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2010年6月

2010年6月29日 (火)

ドキュメンタリー45歳の挑戦~光明篇~

 忙しい日常、毎日原稿用紙20枚以上を自分のノルマとしているブログの影響で、直近に迫って来た肝心要の科目試験の勉強が滞っていて、やたらと重圧を感じていた。やはり仕事をしながら通信制に通い、自分のペースでテキストを読みながらレポートを書き、単位を修得して行く作業は、やってみると思いのほかきつく、自分で立てた学習計画も消化不良の状態。早くも自信を失いかけていることは、一昨日の「今日の出来事」の中でついつい弱気発言をしてしまった通りで、あれが本音だ。

Dvc00219_2  しかし昨日、退勤間近の時間帯、不意に旅行会社の方の来訪を受け、つい調子に乗って長々と話してしまい、職場を出るのが遅れた。仕事を終えて19時近くに帰宅してみると、そんな学業不安や懸念を一切合切払拭してくれるような、そして反対に自らのプライドを取り戻してくれるような嬉しい出来事が待っていた。それはかれこれ1か月以上前に提出した「日本法制史(古代)」のレポート課題が添削を終えて戻って来たのだった。レポート原稿がそっくりそのままの状態で返却されたので、「これは“不可”で再提出ということなのか?」とやや気落ちしながら大学からの封を開けてビックリ!なんとレポートの評価が「A」だったのだ!一瞬「マジ?」と我が目を疑った。(右の写真のピンクの用紙が評価票なのだが、真ん中よりやや下に「A」の文字が見えるだろうか・・・)しかも講評欄には、8項目ある細かい評価項目のうち、何と7つが「A」で、一つだけが「B」だった。したがって最終評価が「A」になったと容易に想像できる。コメント欄には「上手にまとめられています。湯起請についてもう少し詳しくあるとよりよいレポートになったと思います。」というお褒めの言葉と助言まで記されてあった。自身にとって、今回が大学に初めて提出したレポートだった訳だが、自分では気合を入れて郡山の中央図書館などに出向き、書籍を探したり、文献を読み漁って研究材料を集めたり、何回か書き直して、3,988字まで字数を削り、7割方は自己満足できるレベルまで努力はしたつもりだった。しかし如何せんそこは偏差値が私立トップに君臨する東京六大学のひとつの超難関大学だし、4月29日の入学式では、「日本一卒業するのが難しい大学」との説明を受けて来たばかり。果たして私の学力や教養、更にはブログで培った知識や文章表現が一流の教授陣にも通用するのか「不安」の二文字しかなかったが、蓋を開けてビックリの結果だった。勝因は、面倒臭がらずに足繁く本屋等に通い、参考文献を探ったこと。努力は決して嘘をつかず、頑張った分だけ神様はご褒美を用意してくれる物らしい。記憶力が衰えて自信を失いかけていたが、この高評価を頂いたことで、自分がやっていることが、あながち間違いではないと悟り、微かな光明を見出した思いだった。でも先はまだまだ長い。これから幾度も挫折するような壁が多くあるだろう。でもそうした困難に屈することなく立ち向かい、人間として更なる成長を遂げられればいいのかと思っている(ちょっとカッコいいこと言い過ぎて自分でテレる)。差し支えないのであれば、自分が書いた「A」評価の原稿の文面を原文のまま掲載して、ブログでも紹介したいのだが、それをするのはご法度らしい。大学では、他人のレポートを写すことは処分の対象になるとしているし、ブログやホームページにレポートの中身を掲載することすら禁止としている。まして他人のブログ記事をコピー&ペーストするのは、違法行為として断罪されるのだ。理由は不特定の人が見て、そのレポートを参考にするかわからないからだ。酷い場合は、提出期限が迫り、藁にもすがる思いでまる写しして事を済まそうとする輩が多いかららしい。従って心苦しいが、その辺の事情をご容赦頂きたい。

 ただ、掲載しても問題なさそうな範囲で掻い摘んで話すと、それはのっけからかなり難解な課題だった。それは「神判について論じよ」というもので、その際に、「律令国家における裁判制度についても言及すること」という但し書きまであったのだ。日本史は高校時代に少し齧ったくらいで、歴史書を読む機会もなく、大学では北九州説と畿内説に二分している、所謂「邪馬台国論争」に多少興味があったくらいだった。したがって「神判」の意味すらわからず、まるで雲を掴むような話で、一から学ばなければならなかった。大化の改新以降に、遣唐使の派遣により、唐の法制度を参考にして日本古来の法制度が整備され、その骨格が完成した訳だが、そもそも律令国家のなりたちや制度の仕組みなど全く予備知識はなかった。法学部は、法律の条文を覚えればいいのかと思っていたら大違いで、定義や沿革、それが成文化されるに至った歴史的背景や経緯を踏まえることが、法律の世界に足を踏み入れた者が、最初に味わう苦難なのだ。そんな海のものとも山のものともわからない学問の道に足を踏み入れ、首尾良く最初のレポートを最高の形でクリアーできたのは、失いかけていたプライドを取り戻すのに十分すぎるほどの材料となった。

 しかし喜ぶのはまだ早い。レポート自体は上々の滑り出しで幸先良いスタートを切れたが、今週末の科目試験で合格点を取らなければ全てが水の泡。なまじ最高評価を頂いたことで、教授の立場から見れば、試験のほうも「この学生はどんな凄い答案を書いてくるのか」と相当期待していることだろう。ここで手も足も出ないような白紙答案を出す訳にはいかない。何とか及第点を取りたい。残り4日間で性根を入れて勉強に身を投じたい。また、夏のスクーリングで使用するテキストの申し込み締め切りが今月いっぱいの為、昨夜のうちにネット上から注文手続きを行った。2冊で6,825円でクレジットカード決済。住所の入力時にミスをしてしまった。番地の所で「-」というハイフンを入力したつもりが、確定送信した後でプリントアウトした「注文確認」を確認したところ、「?」マークになっていた。これで自宅にちゃんと届くのか?購入したのは、ひとつは「マスコミュニケーション論」のテキストで「ジャーナリズムと権力」という名の書籍で1,995円也。そしてもう一つは、最も関心がある「日本政治史」で使用する予定の「戦時日本の国民意識ー国策グラフ誌・写真週報とその時代」が4,830円。やっぱり大学で使うテキストは、教授本人が書いただけあって、専門書としての希少な扱いであることから、値が張るのは致し方ないようだ。何はともあれ8月のお盆明けから始まり、7日間も東京に泊まり込みで行うスクーリングは、ガチで楽しみである。大学時代のように、そこには学問を学ぶ喜びがある。20歳前後で、無知のまま学問に向かった頃と比較しても今ならしっかり授業に取り組め、或る程度の人生経験を経て知識が多少は備わっているという自負もあって、結構楽しめそうな気がする。ひとつひとつの授業に真剣に対峙し、教授が発する一言一言に神経を研ぎ澄まし、その科目の意義はもとよりその真髄をも深く掘り下げて探れるような気がする。恐らく、このブログの積み重ねがレポート作成や科目試験でも威力を発揮するような気がする。話題のとらえ方、例示の仕方、段落の分け方、序論・本論・結論の流れ、考察や検証の手順、裏付けの手法、そして起承転結で言葉を紡いで行く。これは楽しみだ。今から想像するに単位を修得出来た時の喜びは計り知れないし、相当の充実感や達成感を味わえることだろう。既にカプセルホテルは予約済みだが、宿泊費や往復の交通費、食費やその他の出費を考えれば、先立つ物の心配はあるのだが、それ以上の経験をさせて貰えると思っている。

 最後に、昨日は朝から何か良いことが起きそうな予感があった。朝イチで「ようこそ釣り天国へ」の表紙を見たら、アクセス数が「55555」の完全ぞろ目。これにはビックリ。そしたら案の定、夕方にはこういうささやかな幸せが待っていた。この日はぐっすり眠れたのは言うまでもない。なお明日だが、間違いなくサッカーワールドカップの決勝トーナメントを戦う「日本対パラグアイ」の話題で持ちきりとなるだろう。楽しみだ。恐らく、日本国民の大多数がテレビに齧りつきとなるであろう。したがって今夜から明日にかけてアクセスは激減するに違いない。では日本の劇的・歴史的勝利を願って結びとしたい。

2010年6月18日 (金)

ドキュメンタリー45歳の挑戦~試練の時~

Dvc00212  昨日、仕事帰りに立ち寄ったのが日和田のオリエントパーク。手始めに郡山一広大な売り場面積を誇る「ダイソー」で「激落ちスポンジ」と飴など3点を購入した。あれだけ面積が広いとテナント料も馬鹿にならないだろうが、それを薄利多売の「100均」でよくもまあ商売が成り立つと感心してしまう。そしてブックオフに立ち寄り、「こち亀」の大入り袋、2006年版の「交通取り締まり本」、更には有斐閣の「憲法入門(第4版)」と昭文社が発行元の「ツーリングマップル北海道版」というガイドブックの計4点を465円で購入した。もちろん現在所有のバイクは無いし、行くだけの時間的余裕も金銭的余裕もないのだが、昔住んでいた懐かしい「第二の故郷」に、いつか再びバイクを駆って再上陸を果たしたいという思いは人一倍強い。夢が実現せずともそうした一度は訪れたことがある観光名所をグラビア写真で眺めているだけでもすこぶる楽しいものだ。しかし、4年前のガイドブックとは言え、殆ど新品同様。おそらく何らかの理由でツーリング中止になったのか、はたまた私と同じ目的で、眺めて楽しむだけの為に購入したのかは定かではない。実際105円なのでラッキーだった。それを眺めていて、ふと気付いたことは、私が最後に北海道の地を踏んだのは、春まだ寒い平成15年の3月のことだった。それ以来7年間上陸を果たしていない。独り身ならば、有給をうまく使い、すぐにでも訪れたいところだが、家庭を持った身ではそうすることもままならない。子供が自立し、余裕が出来てからぜひ実現させたい。1986年まで暮らしていた北海道がどれだけ変わっているか、またはどれだけ変わらずに大自然が手つかずのまま残っているか自分の目で確かめたいと思っている。平成の大合併により、212あった市町村が179に減り、その名称が変わり、戸惑うことも多いだろうが、それも楽しみにしておきたい。一応参考までに今はもう合併により消滅した市町村を備忘録として下記に列挙しておく。

 戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町→函館市に参入
 砂原町→森町に参入
 大成町・北檜山町・瀬棚町→せたな町へ
 朝日町→士別市に参入
 生田原町・丸瀬布町・白滝村→遠軽町に参入
 厚田村・浜益村→石狩市へ参入
 熊石町→八雲町に参入
 阿寒町・音別町→釧路市へ参入
 上磯町・大野町→北斗市へ
 忠類村→幕別町に参入
 大滝村→伊達市へ参入
 門別町→日高町に参入
 端野町・常呂町・留辺蘂町→北見市へ参入
 歌登町→枝幸町に参入
 北村・栗沢町→岩見沢市に参入
 風連町→名寄市へ参入
 早来町・追分町→安平町へ
 鵡川町・穂別町→むかわ町
 虻田町・洞爺村→洞爺湖町へ
 東藻琴村・女満別町→大空町
 静内町・三石町→新ひだか町
 上湧別町・湧別町→湧別町

 ところで、7月の科目認定試験が迫っているというのに、おちおち勉強が手につかない。特に危機的状況なのが、法律の専門科目。つい3日前に、泡を食ったように要点をレポート用紙に書き綴ってはみたものの、法律関係の言い回し(表現法)が古めかしく、何度見直して覚えようとしても脳に焼き付けられない。学生時代には原稿用紙10枚程度ならいとも簡単にスラスラ覚えられたのに・・・。恐らく英語の2科目は勢いで何とかなるだろうが、このままだと専門が十中八九単位を落としそうな気配だ。そんな付け焼き刃的な発想で、天下に名を轟かせる某大学の単位が安易に取得できる筈などない。元来、性格的には入念に勉強を積み、万全な準備をしてからテストに臨みたいのだが、日中は職務に専念しなければならず、帰宅後もブログを毎日更新することを日課にしている私としては、時間的な余裕があろう筈もなく、いかんともし難く、ストレスが溜まる。大学受験並みに徹夜ともいかないので、それができない自分自身が歯がゆいし情けない。何年かかっても卒業したい。中退の二文字は性に合わないので、最初に訪れた試練だが、何とか乗り切りたい。

Misato0618  ここで話を変えるが、本日はLUCKYなことがあった。まず1点目は、私が好きな「めざましテレビ」のお天気お姉さんの長野美郷が、嬉しいことに「お天気キャスター」の人気投票で、女性の部門でトップに輝いた!彼女の平日朝の笑顔に癒されているのは決して私だけではないのだ。周りからロリ系だとか言われながらも、ずっと見守り続けたい存在だ。ここへ来て彼女もようやくメジャーになって嬉しい。私は頭が良く、色白で優しい可愛い系の女性に弱い。彼女もコメントを求められ、恐縮して戸惑っていた様子が控え目で実に好印象だった。何はともあれ良かった!続いて2点目。我が町・郡山でもようやく「こども手当」が支給となった。しかも2~3月の児童手当と4~5月分の子ども手当×2名分と合わせて結構な額が入金されたようだ。子育てまっさかり世代には、実に助かる制度だ。しかし、長妻厚生大臣は、早くも来年度の見通しとして満額支給は財政的にも厳しく、すでに断念することを明言した。昨年9月のマニフェストで掲げたことを一端は履行するが、やってみてすぐに断念する。これでマニフェストを僅少でも実行に移したことで既成事実を作ったという腹積もりらしい。いかにも民主党らしい手口と言えばそうなのだが、予算の裏付けがないまま、国民の機嫌取りに走り、見切り発車した結果のなれのはてという印象は否めない。あまりにもお粗末で無責任な選挙公約。結局は選挙のため、これは得票のため受けを良くしようと言う見るからに愚策であって国民の評判とりに終始しているだけに過ぎない。

 政治批判はこの程度にして、ここへ来てまとまった額の収入があるのは、出費多端のこの時期には大きいし、有り難い。17時の退勤時間と共にお得意先の方が自分の山から取ったという筍を3本も貰い、新聞紙でくるんで持ち帰った。自称「筍フリーク」としてはたまらないお土産となった。早速帰りがてら、八山田のセブンにあるATMに立ち寄って、本日口座に振り込まれた額面通りの手当を下ろした。それを帰るなり家内に手渡す。子育てで何が一番かかるかというと、やはり教育費だ。湯水の如く出て行く一方だ。それが親としての務めと知り、自分の両親も、かつて私を私立大学に行かせてくれた苦労と有り難みを今になってしみじみ感じると共に感謝したい。いざ自分が同じ立場に置かれないとなかなか気づかぬものだ。

 さて明日こそは釣り場へ直行と意気込んでいたが、またまた土曜出勤に・・・。まぁ週末梅雨前線が居座り、天気は下り坂。諦めが付く。来週末も3日間、福島市への出張が入っているし、その次の週は試験となる。無駄に忙しい気がする。一体いつ休めるのだろう・・・。毎年のことながら6~8月は仕事が書き入れ時なので、どうしても釣りは縁遠くなってしまう。自慢?のホームページの更新がままならず、せっかく訪れてくれる方々に面目ない次第だ。いずれリベンジしたい。

 

2010年6月14日 (月)

麗しき「少年ドラマシリーズ」

 1970年代に月曜から木曜日の18時5分から20分間、NHK総合テレビで放送していた「少年ドラマシリーズ」を覚えているだろうか。中学生日記に似た感じのドラマで、SFチックなストーリーが多かった。当時、ベストセラー作家に名を連ねていた人気SF作家で、ジュブナイル作家としても名を馳せた眉村卓の原作をドラマ化したものが大半を占めていた。私が小学5年生の時に放送していたのが「なぞの転校生」、小学6年時が「未来からの挑戦」、中学1年時が「その町を消せ」だった。そして音楽を監修したのが、今では伝説のバンドとなった「トランザム」だった。ここまで書いただけでも「懐かしい~」というミドルエイジの方々の声が聞こえてきそうだ。それほど当時の小中高生には堪えられない、更には次回が待ち遠しい連続ドラマシリーズだった。今回は、一時代を築いたと言って決して大袈裟ではないような、社会現象にまでなったシリーズを、前述した3番組限定で放送日時、ストーリー、登場人物などを紹介したい。

 まずは「なぞの転校生」から。

 これは私自身、15年くらい前にレンタルビデオで借りて、久し振りに見た作品であり、実際アーカイブとして4年前にCSの「ミステリーチャンネル」で再放送されたし、今ではDVD化もされている。まず、これがオンタイムで放送されたのが、1975年(昭和50年)の11月~12月だった。全9話で、2週間程度で完結した。まずもってそのテーマソングの音楽が不可解なメロディーで、ミステリアスな中身を予兆させるものだった。次にそのストーリーだが、大阪の阿南中学校2年生の岩田広一は、団地の隣部屋に突然引っ越してきたギリシャ彫刻を思わせるような美少年と、エレベーターに乗りあわせた。一時の停電に過剰な行動を取り、見たことも無い道具を使う。彼は、広一のクラスへの転校生だった。名前は山沢典夫。勉強もスポーツも万能なのだが、突如授業中に雨の中に放射能が含まれると言い、文明への批判を口にする。他にも彼によく似た人々が居ることが分かり、やがて驚きの事実を知ることになる。やがてこの得体の知れない、不思議な力を持つ山沢を含めた一団が、マスコミに取り上げられて大騒ぎに。取材に来た記者を振り払うためにレーザーを使用したことで怪我を負わせ、やがて別の星へと移住することを決断する。せっかく友情を深めあった岩田は移住を思い留めさせるために説得を試みるが・・・。月からの使者が団地の屋上に降りて来る絵と、移住をしたくない山沢とようやく友達になれた岩田がテレパシーで会話する場面や夜空へ続く階段を上って行って別れるシーンは涙ものだった。それから数日後、移住した星でも戦争によって仲間達が攻撃され、深手を負って傷ついた状態でちりちじに地球に舞い戻る。やがて名前を変え、東京で過ごすことを決意した山沢とその家族。ようやく彼等にとって平穏な日々が訪れたのだった。

 このドラマのコンセプトは、少年少女向きの物語にもかかわらず、核戦争や科学の進歩の功罪など深いテーマを扱っていた。登場人物及びキャストは以下の通り。

 岩田広一(高野浩之)・・・この物語の主人公で大阪の阿南中学校に通う運動好きの2年生の少年。やがて転校生典夫の正体に疑問を抱くようになる。
 香川みどり(伊豆田依子)・・・広一のクラスメートの優等生で卓球の達人。やがて転校生典夫に好意を抱くようになる。
 山沢典夫(星野利晴)・・・広一やみどりのクラスに転校してきた謎めいた少年。美形の上に成績優秀でスポーツなど何事にもずば抜けているが科学の文明を嫌悪している。
 大谷先生(岡田可愛)・・・広一やみどりのクラスの担任で、生徒達のことを温かく見守っている。担当科目は理科。
 他の出演者・・・広一の父に前田昌明、広一の母に高田敏江、典夫の父に川辺久造。

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 主題歌はコチラ→ https://www.youtube.com/watch?v=mvHzmHdB4wQ 

 niconico動画(要ログイン)→  http://nicogame.info/watch/sm23538948      
   

 続いて「未来からの挑戦」

 これはもっとも人気があったシリーズなのに、なぜかいつまでたっても再放送はこれまで一度もされず、ビデオ化やDVD化も実現されていない。何か番組の中で放送禁止になるようなクレームがあったとしか思えない。ファンのひとりとしては一日も早く復刻して欲しいのだが。この作品は、1977年の1月から約一か月間のロングランとなった作品で20話完結だった。原作は眉村卓の「ねらわれた学園」で、それをドラマ化したもの。タイムスリップによって戦時中の過去に遡って物語が展開するかなり現実離れしたSFチックな内容となっている。

 ストーリーは、主人公の関耕児が「月丘中学」に転校してきた。受験名門校といわれるだけありみな熱心に勉強していたが、そのストレスからいたずらをする者もいて、学内の風紀が乱れてもいた。ある日耕児は、それまで劣等生だったという高木が急に成績アップしたことを不審がられ、からまれていたのを助ける。その時高木は、成績が上がった理由は英光塾にあると口を滑らせる。英光塾が気になった耕児が調べようとすると、次々にそれを邪魔するような事が起こる…。そんな中、新たに生徒会長となった高見沢みちるは、ある行動を起こそうとしていた。そして彼女もまた、英光塾に通っていたのだ…。

 夕方高木から英光塾について説明したいと電話があって公園で会った耕児の目の前で、高木が乗っていたブランコが大回転をし出し、やがて姿が忽然と消えてしまう。やがて英光塾に通うクラスメートたちが、次々と行方不明になる事件が発生。塾に捜索にやって来た耕児は、そこで美しい教師田中レイ子と飛鳥清明という美少年と会う。その後、クラスの代表選で英光塾に出入りする西沢杏子と耕似が争い、耕児が当選。その時、「私除名される」といって泣き出してしまう。やがて訪れた生徒会選挙で当選したのが、乱れた風紀を取り締まる目的で結成されたのが高見沢みちるを生徒会長とするパトロール委員。会長を批判した生徒が高見沢が繰り出す超能力によって胸を押さえ倒れ込んだ。

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上の写真は、38年前の放送中に私自身がテレビの画面を撮影したものです。

 翌日から耕児のいる2年3組に対するみちるのいやがらせが始まった。2年3組を教えようとする先生が、すべて病気になったり、けがをしたりするのだ!(みちるの超能力のせいだ!!)耕児はそう直感した。そんな或る日、英光塾に生徒会の役員が何人も入っていくのを見たというのだ。英光塾にとんでいった耕児は、飛鳥が必死に止めるのも聞かず、中に飛び込み、逆にレイ子とその場にいたみちるにも捕らわれてしまった!耕児はレイ子に不思議な空間に閉じこめられてしまった。自分たちに協力すれば出してやるというレイ子のことばを、耕児は断固拒否した。

 その頃、関家には、レイ子が送った耕児そっくりのアンドロイドが帰宅していた。耕児が帰宅せず、怪しまれることのないように、というレイ子の陰謀だった。にせの耕児は学校にも通った。和美や吉田は、急に日和見主義者になった耕児を不思議に思ったが、まさかにせ者とは思いもしなかった。本物の耕児は、レイ子の所で恐ろしい拷問にあっていた。だが、間一髪のところで、耕児を助けた人間がいた。それは、レイ子の仲間の飛鳥だった。レイ子に追われる身となった二人は公園に逃げた。
飛鳥の案内でブランコに乗った二人は、ブランコの回転運動を利用して、タイム・リープし、過去に向かったのだ!

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 気がついた所は、第2次大戦の最中の東京だった。レイ子や英光塾の謎を、耕児は必死にたずねたが、飛鳥は返事をしない
。「今はまだいえない。」そういうだけだった。しかし、この世界でも憲兵隊に追われる身となった二人は、ロープを利用してタイム・リープし、再び現代に戻ってきた。そこで耕児は、初めてニセ耕児の存在を知ったのだった。ニセ耕児の連絡で、二人が帰ってきたことを知ったレイ子に、二人はまたねらわれることになってしまった。親友吉田からもニセ耕児の陰謀で見放されてしまった耕児と飛鳥には、行くところがなかった。しかもレイ子の配下のパトロール隊が、ジリジリと二人を追いつめてくる。
 二人は再びタイム・リープした時点に戻るためだった。無事、以前タイム・リープした時点に戻った二人は、吉田に見放された理由を発見した。吉田に耕児が停学処分を要求したというのだ。原因がわかった二人は、再びさっきの時点に戻って、彼らと対決することにした。ニセ耕児をやっつけ、本物の耕児がニセ耕児。それが二人の計画だった。

 その日、飛鳥は耕児に真実を話した。「ぼくたちは未来からタイム・リープしてきたんだ。ぼくたちの時代を救うためにね。ぼくたちの時代は、過去の人間が自由や権利を主張しすぎたせいか、科学は発達しているが、秩序もない混乱の時代だ。それを救うためには、過去を変えねばならない。」「どうやって変えるんだい?」「田中レイ子が英光塾でやったように、この時代で有能な人間を選び、洗脳して、その他のバカな連中を指導させるようにするんだ。そのため、英光塾に入れる生徒も、みちるのような、われわれの役に立ちそうな人間ばかりを選んだのだ。だけど、関、ぼくはきみのおかげで、ぼくたちのやろうとしていることが、ファッショだとわかった。ファシズムの世界になったら、また戦争が起きて、ぼくらの未来も待たず、世界は破壊してしまうかもしれない。」

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夕方、みちるによって、英光塾関係者の秘密会議が行われた。もちろん、ニセ者とすりかわった耕児にも召集がきた。議題は、冬期合宿に名を借りた集団洗脳の話だった。公園で飛鳥と待ち合わせた耕児は、その話を彼に伝え、さらにそれについての書類が生徒会室のロッカーにしまわれたことを話した。「今のうちに英光塾の存在を世間に知らせるには、絶好の証拠だな。」二人は英光塾に忍び込み、タイム・コントロール装置を壊すことにした。が、計画は失敗し、二人は再びレイ子に捕らえられてしまった。残る手段は高木博士からもらったデータにある地震が起こるのを待つだけだった。

 地震が起きたのは、二人がレイ子によって処刑される1秒前だった。閉じこめられていた空間から抜け出すと、二人はレイ子のいる部屋に向かった。超能力を発揮できないレイ子は敵ではなかった。そして、耕児がコントロール装置を壊すと、レイ子は突然来るしみ始めた。煙を出して消滅してしまったのだ!!耕児たちは勝った。だが、飛鳥は、未来に戻って、裏切り者として裁きを受けなければならない。飛鳥は「ぼくは向こうに帰ったら過去を変えることの愚かさを話す。ひと月たったら英光塾に来てくれ。もし、ぼくが現れなかったら、話がわかってもらえなくて死んだと思ってくれ・・。」といい残して未来に去っていった。
 あれからひと月・・。耕児は英光塾で飛鳥の持ち物を発見した。それこそ彼が無事だという証拠であった。(ストーリーと画像はホームページ「少年ドラマ伝説」を参考にさせて頂きました。)

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 この原作である「ねらわれた学園」は、その後、薬師丸ひろ子主演で映画化されたが、私は「少年ドラマシリーズ」の印象の方が断然強い。実際この番組を毎日食い入るように見ていた。ビデオの無い時代、ブラウン管に向かって必死にカメラのシャッターを切った覚えがある。ドラマで主人公が言った台詞、「頭がまるで焼けてるみたいだ~」を真似して頭を抱える振りをするのが流行った。二役を演じた紺野美沙子が可愛かった。戦時中にタイムスリップして出逢った美少女が、彼等の訪問のために死んでしまう場面は涙ものだった。「歴史を変えて大丈夫か?」と真剣に思った。この手法はその後、角川映画の「戦国自衛隊」へと発展した気がする。

 登場人物及びキャストは以下の通り。

 関耕児(佐藤宏之)・・・本編の主人公、月丘中学2年3組。学校を支配しようとする生徒会およびパトロール隊に反発・抵抗する中心人物となる。
 楠本和美(小山セリノ)・・・耕児のクラスメイト。耕児に協力する。
 飛鳥清明(熊谷俊哉)・・・耕児のクラスメイト。英光塾という学習塾に通っている。当初、耕児たちの行動を邪魔するが…。
 高見沢みちる(阪本真澄)・・・生徒会長。校内の風紀を取り締まることを名目に、パトロール隊を組織する。英光塾に通っている。
 西沢杏子(佐藤美沙子)・・・耕児のクラスメイト。クラス代表委員選挙で耕児に敗れる。やはり英光塾に通っている。(佐藤美沙子は後の紺野美沙子である)
 田中レイ子(テレサ野田)・・・英光塾講師。ある目的のため、みちる達塾生を率いて行動する。

 美少年・飛鳥清明役の熊谷俊哉は、シリーズ中、シリーズ後に、当時の小中高生の少女たち(現在の45~55歳くらいの方々)の大人気となったことを覚えている。

           Mirai5 Miri4

主題歌 niconico動画(要ログイン)→ http://nicogame.info/watch/sm23559171

 感動の最終回はこちら 

 その後のNHKの発表で、この超人気シリーズが、過去に一度も再放送されなかったのは、NHKの過去の番組テープを整理してある保管庫から、この番組が録画されたマスターテープがすべて紛失していたためと判明。内部の者の持ち出しか、誤ってVTRテープを消去したか、あるいは重ね録りしてしまったかはなど原因は不明のまま。
 したがって、NHKは当時、高級のためあまり出回っていなかった家庭用VTR装置を所有していた一般の視聴者に、この番組を録画したテープを提供してくれるよう呼びかけていた。いずれにせよ杜撰な管理体制が明らかになった。

 追記(H27.2.15)

 「NHKアーカイブス」の番組で「未来からの挑戦」が取り上げられ、懐かしいシーンが多数放送されました。そしてこれを青春時代にご覧になった方々から、5年近く前に掲載したにもかかわらず、この記事に多くのアクセス(この記事だけで800件超え)を頂きました。急遽、未公開だった画像を追加で掲載することにいたしました。
 また、主演の「飛鳥清明」こと熊谷俊哉さんが、今年1月2日に肝臓の病気により53歳という若さで亡くなられていたことが判明した。ファンだった方々と共に、深い哀悼の意を捧げ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌

「熊谷俊哉」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E4%BF%8A%E5%93%89

 

 最後は「その町を消せ」

 これは光瀬龍の人気SF「その花を見るな!」、「消えた町」の2作品を基に制作された。登場人物の名前は「その花を見るな!」を機軸としており、NHK少年ドラマの本流である異次元世界を舞台としている。1978年1月から2月末まで放送された16話完結のドラマだった。この作品にはひとかたならぬ思い入れがあった。主題歌を歌う伝説のバンド「トランザム」の「季節」が私は大好きだった。今でも歌詞と節をすらすら言える。「♪いつか見た~絵の坂道は~どこまで続いていたのだろう~」という例の奴だ。同年代の方で覚えている方もきっと多いだろう。ストーリーは、中学生の井上鉄は、レコード針を買うための外出途中に同年代の少女・白戸依(しらとより)に出会った。彼女は自分の家に幽霊が出ると怯えており、半信半疑のまま依の家を訪れた鉄だったが、家の中を歩き回るうち、二人は男の幽霊に出会う。前日から行方不明の依の父親を探すため、2人は父親の研究室のある倉庫に出掛け、今度はそこで女の幽霊に出会う。ショックで気を失ってしまった依を残し、幽霊を追いかけ鉄はパラレルワールドに迷い込んでしまう。パラレルワールドで秘密機関の黒崎に鉄は捕まりそうになった。鉄を助けたのは、同じ境遇の二郎であった。目を覚ました依は鉄や父親を倉庫内で捜索するうちにパラレルワールドへ迷い込み、鉄と二郎に合流した。

 鉄と依が迷い込んだパラレルワールドは独裁政治下にあり、市民は本部なる秘密機関に監視されていた。2人は、捕われていた依の父親に再会することが出来た。森田千鶴子の一家に匿われながら同じ境遇の二郎、春男とともに元の世界に戻る術を探るうち、彼らは依の父・白戸博士が隠していた次元跳躍装置を入手する。しかしそれは黒崎達が必死に探し出そうとしているものであった。鉄は白戸博士を助け出し、一緒に元の町へ帰ろうと主張する。黒崎ら本部による追跡の輪は徐々に狭まっていき、二郎に続き鉄と依もついに捕らえられてしまう。そしてついに本部の恐るべき企みが明らかになる。この街の住民を鉄たちの町にひそかに移住させて、町すべてを乗っ取ろうと目論んでいたのである。また、そのために白戸博士の次元跳躍装置を手に入れ、次元トンネルを完成させようとしていたのだ。囚われの身となった鉄たちは本部の陰謀を阻止し、そして、元の世界に戻ることが出来るのだろうか…。

 登場人物とキャストは以下の通り。
 井上鉄(小山梓)、白戸依(玉川砂記子)、赤川二郎(熊谷俊哉)、森田千鶴子(斉藤浩子)、森田良吉(柳生博)、森田明子(真屋順子)ほか。

Sonomati1 Sonomati2   

 主題歌はこちら→ 
http://www.youtube.com/watch?v=YG-Qe2TuLcs 

 niconico動画(要ログイン)→ http://nicogame.info/watch/sm23559555

 どうだっただろう。失いかけていた青春時代の想い出が甦ったでしょうか?もう少し早くビデオ機器が開発されて家庭に普及していれば、自宅で見ることも出来たと思うが、むしろそうなるといつでも見れるという安心感から、これほど印象に残らなかったかもしれない。細部ではなく、大枠で記憶の片隅に残されていた大事な場面だからこそ、余計に愛おしく感じさせてくれたのかもしれない。私にとってみれば、ライブで放送していたのは小学6年生から中学2年生の頃。もう30年以上も前の懐かしい想い出になった。

 当時の若者のハートをガッチリ掴んで離さなかった「少年ドラマシリーズ」の魅力とは、当時同世代の俳優達が演じ、ありもしないSF世界を描いたことで、見果てぬ夢やロマンを与えてくれたからかもしれない。そしてSF特有の想像する楽しみを視聴者に与えてくれた。実際、毎回、放送後の反響は大きかったと記憶している。1970年代という古き佳き時代に、このような素晴らしい作品に出逢えたことに感謝したいと思う。 

 

2010年6月13日 (日)

「俺たちの旅」の心を打つメッセージ

Oretabi  「俺たちの旅」を知っているだろうか?昭和50年の10月から1年間に渡って、NTV系列で全46回放送された鎌田敏夫原作の青春ドラマだった。主演の津村浩介(カースケ)役に中村雅俊、熊沢伸六(グズ六)役に秋野太作、中谷隆夫役(オメダ)役に田中健が扮していた。そして私が当時首ったけだったオメダの妹・中谷真弓役に岡田奈々が出演していた。他にも森川正太(ワカメ)、名古屋章(いろは食堂主人)、石橋正次(タマ)、穂積隆信(ドジ)、上村香子(紀子)らも脇をしっかり固めていた。舞台は吉祥寺の「たちばな荘」(アパート自体は杉並区方南)とその付近の町並みがロケ地として何度も使われた。当時としては学園ドラマ以外で、若者がひとつ屋根の下で共同生活を送る模様を描いた作品はなかった。あらすじをかいつまんで書くと、まず主役のカースケは大学4年生で、バスケ部のキャプテンでエースであったが、就職活動はほとんどせず、アルバイト中心でその日が楽しければよいというタイプであり、彼に好意を抱く部のマネージャー洋子(金沢碧)の心配をよそに気楽な毎日を過ごしていた。一方、親友のオメダは父親不在の生い立ちと彼自身の生真面目な性格からか、堅実なサラリーマンに対して執着を見せるなど、カースケと対照的な存在だった。また、同郷の先輩グズ六は勤めが長続きせず、恋人の紀子や母親の気をもませていた。一旦は3人とも勤め人になるも、結局、正直すぎた彼らは不条理な社会の慣習や人間関係に縛られることを嫌い、同じ下宿の東大浪人生ワカメと4人で「なんとかする会社」を立ち上げ、自由奔放、独立独歩の生活をする決心をしたのであった。

 この番組のコンセプトは、友情や若者の夢と挫折、恋愛感情、家族の絆などいわゆる人間関係に焦点を当てた青春群像だった。ジーパンに長髪にゲタ履きというカースケの風貌は、格好良さよりも人間が本来持っている泥臭さや人情味を如実に醸し出し、自由で束縛を嫌い、一見ハチャメチャで破天荒だが、人間として一番大事な何かを兼ね備えていた。番組のストーリー構成も本能と理性のギャップ、理想と現実の狭間でもがく苦悩、社会への反発や大人になりきれない若者の心の葛藤などをストレートに描き、言うなれば当時の若者たちのとって青春のバイブルのような作品だった。当時の若い世代の人たちにどれだけ影響力があったか計り知れない。この番組は70年代にあって、共感を持って迎えられた。放送時、私はまだ小学生だったが、強烈な印象を受けた。「これが青春っていう奴なのか」と感慨深いものがあったと記憶している。特に想い出深いのは、小椋圭作詞作曲で、中村雅俊が歌うオープニングテーマ「♪夢の坂道は~木の葉模様の石畳~」という主題歌とエンディングの「ただお前がいい」だ。私は実際にそのレコードを持っていた。そして出演者の何気ない会話の中に、人生にとって大切なことを出演者自身の台詞として語らせた場面が随所に散りばめられてあった。まずそれらを幾つか紹介しよう。

 第7話「人はみなひとりでは生きてゆけないのです」よりワカメの言葉
 「嬉しかったのかもしれません、本当は。 嬉しいんです。 あなたたちが僕のためにあんなに馬鹿みたいに必死になってくれたことが。」

 第9話「男はいつか愛を知るのです」よりオメダの言葉
 「愛なんてさ、もっと綺麗で夜明けの海みたいに キラキラしたものだと思ってたんだよ。けど、違うんだよな。 奪わなかったんじゃない。奪えなかったんだよ。 幸せを与えるだけが愛じゃなかったんだよ。 不幸しか与えてくれないとわかっていても離れられない、 そういう愛だってあったんだ。」

 第20話「本気になって生きていますか?」より浩介の言葉
 「俺は俺だよ。俺なりの生き方しかできないんだ。 今日一日を精一杯生きる。そんな生き方しかできないんだ、俺は。 俺には将来の夢も、人生の目標も何にも無いよ。 ただ、明日死んでも後悔しないように、その日その日を精一杯生きる、 そんな生き方しかできないんだよ、俺は。 」

 第34話「気楽に生きてりゃなんとかなります」より浩介の言葉
 「生きるのが楽しくない奴の方が俺より馬鹿だよ。 たとえ生活が安定していようと、金が有ろうと、地位が高かろうと、生きるのが楽しくない奴は俺よりずっと馬鹿だよ。 なあオメダ、生きてる間って短いんだぞ。 70年生きたってさ、25,000日くらいしか生きられないんだよ。 今日だって、その25,000分の1なんだよ。 どうしてその一日を大切にしようとしないんだよ。 え、毎日毎日嫌々生きんなよ。 なあ、人間はもっと自由なんだよ。」

 第35話「一緒に仕事をはじめました」より谷の言葉
 「あたしゃね、この歳になって生まれ変わったんだよ。 今までは無事平穏で生きることだけを願って着実にやってきたよ。 だがね熊沢君、人生なんてやつはどんな風に生きようと、一生は一緒だよ。 この辺で私はいっぺんだけ自分のすべてをかけて ガーッとぶちかましてやろうと思ってね。見ていたまえ、私はね、やって、やって、やり抜いて見せるから。とことんやって駄目だったら、その時はその時だ。 もう失敗を恐れてビクついていた私とはおさらばだよ。」

 第41話「生きてる限りせつないのです」より浩介の言葉
 「そういえば昔、グレて悪いことばっかしやってたよ。 何であんなに気が立ってたんだか、今思うとわかんないよ。 お袋は俺を大学へやろうとして一生懸命働いてたよ。 俺はそれを知っててグレてた。 お袋が死んでから、せめてお袋の思い通りにしてやろうと思って、似合わないのに大学に行っちゃったけど、 死んじまってから何したってしょうがないよね。生きてるうちにしなくちゃさ。」

 第46話「男の旅はまだまだ続きます」より浩介の言葉
 「何もないときにね、優しくするって誰にだってできんだよ。 何かあったとき、優しくしたくない時に、優しくするっていうのが女じゃないか。 怒りたくても、ふと優しくするのが女じゃないか、だから男が惚れるんじゃないか。 だから忘れられなくなるんじゃないか。」

 まさに人生の代弁者達であったと言って差し支えないだろう。最近は、残念ながらこうした人間の「生き方や在り方」を教えてくれる青春ドラマが少なくなった。「月9ドラマ」などはお洒落でトレンディーを絵に描いたような恋愛ドラマばかりである。そういうものを求める国民意識も悪いのだが、世代間の相違とはいえ、番組製作者には人生の根本について見つめ直すような番組作りを期待したい。人は誰しも悩みを持たずして生きて行くことはできない。なぜなら人は社会の中で人との関わりあいの中で生きて行くからだ。もしかすると自分の思い通りに行くことはほんの僅かで、心が折れたり、傷つくことの方が多いのではないかと思う。幸いにして私の思春期や青春時代は、缶蹴りやソフトボールなどを通して、幼い頃からそうした友人関係や人間関係の処世術を実体験から学ぶことが出来た。命の大切さ、人を思いやる気持ち、悩みの解決方法を知らないまま大人になると、平気で人を傷つける人間になる可能性が高くなる。部屋に閉じこもり、テレビゲームにばかり興じていると、閉ざされたバーチャルな空間で物事を考えるようになる。相手を倒して点数を稼いでいくゲームの世界と現実との区別がつかなくなる恐れがあるように思えてしまう。もちろんゲームがすべて悪い訳ではないが、どこか不健康なイメージを抱いてしまう。少なくとも私自身は、バイクを駆って大自然と対話できる経験を得られたり、生身の人間とふれあい、共に刺激し合って成長できた境遇を幸せだったと思っている。

 そして毎回感動するのは、番組のエンディングで「ただお前がいい」のBGMに乗せ、縦書きのテロップで流れる詩だった。短い中にも、その都度番組内で訴えたかった主張が盛り込まれていた。今でいう「相田みつを」が奏でる魂のメッセージだった。今回はそれを紹介して結びとしたい。「人間として忘れてはいけないもの」を教えてくれた琴線に触れるメッセージの数々だった。
 

第1話「男はみんな寂しいのです」

男はみんな 心のどこかに 寂しさを抱いているのです

第4話「男の友情は哀しいのです」

友情なんて 大げさなものじゃない オレはただ おまえが好きなだけだ

第5話「女もなぜか淋しいのです」

生きることの 本当の意味は 学校では 教えてくれない

第7話「人はみなひとりでは生きてゆけないのです」

明日のために 今日を生きるのではない 今日を生きてこそ 明日があるのだ

第11話「男はみんなロマンティストなのです」

いつか破れるかもしれないが それでもなお夢を追う 男はみんな ロマンチストなのです

第16話「男には女の淋しさが胸にしみるのです」

いろんな悲しみがある ただそれをわかりあえた時 悲しい者同志の心がかたく結ばれる

第19話「.新婚旅行がまた大変です」

男は女のやさしさを求め 女は男のやさしさを求める 皆がやさしさに飢えている

第27話「うちの嫁さんチョコちゃんなのです」

たった一人の男と たった一人の女を 何が結び付けるのだろうか?

第28話「木もれ陽の中に思い出が消えたのです」

誰だって 秘密にしておきたい 思ひ出が 一つくらいは あるものだ

第29話「生きるのがへたな男もいるのです」

純粋であればあるほど 人はキズついていく 何故なのだろうか?

第32話「愛するってどういうことですか?」

たとえ淋しくても たとえ苦しくても いろんなことがあった方がいいじゃないか 人生には

34話「気楽に生きればなんとかなります」

金も名誉も 地位もいらなきゃ 生きることは こんなにも 楽しいのに

第36話「男には美しさがあるのです」

人は なりふりかまわず 働くとき なぜか美しい

第37話「お兄ちゃんはお母さんの恋人です」

淋しさを知っている 人間だけが 笑って生きていくことの 楽しさも知っている

第38話「哀しい愛もあるのです」

哀しい恋があり 結ばれない恋もある しかし人間は 誰かを 愛さずにはいられない

第40話「やさしさだってあるのです」

心に やさしさのある男は 人をキズつけられない たとえ つらくても -

第42話「男は生きがいをもとめるものです」

どんなにつらくとも 俺たちだけは 自分の道を どこまでも歩んでいきたい

第43話「愛しているから別れるのです」

ひとつの出逢いが ひとつの別れを生む そして 人はまた 人と出逢う

第44話「友情ってなんでしょう?」

嘘をついて かばってやることが 本当の友情だろうか?

第45話「愛しているから哀しいのです」

人はなぜ ただひとりのひとを 愛するのだろうか ただひとりのひとが 忘れられないのだろうか

 これらのメッセージは「生きる」ことの意味を考えさせてくれた。これは続編の「俺たちの朝」にも受け継がれることとなった。

Oretati_messegeただお前がいい
わずらわしさに 投げた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎて来た 青春のかけらが
飛び跳ねて見えた
その照り返しを その頬に
映していたお前
また会う約束などすることもなく
それじゃまたなと 別れる時の
お前がいい

オープニングテーマ
http://www.youtube.com/watch?v=LpUEpUV87e8

エンディングテーマ
http://www.youtube.com/watch?v=vR8hoLIGgHs&feature=related
   

2010年6月12日 (土)

絶版車狂走曲(トヨタVS日産)

  20世紀末から21世紀にかけて一世を風靡した名車の数々が、一斉に姿を消したのをご存知だろうか。バブル絶頂期の1980年代、世相は隆盛を極め、都心部のウォーターフロントを中心に億ションが林立し、人々の懐は潤い、市場は拡大し、消費は際限なく膨れ上がった至福の時期だった。それに伴い、自家用車や家電製品が飛ぶように売れ、暮らし向きは豊かになり、折からのグルメブームと相まって飽食の時代とさえ風刺された。今振り返るとそんな夢のような時代に、開発され、販売された数多くの車があった。今なら到底燃費(コストパフォーマンス)の良いコンパクトカーや地球にやさしいエコカーが主流であろうが、当時は「いつかはクラウン」どころの騒ぎではなく、その上のソアラ、セルシオ、ランクル(トヨタ)、フェアレディZ、スカイラインGT-R、シーマ(日産)、パジェロ、GTO(三菱)に代表されるような超高級国産車が市場を席巻した。この頃の車と言えば、ハイクオリティに加え、ハイラグジュアリーで、その形状が箱型から丸みを帯びた流線型が持て囃された。400万円を超える車はザラにあって、まさしく豊かさが繁栄を極めていた時代だったと言えよう。

 さて、そんな夢物語はバブル崩壊によって1987年頃を境として消費が急激に落ち込み、途中のIT産業が台頭する時期を経て、いつ底をつくか知れぬ、現在まで20有余年も続く景気低迷の中で喘ぎ苦しんでいる。バブル景気時に3万円台を越えた株価は1万円台を割り込み、6%あった預金利息も0%台にまで落ち込む始末。更に外為は、100円を割り込むほどの円高によって輸出は振るわず、「山一證券」に代表されるようにバッタバッタと大型倒産が相次いだ。あの三大財閥や大手都市銀行、一流の保険会社であっても、生き残るために企業統合を余儀なくされた。日本の産業界をリードし続けて来た自動車メーカーも決してその例に漏れず、まるで津波のように見境なく新規開発され、市場に溢れ出た無数の車種は、瞬く間に消え去る運命を辿る事となった。ホンダシティ、インテグラ、プレリュード、CRX、三菱ディアマンテ、デボネア、ユーノスロードスターや、この頃脚光を浴びていたRVやクロカン車はその典型であろう。その時代を彩り、闊歩した車がことごとく廃車に追い込まれたのは車好き、バイク好きの私にしたら慙愧に堪えない。そこで今回は、懐疑主義的かもしれないが、そうした時代の犠牲となった、或る時期に街角に溢れていた人気車について、トヨタ車と日産車を限定に回顧してみたいと思う。オールドファンには申し訳ないが、私が自分の車を所有し、車に興味を抱いたのが23歳頃であるため、モデルチェンジをしている車も多いが、ここでピックアップするのは1980年~2000年を中心に私が印象に残る車とさせて頂きたい。

 <トヨタ>

 ・コロナ(1957~2001)・・・一般大衆車として市中に数多く出回った。セダンである。
 ・スプリンター(1968~2002)・・・カローラの姉妹車として、エンジン等の部品を共用。こちらも大量生産型の入門カーだった。
 ・マークⅡ(1968~2004)・・・ハードトップのFR車で、グランデやロイヤルサルーンなどハイソサエティな大人向きの車だった。現在はマークXに引き継がれた。
 ・セリカ(1970~2006)・・・GT-RやGT-FOURなども話題となった。元来はクーペ型のスポーツカーというコンセプトだった。
 ・カリーナ(1970~2001)・・・こちらも大衆向けで、カローラとコロナの中間車。パーソナルクーペのEDも人気があった。姉妹車のEXIVも絶版となった。

Mark2 Cellica 

 ・カローラレビン(1972~2000)・・・カローラの中でもスポーティーに改良したクーペ。今でこそFFだが、かつてFRだった頃の86レビンは中古市場でも高値で取引される大人気車。改造し、チューンを加え、峠でローリングしている姿をよく見かけた。
 ・スプリンタートレノ(1972~2000)・・・レビンの姉妹車。こちらはリトラクタブルライト。
 ・スターレット(1973~1999)・・・かっとびスターレットの愛称で親しまれた。コンパクトカーながら、俊敏で小回りが利き、軽いためにスタートダッシュはピカイチだった。
 ・チェイサー(1977~2001)・・・クレスタ・マークⅡと3姉妹を構成。部品は共用。FRで、ハードトップ型のハイラグジュアリーカーだった。フロントマスクが洗練されていた。
 ・コルサ/ターセル(1978~1999)・・・こちらも兄弟車で、これにカローラⅡが加わった。2枚ドアのコンパクトカーだった。丸みを帯びたスタイルは女性にも人気があった。
 ・セリカXX(1978~1986)・・・こちらは若者に大人気で憧れの車だった。国産車初のリトラクタブルライトを採用し、スタイリッシュでいかにもスポーツカーという流線形デザインは持て囃された。価格が多少高く、夢の車だったと言える。デビューは衝撃的だった。
 ・スープラ(1978~2002)こちらはセリカXXの進化型。重量感が増し、よりスポーティー感があった。シャコタンにしてヤンキーが乗り回していた印象がある。

Corollalevin Xx 
 
 ・クレスタ(1980~2001)・・・マークⅡ、チェイサーと兄弟車。FRでやや箱型でライトに特徴があった。
 ・ソアラ(1981~2005)・・・当時国産車の中で、400万円と一番価格が高かった。FRのスポーツ系クーペで、「湘南爆走族」などのモデル車に使用され、改造されることが多かった。より丸くなった2代目が大ヒットし、日産シルビアと並び、街で見かけない日はなかった。金持ちのエリートカーというステイタスのようなハイラグジュアリーカーで、初めてオートクルーズ機能が搭載された。グレード的にはツインターボが爆発的に売れた。生意気にも中古ながら私が初めて自分で買ったのがこの車(初代)だった。
 ・カリブ(1982~2002)・・・スプリンターをベースにした、こちらは悪路にも強い、トヨタ初のRV車として販売された。当時一大ブームを巻き起こしたスキーに持って来いの4WD車で、大人気だった。
 ・ビスタ(1982~2003)・・・アルデオも同様。私が初めて新車で買った車。ハードトップで、ディーゼルターボだった。リアスポイラーもオプションで付け、250万円ほどだった。他にもセダンがあった。この車はカムリと基本性能は同じで、姉妹車だった。
 ・カローラⅡ(1982~1999)・・・コルサ・ターセルと部品共用。2枚ドアでハッチバック式を採用した。

Soarer Sprinter_carib 
 
 ・MR2(1984~1999)・・・国内初のミッドシップでツーシーターだった。走り屋をコンセプトに、実際峠ではその身軽さとコーナリングの俊敏さで大人気となった。この車もまた若者には一種のステータスシンボルだった。
 ・セルシオ(1989~2006)・・・クラウンを超える国産最高峰の高級車として鳴り物入りで登場した。外見だけでなく内装も高級品をあしらい、社長御用達の車というイメージだった。現在は欧米仕様でレクサスとして販売している。
 ・セラ(1980)・・・国産車初のガルウイング(はね上げ式ドアの1500ccクーペ)を採用した。屋根もガラス面が多く、デザインも風変わりだった。
 ・サイノス(1991~1999)・・・カローラをベースに開発された軽量な2枚ドアクーペ。外見もスタイリッシュで、女性にも大人気だった。

Mr2 Sera 
 
  ・ウィンダム(1991~2006)・・・セルシオの下に位置するクラスで、やはり内装も豪華だった。セルシオがセダンタイプに対し、こちらはハードトップで精悍なイメージだった。プロミネントと同様にカムリと統合。
 ・カルディナ(1992~2007)・・・こちらはコロナをベース車両として、よりスポーティーに改良した。
 ・スプリンターマリノ(1992~1998)・・・コンパクトカークラスのセダンでセレスの姉妹車。
 ・カローラセレス(1992~1998)・・・マリノと共通部分を持ち、フロントマスクとレアテールの形状が異なっていただけ。1500cc~1600ccのみの設定だった。
 ・カレン(1994~1998)・・・セリカの姉妹車だった。2枚ドアクーペでありながらセダンっぽい雰囲気をもっていた。1.8Lと2Lに2系統でモデルチェンジすることなく製造終了。
 ・グランビア(1995~2002)・・・トヨタ初のミニバン。アルファードに移行した。
 ・スパシオ(1997~2007)・・・カローラベースのミニバンスタイル車。コンパクトカーサイズながら6列シートを初めて採用。1600ccと1800ccの2種類で販売された。
 ・ナディア(1998~2003)・・・イプサムをベースとして開発されたミニバン風トールワゴン。2000ccのD-4エンジンを搭載した。
 ・ガイア(1998~2004)・・・初代イプサムの姉妹車として登場。リアテールの形状が異なるくらいで、瓜二つ。2000ccと2200ccエンジンの2車種。
 
Windom Spacio

  ここに挙げただけでも31車種がもはや製造中止で、新車でお目にかかることは二度とない。寂しい限りだ。これらはいずれも、かつて町じゅう至る所で目にした車だ。トヨタの場合、販売店が系統別に取り扱い車種が異なる為、ディーラー同士で姉妹車対決が過熱し、販売合戦がヒートアップした。また同じ車種でもトヨペット店とビスタ店で取り扱うなど、同メーカーでの熾烈な競合や販売商戦が展開された。

 <日産>

 日産と言えば、スカイライン、Z、シルビア、180SXなど若者受けしそうなスポーツカーというイメージが強い。ファミリーユース向けはあまり玉数が豊富ではなかった。しかし、玄人好みの車や奇抜なデザインで期間限定商品が多かった。また、トヨタへのライバル意識が剥き出しで、対抗馬を必ずぶつけた。ソアラに対してレパード、マークⅡに対してローレル、クラウンに対してセドリック、セリカに対してシルビア、セルシオに対してシーマ、ハイラックスサーフに対してテラノ、カローラに対してサニー、スターレットに対してマーチ、コロナに対してブルーバードという具合だ。ではもう製造中止になった車を挙げてみよう。

 ・ブルーバード(1959~2001)・・・日産と言えばこの車が代名詞だった。日本の代表的なミドルセダンとして大ヒットした。最大の競合車種はトヨタ・コロナ。1960年代から1970年代にかけ、コロナとブルーバードが繰り広げた熾烈な販売競争は「BC戦争」といわれた。セダンとハードトップの2車種で、高級感漂う「マキシマ」や「スーパーサルーン」、更にはスタイリッシュな「SSS」や「ARX」、「アテーサ」などが順次投入された。
 ・グロリア(1959~2004)・・・元々はプリンス自動車工業の自社製品だったが、経営が行き詰まり日産と合併した。その時、売れ線だったこの車を残し、生産を継続した。その後セドリックの姉妹車として扱われるようになった。
 ・セドリック(1960~2004)・・・クラウンのライバル車。価格帯からクラスまで同一。覆面パトに多く使われ、日産の中では高級ソサエティ車である。

Bluebird Sedric

 ・シルビア(1965~2002)・・・'80~'90年代の「エアフォースシルビア」は大ブレークし、一日20台は見た車で、町じゅうに溢れかえっていた。スタイリッシュクーペで空気抵抗を抑えた流線形のデザインは若者のハートをガッチリ捉えた。 
 ・サニー(1966~1994)・・・対カローラ戦略として打ち出された一般大衆向けファミリーカー。長く日産の売り上げNo.1をキープしたが、残念ながら退役した。
 ・ローレル(1968~2002)・・・これはマークⅡのライバル車で、高級志向の内装でトータルバランスに優れた通好みの車だった。黄土色とベージュのツートンががメインカラーだった。メダリストはクラス最高峰。

Silvia Laurel
 
 ・パルサー(1978~2005)・・・この車もコンパクトカーとして市中に数多く出回っていた。廉価で取り回しも楽なチョイ乗り向きな利便性の高い車だった。EXAはスポーツクーペだった。
 ・ガゼール(1979~1986)・・・ツードアクーペで直列4気筒の2000cc。トヨタのGT2000やセリカXXを意識した作りとなっていた。
 ・レパード(1980~1999)・・・この車もツードアのスポーツクーペで、対ソアラ戦略として開発。エンジンも2000ccと2800ccだし、直列6気筒で、オートクルーズ内蔵、ターボ車の設定もソアラと全く同一。
 ・リバティ(1982~2004)・・・プレーリーと姉妹車でハッチバック5ドアを採用。RV車としてもSUVとしても使い勝手の良いミニバンだった。ライバルはイプサムだった。
 ・テラノ(1986~2002)・・・本格的RV車としてハイラックスサーフの対抗馬として開発。ピラーが斜めに入り、その結果窓の形状が変わっていた。スキーの必須アイテム。

Pulsarexa Terrano

 ・Be-1(1987~1988)・・・この車は一風変わっていた。キュートでコンパクト。女性にモテモテの車として1982年に発売されたマーチの車体を改良して1年限定で製造販売された。
 ・セフィーロ(1988~2003)・・・スポーティーな高級中型セダンとして開発。スカイライン、ローレルと部品共用。電子制御サスペンションや4輪操舵システムなどを装備した。井上陽水の「お元気ですか~」のCMが話題に。昭和天皇の容体悪化で放送が自粛された。
 ・シーマ(1988~2010)・・・バブルの申し子とまで呼ばれた日産のトップに君臨する超高級車。セルシオの対抗馬だった。ヘッドランプやドアミラーにワイパーを装備した。内装のインテリアにも贅沢の粋を究め、時代を象徴した。

Be1 Cima
 
  ・パオ(1989~1990)・・・B-1が大当たりしたことで二匹目のドジョウを求めて開発されたのがこれ。平坦で屋根が低く、昔のドラマに出てきそうなコンパクトカーだった。メインカラーがみずいろで、やはり女性ユーザーが飛びついた。
 ・エスカルゴ(1989~1990)・・・これは商用に開発。フロントマスクはスバルの豆タンクを彷彿させ、荷台スペースは大きく高い構造。可愛らしい印象ととり回しが楽なことから、個人経営の店で購入申し込みが殺到した。この成功で三菱もミニカTOPPOを発売した。
 ・180SX(1989~1998)・・・シルビアの姉妹車として開発されたスポーツクーペ。デザインが斬新。後ろから見ると球形イメージ。空気抵抗を考えた設計で、ガラス面が多い。とにかく速そうな印象。DOHCターボエンジンを搭載し低扁平率タイヤを装着し、摩擦を抑えグリップ力を高めた。

Pao 180sx
 
 ・アベニール(1990~2005)・・・ライトバンタイプのステーションワゴンで、フルタイム4WDで2000ccだったことからカリブの対抗馬として開発された。
 ・プリメーラ(1990~2008)・・・この車も斬新なデザインと初のガンメタ車ということで脚光を浴びた。仕様は1800cc/2000ccのSR型エンジンに5速MTと4速ATの組み合わせだった。スタイリング、動的性能両面で欧州車を強く意識して開発された。
 ・プレセア(1990~2000)・・・ローレルスピリッツの後継車としてサニーの部品を共用。ヘッドライトが細い横長の目で変わったフロントマスクだった。ネーミングはスペイン語の「宝石」に由来する。

Primera Presea  
 

  ・フィガロ(1991~1992)・・Be-1、パオに続くバイクカーシリーズ第三弾の期間限定生産車。マーチベースだが全体的の丸い形状。ターゲットは若い女性。レトロな風貌にノスタルジック調の車内。本革シートステアリングで、2枚ドアのオープンカーだった。唯一ターボエンジンを積んでいた。
 ・ラシーン(1994~2000)・・・これも廃車かという感じ。今でも街を流れている。屋根が低く平べったい四角い車である。デザイン的にはパオをひと回り大きくした感じ。こちらも外観はオールドカーのイメージだ。サニーの4WD車のシャシーをベースとし、コンパクトRVとして開発された。テールゲートは上下2段開閉構造となり、その後方に金属製バーを介してスペアタイヤを装備しているのが特徴。

Figaro Lasene

 如何だったろう。「えっ、あの車も絶版なの?」と驚きと衝撃が交錯したのではないか?一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった車種もかなりたくさんある。活気に満ちていた頃の日本経済を象徴していた超高級サルーン車もあれば、世相を反映して若者を中心に高級スポーツカーが持て囃された時代もあった。故に車は一種のスタータスだったのだ。しかし、時代の流れと共に、日本の経済も移ろい、あれほどやみくもに新規開発・市場に投入され、無際限なまでに街角に溢れ出た日本車だが、長引く不景気や消費減退の影響をもろに受け、減産や廃車を余儀なくされた。何か栄枯盛衰めいたものを感じる。自動車は紛れもなく日本の産業の屋台骨を支える根幹を成すものであり、自動車の輸出や販売台数を見れば日本経済の本質を窺い知ることが可能なのだ。冒頭でも述べた通り、今はそのツケの代償を払わされているようで、新車販売は頭打ち。売れる車は政府援助による環境対応のエコカーとハイブリッド車くらいのものだ。今回紹介したトヨタと日産については、日本が誇る二大自動車メーカーだけに、日本経済の浮沈のカギを握ると言って良い。従って過去の栄光にすがりつく訳ではないが、かつて日本の優れた技術力と卓越した開発力が世界の市場を席巻したように、現在の窮地を跳ね返す強い意志とプライドを取り戻して貰いたい一心でこの題材を設定した次第である。30年以上前の「スーパーカーブーム」、バブル景気時のような「高級車・RVブーム」の再来を是非心待ちにしたいものである。 

2010年6月11日 (金)

伝説の硬派系バンド

 私がこの世に生を受け半世紀近く経過した。その間、様々なジャンルのヒット曲が時代を彩り、ミュージックシーンを塗り替えて来た。これまで幾度もそうした話題に触れて来たが、その中でも今回は特に、今は解散したり、活動を休止してしまい、あまりお目にかかることのできない20世紀を席巻した「伝説の硬派系ロックバンド」を取り上げたい。私は古いタイプの人間なので、昔のジャズやディスコティックな音楽やフォークは聞いても、最近のロックやヘビメタ、R&V系は聞かなくなった。どちらかと言えば、30代だった20世紀のロックシーンの方がバンドとしての登場は衝撃的だったし、そのコンセプトも完成度が高く、頑強だった気がする。世代的には1960年代のビートルズに感化され、見よう見まねで相次いで結成された俄かGSブームは当てはまらず、1977年(昭和52年)以降のニューミュージックブームが中高生時代だった。その頃、外国では、派手なメイクと衣装が印象的だった「キッス」やフレディー・マーキュリーのボーカルが超パワフルだった「クイーン」、ミック・ジャガー率いる「ローリング・ストーンズ」などが時代の寵児だった。

 一方日本では、古来の雅楽に代表されるように、スローテンポでゆったり系の音楽を愛する風潮と、和(侘び寂び)を貴ぶ民族だったため、8ビート以上のリズムカルな旋律は、一部の若者を除き受け入れがたい風潮があった。それを見事打ち破ったのは、やはり世代を越えて人気を博した「ザ・ビートルズ」の影響が大きいだろう。彼等の出現を境にしてミュージックシーンは大きく変わった。空前のバンドブームが世界規模で起き、音楽界への革命をもたらした。日本ではGS(グルーウサウンズ)ブームがその典型で、「ブルージーンズ」、「ブルーコメッツ」、「ザ・タイガース」、「ザ・サベージ」、「ジャガーズ」、「ザ・スパイダース」、「ワイルドワンズ」、「ザ・モップス」などが次々とデビューした。そのバンド名を聞けば、「ザ・ビートルズ」を意識した(と言うより模倣した)ネーミングであることは明らかだろう。舶来品を有り難がる当時の日本人の気質を象徴している。その熱狂的なブームは1968年頃まで続いたが、ブームが去れば、たちどころに解散していく末路を辿った。そしてその後、カレッジフォークブームやニューミュージックブームが巻き起こった。楽曲を他人に委ねず、自らが作詞作曲して歌う、シンガーソングライターと呼ばれるジャンルである。アリス・ゴダイゴ・甲斐バンド・オフコース・チューリップなどがその代表格である。そこで今回は、GSブーム以降に颯爽と登場し、ジャパニーズロックをリードし、音楽界に新風を吹き込んだ「伝説の硬派系ロックバンド」を20世紀限定で、しかもカウントダウンのランキング形式でお送りすることにする。最初にお断りするが、この順位は独断と偏見で無作為に選び出したものなので、「あのバンドはどうしたんだ?」とか「このバンドが入っていないのは納得できない」とかいう苦情はご免こうむりたい。あしからず。

 第10位 「ツイスト」

Twist  このバンド、デビュー当初は「世良公則&ツイスト」だった。日本のロックをメジャーに押し上げた先駆者である。1977年、バンドデビューの登竜門だった「ヤマハポプコン→世界歌謡祭」の出身である。そのコンテストでグランプリを獲得したのだが、実はデビューまでは紆余曲折あったとされる。グランプリ獲得時のメンバーとデビューメンバーが全く違っているのだ。かくしてふとがね金太(ドラム)をリーダーに鮫島秀樹(ベース)、神本宗幸(キーボード)ら6名のメンバーで構成。そして長髪で細身ながらパワーとパンチの効いたボーカル・世良公則で大人気となった。デビュー曲の「あんたのバラード」はこれまでの曲調とは明らかに趣を異にする衝撃があった。歌詞も斬新で、酔いどれ女性の本音を歌い上げていた。黒皮のSMを彷彿させる衣装と腕のベルトなどそのルックスもさることながら大股開きで派手なアクションで世の女性は酔いしれた。その後、「宿無し」や「銃爪(ひきがね)」、「性(さが)」、「燃えろいい女」など次々ヒット曲を飛ばし、迂闊に街を歩けないほど人気を独り占めした。その後、メンバーの入れ替えがあって、作風も変わって行った。しかし、1980年に発売した「LOVE SONG」が、最後のチャートイン曲となり、1981年12月25日に解散した。ベーシストの鮫島は、その後、幾つかのバンドを転々とし、大友康平率いる「HOUND DOG」に加入した。

 第9位 「クリスタルキング」

Crystal_king  このバンドが硬派かどうかは疑問だが、コンセプトや出で立ちは間違いなくチャートインするであろう。このバンドもまたヤマハポプコン→世界歌謡祭グランプリ受賞がメジャーデビューのきっかけとなった。誰もがご存知の「大都会」が1979年に大ヒットした。独特なイントロといきなりカン高いサビから入る歌い出し。一度聴いたら忘れられないメロディーだろう。「♪嗚呼~果てしない~夢を追い続け~」という例の歌詞である。普通の人がカラオケで歌うと血管が切れそうになるほど音域が高く、とても人間業とは思えない。リードボーカルでこの高音を担当したのは田中昌之、そしてサングラスで強面な感じの低音担当がムッシュ吉崎(勝正)だった。このコンビが歌うこの「大都会」は、驚くなかれ150万枚のミリオンセラーを記録した。ただこのイメージがあまりにも強烈過ぎて、翌年発売した2曲目の「蜃気楼」は50万枚止まりだった。やはり曲調が似ていたことでパッとせず、2匹目のドジョウはいなかった。そして3曲目の「処女航海」の頃には、一時の勢いがすっかり失せ、存在感と同時にその輝きは消えて行った。

 
 第8位 「ザ・ロッカーズ(THe ROCKERS)」

Rockers  このバンドは知る人ぞ知る1980年代初頭、日本中に吹き荒れたジャパニーズ・ロック・ムーブメントの中心にいたモッズ、ルースターズ、ロッカーズ。彼らは皆、九州・博多にある伝説のライブハウス「昭和」出身だったことから、地元の特産物・辛子明太子にちなんで「めんたいロック」と呼ばれていた。リードボーカルは、現在も俳優活動を継続している、あの陣内孝則。今からは想像も出来ないほどの過激ロックの急先鋒だった。コスプレも得意で、見た目は50’sファッションを取り入れ、トラッド系との融合も図っていた。リーゼントをより誇張したロックンロールヘアーも凛々しく、派手系ロックの代表格だった。何度かのメンバー・チェンジを経て1978年にデビューメンバーである5人が揃った。当時としては衝撃的なそのリズムスピードと奇抜なルックスで注目を浴びたが、1981年末には穴井と鶴川が脱退。翌年6月には解散してしまう。1980年代初頭の日本のロック・シーンをその高速ビートとともに一気に駆け抜けて行った。代表作は「黒い眼をしてU.S.A」、「プライベートタイム」、「涙のモーターウェイ」、「冷たくしないで」など。

 第7位 「RCサクセション」

Rc 忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。実際、RCサクセションに影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。また、彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。その後、1991年より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年5月2日に忌野が癌性リンパ管症のため死去した。メンバーは意外に多く9名編成。「僕の好きな先生」「スローバラード」「ヒッピーに捧ぐ」「ステップ!」「雨上がりの夜空に」「トランジスタラジオ」「いい事ばかりはありゃしない」「君が僕を知っている」「キモちE」などマニアックな作風と凝ったステージ衣装、パンク調の派手な化粧も歌い方も一種独特で、他のバンドにない独創性に溢れたパフォーマンスでも注目を浴びた。彼は他のミュージシャンに多大な影響を与え、カリスマ的存在に上りつめた功績は大きい。彼が亡き後も、その存在感は薄れることは決してない。

 第6位 「横浜銀蠅」

Ginbae  1980年代に流行した空前の「ツッパリブーム」。その先頭を走っていたのがこの「横浜銀蠅」だった。ポマードを塗りたくったギンギンなリーゼントの髪形にサングラス、ライダー皮ジャン、白いドカン(鳶職仕様ズボン)という独特の服装をギミックして登場。「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り一気に若者の人気を獲得した。「ツッパリの中のツッパリ」として、グレた若者にとって、教祖的な存在となった。楽曲としては、4人で演奏するシンプルなロックンロール、バラードなどから、笑いを誘うコミックソングまで幅広いものがある。メンバーは4人で、翔(ボーカール兼ギター)、Johnny(ボーカル兼ギター)、TAKU(ベース兼ボーカル)、それにリーダーの嵐(ドラム)だった。彼等の存在を一躍世に知らしめたのが、「ツッパリHigh School Rock'n Roll」で、登校編、試験編などが作られた。また、軽快な「お前サラサラサーファー・ガールおいらテカテカロックンローラー」や「あせかき ベソかきRock'n Roll Run」もヒットした。彼等は一見、単なるハチャメチャ軍団のように映るが、リードボーカルの翔は横浜国立大学卒業の秀才。残念ながら覚せい剤によって3度に渡って逮捕されてしまった。バンド1人気があったJohnnyも神奈川大学卒業のエリートだった。ソロシングルも大ヒットした。歌だけでなく、イントロや間奏部分で時折見せるツイストも好評だった。その後、嶋大輔が見習いとしてメンバー入りし、その後正式に一員となった。彼等の妹分の岩井小百合もまたデビューした。彼女は’50sをモチーフとしたファンションで魅了した。

 第5位 「X JAPAN」

Xjapan_2 1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992に現在の「X JAPAN」に改名。1997年に解散し、暫くの沈黙を破り、2007年に再結成。通称はX。1992年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。アメリカのヘヴィメタル/ハードロックバンド「キッス」に影響を受けた派手なルックス(パンク調のメッシュを入れた長髪と化粧や衣装)で、日本では後に「ビジュアル系」と言われるロックの先駆者的存在とされ、後続のバンドに大きな影響を与えた。また、小泉純一郎元総理がファンの一人として知られている。1998年にバンドメンバーでギター担当だったHIDEが急逝。彼の葬儀告別式には、ファン数万人が駆け付け、長蛇の列が出来るほどその人気の凄さを印象づけた。主な代表曲はデビュー曲の「BLUE BLOOD」、「紅」、「ENDLESS RAIN」、「Silent Jealousy」、「FOREVER LOVE」などである。
 

 第4位 「ダウンタウンブギウギバンド」

Downtown  1972年末にサディスチックミカバンドに対抗した長いバンド名「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を思いついた宇崎竜童が、当時のバンド仲間(アマチュア)にレコーディングの話を持ちかけたところ全員怖気づいて解散状態になる。その後メンバー集めに奔走し、1973年4月に改めて5名編成のバンドを結成、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドと命名する。同年12月にシングル「知らず知らずのうちに」でデビュー。その暴走族をイメージした皮ジャンスタイルの超ワル的な装いは、当時斬新で、誰もが怖がったほどだ。1974年12月に「スモーキン・ブギ」、1975年3月に「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を発表。基本的にブルースを基調としたロックサウンドを展開するバンドだったが、流行語化した「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」内のフレーズ「あんた、あの娘のなんなのさ?」に見られるようなコミカルな部分が注目され、人気バンドとなる。1975年末にはNHK紅白歌合戦に出場し、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を熱演。その後もヒット作を多く発表したが、1970年代末にロック路線を望むバンドとコミカル路線を望むレコード会社の間に大きな溝が出来た。1980年に一部ファイティングという名称を加え、再結成したが、同年暮れに解散となった。その後、宇崎はソロの作曲家として活動。妻・阿木耀子との夫婦で楽曲に取り組み、山口百恵などにロックンロール調の曲を提供し、大成功を収めた。

 第3位 「BOOWY」

Boowy  BOOWYは1981年に結成され、1988年に解散した、当時絶大な人気を博したロック(ビートロック系)バンド。メンバーは4人。ヴォーカルの氷室京介、ギター担当の布袋寅泰、ベース担当の松井恒松、ドラム担当の高橋まこと。3人が途中で脱退した。1981年のデビュー当時は「暴威」という和名だったが、翌年BOOWYと改名した。1stアルバム「MORAL」をリリース。当時はライブハウスを中心に活動していた。サンプル盤の「OH! MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」が新宿有線で3週連続1位を獲得して脚光を浴び始める。1986年以降出したシングルが爆発的な売れ行きとなり、一気にメジャーの仲間入りを果たした。1986年の「わがままなジュリエット」、「B・BLUE」、1987年には「ONLY YOU」、「MARIONETTE」を立て続けに大ヒットさせた。しかし、同年のクリスマスイブで開催されたコンサートの席上で突如解散発言をし、熱狂的なファンを落胆させた。テレビには殆ど出演せず、この頃、ZARDが同じ手法でCDセールスが圧倒していたため、覆面バンドと称された。氷室京介はルックスも歌も抜群で、ステージでは熱狂する女性が後を絶たなかった。

 第2位 「クールス」

Cools  クールス(COOLS)はアメリカンロックンロールをとりいれたロックバンド。現在も活動中。11975年年のバンド結成(前身のバイクチームの結成は更に前年)からすでに30年以上も続いているロックバンドなのだ。BUCK-TICK、元チェッカーズの藤井フミヤなど、その影響を受けたミュージシャンは数多い。このバンドの出発点は、原宿において1974年12月、舘ひろしをリーダー(チーム内での呼称は「ボス」。岩城滉一(同じく、チーム内での呼称は「コーちゃん」)をサブリーダーに結成されたモーターサイクルチーム(暴走族)が原点。 「暴走族」とはいっても、日本のいわゆる暴走族のように特攻服や竹やりマフラーではなく、アメリカの「ヘルズ・エンジェルス」を手本とした、おしゃれとかっこよさを追求したチームであった。そのことは当時リーダーの舘ひろしが語った「どうすればかっこよくなれるか、それだけしか考えていなかった。」という言葉にも表れている(とはいっても不良集団だったことには変わりない)。当初、舘ひろしはバンド結成については否定的であったが、熱心なキングレコードの若手社員に説得され、「チームのメンバーを食べさせていくため。」バンド結成を決意する。キャロル解散後の1975年9月、チームの中から選抜された7名とバンド結成から参加の大久保喜市(バイクチームの中でベースを弾ける人間がいなかったことから、ジェームス藤木が舘に大久保を紹介した)の計8名で、アメリカンロックンロールバンド「クールス(COOLS)」としてシングル「紫のハイウェイ」でデビュー。その際、岩城滉一は参加しておらず、そのまま俳優となった。主なヒット曲は、「紫のハイウェイ」、「シンデレラ」、「Mrハーレーダビッドソン」、「あの娘はステディガール」、「恋のゴールデンリング」、「ひびわれたグラス」、「追憶」、クライマックス」などである。男所帯でとにかく硬派を絵に描いたような凄味が感じられた。
 

 第1位 「キャロル」

Carol  1972年にデビューし、1975年に解散。僅か3年という短期間の活動ながらも強いインパクトを残し、以降の日本のロックシーンに大きな影響を与えた伝説のバンドと称される。その中心的役割を果たしたのが、ベース兼ボーカルの矢沢永吉だった。彼はとにかく特別でカリスマ的な存在だった。とにかく格好良かったし、何をやっても絵になる男だった。そもそもこのバンド結成の経緯は、矢沢永吉が自ら書いた貼り紙で募集をかけたものだった。ちなみにそのとき貼り紙の文句は、「ビートルズとロックンロールが好きなヤツ、求ム!」であった。もともと、「ビートルズ」のコピーバンドとしてスタートし、ハンブルク時代の「ビートルズ」のロッカーズスタイルをモデリングことで注目を集めた。2人目はジョニー大倉(現・俳優)。彼はサイドギターとボーカルを担当した。当初、バンドのコンセプトをつくっていたのはジョニー大倉だった。「キャロル」というバンド名に始まり、革ジャンにリーゼントというスタイル導入も彼の発案によるもの。矢沢の力強いボーカルは当時から大物の片鱗を見せており、ジョニー大倉の日本語と英語をミックスさせた作詞センスは、後のアーティスト、作詞家に影響を与えることになる。また、日本語を英語風に発音する歌い方は多くのアーティストが模倣した。彼ら以外のメンバーは、内海利勝(リードギター兼ボーカル)とユウ岡崎(ドラムス)だった。しかし、メンバー間で軋轢が生じ、1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で惜しまれつつ解散。矢沢永吉はソロ活動に転じ、日本を代表するロック・ミュージシャンに成長した。主な代表曲は「ルイジアナ」、「ヘイ・タクシー」、「やりきれない気持」、「彼女は彼のもの」、「ファンキーモンキーベビー」などである。曲のタイトルもかなり「ザ・ビートルズ」のロックビートを意識したものとなっている。リーゼントで決めたバリバリの硬派で、男臭さが滲み出るロックバンドだった。彼等が出現したことにより、その後の硬派系バンドの流れを継承することとなった。

 それ以外にも番外編として、多少異質だが「聖飢魔」、「HOUND DOG」、「Gray」などがこの硬派系のバンドではないだろうか。さて、紹介したこの10グループの中で、現在も活動中なのは「クールス」と「X JAPAN」ということになる。1960年代の空前のGSブームに始まり、70年代のニューミュージックブーム、そして80年代のアイドルブームとテクノポップブームを経て、1990年代には、「イカ天」を起爆剤として再びバンドブームが沸き起こった。20世紀後半の音楽界は、様々なジャンルの融合があった時代でもあった。それぞれの個性溢れるコンセプトや独自のスタイルを、音楽を通して主張して来た。それは本を正せば、図らずも頂点に君臨し、崇拝されるべき存在だった「ザ・ビートルズ」が落とした影であり、それに多大な影響を受け、感化され、音楽活動にのめり込んだ若者達であった。今、その世代は40代~60代となり、昔取った杵柄の再来とばかりに奮闘し、「オヤジバンド」として俄にブームを呼んでいる人達である。最近の音楽は、アイディアが出尽くした感は否めないが、新たな発想や視点で創造性豊かな独自の音楽を世に送ってくれることを大いに期待したい。この21世紀は、どんな音楽、そしてバンドが隆盛を極めるのか楽しみである。
 

2010年6月 9日 (水)

福島県ゆかりの女子アナ

 またまたマスコミ(テレビ・ラジオ)に関する話題で恐縮だ。我が福島県には、テレビ局がNHK(日本放送協会)を始め、民放4局(古い順に福島テレビ、福島中央テレビ、福島放送、テレビユー福島)があり、更にはラジオ福島とFMふくしまが存在する。福島市に所在地を持つ放送局では、NHK福島放送局、フジテレビ系列をネットする福島テレビ(FTVー1963年開局)、TBS系のテレビユー福島(TUFー1983年開局)があり、ラジオはラジオ福島(RFCー1953年開局)である。また、郡山市を本拠地とするのは、日本テレビ系を網羅する福島中央テレビ(FCTー1970年開局)、テレビ朝日系列をネットする福島放送(KFBー1981年開局)、そしてラジオではFMふくしま(エフエム福島ー1995年開局)とに分かれている。いずれのテレビ局も、福島県一人口の多いいわき市や全国有数の歴史観光地として名高い会津若松には支局があるだけで、本社は置いていない。また、あまりご存じないだろうが、愛称(呼称)とは別に、各放送局には電気通信監理局で割り振る周波数とコールサインがある。NHK福島は総合がJOFP-TV、教育はJOFD-TVと言う。また、NHKラジオは第一がJOFP1323kHz、第二がJOFD1602kHz、FMがJOFO-FMで85.3MHzで電波を発信している。地デジ、BS、CSも同様だ。ちなみに民放のコールサインは、FTVがJOPX-TV、TUFがJOKI-TV、FCTはJOVI-TV、KFBがJOJI-TVという具合。ラジオ福島はJOWRで、ふくしまFMはJOTV-FMという具合だ。あまり役に立たないだろうが、豆知識として蓄えて頂ければ幸いだ。私は昔、BCLを齧っていたし、無線の資格や免許状も持っている。さらにはかつて、「ラジオライフ」や「アクションバンド」というマニアックな書物も愛読していた時期があった。20年ほど前には盗聴器を発見する機械(レシーバー)まで持っていた。だからこの辺の分野は知識があって、多少は明るい。

 さて、前置きがいつも長くなるが、早速本題に入ると、県内にある放送局において、古より活躍しているアナウンサーがいた。男性で言えば、FTVでは「FTVテレポート」で名を馳せた原國雄アナや高橋雄一アナ、岩田雅人アナ、金井淳郎アナが局の顔だった。FCTでは奥秋和夫アナ、常盤秀次アナ、TUFは大学教授に招聘された佐藤資治アナ、長谷川晴彦アナ、中村幹男アナ、そして若手ではTBSの「はなまるマーケット」のリポーターに抜擢された皆藤慎太郎アナなどもいた。KFBでは寺尾克彦アナと飯野雅人アナがいた。また、ラジオ福島は、看板アナだった荒川守アナ、菅原俊二アナ、緒方一英アナ、荒瀬英俊アナ、今もバリバリ現役の大和田新アナがいる。最近はアナウンサーという職業は、ニュースを伝えるだけの堅物では務まらなくなり、知性プラスユーモアのセンスやアドリブの話術も求められるようになった。局アナはボイストレーニングを始め、日々の社会動向や新聞にも目を光らせ、とっさの判断力やボキャブラリーの修得にも努力を重ねているところであろう。画面を通じて自分の肉声や生の顔が、200万人県民の前に丸裸状態で写し出されるわけだから、うかつに軽はずみなコメントも慎まねばならない。ゲストがいる時のそつのない応対やゲストを立てる身の振り方、決して自分は目立つことなく脇役に徹しなければならない。単に面白ければそれで良しという訳では決してない。また、報道や天気、政治経済と多岐に渡って番組を担当する。事前の下調べは念入りだろうし、カメリハやマイクのスイッチ操作にしても神経を使う仕事である。最近はプロンプターという機器の導入で、原稿が読みやすくなった様だが、イントネーションやアクセントの置き方は、アナウンサーの熟練が試される。衆人環視のプレッシャーは大きい。特に大変なのはスポーツの実況だろう。JRA福島競馬場のある福島市では、FTV杯などもあって、地元の局アナが実況する。馬と騎手、枠連や馬連など覚えるのも一苦労だし、また、東日本駅伝も全国ネットだし、競輪中継もやる。また、県内規模でよく放送するのは、高校サッカー、高校野球、ラグビーなどで、その都度違う種類のスポーツのルールを覚えなければ到底実況など出来ない。自分の仕事している姿がテレビで紹介されているというのはどんな感覚なのだろう。私には出来ない芸当だ。

 またまた今回のテーマとはかけ離れてしまったので、さっそく本題に戻そう。かつて福島県内にある放送局で活躍した女子アナウンサー達がいる。結婚(いわゆる寿退社)で当地を離れた方もいれば、他県の放送局に異動となった方もいる。また、アナウンス部から他の部署に配属となった方もいるだろう。そういえばあのアナウンサー、最近見かけないけど何してるのかな?と思ったら、急に退社して、他県で活躍していたとかはザラである。実際、地元出身者のアナウンサーというのはすこぶる少ないらしい。「自転車でGO!」で有名な藺草アナだって東京都江戸川区の出身だし、FCTの大橋聡子アナは大阪府豊中市。若槻麻美アナも神奈川県の人、サタふくの名和田アナも元を正せば東京出身。TUFの上條麻里奈も東京生まれ。だけど福島県に何の縁もない方々でも、仕事で選んで来福したとは言え、どっぷりつかって福島県をくまなく廻り、県民に愛されようと努力する姿は立派という他にない。そして例え一時でも、福島県に身を置き、親しみのあるリポートや愛嬌を振りまいた姿は印象にあるし、ブラウン管に登場し、リポートやニュース天気予報を伝えていたアナウンサーなら、私達は一種の好奇の目で見ただろうし、頭の片隅には面影が残像として残っているものだ。地元密着のローカルテレビ局ならなおさら記憶に残っている。そこで今回は、私が想い出に残る、福島県にゆかりのある10人の女子アナを紹介したい。

 ・菅家ゆかり

Kanke  この方は、日本テレビの元アナウンサーだった。現在も日テレアナウンス学院の講師を勤めているフリーのアナウンサー。彼女は「菅家(かんけ)」という姓でもわかる通り、会津の奥深い村の出身。されどその美貌たるや一目惚れしてしまうほどだった。愛嬌のある丸い輪郭の顔立ちとパチクリとした大きな瞳に吸い込まれそうになる。1958年生まれで、上智大学の文学部新聞学科を卒業した才色兼備の持ち主であり、1981年に日本テレビに入社した。主な担当番組は、「お天気コーナー」「おしゃれ」「酒井宏のうわさのスタジオ」「たのしい園芸」など。血液型はA型。(下は若かりし頃の菅家アナ)

Kanke

 
 ・住友真世

Sumitomo  FTVのアナウンサーとして、「FTVテレポート」などで司会進行を務めた。どちらかというと報道が専門分野だった。最近までNHKの「BSニュース」でもキャスターを務めていた。彼女は社長令嬢を彷彿させるようなキレ者のような知性を感じさせる。現在ホットな話題のフジテレビの長野翼アナに似ていたと時折思うことがある。目が大きく、鼻筋が通った色白美肌美人。ずっと眺めていたい顔立ちだった。「なぜこんなに綺麗な人が、田舎のローカルテレビのアナウンサーをしているのだろう」と何度疑問に思ったことか。彼女は徳島市出身で、地元の高校を卒業後、何と国立音楽大学の声楽科を卒業した才媛。1988年から1993年まで福島テレビのアナウンサーとして活躍した。その後、在京放送局のアシスタントやリポーターを務め、福島女子短期大学の客員講師も務めた。そしてNHKへ入局した。最近は「NIKKEIの丸の内キャリア塾」に登場している。血液型はA型。

 ・羽藤淳子

Hato 私は同世代と言うこともあり、何かと気に掛かる存在で、大好きだった。地元郡山の県立の女子高を卒業し、KFBに契約アナとして入社。当初は番組アシスタントやリポーター役が多かったが、その愛くるしい顔立ちと明るく癒し系の柔らかい人柄もあってお茶の間の人気者となり、番組のメインキャスターに抜擢された。それが「あいうえお天気目玉焼」及び「あいうえお天気目玉焼Lサイズ」で、1990年4月から1998年9月末まで放送していた土曜朝のローカル情報番組である。開始当初は朝7時30分からの30分番組だったが、1991年4月からは放送時間を7時からの1時間に拡大し、タイトルの後に「Lサイズ」とついた。時には高視聴率を記録した時期もあった。この番組は私も大好きで、名物コーナーがいろいろあった。目玉焼通信(視聴者からハガキで天気予報の依頼を元に鹿野さんが解説する) 、お天気名人(羽藤アナが各地の名人に電話を掛けて、その地の言い伝えをもとに翌日のお天気を予想してもらう)、ゴイシが行く(初代キャラクターのぬいぐるみの「ゴイシくん」が、県内をかけまわる) 、福島お宝珍道中(池田アナが訪問した町の人の物を物々交換して県内各地を進むもの) 、ロマンティックレールトレイン(福島県内の鉄道の駅を巡るというもの) 、名探偵ポアン(視聴者から寄せられた福島各地の謎を解くというもの) など見所はたぶんにあった。この番組と彼女の名司会ぶりが評価され、その後、彼女は夕方放送の「ふくしまスーパーJチャンネル」にも出演した。しかし、2000年に一説では医者との結婚を機に番組を卒業し、他県へお嫁に行ったということらしい。血液型はA型。(残念ながら画像も動画も残っていない→H27.8.4に映像を発見!)

 上の映像は、平成2年に放送されたD51-498が復活した時の模様を取り上げた映像。この時の羽藤淳子アナウンサーは23歳だった。

 その後、彼女が現在、執筆中のブログを発見しました!関西在住で、中学生の娘さんがいるお母さんになられていました。ブログは下をどうぞ!

 http://ameblo.jp/141junpe/entry-11944723888.html

 ・荒井律

Dvc00210  彼女は一時期FTVの看板娘と呼ぶに相応しい存在だった。彼女もまたかなりの美人で、気さくな人柄で人気を博し、県民の中にもファンは多かった。主な出演番組は、「Lばんテレポート」の司会や「弦哲也のカラオケグランプリ」、「サタふく」のMCも担当した。彼女は1972年生まれの会津若松市出身。武蔵大学を卒業し、1995年に福島テレビ(FTV)に入社した。彼女に関しては個人的にエピソードがある。今から10年以上前、Lばんテレポート内の「ゆ~ゆ~LIVE」という名のコーナーで街角から中継というのがあって、当時高橋雄一アナウンサーが飛び込みロケで夕方、各家庭を廻り、巨大さいころを振って、出た目によって商品をプレゼントするというものだった。その中継で、何と私の自宅にやってきたのだ。そして応対した家内と息子・娘がテレビの生中継に出演してしまったのだ。そこで息子がさいころを転がし、「ボローニャ」のパンをゲットしたのだ。その時のスタジオで、中継先と結んで司会を担当していたのが荒井律アナだった。そして真向かいのお宅にもお邪魔したのだが、運良くそこの奥さんがロケを察知し、ビデオに録画してくれた。それを未だに持っている。しかし、その後彼女はフジテレビの社員と恋愛結婚し、2003年で出産のために退社した。血液型はA型。

https://www.youtube.com/watch?v=C6tjIzTy_vs (5分28秒から)

 ・竹野美智子

 彼女を知る方は少ないだろう。私が高校時代まで「ラジオ福島」のアナウンサーとして勤務していた方だ。確か名前が竹野ということで、「かぐや姫」という愛称でリスナーに人気があった。私は顔こそ知らないが、彼女の声としゃべり方が大好きだった。彼女の担当していた番組は殆ど聴いた。「朝のグリーンメロディー」や「昼の希望音楽会」、「夜をぶっとばせリクエストで45分」(平日深夜零時15分から1時まで)、そして「ニュース」や「天気」まで。優しくかつ可愛らしい声で毎回癒されていた。今から30年近く前のため、彼女に関する情報やDATAはあまり残されていない。出身地も当時の年齢も、血液型も何もわからない。ある日突然急に番組を降板し、局を退社したので、恐らくは寿退社なのだろうとは思っていた。顔が見えない世界なので、逆に空想や想像が膨らみ、今で言う妄想をしていたように思う。今、彼女はどこで何をしているのだろうか。

→H23.4.24に彼女に関する動画を発見した。新聞の切り抜きと最後の放送が記録されている。

http://www.youtube.com/watch?v=lEF9k3FVPzk

http://www.youtube.com/watch?v=oLoIQ37MAMw

http://www.youtube.com/watch?v=irvkM6hcb0U

 ・唐橋ユミ

Karahashi  彼女は現在、毎週日曜日のTBS「サンデーモーニング」のアシスタントとしてスポーツコーナーを担当している。時折番組内で関口宏のリクエストに応じ、幾度も会津弁を惜しげもなく披露して来た。生粋の会津っ娘である。それもその筈、彼女は会津銘酒「ほまれ」という酒蔵の令嬢なのである。1974年生まれで、実践女子大学文学部英文科を卒業し、名アナウンサーとしてならした高橋圭三が主宰するアナウンス塾へ。その後、地元福島へ帰り、TUFの契約アナウンサーとして活躍。私の好きなアナウンサーのひとりだったが、2004年に退社して芸能プロ・三桂へと入社し、現在に至っている。番組出演時は、本人がお気に入りのナイロール(ハーフリム)フレームの眼鏡をかけて出演している。清楚ですっとんきょうな感じもいいし、明るく朗らかで、顔もベビーフェイス。色白で愛嬌たっぷりで誰からも愛されるゆるキャラという印象。実際の年齢より10歳は若く見える。他に吉田照美と共に文化放送の朝のラジオ番組にも出演している。血液型はO型。

 ・山元香里

Yamamoto  現在は皆藤愛子や長野美郷が所属するプロダクション「セント・フォース」に在籍するフリーアナウンサーだが、つい最近までは福島テレビのアナウンサーだった。やはり綺麗な人はスカウトされたり、在京キー局のアナに抜擢されるようだ。元々は埼玉県の出身で、法政大学の経営学部を卒業、在学中にはミス熱海梅娘にも選ばれたほどの美貌の持ち主。やはり色白で瞳が大きい。2005年から2007年9月までFTVに勤務した。担当番組は「郡山市政だより」「FTVスーパーニュース」「弦哲也のカラオケグランプリ」「エキサイティング競馬」などだった。フリーになってからは、「ズムサタ」のリポーターや「FNNスーパーニュース」にも不定期に顔を出している。1982年生まれの27歳。血液型はAB型だ。

 
 ・田井麗花

Tai  彼女は2004年から2006年9月まで福島テレビに在籍した契約アナウンサーだった。FTVでは、宝塚にいそうな物凄く大人っぽく美型な顔立ちとは裏腹にネアカな性格と面白キャラとして大活躍。僅か在籍2年ながら、その存在感と確かな足跡を残した。担当番組は、「弦哲也のカラオケグランプリ」「ほっとスポット」「FTVニュース」「サタふく」など。報道よりも情報バラエティ番組向きだった。彼女は元々が大阪府寝屋川出身と生粋の関西人。1976年生まれで松陰女子学院大学を卒業した。現在はフリーとなり、様々な番組で主にレポーターとして活躍しているようだ。血液型はAB型。

 ・山田幸美

Yamada2  彼女は今でこそ広島ホームテレビのアナウンサーとして活躍中だが、その前は列記としたテレビユー福島のアナウンサーだった。1984年、静岡生まれの26歳。明治学院大学国際学部を卒業し、2006年に契約社員としてTUFに採用。その後、県民から人気が高まり、2008年に正式社員として登用となったが、2009年3月に広島県の広島ホームテレビの契約アナウンサーへ。理由は定かではない。でも彼女は今、熱烈な広島カープファンとなり、すっかり溶け込み、元気で活躍されているようだ。TUF時代は、彼女の代名詞だった地元密着の「グーテン」にレギュラー出演していた。現在も平日の朝9時55分から10時50分まで放送している。日曜大工の仕方を紹介する「DOエイトユアセルフ!」、「E!気分」などにもレギュラー出演していた。愛くるしい笑顔で人気があって、正社員になったばかりなのに残念だった。血液型はO型。

 
 ・藁谷麻美

Waragai  彼女は1982年生まれの27歳で福島県のいわき市出身。そういえば「藁谷」という苗字は、いわき市特有のものだ。好間周辺に多い。そして大妻女子短期大学国文学科を卒業し、東京アナウンスアカデミーにも通っていた頑張り屋。一時期は声優を目指していたが、2005年にTUFの契約アナウンサーとなった。1年間ほど、「まるとく」を始め、さまざまな番組のレポーターとして活躍した。その後、現在のテレビ大阪の契約社員となり、アナウンサー業に勤しんでいる。そして最近は、私の大好きな「ザ・フィッシング」にも女性アングラーとしてたまに出演している。番組で彼女を見た時、とても懐かしかった。TUF時代には、あまり気に留めていなかったが、これほど可愛かったとは・・・。そして現在は、地デジ親善推進大使「TEAM2011」のメンバーになった。血液型はA型。

 ・他の印象に残るアナウンサー
 立川陽子・・・元KFBアナウンサーで2003年に結婚退社。時々報道ステーションにも出演していた。横浜出身のB型。「ふくしまスーパーJチャンネル」を担当していた。純真さとフレッシュさがあった。

 丹野麻衣子・・・山形県出身で宮城教育大卒。2006年から2009年までKFBに勤務。この4月からは北海道文化放送に勤務している。27歳のA型。

 広瀬真弓・・・彼女はラジオふくしまのアナウンサーとして配属されたが、平成6年6月6日(6並びの不吉な日)に交際相手だった奈良テレビ放送の男性記者に、社員寮となっていたアパート前で刺殺される痛ましい事件により若くして亡くなった。4月の開成山公園からの「rfcワイド午後一番」の生中継で鮮烈なデビューを果たしてから、僅か2か月のの惨劇だった。写真はどこにも残されていないが、とても可愛かったと言われている。合掌。

 総勢13名の心に残る福島県にゆかりのある女性アナウンサーを取り上げてみたが、懐かしんでもらえただろうか。昔の話をし出すのは年をとった証拠だが、同じ時期に同じ福島で出会えた機会に感謝したい。決して福島県を踏み台にした訳ではないだろうが、修行の時期としては最適な場所だと思う。考えてみると、県内の放送局で活躍しているアナウンサーたちは、日本全国からやって来た人たちばかり。ぜひ、福島県に確かな足跡を残したと言う事実を胸に、新天地あるいは新生活でも頑張ってもらいたいものだ。

 

2010年6月 7日 (月)

「テレビ東京」の実力

 我が福島県では、「テレビ東京(TV-TOKYO)」の放送はネットしていない為、リアルタイムで見ることは出来ない。現状は週末の限られた時間帯にしかお目にかかることが出来ない。しかし、どちらかと言えば「良いとこ獲り」のような感じなので、私としては嬉しい限りである。日本が誇る民放の4大ネットワーク局(キー局)であっても、視線を釘づけにするような興味深い番組もあれば、電波が勿体ないと感じる下劣なものも数知れない。そこで「テレビ東京」の特異スタイルとも呼べる番組作りが、そうした隙間を埋めてくれる格好の材料になる。唯一不満なのは、「釣りロマンを求めて」を福島県では放送しないことくらいか。ところで「テレビ東京」と言えば、昔は「東京12チャンネル」という名前だった。所在地は東京タワーの近くにあって、文字通りチャンネル番号は覚えやすい12。25年ほど前までやっていた「ヤンヤン歌うスタジオ」は毎週土曜日に欠かさず見ていたし、徳光和夫の「TVコロンブス」も好きだった。また、つい最近まで放送していたココリコ主演の「ミリオン家族」もすこぶる面白かった。特に自宅やデパートや大型家電店、テーマパークや島まるごとを使ってかくれんぼをするのは圧巻。逃げ切れたらガチで100万円が手に入るのだから、その驚くべき仕掛け(トラップ)や隠れ場所の制作も凝りに凝っている。以前にも何度か「テレビ東京」の愛すべき番組の数々を紹介したが、今回は現在も地元福島のテレビ局で放送している幾つかの番組をピックアップし、ランキング形式でその魅力に触れてみたい。

 1位「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」毎週日曜日13時(FTV)
   
 所ジョージと大橋未歩がコンビで番組を進行。清水ミチコ、アンジャッシュ、東貴博らが脇を固める。レポーターで出演する松井絵里奈も底抜けに明るくて個人的には大好きだ。疑問解決コーナーや島ダス、深海ハンター、デンジャラスハンターなど見どころは十二分にある。これまでユニークな車大集合、鍾乳洞などの洞窟探検、深海魚など幅広く紹介して来た。結構勉強になる。「未歩の甘~い疑問」も好きなコーナーだ。毎週欠かさず予約録画している。 

 2位「いい旅夢気分」BSJかFTVの時間帯は不定期

 これは私が学生時代から続いている長寿番組。何と番組開始は1986年で24年の歴史を持つ。東京に住んでいた頃に始まり、私自身これを見て訪れた観光地は数知れず。ローカル(路線)バスの旅や季節を通じて花が咲き誇る旬の名所を紹介する。毎回3人組のゲストが番組の主旨に則ってその土地の風景や珍味などを見つけて、知られざる名所を探り出していく。どちらかと言えば関東地方(伊豆や房総が多い)を中心にその近辺が多いのだが・・・。旅のヒントやその場所を実際にこの目で見てみたいと言う衝動に駆りたてられたものだ。

Tokoro Iitabi
 
 3位「開運なんでも鑑定団」毎週日曜日正午(FTV)

 これも10年以上続く。当初から島田紳助、石坂浩二、吉田真理子のトリオが番組を進め、松尾伴内、住田隆が地方へ出張してお宝鑑定を仕切る。特に凄いのは、鑑定士軍団の経歴。さすが目利きと唸らせるだけのことはあり、確かな目もさることながら学歴もまた凄い。安河内眞美は上智大学ロシア学科を卒業した才媛。ブリキのおもちゃ博物館の館長を務める北原照久もまた青山学院大学出身。スポーツ万能でスキーはプロ級。三浦半島の付け根に白亜の豪邸を建てて海に面した場所で暮らしている。やはり説得力溢れる話口調は、裏付けされた知性がなせる技だったということだ。

 4位「空から日本を見てみよう」隔週日曜日15時(TUF)

 これは去年くらいから注目している番組。タイトルの通り、上空から町の様子を眺めて、気になる風景や変わった形状の建物を取り上げる。くもじい(伊武雅刀)とくもみ(柳原可奈子)のナレーションで進む。毎回テーマがあり、山手線一周や京浜東北線沿線、東京湾一周などを上空から散策し、珍しい建物があるとそこで寄り道し、取材する形式。これまで建物が蔓性の蔦や葉で覆われたもじゃもじゃハウスや狭小変形土地に建つ三角形の建物の角度を調べたり、また、屋上に増設したようなプレハブなどのハウス、公園などで見られるアニマルの造形物もチェックポイントとなっている。結構楽しい。

Kantei Sky

 5位「出没!アド街ック天国」毎週日曜日15時30分(KFB)

 愛川欣也と売り出し中の「テレ東」局アナの大江麻理子がMCを担当。1時間番組で30位からカウントダウンしてその街の名所を紹介するエンターテイメント番組。「薬丸印の珍名所」や街角の女性を一堂に会してファッションを紹介する「~街コレクション」など見どころは多い。やはり関東一円が中心だが、時々全国の有名観光地にロケに出る。我が福島県では、会津若松を紹介した。

 6位「ザ・フィッシング」毎週水曜日深夜0時59分(FCT)

 平日の深夜放送なので、いつもビデオ録画し、時間が空いた時に見るようにしている。船釣りや釣れるポイントばかりで取材することが多く、私にはあまり参考にならないが、それでもヒットした瞬間の魚とのバトルは見応えがある。特に、DAIWA(現グローブライド)専属のプロアングラー達の熟練の妙技は必見の価値あり。強面だが最強テクの持ち主・大塚貴汪、小田原出身で海のすべてを知り尽くしている村越正海、小柄な大物ハンター秋丸美帆などが毎週奮闘する。堤防釣りは釣果が少ないせいか、敬遠されがちだが、たまにカレイ釣りを披露する時は欠かさず録画ムーブする。最近は「ツーリーズエンジェル」の登場で番組も華やかさを増した。村越の織り成す新釣法や投げ釣りとサビキの融合技なども興味をそそる。

Ado Akimaru_2 

 7位「ドライブA GO GO!」土曜日19時(BSジャパン)かFCT

 こちらもトヨタの新車のPRを兼ねて、男女のペア(コンビが出演の際は3人)で出演し、関東近郊のドライブをし、名産を紹介して歩く番組。「いい旅夢気分」の30分縮小版だが、車での移動に徹しているところで他と一線を画している。したがってノンアルコール。観光スポット紹介というよりも食べ物にウェートを置いている感じだ。

 8位「ドラマ24」土曜日2時30分頃(FCT)

 毎回10話程度で完結するドラマを放映している。2005年の「嬢王」から始まり現在の「モテキ」まで20作品が制作された。FCTではまだ「マジすか学園」を放送している。AKB48が体を張った演技を繰り広げている。昔懐かしい1980年代のツッパリ・スケバン時代を彷彿させるような作風。これまでちょっとエッチ(ムッツリではなくソフトタッチ)な感じの番組が多かった。2ndハウス、怨み屋本舗、BOYSエステ、コスプレ幽霊、湯けむりスナイパーなどである。深夜の時間帯なので、たまに気に入った作品があれば録画して見る程度。

Ago Majisuka

 9位「世界を変える100人の日本人」(土曜日14時頃)

 三宅裕司とさま~ずの三村マサカズが司会を担当している。番組コンセプトは、日本人でありながら外国で生活し、世界に誇る業績や功績、偉大な足跡を残した人を紹介する。「プロジェクトX」と「知ってるつもり?」にも似た感じ。印象に残るのは、やはり天才脳外科医・福島孝徳だろう。彼は脳腫瘍除去のスペシャリストで、これまで何人の医師に見放された患者を救ったか知れない。70歳になりながら、現在も第一人者で、365日中、300日はオペ室にいて、一日3件の同時手術などはザラ。世界各国を移動し、東大医学部卒業後、単身アメリカの渡り、アメリカの大学の学位を取得し、そのまま教授へ登り詰めた。日本にも彼の功績を称え、「福島孝徳記念病院」という脳手術専門の病院まで設立された。彼が健在のうちは良いが、いずれ高齢となり、体の自由が利かなくなるので、早く彼の神業とも言われるメスさばきとマイクロサージェリーオペレーターなる後継者を育ててほしい。

 10位「完成ドリームハウス」不定期(FCT)

 こちらは家を建てる前、すなわち計画段階から始まり、約3ヵ月間工事に密着し、当初予算と完成時の予算も公開する。この手の番組は、「劇的リフォーム・ビフォーアフター」でお馴染みだが、新築物件という点で異なる。間取りや実際のレイアウトや家具まで暴露してしまい、プライベート部分まであけすけ状態だが、番組で建築家に支払う設計デザイン料は番組持ちらしい。テレビでやる以上は建築士も普段より気合が入るし、粗悪な材料は使えない。無論、手抜き工事などしたら信用を失うことになる。自分の夢のマイホームが完成するまでの経緯が映像で残せるメリットもある。

100japan Dream_house

 私自身は、魅力的な番組が目白押しの「テレビ東京」党である。10chの某放送局よりも断然面白くて為になる番組作りをしている。BSJはリアルタイムで見ることが可能だが、地デジ放送も、もっと県内各局でネットして欲しいところだ。以前も書いたが、県内に4局ある放送局はそれぞれ日テレ系がFCT、フジ系がFTV、TBS系がTUF、テレ朝系がKFBと相場が決まっているが、この「テレビ東京」制作の番組は、どこの放送局でも放送権料を払えば自由にネットできるらしい。これまでは、地方では隙間埋め専門だった感が否めないが、もはや見て触れて十分楽しめる魅力的な番組が多いと思う。テレビ東京スタッフには、卑屈にならず、自信を持って番組作りに専念して貰いたいものである。  

 

 

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