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2010年10月

2010年10月30日 (土)

私が選ぶ日本の名城ベスト10

 かつて日本一の城と言えば、徳川家の栄華と繁栄を象徴した「江戸城」があった。現在も広大な敷地面積を誇る皇居内にあって、我々は今や設計図面や時代劇でしかお目にかかれないものの、当時はかの有名な絢爛豪華を絵にかいたような大奥、本丸、二の丸、三の丸、大老井伊直助が襲撃されて命を落とした桜田門、幕末には勝海舟と西郷隆盛の会談によって、無欠開城が実現した歴史的遺産でもある。とりわけ天守閣は地上5層、地下一階の堂々たる威容を誇り、最上階からは江戸の街並みや太平洋を一望できたという。また、豊臣秀吉が築城した大坂城は、天下分け目の大合戦となった大坂夏の陣、冬の陣の舞台となった。そもそも城の建築目的や利用価値と言うのは、戦国時代や幕藩体制下にあって、各藩の財力や国力、あるいは時の権力者の強固な力を誇示する象徴であったり、敵の侵入から殿様を守る防御的目的、要塞としての防衛的あるいは攻撃的利用など、いわゆる軍事的拠点としての利用価値があった。つまり、築城された時期や時代背景を考えると、いずれも血なまぐさい時代にあって歴史の生き証人とも言えるかもしれない。また、一般的に日本三名城と言えば、「大坂城・姫路城・熊本城」を指すが、それは城としての規模や美しさなどが群を抜いている点が評価されての指定であり、大坂城を除いて年表に掲載されるような大きな戦や出来事があった訳ではない。現存する・しないの枠を取り払った上で、私が考える日本三名城は、「江戸城・大阪城・安土城」と言う事が出来る。そこで今回は、もうおわかりのように、私が独断専行で選ぶ「日本の名城ベスト10」というテーマでランキング形式でお送りしたい。(解説は一部Wikipediaより抜粋) 

 第1位 江戸城

 江戸城は、現在の隅田川河口付近にあった麹町台地の北に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。千代田城とも呼ばれる。国の特別史跡に指定されている。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。徳川家康が江戸城に入城するのは、1590年のことである。家康が江戸幕府を開いた後は徳川の居城、明治維新後の東京奠都で宮城・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二の丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。築城年は1457年で築城主は太田道灌だった。天守構造は、層塔型5重5階地下1階(1606年当時)・独立式層塔型5重5階地下1階(1621年・1635年当時)、主に改修に寄与したのが徳川家康、秀忠、家光である。主な城主は太田氏、後北条氏、徳川将軍家、天皇家である。個人的には、暴れん坊将軍のワンカットで登場し、姫路城を遥かに凌ぐ美しさと威容を誇る印象が強い。しかし、現存しないのは1657年に起きた、明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。1873年には皇居に使用中の西ノ丸御殿が焼失。1923年には関東大震災によって残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。また、1945年には東京大空襲によって大手門が焼失した。その後、GHQの指導があったこと、莫大な費用がかかること、現在はそこが天皇の居住地である皇居であることなどの理由から、この城に至っては、天守閣や大奥など大部分の建造物が未だに再建や復元が果たされていない。現在は二重橋(皇居正門石橋)とそこから奥に望める伏見櫓が庶民には馴染みが深い。

Edojyo Nijubashi

 第2位 安土城 

 これは織田信長が1579年に建てたと言われ、滋賀県近江八幡市にあった幻の山城である。安土城は、現在の安土山に建造され、大型の天守を初めて持つなど威容を誇ったが、1582年(天正10年)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。安土城は六角氏の観音城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。建造当時は郭が琵琶湖に接していたが、昭和に入って干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れている。安土山の全体に城郭遺構が分布しており、当時の建築としては城山の中腹に所在する摠見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている築城の年、山崎の戦いの後、落雷により天守と本丸が焼失したという記録が残る。織田信長の天下人としての存在感や威厳を証明するに相応しい威容だった。

Azuchi Azuchi2

 第3位 大坂城

 摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。豊臣秀吉によって築城されたことから、通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものであることがわかっている。大坂城は、上町台地の北端に位置する。戦国末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭するように再建したとされる。完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた華麗な姿で描かれている。天守は1665年に落雷で焼失。豊臣政権の栄華の象徴だった本城だが、江戸末期の鳥羽伏見の戦いの後、失火により大半を焼失した。現在の天守は1931年に再建されたもの。私は昭和52年の夏に訪れたことがある。現在は大阪城公園を取り巻くように高層ビルが立ち並び、異様な光景である。

Ohsaka Osaka

 第4位 姫路城

 兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にあった平山城。日本一の名城と謳われるその規模と美しさは白鷺城(はくろじょう)という異名を持つ。中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として池田氏、本田氏、酒井氏などの譜代大名が入城した。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの、天守閣最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となるという幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。現在では天守を始め多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。現存天守は、江戸時代以前に建造された天守が現存する日本国内12箇所の城の一つであり、いわゆる「国宝四城」(通例として、国宝指定の天守を持つ城のことを指し、姫路城・松本城・彦根城・犬山城をいう)の一つでもある。

Himeji  

 第5位 名古屋城

 尾張国愛知郡名古屋にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本の100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもあ尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。城郭構造は梯郭式平城で天守構造は連結式層塔型5層5階地下1階(1612年築 非現存)となっている。国の重要文化財の指定を受けている。私は昭和55年春に訪れたことがある。

Nagoya Nagoya2

 第6位 熊本城

 黒塗りが重厚感がある、こちらも日本三名城のひとつ。熊本県植木街の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。細川氏の居城となった後もさかんに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、明治22年の大地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。私は2001年に熊本を訪れ、路面電車の中から5日間城を眺めて過ごした。

Kumamoto Kumamoto2

 第7位 松本城

 長野県松本市にあった城である。現在は天守群などの建物が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城といった。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。日本国内に12基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つである。天守群は国宝に指定されている。私は熊本城と外観はそっくりだと感じている。城郭構造は梯郭式+輪郭式平山で、天守構造は連結式望楼型(1593年頃か1615年築)、複合連結式層塔型5重6階(1633年改)である。1504年(永正1)信濃(しなの)守護小笠原(おがさわら)氏の一族である島立貞永(しまだてさだなが)が室町期の坂西(さかにし)氏の館跡に城を築き、深志(ふかし)城と称したのが初めといわれている。私は大学3年生の1986年にバイクツーリングで信州を訪れた際に立ち寄った。城の周りをお堀が囲み、とても美しい城だと感じた。

Matsumoto Matsumoto2

 第8位 鶴ヶ城

 地元会津若松に現存する平城。正式には若松城で、黒川城と呼ばれることもある。会津戊辰戦争では1か月間に渡り籠城し、新政府軍に最後まで抵抗して悲劇の舞台となった。 鶴ヶ城は至徳元年(1384)に芦名直盛が最初に築城したと言われている。芦名氏は南奥羽を制する大大名に成長したが、戦国末期になると佐竹氏から養子を迎えるなど衰退し、天正17年(1589)に伊達正宗との摺上原合戦で敗れると佐竹氏を頼り江戸崎へ落ち延びた。政宗は居城を米沢城から黒川城に移し整備を進めた。しかし、政宗は豊臣秀吉によって行われた小田原攻めに遅参したことで奥州仕置きにより居城を岩出山城に移され、黒川城には蒲生氏郷が伊勢松坂から入城。蒲生氏郷は織田信長の娘冬姫を貰い受けた名門で、秀吉に臣従し数々の功をたてた事で42万石(後92万石)の大名に取り立てられ、対伊達氏の抑えとなった。氏郷は鶴ヶ城と名前を改め、七重の天守閣を築くなど城を大改修して伊達氏に備えるが氏郷が没すると嫡男が幼少の事もあり宇都宮城に居城を移され18万石に減封される。鶴ヶ城には上杉景勝が春日山城から120万石で入り徳川家康を東で牽制します。2代後蒲生氏が廃絶すると加藤嘉明が寛永4年(1627)が藩主になり嫡男の明成の代に大幅な城郭の整備を行い現在に近い形になった。その後加藤氏はお家騒動により領地が取り上げられ寛永20年(1643)に保科正之が山形城から23万石へ加増され藩主となり、明治維新まで保科(松平)家が続く。戊辰戦争時には白石城で調印された奥羽越列藩同盟に参加したことで新政府軍と対立、約一ヶ月の間篭城しますが明治元年9月22日に降伏し明治7年に鶴ヶ城は廃城となりました。又、鶴ヶ城の唯一の現存遺構として御三階が阿弥陀寺に移築されている。現在の天守閣は鉄筋コンクリート製で昭和40年に再建されたもの。城郭構造は梯郭式平山城で、天守構造は望楼型7重不明(1593年築)、層塔型5重5階地下2階(1611年改)、層塔型5重5階(RC造1965年再)。私は現に会津若松市に住んでいたし、それ以外にも10回以上は訪れている。鶴を彷彿させる美しい城だが、もうじき当時と同じように赤瓦に葺き替える工事が始まる。私は現在のシックな外観が好きなので、幾ら歴史や設計に忠実であっても赤瓦ではけばくなる印象は否めず、現存のまま残してほしいと願っている。

Turugajyo Tsurugajyo

 第9位 犬山城

 愛知県犬山市にあった城である。現在は江戸時代前後に建造された天守が現存する。また、現存天守は国宝に指定された4城のうちの一つである。木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名、白帝城。天守構造は複合式望楼型 3層4階地下2階(1620年改)。1469年の築城で、築城主は織田広近とされる。私は過去、この城見たさに二度訪れたことがある。昭和55年と61年である。木曽川のほとり、小高い丘の上に聳えるようにして立つ綺麗な城郭。反対側は名鉄が横切る鉄橋。風情のある佇まいを見せる。この河原で15歳当時、石切りをして遊んだ思い出がある。

Inuyama Inuyamajyo  

第10位 五稜郭

 江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された星形の城郭の通称。函館市五稜郭町に現存するわが国最大・最初の西洋式稜堡(りょうほ)式城跡。正式名は亀田(かめだ)役所土塁というが、V字形の堡頭(ほとう)をもった五稜星形築城なので五稜郭と通称されている。江戸幕府は神奈川条約による箱館開港と、ロシアの南下政策などに対応するため、11854年、箱館奉行を配置、奉行所として亀田役所土塁、弁天岬台場などの築造を計画した。五稜郭は1857年に着工、64年に竣工した。設計と監督は伊予大洲藩出身の武田斐三郎成章で、西洋の築城書をもとに築城したといわれる。星形の稜堡式築城は、郭内からの射撃に死角がないことが特長で、同じく幕末に築造された長野県南佐久郡の竜岡(たつおか)城も同型のものである。五稜郭は郭内約25万1400㎡、郭高約5メートル、南西の追手門外に馬出として三角土塁があり、郭には濠が巡らされ、濠外の東西南三方には、さらに土塁が設けられている。郭内には木造瓦葺き望楼付き900坪の本庁舎など、30余棟の建物が並んでいた。1868、新政府は箱館裁判所を設置し、総督に清水谷公考を任命した。その後、箱館戦争終了の1869年まで、五稜郭は榎本武揚の率いる旧幕府軍に占拠され、その本拠となった。戦争の結果、本庁舎に付属する望楼が一部破壊された。本庁舎は戦争後の1871年に解体された。73年、五稜郭は陸軍省に移管されたが、1914年公園として開放、桜の名所となった。1922年国の史跡、1952年には特別史跡に指定された。私は北海道に2年間住んでいたこともあり、ここへは4回程度訪れ、就職してからも2度ほど来ている。

Goryokaku Goryokaku2

 さて、独断と偏見で選んだ「私の好きな名城ベスト10」如何でしたか。別段私はお城フェチではないし、オタクでもない。意外と日本各地にあるお城は自分の目で見たことが多い。他にも桃山城、松前城、弘前城、霞ヶ城、小峰城、小田原城、福山城、首里城なども見ている。何か勇壮で権力の象徴というイメージで見てしまう。時代の象徴であって歴史的遺産でもある日本の名城たち。死ぬまでには日本各地の城を全部見て歩きたいという願望がある。幼少の頃はプロモやジグソーで見たり作ったりしただけだが、男なら一国一城の主を夢見ることがあるだろうし、男の浪漫なのかもしれない。最後に、日本の城100選を掲載して結びとしたい。

●「日本100 名城」(各県1 城以上、5 城以内)
都道府県名 城 郭 名 都道府県名 城 郭 名

①北海道・東北
 
北海道 根室半島チャシ跡群 五稜郭 松前城
 青 森 弘前城 根城
 岩 手 盛岡城
 宮 城 多賀城 仙台城
 秋 田 久保田城
 山 形 山形城
 福 島 二本松城 会津若松城 白河小峰城

②関東・甲信越
 茨 城 水戸城
 栃 木 足利氏館(鑁阿寺)
 群 馬 箕輪城 金山城
 埼玉 鉢形城 川越城
 千 葉 佐倉城
 東 京 江戸城 八王子城
 神奈川 小田原城
 山 梨 武田氏館(武田神社) 甲府城
 長 野 松代城 上田城 小諸城 松本城 高遠城
 新 潟 新発田城 春日山城

③北陸・東海
 富 山 高岡城
 石 川 七尾城 金沢城
 福 井 丸岡城 一乗谷城
 岐 阜 岩村城 岐阜城
 静 岡 山中城 駿府城 掛川城
 愛 知 犬山城 名古屋城 岡崎城 長篠城

④近畿
  滋 賀 小谷城 彦根城 安土城 観音寺城
 三 重 伊賀上野城 松阪城
 京 都 二条城
 
大 阪 大阪城 千早城
 奈 良 高取城
 和歌山 和歌山城
 兵 庫 竹田城 篠山城 明石城 姫路城 赤穂城

⑤中国・四国
鳥 取 鳥取城
島 根 松江城 月山富田城 津和野城
岡 山 津山城 備中松山城 鬼ノ城 岡山城
広 島 福山城 郡山城 広島城
山 口 岩国城 萩城
徳 島 徳島城
香 川 高松城 丸亀城
愛 媛 今治城 湯築城 松山城 大洲城 宇和島城
高 知 高知城

⑥九州・沖縄
福 岡 福岡城 大野城
佐 賀 名護屋城 吉野ヶ里 佐賀城
長 崎 平戸城 島原城
熊 本 熊本城 人吉城
大 分 大分府内城 岡城
宮 崎 飫肥城
鹿児島 鹿児島城
沖 縄 今帰仁城 中城城 首里城

2010年10月28日 (木)

白虎の魂 飯盛の地に果てぬ  ~峠の虚像~

およそ1年前に「会津の魂」というタイトルの記事の中で下記の時代小説を認めたたことがある。私の祖父母は生粋の会津人で、特に5年前に亡くなった祖父は、「ならぬものはならぬ」の頑固一徹の厳しい精神が骨の髄まで宿り、どこを切っても会津の血が流れるほどの根っからの会津武士道を全うした人だった。もちろん剣道六段で師範の資格も有していた。今回は二度目の掲載となるが、尊敬する祖父を偲ぶとともに、会津武士道を忘れないために敢えて二度目の掲載に踏み切った。幕末の時代背景を噛みしめながらとくとご覧あれ。

時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世 
倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
その存在を世に知らしめた新撰組
戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった

禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転

慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に 
錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
城を抜け江戸へと逃げ帰る 
あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意 
会津は後ろ盾を失い 京を追われた
やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ 
倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった

「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
その猛威の前に退却を余儀なくされた

Tsurugacastle

奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
それが会津人の魂
その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
「ならぬものはならぬ」の尊い教え
よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
誰一人として想像した者はいなかった

やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図

戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷 
そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前 
息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
それこそが武士道 それこそが武士の本懐
かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った

僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
死んでいったに相違ない
悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった

Byakkotai

時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
もうひとつの悲劇があった
妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
壮絶な最期であったとされる

「なよ竹の 風にまかする身ながらも
           たわまぬ節はありとこそ聞け」

その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった

Byakko

あれから百数余年が経ち 
平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
遠い昔の出来事が現世に甦る
旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡 
柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み 
霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
しかと見届け脳裏に刻み込む

そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
今も後を絶たない 
そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
後世まで語り継がれることとなった

志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした

終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
死んでいった多くの防人たちの魂の叫び 
今もこの胸に去来して止まず
その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている

彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである


「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」

 薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である

Aizubyakko

2010年10月27日 (水)

もう一度訪れたい日本の名所

 昨日は自分が「死ぬまでに一度は訪れたい日本の名所」と題してお送りした。個人的な見解や独断で観光地を取り上げただけなのに、思いのほか反響があった。アクセス数も伸びた。今日は前置きをほどほどに、昨日の続編として、私が一度は訪れた場所で、ぜひとも再訪したい場所をテマに掲載したい。

 1位 カムイワッカ湯の滝(北海道)

 ここへは1985年に単独で訪れた。知床の西側にあり、知床五湖に向かう途中から林道に分け入り、山道の曲がりくねった尾根沿いの道を15kmほど行くと急コーナーの右手にその入り口が見える。道というより流れ落ちてくる川に入りながら険しい急勾配を上る。硫黄のためか黄土色に岩がむき出しになった浅い川。途中山の斜面をチェーンの命綱を便りに1kmほど上がると、温泉の滝壺に辿り着く。足が地に着かないそこが温泉場(湯船)である。まさに天然の露天風呂だ。観光客は半端ではなく多いが、苦労して登っただけ喜びは大きい。もうそれも25年前の出来事になったとは俄には信じ難い。しかし、ここは豪雪地帯だし、熊が出没する多発地帯でもあるので、複数で訪れた方が無難。6~9月初旬までが限界だろうと思う。

Kamuiwakka Kamuiwakka2 Kamuiwakka_2

 2位 神威岬(北海道)

 ここは、私にとっては夢を育む第一歩となった場所。北海道で初めてツーリングで訪れたのが神威岬だった。夕方近くに日本海に沈む夕陽を求めて往復1時間半の山道を往復した場所。険しい山の稜線に設けられた遊歩道だが、高低差がきつく、とてつもなく長い。体力勝負のスポットだが、行ってみる価値は十分。岬の突端には白い小さな灯台があり、その先は断崖絶壁。今でこそ柵が設けられたが、当時は何もなかった。のぞき込むと、200m先に大きな岩が海中からそそり立っている。それが神威岩である。そしてそこで見た鮮やかな夕焼けも深く心に焼き付いているが、またこの周辺の海の色は美しい。エメラルドブルーが色濃くて、濃淡がはっきりしている。この神威岬は積丹半島にあり、かつては道路が一周していなかった。それほどの難所だった。また、ぜひ訪れたい場所は、小さな隧道をくぐり抜けた先に、この世の物とは思えぬ光景が広がる「島武意海岸」、海岸沿いを歩いていくと、ミステリースポットとしても有名な、人一人がようやく通れる念仏トンネル(しかも中央部でクランク状に折れ曲がる)。そしてそれを抜けた直後に見える絶景。高さ30mはあろうかという剣を垂直に立てたような奇岩・水無立岩(残念ながら数年前に台風で真ん中より上が崩落してしまった)を目の当たりにできる。生きている間に、若き頃を懐かしんで是非再訪したい場所である。

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 3位 飛騨高山(岐阜県)

 ここへは大学3年次に、東京のキャンパスに移った際に、東芝の川崎工場に勤めていた中学時代の友人と彼が所有する車で2泊3日の旅としてドライブで訪れた。ルートは中央自動車道経由で北陸へ抜け、金沢、能登半島一周、そして上高地を抜け木曽の山間を下り、琵琶湖畔、関ヶ原合戦場、そして犬山城を巡り、最後に訪れたのが高山市内だった。まさか江戸時代を思わせる古き佳き佇まいがあるなどとはつゆ知らず、驚きだった。高山陣屋や朝市、そして保存地区の古い建物が軒を連ねるメインストリートをレンタサイクルで闊歩した。郷愁を誘い、小京都の名に恥じない古い街並みが印象的だった。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっていた。

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 4位 明治村と犬山城(愛知県)

 世間一般には人工的に作られた観光スポットがなぜ?と思うかも知れない。しかし、私にとっては思い出深い場所なのだ。それは高校合格祝いで亡き父親に連れられて訪れた場所だからだ。場所は岐阜県にほど近い愛知県北東部。春先のこの旅行では、岐阜県の美濃加茂市でまず、美濃焼きの瀬戸物茶碗を見学した。その後、日本ラインという川下りで船で愛知県まで下がった。そして犬山城を見学して一泊。川原で赤い列車である名鉄が往来する鉄橋(車と同一)を眺めながら石切り遊びをしたり、小高い丘の上に聳え立つ国宝・犬山城を訪れ、天守閣にも登った。翌日訪れたのがこの明治村で、あまり期待していなかったのに、日本全国の有名な建物を一堂に会し、それはさながらオープンセットのようだった。園内は緑豊かな広大な敷地で、足替わりのミニ機関車が場内を一周していた。明治時代を代表する建造物があちこちに点在している。例えば、国会議事堂や帝国ホテル、聖ザビエル天主堂、聖ヨハネ教会堂、森鴎外や夏目漱石の在家など歴史に名を轟かせる名所ばかりを集め、見物ができる。

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 5位 伊豆半島(河津七滝と戸田村)静岡県

 ここは1986年の9月に大学の友人と2人で単車を連ねて一周した思い出の地。河津から山岳地帯に分け入って行くと、世にも珍しい黄緑の二段重ねのループ橋に出くわす。360度近く二度にわたってグルリと廻って高低差を一気に詰めていく。そして修善寺に向かう途中に問題の七滝(だる)はある。ホテルの駐車場にバイクをとめ、急勾配の遊歩道を下りた先に大きな滝があり、その周辺はちょっとした開けた場所で、川面に温泉やら洞窟風呂まで存在する。かつてここは土用ワイド劇場で、天知茂扮する明智小五郎が黄金仮面と死闘を繰り広げた場所。城ヶ崎の門脇吊り橋も見事だが、この七滝も凄い。友人に誘われるまま洞窟風呂に入ったが、裸電球で洞窟内がすべて湯船という凄まじいロケーション。何とタオル一枚で50m奥までお湯に浸かりながら進むと、一番奥がやや広くなっていて、そこには男性だけでなく、若い女性まで入っていた。これにはビックリした。見知らぬ者同士で開放的な気分にさせてくれる場所だった。そして船風呂がある海岸でキャンプをした思い出がある。そして雲見の湯という露天風呂に入った。そしてハイライトは西伊豆。民宿「さくら」に2度泊まったことがあるが、豪勢な夕食に舌鼓。翌朝、主人に進言されて訪れた広い駐車場のある海岸線からは、駿河湾沿いに眺める富士山の全景に思わず見とれた。

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 6位 京都嵐山・嵯峨野(化野念仏寺・竹林)

念仏寺は、かつて中学時代に「土曜ワイド劇場」の番組で、女優の宇都宮雅代さんが幽霊に扮したドラマを見て、およそこの世の物とは思えない、石像が無数に庭園に立ち並び、まるで冥土の世界のような幻想世界に魅了され、一度は訪れてみたいと考えていた。高校時代の修学旅行では、京都の嵐山にある神護寺を訪れ、座禅を組んだ経験があったが、かの有名な渡月橋やその周囲にある風情豊かな古浪漫に浸られる竹林などは未知の世界であった。それから15年後と20年後の二度、或る仕事で久し振りに京都を訪れたわけだが、その際に嵐山周辺を徒歩にて散策した。まず嵯峨野の竹林を堪能した。その散策路を風流にも人力車が往復し、旅の情緒を掻き立ててくれた。竹林は嵐山電鉄の線路と踏切が横切り、青々とした竹が頭上高くに伸びており、多少暗さを感じた。でも日本人に幻滅するのが、それほど有名な竹林にもかかわらず、観光記念に、歴史遺産とも言えそうなその竹に落書きをしていく不届き者や傷を付けていく者までいたことだ。実に情けない。もしイースター島のモアイ像にそんなことして捕まれば、一生働いても返せないくらいの損害賠償を請求されると聞く。旅の恥かき捨てでは決して済まされないのだ。シンガポールでは、道路につばを吐いたり、ガムの吐き捨てをしただけでも罰金ものである。海外での無知によるマナー違反は命取りになることを肝に銘じておくべきだろう。続いて両側に古い佇まいの茶屋が連なる細い石畳の坂道をゆったりと歩き、憧れの地だった化野念仏寺の魅惑的な光景に触れた。大小様々な人の顔をした仏像や石像、夥しい数の灯籠が所狭しと敷き詰められていた。何か現世とあの世を隔てる分岐点であるかのような気配を感じ取った。その後、私は5kmほど大覚寺まで歩き、秋の京都を満喫したのだった。季節ごとに異なる顔を見せる京都は、何度訪れても飽きることがない場所である。

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 7位 袋田の滝(茨城県)

ここは我が故郷の福島県からほど近い茨城県の大子町にある、日本三名瀑のひとつに数えられる滝である。入り口は谷間に設けられた夏でも涼しいトンネルを進み、或る場所でトンネルがくり抜かれて、そこが展望台になっている。水しぶきがかかってきそうなくらいの至近距離で、話し声は音にかき消されて聞こえないほど。高さはさほどではないが、幅が半端ではないくらい広い。そして幾重にも段ががあり、スケールはただ単に高さに物を言わせている華厳の滝や那智の滝とは異なる風情を醸し出している。久慈川支流の滝川上流にあたり、長さ120m、幅73m。冬は、凍結することがある。この滝の別名「四度の滝」は、滝川が4段に岩肌を落ちることから名づけられたとされる説と、昔、この地を訪れた西行法師が「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と、この滝を絶賛したと伝えられていることから名づけられたとされる説がある。いずれのアクセスを用いたとしても、正面から滝の全景を観賞するためには、「袋田の滝トンネル」(長さ276m、高さ3m、巾員4m)を通って観瀑台へ行く必要がある。入場料は、大人300円。新観瀑台が、2008年(平成20年)9月13日午後1時にオープンした。袋田の滝トンネルの途中に新設した2機のエレベーターで、上部に上がる。3つのデッキからなり、従来の観瀑台よりも、第1デッキは約44メートル、第2デッキは約48メートル、第3デッキは約51メートル上にあるため、最上段を含めた滝の全景を観賞することが出来る。私は1986年の大学3年生の頃、東京からバイクで帰郷する際に立ち寄った。

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 8位 釧路湿原&丹頂の里(北海道)

 ここも私にとって生涯忘れ得ない場所だ。根釧台地から西側一帯に広がる18,290haもの湿地帯を釧路湿原と呼ぶ。森林に覆われた中を幾重にも川が蛇行して流れ、豊かな大自然の中に造形美を演出する。そこをカヌーで移動したり、釣りに興じる愛好家達もことのほか多い。釧路湿原は、野生生物の宝庫で、エゾシカやエゾリスはもちろん、ヒグマに出くわすこともあるし、丹頂の飛来でも有名だ。湿原の大部分はヨシスゲ湿原であるが、ミズゴケ湿原も一部あり、食中植物のモウセンゴケやコタヌキモが生育する。また、タンチョウやセゾセンニュウ、バニマシコなどの多くの鳥類の繁殖地・休息地となっている。特にタンチョウの夏季繁殖地が湿原を含む道東各地に広がっているが、冬には釧路湿原へ戻ってきて越冬する。また、日本最大の淡水魚であるイトウ(サケ科)やキタサンショウウオなどの希少な動物も多く、貴重な自然の残る領域である。私は釧路湿原展望台や塘路を訪れたが、余りにも雄大すぎて全景を収めることなど不可能だった。また、冬に丹頂鶴を求めに、マイナス20度以下の厳寒の大地を遙々と移動した時は壮絶だった。夜行列車で釧路に降り立ち、殆ど睡眠がないままバスで移動した。観測センターに到着したときは開業前だった。しかし、快晴青空で放射冷却でしんと静まりかえった広場に、やがて山里へと一羽、また一羽と優雅に飛来してくる様は、筆舌に尽くしがたいほどの衝撃と美意識を感じさせられた。そしてつがいで軽やかに踊りを披露。そして晴れた朝によく見られるダイヤモンドダストの煌めく結晶が空中をさまよう光景は、神秘以外の何物でもなかった。そして神の使い手のように甲高く鳴く声が周囲にこだまし、訪れたプロのカメラマン達は一斉にシャッターを切る。まさしくそれはTVドラマの「池中玄太80キロ」の世界観が展開されていた。この時は、ついでに網走まで足を伸ばし、強風吹き荒れる能取湖で、流氷まで見物した。北海道の2月は吐く息も凍てつきそうなくらい冷たい場所だが、時に来訪者を拒むように牙をむく天候の時期こそが、真の世界だと認識されよう。また、死ぬまでにはもう一度再訪したい場所である。

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 9位 能登半島一周(石川県)

 ここは、3位にランクインした時に訪れた場所。車での2泊3日の旅だった。金沢の兼六園を見た後、国民宿舎に宿泊し、その後能登半島を一周した。恋路海岸や禄剛崎を巡った。禄剛崎一帯には海岸段丘が発達、沿岸には千畳敷と呼ばれる海食台地が卓越しており、景観に優れる。訪れた日は快晴で、青い大海原が眼下に広がり、それはまばゆい景色だった。日本の灯台50選に選ばれし白い小さな灯台が印象的だった。大手電機メーカーに勤務する友人の「86レビン」で一周したのだが、ツーリング中のライダー達を目の当たりにし、羨ましかった。複雑に入り組んだ海岸線はドライブには最適のロケーションだった。もうそれも24年前の出来事となってしまった。

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10位 落石岬無線局跡(北海道)

 それは霧の中から突然現れた。あまりにも静寂に包まれた初夏の根釧台地の絶壁の上、ひっそりと濃霧にまぎれてポツンと建っていた。周囲は誰もいない。異様な光景とあまりの不気味悪さに思わずたじろいだ。太平洋に突き出した落石岬。台地状の岬の上は、訪れる人も少なく、殺風景の場所。そのほぼ真ん中に場にそぐわないような四角いコンクリート製の建物が佇む。その名は落石無線局跡。明治末期に作られ昭和まで使われた無線局の跡だった。コールサインJOC。その役割は、主に北太平洋を航行する船舶、北方領土との通信を担う非常に重要な施設だった。この建物は明治41年、北米航路を通る船が北海道、東北沖での航行の安全を図るために無線局として建てられた。かの有名なドイツ飛行船ツェペリン伯号の世界一周旅行や、あのリンドバーグの太平洋横断の際交信をしたり、北洋漁業の操業に活躍したが、昭和34年に根室市内に業務が移されてその役目を果たした。私にとって忘れ難い薄気味悪さの中にも宝探しゲーム的な感覚を味わえた何とも不可思議な場所である。この一帯は霧多布に近く、その名の通り、濃い霧が立ち込める神秘的な雰囲気を醸す場所である。興味のある方は一度訪れてみてほしい。私は1985年7月に訪れたが、内部はコンクリート打ちっ放しで、ガラス窓は朽ち果て、外風が中まで入り込むような廃墟とした状態だった。夏でも背筋が冷たくなるようなひんやりした感じだった。何かに憑依されないよう長居を避けた。何か心霊現象的なことが起きそうで、とても内部の写真は怖くて撮影できなかった。

Ochiishi

 以上がベスト10ということになるが、もちろんこれ以外にも納沙布岬や函館夜景(北海道)、摩文仁の丘(沖縄)も再訪したい場所である。私も日本全国色々な場所を旅したが、まだまだ行き足りない場所があるに違いない。どうしても遠い場所(四国・九州)は行く機会に恵まれない。男性の平均寿命が78歳とするならば、あと30年ちょっとで私の人生も終焉を迎える。とうの昔に峠は越えている。悔いが残らぬよう、自分が生まれ育った国ぐらい死ぬまでに隅々まで見て回りたいものだ。

 ブロガーの方々で、隠れた秘境や名所がったらこっそり教えて頂ければ幸いです。

2010年10月26日 (火)

死ぬまでに訪れたい日本の名所

 私は大学時代に北海道に住んでいた経歴があり、バイクツーリングを思う存分満喫した時期がある。旅の恥かき捨てのような真似はしたくないが、日頃の喧騒を離れ雑念を振り払う意味では、新鮮な気分に浸れる旅行は打ってつけであろう。私はバイクだけでなく、仕事でも日本全国津々浦々を旅した。しかし、新幹線で通過しただけとか、あの姫路城ですら移動途中の車窓からチラ見しただけというお粗末ぶりだ。これまで訪れたことが無いのは鳥取・島根の山陰地方、愛媛・高知・徳島などの四国、そして大分、宮崎、鹿児島の九州などで、もちろん伊豆大島を始めとする離島はまるで行った試しがない。学生時代は、同じアパートの地理学科の友人は、旧国鉄の「チャレンジ3万キロ」に挑戦していた。青春18きっぷを駆使し、各駅停車の旅を敢行し、すべての駅で下車し、プラットホームの駅名標示板で証拠の写真を撮影し、駅舎に備えつけのスタンプを押してコレクションしていた。そしてアルバムに綺麗にスナップ写真や旅の土産品を整理し、宝物にしていた。それは特異な例だとしても、せっかく日本人に生まれたからには、死ぬまでには全都道府県を制覇し、その土地の名産や名勝旧跡に触れてみたいと思う。旅番組などのテレビ映像ではお目にかかっている名所でも、実際訪れれば違った臨場感を味わえると考えている。とりわけ私はお城を見るのが昔から好きで、よくジグソーパズルやプラモデルで製作したのもお城だった。これまでに松前城・弘前城・青葉城址・鶴ヶ城・小峰城・霞ヶ城・皇居(江戸城址)・小田原城・松本城・名古屋城・犬山城・桃山城・大阪城・姫路城(車窓)・福山城・熊本城は訪れている。また、近年はユネスコが制定する世界遺産も日本には数多く点在している。それを退職後にはゆったりした気持ちで見て周りたいと考えている。そこで今回は、手前勝手ながら、タイトルが示す通り、私が「死ぬまでに訪れたい日本の名所」と題して、行きたい順に勝手にランキング形式にしてお送りしたい。俗に言う観光名所と異なるが、個人的趣味と思って勘弁願いたい。

 1位 軍艦島(長崎県端島)

Gunkanjima  1年以上前に、この島について記事を書いたことがある。30年ほど前に公共広告機構のTVCMで取り上げられ、私はこの島に特別な感情を抱いた。「島は宝島だった・・・」というナレーションで始まり、「資源とともに消えた島」で終わる、身につまされるCMだった。周囲僅か1.2kmほどの小さな島だが、地質調査で石炭が採れることが判明すると、各地から大挙して4千人が押しかけて移住。石炭採掘作業にに関わった。そして人工島の如く、その島は、コンクリートの堤防で覆われ、高層団地が立ち並び、病院や神社、学校、映画館、スーパー、理髪店などありとあらゆる生活に必要な物は揃い、ひとつの町を形成した。遠くから見ると、その島の威容はまさに軍艦のようだった。だから端島は別名「軍艦島」と呼ばれる。しかし、昭和40年代の石油にとってかわったエネルギー革命や石炭を掘り尽くした後、存在価値を失ったその島は、先を争うように離島する住民が相次ぎ、終末には無人島になった。数年前に島は風化が進み、全面的に立ち入り禁止となった。しかし、地元を中心にここを世界遺産に申請しようという機運が高まり、場にそぐわないコンクリートの船着き場が新設され、定期的にツアーによる観光船が往復し、数多くの観光客が上陸できるようになった。そうした観光客の中には、この歴史的な遺産を守る発想を持ち合わせた賢明な者たちばかりではなく、単なる興味本位や冷やかし半分の物見遊山的な輩もいるようだ。島に残された、かつて島民が使用していた物品を平気で記念品と称して持ち帰ったり、壁には上陸を記念して落書きを残したり、公共心の微塵もない連中ばかり。これでは島が泣いている。

当方のブログ記事 http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c6b2.html

公共広告機構CM http://www.youtube.com/watch?v=rnwfXH6jMUo 

 2位 鳥取砂丘(鳥取県)

Tottori_sakyu_2  山陰地方は一番縁遠い場所で、石川(能登半島一周)や福井(東尋坊)、京都までは足を伸ばしているのに何故かそこから先は縁がなかった。若狭湾や天の橋立も行ったことがない。同じ中国地方でも、瀬戸内海に面した山陽地方は交通の便も良いが、山陰は行く理由が見つからない。この鳥取砂丘は、千代川の東西に16kmに渡って広がっているが、通常「鳥取砂丘」というと、千代川の東側の545haの「浜坂砂丘」を指す。最大高低差は90mにもなり、すり鉢に似た形に大きく窪んだ「すりばち」と呼ばれる地形も有名で、特に大きなすりばち(「大すりばち」などと呼ばれる)は40mの高さにもなる。女優の田中美佐子さんの故郷・隠岐の島にも渡ってみたいが、まずは本土を制したい。沿岸を見渡す限りの砂丘が埋め尽くす幻想世界は死ぬまでに一度は目にしたい光景だ。風紋や砂が鳴く音を聞いてみたい。丘を往復するのに体力がかなり必要なので、足腰が弱る前に訪れたい場所だ。ここは30年ほど前に「土曜ワイド劇場」のロケで使われ、個人的にも衝撃を受けた場所。

 3位 出雲大社(島根県)

Izumo  ここも山陰地方で島根県にある。出雲大社をスタートとする大学駅伝で有名な場所だ。出雲大社は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。祭神は大国主大神。康治元年(1142年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。出雲大社本殿(附 内殿、棟札) - 1900年(明治33年)4月7日重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。重要文化財は「出雲大社」 - 2004年(平成16年)7月6日指定。重要文化財「出雲大社」として、以下の社殿21棟および鳥居1基が一括指定されている。

 4位 硫黄島(東京都)

Ioutou 太平洋戦争末期、ミッドウェー海戦で大敗を喫し、劣勢に立たされる日本軍だったが、その後、多くの旧日本兵達が絶対国防圏として死守しなければならないサイパン島が陥落し、B29の飛来と本土の爆撃を許すことになる。この硫黄島は、1944年12月のレイテ攻略で、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がった上に、米陸軍も日本本土への戦略爆撃の効果から硫黄島攻略の意義を唱え、「硫黄島攻略後に沖縄上陸」という基本戦略が秋の日本本土上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃の支援のもと開始された。3月17日、激しい戦闘の後にアメリカ軍が島を制圧し、日本軍守備隊陣地の多くが壊滅した。3月21日に大本営は17日に玉砕したと発表。その後も、生き残りの日本兵からの散発的に抵抗は続き、3月26日、栗林中将(戦闘終結直前に大将へ進級)以下300名余りが最後の攻撃で壊滅し、これにより組織的戦闘は終結した。日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。この模様は「硫黄島からの手紙」という映画で見た方もいるだろう。舞台全体が壮絶な玉砕を遂げた大激戦の地にどうして私が行ってみたいのか。恐らく今も回収困難な遺骨が多数眠っていることだろう。65年前にここで生きて帰れぬことと知りながら、戦地に赴き、御国の為に立派に命を散らせた若人たち。母を思い、故郷を思い、そして日本の行く末を案じながらあの世へと旅立った兵士たち。さぞかし無念だったことだろう。「同期の桜」や「海ゆかば」を共に歌いながら、挫けぬ勇気を携えて戦場に散って行ったに相違ない。そう思うと、居た堪れない気持ちがこの身を襲う。同じ日本人としてそれを思うと、死ぬ前に一度は訪れて手を合わせて冥福を祈りたい。今夏に靖国神社を訪問し、英霊の御霊に触れ、戦争の悲惨さと平和の有り難みを身に染みて感じとった。今の日本の平和は多くの戦死者たちの犠牲の上に成り立っていることを決して忘れてはならない。

 5位 白川郷(岐阜県)

 ご存知合掌造りで有名な飛騨の里である。昔の日本の風景がそのままの姿で残されている保存地区で、世界遺産にも登録された。長閑な日本の故郷を彷彿させる村である。私は岐阜県の高山と美濃加茂しか訪れたことがないので、是非一度この目に焼き付けておきたい風景だと思っている。福島県の下郷にも同じような佇まいを見せる大内宿という茅葺き屋根の民家が連なる宿場通りが実在するが、この白川郷は世界遺産。格が違うようだ。奥深い山中にあるらしく、ぜひ夏と冬の2回訪れたい場所だ。おそらく異なる表情を見せてくれるに違いない。

Shirakawagou

 6位 倉敷市美観地区(岡山県)

Kurashiki  岡山県倉敷市にある国指定の伝統的建造物群保存地区。江戸時代初期の寛永19年、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残しており、1979年に県内2件目となる重要伝統的建造物保存地区に選定されている。また、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。私はこの場所はテレビドラマ「同窓会へようこそ~遅すぎた帰郷」でこの町並みがロケで使われ、江戸時代の風情を感じられる場所として好きになった。確か豊川悦司と加藤あい、風吹じゅんが出演していた悲しい純愛ストーリーだった。千葉県の佐原市もここと似た江戸時代の影を落とす保存地区がある。古の歴史浪漫に触れられる数少ない場所かもしれない。

 7位 錦帯橋(山口県)

 かつて壮大なスケールのCM(違いのわかる男のネスカフェ)で使われた場所。幾重にもアーチ状に連なり、その様は訪れた人を圧倒するほど壮観である。山口県岩国市の錦川に架橋された木造のアーチ橋である。日本三名橋に数えられており、1922年に名勝に指定されている。5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、継手や仕口といった組木の技術によって造られている。杭州の西湖にある「錦帯橋」をモデルにして1673年に架橋された。

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 8位 長崎の街並み(長崎県)

 長崎と言えば異国情緒に溢れ、古くから諸外国との交易で栄えた街と言って過言ではない。外国の圧力に負け、鎖国を撤廃し、この地の出島に港を開いたのが発端で、西洋の文化の流入と共に、街もオランダの風情や香りが漂う街と変貌して行った。眼鏡橋、オランダ坂、グラバー邸、大浦天主堂、平和祈念公園の像、ハウステンボス、そして夜景。食べ物は長崎ちゃんぽんか?名所にはことかかない。我が福島県では、直通便は飛んでいないが、福島空港開港以降、高校の修学旅行で行く機会が増えているようだ。九州は遠方であるため、なかなか行く機会はない。逆に沖縄にはすべて仕事で3回足を運んでいるが、九州上陸は、2001年の夏に福島空港からJALで福岡空港へ飛び、その後熊本に行って以来訪れていない。夜でも物凄く暑かったことと、そして路面電車に乗ったこと、黒塗りの熊本城の威容だけが脳裏に残っている。一度でいいから五島列島でグレ釣りを楽しんでみたい。また、ここは広島市と同様、第二次世界大戦末期に悲劇の象徴として我々の記憶に留めておかなければならない世界的な都市である。原爆で犠牲になった方々を尊び、平和を祈念し、その象徴としていつまでも後世に語り継ぐ責務を我々は負っている。

Ohura Heiwakinenzou Orandazaka

 9位 佐多岬

 断崖絶壁にそそり立つ草原に放牧される馬や牛の群れ。何か牧歌的な風景をイメージする。大隅海峡に面する岬で北緯30度59分10秒、東経130度39分42秒。大隅半島のみならず、九州本島の最南端にあたる。霧島屋久国立公園に含まれる。岬の東方に枇榔島(びろうじま)が、岬から岩礁を隔てて南方100mに大輪島(おおわじま)が浮かぶ。岬の背後に控える山塊は御崎山あるいは蘇鉄山と呼ばれており山腹に御崎神社がある。また岬の展望台からは、天候によっては宇宙センターのある、鉄砲伝来で有名な種子島・馬毛島・世界遺産の縄文杉のある屋久島や三島村の島々、薩摩半島南部の開聞岳などを望むことができる風光明媚な場所。私は、出が会津なので、かつては歴史認識から薩長憎しで山口県と鹿児島県に足を踏み入れたことはなかった。今はその呪縛から解き放たれ、日本全国を旅したい衝動に駆られている。鹿児島は噴煙降り注ぐ桜島や指宿や湯布院などの温泉も多々あり、いずれ温泉めぐりもしてみたい。

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10位 桂浜

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の影響ではない。土佐藩も我が会津藩にとっては積年の敵(かたき)であり、坂本龍馬は時代の寵児にはなっているが、会津藩から見れば薩長の仲を取り持った許し難き人物ということになる。しかし、そうした思いも今は私の中には無くなった。今は、日本史に登場する歴史上の人物の功罪について、より理解を深めたい思いでいっぱいである。桂浜は、坂本龍馬の生まれ故郷、土佐にあって、彼が志を培った要地である。高知市浦戸に位置し、太平洋に臨む海岸。土佐民用「良よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。

Katsurahama  

次点 那智の滝&熊野古道

 紀州・和歌山を代表する場所である。和歌山は行ったことがない。高校時代の修学旅行で奈良県境の多武峰に宿泊したことがある。日本三大名瀑のひとつ那智の滝がある。私は華厳の滝と袋田の滝はしかと見届けたので、ここを見れば制覇となる。また、最近は世界遺産に選ばれた熊野古道が有名。熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。

Kumanokodu

 日本全国名称旧跡は数あれど、まだまだ未知の物が多くある。鉄腕DASHのソーラーカーの旅や「いい旅夢気分」などの旅番組も大いに参考になった。今、実行したいのが、以前このブログで「日本三大思考」という記事を書いたが、その完全制覇。例えば日本三大名城(姫路城・大阪城・熊本城)、日本三景(松島・天橋立・安芸の宮島)、日本三庭園(偕楽園・兼六園・後楽園)、前述した日本三名瀑など。いずれもどれかひとつ欠けている。そして自分だけの隠れた秘境というのも探し出したい。日本列島の8割以上を占める山岳地帯にあって、探せば前人未踏の未開発の地や絶景もあるだろうし、また島国日本では、無人島も数え切れないくらい点在している。それを自分の足で歩き回りたい。佐渡島や淡路島だってまだ訪れたことがないし、小豆島、隠岐の島、奥尻島、焼尻&天売島、礼文島&利尻島も未知の土地だ。また、最近話題の兵庫県にある神秘の山城・竹田城もまた然り。そう考えると退職後の生活が楽しくなってくる。あと14年で60歳。健康に留意しながら、この先の生活を大事に生きていかなければならない。

 明日はこの続編と言うことで、これまでに訪れたことがある場所で、もう一度訪れたい名所を紹介したいと思う。 

2010年10月23日 (土)

この秋おすすめの福島の地酒

 10月下旬だというのに、まだまだ平均気温からみれば温かい毎日で、今日も秋晴れで気温がぐんぐん上がり、過ごしやすい一日だった。寒さが大の苦手な自分にとっては、厄介な季節になるが、ここ3年間スキーに一度も行っていない身からすれば、冬はうっとうしい以外の何物でもない。しかし、この季節から忘年会シーズンの師走に向けて、酒を飲む機会が増えるし、新米が出回るこの時期は鍋を囲んで一杯というのも乙なものだ。とりわけ日本酒に目が無い私には、この秋は堪えられない季節だ。そこで今日は手短かながら、先に福島県酒造組合が発表した「平成22年県秋季鑑評会」で入賞を果たした、この秋お勧めの日本酒(地酒)を掲載したい。今年は、冬に仕込み、夏を越した吟醸酒84点、純米酒60点、県オリジナルの吟醸酒用酵母「うつくしま煌酵母」を使った19点が出品され、44銘柄が見事入賞を果たした。「香り」「味」「香味の調和」などが念入りにチェックされ、選ばれた逸品揃いである。では入賞作品を見てみたい。

 <吟醸酒部門>

 精米歩合(コメの外側を削ること)は60%以下の米を使い、低音でゆっくりと発酵させるなど特別に吟味して醸造された酒。果物の様な香りが特徴。

 県知事賞・・・名倉山酒造株式会社 名倉山

 金 賞

(資) 吉の川酒造店 会津吉の川

東日本酒造協同組合 奥の松
鶴乃江酒造株式会社 会津中将
有限会社金水晶酒造店 金水晶

渡部謙一 開當男山

(有)渡辺酒造本店 雪小町

(名)四家酒造店 又兵衛

豊國酒造(資) 古殿町 東豊国

(有)仁井田本家 穏

末廣酒造(株) 博士蔵 玄宰

佐藤酒造(株) 三春駒

末廣酒造(株) 嘉永蔵 玄宰

國権酒造(株) 國権

笹の川酒造(株) 笹の川

山口(名) 会州一

(資) 白井酒造店 萬代芳

ほまれ酒造(株) 会津ほまれ

(資) 大和川酒造店 大和川

(資)辰泉酒造 京の華

たに川酒造 (株) さかみずき
(有) 玄葉本店 あぶくま

(資)稲川酒造店 稲川

榮川酒造(株) 榮四郎

人気酒造(株) 人気一


 <純米酒部門>

 米、米麹を原料にして製造された清酒で、香味、色沢が良好なもの。一般に吟醸酒や本醸造に比べて濃厚な味わいで、蔵ごとの個性が強いと言われている。

 県知事賞・・・渡部謙一 開當男山

 金 賞

東日本酒造(協) 奥の松
(資)吉の川酒造店 会津吉の川
ほまれ酒造(株) 会津ほまれ
鶴乃江酒造(株) 会津中将
(名)四家酒造店 又兵衛
豊国酒造(資)坂下町 夫婦さくら
(有)渡辺酒造本店 雪小町
名倉山酒造(株) 善き哉
笹の川酒造(株) 山桜
(資)辰泉酒造 京の華
國権酒造(株) 國権夢の香
(資)稲川酒造店 七重郎
会津酒造(株) 會津
小原酒造(株) 蔵粋
(有)仁井田本家 山廃燗誂

 <煌酵母部門>

 県知事賞・・・夢心酒造(株) 夢心 
 
 金賞
(資)稲川酒造店 七重郎

山口(名) 会州一

県知事賞の酒(左から名倉山(吟醸)、開當男山(純米酒)、夢心(煌酵母)
Nagurayama Otokoyama Yumegokoro
 
 さて、あなたはどれだけの銘柄を知っていましたか?ここ3年、全国新酒鑑評会で、日本一の金賞受賞数を誇る我が福島県は、米どころ、酒どころの揺るぎない地位を確立し、それは全国に誇れる名物になった。清冽な水と豊かな風土に育まれた地酒を心ゆくまで味わって頂きたい。「飛露喜」や「大七」だけが福島県の地酒ではない。あなたの舌に合う酒こそが一番おいしいお酒である筈だ。秋の夜長、自分だけの酒の肴をお共にゆったりした時の流れに身を委ね、「日本人に生まれて良かった~」と実感するためにもこだわりのある日本酒をとことん味わいたいものだ。

2010年10月16日 (土)

ドキュメンタリー46歳の挑戦~夏スク結果&科目試験編~

 3連休明けの10月12日(火)に我が大学から、夏休みのスクーリングの結果通知が届いた。専門科目2科目を受講し、一日も一時限も欠席することなく出席したものの、やはり学問内容がハイレベルすぎてやや不安があった。最終日のテストでは、まず、持ち込み可の「マスコミ論」だったが、前置きが長くなりすぎて、残り15分になってようやく本題へ入ったが、前振りでスペースがないくらい書いてしまい、核心に触れられぬままだらだらと書き過ぎてしまった。字数は十分すぎるほど足りていたが、やや消化不良で要求されたテーマについての解答が少なくなってしまった。この辺りの不安が的中し、やはり結果は最高評価には至らず準評価に甘んじてしまった。やれやれだ。大体この辺は予想が付いた。そして私が好きな「日本政治史」はというと、持ち込みは不可だったが、出題の意図に沿って、自分なりに答案メイクをして自信はあった。しかもその二日前、唯一の休日は静養に充てず、わざわざ地下鉄を乗り継いで両国まで出向き、大江戸博物館と九段下の靖国神社にまで行って戦争に関する研鑽を積んだ。それが奏功したのか、単位修得が厳しいと言われるT教授のその科目については最高評価を頂いた。結局7泊8日のスクーリングの期間、Wで完璧な評価は取れなかったものの、偏差値難度70を超えるK大において、まずまずの好成績だったと言わねばなるまい。このところ7月の科目試験では、専門科目で最低評価が付いたり、レポートにおいても初の「再提出」を余儀なくされるなど、早くも「働きながら学ぶ」ことに限界を感じていたし、自信を失いかけていた。しかし、今回の知らせに、少しはまたやる気が出て来た。現役学生の頃は、自慢ではないが、私自身の成績は殆どが「A」だったし、3年生終了時には卒業に必要な単位数をほぼ修得していた。4年時には一部の特別履修の科目と卒論だけの状態であった。したがって、単位を落とすことは皆無だったため、そうした事態が「どれほどキツイか?」など考えたこともなかった。こうした苦難の道は或る程度予想していたことだが、やってみるとなかなか時間を取れず四苦八苦である。学士入学者ほど甘く見て、中退する例が多いことを身を持って悟らされた。されどこれも人生経験。天下のK大において、何の試練もなく平穏無事に単位を積み上げて行けるほど甘くはないだろう。逆にそうであるなら拍子抜けだろうし遣り甲斐も出ない。こうした紆余曲折を体験しながら、徐々に慣れて行きたいと思う。ただ「落ち癖」だけは身につかないよう心がけて行きたい。まだ入学して半年。今のところ必修の英語2科目とスクーリングの2科目の計8単位しか修得出来ていない。最高評価と準評価が2科目ずつなので悔しい面もあるが、先が長いことを考えれば、これでも納得したほうが良いのかもしれない。

 さて、今日16日(土)は、科目試験の為、車にて仙台までの往復を予定していた。ETC割引で片道1,000円、往復2,000円で行けるのは有り難い。11時半に自宅を出て、郡山ICから東北自動車道下りで仙台宮城ICまで。7月の出張では、平日の通勤割引の時間帯で二本松ICからほぼ同区間を往復しているので、時間も読めた。通常は片道3,050円で往復6,100円のところ、2,000円(4,100引き)で事足りるのは大きい。距離も自宅から試験会場近くの駐車場までは130km程度だった。試験は14時30分からだった。本当は2科目受験で申し込んだのだが、2つ目の「民法総論」は一切勉強していないため、残念ながら今回は受験を取り止めることにした。こんなことなら7月に「日本法制史Ⅰ」を受験しないで英語を先に片付けておけば良かった。実は前回同様、英語はテキストをすべて読めず、全体の10分の1程度しか英文を読んでいなかった。それでも長文の「英語Ⅲ」のテストは何とかやり過ごし、最高評価を取得したので、今回も何とかなるだろうと甘く見てしまっていた。だが、試験の僅か4日前の10月12日に、「ニフティ」でやっている学友会の科目試験に関するスレを読むと、私が受験する「英語Ⅶ」は「英語Ⅲ」よりもかなり難しく、テキストをしっかり読みこなしていないと単位取得は厳しいと書いてあった。急に不安になった。テキストは1回も通して読んでいなかったので、翌13日からたった2日間で、集中して何と78ページ分の英文をザッと通し読みし、内容の概要を把握した。ひょっとしてもう少しじっくりと時間をかけて読まないと太刀打ちできないのかもしれない。7月に受験した同じ長文の「英語Ⅲ」はテキスト部分は半分程度で、時事問題に関する平易な英文を読み、それを訳したり、Q&Aがあったりしただけだった。今回はじっくりと精読していないと一筋縄ではいかない科目なのかもしれない。最悪の場合、仙台往復は単なるガソリンの無駄遣いか試験問題の下見に行っただけで終わってしまう危惧さえ抱いてしまった。

 では今日の動向を見てみよう。今年は仕事で2回仙台に往復しているので、これで3回目だ。まず6時半過ぎに起床。出発まで意味不明の英単語を書き出したプリント11枚(270個余り)の復習を行った。歳のせいかなかなか覚えられない。11時半に自宅を出て、11時38分に郡山ICから高速に乗り、11時42分に本宮IC、11時48分二本松IC(19℃)、11時57分に福島西IC、12時3分に飯坂ICへ。ここまで25分。するとその反対車線で覆面パト(白のアスリート?)が路肩に停車していた。どうやら単車が捕まったようだった。12時9分に国見IC、そして国見SAに12時12分に入ったが、昼時とあって大混雑。せっかくここで昼ご飯として毎回食べている「豚汁定食」を食べようと勇んでいたのに、「Highway Walker」だけを貰って、再発進。12時19分白石蔵王、12時36分村田ICを通過。そして次の菅生PAに12時40分に入った。ここもレストランは満杯。しかたなく腹ごしらえに表のプレハブの売店で、鯛焼きを4個(小豆あんとクリ―ム・600円)とついでにペット茶を150円で購入し、車内で走行中に平らげた。すると体中に鯛やきのカスが散らかってしまった。今回もGPSレーダーがことごとくオービスを回避してくれた。そして、調子に乗って飛ばしていたら、いきなり降りる予定の仙台宮城ICの看板が・・・。うっかり通り過ぎるところだった。12時54分に到達し、ここで高速を下りた。7月の出張でも通った市街地へ向かう一般道に合流。するとその先の笹山トンネルが大渋滞。超ノロノロ&停車もあり、2,000mを超えるトンネルを抜けるのに通常の10倍以上の20分以上かかった。トンネル内の国土交通省のラジオによれば、原因はトンネル出口付近で事故があった模様。丁度その脇を通り抜けた。どうやら追突事故で、まさに現場検証中だった。やはり1時間以上の余裕を見て良かった。そしてトンネルを抜けた後、2つ目の信号を右折。Yahoo!地図で下調べした通りの道順で試験会場近くのPへ。予定していたタワー駐車場を探すが、どうも休みのようで係員もいない。しかし、この周辺にはやたら多くの駐車場が点在していた。この辺は20分100円の所が多かった。現場周辺を安い表示の看板を探して二周ほどぐるぐる周回した。結局七十七銀行の隣りの平地の「ダイヤパーク」に止めた。13時28分着。

Dvc00275  試験開始は14時30分からだったので、余裕だった。そして徒歩で試験会場の「戦災復興記念館」へ。13時40分に会場入り。ポカポカ陽気で汗ばむほどだった。何か7月の科目試験の会場だった福島テルサに似ている造りだった。エレベーターで4Fへ。まず受験生控室に行くが、誰も無口で黙々とテキストやノートに目を通していた。狭苦しくて居づらくなって、すぐにロビーのベンチへ。そこで復習していた。隣りに70歳過ぎのおじいさんもテキストを読んで勉強していた。ので私から声を掛けた。すると彼は仙台市在住の方で、通信教育を初めて4年目だそうだ。文学部の哲学系の学科に籍を置き、入学した動機は「やはりK大に憧れて」ということらしい。私も似たようなものだ。そして、やはり最初に英語で躓き、大分苦しんだようで、スクーリングでも単位を取れないことがあったという。私が今年4月に入学して、7月の試験で英語2科目の単位を早々と取得したことを告げると、たいそう驚いていた。やはりレポートが再提出になったことも何度もあるそうだ。皆、そうやって苦労して勉強している事を知り、挫けて折れそうになっていた私の心を癒してくれた。そして14時に、前の時間の試験が終わり、試験会場に入室した。右端の前から5~6番目のテーブルと椅子に陣取った。試験教室まで福島テルサにそっくり。縦に3列×10列ほどのテーブルが設置された会議室のようなところだった。そこで最後の悪足掻きとばかり英単語に目を通した。ほどなく問題が配られ、14時30分から試験が開始された。問題はB4判の表だけの印刷で、パラッとしていた。この3日間で78ページ分の英文に目を通していたが、内容理解はおぼつかない状態だった。開始の合図とともに、問題用紙を裏返して問題を見て最初ドキッとした。極度の緊張と焦りとが絡み合い頭が真っ白になった。戸惑いを感じたまま時間だけが無駄に過ぎる。周囲ではいきなり鉛筆をカリカリ叩く音がする。しかし、ペン書きのため、幾つか解答欄を間違えながら何とか10分程で平常心を取り戻し、出題数10問程度の問題に取り組んだ。英文自体はテキストの内容そのままで、どこからか抜粋した20行程度の分量。そこに訳が3問程度、指示語が指すものを文中から抜き出して書いたり、下線部を説明したり、択一式は一切なく、すべて記述問題だった。せっかく覚えた難しい単語はほとんど出題されず、平易な英文を出題文に取り上げていた。最後は冷静に確認まで行い、何とか全問をそれらしい答えでまとめた。そして何回か見直しをし、訂正をした後、試験開始から38分後の15時8分に手を挙げ、係員に提出して退室した。思ったより書けてほっとした。恐らく、単位不認定はないだろうが、「A」を取れたかと言うと怪しい・・・。レポート課題やテキストの注にもないような、それこそ模範解答例がない問題だっただけに、正答は何かも確認できず、あまり自信はない。

Dvc00273  そして当初の予定通り、今回はこの1科目の試験で終了。次の「民法総論」は、試験問題の出題傾向を把握するだけでも今回受験しておけば、次回に繋がるので良かったのだが、なぜかそのまま帰ることを選んだ。試験会場のドアの写メを証拠写真として撮影し、エレベーターを降りて外に出た所でも、今回試験会場となった「戦災復興記念館」の建物を西日を気にしながら撮影。そして温かい小春日和の中、駐車場へ戻る。メモもそこそこに発進。すると15時18分に退庫したのに800円。2時間も駐車場に滞在しなかったのにおかしい。20分100円という表示なので、600円の筈。ぼったくりか?そして帰りは素早かった。仙台宮城ICに15時27分合流。もちろんETC通過。15時34分にループコイルを通過。念のため減速して100km/h以下の安全速度にて通過。村田JCTを15時37分、白石蔵王を15時45分に素通り。先行する黒のワゴン車が妨害して追い越し車線を90km/h台で走り、その後ろが大渋滞。「空気を読めないドライバーだった」。その後、国見SAに15時55分に到達した。女性用トイレは長蛇の列。しかし、食堂はそうでもない。早速、昼に食べそびれた豚汁定食(590円)を食券(193番)で頼み、5分程で声がかかった。そして食べていたら、外が見渡せる横一列のカウンターテーブルで、なぜかカップルが俺のすぐ横に割って入って来た。他はガラガラなのに・・・ムッとしながら一気に食べた。そして、ついでに土産用に鐘崎の笹かま9個入りを1,050円で購入。16時8分にSAを出発した。国見ICを16時12分、飯坂ICを16時17分、福島西ICを16時3分と順調に通過。この辺は溜まり易いのか雲が多くなっていた。明日は雨?二本松ICは16時33分、本宮ICが16時39分、そして郡山ICで高速を降りたのが16時43分だった。もちろん帰りの高速も1,000円だった。そして自宅に辿り着いたのは16時47分のことだった。往路のトリップを確認し忘れたが、往復は全行程250.2kmだった。何と11時半に自宅を出て、仙台まで往復して試験を受けて来ても約5時間後には戻っているという早業だった。駐車場が飲み屋街や歓楽街の国分町だったが、遊んで帰ろうという気は全然湧かなかった。下の写真は帰路の国見ICで食べた「豚汁定食(590円)」。東北自動車道走行時は必ず食べることにしている。安いがこれで十分腹いっぱいになる。往路が600円の鯛焼き4個と味気なかったが、それよりも安いのが嬉しい。もちろん、これで家での夕食はカットとなった。

Dvc00272

 自宅で英語のテキストを確認し、出題された英文をチェックした。ケアレスミスが何個か見つかった。単位認定はたぶん大丈夫だが、やはり「A」を取るのは厳しそう。あとは採点者の受け取り方次第かもしれない。最後に、最近はなぜかイライラするようなついていないような事ばかり続く。今日も通信教育用のクリアファイルを落として割ってしまった。

 本日の科目試験でかかった費用

 高速代(郡山IC~仙台宮城IC往復) 2,000円
 鯛焼き&ペット茶              750円
 駐車場代                   800円
 豚汁&土産代(笹かま)        1,640円   
                     合計5,190円+ガソリン代

 

2010年10月 8日 (金)

一番打者の条件と役割

 「プロ野球ウィーク」の最終日。今年のペナントレースを振り返ると、巨人の戦い方はちぐはぐだった。打順が安定せず、投手はゴンザレスを始めとして火の車状態。特に先発陣の崩壊がV4を達成できなかった最たる要因。それぞれが自分の立場や役割を認識していないし、持ち場で実力を発揮できないままシーズンを終えたような感じだ。そんな中、別格と思えるほどの活躍を示したのは、ラミレスの3割・48本塁打・127打点と捕手である阿部の44本塁打は往年の野村や田淵を彷彿させるスラッガーの雰囲気を十分醸し出している。及第点はこの2人と脇谷選手のセ・リーグ新記録となる連続試合安打の達成くらい。怪我さえなければ盗塁王も余裕だった俊足・松本のシーズン途中での戦線離脱も痛かったし、守護神クルーンのノーコンぶりも致命傷となった。来週にもCSが始まるが、甲子園開催が濃厚なことを考えれば、巨人の日本一の可能性はかなり低いと見るのが常識っぽくなって来た。私は、ファンには申し訳ないと思いつつ一番打者の坂本勇人選手が一番の元凶だったと見ている。彼が一番打者としての役割をきっちり果たしていれば、先取点を奪い、有利にゲームメイキングできたと思う。先頭打者の役目は、イチローを見れば手本となるように、叩きつけての内野安打でヒット数を稼いだり、例えボテボテでも打球のコースが良ければ自慢の脚で出塁したりもできる。また、選球眼よろしく四球を選び塁に出て、相手投手を撹乱してプレッシャーをかけるなど、敵が嫌がるようなことを敢えて仕掛けるのが役目であろう。そして隙あらば二盗を虎視眈々と狙い、進塁することにある。まず、彼本人のモチベーションと彼を1番で使い続けたベンチに猛省を促すために、10月8日現在の、今年の坂本の成績を振り返ってみたい。(順位はセ・リーグ)

 <坂本選手の今シーズンの成績 10/8現在>

出場試合数 144           四球数  47(16位)
打数      609           死球数   3
安打数    171(9位)       塁打数 307(4位)
本塁打数    31(7位)       得点数 106(1位)
打点数     85(12位)      盗塁数  14(10位)                 
打率     .281(23位)       失策数    21(1位)
出塁率   .332(24位)      三振数  83(13位)

 1番打者で打点85なんてあまり聞いたことが無い。1番打者はランナーを還すのが役目ではなく、自身がホームベースを踏むのが仕事である。つまり安打数と四球の数、更には得点数、盗塁数が多く、出塁率が高い成績を挙げた選手が適任と言うことができる。合格点はリーグ1位だった得点数だけだ。あとはどこからどう見ても中軸打者としての戦績だった。今年、1番打者で活躍した他の選手達と比較してみればその差は歴然。

      安打数  打率  本塁打数 塁打数 得点数 盗塁数 四死球 出塁率
マートン  214  .349   17    306  105   11    50  .395 
青木    207  .358   14    295   91   19    81  .435
西岡    206  .346   11    287  121   22    83  .423   
田中     193  .335    5    240   88   34    74  .408
梵     169   .303   13     248     81   43    57  .366   
内川    182   .315     9    253   75     1         53  .371
片岡    170   .296   13     250  100   59    48  .347
川崎    190   .316     4    239      74    30     50  .368
坂口    172   .308     5    238   84    12    56  .371
荒木    170   .294    3    218   65   20     40  .339 
聖澤    150   .290    6    201   72   24    35  .335

 坂本は他チームの一番打者と比較すると、打率と出塁率が最低だったことがわかる。大きいのを狙って振りまわし、ボールの下を叩き、フライを打ち上げて凡打で終わるケースがやたらと多かったのは数字を見れば一目瞭然。そしてヤクルト青木の出塁率と比べると1割以上も低い。その差は四死球で、その数は西岡の約半分しかない。結論を言ってしまうと2割8分そこそこの1番打者では使い物にならない。そして三振の数は坂本は83個。つまり3試合で2個の計算。これは1番打者ではありえない多さである。内川は51個、青木は61個、マートンは68個だった。ことイチローに関しては、オリックス時代の9年間でもっも三振が多かったシーズンでも57個しかない。しかも1998年には、135試合フル出場しながら35個という少なさだ。つまり4試合にようやく1個というペース。いかにバットコントロールに優れ、ミートが抜群に上手かったかが見て取れるだろう。

 ではここで歴代のトップバッターだった選手を振り返りたい。これまで私が生きて来た中で、知っている一番打者で、手本として貰いたい選手を通算成績で紹介したい。是非参考にして欲しい。(順不同)

               安打数  打率  四死球 塁打数 盗塁数 出塁率 得点数  
 1 イチロー(B型)   3522 .339  947    4803  582  .392  1705
 2 福本豊(B型)      2543 .291  1277  3846 1065  .379  1656 
 3 島田誠(B型)   1504   .279  624  2074  352   .352   792
 4 柴田勲(A型)   2018  .267  954  3029  579   .347  1223 
 5 高橋慶彦(O型)  1826  .280  529  2709  477   .333  1003
 6 若松勉(B型)   2173  .319  638  3274  151   .378  1015
 7 松本匡史(O型)   902  .278  315  1153   343   .341   496 
 8 大石大二郎(A型)1824  .274  772  2675  415   .347  1116
 9 飯田哲也(AB型) 1248  .273  370  1650  234   .326   648
10 平野謙(A型)   1551  .273  368  2030  230   .316   712
11 松井稼頭央(O型)2038  .296  586  3120  407   .343  1085 
12 石井琢朗(B型)   2355  .282  983  3117  357   .356  1270 
13 野村謙二郎(B型)2020  .285  628  2934  250   .340   935
14 赤星憲広(A型)  1276  .295  488  1474  381   .365   698
15 佐々木誠(A型)   1599  .277  447  2436  242   .327   755
16 石毛宏典(B型)  1833  .283  828  2911  243   .362  1049 

 見てわかるように、一番打者は俊足が多い。歴代の一番打者を観察すると、その足の速さを活かす意味で外野手が打ってつけだと考える。近年は遊撃手が多い気がする。上に挙げた往年の選手のうち、外野手は10人。やはり「走ってなんぼ」という印象が付きまとう。巨人の一番はいろんな人が務めた。かつては与那嶺や柴田、松本や緒方、仁志、最近ではスラッガーの高橋由伸まで居座った。V9時代の巨人が強かったのは、川上監督が打線を固定化し、揺るぎない打線を築き上げたことにある。それらを各チームの監督が参考にしてチーム編成を行う傾向があったことにより、1番打者は俊足巧打の曲者ぶりを発揮する選手が配置されるようになった。また、そういう意味では1番打者は過去、B型が圧倒的に多かった気がする。上のリストだけでも、16人中7人がB型。実に44%近くも占めている。自分自身が一番大好きという自己中心的で目立ちたがり屋の性格には適任と言えるだろう。また、B型は細身で骨張っている体型がスタミナが必要な野球選手にはプラスに働くし、俊足で強肩である人が多いため、自ずと外野手か守備範囲の広い遊撃手が打ってつけという結論になる。

Fukumotoyutaka Takahashi Wakamatsu Ishigehironori

 しかしなぜ、私が毎回のように目くじらを立てて坂本の話題を取り上げるかと言うと、彼はまだ弱冠21歳だ。青森の名門光星学院を卒業し、すぐプロの道に進んだ。従って、いくらセンスはピカイチでも不断の努力を怠ってしまえば、「食うか食われるか」の厳しい世界。それが世界一に二度も輝いた日本プロ野球界であるならなおさらである。ひと度怪我や不振に陥れば、その代役は腐るほどいる。実績の無い選手に高い年俸を払い続けるほど甘い世界では到底ないことを知って貰いたい。そして21歳で完成したと思ったら大間違いで、少しでもレベルアップを求めて進化することを忘れれば、そこでそれ以上の進歩はあり得ないということも。だから前半戦は飛ぶ鳥を落とす勢いで打率トップを走っていながら、後半失速し、打撃不振に喘ぎ、「ポップフライ病」などとSakamoto罵られるのだ。終わってみれば2割8分そこそこ。並の打者である。そして、野球選手は年齢と共にプレースタイルの変化を余儀なくされることもある。今年亡くなった木村拓也選手は、元々はキャッチャーだった。あの小柄の体形で自分より数段体格に優れた選手と渡り合うには、バットを人一倍振り続けるしかなかった。汗かきべそかきしながらも走り込みを怠らなかったことにある。特に巨人は選手層が厚く、長年レギュラーポジションを死守するのは至難の技だろう。かつて上田、大森、井上、栄村、勝呂、四條など高い才能を買われて巨人に巨額の契約金で入団したにもかかわらず、その卓越した潜在能力を発揮できずに終わってしまった選手が大勢いた。現役選手でも、鳴り物入りで入団して来た割には辻内、太田はなかなか芽が出ない。このまま燻って終わってしまうことも十分考えられる。私は坂本にはそうなって欲しくない。出来れば末長く活躍できる息の長い名選手になって欲しい。だから自分が5年後、10年後にはどういうプレーヤーを目指すのかを念頭に置いて、トレーニングに励んでほしいのだ。かっこつけはいらない。彼は他の選手にはない野球センスを持っている。それに胡坐をかかないで泥まみれになって練習を頑張れば、とんでもないスター選手になれる素質を秘めている。だから基本を大事に自分の役割を考えたプレーに専念して貰いたいと考えている。一番打者は、エースや4番打者と並ぶチームの顔である。しかも一人でやるスポーツではない。それに相応しい人物かどうか、自分が何を目指し、どういうプレーヤーになりたいのかを明確にする必要がある。今年はV3で止まったが、ジャイアンツにはかつてV9時代を築いたような、強いチームを再建して欲しいと願っている。

 追 記

 本日、巨人はヤクルトと今シーズンの最終戦を戦っている。既にセ・リーグの優勝を決めた中日は人足先に全日程を終了しているが、79勝62敗引き分け3だった。1試合残していた巨人は79勝63敗1分けで、ゲーム差は0.5。もし巨人が今日勝てば、勝ち星の数で中日を上回りながら2位に甘んじることになる。これはプロ野球の順位が勝率で決まるからである。今から20年ほど前には異論が出て、引き分けはカウントせず、引き分け分の試合を別個に実施し、同じリーグでありながらチームによっては試合数が異なる事態を招いた。それは個人タイトルという面でも平等性を欠くという観点から僅か1年で是正された。私は現状のままで良いと思うのだが、球界の首領である某新聞社のオーナーがワンマンぶりを振るって、「新リーグを作るぞ」と脅しをかけたのが原因で制度が二転三転したとの噂も当時流れていた。もしJリーグのように勝ち点制度(勝ち=3点引き分け1点)を導入することになれば、今年の順位に反映すると、本日巨人が勝てば80勝63敗1分けで勝ち点が241点。中日は240点で順位が逆転することになる。この方がスッキリすると言えなくもない。今の「勝率優先原則」の現状では、引き分けが勝ちに等しくなっているのも否定しようのない事実だ。そもそも勝率計算は、勝ち数÷(試合数-引き分け数)で行う。したがって、同じ貯金数でありながら引き分け数が多いチームが勝率が高くなるのは当然なのだ。何か不公平感を感じる制度である。スポーツである以上、勝ち負けにこだわるのは当然であり、勝つことを前提にプロの選手は給料査定をして貰っている以上は、勝ち星優先という概念も必要だろう。今年はもう白黒の決着はついたので、来年以降の話題となれば幸いだ。

 追記×2

 ザックJAPANのサッカーとBSで放送の巨人最終戦を同時進行で見比べながらTV観戦。巨人は出さなければいい物を9回に1点差でクルーンを担いで同点に追い付かれる始末。やはり今年のクルーンを象徴しているかのようなゲーム展開。あと一球のところで同点タイムリーを浴び、CS進出が転がり落ち、内海の勝利投手の権利が消えた・・・。9回裏には一死満塁で長野が今日4個目の三振。やはり彼には一番は荷が重すぎたようだ。調子を落としている彼を大事な場面でそのまま使ったベンチワークの失態。私は代打を出さないと不味いと思ったら案の定の結果。するとTBSでは何と日本がアルゼンチンから初勝利をもぎ取った。長谷部のミドルシュートのこぼれ球を岡崎が蹴り込んだシーンは圧巻だった。ザッケロー二の初陣を白星で飾り、歴史を塗り替える大金星を挙げた。何か新生日本を予感させる試合展開だった。ザックマジック炸裂というところか・・・。一方の巨人は結局満塁でサヨナラのチャンスを物に出来ず延長へ。クルーン続投で先は見えた。無死一二塁とされK.O。情けない。クルーンは今年は駄目。そんなことも見抜けない巨人ベンチだったのか・・・。どうもすんなりいかず、最後までドダバタするところは今年の巨人らしい有様。結局延長10回にヤクルトに突き放され、掴みかけた2位確保&CSシリーズ東京ドーム開催の権利を逃すことになった。これで甲子園開催が決まり、巨人はクルーンの背信で3位が決定した。巨人の今シーズンの戦績は79勝64敗1分で終戦となった。

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