伝説の歌姫・山口百恵
昨夜、ひとつの時代を彩ったひとりの女性歌手の「引退ラストコンサート」の映像をYou Tubeで観た。月日の経つのは早いもので、彼女が引退して今年で30年を迎えることとなった。人間長く生きていれば、様々な歴史的瞬間に立ち会い、その時代の大きな事件の目撃者になることもしばしである。しかし、偏に30年という歳月はあまりにも遠く、更には次々と世界各地から飛び込んで来る新しい話題やニュースによって、ともすれば記憶の片隅に追いやられてセピア色に褪せてしまうものだが、されど、その映像は30年経ってもなお色褪せることは決してなく、私の記憶を色鮮やかに甦らせてくれた。その美貌と聡明な顔立ち、美しい声、ファンを大事にし、歌を慈しみ、至って謙虚、そして感謝の心を忘れない。そんな8年間の歌手生活の集大成が垣間見れた。エンディングで白いマイクを静かにステージに置き、やおら後ろを向いて去っていく。やがて純白の煌びやかなドレスにスポットライトが当たり、ドレスの両側の裾を摘まみ、両手を高く突き上げ、白鳥が飛び立つが如く宙を舞い、そして漆黒の闇へと消え去って行く。こうして彼女はファンの惜しみない拍手と歓声の中、歌手としての生き方にピリオドを打った。その伝説のコンサートは昭和55年10月の出来事だった。ここで言う彼女とは、伝説の歌手・山口百恵である。当時、「キャンディーズ」や「都はるみ」のように、引退しても何年かすると芸能界に復帰して来る人もいる中、彼女だけは、家庭と仕事の両立は自分には無理と悟って、一途に貫いて夫であるに三浦友和を支え、良き妻、良き母となっている。復帰を願う多くのファンを持ちながら、その後、テレビに出ることは一度もなかったのである。彼女は私より年上であるが、彼女の生き方は女性の憧れそのものだったと言える。美しく、感動的な幕引き(ラストシーン)だった。
(映像はこちら→ http://www.youtube.com/watch?v=CiL8dQ-JTrg&feature=related)
彼女のデビューのきっかけはNTVの「スター誕生」だった。萩本欽一が司会を務める、当時国民に爆発的な人気があった公開オーディション番組で、後にトリオ(中3~高3)を組むことになる、桜田淳子、森昌子を始め、ピンクレディーなどアイドルが巣立ったことで名を馳せていた。彼女は1973年の4月に「としごろ」でデビューしたが、色々な著名作家が彼女に楽曲を提供。先家和也・都倉俊一・阿木耀子・宇崎竜童・平尾昌晃・さだまさし・谷村新司などである。そして年を追うごとに少女からひとりの大人の女性へと成長していった。発売する曲は常にヒットし、その時代を築き、確かな足跡を残して行った。代表曲を挙げるとキリがないが、「ひと夏の経験」・「横須賀ストーリー」・「イミテーションゴールド」・「秋桜」・「乙女座宮」・「プレイバックPart2」・「絶体絶命」・「いい日旅立ち」・「美・サイレント」・「しなやかに歌って」・「謝肉祭」・「ロックンロールウィドウ」・「さよならの向こう側」など。また彼女は、ファッションリーダーとしての地位も確立し、若い女性の手本となるなど影響力も大きかった。髪型、化粧、衣装などの流行を作り、雑誌のグラビアを何度飾ったことか。ブロマイドの売り上げも第1位を記録し、男性からだけでなく、同性からも抜群の人気があった国民的大歌手だった。やがて、当時人気絶頂だった彼女にとって、運命の人との出会いが訪れた。テレビ番組「ラブラブショー」で甘いマスクで若い女性のハートを虜にしていた俳優・三浦友和と共演したことがきっかけで交際がスタート。当時、「今をときめくアイドル歌手」と「超二枚目俳優」の二人は、ゴールデンカップルとして注目される傍ら、TBSのテレビドラマ「赤いシリーズ」や映画、CM等でも共演し、高視聴率を記録し続けた。そして彼女にとって歌やドラマで大活躍し、多忙な生活を送っていた。そんな21歳の彼女に、人生最大の転機が訪れたのだった。
それはまさしく青天の霹靂と言える突然の出来事だった。1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで、その役柄のイメージのまま、「私が好きな人は、三浦友和さんです。」と、三浦との恋人宣言を突如発表した。そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約と同時に、「わがままな…生き方をわたしは選びました。お仕事は全面的に、引退させていただきます。」と芸能界からの引退を公表し、ファンに大きなショックを与えた。その報告をしてから彼女は、努めて質素に、かつ大人の女性らしく振る舞い、華麗な成長を遂げて行ったのだった。そして運命の1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして文字通り最後の歌唱曲となった「さよならの向こう側」では堪え切れずに、涙、涙の絶唱となった。そのラストソングを歌い上げた後、彼女は支えてくれたファンに向かって長い時間かけて深々と一礼し、自らステージの上にマイクを優しく丁寧に置いた。そして舞台裏へゆっくりと去って行ったシーンは、ファンの間では伝説となっている。その絵柄は、「二度と彼女が歌っている姿を見ることは許されない」ことを無言のうちに物語っているような印象さえ与えた。そして、それから一ヶ月後の1980年11月19日、彼女は最愛の人と結ばれた。結婚式を挙げた港区・霊南坂教会にはマスコミやファンなどが総勢3000人も詰めかけ、二人の門出を祝福した。ここでひとつカミングアウトするが、何を隠そうその6年後、東京に移り住んだ私は、バイクを駆って真っ先にその教会(式の後、取り囲んだ大勢の報道陣のフラッシュの渦の中をふたり寄り添って登場した玄関前)を訪れたし、当時2人が住んでいた高輪のマンションを見物しに訪れたことがあった。引退後は、一度も生でテレビなどのマスコミの前に姿を見せることはなかった。まるでそうすることがファンに対する礼義であり、更には約束事であるかのように・・・。私生活に於いても良妻賢母を見事に成し遂げていることに敬服せずにはいられない。芸能界に未練を残さず、本当に潔くて引き際の美学を貫いた珠玉の女性でもあった。
つい数年前のことだが、私も彼女の歌を久し振りに聴きたくなり、ベスト盤CDを借りて聴いた。不思議だが、35年も前の小学生時分に聴いた曲であっても、さほど古さを感じない魅力に溢れていた。私が個人的に好きだったのは、カラオケの十八番になっている「いい日旅立ち」や嫁ぐ娘の心情を如実に物語った「秋桜」などのスローバラード、さらには軽快なアップテンポとリズム、激しい踊りでショーマンシップぶりを存分に発揮した「プレイバックPart2」や男女の三角関係を描写した「絶体絶命」などである。それぞれの曲調に応じて、幾つもの顔を持ち、自在に変身を遂げた「山口百恵」を見事に演じ切った。時には色気を前面に押し出した、露出度の高いセクシーな衣装で我々の度肝を抜いたかと思えば、一転してお嬢様風の出で立ちで登場したり、日本髪を結い、純和風の落ち着いた雰囲気を漂わせることもあった。TBSの看板番組だった「ザ・ベストテン」でも常連だったし、彼女がマスコミ各社やテレビ・CMに登場しない日はなかったと思う。それくらい数多いるアイドルの中でも別格で、老若男女を問わず、国民から愛された大スターだった。
彼女が神話もしくは伝説となっている今の芸能界において、ネットという媒体を駆使すれば彼女の痕跡を探る術はいかようにも存在するが、このほど、彼女の息子(次男)が芸能界デビューして話題となった。「ケインコスギ」と共に「ファイト!一発!」でお馴染みの「リポビタンD」のCMキャラクターに起用されたのだ。やはり、どことなく面影が偉大なる母・山口百恵を彷彿させる顔立ちをしていた。30年という歳月はひとりの人をこんなにも大きく成長させるものなのかと改めて実感する次第であった。この場を借りて、青春時代の一ページを鮮やかに彩ってくれた彼女に衷心より感謝と敬意を払いたい。「伝説の歌姫・山口百恵、FOREVER!」
「さよならの向こう側」 http://www.youtube.com/watch?v=jbo2aQd-dAM&feature=fvw
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