丈ほどの雪が積もっていた。道を作り、標札まで行き、写真を撮った。真冬にこんな所を訪れる物好きな観光客などいないようだ。でもドラマの雰囲気を味わえた、想い出のひとコマとなった。 

 あとは冬の話題で忘れてはならないのが、毎年2月に開かれる冬の祭典「さっぽろ雪祭り」。それは世界各地から観光客が集まる北国の冬の一大イベントだった。昔、父親が「雪祭り」を見せようと母親の給料袋からお金を借り、「千歳」までの航空券を手配しようと試みたが、入手困難で目的を果たせなかったエピソードがあった。敢え無く断念した想い出があった。2月10日(日)、雪祭りは足が治った友人FとMの3人で見に行った。午前中、せかっくなので是非一度は見たいと思っていたスキージャンプ競技を見た。その前にSTV杯大倉山大会を見ていたが、世界の強豪が一堂に会すワールドカップは見応えがあった。日本勢は西方千春選手と当時の日本のエース、秋元正博選手。対するライバルはドイツのバイスフロクと当時バッケンレコードを持っていたオーストリアのフェットーリ、そしてワールドカップ年間王者のフィンランドの英雄・マティニッカネン選手だった。当日はあいにくの雪と追い風の悪コンディション。しかし、秋元選手が何と日本勢で初の優勝を成し遂げたのだ。これは大盛り上がりを見せた。ジャンプは飛ぶというより、落ちて来るものだと悟った。あんな山の頂上から、角度のあるアプローチを滑り降り、時速90km/h近くで踏切り、札幌の市街地目掛けて飛び出すサッツの瞬間の感覚はどうなのだろうか。ランディングバーンに落ちるまでの僅か数秒の間に何を考え、何を感じるのだろう。そしてブレーキングトラックで減速する。この一連の動作や、大倉山の周辺の風景(ジャッジタワー・段になった観客席)は、まさにテレビで見たものそのままだった。とても人間業とは思えない。投身自殺とあまり変わりがなさそう。ジャンパーの度胸は凄まじいものがある。この時のスタイルは、現在のようなV字飛型ではなく、足を閉じたままのスタイルだったことを付け加えておく。

 その大興奮の後、日中のうちに、真駒内会場の巨大雪像を眺め、夕方から夜にかけては、大通り公園で幻想的にライトアップされた雪像の数々や、主だった有名観光地はあらかた回った。ラーメン横丁、すすきの、狸小路、時計台、赤レンガ道庁など。「すすきの」でも氷祭りが開催され、大きな氷に彫刻を施した作品がズラリ並んでいた。とにかく、人の波は絶えることなく、時間帯によっては、イベントで全国に生中継され、有名タレントが登場した。私の訪問時には「芳本美代子」が雪像の上から階段を降りながら歌っている場面に出くわした。夜にはテレビ塔に昇った。カラフルにライトアップされた雪像が映えて、その街のネオンとコラボし、この世の物とは思えないほど夜景が眩しく思えた。周辺はカップルで甘い雰囲気に酔いしれていた。ジュークボックスからは、ワムの「ケアレスウイスパー」が流れ、ロマンチックムードを演出していた。ところが何を思ったか、B型人間の友人M、甘いムードに水を差すかのように、いきなり吉幾三の「オラ東京さ行ぐだ」をかけた。せっかくの雰囲気がいっぺんで吹き飛んでしまった。その後、地下街を散策し、雑貨屋や服屋を巡った。友人のFは呉服問屋経営で金持なので、黒のコートや革靴でビシッと決めていたが、こっちはスキーウェア。どうみても釣り合わず場違いの様相だった。夜遅く帰宅したが、既に年度末試験を終えた後だけに、心に残る「真冬の夜の夢」の如き一日だった。

 また、冬の話題で付け加えたいのが、2月の厳冬期に、母親から電話がかかって来て、玄関の脇の温度計を見たら、建物の中なのにマイナス20度の表示にはぶったまげた。また、大学から川沿いに近道を歩いて帰ろうとして、猛吹雪に遭い、視界はゼロで呼吸困難に陥り、一歩も進めず窒息寸前で死を覚悟する場面もあった。また、北海道は冬場-20℃以下になるため、水道凍結防止のための工夫がされているが、就寝前に、その水道管から水を抜く作業を怠り、何度か水が出なくなった。2~3回は大家さんを介して水道業者に直して貰った。更に、憤りが大きかったのが、R12沿いの山型の橋を渡った後、岩見沢市街地への入り口に当たる場所にダイエーがあった。そこで、冬用のコートを買おうと思って訪れたのだが、そこで目星を付けたのが黒のウール製のカッコいい大人のロングコートだった。それが売れ残っていて、見に行くたびに値段が変わっていた。最初は値札が15,800円だったが、二度目には、全く同じコートなのに何故だか定価が上がっていて、17,800円の値札が付いていてそこから2割引のシールが貼ってあった。つまりは14,240円になっていた。それでも売れなくて、三回目に訪れた時には、定価の値札がまた付け替えられていて、19,800円の値札で4割引きとなっていた。つまりは11,880円の支払い。値札の付け替えでちょっとでも割引率が大きくてお買い得感をアピールしていた訳だ。しかし、これは明らかな違法行為(商法違反)だ。でも最初の値札の15,800円よりも4,000円も安くなった訳なので、これは買いとばかりにようやく購入した。でもあまり着るような場面はなかった。そして冬季間、鼻の下に髭を生やしてみたが、学部の友人にはあまり評判が良くなかった。

 これで冬の話題は終了かと思いきや、駄目押しとも思えるような炉辺談話があった。超アクティブ野郎の友人Mは凄かった。彼からすれば東京へ行ってしまう前に、出来るだけ多くの想い出を北海道に残そうというのか、2月中旬に周遊券を使って電車とバスで丹頂鶴と流氷を見に行こうと誘って来たのだ。これには躊躇せず即答。実は、この数年前テレビドラマ「池中玄太80キロ」で、カメラマン役の西田敏行が、北海道で鶴を追い求めて撮影するシーンがあった。実はこれにずっと憧れていたのだ。2月15日(金)から17日(日)まで2泊3日の予定だった。メンバーは顔馴染みの4人。当日、札幌駅集合だったのだが、朝から大雪で、バスが来ないので2kmも雪の中を歩く羽目になった。当然集合時刻には遅刻。しかし、全員が同じく遅れてしまい、結局一本遅い夜行特急列車で釧路へ向かうことになった。言いだしっぺのMは、親父さんが国鉄職員だったため、社員家族割引という特典が付き、何と国鉄全線が半額で乗車できたのだった。周遊券は、道内の特急の自由席なら乗り放題だが、10日間も有効で13,800円もした。電車は石勝線という日高山脈の山間を貫く路線で、占冠付近ではスノーシェルターが覆っていた。夜中にプラットホームに降り立ったら、ものすごい地吹雪。これでよく運行中止にならないものだ。帰郷の際もそうだが、私にとって車内で寝るのは至難の技だった。ほとんど寝れないままで翌朝、綺麗に晴れ渡った冷え込みきつい釧路駅に到着した。釧路は意外にも雪の量はすこぶる少ない。どちらかと言えばホッケーやスケートが盛んで有名な様に氷の町だった。駅舎が大きくて驚いた。そこで記念乗車券を購入し、路線バスで丹頂の故郷・鶴居村の「タンチョウ観測センター」へ向かった。丹頂鶴との初めての対面は神聖で、厳かな雰囲気があった。土曜日だったこともあって、大勢のプロカメラマンが詰め掛け、さながらドラマのワンシーンそのものだった。早朝、ダイヤモンドダストが煌めく中で、山里から一羽、また一羽と飛来し、優雅に降り立つ。そして「パフゥー」という甲高い鳴き声と時折見せる華麗なダンスは「神の鳥」を思わる雰囲気は十分だった。その後、秋にツーリングで訪れた阿寒湖へ。キタキツネが土産屋の店先で出迎えてくれた。ここは友人Fの情報で「阿寒ビューホテル」に宿泊することに決めていた。シーズンオフのため、CMによると、一泊朝食付き3,000円という破格プランがあるとの情報だったが、あいにく本日は休前日に当たることからその金額では泊まれなかった。交渉して5千円で渋々泊まることにした。4人で6畳の部屋に二人ずつ詰め込まれ、私はM先輩と同部屋に。翌朝、ホテルを抜け出して周辺散策。ホテルの裏は湖で、湖面は雪原と氷で覆われていた。ワカサギ釣りやスノーモービルが滑走していた。そのホテルの裏手に氷で作った滑り台やゴジラの氷像があった。その日はいよいよ最終日、阿寒湖からバスで美幌駅まで行き、そこからガラ空きの特急列車に乗って、網走へ。路線バスに乗り換え、秋にも訪れた極寒の網走刑務所を再訪。これが本当の刑務所の実態だ。そして網走駅から季節運行の「流氷バス」に乗って、能取岬を目指した。ところが、満員の乗客を乗せたバスが走り出して間もなく故障。いったんバス会社の車庫に入り、別のバスに乗り換えて再出発となった。岬までの道のりは険しく、周囲の景色はさいはて感たっぷりだった。車窓から覗く景色は樹氷。道の両側には数メートル雪が降り積もっている。どうにか辿り着いた岬の突端は風が強く、駐車場から流氷が見える断崖の灯台まで1kmほど歩き、断崖の上から覗く景色は、流氷という風情ではなく、雪の雪原。氷がプカプカ浮かんでいる絵を想像していたので、ちょっと拍子抜け。雪の大海原である。40人揃って記念写真。この時プロが撮った写真を注文したが、催促するまでなかなか届かなかった。また、こんな辺鄙な場所にも二ポポ人形のモニュメントが。ここは駅・刑務所にもそれを象った電話BOXがあったり、二ポポ人形に象徴される町だった。ニポポ人形とは受刑者が更生の願いを込めて木彫りで作ったものだ。この1泊3日の旅行は大満足だった。そしてやはり特急電車で岩見沢へと戻った。結局この旅行では29,600円も使った。この旅行を最後に、3人は私を残して東京へと一足先に旅立って行った。私は一人部屋に篭り、紀行文の執筆に明け暮れた。

 そして2月下旬の帰郷は、電車と青函連絡船「摩周丸」そして「津軽」にて郡山へ帰って来た。このパターンが一番多かったが、学割使用でも片道15,000円以上かかったと記憶している。思いがけず長くなったが、以上が大学一年生時分の主な記憶に残っている出来事だ。でも意外や意外。覚えているものだ。それだけ内容の濃い一年だったと言えるだろう。

 ~1984年の出来事~

 ・冒険家・植村直巳がマッキンリーで消息を断つ(2/13)

 ・PL学園がK・K(桑田・清原)コンビの活躍で優勝

 ・新札登場(1万円札:福澤諭吉/5千円札:新渡戸稲造/千円札:夏目漱石)

 ・グリコ森永事件(江崎社長誘拐)

 ・マハラジャオープン

 ・世田谷ケーブル火災事件

 ~流行歌~

 もしも明日が(わらべ)/つぐない(テレサ・テン)/近藤真彦(ケジメなさい)/泣かないで(舘ひろし)/小泉今日子(ヤマトナデシコ七変化)/もしかしてPart2(小林幸子)/中森明菜(十戒)/前略道の上より(一世風靡セピア)

*写真等を見たい方は、右上のサイドバーの「趣味ING」をクリックしてお入りください。

 

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