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2010年4月24日 (土)

回転寿司事情 in 郡山

 私の飛びきり好きなものに寿司がある。自らが釣りをする手前、どうしても寿司ネタに目が行く。日本人に大人気のマグロやサーモンは私も目がないが、実は順位をつけると注文する回数が最も多いのは他にある。それはウニとホタテだ。有頭海老やハマチも好きだし、巻き物では納豆巻きとかっぱ巻きを好む。軍艦はウニとイクラくらいしか食指を伸ばさない。若い時分、いわきの植田町に住んでいた頃は、駅前の割烹居酒屋「はるな」で呑んだり、「幸(こう)寿司」へ足繁く通っては、よく「中」寿司を食べていた。毎週食べる余裕はなかったが、月イチ程度のたまの贅沢には持って来いで、その日に水揚げされた小名浜直通の海の幸を存分に味わえたものだ。また、中岡マルトの近くにあった魚屋兼宴会場の「みなかわ」もまた、毎日魚河岸に仕入れに出向くだけあって、活きの良い旬の魚をふんだんに食す楽しみがあった。もう20年近く前のことだが、職場には「若者会」なる飲み会が毎月のようにあり、夜中過ぎまでバーのカウンターを貸し切り、「飲めや歌え」のどんちゃん騒ぎをしたことを覚えている。若気の至りとは言え、今思えば楽しい日々だった。最近、給料が年々減り、財布の紐が堅くなり、職場でも人間関係が希薄化して来た。帰りに上司と居酒屋で一杯ということは皆無に等しい。昔で言う花の金曜日であっても、郡山の駅前アーケードは客よりも呼び込みの店員のほうが多いくらいだ。特に、繁華街や飲み屋街で若い人の姿をめっきり見かけなくなってしまった。二次会でバーやクラブに行っても、店内はガラ空き。昔は入店を断られることも多々あったのに。そして道路交通法が改正され、酒気帯び運転の取り締まりが厳格化したことも、一因だろう。無論、今の職を失いたくないので、アルコールを飲む際は、駅前の行きつけの代行に入れ、今月ちょっと厳しい時には、無理をせずウーロン茶か雰囲気だけでも味わおうとノンアルコールビールで通す時もある。でも宴会の雰囲気は格別なものがある。仕事でのストレスを発散出来るだけでなく、普段家庭ではお目にかかれない高級な美味しい料理に舌鼓を打つこともまた一興である。仕事のプレッシャーが多くて凹みそうな時ですら、仲間と語らうだけで勇気が湧いてくる。死語になりそうだが、「ノミニケーション」は年を取るとつくづく大切だと思った。また、私は中学・高校の同級生と呑む機会を多く持つようにしている。同業者だと上司の悪口は言えず、仕事に差し障りがあって腹を割って話せないこともあるが、幼少から互いの本質を知り尽くしている気の置けない仲間なら、以心伝心で理解しあえるし、悩みの相談のみならず、適確なアドバイスをもらえる。ぜひ異なる業種の人と呑むことをお勧めしたい。昨日の「めざましテレビ」では、東京の居酒屋やワンショットスタンドバーなどでは今、若い女性が一人で仕事帰りに呑みに行くことが多いという。やはり仕事のストレスの発散が第一の理由らしいが、同じ目的の知らない女性と話が出来、顔見知りになる楽しみもあるようだ。「所変われば品変わる」とは言うが、酒の呑み方も時代を映す鏡になるのだ。

 さて、大分横道に逸れたが、本日は郡山市に居を構える私が、幼少時代から登場した「回転寿司店」の変遷とその事情について語ってみたい。まず、時を昭和40年代まで遡ると、国道4号線から西は、あまり家屋や店舗は少なかった。まして内環状線から開成山にかけては田舎の風景が広がっていた。現在の合同庁舎がある場所に、市役所があった訳だが、それが現在の朝日町に移転してから、大規模な土地の区画整理が進み、徐々に市街地化して行った。その頃、回転寿司は郡山には一軒しかなかった。父親によく連れられ訪れたのが駅前のアーケード、今は無き東北書店の真向かい、富士館ビルの辺りにあった「元禄寿司」だった。ここが郡山の第1号の回転寿司だった。店内は暗く、奥に向かって細長い楕円形のテーブルがあって、その上をベルトコンベアに乗った皿が廻っていた。不思議なことに、店の奥にはカーテンで仕切られた出口があって、棟続きの別の店舗は「ルナ」というバーという造りになっていた。父親の懐具合の心配もせずに、呑気に「今日は何皿食べれるか?」とチャレンジ精神で勇んで訪れた記憶がある。やがてそれは郡山の各地に支店を出し始めた。昭和50年代には緑町のデニーズの北隣りに2号店が開店した。その後、商標登録を巡り、「元禄寿司」の商号が使えなくなり、「元気寿司」と名称を変えた。元気寿司は支店を大幅に拡張した。これが失敗の元だった。富田のインター線(現在のクリナップ)や東部幹線沿い、安積町の国道4号線沿い、新さくら通り沿いなど各地に手広く支店を展開したが、競争に負け、相次いで閉店して行った。そして一部は「すしおんど」と名を変えて営業している。次に現われたのが、市内咲田に出来た「室町寿司」だった。ここは如宝寺の墓地がある坂の下、現在の吉野家の西隣りに出来た。知り合いが経営していたこともあって、行くとカニの味噌汁をサービスしてくれた。残念ながら、平成4年頃に店を閉めてしまったのが惜しまれる。続いて登場したのが「平禄寿司」だ。内環状線沿いネッツトヨタ向かいの朝日町に出来た。また、八山田のヨークタウンにも出店した。でもあまり客は入らず、朝日町店は閉店。八山田店を残すのみとなっている。続いて鳴り物入りで進出して来たのはお馴染み「かっぱ寿司」。大部分が一皿105円でリーズナブル。そんなに味も落ちる訳ではない。ここは寿司を握るのは機械。子供受けするように注文もタッチパネル画面を導入し、オートメーション化。液晶画面で選んだ注文品は、なんと目の前まで新幹線が運んでくれる。このアイディアがウケ、いつも昼時は大入り。2年ほど前までは、折り込み広告にさらに200円券とか割引券を出していた。今は平日の95円割引タイムサービスを実施しているだけ。ここは最初は希望が丘の現在ファミリーマートになっている三叉路にあった。そこはベルトコンベアーではなく、テーブルの上にお濠のような溝があって、さながら流れるプールのように実際に水がぐるぐる回っていた。そこにお椀に乗った寿司が廻っていたのだ。店名の「かっぱ」らしい演出だったが、私はこれを見ているうち船酔いのような症状に陥り、めまいがして、すっかり足が遠のいた。恐らく、似た症状で苦しむ人が多かったのだろう。すぐにベルトコンベアー式に改まった。これで売り上げが伸びたのか、すぐに床面積が5倍以上ある亀田町の「郡山病院」の東側に店を新築し、移転した。破竹の勢いでその後、郡山のさくら通り沿い、安積黎明高校と長者交番の西側の一等地に大きな店を出した。私は亀田店も長者店も行ったが、ネタの新鮮さが全く違う。私は長者店にしか行かない。約3か月に一回は子供と訪れ、全部で35皿程度は平らげている。行くと必ず実際に店で出しているパック入りのお茶を2袋(210円)を買って、家でも飲むようにしている。その後、郡山警察署の向かいにも開店し、郡山でも一番規模が大きい寿司屋となった。

 次は「まぐろ亭」だ。ここは安さ(100円)を売りにしない、他の回転寿司とは一線を画す店だ。新さくら通り店がまずオープンし、大評判になった。近くにファミレスや元気寿司、トンカツ屋などそうそうたる飲食店を敵に回し、殴り込みをかけた格好になったが、高い割にはネタがとにかく新鮮で、どこの回転寿司屋にありがちな養殖や遠洋漁業で冷凍して鮮度が落ちてしまうようなことはない。開店当初は満員札止めの状況があった。それに味をしめて、八山田にも支店を出した。しかし、長引き不景気により、客足が遠のきつつある。その後登場したのは「とっぴー」だった。今は亡き父親が仕事の合間に足げに通った店だ。第一号店は安積町、内環状線沿い、カワチの近くに開店した。そして朝日町にあった「平禄寿司」の店舗をそっくり買い取って、「とっぴー」の支店を出した。ここは駐車場が小さく、あまり客足は伸びていない。その後、郡山に進出したのは斬新な外装で度肝を抜いた「くら寿司」だった。これも国道49号線沿いやインター線沿いの「幸楽苑」の向かいに、まるで喧嘩を売るように店を出した。ここは何枚か注文すると、注文画面の中のスロットマシーンが回転し、絵柄が揃うと上部に備えられたガチャポンのカプセルが転がり出て来て、子供は大喜びという新手の手法で客にアピールしていた。外観は蔵をイメージした造り。しかし、オープン当初は駐車場に入りきれないほどの賑わいを見せたが、客の舌は正直である。他店のそれと比べて味が数段落ちた。3か月もすると客席はガラガラ。誰も行かなくなり、僅か半年で閉店となった。やはり安いと言うだけでは商売にならないのだ。口に入れる以上は、やはり新鮮で美味しくないと客は付かないのだ。生き残りは厳しいということだ。チェーン店ではないが、現在郡山市内に現存する回転寿司屋は、タウンページによれば「うまい鮨勘安積店」、「がってん寿司」並木店くらいになった。そして満を持して福島県内でもCMが始まったのが、関西を中心に格安寿司屋チェーン店を展開する「スシロー」だ。今のところいわき市内に2店舗有するだけだが、流行り廃りが激しいこの業界で、どこまで市場を拡大できるかは未知数で、生き残るのは至難の技だろう。

 かつてテイクアウト(持ち帰り)用の寿司を製造販売していた寿司屋があったのをご存知だろうか?それは「小僧寿し」と「小銭ずし」。両者とも、郡山市内に10店舗は持っていたと思う。さくら通り沿いの虎丸町のセブンイレブン隣りにもあったし、市内北部、内環状線のトライアルの隣りにもあった。一時は小僧寿しは「SUSHI花館」と名称を変えて営業していたが、競争に勝てず、食中毒騒ぎがあって、全店舗が県内から撤退してしまった。また、そのライバル店の「小銭ずし」は僅か船引に一店舗を残すのみとなっている。また、我が家も何かの記念日の際にはよく利用するが、寿司の宅配では市内桑野(国道49号線沿い)にある「鮨待夢」がお気に入り。菜根の「宅配寿司千華」くらいしかない。

 そう言えば、昔気質の寿司専門店が大分少なくなって来た。内環状線とさくら通りが交差するあたりにあった亀井鮨、子供の時分に出前を取ってよく食した、さくら通り沿いの虎丸にあった「志乃屋」も後継者がいなくなり、あえなく閉店。久保田変電所の脇にあった「すし治」、本町にあった「あすか寿司」もまた相次いで閉店した。子供の頃、母親に連れて行って貰ったのは、咲田の細い道にあった「さざなみ」という鮨屋だった。小綺麗なこじんまりとした店だったが、そこで私は生まれて初めて寿司という存在を知ったと思う。その店も私が中学に入った頃店を畳んでしまった。心底残念だ。でも同じ店名の寿司屋が、朝日町のJA前に出来た。もしかして親戚だろうか?一説には中学の同級生が女将さんをしていると聞いたことがある。また、近年、私が良く行くのは細沼町にある「鮨家だるま」だ。ここはネタが上等で、その割に値段がまぁまぁだ。江戸前の握り「だるまコース」で二千円。だるまサラダやレディースセット(3,000円)もある。ここの特徴は、玉子焼きに達磨の焼印が入っている。また、15年前に現住地に越してからは、新築祝いや何かの記念日で「すし玄」から出前を取ったことがある。

 最後に、日本の食文化の代表格は、しゃきしゃきでいなせで、厳しい修行を終え、一本立ちした板前さんが丹精込めて握る寿司(鮨)である。その握る姿は芸術に近く、目の前の客の舌との真剣勝負である。ネタの活き、シャリと寿司ネタのバランス、量、独創性、その店の看板ネタ、そして何より板前の腕が肝心要である。味の良い新鮮な寿司ネタを見究める確かな目(目利き)も寿司屋の命である。本当に美味しい寿司には職人の魂が宿っている。魚への包丁の入れ方ひとつ、山葵の下ろし方ひとつでその店の繁盛ぶりが窺える。煙草を吸う料理人は論外で、味覚の確かさが折り紙つきの店は、そう簡単に潰れはしないだろう。一億二千万人総グルメ時代とか飽食の時代は、とうの昔に終焉を迎えたが、食べ物を口にしなければ生きられない我々にとって、食生活は人間の存続を左右する根本を成すものであって、決して蔑に扱うべき類の代物ではない。寿司ひとつでも人間は思い入れがある。おそらく、日本人である以上、寿司が嫌いな人はまずいないだろう。それはいろいろなネタをシャリの上に乗せ、これまた特段に美味な山葵醤油で食す、独特な食文化の賜物であると実感する。手で二握った物を手で持って食べる。日本料理に於いて、インドの食べ方にも似た手掴みの料理は、寿司を除いて他にはないだろう。そしてそれは、魚だけに留まらず、魚介類、更には動物肉までもがネタに出来るバラエティさにあることも書き漏らす訳にはいかない。日本では、専門的寿司屋、回転寿司、持ち帰り寿司、宅配寿司とスタイルこそ違えども、寿司は寿司。これまで様々な変遷が見られたが、物珍しさが売りの飲食店は、いずれ飽きられ、見向きもされなくなるが、それが本物でありさえすれば、客から愛想をつかされることはなく、いつまでも繁盛し続ける店となろう。寿司に限らず、食べ物は生物、なまじ有名になったばかりに胡坐をかいて味を落とすのではなく、客があっての商売であることを肝に銘じ、その原点に立ち返り、プロ根性をもってひたすら修練に励んで貰いたいものである。

 追記
 仕事帰り、郡山東インターの近くを通ったら、何と「磐越自動車道20km渋滞」の文字!この原因は事故ではなく、紛れもなく「滝桜」渋滞。何と小野ICから三春船引ICまで行くのに2時間かかったようだ。恐ろしい。阿武隈PAは進入路から長々と車列がはみ出すほどの大混雑。どうやら晴天と満開が週末に重なり、これまで外出を控えていた方々が方々(ほうぼう)から大挙して押し寄せた格好だ。ETCの御利益(祝日割引)があと2ヶ月限りなのも、少なからず影響しているようだ。「滝桜」だけが桜ではないのだが、「日本三大桜」を一目見ようと首都圏から観光バス等で大勢乗り付けてきた。それほど全国にその名を轟かせる桜なのだろう。今が見頃の桜だが、小和滝を通った際に、ちょっとコンビニに駐車させてもらい、急遽桜を見物。デジカメと携帯で写真撮影。ここは川沿いに遊歩道があるのだ。でも夕陽の時刻だったため、逆光でピンク色が上手く出なかった。これから暫く、桜見物で心も体も和む時期を迎えられそうで何よりだ。

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Tani   最後に、今夜の奇跡をひとつ。本日の東京ドームは故・木村拓也コーチの追悼試合だった。その趣旨に恥じない緊張感が漂う、緊迫した一点を争うシーソーゲームで、好試合となった。8回表で2-3と広島リードで迎えたその裏、巨人は、一死満塁と攻め立てた。ここで打席に立ったのは、私が大好きないぶし銀のベテラン谷だった。代打起用の谷の半ば強引な高めのボール球を振り抜いた渾身の一撃は、まるで木村拓也コーチの魂が乗り移ったかのように、グングン伸び、打球は左中間スタンドへ突き刺さった。「木村コーチに捧げる満塁ホームラン、思いは届きました!」の実況に涙が溢れ出た。この一打は木村コーチと同い年の谷佳知にとってプロ初の満塁本塁打った。天国の木村拓也が打たせてくれたようなホームランだった。この活躍で、巨人は大逆転勝ち。球場は興奮の坩堝と化し、総立ちとなった。この日は、木村コーチが両チームに在籍していたことから、追悼試合と銘打って開催され、選手全員が喪章を付けてのプレーとなった。始球式では、木村拓コーチの長男、恒希君(10)の投げ込んだど真ん中のストライクを選手会長でもある阿部ががっちり受け止めた。肩を抱き「よくやった」と元気づけ、頭をなでた。木村拓コーチや家族を思う気持ちが、奇跡の打球となって左中間スタンドに吸い込まれた。何か得体のしれない不思議な力を感じた今日の一戦となった。この執念の一打、この勝利はまさに木村コーチの魂が引き起こしてくれたような気がしてならなかった。原監督は、試合前のお別れ会で、声を震わせ、涙を流しながら感謝の言葉を6分間に渡って述べた。そして「一緒に戦うぞ、拓也!」ときっぱり言い切った、その言葉通りの試合展開になったと思う。今年の巨人は、木村拓也がいつも天国から見守ってくれている以上、負ける訳にはいかない。「木村コーチと共に日本一に!」これがチームの合言葉となった。

 谷選手の代打逆転満塁ホームランはこちら

 http://www.youtube.com/watch?v=5tSJwz4viuY&feature=related

 谷選手の涙のヒーローインタビューはこちら

 http://www.youtube.com/watch?v=cjIdEAgRNGI&NR=1 

 

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