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2010年4月22日 (木)

辞世の句

 「おもしろき こともなき世を おもしろく」。これは諸説あるが、尊皇倒幕を叫び、奇兵隊を率いた長州藩の若き獅子・高杉晋作の辞世の句と言われている。彼は肺結核で喀血しながら、同じ長州藩の中で憂き目にあいながらも、初志貫徹で動乱の世を生き抜き、最後は病の床に伏し、壮絶な死を遂げた幕末の英雄のひとりとして崇められている存在である。とかく幕末の世は「生か死か」の血なまぐさい政変の世であった。かの有名な土佐藩士・坂本龍馬や新撰組の残党として、最後まで志を捨てず獅子奮迅の活躍で新政府軍に真っ向挑んだ土方歳三らは、明日をも知れぬ身の戦場にあって、絶えず辞世を考え、ある種の覚悟携えて出陣して行ったに相違ない。

 辞世(じせい)とは、人が死に際して詠む漢詩、、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことで、本来辞世はあらかじめ用意された作品のことを指すが、末期の床でとっさに詠んだ作や、急逝のために辞世を作るいとまがなくたまたま生涯最後の作品となってしまったもの(以上のような例を「絶句」として区別する場合がある)も広い意味での辞世に含む。内容的には自らの生涯を振り返っての感慨や総括、死に対する思いなどを題材にするが、体力が衰えている上に題材の扱いが難しく、作として出来のよいものはあまり多くない。今回は、そういった歴史に名を残す有名な人物達が、死を悟り、死と向き合い、臨終の間際に何を思い、それを如何にして後生に残そうとしたか、歴史的背景を踏まえながら考察したい。

 大石内蔵助・・・「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
 ご存知「忠臣蔵」でおなじみの人物である。主君・浅野内匠頭の仇を討たんと吉良上野介邸に討ち入りし、見事本懐を成し遂げた時代絵巻の英雄である。本人や家臣四十七士の処遇を巡っては侃々諤々であったが、時の将軍綱吉は熟慮の末に切腹を命じた。この句を詠むに、武士としての本懐を遂げ、現世に何も思い残すことがないほど明鏡止水の心境で冥土へ旅立ったことがわかる。武士らしく切腹で完結した処が、その後英雄伝説が語り継がれることになった所以だろう。

 毛利元就・・・「友を得て なほぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は」
 言わずと知れた室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名である。「三本の矢」の教えは言うに及ばず、才知を巡らせ、一代にして中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。厳島の戦いや尼子氏・大友氏の戦いにも参戦した。将軍・足利義明の懐刀として戦乱の世を平定しようと画策。しかし、台頭して来た織田信長の軍勢の前には成すすべがなかった。元亀2年に吉田郡山城にて波乱に満ちた75年の生涯を閉じた。死因は老衰とも食道がんとも言われている。元就の遺言とは大略では、「天下を支配する者は如何に栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことは無い。天下に旗を翻して武名を一世に挙げるよりは、むしろ六十余州を五つに分けてその一つを保ち、栄華を子々孫々まで残せ」というものだったそうである。そして冒頭に紹介した辞世の句は、これは死の三ヶ月前の花見で詠んだとされ、元就の知見と詩才の高さを表している。

 上杉謙信・・・「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」 「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
 彼もまた、歴史に名を轟かせる戦国大名である。彼は戦国時代の越後国の武将であり、後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた。内乱続きであった越後国を武力で統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげた。武田信玄、北条氏康等の敵対勢力と同時に対抗しながら、その軍事的手腕を発揮して敵の侵略を阻止。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大した。特に際立った勝負は、「風林火山」で名を馳せた甲州・武田信玄と五度に渡る川中島の戦いを繰り広げ、互いに終生の好敵手を認め合っていた逸話はあまりにも有名。彼の一生は、戦に身を捧げたようなものだった。塩留めなる経済封鎖に遭い、苦しむ領民を見かねて「敵に塩を送る」という名文句を生んだのは、この謙信のまさに献身的かつ良心的な振舞いと人間としての度量の大きさだった。彼はNHK大河ドラマの直江兼続を主人公にした「天地人」を見た人ならおわかりだろうが、天正5年、遠征の準備中に春日山城で倒れ、急死した。享年49歳だった。彼の辞世はふたつあり、戦乱を生きた武将の死生観が如実に体言出来ていると考えて不思議ではない。

 明智光秀・・・「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」 
 ご存知、織田信長の家来でありながら、「敵は本能寺にあり」と突如謀反の狼煙を上げ、本能寺の変で、自分を取り立ててくれた主君である信長を討ち滅ぼした。そのために、謀反人として歴史に名を残すことになった。彼自身もまた、仇討の為決起した羽柴秀吉の軍勢と対峙し、坂本を目指して落ち延びる途中、小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺された(山崎の戦い)と伝わる。これはいつ詠まれたものかは定かではないし、本人が詠んだ句なのかすら確証がない。事実、本能寺の変で主君を死に追いやった数日後には自身も暗殺の憂き目に遭っている。彼のとった行動を第三者が脚色しながら生きざまを捩ったのかもしれない。一方肝心の織田信長には辞世の句は存在しない。よもや自分を死に至らしめるような策略があろうことなど、全く意に介さなかったのは無理からぬ話で、そんな暇を与えられず、取りつく島もないままに風雲急を告げ自害に追い込まれ、予期せぬ最期を遂げたものと思って差し支えないだろう。

 石川五右衛門・・・「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
 ご存知、安土桃山時代に登場した天下の大泥棒(盗賊)である。一説に三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し、16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたが、文禄3年追捕せられ、最期は自らの犯した罪によって京都三条河原で一子と共に釜茹での刑で人生の幕を下ろすこととなった。彼が詠んだ辞世の句の意味は、「たとえ砂浜の砂が無くなるようなことがあったとしても、盗人は世の中からは消えないだろう」という意味から察すれば、最期まで自分の犯した悪行に対しても悪びれた様子は微塵もなく、反省なき自己顕示欲の塊のような人物だったと言えるだろう。

 豊臣秀吉・・・「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはのことも 夢のまた夢」
 彼もまた天下統一を夢見た歴史上で欠かすことの出来ない人物である。半農半兵の家に百姓として生まれた。今川家を出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後、織田家内部の勢力争いで他の家臣はおろか主家をも制し、信長の後継の地位を得る。大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家安ら五大老に託して61歳で没した。辞世からは、天下統一を成し遂げながらも、儚き人生観と共に、子孫に恵まれなかった無念さから、盛者必衰の人生知や大願成就を果たしながらも、死を前にすれば生前起きた様々な出来事は、一睡の夢のまた夢の如くとする実感がひしひしと伝わって来るようだ。

 石田三成・・・「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
 ご存知のように、彼は豊臣家の忠臣で五奉行の一人である。豊臣家の行く末を案じ、徳川家康を総大将とする東軍と敵対し、西軍を率いて関ヶ原の戦いに挑んだ。小早川秀秋の予期せぬ寝返りに遭い、敗戦の将となったが、その忠誠心は武士の本分として讃えられている。その後、家康によって捕縛され、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされた後、大坂へ身柄を移された。そして家康の命によって六条河原で斬首された。享年41歳であった。彼は囚われの身となり、どんな心情でこの句を詠んだのだろうか。あれほど忠誠を誓い、豊臣家の滅亡を阻もうと家康と対峙したものの、志半ばでこの世を去った無念さが迸るのかと思えば、さほどそうでもない。全てを悟りきった、落ち着いた物腰と、仮にも一国一城の主に相応しい覚悟だったと見てとれる。私自身、天下泰平の世を長年構築した徳川家よりも、忠義心に厚く、律義で、最期まで一主君に仕え、お家再興の為にしゃにむに奔走した三成の生き様の方が何倍も美しく、また魅力があると思っている。

 徳川家康・・・「嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」
 家康と言えば応仁の乱以降100年以上続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下をさらに磐石のものとし、264年間続く江戸幕府を開府し、その礎を築いた。だが、私はあまり好きになれない人物である。自らの目的達成の為に、隙あれば主君をも出汁に使い、秀吉の遺言をいとも簡単に破るような生き方は許し難き所業である。彼自身、「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし… 怒りは敵とおもへ」という遺訓を残しているが、これは自分が成し遂げられなかった自身への戒めの言葉とも受け取れよう。元和2年に75歳での天寿を全うした。辞世の句にも彼の八方美人らしい人柄が滲み出ている。天下どりの為に様々な画策や手段を講じた独特な処世術を実感する。

 伊達政宗・・・「曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
 出羽国と陸奥国を治めた戦国大名である。陸奥・仙台藩の初代藩主でもある。独眼竜と呼ばれるように、彼は幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。家康と結託し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、豊臣家滅亡を目論んだ。。1636年に享年70歳亡くなった。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌と推定されている。辞世の句には自らのハンデを振り払うが如く、心の月をモチーフに、自らが暗黒の時代を切り開く灯となる役目を負いたいという強い意志が感じられる。

 松尾芭蕉・・・「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
 ご存知、江戸時代に、東日本や北陸を廻り、大垣までを旅して歩き、その先々で詠んだ句を纏めた「奥の細道」を編纂した歌人としてあまりにも有名である。「月日は百代の過客にして行き交う人もまた旅人なり」が冒頭部分である。しかし、彼を巡っては謎が多い。本当は諸国漫遊は嘘八百で、実際は旅などしていないのではないか。影武者や隠密説が未だに燻っている。当時、車もない時代にあって、どうして当時46歳の芭蕉があのような健脚ぶりを発揮できたのか。彼が弟子の河合曾良を伴って江戸深川の採荼庵を出立したのは元禄2年の3月27日の事で、その4日後にはもう日光に到着している。江戸から日光までは150kmは優にある。それを5日で踏破したとは俄かに信じ難い。しかも全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年に江戸に帰ったと記録されているから、どれだけ超人なアスリートだったのだろう。通常なら足にマメをこさえて歩くのさえ困難だろう。しかも昔は砂利道に草鞋で歩いたのだ。筋肉痛もなく、一日も休まずに150日も歩き通せる筈はないと考えた方がつじつまが合うのだ。奥の細道では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれている。彼の辞世は尽きることはない旅への憧憬と創作意欲が滲み出た句になったが、これもどうも夢物語として眉唾で作られた気がしてならない。

 吉田松陰・・・「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 ご存知だろうが、彼は長州の思想家で兵学家でもあった。明治維新の際の精神面での指導者的立場にあった。松下村塾を開き、勤皇の獅子達に尊王攘夷を訴え、討幕を叫ぶ機運を築いた。しかし、幕末の動乱の世にあって、大老・井伊直弼の「安政の大獄」によって投獄され、処刑された。享年30歳だった。辞世の句は囚われの身になりながらも、己の身は屍となろうとも思想だけは断じて曲げない強い意志がひしひしと伝わって来る。

 乃木希典・・・「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」
 私が諸葛孔明と並んで尊敬に値する明治時代の軍人である。日露戦争では大将(第三軍司令官)として出陣したが、難攻不落と見られた旅順要塞の攻略で手間取り、自らの子息を含む大勢の戦死者を出すに至った。忠誠を捧げた明治天皇が崩御した日に妻と共に自ら命を断った。終生、自ら建てた作戦の失敗によって多くの兵士を死に追いやったという責任感と罪悪感に苛まれていたに違いない。辞世の句には、自分の意思とは裏腹に、天皇崇拝の精神を心の拠り所に戦地へ赴いた心の葛藤が見て取れる。

 三島由紀夫・・・「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
 彼もまた波乱万丈の人生という言葉が打ってつけの人物だろう。「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」という代表作を持つ小説家・劇作家として活躍していた。晩年には民兵組織「楯の会」を作り右翼的な政治活動に傾倒、日本の新右翼・民族派に多大な影響を及ぼした。とりわけ政府批判はその最たる活動で、1970年には陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後に割腹自殺(三島事件)し、45歳でこの世を去った。辞世の句には彼の世の中を刷新しようとする心意気とそれが叶わなければ死を以って自らを粛正するという強固な意志が感じ取れる。

 辞世の句を振り返ってみて、感じることは、歴史に名を残す大人物であっても、死の間際はじたばたせず、武士は武士らしく、各境地で死に向きあっていたことがつぶさに見てとれる。人生50年の時代にあって、何故ここまで浮世の生業を悟り、終生大義を貫こうと出来たのか。それは時代とは言え、現代のような物資的にも豊かでなく、自ら勉学に励み、自らの手で人生を切り開き、世の中を変えやると言う強い志があればこそであると思う。とかく今の若者は、指示待ちであったり、自分が何でどこに向かうのかを決められない節が多く見られる。古の偉人達が残した辞世に触れることで、自らの生きる糧だったり、人生訓にしてみては如何だろうか。一分一秒が愛おしく、無駄に出来る時間など無くなるに違いない。我々がこの世に存在出来るのは、長い歴史の中ではほんの一瞬に過ぎない。どんなに長生きしたとしても100年程度に過ぎないのだ。輪廻転生はさておき、人生一度きりなら、その人生を謳歌したほうが得策だろう。やるかやらないか悩む前に、新たな一歩を踏み出すべきである。いずれガタが来て体の自由が利かなくなる年齢は遅かれ早かれ等しくやって来るのだ。今しかできないことを精一杯したほうが後悔することも少ないだろう。最後に、そんな明日をも知れぬ戦乱の世にあって、精一杯命の花を咲かせたひとりの会津人の魂の句を紹介して結びとしたいと思う。

 「なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」

 これは会津戊辰戦争で会津藩筆頭家老だった西郷頼母の妻、千恵子の辞世の句である。西軍の郭内侵入を目前にして全員白装束に身支度をし、辞世を詠み水盃を酌み交わした。彼女らは国難に際し、戦いの足手まといになること不本意としたのである。西郷家9人、小森家5人、町田家3人、浅井家2人、西郷家2人の合せての総勢21人の集団自決であった。この句の意味は、風の強弱にその身を任せる竹のような身の上であっても、竹の強い節は頑としてそこに存在し続けるものなのだ。つまり、時の流れや時代に翻弄されながらも、決して自らを見失わず、芯をしっかり保ち、強い意思を貫くことこそが人として、また会津人としての大義であることを示している。自分の今の生活を顧みる度に、彼女の生き方が私の体内の隅々に沁み渡り、自己反省すること然りである。自らの体にも紛れもなく先祖代々から受け継がれた会津人の血が脈々と流れている以上、迂闊に軽はずみな行動は慎まねばならないという「神の見えざる手」を感じざるを得ない。

 追 記
 今朝は昨日とは打って変わり、郡山は雨。しかし東に向かうに連れて、みぞれから次第に大雪に。昨日に比べ、マイナス6℃の気温に加え、あまつさえ我が職場は山の方にあるので、フロントガラスに積もりそうな気配を感じ、急遽ワイパーを上げるため真っ白で視界が悪い中を駐車場へ戻る。すると大粒の雪のせいか植え込みなどは瞬く間に積もり、一気に冬景色。いやはや凄い。桜が見頃を迎えたのにこの状況下では、観測史上最も遅い降雪、そして積雪ではないのか。とにかく異常気象以外の何物でもない。これが名残雪となってくれれば良いのだが。しかもこんな日に限って暖房は昨日で終了。結局昼過ぎになっても一向にやむ気配はなく、道路はシャーベット状になり、危険極まりない。退勤までに積もれば、ノーマルタイヤの我が車では坂を下って帰ることすら難儀となる。そして運の悪いことに、今日の午後からは、一昨日に上役から身代わり出張を頼まれ、市内菜根まで出向く羽目に。14時半に仕事場を離れ、いつもの通勤コースを辿り、内環状線経由で会議が開かれるとある場所へ。結局日中も雪が降り止むことはなかった。そこは私にとっては23年ぶりに訪れた懐かしい場所だった。用件は理事会への出席で、約1時間ほどの会議だった。前年度の会務報告やら収支報告、決算報告などを承認し、新役員を選出するなど、世間一般的にもありきたりな会議で、大雪の中、やりかけの仕事を放り出して出席した割には談論風発は皆無で、承認するだけの退屈極まりない会合だった。あっという間に終わり、その建物を見学。すると何人かの知りあいに会う。その後、16時半にヨーカドー隣りのK'S電気へ。NECのモバイルパソコン10.1型ワイドが何と39,700円の破格値!もちろんワープロソフトや表計算ソフトはついていないが、KINGSOFTを入れれば3,980円で同様の機能が使える見込み。大学のスクーリングに持参したい・・・。1.2kg弱でバッテリーも4時間持つので「ん~」と思案する。でもよくよく考えれば先立つものはない。半ば諦めていたら、ふと昔、XP用のoffice Service Pack 2ならライセンスを持っていたことを思い出した。それをインストゥールすれば古いword とExcel、Power point、Accessなら使えるか?念のため価格.comで調べたら、最安値よりも安い!もしかしてこれは買いかも・・・。そしてICレコーダーやブルーレイ、SWが入る短波ラジオ、冷蔵庫などを下見し、あちこちで写メを撮りまくり、店員に他の電気屋のスパイを疑うかのような目で見られた。一応パンフに価格を記入。また、マクセルのDVD50巻入りが1,980円で売られていた。時間潰しに電気屋散策は最適だ。欲しい物だらけで目移りして困るが。今日のように掘り出し物にぶつかる時があって楽しい。帰宅は17時20分で、家内より早い到着となった。明日は今日の出張のツケでフル、更に何と土曜日も出勤日となってしまった。下の写真は桜の満開に水を差す大雪。10時時点で撮影。一体いつまでこんな日が続くのか。地球温暖化は心配ないのでは?

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コメント

人生は 不思議なるかな 嬉しきよ

 
 ―コメント(ご自身の辞世の句?)ありがとうございました。できれば、この意味と理由をお聞かせ頂きたかった気がします。これまで掲載を憚ったのは、ライター名が本名のような気がして、個人情報にあたるのでは?と思いアップできませんでしたが、せっかくコメントして頂いたので掲載に踏み切らせて頂きました。もし、支障があれば、再度コメントを頂ければ幸いです。(SUZU)

命の証という 形は どのようなものだろう。
人生は 不思議な事が たくさんありますね。
人の縁とは 遠いけれど 近いものですね。
バチというものが この世にあるのだろうか?
いい人と よりそっていたい。
人生は 人が生きると書きます
人は いつか 死ぬのですね。
私の生きた物語は まだまだ これからです。

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