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2010年4月

2010年4月29日 (木)

ドキュメンタリー「45歳の挑戦」~入学式篇~

 昨夜は21時半まで駅前の「酒菜・刀削麺」で飲み会だった。会費は4,000円。なのに鱈腹食べて呑み放題で予算以上の満足感を味わった。料理の量は半端ではなく、それから全ての料理がピリ辛で舌べろが麻痺するほどだった。あいにくの雨降りとこの不景気の世の中にあって、店内はぎっちり満席。中国語が店内を飛び交う中、14人で宴会を催した。我が部署が主催で、私が幹事兼司会進行を担当した。翌日(本日)、朝方発の新幹線で東京に行くことが既に決まっていたので、私はノンアルコールで通し、駅西口市営駐車場(入庫18時20分~出庫21時50分で880円)に留めた車で22時に帰宅した。前日から期待と興奮で寝不足気味。加えて22時半過ぎから入浴したため、就寝は零時近かっ た。

Dvc00171  そして今日、4月29日は私にとって生涯忘れないだろう記念すべき晴れの日を迎えた。天気は前日の大雨とは打って変わり、朝から曇り。東京は曇りのち晴れで気温は平年並み(最高20℃超え)と出た。ほっと胸を撫で下ろした。GW中は、ずっと晴天が続くらしい。6時に起床(本当は神経が高ぶっていたこととウーロン茶のガブ飲みでカフェインの摂りすぎで殆ど眠れず)し、昨日帰宅途中にベニマルで購入した弁当を食し、7時に自宅を出て、奥羽大の近くのコンビニで昼食用のサンドイッチとおにぎり・お茶を買い込む(510円)。本来ならば鉄道利用の際は、いつも決まって駅弁を購入するのだが、出来るだけ出費を節約したくて今回はコンビニ弁当で我慢。そして実家へ。車を置かせてもらった。そこから駅行きのバス(170円)に乗り込み、7時25分に郡山駅へ。昨日もその前を通った駅前へ。そして2階の新幹線用の自動改札に往路用の学割乗車券と自由席特急券を2枚挿入し、何事もなくホームへ。45才で学割使用とは些か、ある種の罪悪感を感じながら7時38分発のやまびこ206号の4号車(自由席)に乗り込んだ。自由席でもガラガラ。一車両当たり10名程度で貸し切り状態。白河から小山まで深い霧で真っ白。宇都宮や小山で大勢乗り込みいつしか満員に。小山から乗り込んで来た黄土色のジャケットを羽織った60過ぎのおっさんが挨拶もなくドカッと隣りに座り、俺の腕にぶつかっても謝罪すらなし。「いい歳こいたおっさんが礼儀も知らんのか」とムカムカ来た。不愉快な気分にさせられながらも車内では、本日のスケジュール確認と質問項目をまとめるのに終始した。各駅停車だとやはり遅いし、滅多に停車しない白河や那須塩原、小山あたりから大挙して乗客が乗車して来る。8時20分宇都宮、8時53分大宮へ停車。東京都内へ。残念ながら急ピッチで建設中の「東京スカイツリー」は車窓からは見えなかった。

Dvc001680  そして9時20分に東京駅へ滑り込んだ。乗車時間1時間42分と長かった。2年振りの東京だった。ここからが戦争だった。10時時間厳守集合で入学式開始のため、ゆっくりしている暇はなく、乗り換えをスピーディーに行った。祝日の為、通勤ラッシュほどではないが、新幹線の改札を抜け人波をかき分け、時には斜めに横切り、在来線乗り場へ。階段を上っている最中に到着したばかりの山手線(品川廻り)に飛び乗った。そして有楽町・新橋・浜松町と各駅停車し、次の田町で降車した。いつも思うのはE電車内では視線の置き場に困る。間が持てない。でも何とか座席を確保した。東京駅到着から10分後にはもう田町駅を出ていた。目指す大学まで道順が不明だったが、同じ目的のそれらしき服装に身を包んだ人たちが向かう方角へ、後をついて行った。東京は9時台なのに異様な暑さだった。汗ばむ陽気の中、バッグを抱えて、やや早足にて入学式が行われる我が大学へ。徒歩で10分もかからなかった。9時40分頃、運命の某大学へ到着。門の前で緊張と武者震いと共に闘志が漲って来た。「ここがかの有名な○○大学か・・・ここでこれから第二の学生生活が始まるんだ」と妙に実感が湧いた。何か運命めいたものを感じた瞬間だった。工事中の為、迂回するように敷地を回り込みながら緩いスロープを歩いていると、大勢のOB達が、各県の学友会の方々が、チラシを配りながら「おめでとうございます!」と声を掛けて来た。何か妙に懐かしい感覚だった。わざわざ1万円以上もかけて東京まで出向き、入学式とオリエンテーションに出席したのは訳がある。単なる憧憬やあやふやで生半可な気持ではなく、強い決意で学業に臨みたいことと、通信制にありがちな机上の空論で終わるのではなく、実際にキャンパスを見れば意欲を掻き立てるものがあると思ったのだ。そして、もしかすると第二の自分の母校になるかもしれない校舎を自分の目で確かめたかったのだ。そして入学式が執り行われる西校舎へ。玄関先では「入学式」の立て看板の前で入れ替わり立ち替わり記念写真を撮っていた。よくみると、通信制の世界では、高校卒業者したばかりの新卒者は少なく、30代~60代くらいの人達が圧倒的に多いように思えた。このところ生涯学習流行りで、何歳になっても一生涯勉強という風潮が強いようだ。ベビーブームに沸いた団塊の世代であり、当時は文学青年とか苦学学生とか呼ばれた時代の学生達だ。学問に対する意識や意欲が全く違う知性的な人が多い、いわゆる日本社会を支え続けて来たインテリ組の方々なのだ。

Dvc00167  そして式が行われるホールへ向かう。廊下で通信制に必要なテキストやレポート用紙等を販売していた。周囲は凄い人ごみでごった返していた。そこをすり抜け、ホールへ。入り口で本日の要項を貰う。学生証を提示し、会場へ。ステージに向かって左側のやや後方の席を確保(トイレに出やすいように)した。写メを撮りまくった。前述した通り、40代半ばの年寄りは私だけで、経済事情により、やむなく通学課程に進学できなかった高校を卒業したての新卒者ばかりかと思えばそうではなかった。結構白髪や頭頂部が薄くなりかけの年配の新入学生もかなり多く、妙に安心感を抱いた。もしかすると半分以上は私より年上の方々かもしれない。さすがは歴史に名を轟かせる○○大学だけのことはある。通信制と言えども皆、いかにも賢そうな、なおかつキレ者を匂わせる顔立ちをしている。こんな兵に交じってハイレベルな勉学に励むのかと思えば、俄然やる気が出る。1,000人ほどいただろうか。とにかく会場は熱気に包まれていた。しかし、思わずぎょっとする光景を目の当たりにした。新幹線車内で、俺の脇に座った無作法なおっさんが同じ会場にいたではないか・・・。あんな礼儀知らずの人が同輩になるなんて。喜びと感激が半減してしまった。会場では、式に先立って10時より学ラン姿の応援団とブラバンの指導により、校歌、学友歌など全4曲の歌唱練習を行った。東京六大学の一角を担う名門大学だけに、耳にした事はあるかと思いきや、全く知らなかった。早稲田大学だったら「都の西北~♪」と誰でも口ずさめるだろうが、本学の校歌は聞いたことがなかった。進行を務めた大学生が、話振りが超まじめで堅く、それが逆に新鮮で面白かった。何でも神宮球場で行われる六大学リーグ戦の観客が少なく、応援席が閑古鳥が鳴いているとかで、是非足を運んで欲しいと切実に訴えていた。本学はリーグ戦、首位の明治大学に続いて2位につけているらしい。あの斎藤祐樹率いる早稲田よりも上にいるのだ。GW期間中に天下分け目の伝統の直接対決があるようだ。校歌を歌ったら、やはり実感がひしひしと湧いて来た。そしてステージに掲げられた、スクールカラーにもなっている三色の校旗。そして10時30分より待望の入学式が始まった。冒頭、学長の式辞。20分は話しただろうか。本学の教育方針や教育目標など、極めて高尚かつ意欲を掻き立てる話だった。その後、通信教育部長の祝辞もまた、物理系の先生らしくコペルニクスなどを例に出し、創始者と歴史に名を刻む方々との関係を引き合いに出したり、建学の精神を説明した。流石は私大では1・2を争う最高学府だけのことはある。11時15分からトイレ休憩を挟み。11時半から共通オリエンテーションを実施した。その間を利用して、トイレに立ったが、長蛇の列でホール外は身動き出来ぬほど大混雑。その中を無料配布用でテーブルに積み上げられていた創始者の書物を頂いた。そして首尾よく外へ出て、入り口で看板の写メを撮った。そしてすぐにホールへ。共通オリエンテーションは30分程で終了。その後、再びテーブルから、目を付けていた通信学部開設60周年記念で製作した大学紹介のDVDを無料で貰った。その後、2階の528教室で昼食を摂った。おにぎり2個とサンドイッチだった。隣りに座って来た年配の方と話をした。地元の方で、会社を定年退職したばかりで、動機は暇しててやることもないので、通信制で勉強したいということだった。去年の10月に入学したようだ。外国語の履修の仕方やテストの中身などさまざまな情報交換を行った。その方は文学部在籍で、哲学に興味があって、既に外国語の単位を取得していた。英語のテキストごとの難易度などもアドバイスしてくれた。私と同様、学士入学で、英語も仮認定を受けているようだ。やはり、このように知りあいになると心強い。この大学は、なぜか福島県の学友会がないので、履修方法や学習に躓いた時に、助言を頂く心強い味方があまりいない。20分程喋り、「互いに頑張りましょう」とエールを交わした。こんな調子で話しかければ、知り合いが増えるかもしれない。ぜひそうしたい。この方のように、退職してからもう一度、勉強したいという人が急増しているようだ。通信なら、通学家庭では入れなかった超有名大でも、入学できるチャンスはあるのだ。でも入学式で学長がこんなことを話していた。「本学は通学課程は入学が難しいが、通信課程は日本一卒業するのが難しい大学だ」と。これは気を引き締めて行かねばなるまい。

Dvc00165  13時からは同じ西校舎の2階の256号教室で「法学部」のオリエンテーションとなった。若い女性もいて、これは楽しみだ。結構学生数は多い。何でも昨年10月入学者が、法学部だけで137名、本日入学した4月入学者は249名。合計386名。総在籍者は1,635名もいる。しかし、今年卒業したのは僅か30名強(全体の5%程度)というから、いかに難しいかがわかる。卒業までの平均年数は8年だそうだ。私は学士入学者なので、5年計画で行きたいが、今年の10月入学者から16年振りに大幅に学費が値上げとなる。従って、早い段階で卒業した方が良さそうだ。パワーポイントを元に、具体的な履修方法や学生の疑問に答える形でガイダンスは進んだ。私は予め、自分自身の卒業までの履修計画表と年間スケジュールを作成していたので、確認作業だけで済んだ。また、その間、質問したかった項目(全部で6個)も説明で殆ど消え、ひとつだけとなった。15時から特別講演会がセッティングされていたため、最後は端折った感が否めない。仕方なく、学部別オリエンテーション終了後、直接担当者に聞きに出向いた。「選択必修科目は20単位以上履修が卒業要件になっているが、例えば選択必修科目を28単位修得した場合には、足が出た8単位分を選択科目として計上できるのか?」という質問だった。実際は「選択必修科目だけの履修で選択科目を取らずに卒業して行く人もいる」ようで、それはO.Kだそうだ。自分が作成した一覧表の一部修正で事なきを得そうだ。帰りの新幹線の時間があるので、残念だが、問題解決が終了した段階で、東京を去ることになる。滞在時間9時半から15時半までの6時間強だった。講演会は出席しなかった。

Dvc00162  帰り際、本学のシンボルとなっている赤レンガ造りの図書館に立ち寄り、写メ撮影。皆同じことを考えているもので、やはり帰りがてら何人かが写真を撮影していた。そして足早に田町駅へ向かう。東京はポカポカで、半袖でも過ごせそうな陽気。15時05分に田町駅へ。東京の高校生もスカートは矢鱈短い。そして、どんピシャのタイミングでホームに滑り込んだ山手線内回りの電車に飛び乗り、速攻で座席確保。時間短縮は完璧だ。都電はこれだから待ち時間がなく楽。ひと駅間も短いし、交通網の発達は凄まじい。そして15時12分には東京駅へ着いていた。本来なら、明日も仕事休みだし、久し振りの東京を満喫したかった。しかし、口唇ヘルペス(今日も出血を気にしながらの出席)が出来ているくらいだから、睡眠不足もあって疲労度はピークに達している。あまり無理しない方が良いとの結論から自重し、帰ることにした。乗り換える間に、売店にて東京銘菓「ひよこ」を2箱と「東京ばな奈」を1箱、計3,100円で購入した。そして15時20分には東北新幹線の23番ホームへ立っていた。東京始発なら、自由席でも無理なく座れる。3号車に乗り、余裕で座席確保。「帰りこそは拝めるか」と思ったが、林立するビル群でお目当ての「東京スカイツリー」は発見できず。東京を歩く女性は皆、美しい。しばし見とれる。15時40分に列車は東京駅のホームを出発した。西日が眩しく、帰路は終始、ブラインドを下げて、景色は見れず仕舞いだった。そして、車内では、オリエンテーションを聞いた結果の「履修計画一覧表」の手直しを、移動中にすべて行った。帰りは乗車時間1時間17分の「やまびこ59号」だった。ぎっちりで、上野駅や大宮駅から乗り込んだ乗客は車内で立っている人もいるほどだった。郡山駅でかなりの乗客が下車した。16時57分定刻に到着。郡山に帰って来て思ったことは、かなり風が冷たく寒いということ。東京では上着を脱いでワイシャツ1枚でもいられたのに、背広をはおっても寒い。バス賃を払うのに小銭がないので、自販機で150円のペットボトルのお茶を購入。風が吹く中、バスターミナル7番乗り場で10分程待って、17時10分発の「虎丸循環」のバスに一番乗りで乗車。そしてさくら通りを上がり、郡山第二中学校前のバス停で下車。170円。17時20分に車を預かってもらった実家へ到着。すると母親が、私の到着を待ちわびたように、いなり寿司や豪勢な料理を作っていた。仏壇に本日の一件を報告した。そして車に乗り換えて18時05に自宅へ戻った。慣れない革靴で歩いたため、靴ずれで右足小指と左足の裏が皮がむけてひりひり痛んだ。その後、21時過ぎまで、本日の動向の一部始終をブログ記事として執筆する時間となった。同時並行して、大学のHPから校歌をダウンロードしてメロディをしっかり覚えると共に、エクセルで作成していた履修一覧表も修正した。以上、せわしい一日となったが、同時に久方ぶりに充実した日となった。

 本日を総括すると、東京日帰りとなったが、自分で決め、自分で動いたとはいえ、今後、通信制教育で法律を主体的かつ具体的に学び、それを使える知識として習得に努めて行きたいとの決意を新たにした。実際に今日、本学へ足を運んだことにより、あやふやではなく、心底勉学に勤しみたいという信念は固まった。せっかく天が授けてくれたこれから始まる数年間に及ぶであろう大学生活の願ってもない好機を、是が非でも有意義な実のあるものにして行きたいと考えている。

本日の出費 17,460円→旅行券で賄った分を差し引くと7,460円
内 訳
JR往復    13,360円
往復バス代      340円 
昼食代        510円 
お茶代        150円
土産代      3,100円

2010年4月24日 (土)

回転寿司事情 in 郡山

 私の飛びきり好きなものに寿司がある。自らが釣りをする手前、どうしても寿司ネタに目が行く。日本人に大人気のマグロやサーモンは私も目がないが、実は順位をつけると注文する回数が最も多いのは他にある。それはウニとホタテだ。有頭海老やハマチも好きだし、巻き物では納豆巻きとかっぱ巻きを好む。軍艦はウニとイクラくらいしか食指を伸ばさない。若い時分、いわきの植田町に住んでいた頃は、駅前の割烹居酒屋「はるな」で呑んだり、「幸(こう)寿司」へ足繁く通っては、よく「中」寿司を食べていた。毎週食べる余裕はなかったが、月イチ程度のたまの贅沢には持って来いで、その日に水揚げされた小名浜直通の海の幸を存分に味わえたものだ。また、中岡マルトの近くにあった魚屋兼宴会場の「みなかわ」もまた、毎日魚河岸に仕入れに出向くだけあって、活きの良い旬の魚をふんだんに食す楽しみがあった。もう20年近く前のことだが、職場には「若者会」なる飲み会が毎月のようにあり、夜中過ぎまでバーのカウンターを貸し切り、「飲めや歌え」のどんちゃん騒ぎをしたことを覚えている。若気の至りとは言え、今思えば楽しい日々だった。最近、給料が年々減り、財布の紐が堅くなり、職場でも人間関係が希薄化して来た。帰りに上司と居酒屋で一杯ということは皆無に等しい。昔で言う花の金曜日であっても、郡山の駅前アーケードは客よりも呼び込みの店員のほうが多いくらいだ。特に、繁華街や飲み屋街で若い人の姿をめっきり見かけなくなってしまった。二次会でバーやクラブに行っても、店内はガラ空き。昔は入店を断られることも多々あったのに。そして道路交通法が改正され、酒気帯び運転の取り締まりが厳格化したことも、一因だろう。無論、今の職を失いたくないので、アルコールを飲む際は、駅前の行きつけの代行に入れ、今月ちょっと厳しい時には、無理をせずウーロン茶か雰囲気だけでも味わおうとノンアルコールビールで通す時もある。でも宴会の雰囲気は格別なものがある。仕事でのストレスを発散出来るだけでなく、普段家庭ではお目にかかれない高級な美味しい料理に舌鼓を打つこともまた一興である。仕事のプレッシャーが多くて凹みそうな時ですら、仲間と語らうだけで勇気が湧いてくる。死語になりそうだが、「ノミニケーション」は年を取るとつくづく大切だと思った。また、私は中学・高校の同級生と呑む機会を多く持つようにしている。同業者だと上司の悪口は言えず、仕事に差し障りがあって腹を割って話せないこともあるが、幼少から互いの本質を知り尽くしている気の置けない仲間なら、以心伝心で理解しあえるし、悩みの相談のみならず、適確なアドバイスをもらえる。ぜひ異なる業種の人と呑むことをお勧めしたい。昨日の「めざましテレビ」では、東京の居酒屋やワンショットスタンドバーなどでは今、若い女性が一人で仕事帰りに呑みに行くことが多いという。やはり仕事のストレスの発散が第一の理由らしいが、同じ目的の知らない女性と話が出来、顔見知りになる楽しみもあるようだ。「所変われば品変わる」とは言うが、酒の呑み方も時代を映す鏡になるのだ。

 さて、大分横道に逸れたが、本日は郡山市に居を構える私が、幼少時代から登場した「回転寿司店」の変遷とその事情について語ってみたい。まず、時を昭和40年代まで遡ると、国道4号線から西は、あまり家屋や店舗は少なかった。まして内環状線から開成山にかけては田舎の風景が広がっていた。現在の合同庁舎がある場所に、市役所があった訳だが、それが現在の朝日町に移転してから、大規模な土地の区画整理が進み、徐々に市街地化して行った。その頃、回転寿司は郡山には一軒しかなかった。父親によく連れられ訪れたのが駅前のアーケード、今は無き東北書店の真向かい、富士館ビルの辺りにあった「元禄寿司」だった。ここが郡山の第1号の回転寿司だった。店内は暗く、奥に向かって細長い楕円形のテーブルがあって、その上をベルトコンベアに乗った皿が廻っていた。不思議なことに、店の奥にはカーテンで仕切られた出口があって、棟続きの別の店舗は「ルナ」というバーという造りになっていた。父親の懐具合の心配もせずに、呑気に「今日は何皿食べれるか?」とチャレンジ精神で勇んで訪れた記憶がある。やがてそれは郡山の各地に支店を出し始めた。昭和50年代には緑町のデニーズの北隣りに2号店が開店した。その後、商標登録を巡り、「元禄寿司」の商号が使えなくなり、「元気寿司」と名称を変えた。元気寿司は支店を大幅に拡張した。これが失敗の元だった。富田のインター線(現在のクリナップ)や東部幹線沿い、安積町の国道4号線沿い、新さくら通り沿いなど各地に手広く支店を展開したが、競争に負け、相次いで閉店して行った。そして一部は「すしおんど」と名を変えて営業している。次に現われたのが、市内咲田に出来た「室町寿司」だった。ここは如宝寺の墓地がある坂の下、現在の吉野家の西隣りに出来た。知り合いが経営していたこともあって、行くとカニの味噌汁をサービスしてくれた。残念ながら、平成4年頃に店を閉めてしまったのが惜しまれる。続いて登場したのが「平禄寿司」だ。内環状線沿いネッツトヨタ向かいの朝日町に出来た。また、八山田のヨークタウンにも出店した。でもあまり客は入らず、朝日町店は閉店。八山田店を残すのみとなっている。続いて鳴り物入りで進出して来たのはお馴染み「かっぱ寿司」。大部分が一皿105円でリーズナブル。そんなに味も落ちる訳ではない。ここは寿司を握るのは機械。子供受けするように注文もタッチパネル画面を導入し、オートメーション化。液晶画面で選んだ注文品は、なんと目の前まで新幹線が運んでくれる。このアイディアがウケ、いつも昼時は大入り。2年ほど前までは、折り込み広告にさらに200円券とか割引券を出していた。今は平日の95円割引タイムサービスを実施しているだけ。ここは最初は希望が丘の現在ファミリーマートになっている三叉路にあった。そこはベルトコンベアーではなく、テーブルの上にお濠のような溝があって、さながら流れるプールのように実際に水がぐるぐる回っていた。そこにお椀に乗った寿司が廻っていたのだ。店名の「かっぱ」らしい演出だったが、私はこれを見ているうち船酔いのような症状に陥り、めまいがして、すっかり足が遠のいた。恐らく、似た症状で苦しむ人が多かったのだろう。すぐにベルトコンベアー式に改まった。これで売り上げが伸びたのか、すぐに床面積が5倍以上ある亀田町の「郡山病院」の東側に店を新築し、移転した。破竹の勢いでその後、郡山のさくら通り沿い、安積黎明高校と長者交番の西側の一等地に大きな店を出した。私は亀田店も長者店も行ったが、ネタの新鮮さが全く違う。私は長者店にしか行かない。約3か月に一回は子供と訪れ、全部で35皿程度は平らげている。行くと必ず実際に店で出しているパック入りのお茶を2袋(210円)を買って、家でも飲むようにしている。その後、郡山警察署の向かいにも開店し、郡山でも一番規模が大きい寿司屋となった。

 次は「まぐろ亭」だ。ここは安さ(100円)を売りにしない、他の回転寿司とは一線を画す店だ。新さくら通り店がまずオープンし、大評判になった。近くにファミレスや元気寿司、トンカツ屋などそうそうたる飲食店を敵に回し、殴り込みをかけた格好になったが、高い割にはネタがとにかく新鮮で、どこの回転寿司屋にありがちな養殖や遠洋漁業で冷凍して鮮度が落ちてしまうようなことはない。開店当初は満員札止めの状況があった。それに味をしめて、八山田にも支店を出した。しかし、長引き不景気により、客足が遠のきつつある。その後登場したのは「とっぴー」だった。今は亡き父親が仕事の合間に足げに通った店だ。第一号店は安積町、内環状線沿い、カワチの近くに開店した。そして朝日町にあった「平禄寿司」の店舗をそっくり買い取って、「とっぴー」の支店を出した。ここは駐車場が小さく、あまり客足は伸びていない。その後、郡山に進出したのは斬新な外装で度肝を抜いた「くら寿司」だった。これも国道49号線沿いやインター線沿いの「幸楽苑」の向かいに、まるで喧嘩を売るように店を出した。ここは何枚か注文すると、注文画面の中のスロットマシーンが回転し、絵柄が揃うと上部に備えられたガチャポンのカプセルが転がり出て来て、子供は大喜びという新手の手法で客にアピールしていた。外観は蔵をイメージした造り。しかし、オープン当初は駐車場に入りきれないほどの賑わいを見せたが、客の舌は正直である。他店のそれと比べて味が数段落ちた。3か月もすると客席はガラガラ。誰も行かなくなり、僅か半年で閉店となった。やはり安いと言うだけでは商売にならないのだ。口に入れる以上は、やはり新鮮で美味しくないと客は付かないのだ。生き残りは厳しいということだ。チェーン店ではないが、現在郡山市内に現存する回転寿司屋は、タウンページによれば「うまい鮨勘安積店」、「がってん寿司」並木店くらいになった。そして満を持して福島県内でもCMが始まったのが、関西を中心に格安寿司屋チェーン店を展開する「スシロー」だ。今のところいわき市内に2店舗有するだけだが、流行り廃りが激しいこの業界で、どこまで市場を拡大できるかは未知数で、生き残るのは至難の技だろう。

 かつてテイクアウト(持ち帰り)用の寿司を製造販売していた寿司屋があったのをご存知だろうか?それは「小僧寿し」と「小銭ずし」。両者とも、郡山市内に10店舗は持っていたと思う。さくら通り沿いの虎丸町のセブンイレブン隣りにもあったし、市内北部、内環状線のトライアルの隣りにもあった。一時は小僧寿しは「SUSHI花館」と名称を変えて営業していたが、競争に勝てず、食中毒騒ぎがあって、全店舗が県内から撤退してしまった。また、そのライバル店の「小銭ずし」は僅か船引に一店舗を残すのみとなっている。また、我が家も何かの記念日の際にはよく利用するが、寿司の宅配では市内桑野(国道49号線沿い)にある「鮨待夢」がお気に入り。菜根の「宅配寿司千華」くらいしかない。

 そう言えば、昔気質の寿司専門店が大分少なくなって来た。内環状線とさくら通りが交差するあたりにあった亀井鮨、子供の時分に出前を取ってよく食した、さくら通り沿いの虎丸にあった「志乃屋」も後継者がいなくなり、あえなく閉店。久保田変電所の脇にあった「すし治」、本町にあった「あすか寿司」もまた相次いで閉店した。子供の頃、母親に連れて行って貰ったのは、咲田の細い道にあった「さざなみ」という鮨屋だった。小綺麗なこじんまりとした店だったが、そこで私は生まれて初めて寿司という存在を知ったと思う。その店も私が中学に入った頃店を畳んでしまった。心底残念だ。でも同じ店名の寿司屋が、朝日町のJA前に出来た。もしかして親戚だろうか?一説には中学の同級生が女将さんをしていると聞いたことがある。また、近年、私が良く行くのは細沼町にある「鮨家だるま」だ。ここはネタが上等で、その割に値段がまぁまぁだ。江戸前の握り「だるまコース」で二千円。だるまサラダやレディースセット(3,000円)もある。ここの特徴は、玉子焼きに達磨の焼印が入っている。また、15年前に現住地に越してからは、新築祝いや何かの記念日で「すし玄」から出前を取ったことがある。

 最後に、日本の食文化の代表格は、しゃきしゃきでいなせで、厳しい修行を終え、一本立ちした板前さんが丹精込めて握る寿司(鮨)である。その握る姿は芸術に近く、目の前の客の舌との真剣勝負である。ネタの活き、シャリと寿司ネタのバランス、量、独創性、その店の看板ネタ、そして何より板前の腕が肝心要である。味の良い新鮮な寿司ネタを見究める確かな目(目利き)も寿司屋の命である。本当に美味しい寿司には職人の魂が宿っている。魚への包丁の入れ方ひとつ、山葵の下ろし方ひとつでその店の繁盛ぶりが窺える。煙草を吸う料理人は論外で、味覚の確かさが折り紙つきの店は、そう簡単に潰れはしないだろう。一億二千万人総グルメ時代とか飽食の時代は、とうの昔に終焉を迎えたが、食べ物を口にしなければ生きられない我々にとって、食生活は人間の存続を左右する根本を成すものであって、決して蔑に扱うべき類の代物ではない。寿司ひとつでも人間は思い入れがある。おそらく、日本人である以上、寿司が嫌いな人はまずいないだろう。それはいろいろなネタをシャリの上に乗せ、これまた特段に美味な山葵醤油で食す、独特な食文化の賜物であると実感する。手で二握った物を手で持って食べる。日本料理に於いて、インドの食べ方にも似た手掴みの料理は、寿司を除いて他にはないだろう。そしてそれは、魚だけに留まらず、魚介類、更には動物肉までもがネタに出来るバラエティさにあることも書き漏らす訳にはいかない。日本では、専門的寿司屋、回転寿司、持ち帰り寿司、宅配寿司とスタイルこそ違えども、寿司は寿司。これまで様々な変遷が見られたが、物珍しさが売りの飲食店は、いずれ飽きられ、見向きもされなくなるが、それが本物でありさえすれば、客から愛想をつかされることはなく、いつまでも繁盛し続ける店となろう。寿司に限らず、食べ物は生物、なまじ有名になったばかりに胡坐をかいて味を落とすのではなく、客があっての商売であることを肝に銘じ、その原点に立ち返り、プロ根性をもってひたすら修練に励んで貰いたいものである。

 追記
 仕事帰り、郡山東インターの近くを通ったら、何と「磐越自動車道20km渋滞」の文字!この原因は事故ではなく、紛れもなく「滝桜」渋滞。何と小野ICから三春船引ICまで行くのに2時間かかったようだ。恐ろしい。阿武隈PAは進入路から長々と車列がはみ出すほどの大混雑。どうやら晴天と満開が週末に重なり、これまで外出を控えていた方々が方々(ほうぼう)から大挙して押し寄せた格好だ。ETCの御利益(祝日割引)があと2ヶ月限りなのも、少なからず影響しているようだ。「滝桜」だけが桜ではないのだが、「日本三大桜」を一目見ようと首都圏から観光バス等で大勢乗り付けてきた。それほど全国にその名を轟かせる桜なのだろう。今が見頃の桜だが、小和滝を通った際に、ちょっとコンビニに駐車させてもらい、急遽桜を見物。デジカメと携帯で写真撮影。ここは川沿いに遊歩道があるのだ。でも夕陽の時刻だったため、逆光でピンク色が上手く出なかった。これから暫く、桜見物で心も体も和む時期を迎えられそうで何よりだ。

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Tani   最後に、今夜の奇跡をひとつ。本日の東京ドームは故・木村拓也コーチの追悼試合だった。その趣旨に恥じない緊張感が漂う、緊迫した一点を争うシーソーゲームで、好試合となった。8回表で2-3と広島リードで迎えたその裏、巨人は、一死満塁と攻め立てた。ここで打席に立ったのは、私が大好きないぶし銀のベテラン谷だった。代打起用の谷の半ば強引な高めのボール球を振り抜いた渾身の一撃は、まるで木村拓也コーチの魂が乗り移ったかのように、グングン伸び、打球は左中間スタンドへ突き刺さった。「木村コーチに捧げる満塁ホームラン、思いは届きました!」の実況に涙が溢れ出た。この一打は木村コーチと同い年の谷佳知にとってプロ初の満塁本塁打った。天国の木村拓也が打たせてくれたようなホームランだった。この活躍で、巨人は大逆転勝ち。球場は興奮の坩堝と化し、総立ちとなった。この日は、木村コーチが両チームに在籍していたことから、追悼試合と銘打って開催され、選手全員が喪章を付けてのプレーとなった。始球式では、木村拓コーチの長男、恒希君(10)の投げ込んだど真ん中のストライクを選手会長でもある阿部ががっちり受け止めた。肩を抱き「よくやった」と元気づけ、頭をなでた。木村拓コーチや家族を思う気持ちが、奇跡の打球となって左中間スタンドに吸い込まれた。何か得体のしれない不思議な力を感じた今日の一戦となった。この執念の一打、この勝利はまさに木村コーチの魂が引き起こしてくれたような気がしてならなかった。原監督は、試合前のお別れ会で、声を震わせ、涙を流しながら感謝の言葉を6分間に渡って述べた。そして「一緒に戦うぞ、拓也!」ときっぱり言い切った、その言葉通りの試合展開になったと思う。今年の巨人は、木村拓也がいつも天国から見守ってくれている以上、負ける訳にはいかない。「木村コーチと共に日本一に!」これがチームの合言葉となった。

 谷選手の代打逆転満塁ホームランはこちら

 http://www.youtube.com/watch?v=5tSJwz4viuY&feature=related

 谷選手の涙のヒーローインタビューはこちら

 http://www.youtube.com/watch?v=cjIdEAgRNGI&NR=1 

 

2010年4月22日 (木)

辞世の句

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」。これは諸説あるが、尊皇倒幕を叫び、奇兵隊を率いた長州藩の若き獅子・高杉晋作の辞世の句と言われている。彼は肺結核で喀血しながら、同じ長州藩の中で憂き目にあいながらも、初志貫徹で動乱の世を生き抜き、最後は病の床に伏し、壮絶な死を遂げた幕末の英雄のひとりとして崇められている存在である。とかく幕末の世は「生か死か」の血なまぐさい政変の世であった。かの有名な土佐藩士・坂本龍馬や新撰組の残党として、最後まで志を捨てず獅子奮迅の活躍で新政府軍に真っ向挑んだ土方歳三らは、明日をも知れぬ身の戦場にあって、絶えず辞世を考え、ある種の覚悟携えて出陣して行ったに相違ない。

 辞世(じせい)とは、人が死に際して詠む漢詩、、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことで、本来辞世はあらかじめ用意された作品のことを指すが、末期の床でとっさに詠んだ作や、急逝のために辞世を作るいとまがなくたまたま生涯最後の作品となってしまったもの(以上のような例を「絶句」として区別する場合がある)も広い意味での辞世に含む。内容的には自らの生涯を振り返っての感慨や総括、死に対する思いなどを題材にするが、体力が衰えている上に題材の扱いが難しく、作として出来のよいものはあまり多くない。今回は、そういった歴史に名を残す有名な人物達が、死を悟り、死と向き合い、臨終の間際に何を思い、それを如何にして後生に残そうとしたか、歴史的背景を踏まえながら考察したい。

 大石内蔵助・・・「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
 ご存知「忠臣蔵」でおなじみの人物である。主君・浅野内匠頭の仇を討たんと吉良上野介邸に討ち入りし、見事本懐を成し遂げた時代絵巻の英雄である。本人や家臣四十七士の処遇を巡っては侃々諤々であったが、時の将軍綱吉は熟慮の末に切腹を命じた。この句を詠むに、武士としての本懐を遂げ、現世に何も思い残すことがないほど明鏡止水の心境で冥土へ旅立ったことがわかる。武士らしく切腹で完結した処が、その後英雄伝説が語り継がれることになった所以だろう。

 毛利元就・・・「友を得て なほぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」
 言わずと知れた室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名である。「三本の矢」の教えは言うに及ばず、才知を巡らせ、一代にして中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。厳島の戦いや尼子氏・大友氏の戦いにも参戦した。将軍・足利義明の懐刀として戦乱の世を平定しようと画策。しかし、台頭して来た織田信長の軍勢の前には成すすべがなかった。元亀2年に吉田郡山城にて波乱に満ちた75年の生涯を閉じた。死因は老衰とも食道がんとも言われている。元就の遺言とは大略では、「天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ」というものだったそうである。そして冒頭に紹介した辞世の句は、これは死の三ヶ月前の花見で詠んだとされ、元就の知見と詩才の高さを表している。

 上杉謙信・・・「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
 彼もまた、歴史に名を轟かせる戦国大名である。彼は戦国時代の越後国の武将であり、後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた。内乱続きであった越後国を武力で統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげた。武田信玄、北条氏康等の敵対勢力と同時に対抗しながら、その軍事的手腕を発揮して敵の侵略を阻止。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。特に際立った勝負は、「風林火山」で名を馳せた甲州・武田信玄と五度に渡る川中島の戦いを繰り広げ、互いに終生の好敵手を認め合っていた逸話はあまりにも有名。彼の一生は、戦に身を捧げたようなものだった。塩留めなる経済封鎖に遭い、苦しむ領民を見かねて「敵に塩を送る」という名文句を生んだのは、この謙信のまさに献身的かつ良心的な振舞いと人間としての度量の大きさだった。彼はNHK大河ドラマの直江兼続を主人公にした「天地人」を見た人ならおわかりだろうが、天正5年、遠征の準備中に春日山城で倒れ、急死した。享年49歳だった。彼の辞世はふたつあり、戦乱を生きた武将の死生観が如実に体言出来ていると考えて不思議ではない。

 明智光秀・・・「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」 
 ご存知、織田信長の家来でありながら、「敵は本能寺にあり」と突如謀反の狼煙を上げ、本能寺の変で、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼした。そのために、謀反人として歴史に名を残すことになった。彼自身もまた、仇討の為決起した羽柴秀吉の軍勢と対峙し、坂本を目指して落ち延びる途中、小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺された(山崎の戦い)と伝わる。これはいつ詠まれたものかは定かではないし、本人が詠んだ句なのかすら確証がない。事実、本能寺の変で主君を死に追いやった数日後には自身も暗殺の憂き目に遭っている。彼のとった行動を第三者が脚色しながら生きざまを捩ったのかもしれない。一方肝心の織田信長には辞世の句は存在しない。よもや自分を死に至らしめるような策略があろうことなど、全く意に介さなかったのは無理からぬ話で、そんな暇を与えられず、取りつく島もないままに風雲急を告げ自害に追い込まれ、予期せぬ最期を遂げたものと思って差し支えないだろう。

 石川五右衛門・・・「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
 ご存知、安土桃山時代に登場した天下の大泥棒(盗賊)である。一説に三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し、16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたが、文禄3年追捕せられ、最期は自らの犯した罪によって京都三条河原で一子と共に釜茹での刑で人生の幕を下ろすこととなった。彼が詠んだ辞世の句の意味は、「たとえ砂浜の砂が無くなるようなことがあったとしても、盗人は世の中からは消えないだろう」という意味から察すれば、最期まで自分の犯した悪行に対しても悪びれた様子は微塵もなく、反省なき自己顕示欲の塊のような人物だったと言えるだろう。

 豊臣秀吉・・・「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことも 夢のまた夢」
 彼もまた天下統一を夢見た歴史上で欠かすことの出来ない人物である。半農半兵の家に百姓として生まれた。今川家を出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家安ら五大老に託して61歳で没した。辞世からは、天下統一を成し遂げながらも、儚き人生観と共に、子孫に恵まれなかった無念さから、盛者必衰の人生知や大願成就を果たしながらも、死を前にすれば生前起きた様々な出来事は、一睡の夢のまた夢の如くとする実感がひしひしと伝わって来るようだ。

 石田三成・・・「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
 ご存知のように、彼は豊臣家の忠臣で五奉行の一人である。豊臣家の行く末を案じ、徳川家康を総大将とする東軍と敵対し、西軍を率いて関ヶ原の戦いに挑んだ。小早川秀秋の予期せぬ寝返りに遭い、敗戦の将となったが、その忠誠心は武士の本分として讃えられている。その後、家康によって捕縛され、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされた後、大坂へ身柄を移された。そして家康の命によって六条河原で斬首された。享年41歳であった。彼は囚われの身となり、どんな心情でこの句を詠んだのだろうか。あれほど忠誠を誓い、豊臣家の滅亡を阻もうと家康と対峙したものの、志半ばでこの世を去った無念さが迸るのかと思えば、さほどそうでもない。全てを悟りきった、落ち着いた物腰と、仮にも一国一城の主に相応しい覚悟だったと見てとれる。私自身、天下泰平の世を長年構築した徳川家よりも、忠義心に厚く、律義で、最期まで一主君に仕え、お家再興の為にしゃにむに奔走した三成の生き様の方が何倍も美しく、また魅力があると思っている。

 徳川家康・・・「嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」
 家康と言えば応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下をさらに磐石のものとし、264年間続く江戸幕府を開府し、その礎を築いた。だが、私はあまり好きになれない人物である。自らの目的達成の為に、隙あれば主君をも出汁に使い、秀吉の遺言をいとも簡単に破るような生き方は許し難き所業である。彼自身、「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」という遺訓を残しているが、これは自分が成し遂げられなかった自身への戒めの言葉とも受け取れよう。元和2年に75歳での天寿を全うした。辞世の句にも彼の八方美人らしい人柄が滲み出ている。天下どりの為に様々な画策や手段を講じた独特な処世術を実感する。

 伊達政宗・・・「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
 出羽国と陸奥国を治めた戦国大名である。陸奥・仙台藩の初代藩主でもある。独眼竜と呼ばれるように、彼は幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。家康と結託し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、豊臣家滅亡を目論んだ。。1636年に享年70歳亡くなった。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定されている。辞世の句には自らのハンデを振り払うが如く、心の月をモチーフに、自らが暗黒の時代を切り開く灯となる役目を負いたいという強い意志が感じられる。

 松尾芭蕉・・・「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
 ご存知、江戸時代に、東日本や北陸を廻り、大垣までを旅して歩き、その先々で詠んだ句を纏めた「奥の細道」を編纂した歌人としてあまりにも有名である。「月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり」が冒頭部分である。しかし、彼を巡っては謎が多い。本当は諸国漫遊は嘘八百で、実際は旅などしていないのではないか。影武者や隠密説が未だに燻っている。当時、車もない時代にあって、どうして当時46歳の芭蕉があのような健脚ぶりを発揮できたのか。彼が弟子の河合曾良を伴って江戸深川の採荼庵を出立したのは元禄2年の3月27日の事で、その4日後にはもう日光に到着している。江戸から日光までは150kmは優にある。それを5日で踏破したとは俄かに信じ難い。しかも全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年に江戸に帰ったと記録されているから、どれだけ超人なアスリートだったのだろう。通常なら足にマメをこさえて歩くのさえ困難だろう。しかも昔は砂利道に草鞋で歩いたのだ。筋肉痛もなく、一日も休まずに150日も歩き通せる筈はないと考えた方がつじつまが合うのだ。奥の細道では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれている。彼の辞世は尽きることはない旅への憧憬と創作意欲が滲み出た句になったが、これもどうも夢物語として眉唾で作られた気がしてならない。

 吉田松陰・・・「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 ご存知だろうが、彼は長州の思想家で兵学家でもあった。明治維新の際の精神面での指導者的立場にあった。松下村塾を開き、勤皇の獅子達に尊王攘夷を訴え、討幕を叫ぶ機運を築いた。しかし、幕末の動乱の世にあって、大老・井伊直弼の「安政の大獄」によって投獄され、処刑された。享年30歳だった。辞世の句は囚われの身になりながらも、己の身は屍となろうとも思想だけは断じて曲げない強い意志がひしひしと伝わって来る。

 乃木希典・・・「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」
 私が諸葛孔明と並んで尊敬に値する明治時代の軍人である。日露戦争では大将(第三軍司令官)として出陣したが、難攻不落と見られた旅順要塞の攻略で手間取り、自らの子息を含む大勢の戦死者を出すに至った。忠誠を捧げた明治天皇が崩御した日に妻と共に自ら命を断った。終生、自ら建てた作戦の失敗によって多くの兵士を死に追いやったという責任感と罪悪感に苛まれていたに違いない。辞世の句には、自分の意思とは裏腹に、天皇崇拝の精神を心の拠り所に戦地へ赴いた心の葛藤が見て取れる。

 三島由紀夫・・・「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
 彼もまた波乱万丈の人生という言葉が打ってつけの人物だろう。「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」という代表作を持つ小説家・劇作家として活躍していた。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。とりわけ政府批判はその最たる活動で、1970年には陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後に割腹自殺(三島事件)し、45歳でこの世を去った。辞世の句には彼の世の中を刷新しようとする心意気とそれが叶わなければ死を以って自らを粛正するという強固な意志が感じ取れる。

 辞世の句を振り返ってみて、感じることは、歴史に名を残す大人物であっても、死の間際はじたばたせず、武士は武士らしく、各境地で死に向きあっていたことがつぶさに見てとれる。人生50年の時代にあって、何故ここまで浮世の生業を悟り、終生大義を貫こうと出来たのか。それは時代とは言え、現代のような物資的にも豊かでなく、自ら勉学に励み、自らの手で人生を切り開き、世の中を変えやると言う強い志があればこそであると思う。とかく今の若者は、指示待ちであったり、自分が何でどこに向かうのかを決められない節が多く見られる。古の偉人達が残した辞世に触れることで、自らの生きる糧だったり、人生訓にしてみては如何だろうか。一分一秒が愛おしく、無駄に出来る時間など無くなるに違いない。我々がこの世に存在出来るのは、長い歴史の中ではほんの一瞬に過ぎない。どんなに長生きしたとしても100年程度に過ぎないのだ。輪廻転生はさておき、人生一度きりなら、その人生を謳歌したほうが得策だろう。やるかやらないか悩む前に、新たな一歩を踏み出すべきである。いずれガタが来て体の自由が利かなくなる年齢は遅かれ早かれ等しくやって来るのだ。今しかできないことを精一杯したほうが後悔することも少ないだろう。最後に、そんな明日をも知れぬ戦乱の世にあって、精一杯命の花を咲かせたひとりの会津人の魂の句を紹介して結びとしたいと思う。

 「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」

 これは会津戊辰戦争で会津藩筆頭家老だった西郷頼母の妻、千恵子の辞世の句である。西軍の郭内侵入を目前にして全員白装束に身支度をし、辞世を詠み水盃を酌み交わした。彼女らは国難に際し、戦いの足手まといになること不本意としたのである。西郷家9人、小森家5人、町田家3人、浅井家2人、西郷家2人の合せての総勢21人の集団自決であった。この句の意味は、風の強弱にその身を任せる竹のような身の上であっても、竹の強い節は頑としてそこに存在し続けるものなのだ。つまり、時の流れや時代に翻弄されながらも、決して自らを見失わず、芯をしっかり保ち、強い意思を貫くことこそが人として、また会津人としての大義であることを示している。自分の今の生活を顧みる度に、彼女の生き方が私の体内の隅々に沁み渡り、自己反省すること然りである。自らの体にも紛れもなく先祖代々から受け継がれた会津人の血が脈々と流れている以上、迂闊に軽はずみな行動は慎まねばならないという「神の見えざる手」を感じざるを得ない。

 追 記
 今朝は昨日とは打って変わり、郡山は雨。しかし東に向かうに連れて、みぞれから次第に大雪に。昨日に比べ、マイナス6℃の気温に加え、あまつさえ我が職場は山の方にあるので、フロントガラスに積もりそうな気配を感じ、急遽ワイパーを上げるため真っ白で視界が悪い中を駐車場へ戻る。すると大粒の雪のせいか植え込みなどは瞬く間に積もり、一気に冬景色。いやはや凄い。桜が見頃を迎えたのにこの状況下では、観測史上最も遅い降雪、そして積雪ではないのか。とにかく異常気象以外の何物でもない。これが名残雪となってくれれば良いのだが。しかもこんな日に限って暖房は昨日で終了。結局昼過ぎになっても一向にやむ気配はなく、道路はシャーベット状になり、危険極まりない。退勤までに積もれば、ノーマルタイヤの我が車では坂を下って帰ることすら難儀となる。そして運の悪いことに、今日の午後からは、一昨日に上役から身代わり出張を頼まれ、市内菜根まで出向く羽目に。14時半に仕事場を離れ、いつもの通勤コースを辿り、内環状線経由で会議が開かれるとある場所へ。結局日中も雪が降り止むことはなかった。そこは私にとっては23年ぶりに訪れた懐かしい場所だった。用件は理事会への出席で、約1時間ほどの会議だった。前年度の会務報告やら収支報告、決算報告などを承認し、新役員を選出するなど、世間一般的にもありきたりな会議で、大雪の中、やりかけの仕事を放り出して出席した割には談論風発は皆無で、承認するだけの退屈極まりない会合だった。あっという間に終わり、その建物を見学。すると何人かの知りあいに会う。その後、16時半にヨーカドー隣りのK'S電気へ。NECのモバイルパソコン10.1型ワイドが何と39,700円の破格値!もちろんワープロソフトや表計算ソフトはついていないが、KINGSOFTを入れれば3,980円で同様の機能が使える見込み。大学のスクーリングに持参したい・・・。1.2kg弱でバッテリーも4時間持つので「ん~」と思案する。でもよくよく考えれば先立つものはない。半ば諦めていたら、ふと昔、XP用のoffice Service Pack 2ならライセンスを持っていたことを思い出した。それをインストゥールすれば古いword とExcel、Power point、Accessなら使えるか?念のため価格.comで調べたら、最安値よりも安い!もしかしてこれは買いかも・・・。そしてICレコーダーやブルーレイ、SWが入る短波ラジオ、冷蔵庫などを下見し、あちこちで写メを撮りまくり、店員に他の電気屋のスパイを疑うかのような目で見られた。一応パンフに価格を記入。また、マクセルのDVD50巻入りが1,980円で売られていた。時間潰しに電気屋散策は最適だ。欲しい物だらけで目移りして困るが。今日のように掘り出し物にぶつかる時があって楽しい。帰宅は17時20分で、家内より早い到着となった。明日は今日の出張のツケでフル、更に何と土曜日も出勤日となってしまった。下の写真は桜の満開に水を差す大雪。10時時点で撮影。一体いつまでこんな日が続くのか。地球温暖化は心配ないのでは?

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2010年4月19日 (月)

昔話⑦ ~開成山の思い出~

 今日は、昨日までの悪天候が嘘のような陽気に包まれた。我が町でもようやく桜が八分咲きとなり、ほどなく満開を迎えようとしている。昨日は開成山野球場で、福島県が生んだ名プレーヤー、中畑清氏を迎え、かくも盛大にオープニングセレモニーを祝った。一階のロビーには、彼の功績を讃え、メモリアルコーナーなる展示場までお目見えした。県内のニュースでは、こぞってこの話題に触れていた。確かにスタンドは明るい雰囲気になった。昔、よくあそこでプレーした私にとっては、バックネット裏に迫り出すようにあった大屋根(庇)が無くなったのが残念至極である。見慣れた筈のあの風景は一掃され、面影すらないほど変わり果てていた。外野を両翼100m、中堅が122mと、プロ野球の公式戦が開催可能な仕様としたため、外野スタンドの芝生席は狭くなった印象は否めない。観客用シートは格段に広く、心地よさそうだった。通路の臙脂とシートの緑のコントラストがよく映え、否が応にも真新しさを演出していた。
 昨日は5千人もの市民が新生・開成山野球場の門出を祝福した。さっそく明後日の21日には、パ・リーグの一軍のプロ野球の公式戦がこけら落としを兼ねて実施される。対戦は今季、私が予想したとおり絶好調で首位を独走しているロッテと東北期待の星・楽天である。先だっての週末に岩隈と田中マー君が先発で投げてしまったので、マウンドに立つ姿は見られそうもない。恐らく明日は永井だろうから、長谷部かラズナーが有力。対するロッテはエース小林宏か大嶺だろう。ロッテの強力打線を楽天投手陣が封じ込めることができるかが見所だろう。
 私が小中学生時代は、巨人戦やそれこそニューヨークメッツなども来て、試合を行った球場である。福島県営あづま総合運動場のあづま球場やいわきグリーンスタジアムが出来てからは、客足を取られっぱなしだった。パ・リーグとはいえ、久々の開催に市民のボルテージも上がることだろう。でも内環状線・国道49号線・さくら通りは大渋滞は必至。ナイトゲームなので夕刻の帰宅ラッシュはもの凄いことになりそうだ。開成山野球場の歴史については素晴らしいサイトを見つけたので下をご覧下さい。

http://www.city.koriyama.fukushima.jp/pcp/browserPActionCode=content&ContentID=1224591333519&SiteID=0000000000000.html 

Kaiseizan  Kaiseizan2  

Kaiseizan4  続いて、せっかく開成山の話題に触れたので、私の想い出を振り返りたい。私は開成山から国道49号線を挟んだはす向かいの私立幼稚園を卒園した。さくら通り沿いから少々入った所に実家があり、2km以上離れていたその幼稚園まで通っていたのだ。 
 しかも定期券を首からぶら下げ、幼稚園児の身分でありながらバス通学をさせられていたのだ。なぜそんな遠くまで通わされたかは、今もって定かではない。当時(40年以上前)は、近くにザベリオ学園(現在ホテルハマツがある場所)があったが、競争率が高くてなかなか入れなかった。今で言うところの「待機児童」状態だったのだ。また、安積女子高校(現・安積黎明高校)の西隣にあった長者派出所の裏手に「わかたけ保育園」があったが、そこは狭小で運動場もなく、のびのびと走り回れるような場所ではなかった。したがって、当時、大學に併設し抜群の教育力と環境で評判の良かったその幼稚園まで通うことになったようだ。だからロケーション的にも、昼休みや花見のシーズンには、よく園児総出であの30ヘクタールもある広大な敷地面積を誇る開成山公園を散策して歩いたものだった。園内には4000本の桜並木はもちろん、チューリップなどカラフルな花々が植えられた花壇や四季折々の花木が多数植え込まれていた。
 また、中央には広大な池(通称・五十鈴湖)があり、当時はまだ噴水はなかったものの、市民のオアシス的な存在で、昼寝や犬の散歩をするには打って付けの場所だった。そして池を跨ぐようにして架かる朱塗りの橋が水面に映え、とても綺麗だった。周囲の長く葉を垂らした柳の木もまた風に揺れて風流だった。池には鯉もいたし、ザリガニも生息していた。またアヒルや軽鴨も泳いでいたと思う。私は覚えていないが、そこにはKaiseizan5 野鳥園という大きな金網を張り巡らせた見学施設もあったらしい。子供の頃に亡き祖父が撮影したと思われるスナップ写真にそれらしきものが写り込んでいた。また、野外音楽堂も設置され、市民コンサートも開催できるほどの規模だった。また、昭和50年代にバラ園が整備され、5月ともなれば白や黄色、深紅など様々な色合いの可憐な花を咲かせ、市民の目を楽しませている。ところで昭和初期まで開成山公園は競馬場だったのをご存知だろうか?そして今はもう埋め立てられたが、今以上に広い沼地が存在していたという。この周辺には体育競技用施設が隣接していた。競泳場(市民プール)、総合体育館、弓道場、陸上競技場と練習用サブトラックなどがある。また、子供が遊べる遊具施設がある場所には、SLのD51が展示されていて、今はGWのこども祭りの時期にしか開放しないが、かつては自由に運転席に登ることが出来た。
 また、内環状線沿いには、最近では、郡山を代表する作家・久米正雄を記念した施設「こおりやま文学の森資料館」が建設されたり、児童文化会館があった場所は、郡山総合教育支援センターに改まった。そして周辺は小川が流れ、その川沿いにはせせらぎ小道が整備された。20年ほど前になるだろうか。その近くにあった白雪姫と7人の小人像が、心許ない犯罪者の手によって破壊される残忍な事件があった。郡山市民の多くが、強い憤りと慚愧に堪えない思いに駆られた負の記憶に苛まれた。
 また、子供自分、郡山市の役員をしていた祖父に連れられ、いろんな場所に自由に出入りできた。球場は顔パスだったし、巨人が試合を行った年には、王選手や長嶋監督、中畑選手のアップの生の顔写真を貰い、そこにサインをして貰ったこともある。また、公式戦で、ネット裏の役員席に入れて貰ったこともあり、場内を散策しているうちに、試合中トイレに行く選手を追いかけ、サインをねだったりしたものだ。阪神の外人選手の身長がやたらでかかったことを覚えている。また、陸上競技場で開催された何かのパレードにも駆り出され、風船を持って場内を一周して練り歩いた記憶もある。そして祖父の希望で幼少から剣道と水泳を習っていた。夏休み中に一週間、ナイターの水泳教室に参加し、この開成山プールに通い、コーチを受けたこともある。

 そして、極めつけは、今でこそ郡山南IC近くにカルチャーパークが出来て、その一画に遊園地が作られ、観覧車や回転木馬、ジェットコースターなどの大型の遊具を楽しめるようになったが、当時は子供が遊べるような遊園地は皆無だった。ところが、小学生高学年の頃(1974年7月~8月)に、大規模な「こども祭り」(イベント)がここで開かれた。開成山公園をメーン会場に、大人も遊べる多彩な催しが盛りだくさんだった。五十鈴湖にラジコンの船(軍艦)を浮かべて競争したり、イベントにはつきもののトランポリンみたいに弾んで遊べるゴム製のハウスや一番人気はやはりバラ園の西側辺りに築かれたジェットーコースターだった。この施設は、距離が短いながらも、郡山には当時なかったもので、山のハリボテを滝が流れ落ちていて、コースターが潜る際にだけ、一時的にそれがストップするのだ。また、この頃流行っていたホッピング大会とかもあっていろいろ楽しめた。そしてさくら通りを挟んだKaiseizan3 桑野一丁目界隈の空き地が第2会場となっていて、そこから何と陸上自衛隊のヘリコプターが発着し、有料ながら郡山市内を空から探索できるアトラクションまで備えられていた。恐らくそこは自衛隊の専用コーナーだったと思う。覚えているのは、健康チェックできる保健コーナーが設けられ、そこで生まれて初めて肺活量を測定したと思う。未だにその時の数値が2900ccだったことを鮮明に覚えている。そして、これらのイベントの期間、PRを兼ねて郡山市内の上空を巨大な飛行船が何度も旋回していた。確かシルバーで大きな目が描かれてあった。そして失敗談になるが、よせばいいのに当時仲の良かった悪ガキ3人組で、誰が言い出しっぺなのかは今となっては確かめようがないが、カラオケ大会に出ようということになって、勢いで申し込んでしまった。その特設ステージで、いざ公衆の面前立ったら足がすくみ、声にならないか細い声で歌った気がする。その時の歌がまた、海援隊(武田鉄矢ボーカル)の「母に捧げるバラード」だった。思わぬ赤っ恥をかくこととなってしまった

 このこども祭りと同時開催で、開成山公園がかつて日本中のロック・ファンの間で有名になったイベントがあった。それは、「ワンステップ・フェスティバル」という名前の、名だたるロックアーティストを一堂に会しての音楽イベントだった。7月31日から8月10日までの11日間に渡って開催され、そのうちロック・コンサートは8月4・5日、8~10日の5日間行われた。地元でミニコミ誌を主宰する佐藤三郎氏が実行委員長を務め、「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」というテーマを掲げ、地元地域に根ざした形で発案されたものだった。フェスティバルのスローガンは「市制50周年記念・新しい未来への祭り・・・緑と広場そして大きな夢」というものだった。そして、ロック・コンサートはその一環として行われ、大盛況だったようだ。沢田研二、矢沢永吉率いるキャロル、ダウンタウンブギウギバンド、かまやつひろし、オノ・ヨーコなども出演したのだった。

http://www.city.koriyama.fukushima.jp/upload/1/2061_2008_9musicpower.pdf

http://www.youtube.com/watch?v=cTJXY0yW6JA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=CUH6L18scfQ

 そして野外音楽堂についても想い出がある。それは25歳の時に、中学時代にギター&CB無線をやっていた仲間で、この野外音楽堂を貸し切ってコンサートを開いたのだ。どういう訳か私もステージに上げられ、音響室に入ったり、ビデオの撮影係をさせられた。その友人は郡山市公会堂でもミニコンサートを開くほど歌好きな野郎だった。一体今彼はどこで何をしているのやら・・・。ここで言う彼とは、昨年郷里に凱旋し、「風とロック」のコンサートを大成功させた我が同級生の「箭内道彦氏」ではないのであしからず。

 また、付随して述べれば、小学生時分に母の運転する車でここの西側の駐車場を訪れ、何と緩やかなスロープを利用してスキーの直滑降の練習をしたこともあったし、浪人時代は予備校にも行かず、この公園のテーブル付きベンチでひたすら大学受験の勉強をしていたこともあった。以上見て来たように、郡山市に生を受け、長年暮らしているとやはり愛着が湧くし、様々な想い出が染みついている場所だと言える。昔と変わらず現在も開成山公園は市民の憩いの場であり、経済県都・郡山の発展を見守って来た場所でもある。県内広しと言えど、人口33万人の中核都市で、市街地のど真ん中に30haもの巨大な公園を備えた都市は希少だろう。繁華街を離れ、郊外に引っ込んだ今、春と秋の大植木市以外になかなか開成山を訪れる機会はなくなったが、童心に返って、どれくらい「今昔物語」が進んだかこの目でしかと確認したいものである。 

 追記:平成24年8月27日(月)

2010年4月16日 (金)

伝説の歌姫・山口百恵

Momoe2  昨夜、ひとつの時代を彩ったひとりの女性歌手の「引退ラストコンサート」の映像をYou Tubeで観た。月日の経つのは早いもので、彼女が引退して今年で30年を迎えることとなった。人間長く生きていれば、様々な歴史的瞬間に立ち会い、その時代の大きな事件の目撃者になることもしばしである。しかし、偏に30年という歳月はあまりにも遠く、更には次々と世界各地から飛び込んで来る新しい話題やニュースによって、ともすれば記憶の片隅に追いやられてセピア色に褪せてしまうものだが、されど、その映像は30年経ってもなお色褪せることは決してなく、私の記憶を色鮮やかに甦らせてくれた。その美貌と聡明な顔立ち、美しい声、ファンを大事にし、歌を慈しみ、至って謙虚、そして感謝の心を忘れない。そんな8年間の歌手生活の集大成が垣間見れた。エンディングで白いマイクを静かにステージに置き、やおら後ろを向いて去っていく。やがて純白の煌びやかなドレスにスポットライトが当たり、ドレスの両側の裾を摘まみ、両手を高く突き上げ、白鳥が飛び立つが如く宙を舞い、そして漆黒の闇へと消え去って行く。こうして彼女はファンの惜しみない拍手と歓声の中、歌手としての生き方にピリオドを打った。その伝説のコンサートは昭和55年10月の出来事だった。ここで言う彼女とは、伝説の歌手・山口百恵である。当時、「キャンディーズ」や「都はるみ」のように、引退しても何年かすると芸能界に復帰して来る人もいる中、彼女だけは、家庭と仕事の両立は自分には無理と悟って、一途に貫いて夫であるに三浦友和を支え、良き妻、良き母となっている。復帰を願う多くのファンを持ちながら、その後、テレビに出ることは一度もなかったのである。彼女は私より年上であるが、彼女の生き方は女性の憧れそのものだったと言える。美しく、感動的な幕引き(ラストシーン)だった。

 (映像はこちら→ http://www.youtube.com/watch?v=CiL8dQ-JTrg&feature=related

 彼女のデビューのきっかけはNTVの「スター誕生」だった。萩本欽一が司会を務める、当時国民に爆発的な人気があった公開オーディション番組で、後にトリオ(中3~高3)を組むことになる、桜田淳子、森昌子を始め、ピンクレディーなどアイドルが巣立ったことで名を馳せていた。彼女は1973年の4月に「としごろ」でデビューしたが、色々な著名作家が彼女に楽曲を提供。先家和也・都倉俊一・阿木耀子・宇崎竜童・平尾昌晃・さだまさし・谷村新司などである。そして年を追うごとに少女からひとりの大人の女性へと成長していった。発売する曲は常にヒットし、その時代を築き、確かな足跡を残して行った。代表曲を挙げるとキリがないが、「ひと夏の経験」・「横須賀ストーリー」・「イミテーションゴールド」・「秋桜」・「乙女座宮」・「プレイバックPart2」・「絶体絶命」・「いい日旅立ち」・「美・サイレント」・「しなやかに歌って」・「謝肉祭」・「ロックンロールウィドウ」・「さよならの向こう側」など。また彼女は、ファッションリーダーとしての地位も確立し、若い女性の手本となるなど影響力も大きかった。髪型、化粧、衣装などの流行を作り、雑誌のグラビアを何度飾ったことか。ブロマイドの売り上げも第1位を記録し、男性からだけでなく、同性からも抜群の人気があった国民的大歌手だった。やがて、当時人気絶頂だった彼女にとって、運命の人との出会いが訪れた。テレビ番組「ラブラブショー」で甘いマスクで若い女性のハートを虜にしていた俳優・三浦友和と共演したことがきっかけで交際がスタート。当時、「今をときめくアイドル歌手」と「超二枚目俳優」の二人は、ゴールデンカップルとして注目される傍ら、TBSのテレビドラマ「赤いシリーズ」や映画、CM等でも共演し、高視聴率を記録し続けた。そして彼女にとって歌やドラマで大活躍し、多忙な生活を送っていた。そんな21歳の彼女に、人生最大の転機が訪れたのだった。

Momoe  それはまさしく青天の霹靂と言える突然の出来事だった。1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで、その役柄のイメージのまま、「私が好きな人は、三浦友和さんです。」と、三浦との恋人宣言を突如発表した。そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約と同時に、「わがままな…生き方をわたしは選びました。お仕事は全面的に、引退させていただきます。」と芸能界からの引退を公表し、ファンに大きなショックを与えた。その報告をしてから彼女は、努めて質素に、かつ大人の女性らしく振る舞い、華麗な成長を遂げて行ったのだった。そして運命の1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして文字通り最後の歌唱曲となった「さよならの向こう側」では堪え切れずに、涙、涙の絶唱となった。そのラストソングを歌い上げた後、彼女は支えてくれたファンに向かって長い時間かけて深々と一礼し、自らステージの上にマイクを優しく丁寧に置いた。そして舞台裏へゆっくりと去って行ったシーンは、ファンの間では伝説となっている。その絵柄は、「二度と彼女が歌っている姿を見ることは許されない」ことを無言のうちに物語っているような印象さえ与えた。そして、それから一ヶ月後の1980年11月19日、彼女は最愛の人と結ばれた。結婚式を挙げた港区・霊南坂教会にはマスコミやファンなどが総勢3000人も詰めかけ、二人の門出を祝福した。ここでひとつカミングアウトするが、何を隠そうその6年後、東京に移り住んだ私は、バイクを駆って真っ先にその教会(式の後、取り囲んだ大勢の報道陣のフラッシュの渦の中をふたり寄り添って登場した玄関前)を訪れたし、当時2人が住んでいた高輪のマンションを見物しに訪れたことがあった。引退後は、一度も生でテレビなどのマスコミの前に姿を見せることはなかった。まるでそうすることがファンに対する礼義であり、更には約束事であるかのように・・・。私生活に於いても良妻賢母を見事に成し遂げていることに敬服せずにはいられない。芸能界に未練を残さず、本当に潔くて引き際の美学を貫いた珠玉の女性でもあった。

 つい数年前のことだが、私も彼女の歌を久し振りに聴きたくなり、ベスト盤CDを借りて聴いた。不思議だが、35年も前の小学生時分に聴いた曲であっても、さほど古さを感じない魅力に溢れていた。私が個人的に好きだったのは、カラオケの十八番になっている「いい日旅立ち」や嫁ぐ娘の心情を如実に物語った「秋桜」などのスローバラード、さらには軽快なアップテンポとリズム、激しい踊りでショーマンシップぶりを存分に発揮した「プレイバックPart2」や男女の三角関係を描写した「絶体絶命」などである。それぞれの曲調に応じて、幾つもの顔を持ち、自在に変身を遂げた「山口百恵」を見事に演じ切った。時には色気を前面に押し出した、露出度の高いセクシーな衣装で我々の度肝を抜いたかと思えば、一転してお嬢様風の出で立ちで登場したり、日本髪を結い、純和風の落ち着いた雰囲気を漂わせることもあった。TBSの看板番組だった「ザ・ベストテン」でも常連だったし、彼女がマスコミ各社やテレビ・CMに登場しない日はなかったと思う。それくらい数多いるアイドルの中でも別格で、老若男女を問わず、国民から愛された大スターだった。

 彼女が神話もしくは伝説となっている今の芸能界において、ネットという媒体を駆使すれば彼女の痕跡を探る術はいかようにも存在するが、このほど、彼女の息子(次男)が芸能界デビューして話題となった。「ケインコスギ」と共に「ファイト!一発!」でお馴染みの「リポビタンD」のCMキャラクターに起用されたのだ。やはり、どことなく面影が偉大なる母・山口百恵を彷彿させる顔立ちをしていた。30年という歳月はひとりの人をこんなにも大きく成長させるものなのかと改めて実感する次第であった。この場を借りて、青春時代の一ページを鮮やかに彩ってくれた彼女に衷心より感謝と敬意を払いたい。「伝説の歌姫・山口百恵、FOREVER!」

Momoe3

「さよならの向こう側」 http://www.youtube.com/watch?v=jbo2aQd-dAM&feature=fvw

http://www.youtube.com/watch?v=9dsCFcBiGBY&feature=related

2010年4月13日 (火)

ドキュメンタリー「45歳の挑戦」~憲法前文篇~

 昨日の仕事帰りに、通勤経路に一番近い某行政センターに立ち寄り、「住民票謄本」を250円で取った。雨の中を激走し、まさに閉店間際の電光石火の早業だった。それは「こども手当て」を貰うために急遽必要になったのだ。そして今日それを職場に見せて点検を受け、予てより市から届いていた「こども手当て申請書」を郵送し、手続きを完了した。国の方針とは言え、従前の児童手当は月額5,000円。これが子供一人当たり13,000円と2.6倍に跳ね上がり、子供がいる家庭には有り難い収入増である。この政策は、今夏に予定される参議員銀選挙を睨んで、国民に媚を売ろうとする傾向や一寸でもウケを良くして国民に迎合し、票に結びつけようと言う民主党の魂胆や打算がどうも見え隠れする。小沢疑惑や実行力・指導力不足が露呈し、このところ支持率を下げまくっている内閣を立て直そうと必死の形相なのだろう。改めて総理の鼎の軽重が問われようとしており、私自身もその手にやすやす乗りたくはないのだが、我が家も「こども手当」支給の該当家庭だけに、ここはひとつ素直に喜びたいと思う。それにしてもこの「こども手当」と合わせ、公立高校の授業料無償化といい、ここへ来て政府もまるで箍が外れたように大盤振る舞いである。それだけ日本は、少子高齢化によって、遅ればせながら子供を大事にしようという傾向が見受けられるようになった。更に、今後の日本を背負って立ち、今の窮地を打破できるのは、無論「ゆとり教育」などではなく、真の教育にまつべきものだということをようやく時の政府も悟ったようである。やはり「人は宝」を地で行くような人を育てる方向性を打ち出したことには少なからず共感できるし、賛同したい。

 そして昨夜、来る大学への入学式を前に、改めて履修関係の冊子を眺め、自分なりに配本計画と共に、履修科目の検討と実際の単位修得に向けた計画表を立て、Excelを用いて一覧表を作成した。結構これが一目瞭然で、我ながら見やすく出来たと思う。先週、仕事のスケジュール表と合わせ、長期スパンでのカレンダー形式の予定表は作成させていたが、これでスケジュール管理は完璧だ。何をどの時期に勉強し、いつまでにレポートを提出し、いつ試験を受ければよいのか簡潔にまとまった。この作業のため、結局、昨夜も23時半までパソコンと睨めっこで、肩凝りは酷く、また目が充血するほど疲れる。また、睡眠が連日6時間弱なので、とにかく眠い。明日も訳あって、朝5時起きで5時半までに駅周辺まで出向かなければならない。仕事に差し支えない条件で始めたのに、のっけから危ない。「春眠暁を覚えず」は是が非でも避けたい。今日は、昨日の雨中爆走とは打って変わってゆっくり帰った。あと数日で春の交通安全運動が終わるので、どこで取り締まりの目が光っているかわからない。油断禁物。帰宅途中で気づいたのは、このところの15度を超える気温に桜も一気に咲きだした。これまでの梅とは明らかに趣を変えるピンク色の花弁を纏った光景が目に付きだした。今週末は間違いなく見頃を迎えることだろう。

 さて、前置きが長くなり恐縮だが、早速本日の話題入る。この度、通信制法学部に入学を許可された私だが、法律を学ぶ上で抜きには語れないのが「日本国憲法」だろう。今から20年ほど前、同じタイトルの書籍が大ベストセラーになったのは記憶に新しいところだ。その時に購入して、少しでも齧っておけばよかった物を、憲法や法律の条文に関する知識は、恥ずかしながら高校の「政治経済」の授業や中学校の歴史で習った「基本のき」程度の知識しか持ち合わせていない。恐らく穴埋めにでもすれば思い出す部分もあるだろうし、記憶力が弱くなって来た自分が、これから是が非でも覚えることを余儀なくされることを考えれば、このブログでも取り上げておくことは意義のあることだと思う。したがって、まず今回は、その第一弾として憲法の「前文」を取り上げたい。今回はそれを虫食いにして、自分自身の暗記の補助としたいと思う。もし、興味のある人や学生時代に覚えた記憶のある人は、是非私と一緒にチャレンジしてほしい。一見難しくてとっつきにくい条文や条項も、かみ砕いたり、ひとつひとつ丁寧に潰していけば、意外と面白いかもしれない。そもそも日本国憲法は、日本人が日本人として存在する意義を明確にしてくれたり、身分や人権を保障してくれたり、証明してくれる唯一の法規である。同時に三大原理である「国民主権」、「恒久平和主義」、「基本的人権尊重」をも謳っている最高法規だと言うことが出来る。ではさっそく始めよう。では次の空欄に入る適語を答えてもらいたい。

 ~日本国憲法 前文~

 日本国民は、正当に選挙された( 1 )における( 2 )を通じて行動し、われらとわれらの( 3 )のために、諸国民との( 4 )による成果と、わが国全土にわたって( 5 )のもたらす( 6 )を確保し、( 7 )の行為によつて再び戦争の( 8 )が起ることのないやうにすることを決意し、ここに( 9 )が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも( 10 )は、国民の厳粛な( 11 )によるものてあつて、その( 12 )は国民に由来し、その( 13 )は国民の代表者がこれを行使し、その( 14 )は国民がこれを( 15 )する。これは( 16 )の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の( 17 )、( 18 )及び( 19  )を排除する。

 日本国民は、( 20 )の平和を念願し、人間( 21 )の関係を支配する崇高な( 22 )を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の( 23 )と( 24 )に信頼して、われらの( 25  )と( 26 )を保持しようと決意した。われらは、( 27 )を維持し、( 28 )と( 29  )、( 30  )と( 31  )を地上から永遠に除去しようと努めてゐる( 32 )において、( 33  )ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく( 34 )と( 35 )から免かれ、平和のうちに( 36  )する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの( 37 )も、自国のことのみに専念して( 38  )を無視してはならないのであつて、( 39 )の法則は、( 40  )なものであり、この法則に従ふことは、自国の(  41 )を維持し、他国と( 42  )関係に立たうとする各国の( 43  )であると信ずる。

日本国民は、国家の( 44  )にかけ、全力をあげてこの崇高な( 45 )と( 46  )を達成することを誓ふ。

 <解答編>

 1国会 2代表者 3子孫 4協和 5自由 6恵沢 7政府 8惨禍 9主権 10国政 11信託 12権威 13権力 14福利 15享受 16人類普遍 17憲法 18法令 19詔勅 20恒久 21相互 22理想 23公正 24信義 25安全 26生存 27平和 28専制 29隷従 30圧迫 31偏狭 32国際社会 33名誉 34恐怖 35欠乏 36生存 37国家 38他国 39政治道徳 40普遍的 41主権 42対等 43責務 44名誉 45理想 46目的

 さて如何だっただろう。現職の弁護士と言えども、果たしてどれだけの人がスラスラと文言が出て来ることか。これでまだ本文ではなく、単なる前文である。こういった憲法は、ほんの小手調べの基本的事項で、今後、いわゆる基本六法(日本国憲法・刑法・民法・刑事訴訟法・民事訴訟法・商法)を皮切りに債権法、労働三法、物件法、相続法、会社法、道路交通法、銃刀法、国際法、保険法、車両法など多種多彩ある法律の条文を覚えるのだから先は長いと言わざるを得ない。

 次回以降、時機を見計らって「日本国憲法」に登場する第1章から第11章まである本文についても取り上げて行きたいと思う。

第1章 天皇 (第1条~第8条)
第2章 戦争の放棄 (第9条)
第3章 国民の権利及び義務 (第10条~第40条)
第4章 国会 (第41条~第64条)
第5章 内閣 (第65条~第75条)
第6章 司法 (第76条~第82条)
第7章 財政 (第83条~第91条)
第8章 地方自治 (第92条~第95条)
第9章 改正 (第96条)
第10章 最高法規 (第97条~第99条)
第11章 補則 (第100条~第103条)

2010年4月 8日 (木)

ドキュメンタリー「45歳の挑戦」~立志篇~

  昨日、仕事を終えて自宅へ戻ると、二階建て家屋がすっぽりビニールシートと頑強な足場に覆われていた。今週から塗装工事が始まることをてんで忘れていた。しかし、職人はすごい。一日足らずのうちに、ここまで一気に完了するとは・・・。18時半頃の帰宅になったので、薄暗くて周囲を見渡すことはできなかったが、アルミ製のステップの階段を上れば、屋根の上に出られるかもしれない。いよいよ始まったという感じだ。おそらく1週間から10日ほどはこの状態が続き、鼻を突く様なペンキ臭にも耐えなければならなくなるだろう。下の写真が現況だが、一見すると取り壊し?を思わせる様相。家が隣接しているため、高圧洗浄の際に水や塗装用ペンキが飛散しないような処置を施して貰った。でもこれが結構割高だった。総費用の1/6は足場代かもしれない。(写真は4/8に撮影した物)

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 また、自宅に入ると、思いもよらぬ幸運のハガキが来ていた。20年以上の長きに渡り加入していた某保険会社が、今年から東証一部に上場したことに伴い(昨年その案内が届いていて株式を売却する手続きをしていたのだが)、僅か数株分の換算だが、その譲渡益が近く口座に一括振り込まれることとなった。これまで人並み以上の終身保険に加入していた為、その予想外の受け取り額に驚いた。念のため新聞の株式市場の株価を見て確認したら、昨秋に申し込んだ手続き時の額より、一株当たり2万円ほど値上げしていた。売却してその譲渡益を一括で受け取るか、または株を保有し、株主として運用し、利益に応じて配当金を受け取るかは任意選択に委ねられていたが、証券口座を開設する手続きと手間が面倒だったので、株主配当金よりも容易な売却益を選んだのだった。状況確認もせずに安易に売ってしまったが、これは無知ゆえの大損だったか・・・。でも金の工面に苦慮していた屋根と外壁の洗浄と塗装、ウッドデッキの修繕費用の足しにはなりそうだ。「天の助け」とばかりに偶然と幸運が重なった訳だが、これが「渡りに舟」という奴だろうか。昨日は振って沸いた思いがけない臨時収入にほくそ笑む一日となった。しかし、これは一時所得扱いとなるようで、来年明けにも確定申告が必要になるらしい。これまた面倒くさい手続きが求められそうで頭が痛い。

 さて、4月8日(木)の話題だが、今朝は再び冷え込んだ。車の温度計ではマイナス表示だった。いわゆる放射冷却で、その寒さと引き換えに朝から突き抜けんばかりの快晴青空だった。しかし幸い、日中は穏やかな天気に恵まれ、やっと郡山周辺も春めいてきた。週末の花見はギリギリ間に合うだろうか。年度初めのこの時期、これから歓迎会や花見などに託けた飲み会が立て続けに入っている。今年は金銭的に支出が多くなる予感がするので、出来得る限り節制や倹約をせねばなるまい。そして仕事を終えて自宅へ帰ると、「宅急便」の不在票がサイドボードに置いてあった。家内が事前に電話してくれていて、19時過ぎに呼び鈴が鳴った。4月下旬の入学式に向け、配本教材一式と各種案内、読み物、レポート課題集、レポート用紙、テスト問題集等がコンパクトな段ボールに詰め込まれ、山ほど送られて来た。その数、実に何と27種類。最初の配本でその量の多さにビビってしまった。「いゃ~こんなに多いのか?」「本当に大丈夫だろうか?」「やっていけるのか?」といった戸惑いと一抹の不安を感じると共に、「いよいよ再び大学生活が始まるんだな」と気持ちが引き締まる思いがした。とりわけ法律にかかわる書物は、さすがにお堅い活字の文章の連続で、一見して引いてしまいそうな難しさと量だ。でも結局それも自分で選んだ道なので、「花より実をとる」考え方で、気概を以って初志貫徹で頑張りたい。今年1年で、何とか最低でも24単位以上は取りたい。それにはまず、基本計画が大事。仕事、ブログ、釣りとの両立なので、猫の手も借りたい(猫には前足はあっても手はない筈で、なぜこんな言葉があるのか不思議なのだが)ほどのてんてこ舞いの状態に陥るだろうが、週末にでも長期スパンで見通しを測る為の年間スケジュールを立てるとしよう。自分自身、今回の「不退転の決意」を境に、不器用の私には厳しいが、要領のよさも身につけて行きたい。昔、いっぺんに12個の仕事を同時進行で進めた経験があるので、「何とかなるだろう」とプラス思考で考え、臆せずかつ前向きに捉えて行きたい。

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2010年4月 6日 (火)

懐かしのBCLブーム

 BCLをご存知だろうか。BCLのジャンルを世に知らしめ、その道のスペシャリストとして君臨し、元祖BCLブームの火付け役となったのが山田耕嗣(下の写真)さんだった。海外を始めとするSW短波放送の受信方法や報告書の書き方、ベリカードが自宅に届くまでの一連の楽しみ方について、わかりやすい解説と手ほどきをしてくれた第一人者だった。私は中1の頃、友人たちの間で流行していたそのBCLブームに便乗する形で、彼が書いた「BCL百科」と云う入門本を買い込んでその存在を一から知ることとなった。残念ながら彼は、2008年の8月に肝臓の病気により67歳の若さでこの世を去った。誠に残念至極である。

Yamada  そもそもBCLとは、Broadcasting Listening / Listener の略である。主に海外から発信される日本向けの短波放送を聴視する趣味を指し、有名どころでは「北京放送」や「モスクワ放送」、「ラジオオーストラリア」や「アンデスの声」、「BBC放送」などがある。よくFENと間違える人がいるが、あれはFar East Networkの略称で、在日の外国人向けの極東軍事放送(極東にいるアメリカ軍の軍人および家族向けの放送)だった。1997年8月、そのFENはAFN‐Pacificと改称された。また、英語のまま放送していたアメリカのVOA(Voice of America)などもBCLを代表する一種であった。私はよく中学時代に、英語の勉強にもなると考え、夜な夜なラジオのダイヤルを合わせ、耳を澄まして聞いたものだが、当時は多少の雑音や混信もあって、何を喋っているのか皆目見当がつかなかった。でもラジオから聞こえてくる異国の文化に、直に触れることのできる滅多にないチャンスだった。何か新鮮さと共に刺激的で、新しい未知なる世界に首を突っ込んだような、言い知れぬ不思議な感覚を覚えた記憶がある。

 日本では、1970年代に脚光を浴び、中高生を中心に流行したBCLだったが、時同じくして、その頃の日本は深夜放送が一大ブームとなっており、人気DJ達が深夜零時から朝方の5時頃までマイクを握り、リスナーと一体となった歌とおしゃべり、リクエストに応えるラジオ番組を展開し、夜のしじまを盛り上げていた。局のアナウンサーではなく、歌手や有名タレントがDJを担当する画期的なスタイルが確立され、この頃に世間に広まったコンビニと合わせて「夜型人間」なる新語まで生まれたほどだ。その頃の人気番組は、ニッポン放送(JOLF)の「オールナイトニッポン」や文化放送(JOQR)の谷村新司が一時代を築いた「セイヤング!」、「走れ歌謡曲」、TBSの夜中の3時から始まる「いすゞ歌うヘッドライト~コックピットのあなたへ」などが毎日のように放送されていた。特に私が好んで聴いていたのは、土曜深夜の笑福亭鶴光の「オールナイトニッポン」。「わんばんこ」の挨拶は時代を作ったし、青山墓地からの臨場感あふれる生放送はリスナーを釘づけにした。ちょっとHなハガキ紹介や名物コーナーは、中学生だった私には刺激的だった。他にビートたけしやタモリ、中島みゆき、リスナーからの生電話で恋の悩みに即答するラジオっ娘がパーソナリティーを務めた同番組は欠かさず聴いていた。番組の中で流れるジングルで、「ビバ~ヤング、パヤパヤ~ビバヤング!」や「オールナーイトニーッポーン」は今でも耳に残っている。当時の福島県はラジオ福島ではネットしていなかった。0時15分から45分間放送していた「夜をぶっ飛ばせリクエストで45分!」が地元では人気深夜番組だった。荒川守アナや菅原俊二アナ、そして大和田新アナらがマイクを握っていた。浪人生の頃にようやく「オールナイトニッポン」が福島でもネットされるようになった。また、「歌うヘッドライト」では、木曜日の石渡のり子さんが大好きだった。オープニングのトラックのクラクションをモチーフにした軽快な音楽は心地よかったし、エンディングの「夜明けの仲間達」を聞きながら朝焼けを迎えるのは格別だった。当時、浪人していた私が毎日受験勉強をしながら元気づけられていた、言うなれば「夜の友」だった。また、地方都市の郡山市に住んでいた私は、都会の情報や流行の曲をチェックするのも一番手っ取り早い方法だった。また、日本短波放送「NSB」(後のラジオたんぱ→現在のラジオNIKKEI)の看板アナだったのが大橋照子さんだった。あの頃は女子アナは今ほど人気が爆発することはなかったが、彼女は別だった。チャーミングで身近な印象を醸したことに加え、可愛らしい声と優しい話し方が超ウケた。ところで、ラジオの一大改革をご存知だろうか。電気通信局(通称電波監理局)の方針で、1978年11月23日を境に周波数の変更が大々的に行われたのだ。ニッポン放送を例に出すと、昔は1240KHzだった。TBSは950KHz、東北放送は1620KHzというように、10KHz間隔で設定されるキリの良い数字だった。それが9KHz間隔に改められ、1242KHzのように、最後が端数で終わる中途半端な数になってしまったのだ。その状態は今もなお続いている。

Tryx2000  さて、話を本題に戻すと、BCLにハマっていた自分が中学時代に行っていたことを紹介しよう。まず、BCLを行うにはそれ専用のラジオが必要となる。つまり、AM(中波)放送やFM放送だけでなく、短波放送(SW=short wave)の周波数が聞こえる特別仕様のラジオである。当時、BCLブームに絢かってスタイリッシュで格好の良い受信機が各メーカーからこぞって発売されていた。まず、一番人気は横長の軍隊の無線送受信機を思わせるような深緑色の「クーガ2200」という機種。てっぺんにT字型のアンテナが付いていて、それが回転し、とても高級感があった。当時の物価で、ラジオだけの機能なのに定価34,800円もした。受信周波数はMW525~1605KHZ、FMが76~90MHZ、そして短波はSW1~SW6まであって、4MHZ~28MHZまでをフルカバーし、極めて高性能だった。また、SONYが発売した縦置き型の「スカイセンサーICF5900もバカ売れした。私と兄が共同で所有していたのが東芝製のTRY-X2000という縦長の機種だった。親にねだって無理して買ってもらった記憶がある。MW525~1605KHz、FM 76~90MHz、SW 1.6~30MHzで、短波直読を売り物に発売された機種であり、SW直読範囲は3.9~4MHz、4.75~5.06MHz、5.95~6.2MHz、7.1~7.3MHz、9.5~9.775MHz、11.7~11.975MHz、15.1~15.45MHz、17.7~17.9MHz、21.45~21.75MHz、25.6~26.1MHzを網羅していた。同じ東芝製の旧型機のTRYX-1600のマーカーがLC発振だったのに比べ、1MHzの水晶発振になっていた。また昔の通信型受信機に良く見られるダイアル指針アジャスト機構を備えているのでFMとMWも周波数の読み取り精度が高い、校正すれば、ほぼ正確に読み取れる、中々楽しい機種だった。アンテナが左端にコンパクトに装備され、回転式になっていたのもユニークなデザインだった。このラジオは1976年に発売され、28,900円だった。私は夜な夜なこのラジオを使って、チューニングし、世界各国を“旅”していたのであった。

Tbs

 次に、ただラジオを聴いて楽しむだけがBCLの能ではない。それを既製ハガキか便箋型の用紙に、番組のタイムスケジュールに沿ってどんな内容を放送したかを詳細に記録する「受信報告書」なるものを書き、それをその放送局に送るのだった。海外の放送局にはもちろんエアメールと国際返信切手券(IRC)を購入し、横文字で封書に住所を書く。これがなかなか国際的な感覚を味わえて楽しかった。すると数週間後に更なる楽しみがあった。それは受信報告書を送った放送局から返礼品として送られてくる「受信確認証」(通称ベリカード)だった。これをたくさん集めて友人と枚数を競い合ったものだ。凝り性の私は、それこそ国内のラジオやテレビ局、それに外国の短波放送から英語放送まで幅広く報告書を送り、短期間のうちに100枚以上もベリカードを溜め込んだ。負けず嫌いの私は、校内一の枚数を保持していた。このベリカード、言ってみれば何の変哲もないその放送局でデザインした写真やイラストなどが入った絵葉書みたいなものだが、そこに妙な価値観を見出し、さまざまな絵柄のカードを数多く集めることに深い意義を抱いたのだった。実はこのカード収集にも、実は裏技があったのだ。例えば日本テレビ系列の番組を見て、番組内容を記録する。そして同時に、番組中に流れるテロップで「この放送は~テレビ、~放送」というネット局紹介をチェックし、報告書にこう書くのだ。「この放送は、旅行中○○県に滞在した際に観た物です。」と。これで福島県に居ながらにして、いろいろな県のベリカードを集めたものだ。ちょっとえげつない姑息な感じだが。ラジオでは、22時から放送していた「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という番組でよく同じ手を使った。ところで地元の「ラジオ福島」のベリカードは、裏磐梯の桧原湖と一切経山から噴煙が立ち上っている写真のカードだった。一番人気があったのは、TBSのモノ。取材記者のイラストが描かれていた。ネットで「VERI CARD COLLECTION」という名のサイトがあって、各放送局で製作していたベリカードの一覧が写真入りで載っていた。驚くことに、ほとんど全てのカードを私はかつて所有していたのだった。30年振り以上に見たが、恐ろしいことに全部デザインを覚えていた。恐らく、無頓着な母親によってとうの昔に捨てられたのだが、私にとってはそれは青春時代を彩る貴重なお宝だった。ちなみに受信報告書には以下のような内容を記載した。 

  • 受信者の住所・氏名(放送内容に関する感想・意見との関係で必要があれば、年齢、職業、性別も記載するとよい。)
  • 受信地(緯度・経度(世界測地系)で記載するのがよいが、例えば日本国内で日本国内の放送局の電波を受信した場合には都道府県市町村字番地によってもよい。この場合、何番何号まで精確に記載する。)
  • 受信年月日(日本標準時(JST)と協定世界時(UTC)での日付けの違いに注意する。)
  • 受信時間と時刻(日本国内局の場合は日本標準時(JST)でもよいが、国外局の場合には協定世界時(UTC)により記載する。)
  • 受信した電波の型式・周波数(確認できれば送信所名も記載するとよい。)
  • 受信設備状況(使用受信機・受信アンテナの種類・利得・地上高など。ポケットラジオによる受信は「内蔵バーアンテナ使用」又は「フェライトバーアンテナ」になるが、受信設備状況の報告はできるだけ詳細なほうがよい。)
  • 受信状況(信号強度・混信・ノイズ・フェージング・総合評価を5段階の数値で表したSINPOコードによるものが通例だが、電界強度など数値で厳密に記載したものがよりよい。)
  • 放送内容(言語及び受信時間中の時刻毎の番組内容の概略。例外もあるが、内容が確認できるものであればよく、特に放送局を識別するコールサインなどと、これが放送された時刻を明記するのがよい。)
  • 放送内容に関する感想・意見(技術文書であることから、簡略なものでよい。別途番組制作担当者宛てとして詳しく書いたものを同封するのもよい。)
  •  これに受信確認証の発行を依頼する旨の文面と受信確認証の送付先を明記し、日本国内局の場合には返信用郵便切手、ベリカードのみ希望の場合にはその旨明記して50円、封書でベリカードのみ希望の場合にはその旨明記して80円、番組表等を併せて希望する場合にはその旨明記して、90円~120円程度を同封する。国外局の場合には郵便局で購入可能なIRC(国際返信切手券)と返信先を書いたシールを同封する。

     このようにBCLは、私にひとつの趣味としての楽しみを分け与えてくれた。それを世間に公表し、紹介してくれた山田耕嗣さんに感謝したい。最後に、その偉大なる山田さんの略歴を改めて紹介して結びとしたい。

     山田 耕嗣(やまだ こうじ、1940年12月17日 - 2008年8月19日)は放送評論家。東京都台東区浅草出身、立教大学文学部卒。血液型B型。愛称猫屋敷。元キングレコードディレクター。1955年から国際放送に関心を示し、1970年代から1980年代前半にかけてのBCLブーム期には、「BCLの神様」と呼ばれた。著書には、「新BCLマニュアル」「ベリカード・コレクション」などがあるが、1977年から1982年まで毎年刊行され、小中学生にBCLを紹介した「入門BCLブック」は特に有名。晩年は日本短波クラブの会報「SW DX GUIDE」で「今夜も笑いかわせみ」を連載していた。以前は、KBSワールドラジオ日本語放送の毎月第1土曜日の『ラッコのいきいき週末』(現在は終了)に出演し、BCL情報を提供していた。2008年8月19日23時頃、闘病中のところ薬石効なく千葉県内の病院で亡くなった。享年67。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

     http://www.youtube.com/watch?v=fZCcBDdpnOA

     美しいベリカードの数々(ニッポン放送・中部日本放送・ラジオ福島)

    NipponCbcFukusima

    Toukai Bunka

    (東海ラジオと文化放送)とても懐かしい。すべて所有していた。   

    2010年4月 2日 (金)

    首都高速環状線 ~C1の愛~

    ニューヨーク発 アンカレッヂ経由 成田着16:35
    太平洋上空から高度を下げ やがて雲の切れ間から
    夕日に照らし出された街並みを望む 
    その飛行機は定刻を2時間遅れの JAL005便
    君が待っているはずの日本へ 僕は久し振りに舞い降りた

    あれは君と付き合い始めて三年目の春 
    突然僕に下ったアメリカへの転勤命令
    一年後 僕が帰国した時 ふたりの心が変わらなければ
    結婚しようと誓い合った

    そして僕は渡米 互いの真実の愛を確めるため
    メールや電話は一切しない約束 孤独と誘惑に耐え 
    僕はひたすら仕事に打ち込んだ
    長かった一年の歳月を経て 今日がその約束の日

    成田発21:00 新宿行きの高速リムジンバスに乗り換え
    夜のハイウェイを西へ 
    見覚えのある夜の街並みが車窓を飛び交う
    君ははたして覚えているだろうか 
    一年前のとりとめもなく交わした約束を

    それは変わらずに僕のことを想っていてくれたら
    首都高速都心環状線のどこかで僕に合図を送るというもの
    やがて街の明かりがひと際賑やかになり 
    僕を乗せたバスは湾岸線から首都高へと入る

    僕の心臓は次第に高鳴り 今にも張り裂けそう 
    出発の日 空港で見送ってくれた君の面影が頭をよぎる
    そして国内線の飛行機の瞬くランプが上空を行き交う中
    街のネオン煌くレインボーブリッジを渡り進路を環状線に取る
    22:00を過ぎた首都高速は昼間の渋滞がまるで嘘のよう

    やがて東京タワーを周りこむように連続する右カーブ
    そして前方に現れた巨大ビル群
    しかし一向に君からのサインはなく まもなくC4の分岐点
    もうあと数分で 環状線から新宿線へと入ってしまう
    それがタイムリミット そしてラストチャンス

    谷町ICを抜け 霞ヶ関出口の先で最後のトンネルに入った
    募る不安 やはり一年間の空白はふたりには長すぎたのか
    やがて国会議事堂付近で地上に出た瞬間 
    半ば諦めかけていた僕の目に 一筋の明かりが飛び込んだ
    それは紛れもなく君からのサイン 
    首都高を見下ろす陸橋の上から 
    君が夢中で描いた I love you の光る文字

    それを見届けた僕は体中が震え シートに深くもたれ
    高鳴る鼓動を抑えるために 大きく深呼吸した
    君はずっと僕を待ち続けていてくれた ずっと変わらぬ心で

    その後夜行バスはそのまま左へカーブしC4標示へと入った
    すっかり安堵した僕は はやる気持ちを抑えつつ
    新宿ターミナル西口へ降り立った
    君の到着を待つ間 僕は君のためにある仕掛けを用意した

    一時間後 息を切らし南口改札から出てきた君を
    僕は人目を気にすることなく力いっぱい抱きしめた 
    心なしか大人になった君にまた逢えた嬉しさで涙が溢れた

    すると次の瞬間 駅前のオーロラビジョンにふたりの姿が
    大きく映し出された
    その一帯は たちまち人だかりができ 周りは拍手の渦
    そして僕は大勢の証人の前で 君にプロポーズした

    ちょうどその時 時計の針が午前零時を指し示した

    Syutoko

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