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2010年3月 6日 (土)

鉄道の「来し方行く末」(鉄道事情考)

 今、時代は21世紀である。東京五輪開催年に生を受けた私にとって、36年後の21世紀の未来は、かつて漫画家の手塚治虫が描いたように、さぞかし「ユートピア」に相応しいような光り輝く希望に満ちた世界が広がっているものと思われた。例えば、車やバスは上空を飛び交い、透明なカプセルの中をリニアモーターカーが疾走し、人はベルトコンベアーに乗って移動する。家庭生活では、家事全般をロボットが行い、ガンなどは特効薬が開発され、不治の病ではなくなっていると思っていた。しかし、その21世紀も10年が経過し、蓋を開けてみれば、確かにコンピューターなどの科学技術は日進月歩、飛躍的で目覚ましい進歩を遂げたが、我々の暮らし自体はさほど変わり映えしないものとなっている。特に、交通事情は「交通戦争」と呼ばれた頃から考えても、相も変わらず、交通事故で亡くなる人が高齢者を中心として後を絶たない現状だし、鉄道に目を転じても、開業から45年を経た今でも、全国に新幹線すら整備されていない旧態依然のお寒い事情である。1985年頃のバブル景気がその後も続いていれば、もしかしたら世の中はガラリと様相を異にしていたかもしれないが、所詮先立つものは金であって、財源が見込めない以上は、地方に一筋の光明を当て、列島改造ムードに沸いた1970年代の再来とはなかなかいかないようである。そういう訳で、今回はバブル崩壊で20年は遅れたと言われるリニア開発までの鉄道史の変遷を辿り、現状を踏まえ、問題点を浮き彫りにした上で、今後の行く末にスポットを当てて考察してみたい。

Sl  まずはその黎明期。言わずもがな、18世紀から19世紀にかけ、イギリスで産業革命が起こり、工場制機械工業が導入され、大規模産業と社会構造の変革があった。通説では、初期の軽工業中心の頃を「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼んでいる。産業の発達によって、労働力の需要が増し、雇用も改善された。いわゆる労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。やがて、1804年に英国のリチャード・トレビシックなる人物が、世界初の軌道上を走る蒸気機関車(SL)を製作した。その後、ジョージ・スチーブンソンによって改良が加えられ、1830年にリバプール&マンチェスター鉄道として開業し、実用化された。これがそもそもの事の発端である。そして日本に渡来したアメリカ人や英国人によって、蒸気機関車の存在が世に伝わり、明治維新後に敷設計画が本格化した。その鉄道敷設計画に基づき明治5年(1872年)、新橋(現在は廃止された汐留貨物駅)~横浜(現:桜木町)間に、日本が初めて建設した旅客鉄道が開業した。新橋駅前にSLがあるのは日本の鉄道発祥の地だからである。しかし、当時は29kmを53分で結び、最初に蒸気関車が走る雄姿を目の当たりにした当時の人々は、想像を絶するほどどでかい鉄の箱(塊)が、人力に頼らずに走る光景に驚きながらも、吐き出す煙と騒音の凄まじさからあまり評判は良くなかったようだ。また、実際、人が走る速度(表定速度は32.8km/h)とたいして相違ないことから、高すぎる運賃を払ってまで好んで乗車する客はいなかった。開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘であったが、下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであったという。庶民には所詮高嶺の花で、一部特権階級の贅沢として扱われたようだ。最初は半官半民の「日本鉄道」が主体となり、建設を行って、鉄道網を拡張していったが、政府の保護を受けた5大私鉄がそのキャススティングボードを握り、イニシアチブを担った。そして全国の地方へと敷設を進めていった。北海道では、その開拓に数多くの囚人を駆りだし、言語を絶する気象条件の下、あまりにも過酷な強制労働を強いたとの記録が残っている。暫くは、私鉄中心での鉄道建設が盛んであったが、日清・日露戦争を契機に軍事的理由から国家による一元的な鉄道の管理が要請されるようになり、1906年(明治39年)に鉄道国有法が公布され、日本の多くの幹線鉄道が国有化されることになった。こうして国の事業となってからは、鉄道は全国展開されるに至った。ちなみに上野~青森間が開業されたのは、1891年(明治24年)9月1日のことだった。営業距離が飛躍的に延び、列車も「急行」や「特急」、「食堂車」、「寝台車」、それに「長距離急行列車」なども登場するようになった。各地方で持て囃されたのはトロリーバスと市電の普及だった。そして、明治45年にはアプト式の電気機関車が運行を開始していた。昭和4年にはDC11形の電気式ディーゼル機関車が登場した。燃費消費効率に優れたディーゼルの登場によって、石炭を燃料とするSLは、斜陽の一途を辿ることになった。

Hibari  戦後を迎え、1949年に、「公共企業体日本国有鉄道」が発足した。時代背景として、戦争によって荒廃した鉄道の復興はこの頃ようやく軌道に乗り始めたが、国鉄の財政はインフレと復員兵・海外引揚者の雇用をさせられた関係などで極度に悪化しており、府の介入権が強いなど経営の自主性が薄く、それが後に財政破綻や労使紛争を引き起こす原因になった。それが引き金となったと思われる戦後の「国鉄三大ミステリー事件」が起こった。下山事件は、7月5日に初代国鉄総裁「下山定則」が出勤途中に失踪し、翌日未明に死体となって発見された事件。これは未解決のまま警察は捜査を打ち切った不可解な事件。2つ目は、僅かその10日後の7月15日に事件が起きた。中央本線で無人の暴走列車が三鷹駅の車止めを突破し、脱線転覆した。これを三鷹事件と呼ぶ。3つ目は何と地元福島県で起きてしまった松川事件。8月17日に松川駅と今の金谷川駅の間を走行中の貨物列車が、突如脱線転覆。機関士2名と機関助士の合わせて3名が死亡した。原因は何者かによるレール外しだった。警察は20名の労働組合関係者を逮捕起訴したが、1963年に全員の無罪が確定した。現場となった場所には、慰霊碑が建立されている。また、昭和30年には日本で初の交流電化試験が実施され、直流に比べ電化コストが安いことなどから、後に全国へと広まることになった。東北本線に乗車した方ならご存知だろうが、黒磯駅を境に首都圏方面は直流で、以北は交流だった時期がある。そこで切り替えが行われ、車内の電灯や電車のモーターが一旦停止したことを覚えていることだろう。今となっては懐かしい話だ。電化が進むにつれて鉄道は電車が主流となり、電気機関車が活躍した。そして年を追うごとに高速化に拍車をかけた。昭和40年代に流線形のボンネット型の特急が登場すると、鉄道ファンが一挙に増えた。鉄道写真を撮る少年達でプラットホームや踏切などは溢れた。そして昭和40年代には、「愛国から幸福駅へ」の記念切符もまた一大ブームを巻き起こし「旅行人気」を後押しした。東北本線では、1960年に上野~青森間を往復する「はつかり」が開業し、人気を集めた。やがて上野~仙台間を10往復以上するL特急「ひばり号」が運転を開始するやいなやその利便性が受け、郡山~上野間を2時間30分ほどで結び、東京への日帰り旅行も可能になった。

0kei  そしてさらなる鉄道高速化への布石を国鉄は模索していた。東京オリンピック開催が決まり、戦後の混乱期を脱し、国際社会への復帰を世間に知らしめる目的と日本の産業復興や技術力の高さを全世界の人々にアピールする絶好の機会だった。東京や大阪など大都市圏を中心にインフラ整備が一気に進んだ。道路は首都高速道路が突貫工事で進められ、同時に東京~大阪間を3時間半で結ぶ鉄道を建設していた。それは時速210km/hというかつての鉄道では常識を覆すようなまさに「夢の超特急」だった。幾度の試験が行われた。騒音、振動、高速走行に必要な技術、電力の供給方式、トンネル走行実験、レールの摩擦を最小限に抑える方策、カーブの際の遠心力をいかに抑えるか、空気抵抗の測定、安定走行に必要なレール幅の検討、そして安全対策など。在来線では、踏切事故や騒音によって、特急列車は日付を跨いで運行されないというネックがあった。そこで新幹線は高架橋の上を走行し、極力高低差を少なくし、踏切はゼロという斬新な発想で建設が始まったのだ。これは1964年の東海道新幹線開業以来、死亡事故ゼロを長年続けたことで、安全神話は現実のものとなった。10月1日に「ひかり」と「こだま」が運行を開始し、ぎりぎり東京オリンピックの開幕に間に合わせた。白を基調とし、ブルーのラインを縁取った0系新幹線は、庶民の憧れだったし、日本の産業や経済の発展の象徴だった。しかし、繁栄の陰で去りゆく物があった。石炭から石油へというエネルギー革命によってSLの需要は減り、全国の路線から文字通り煙たがられた「おか蒸気」は、徐々に姿を消し、1976年3月を最後に全廃となった。しかしその後、復活を願う全国のSLファンからの熱き要望に応える形で、大井川鉄道を皮切りに、不定期に全国のローカル線ではその雄姿を再び見ることができる。ここ福島県でも、磐越西線や只見線などでC11機関車や「デゴイチ」の愛称で親しまれたD51機関車にお目にかかることが出来る。しかし、これが大人気で、乗ろうとしても切符は発売開始と同時に即日完売となるほどの異常過熱ぶり。運行する沿線にはカメラを構えた鉄道ファンの砲列ができる。「ポーッ」という汽笛と「シュシュポッポ」という車輪と蒸気の音が遠い昔の郷愁を誘う。特に、只見線の綿帽子を被った雪山をバックに疾走する黒い機関車は、まるで絵葉書のひとコマのようによく映えるのである。

 やがて新幹線は田中角栄の力添えによって、1971年に東北新幹線と上越新幹線が起工。1982年に大宮~新潟(あさひ・とき)、大宮~盛岡(やまびこ・あおば)が暫定開業した。その4年後には、東京発着となり、改札を一旦出なくても乗り換えが可能になり、関西方面への乗り継ぎが楽になった。しかし、一方でそれまで在来線の花形として栄華を誇り、旅行者の足として愛され、活躍して来た特急列車が相次いで廃止された。「ひばり」「やまばと」「はつかり」「ゆうづる」「はくつる」など。東北新幹線では、運行本数が増え、旅行客から新幹線の名前が沢山あるとわかりづらいという理由から、「あおば」と「とき」が廃止された。東北新幹線では、「在来線乗り入れ型のミニ新幹線「つばさ」(東京~山形)、「こまち」(東京~秋田)、郡山や那須塩原発着のローカル新幹線的な存在の「なすの」、更には八戸開業に伴い、東京~仙台ノンストップの「はやて」が登場。オール二階建て新幹線「Max」も導入され、輸送力が大幅にアップした。そして、いよいよ今年、苦節28年目にしてようやく新青森駅まで繋がる。青森市民にとっては積年の悲願達成は目前である。乗り換えなしで東京直通。在来線特急の「はつかり」よりも約半分の3時間半程度で結ばれる予定なのだ。

 そして今でも忘れてはならない大改革が断行された。日本国有鉄道(JNR)の民営化である。1987年に国鉄はJRと名称を改め、JR北海道からJR九州まで6つのグループ(+JR貨物・鉄道総合技術研究所・鉄道情報システム)に再編された。新しく生まれ変わったJRは、その翌年、新たな鉄道の夜明けを予感させるような巨大プロジェクトを発表した。それは「日本列島が一本のレールで結ばれる日」をキャッチコピーに、北海道と本州を結ぶ青函トンネルと本州と四国を瀬戸大橋で結んだことだった。そして私鉄との誘客競争を激化させ、様々な仕掛けを実施。各種割引やびゅうなどの企画商品の導入で、サービスの向上を図った。ナイスミデイパスや大人の休日倶楽部、ジパングなどもその一環。しかし当時、この民営化に伴う弊害の最大の犠牲を払わされたのが北海道だった。民営化方針に沿って、業績が芳しくない地方のローカル線を廃止しようという機運が盛り上がり、地元住民は生活の足を奪われただけでなく、過疎化に拍車をかけるようになった。これは私が学生時代を過ごした時期とものも見事に被っている。私が住んでいた1984年から1986年にかけて、10路線以上が赤字が原因で相次いで廃止に追い込まれた。

  1. 胆振線(京極~伊達紋別・1986年廃止)

  2. 夕張線(紅葉山~登川・1981年廃止)

  3. 万字線(志文~万字炭山・1985年廃止)

  4. 瀬棚線(国縫~瀬棚・1987年廃止)

  5. 富内線(鵡川~日高・1986年廃止)

  6. 標津線(標茶~根室標津/中標津~厚床・1989年廃止)

  7. 深名線(深川~名寄・1995年廃止)

  8. 相生線(美幌~北見相生・1985年廃止)

  9. 渚骨線(渚骨~北見滝ノ上・1985年廃止)

10. 名寄本線(名寄~遠軽/中湧別~湧別・1989年廃止)

  11. 興浜北線(浜頓別~北見枝幸・1985年廃止)

12. 松前線(木古内~松前・1988年廃止) 

13. 広尾線(帯広~広尾・1987年廃止)

14. 三菱石炭鉱業線(清水沢~南大夕張・1987年廃止)

15. 岩内線(小沢~岩内・1985年廃止)

16. 函館本線・上砂川支線(砂川~歌志内・1994年廃止)

17. 士幌線(帯広~士幌・1987年廃止)

18. 羽幌線(留萌~幌延・1987年廃止)

19. 美幸線(美深~仁宇布・1985年廃止)

20. 湧網線(中湧別~網走・1987年廃止)

21. 興浜南線(興部~雄武・1985年廃止)

22. 天北線(音威子府~浜頓別~南稚内・1989年廃止)

 私は北海道在住時、生活の足を奪われ、活気を失い、寂れていく一方の町や村をつぶさに目の当たりにした。だから、沿線の地元住民の悲哀や苦労を痛いほどわかっているつもりだ。明治時代に端を発した鉄道の発展と繁栄の恩恵に絢かって、私達は今の便利で何不自由ない生活を営婿とが出来るのであって、しかし一方では、こうした多大な犠牲があったこと、多くの代償の上に成り立っていることを決して忘れてはいけない気がする。

Mlu002  現在、わが国の鉄道の営業キロは約27,043キロ(2007年)で、旅客輸送量は約 4,056億人キロ、貨物輸送量は約233億トンキロである。貨物輸送が主体の多くの国とは異り、旅客中心の高密度輸送を特徴としている。わが国の鉄道の経営主体としては、JR、地方公共団体、私鉄、第3セクターの4つがある。輸送の主体であるJRと私鉄について簡単に説明すると、JRは1987年の国鉄改革以前は、国有の全国一体の組織だった。この国鉄が6社の旅客会社と1社の貨物会社等に民営・分割され、現在に至っている。ではここで、今後の展望には欠かせない、「リニアモーターカーの来し方行く末」という視点で語りたい。リニアモーターカーの歴史は意外に古い。今から33年前の1977年(昭和52年)まで歴史は遡る。まず、宮崎県の日向市に浮上式鉄道実験センターが設置され、リニア実験線で有人走行も後には行われるようになった。最初は無人のML100という車体で、モノレールのようにレールを跨ぐ形態。その後、車体はML500に引き継がれ、1982年500km/hを超える高速走行を実現した。軌道式の車輪では300km/hが限界と言われた時代での快挙だった。1980年からは、有人走行が可能な後継車のMLU001、1987年からはMLU002を使って、実験が行われた。しかし、試運転での走行中に炎上するハプニングが発生。車体を焼失する事故が起きてしまった。これで実用化への道筋は一旦頓挫した。その後改良型のMLU002Nを開発した。そして現在は、JR式マグレブのMLXシリーズなる最新鋭の車体を使っての実験を行っている。これは一両当たり68席あり、3~5両編成である。ここで念のためおさらいしておこう。磁気浮上式リニアモーターカーとは、磁力の反発・吸引力により浮上し、リニアモーターで駆動する移動車両の総称である。推進にはリニアモーターが用いられ、高速化が可能である。主な利点は、リニアモーターは非常に薄いため通常の電車よりも台車を薄くでき、車両断面を小型化できる。このためトンネル断面を小さくでき、建設費を削減可能。駆動力を車輪とレールの摩擦に頼らないため、急勾配での走行性能が高い。大都市では地下鉄路線の過密化により直線的路線空間の確保が困難になっており、急勾配・急カーブを多く持つ線形にせざるを得ないが、そのような場合に有効である。 ギアボックス、撓み継ぎ手等の可動部分が無いので保守が容易など。このリニアの開発当初、もうひとつのリニア構想があったのをご存知だろうか?それは政府の支援を受けて営業して来た日本航空が開発したH・S・S・Tという名前の近未来鉄道だった。常電導磁石により浮上・案内を行い,リニア誘導モータ(LIM)で推進する新時代の交通システムである。現在地下鉄など幅広く実用化されているLIM技術と,常電導磁石により鉄レールに吸引しながら浮上する新しい技術を使って実現された。開発の経緯は、昭和49年のHSSTの開発が始まる。当時,新東京国際空港(成田)への交通手段として,日本航空の技術陣がHSSTの開発を始めた。昭和50年にHSST-01号機が完成し,吸引式磁気浮上リニアモータカーとして日本初の浮上走行に成功した。昭和53年に無人走行で300km/hを達成し,HSST-02号機~05号機まで次々に開発されていった。そして基本システムを実用化レベルまで発展させるため,名古屋の実験線(延長約1.5[km])で,HSST-100型の開発が進められている。 しかし、こちらも母体の日本航空が赤字による経営難のため、この計画も無期限停止の状況である。

Renear  やがて、未来への夢の架け橋として期待を一身に背負ったリニアモーターカーも、1997年には実験の舞台をより実用化に近い場所である山梨県大月市~都留市へとその試験場を移した。総延長18.2km足らずの実験線だが、2003年には何と581km/hの世界最高記録を樹立した。私もYou Tube で試験走行中の車内の模様を撮影した映像を見たが、加速の際の衝撃は大きく、恐らく通路を歩くことはままならないだろう。飛行機と同様、着席とシートベルトが必要そうだ。また、殆どがトンネル内の走行で、地上の景色を見れるのは8秒間のみ。トンネル内の照明が飛んで行く。浮上直後は揺れが凄まじく、僅か40秒後に300km/h近くに達しと思ったら、車内に響くほどの風切り音と雑音がかなり大きくて耳障り。75秒後には500km/hに到達。浮いて左右にブレるので1時間も乗っていたら酔ってしまいそう。お世辞にも快適だとは言えない。特に減速の際にはかなりのGを体に感じるようだ。電磁波の健康への影響も懸念されるし、心臓に持病がある人、ペースメーカー使用の方は危険だと感じた。今後も改良の余地は残っている。この文明の利器とも呼ぶべきリニアが、これまで実用化できなかったのは、生産コストがあまりにも嵩むからである。1kmあたりの建設費は、最短の南アルプスルートを通した場合でも20億円。東京~大阪間の総額は、9兆300億円と試算されている。また、電力消費量も新幹線の40倍にもなることから、環境への影響も憂慮されている。開発から今日まで、すでに3,035億円がこの実験の為だけに費やされた。しかし、21世紀を迎えた今に至っても、一向に実験の域を脱していないことに不安ともどかしさを感じてしまう。されど完成した暁には、東京~大阪を、驚くことなかれ、ほんの1時間で結ばれてしまうことになるのだ。今のところ、建設ルートも3案あって、どれも一長一短。結論は先送りとなってばかりで現在に至っている。本日折よく、JR東海の記者発表があったが、それによると15年後の2025年の等居~名古屋間開業が大幅に遅れる可能性があるとの見通しだった。理由は不況による収入の落ち込みで、建設資金の調達に影響が出ているから。まだ着工もしていない段階からこの有り様なのだから、惜しむらくは、子供の頃からの夢が夢のままで終わってしまいそうな危惧を抱かざるを得ない。この分では私が生きているうちに乗車することなど絵空事であろう。無論、それに先だって行われている整備新幹線の着工もままならない現状では、予算を計上する目途は到底立っていない。研究が開始された昭和37年から数えて半世紀近くを経た今でもだ。全世界に先駆けて始まったリニア計画は、経済発展著しい中国にリニア開発の分野でも先を越されてしまった。事実上海では、もたつく日本を尻目に、すでに2004年から430km/hでの運行を開始している。日本人のプライドはずたずたに引き裂かれた。ここは日本人の意地と威信にかけても、何とか早期に500km/h走行を実現されることを願ってやまない。

 最後に、利便性や快適性ばかりを追求してしまうと、一番大事な安全性が蔑に扱われてしまいそうで一抹の不安を感じてしまう。それを忘れないために、過去に国鉄時代から今日までに起きた大規模な列車事故災害を取り上げ、教訓や戒めとしたい。

  1. 桜木町事故(1951年) 火災による死者106名
  2. 三河島駅事故(1962年) 脱線した貨物列車に2つの列車が衝突 死者160名
  3. 鶴見事故(1963年) 脱線した貨物列車に旅客列車2つが衝突 死者161名
  4. 信楽高原鉄道列車衝突事故(1991年) 列車同士の正面衝突 死者42名
  5. 福知山線列車脱線事故(2005年) 速度超過で脱線マンションPに突っ込む 死者107名

 

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コメント

SUZUさんこんにちは。
リニアモーターカーの実験車両が以前横浜博覧会開催時(昭和の終わり)の目玉として実動モデルとして展示されていて家内と一緒に乗ったことがあります。(場所は現在のみなとみらい)その時のスピードはあまり出せませんでしたが全然と言っていいほど振動がありませんでした。でも超高速域になるとさすがに凄いのでしょうね。

 -ロビンさん、いつもコメントありがとうございます。You Tube(リニアモーターカーで検索可能)に掲載の映像では、200km/hに加速して浮上した途端に、左右のブレがひどくなり、350km/hを超えると車内に耳をつんざくような大きな騒音が響き、恐怖感を感じるようです。ぜひ、横浜を思い出してご覧になってください。それにしてもロビンさんは、行動半径が広く、いろんなところに出没してますね(笑)。実に羨ましいです。話は変わりますが、この土日、実は釣りに行こうとしていたのですが、週末に限って雨模様と寒の戻り。明日は雪マークで風も強いようで、またまた断念しました。考えてみたら昨年の初釣りは4月6日でした。もっとも昨年の3月4日に右足を骨折してそれどころではありませんでしたが・・・・。今年は3月中から何とか出撃し、カレイ・アイナメを釣り上げたいと思っています。

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