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2010年11月

2010年11月29日 (月)

スキーブームと冬の懐かCM集

 冬の足音が徐々に近づくにつれ、炬燵と蜜柑の恋しい季節となった。20代の頃は冬が待ち遠しかった。恐らく今頃は、新聞のスキー場のオープン情報や雪便りを毎日チェックしていたと思う。私は恥ずかしいことに、東北地方の福島県に住んでいながら、20歳まで本格的にスキーをやったことがなく、白銀に呼ばれたのは今の職に就いてからだった。大学の2年間を北海道で過ごしたにもかかわらず、ジリ貧学生だった自分は、バイクでツーリングこそ出掛けたものの、ウィンタースポーツとはおよそ無縁で、節約生活に明け暮れていた。パウダースノーパラダイスが代名詞である北海道のゲレンデをもっと闊歩すれば良かったと今更ながら後悔している。私が性根を据えてゲレンデに通い詰めたのは23歳の時で、それこそ仕事終わりにひとりでもナイタースキーに通い、我流ながらも人知れずこっそりと練習を積み、飲み友達(男女合わせて10人以上のグループ)と一緒に行く時に華麗な滑りを披露し、一躍ゲレンデのヒーローになる日を勝手に思い描いていた。しかも通っていたのは人目につきにくいマイナーなスキー場ばかり。裏磐梯、磐梯国際、塩沢、沼尻、あだたら高原、猪苗代中央ゲレンデなど。そしてグループで行く時は、猫魔や箕輪、リゾート、グランデコなど、割とお洒落なゲレンデだった。特に箕輪スキー場は、クワッドリフトのすぐ脇が滑降コースなので、上達した小回り(ウェーデルン)で格好良く滑り降りればひと際目立つ注目の的で、それは腕試しと脚光を浴びる絶好のロケーションとなっていた。

 1980年代は、バブル景気の真っただ中ということもあって、空前のスキーブームやクロカン(4WD)が街を闊歩し、世の中を席巻していた夢のような時代だった。老いも若きも田舎人も都会人もこぞってスキー場に押し掛け、リフト待ち30分以上はザラで、滑降中に人とぶつかるなんてことは日常茶飯事だった。ゲレンデはカラフルなウェアに身を包んだギャルたちが色気を振りまいていた。白銀の中では、皆可愛く見えたものである。これほどまでにスキーが流行った原因の一つは、映画「私をスキーに連れてって」の上映だった。三上博史と原田知世が織りなす冒険ラブロマンスだった。当時、映画でも主人公が「SALLOT」と称して着ていたワンピース型のウェアが飛ぶように売れた。初心者でもロシニョールやK2などの上位モデルが品切れ状態になるくらいバカ売れした。すると、めざとく郡山市内にもアルペンやヴィクトリアなど全国展開のスキーショップが進出して来た。アルペンはうねめ通り沿いの郡山5中の東側にあった(現在は中古カー用品店)し、ヴィクトリアは内環状線沿いの朝日町(ネッツトヨタの向かい側)にあった。私は両店舗に通い詰め、スキー用品の購入からチューンアップまでお願いしていた。今は、残念ながらスキーブームの衰退と共に両者とも撤退してしまった。23歳ではシーズン20回以上、FR車のソアラでゲレンデに通い、平成元年に会津若松市に転勤になってからは、それこそシーズン30回を越していた。それくらいのめり込んだ。そして25歳でバッヂテスト・スキー2級、27歳で念願の1級を取得した。毎回スキーに行く時は雰囲気を盛り上げようと、映画にも使われていたユーミンのBGMをCDやカセットでかけて流していた。もちろん「スキー天国、サーフ天国」や「BLIZZARD」、「恋人はサンタクロース」、「ロッヂで待つクリスマス」、そして「A Happy New Year」などであった。実際クリスマスや大晦日、正月、バレンタインと映画のワンシーンの様に当時付き合っていた彼女(スキー部に所属する女子大生だった)とゲレンデで過ごしたこともあった。股下くぐりやトレイン、ムカデ滑降、片足滑降なども実際にやっていた。仕舞いには、その当時は金持ちの道楽だったレーザーディスクを購入し、「私をスキー連れてって」のディスク盤まで持っていて、暇さえあればそれを繰り返し見ていた。ではまず、その名シーンとBGMを掲載し、今回のテーマに臨場感を添えたい。

Ski1 Ski2 Ski3

「スキー天国、サーフ天国」
http://www.youtube.com/watch?v=NXW2-5Iiq4o&feature=related

「恋人がサンタクロース」
http://www.youtube.com/watch?v=eGUfEx7qOkU&feature=related 

「ロッヂで待つクリスマス」
http://www.youtube.com/watch?v=4wtDXiHbNRI&feature=related

「A Happy new Year」
http://www.youtube.com/watch?v=bN2bnl7kCQ0&feature=related

「BLIZZARD」
http://www.youtube.com/watch?v=SfZXln1LQKI&feature=related

 能書きはさておき、いよいよ本題に入るが、スキー人気を煽ったり、下支えしていた物に、テレビのCMがあった。もちろん大手スキー用品販売の会社がプロモーション用に流していた物が多い。そして山形新幹線や長野新幹線の開業と合わせ、リゾート開発の波が地方に押し寄せ、続々とお洒落なスキー場が関東甲信越や東北各地にオープンしたのもこの時期だった。新幹線駅とスキー場がリンクした「GALA湯沢」やあの加山雄三までもがスキー場を創設した。トニーザイラー監修のスキー場も開業し、誘客作戦を展開していた。玉原スキーパークやザイラーバレースキー場、苗場などは首都圏からは交通至便で、週末ごとにわんさかスキーヤーが繰り出した。なかんずく、我が福島県も箕輪やグランデコ、アルツ磐梯など大規模のゲレンデがオープンした。首都圏からは深夜発着のスキーバスなどで大勢の客が押し寄せていた。私がグループや仲間と出向いたのは、羽鳥湖スキー場、箕輪、猪苗代リゾート。県外だと岩手県の安比高原や山形の蔵王にも複数回出向いた。夏にはスキードーム・ザウスにまで出掛けたこともあった。これまでにのべつまくなし総計で300回近くは訪れていると思う。しかし、家庭を持ってからは子供の面倒をみたり、40歳を過ぎて、体力的に衰えが目立ち、ギックリ腰から来る腰痛(ヘルニア)と極度の寒がりと相まって足が遠のいてしまった。ここ3シーズンは一回も訪れていない。しかも昨年は足の骨折まで経験した。おそらくこの10年でも10回も行っていない。そしてなぜか交通至便と自分の腕前に似合ったミネロ以外は行かなくなった。行ったとしても4時間券でよっぱらで、しかもリフトから降りて、下山するまでに5回は途中で止まって休憩を取らないと心肺機能が持たない。滑っているよりレストハウスで休んでいる時間のほうが長いかもしれない。実に情けない。昔のように箕輪のロングコースやリゾートのナイターでカクテル光線を浴びて滑ってみたいものだ。そして、残念なことに、昔は当たり前だったナイター営業を取り止めるスキー場が多くなった。理由は、経費削減と採算が合わないことにある。かつてのブーム時のような客の入れ込みが見込めない現状では、仕方ないのかもしれない。そして二酸化炭素の排出量削減や地球温暖化防止の観点からもやむを得ない措置のようだ。驚くなかれ福島県の中通りでは、塩沢スキー場だけとなった。20代の頃よく通い詰めた沼尻、あだたら高原、箕輪のナイターは無くなってしまった。昔は22時まで実施していたのに・・・。猪苗代スキー場や金・土曜日のミネロ、そして猪苗代リゾートは今でも実施しているようだ。

 さて、またまた余談が長くなってしまった。今日のテーマを忘れていた。今日は1980年代から90年代にかけて、否がおうにもスキー人気を盛り上げてくれたテレビCMを回顧したい。私が気に入っていた冬のCMを当ブログをご覧頂いた方にお歳暮代わりに5位まで紹介したい。(アドレスをクリックすれば「You tube」の映像をご覧になれます。)

 第1位 アルペン テーマソング「ロマンスの神様」(広瀬香美)
            「ゲレンデがとけるほど恋したい」(広瀬香美)
            「会いに来て I NEED YOU」(GO BANG'S)

Alpen Alpen2 Alpen3
   
 物語仕立てとなっていて、ショップでの出会い編から始まり、一緒にスキーに出掛け、恋人になり、愛情を深めて行くといった若者ウケしそうな内容だった。出演者も松本典子、真木蔵人、田中律子、村上淳、三浦早苗、加藤晴彦、椎名法子など。

 http://www.youtube.com/watch?v=aLSypuAi2pE
 
 http://www.youtube.com/watch?v=FZtvIFHevzk&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=VFWQkqsT4Sg&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=1_m2mjCM9Ks&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=Yf6a5SlshS4&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=AavSwSMomQg&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=g5FMwmFvm7g&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=TV0m9mzjCvQ&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=Kx6L9rJDqck&feature=related

 第2位 JR東日本 テーマソング「Choo Choo TRAIN」(ZOO)他

Jr_ski Jr_ski2 Jr_ski3

 EXILEの前身であるダンスユニット「ZOO」がノリノリの軽快なリズムでスキーへの意欲を演出したCMを盛り上げていた。思わず重い腰を上げそうな感じ。

 http://www.youtube.com/watch?v=D7ahbnO2Mb8

 http://www.youtube.com/watch?v=YUCy8b7RwNU&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=SukWM3rQBVY&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=6FXrOkpFkA8&feature=related

 第3位 JR東日本 テーマソング「DEPARTURES」(globe)

Jr_ski4 Jr_ski5 Jr_ski6

 竹野内豊と江角マキ子が共演した貴重なCMだ。

http://www.youtube.com/watch?v=cVygjkEymzc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=gnhZthhKkyU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=PDEH4uMTzLg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=I-panx1uF9M&feature=related

 第4位 JR東日本1996&1998Version 
             テーマソング「Can't Stop Fallin' in Love」(globe)
             テーマソング「Winter Again」(GLAY)

Jr_ski7 Jr_ski8

 田辺誠一編と吉川ひなの編がある。どちらも秀作。

http://www.youtube.com/watch?v=hFxWzK6jnh0&feature=related   

http://www.youtube.com/watch?v=NuBhgg8grqs&feature=related

 第5位 サッポロビール冬物語
             テーマソング「冬が始まるよ」(槇原敬之)
      「Winter's Tale~冬物語」 (高野寛&田島貴男)

Sapporo_beer Sapporo Sapporo2  

 夏川結衣、萩原聖人、田辺誠一と深津絵里がビールを通じて冬を演出する。結構笑えます!

http://www.youtube.com/watch?v=MRgcqyLG8YQ

http://www.youtube.com/watch?v=2BdvY3i-4Rg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ImqzMoSX6Yo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=UqYzhz1FD_U&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Pa5YsJAoAPY&feature=related

 
 最後は笑って貰いたかったので、面白CMを選んでみた。同年代の方で、このCMを見てまたスキーに行きたくなった人がいれば幸いに思う。私自身、今年こそは4シーズン振りにゲレンデに行きたいと考えている。若い日の自分を取り戻してみたい。近年はスキーよりボードのほうが断然多くなり、スキーでもショートスキーやカービングが増え、昔ながらの長くて太いスキーをやっているとそれだけで歳がバレそうだ。実際私は、この15年間はスキーを新調していない。未だに国産の「NISHIZAWA」のdemoモデルである。板はダイナスター、ロシニョール、ニシザワと移り、ブーツはイタリア製のテクニカ、ノルディカ、そしてサロモン、そしてまたノルディカを履いている。ビンディングはLook、チロリア、そして今もLookである。ポールはlookとチロリア製を所有している。ウェアもツーピース型3着、ワンピース型1着、デモパン型上下を1着持っていた。リフト券代や往復のガソリン代など金も使った。でもスキーを通じて想い出がたくさん出来た。友人も増えた。スキーブームに乗っかって、いろんなゲレンデを訪れては腕を磨いた。あの出来事は一生涯、自分の宝物として残って行くに違いない。今年23年振りに学生の身分に戻り、次はスキー熱を呼び覚まし若さを取り戻したいと思っている。

 最後に、ゲレンデに行きたくなるようなVTRを見て、ゲレンデへの思いを熱く高めてください。ではどうぞ!

 http://www.youtube.com/watch?v=-Cuxvk0KWNs

 http://www.youtube.com/watch?v=rk1QzIihzGU&feature=related                               

 

 記事作成:11/23(火)

   

 

 

 

 

2010年11月26日 (金)

福島県の苗字の不思議

 私はサラリーマンである。県内を隈なく転勤して歩いた経歴を持つ。北海道と東京にキャンパスを持つ大学を卒業し、地元に戻ったのが1988年(昭和63年)3月のこと。それから今の職に就くやいなや県内を方々歩かされた。須賀川、会津若松、勿来、船引、郡山と転勤を重ねた。そして、その土地で様々な方達と出逢っては懇意にして来た。福島県は我が故郷であり、かれこれ42年間住み慣れた場所である。従って、訪れない場所がないくらい、県内あちこちを歩いている。そこでふと気づくことは、その土地によって特有な名前の人がいたり、或る特定の地域でしかお目にかかれない姓があったり、場所によっては同じ苗字だらけと言う集落まで存在することである。そんな訳で、今回はタイトルが示す通り、福島県の姓(苗字)について考察したい。
 それではまず、福島県に多い苗字ベスト20から挙げてみよう。(電子電話帳「写録宝夢巣ver.8」より)

①佐藤②鈴木③渡辺④斎藤⑤遠藤⑥菅野(カンノ)⑦高橋⑧吉田⑨渡部(ワタナベ)⑩橋本

⑪阿部⑫伊藤⑬小林⑭星⑮加藤⑯五十嵐⑰松本⑱根本⑲佐久間⑳佐々木

参考HP= http://www.douseidoumei.net/07/sei01.html

 全国と上位はほぼ同じだが、田中という姓は32位、中村は53位と下位に甘んじている。念のため、全国の苗字ベスト20を列挙すると以下のようになる。

①佐藤 446662世帯  ⑪吉田  193911世帯 
②鈴木 394339世帯  ⑫山田    190224世帯
③高橋 328106世帯  ⑬佐々木 166452世帯
④田中 309340世帯  ⑭山口    149437世帯
⑤伊藤 251059世帯  ⑮松本    146787世帯
⑥山本 250495世帯  ⑯井上    141042世帯
⑦渡辺 250010世帯  ⑰木村    134699世帯
⑧中村 244921世帯  ⑱斎藤    131689世帯
⑨小林 237059世帯  ⑲ 林     124512世帯
⑩加藤 198992世帯  ⑳清水    122038世帯

 全国的には田中や山本、山田、山口、井上、木村が多いようだが、福島県はさほどではない。林は105位、清水は111位である。都道府県によって特色が顕著である。福島県は佐藤・鈴木に次いで渡辺が多いのも驚きだが、我が職場を見ても、1,000人規模いる中で、渡辺だけで100人近くいる。斎藤や遠藤も多い。

 続いて、その福島県は、日本で3番目に面積の広く、平成の大合併前は90市町村もあった。したがって、様々な集落が点在し、その土地特有の地名から派生した姓も数多く存在する。ここからは、各市町村や地区ごとに区分けして、比較的多い苗字を探ってみたい。 

福島市・・・梅宮、大波、鴫原、高荒、丹治、野地

伊達市・・・石幡(桑折)、橘内、霜山、西戸、幕田

郡山市・・・猪越(猪腰)、七海、国分、柳沼(守山)、相楽、三瓶、三本木、田母神、丹伊田、濱尾(八山田)、浜津、蛇石、御代田、宗像、宗形、舞木、森合、過足

会津若松市・・・猪俣、菅家、栗城、滝沢、坂内、星、渡部、鹿目、穴沢、棚木、生江(坂下)、二瓶

喜多方市・西会津町・・・慶徳、小荒井、小桧山(小檜山)、外島、橋谷田、物江、坂内

会津美里・南会津・只見・昭和地区・・・薄、新国、羽染、本名

金山地区・・・五ノ井、諏江、雪下、角田

只見・・・星、橘、飯塚、馬場、菅家 

須賀川市・鏡石・矢吹・西郷地区・・・円谷、味戸、有我、面川、小針、佐浦、榊枝、善方、高久田、樽川、仁井田、西間木、斑目、真船、三島木、溝井、諸根、八木沼

石川・玉川・泉崎・中島地区・・・小豆畑、車田、近内、中野目、曲山、水野谷、本柳

小野町・・・先崎

白河市・・・尾股、斎須、祓川、和知

塙町・・・下重

いわき市・・・上遠野、蛭田、緑川、折笠、馬上、根本、金成、四家、藁谷(好間)、猪狩、鵜沼、片寄、鯨岡、駒木根、鷺、下山田、菅波、大楽、高萩、新妻、比佐、馬目、柳内、矢吹、山野辺、油座

平田村・・・三本松

相馬市・・・今野、愛沢、荒、高玉

南相馬市・・・井戸川、江井、桑折、牛来、木幡、但野、門馬

浪江町・・・半谷

二本松市・本宮市・・・安斎、糠沢

田村市・・・安瀬、小石沢、箭内

飯舘地区・・・赤石沢

沢石地区・・・佐久間

葛尾地区・・・松本

船引移・中山地区・・・紺野

 さて、どうだろう。確かにその地区は、そういう苗字が多いと思えるだろう。特に長年、交通死亡無事故の記録を続けていた葛尾村は、村民の8割方は「松本」だし、三春町に隣接した沢石地区は、集落の大部分が「佐久間」である。こうした苗字は、地名に由来している。川沿いの集落では石川や川田、川島など川の付く漢字を充てる場合が多いし、苗字に田が付けば、先祖代々農家だった可能性が高い。例を挙げれば以下の通りである。

相田、青田、秋田、有田、浅田、有田、井田、生田、飯田、池田、石田、今田、岩田、上田、内田、梅田、江田、織田、太田、大和田、岡田、沖田、奥田、海江田、柏田、門田、金田、川田、神田、木田、久保田、栗田、黒田、桑田、駒田、香田、桜田、坂田、佐田、里田、真田、沢田、志田、品田、篠田、柴田、島田、下田、正田、須田、墨田、添田、曽根田、園田、多田、高田、滝田、武田、千田、塚田、土田、角田、鶴田、寺田、戸田、戸井田、富田、中田、長田、成田、仁井田、西田、新田、沼田、野田、橋谷田、羽生田、羽田、浜田、原田、久田、平田、広田、福田、藤田、本田、前田、増田、町田、松田、三田、南田、簑田、宮田、宗田、村田、森田、安田、柳田、山田、湯田、与田、米田、吉田、和田、若田、鷲田などである。

 ちなみに全国2位の鈴木は、神主がその発祥だったと言われている。詳しくは、物部氏族穂積氏の後裔、紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まったとされる。だから鈴木さんは、お堅くて真面目な人が多いのかもしれない。

 また、明治安田生命保険が加入者約611.8万人を対象に調査したところによると、
「佐藤姓は北日本に多い」「鈴木姓は関東に多い」「田中姓は関西に多い」という傾向が明らかになったそうだ。なお、姓の多い順序は、佐藤>鈴木>高橋>田中>渡辺伊藤>中村>小林>山本>加藤で、上位10位までの姓で全体の約10%を占める。また上位3姓で約4%を占める。
他の傾向は下記の通り。
 「佐藤」は青森県を除く東北地方や北海道、新潟、徳島、大分でトップを占める。
 「鈴木」は関東地方と愛知、静岡でトップを占める。
 「田中」は近畿地方を中心とした2府8県でトップを占める。
 「山本」は山陽地方や四国地方で目立つ。
 漢字一文字の姓のトップ3: 林>森>原>関>東>辻>堀>岡>南>西
 漢字三文字の姓のトップ3: 佐々木>長谷川>五十嵐>久保田>大久保>小野寺>佐久間>小笠原>宇佐美>大和田

 しかしながら、この話題は福島県民にしか納得して貰えないし、役に立たない情報である。全国の人から見れば「だから何?」と思われそうだ。先に示したアドレスをクリックして貰えれば、あなたの出身県の苗字のランキングが見れるので、話のタネに一度覗いてみたらどうだろう。意外な発見が得られるかもしれない。特にブログネタに困った時は一見の価値ありである。

 
 記事作成:11/19(金)

2010年11月19日 (金)

プロレスが熱かった頃~外国人レスラー編~

 昨日は日本人レスラーを取り上げたが、彼等とバトルを行い、時として憎まれ役や悪党になりきって日本のプロレスを盛り上げてくれた1980年代までの名レスラーたちを紹介したい。早速、選手名鑑ばりに写真とプロフを掲載するが、一部「きらく」より文言を抜粋していることを先にお断りしたい。

<記憶に残る外国人レスラー>

Taiz Destroyer Leis

ルー・テーズ

 「鉄人」の異名をとり、最強とうたわれたレスラー。得意技は「バックドロップ」、「フライング・ボディシザース・ドロップ」など。16年ミシガン州バナット生まれ。33年プロレスデビュー。39年エベレット・マーシャルを破り、NWA世界ヘビー級王者となった。戦後は47年に3度目の王者となり、王者転落後48年に4度目の王者となった。以降55年にレオ・ノメリーニに反則で敗れるまで、引き分けをはさんで936連勝を達成した。57年には初来日、力道山と2度にわたり名勝負を繰り広げた。58年にはインターナショナルヘビー級初代王者に認定されたが、力道山に王座を奪われる。64年には馬場の挑戦を退けNWAタイトルを守った。66年には来日しジャイアント馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦したが、馬場に敗れてしまった。68年に国際プロレスで来日した際も桁違いの強さを示した。グレート草津との対戦では、バックドロップで草津を失神させた。サンダー杉山にもバックドロップで、豊登はパイルドライバーで止めをさした。73年には57歳で新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木・坂口征二と「世界最強タッグ戦」を戦った。

ザ・デストロイヤー

 「白覆面の魔王」として力道山、ジャイアント馬場らと熱戦を繰り広げた人気覆面レスラー。必殺技の「足4の字固め」で日本中を熱狂させた。後年は和田アキ子、せんだみつお司会のバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にレギュラー出演するなど、コメディアンとしても活躍し、お茶の間の人気を博した。31年米国・ニューヨーク出身。大学時代からアメリカンフットボールやアマチュアレスリングで活躍。62年に覆面レスラーに転向。WWA世界ヘビー級王座を獲得、通算3度チャンピオンとなった。 63年に初来日し力道山と対戦、その後も馬場の好敵手として活躍した。72年からは全日の一員としてアブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。日本ではベビーフェイスだが米国ではヒールとして活躍、68年には黒覆面の「ドクターX」を名乗りバーン・ガニアを倒しAWA世界チャンピオンとなった。

ハーリー・レイス

 「ミスター・プロレス」と呼ばれた名レスラー。通算8回NWA王座についた。得意技は「ダイビングヘッドバット」、「インディアン・デスロック」など。43年ミズーリ州セントルイス出身。ドリー・ファンク・シニアに師事し64年にプロレスデビュー。65年ラリー・ヘニングと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。68年初来日、72年に坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦した。73年にはドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得した。同年全日本プロレスに参戦し、以降常連となり馬場、鶴田、ブッチャー、ミル・マスカラス、ディック・マードック等と戦いを繰り広げた。全日年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦にも4回出場し、84年には数度のAWA王者ニック・ボックウィンクルと「夢の帝王コンビ」を実現させた。 86年からWWF(現在のWWE)に移籍、"キング"ハーリー・レイスとして活躍、89年にはハルク・ホーガンに敗れキングの称号を手放したが、変わらぬ強さを誇っていた。

Dorryfunk Terryfunk Karl   

ドリーファンクJr.

 弟テリー・ファンクとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも大人気だったレスラー。本国でも実力世界一とうたわれ、NWA世界ヘビー級チャンピオンとして長く君臨した。得意技は「スピニング・トーホールド」、「ダブルアーム・スープレックス」など。41年インディアナ州インディアナポリス出身。63年デビュー。69年ジン・キニスキーを破り、NWA世界ヘビー級王者となった。73年ファンク道場で修業を積んだハーリー・レイスに敗れるまで4年3ヶ月にわたり王座を守った。世界王者として69年に初来日、70年にも再度来日、猪木・馬場と熱戦を演じた。弟テリーとの「ザ・ファンクス」としても71年に参戦、馬場、 猪木組からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。馬場との関係が深く、その後は全日本プロレスの常連として、ブッチャー、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディなどと名勝負を残した。ただし80年代に力が衰えてからも出場していたため、日本では実力世界一というイメージは薄い。77年には世界オープンタッグ選手権に弟テリーと組んで優勝、79年・82年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝している。

テリーファンク

 「テキサスブロンコ」の異名を持つ名レスラー。兄のドリー・ファンク・ジュニアと名タッグ「ザ・ファンクス」を組み、日本でもベビー・フェイスとして大活躍した。 人気漫画『キン肉マン』のテリーマンはテリー・ファンクがモデル。必殺技は「スピニング・トーホールド」。44年テキサス州出身。プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男。65年デビュー。75年にジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王者となった。77年にハーリー・レイスに敗れて王座を陥落した。日本では70年に初来日、71年には「ザ・ファンクス」として馬場・猪木組を破りインター・タッグ王座を獲得した。72年の全日の旗揚げシリーズに参加以降全日の常連として大活躍した。77年の世界オープンタッグ選手権ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組を退けて優勝、79年と82年にも優勝した。 凶器攻撃を繰り返すブッチャー、ザ・シーク組に対し、血みどろになりながら「テキサス魂」で勝負を挑む「ザ・ファンクス」に日本中が声援を送った。

カール・ゴッチ

 日本ではプロレスの「神様」と称される名レスラー。海外では「無冠の帝王」の異名を取る。得意技は「ジャーマン・スープレックス」や滞空時間の長い「ブレーンバスター」。24年ドイツ・ハンブルク出身とベルギー出身の2説あり。50年にプロレスデビュー、60年にアメリカへ進出、61年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得した。この頃からカール・ゴッチのリングネームを名乗った。63年から64年にルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦したが、全て引き分けに終わった。68年に日本へ移住し、日本プロレスのコーチに就任、「ゴッチ教室」を開き、猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授した。72年には新日本プロレス設立に助力、72年から74年にかけて猪木と対戦し、3勝2敗の戦績を収めている。その後フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」で藤波、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らを育成した。07年逝去。

Bucher Sheik Eric 

アブドーラ・ザ・ブッチャー

 ピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』のテーマ曲で現れ、「地獄突き」、「ヘッドバット」、「凶器攻撃」、最後は「毒針エルボー」で馬場やファンクスをはじめとする対戦相手を血に染めた「黒い呪術師」。格好もユニークで、白いブカブカのズボンに先がクルリと尖って丸まった魔法使いが履くようなブーツを纏っていた。41年(36年)カナダ・オンタリオ州出身。61年デビュー。70年初来日。開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からいきなりピンフォールを奪い、人気に。73年の全日創設以来常連として登場、、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクらと抗争を繰り広げた。77年、79年には「チャンピオン・カーニバル」でも2回優勝。また、77年から79年の「世界オープンタッグ選手権」ではザ・シークとの最凶コンビで、ファンクスとの流血戦を演じた。81年~85年は新日本プロレスで猪木ではなく、外人と死闘を演じた。87年に全日本プロレスに復帰、90年代にはベビーフェイスに転向し始め、馬場、鶴田とのタッグも実現した。

ザ・シーク

 火炎殺法や蛇を使ったりなどのパフォーマンスで人気を誇った「アラビアの怪人」。得意技は「キャメルクラッチ」。24年ミシガン州出身。名門ミシガン大学でもアメフトのスター選手として活躍した。47年プロレスデビュー。ドリー・ファンク・シニアと戦った。64年からは「デトロイトの帝王」としてプロモーターとしても手腕を発揮した。72年日本プロレスに初来日、坂口征二からUNル選手権を奪取した(翌日奪還される)。73年全日本プロレスに参戦、馬場のPWF世界ヘビー級選手権に挑戦した。77年~79年の全日本の「世界オープンタッグ選手権」にはブッチャーとの「地上最凶悪コンビ」で参加、ザ・ファンクスを凶器攻撃で血まみれにし、観客を騒然とさせた。80年以降も来日したが年齢による衰えは隠しようもなかった。

フリッツ・フォン・エリック

 アイアンクローの元祖で、「鉄の爪」と呼ばれた名レスラー。200kgを超えると言われた握力で顔面、または胃袋を握りつけるアイアンクローで人気を博した。29年テキサス州出身。54年プロレスデビュー。 63年バーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得した。66年に初来日、以降馬場とインター王座のベルトをめぐり6回も好勝負を繰り広げた。全日本プロレスにも3度来日し、馬場のPWF王座に2度挑戦している。97年逝去。

Brussy Tigerjetsin Andre 

フレッド・ブラッシー

 噛みつき攻撃で日本中を騒然とさせた「銀髪鬼」。18年ミズーリ州セントルイス出身。得意技は「ネックブリーカー」、「噛みつき」。35年プロレスデビュー。フレッド・マクダニエルとしてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど、正統派レスラーとしてならした。59年に髪を銀色に染め、噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向した。61年初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山にタイトルを奪われた。62年初来日、ブラッシーの噛みつき口撃で血まみれとなったグレート・東郷の姿をテレビで見てアメリカの老人がショック死した事件も起こった。同年アメリカで力道山からタイトルを奪回、馬場の挑戦も2度退けた。日本プロレスには通算5度来日した。72年には全日本プロレス、74年には新日本に参戦し馬場や猪木と対戦した。後年はハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すマネージャーを務めた。

タイガー・ジェット・シン

 ターバンを巻き、サーベルを振りかざす姿で有名となった新日本のリングで活躍した悪役レスラー。「インドの狂虎」と呼ばれた。地元トロントではベビーフェイスとして活躍した。44年インド出身のシーク教徒。得意技は「コブラクロー」、「凶器攻撃」など。 64年にシンガポールでデビュー、その後馬場の師匠フレッド・アトキンスに師事し、65年カナダ・トロントでデビュー。73年新日本プロレスに参戦、11月には新宿で猪木襲撃事件を起こし話題となる。この後猪木との因縁の勝負を展開する。74年には歴史に残る遺恨勝負を繰り広げた。ヒールのイメージが強いが実力も本物で、75年には猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得、76年には坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得、また上田馬之助とのタッグで坂口、小林組を破り北米タッグ王座も獲得した。81年には全日本に移籍し、再び上田とのタッグで馬場、鶴田組からインタータッグ王座を獲得している。その後はハンセンの影に隠れ、また本来のスピーディーな動きもなくなり、精彩を欠いた。

アンドレ・ザ・ジャイアント

 新日本プロレスで大活躍した身長約220cmの巨人レスラー。ただのキックやフライング・ボディプレスもその威力は驚異的だった。46年フランス・グルノーブル出身。64年パリでアンドレ・ロシモフとしてデビュー。得意技は「ジャイアント・プレス」、「人間エグゾセミサイル」、「エルボードロップ 」など。 73年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名、ベビーフェイスとしてハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハム、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアーらと対戦した。日本には70年モンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスへ参戦、74年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本で猪木らと死闘を演じた。81年には日本プロレス史上最高の外国人名勝負とうたわれるスタン・ハンセンとの死闘を演じた。ハンセンがボディスラムでアンドレを投げる姿に観客は熱狂した。87年にはアメリカでヒールに転じコスチュームも赤の両ショルダーから黒のワンショルダーに変更、レッスルマニアIIIではWWF王座を賭けハルク・ホーガンと戦い、敗れた。ホーガンがアンドレをボディスラムで投げると観客は狂喜した。翌年、雪辱している。90年に久しぶりに来日、馬場と日米大巨人タッグを結成して話題をよんだ。93年死去。

Brody Hansen Hulkhogan 

ブルーザー・ブロディ

 「キング・コング」と呼ばれ同郷のハンセンと共に新日本・全日本のマットで大暴れしたレスラー。得意技は「キングコングニードロップ」。46年ニューメキシコ州出身。アメフト出身で、NFLの「ワシントン・レッドスキンズ」を経て72年プロレスデビュー。74年スタン・ハンセンと組みUSタッグ王座を奪取した。76年WWWF入り、ブルーノ・サンマルチノやアンドレ・ザ・ジャイアントとの名勝負で名を挙げた。78年にはNWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスを破る。さらにディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」に勝利、WWAタイトルを奪取した。 79年全日本プロレスに参戦、馬場に反則負けした以外負けなしの圧倒的な強さをみせつけた。81年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取、鶴田、天龍とベルトを巡って名勝負を繰り広げた。82年には全日本に移籍したハンセンと「超獣コンビ」を結成、世界最強タッグ決定リーグ戦では優勝1回、反則負けによる準優勝2回とまさに最強タッグといわれた。85年には1年限りに終わったが新日本プロレスに移籍、猪木と7度にわたり互角に渡り合った。87年全日本に移籍、ハンセンと最初で最後の勝負を行った。88年には当時最強といわれた鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回した。しかし同年プエルトリコでナイフで刺され急死した。

スタン・ハンセン

 一撃必殺のフィニッシュ・ホールド「ウエスタン・ラリアット」で多くの選手をマットに沈めた名レスラー。新日本で猪木と多くの名勝負を繰り広げた。あまりの強さに「不沈艦」と呼ばれた。49年テキサス州出身。アメフトのボルティモア・コルツ、サンディエゴ・チャージャーズを経てファンク道場に入門、鶴田やボブ・バックランドと研鑽を積んだ。73年プロレスデビュー。76年、マジソンスクエアガーデンでWWWFチャンピオンのブルーノ・サンマルチノの首を骨折させ一躍有名となった。77年新日本プロレスに参戦、猪木からNWFヘビー級王座を獲得、以降5年間で通算9回、猪木とNWF王座を争った。81年にはアンドレ・ザ・ジャイアントと名勝負を行い、アンドレをボディスラムで投げ観客を驚かせた。ハルク・ホーガンとの強力タッグも話題となった。82年からは全日本に参戦、ブルーザー・ブロディとの「ミラクルパワーコンビ」は圧倒的な強さを誇った。83年には馬場からPWFヘビー級王座を奪取、3度防衛している。85年にはリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王者となった。86年AWAとPWFの両王座をかけてインターナショナル王座の鶴田とトリプル・タイトルマッチを行い、勝利した。90年代になっても強さは衰えず鶴田、天龍にかわり台頭してきた四天王を抑え92年と93年とチャンピオン・カーニバル2連覇を達成した。さすがにその後は衰えたが98年、99年と世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝となり最後の意地を見せた。00年引退。

ハルク・ホーガン

 右手人差し指を上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズどおり、世界最強を誇ったマッチョ系レスラー。「超人」と呼ばれた。必殺技は「ランニング・レッグ・ドロップ」とご存知「アックスボンバー」。53年フロリダ州タンパ出身。ボディビル出身でスーパースター・ビリー・グラハムに憧れプロレス入りを決意、77年プロデビュー。79年ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでデビュー、20連勝を記録した。アメコミ「超人ハルク」から、ハルク・ホーガンに改名した。日本では80年から83年に新日本の常連となり、「アックスボンバー」で相手をなぎ倒し、大人気となった。特に83年の「IWGP決勝リーグ戦」では猪木をアックスボンバーで場外に飛ばし失神させ、日本中の度肝を抜いた。93年にもWWFヘビー級王者として来日し、IWGPヘビー級王者グレート・ムタと対決した。本国アメリカでは82年には映画『ロッキー3』へ出演、人気となった。84年にはWWF王座を獲得、シンディー・ローパーとMTVに出演、人気がプロレスファン以外にも広がった。その後ホーガンのための大会「レッスルマニア」が開催され、87年のアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決には全米が熱狂した。90年にWWF王座を陥落した。90年代は王座復活と陥落を繰り返した。02年には当時の人気ナンバー1のザ・ロックと頂上決戦を演じている。06年まで現役で戦っている。

Maskarasu Nick_2 Brazil   

ミル・マスカラス

 メキシコのルチャリブレを代表する世界で最も有名な覆面レスラーの一人。華麗な空中殺法で高い人気を誇った。試合毎にマスクを変えることから「千の顔を持つ男」とも呼ばれた。日本のマットで入場テーマ曲を初めて使用した。曲はジグソーの『スカイ・ハイ』。 得意技は「ダイビングボディアタック」、「フライングクロスチョップ」など。42年生まれ。65年デビュー。71年初来日、70年後半から全日本プロレスに参戦した。77年には鶴田のUNヘビー級王座に挑戦、熱戦となりプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。81年、82年には弟のドス・カラスと組みPWF杯争奪タッグリーグ戦で優勝した。

ニック・ボックウインクル

 華麗な技でAWA王者に長く君臨した名レスラー。得意技は「足4の字固め」、「スープレックス」など。34年ミズーリ州セントルイス出身。15歳で王者ルー・テーズ相手にデビュー。70年来日、NWAタッグリーグ戦ではジョニー・クインとタッグを組み、決勝で猪木・星野組と戦った。75年バーン・ガニアを破り、AWA世界ヘビー級王座を獲得、4年8ヵ月に渡り王座を守った。その後も同王座を合計4回獲得、延べ7年以上保持した。79年にはWWF王者であったボブ・バックランドとダブルタイトルマッチも行い引き分けている。78年に全日本プロレスに登場、通算7回来日した。84年にはジャンボ鶴田戦に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を奪われている。(すぐに奪回)。87年引退。

ボボ・ブラジル

 「黒い魔神」と呼ばれた、大木金太郎と並ぶヘッドバットの名手。得意技はジャンプする頭突きの「ココバット」、「ドロップキック」など。24年ミシガン州出身。51年プロレスデビュー。 57年初来日、力道山と激闘を繰り広げた。66年にはバディ・キラー・オースチンを破り、WWA世界王座を獲得した。68年には6度の防衛を誇ってい馬場のインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。直後に奪還されるが、72年に空位となっていた同王座を「頭突き世界一決定戦」と呼ばれた大木金太郎との戦いに勝利し、再度獲得した。

 今回紹介した外国人レスラーたちは、ほんの氷山の一角で、他に印象に残っているレラーは五万といる。「人間風車」の異名を持ち、アントニオ猪木と名勝負を繰り広げたビル・ロビンソン、巨体の持ち主であるマウンテン・マイク、イラン出身のアイアンシーク、華麗で甘いマスク、「狂乱の貴公子」と呼ばれたリックフレアー、ディック・マードックなど個性的なレスラーが数多に存在していた。今回想すると、懐かしさだけが脳裏をよぎる。

<名レフェリー>

Joe Mrtakahashi Kotetsu

ジョー樋口

 今月8日にガンで逝去した元プロレスラーであり、全日本プロレスの名物元レフェリー。本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。横浜市出身。法政大学卒業。俳優の菊池隆則は息子。生前は日本プロレス、全日本プロレスでレフェリーを務め、死去するまでプロレスノア監査役、GHCタイトル管理委員長などを務めた。日本プロレスを離脱したジャイアント馬場が1972年に旗揚げした全日本プロレスに参加。以降、馬場の試合に欠かせないレフェリーとして一躍有名になる。スキンヘッドと青のコスチュームがトレードマークで、日本人のNWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所的存在でもあった。それまでのレフェリーのイメージはどちらかと言えば地味であったが、よく足を使い、試合がストップした状態でも観客を飽きさせないそのレフェリングで有名になった。試合がグラウンド状態になった際に叫ぶ言葉「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」も、実は観客を飽きさせないための工夫であった。また試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもお馴染みであった。そのためファンから絶大な支持を得て、リングアナが選手をコールしたあと「レフェリー・ジョー樋口」と宣言すると、観客が「ジョー!」と大歓声を上げるという流れができるほどであった。とりわけ1980年代前半には、乱闘に巻き込まれて失神して決着になだれこむ「ジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発した。この時期に馬場から「ジョーさん、現役の頃よりいい受け身取っているんじゃない」と言われたことがあるという。

ミスター高橋

1941年、横浜に生まれる。山本湖鉄とは幼馴染み。柔道三段、パワーリフティングヘビー級初代日本選手権者。1963年にプロレスラーに転向。アジア各地を転戦する。腕の太さは素人離れしていた。1972年、山本小鉄の勧誘でレフェリー兼外国人レスラー担当として草創期の新日本プロレスに入団。以来25年余にわたりメインレフェリーとしてアントニオ猪木らの試合を2万試合以上裁き、マッチメイカー、審判部長も務める。また、NWAの公認レフェリーだったこともある。新間寿は「ミスター高橋は大事な試合はまるで任せてもらえなかった」と発言しているが、新間が例として挙げている試合は、ほとんどが他流試合か異種格闘技戦(ルスカ・アリ戦など)で、新日本所属レフェリーだった高橋が裁く道理がないものばかりである。事実、新日本の通常の興行における大勝負はほとんど高橋が裁いている。平成に入ると、長州力の信任を受けたタイガー服部にメインレフェリーの座を譲り、1988年に現役レフェリーを引退。高校の体育教師となる。

山本小鉄

 「鬼軍曹」と呼ばれ新日本プロレスで若手の指導に活躍したレスラー。得意技はダイビング・ボディプレス。41年神奈川県横浜市出身。63年日本プロレスに入門、デビュー。67年星野勘太郎とともにアメリカ遠征に出かけ、「ヤマハブラザーズ」というタッグチームを組み活躍した。69年のワールドリーグ戦でゴリラ・モンスーンと対戦、勝利した。72年猪木と新日本プロレス旗揚げを実現、現場責任者・コーチとして活躍した。 74年に星野とのヤマハ・ブラサーズを復活、79年には国際プロレスに乗り込み、グレート草津・マイティ井上組を破ってIWA世界タッグ王座を獲得した。80年の引退後は、鬼コーチとして、また解説者・レフェリーとして活躍した。

<リングアナウンサー>

倍賞鉄夫

 プロレスの試合時、彼の「赤コーナー、250パウンド~アントニオ猪木~!」という名調子の紹介が楽しみだった。彼は、アントニオ猪木の元妻である、女優の倍賞美津子の義理の弟である。現在は2人が離婚した後も、繋がりがあり、株式会社猪木事務所(本社東京)の、代表取締役社長を務めている。残念ながら当時の画像が見あたらない。

 さて、2回に渡ってお送りした私の小中高校時代にリングを盛り上げ、時には社会現象やブームを作ったプロレス。私は亡き父親との想い出が大きいが、彼等が開発し、リングで魅せた技の数々。人間業とは思えないような空中殺法、一見地味でも相手を「ギブアップ」させる必殺技などを炸裂させる出で立ちは、少年たちのヒーローそのものだった。鍛え抜かれた鋼(はがね)の様な肉体。全国を巡業し、ほぼ毎日繰り広げられた試合。よく怪我もせずに闘えるものだと感心した。残念ながら、今は亡くなってしまった名レスラーたちも多い。改めて謹んでご冥福をお祈りすると共に、K-1人気や異種格闘技に取って代わられ、プロレスが下火になってしまった今、力道山のプロレス創世記にあったような、国民がテレビの前に釘づけになったような再び闘う男たちが脚光を浴び日が訪れることを願って今回のブログを閉じたいと思う。

2010年11月18日 (木)

プロレスが熱かった頃~日本人レスラー編~

 今は亡き父と幼少の頃、何度かプロレスを見に連れて行って貰ったことがある。郡山のセントラルホールや総合体育館、そしてわざわざいわき市にある平市民体育館まで足を伸ばしたことがあった。特に、必殺技「空手チョップの力道山」の登場から始まり、昭和40年代後半から50年代にかけての隆盛期には、テレビのゴールデンタイムを1時間フルに使い、プロレス中継をやっていた。当時のスター選手と言えば、アントニオ猪木、ジャイアント馬場を始め、坂口征二やダブルアームスープレックスが決め技のジャンボ鶴田であった。そんな彼等が身の丈を越えるほどの巨漢外人レスラーたちを痛快にやっつける日本人レスラーたちは当時の子どもたちのヒーローであった。その後、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスとアントニオ猪木が統括する新日本プロレスに分裂。日本テレビが全日本側に、テレビ朝日が新日本側と契約し、それぞれがテレビ中継を行っていた。特に古館のオーバー的な実況が話題となった新日本プロは、番組タイトルを「ワールドプロレスリング」とした。しかし、週に2回のプロレス中継は、プロ野球のナイター中継と同様待ち遠しい存在だった。様々な新技が繰り出され、胸を躍らせた、流血もなんのその。彼等の一挙手一投足にブラウン管に釘付けとなった。そこで今日と明日の2回に渡り、「プロレスが熱かった頃」と題して特集を組んで、当時、一時代を築き、繁栄を極めた、私が特に憧れていたレスラーを取り上げたい。まず今日は、昭和を代表する日本人のスター選手、名レスラーの武勇伝を紹介したい。(一部「きらく」より抜粋)

<記憶に残る日本人レスラー>

Rikidouzan Giant_baba Antonio_inoki

力道山・・・お馴染み戦後の日本に明るい希望を与えた一人。大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップ(アメリカではジュードーチョップと呼ばれていた)でばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始されたことも重なり日本中のヒーローとなる。1954年12月29日、蔵前国技館で開催されたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦で柔道王者の木村政彦に勝利し、日本のプロレス界を統一した。しかしながら、世紀の一戦が八百長崩れであることが明らかになり(プロレスに一定のストーリーがあるということは当時全く知られていなかった)、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。しかし1955年には、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年には、プロレスの神様・鉄人「ルー・テーズ」を破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールドリーグ戦を開催し優勝する。ワールドリーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされており、、いかに力道山の人気が絶大であったかがうかがえる。しかし、1963年12月に遊興中の赤坂のナイトクラブで他の客と口論になり、馬乗りになって殴打したところ、下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。一週間後の12月15日に化膿性腹膜炎で39歳という若さで死去した。血液型はAB型。

ジャイアント馬場・・・全日本プロレスの社長でもあった彼は、身長209cm、体重は135kgあった。何と巨人に投手として入団した経歴を持つ。1960年に左肘軟骨を痛め、プロ野球引退後、プロレスに入門。力道山の門を叩いた。「アジアの壁」と呼ばれ、諸外国人レスラーたちに一目置かれた。図体がでかくて動きが鈍い割には「十六文キック」や「水平チョップ」、「脳天唐竹割」、「ネックブリーカードロップ」、「かわず掛け」などの技を駆使し、世界チャンピオンとして君臨した。ザ・デストロイヤーやブッチャー、カールコッチ、ハーリーレースらと名勝負を繰り広げ、年老いてもなお現役を貫いた。プロレスラーらしからぬほど気持ちが優しく、おとぼけもうまく、大勢のレスラーに慕われる存在だった。NWA世界ヘビー級王座に3度就いた。晩年は器用にもクイズ番組やバラエティもかなすタレントとしても活躍した。1999年1月、大腸ガンが転移し、最後は肝不全により61歳で亡くなった。生涯で通算5,769試合を行い、死の2ヶ月前までリングに上がり続けた。4月に日本武道館で行われたファン葬には3万8千人が参加し、ファンに愛され続けたレスラーだった。血液型はO型。

アントニオ猪木・・・彼の代名詞は「燃える闘魂」である。神奈川県横浜市に生まれたが、幼少の頃に一家でブラジルへ移住。コーヒー豆の栽培に携わった。現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。1960年4月にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。同年9月には東京都台東区体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。その後、日本プロレスでは馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ・BI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。テレビ朝日が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得した。しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける。同年11月、ラブラブショーで知り合った女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。その後の活躍は周知の通りだが、猪木ボンバーイエ」のテーマに乗って長いガウンでリングに登場。片手を上げながらクルリと一回転し、黒パンツに赤いタオルを首から提げるお決まりの決めポーズ。彼はとにかく会場の観客を盛り上げる。必殺技「卍固め」や「延髄切り」、「Bow and Arrow」、トップロープから舞い降りる「ストンピング」、「キーロック」、「ナックルパート」など多彩な技を繰り出し、相手レスラーを仕留めた。「ダーッ」という大声で拳を突き上げるポーズは今や語り草。また、プロレスの地位向上と最強王者を決める目的で異種格闘技が行われた。空手家ウィーリー・ウイリアムスや「蝶のように舞い蜂のように刺す」という異名をとったあの伝説の世界チャンプ「モハメド・アリ」と世紀の一戦を交えた。アリ戦は日本中がその話題に溢れた。戦前は激しい殴り合いになとの前評判だったが、アリ側が反則事項を一方的に指定したことにより、猪木は得意技やプロレス技の大部分を封じられ、床に寝そべった状態で足蹴りだけを多用せざるを得なかった。これを「アリキック」と呼んだ。引退後は、政界進出や「闘魂注入」と言ってビンタを食らわしている。人を殴って訴えられないのは猪木くらいのものだろう。年齢を聞いてびっくりするがあと3年後には70歳を迎える。血液型はAB型。

Jumbo Strong_kobayashi Sakaguchi

ジャンボ鶴田・・・三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。本名、鶴田 友美。血液型はO型。ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し 1980年代、トップレスラーとして活躍した。ダブルアームスープレックスを日本人で初めて持ち技にしたレスラーだと心得ている。馬場とダッグを組み、底知れぬ体力と溢れるガッツで無類の強さを誇り、チャンピオンになったが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めた他、アメリカオレゴン州ポートランド州立大学教授となるなど、教育者としても活躍した。残念ながらB型肝炎は肝硬変を経て肝臓がんへ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日に息を引き取った。奇しくもこの日は、16年前にAWA世界ヘビー級王座から陥落した日であった。49歳没。

ストロング小林・・・猪木と風貌が似ていた。国際プロレスのエースとして活躍したパワー・ファイター。得意技は「カナディアン・バックブリーカー」。1940年東京都青梅市出身。ボディビルダー出身で、1967年覆面レスラー第1号である「覆面太郎」としてデビュー、14勝1引き分けという強さを誇った。1968年素顔でデビュー、海外修行へでかけ、1969年には豊登と組んでIWA世界タッグ王座を獲得した。1971年にはIWA世界ヘビー級王者となり、25回防衛、2年6ヶ月王者として君臨した。国際プロレスのエースとして活躍していたが1974年、新日本プロレスに参戦、猪木と敗れはしたが歴史に残る名勝負を演じた。その後坂口とタッグを組み、76年には北米タッグ王座を獲得した。79年には坂口のパートナーの地位を長州力に奪われたが、80年には永源遙とのタッグでIWA世界タッグ王座に返り咲いた。84年引退。以降はタレントとして、「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」などで活躍した。

坂口征二・・・「世界の荒鷲」というネックネームがついた。猪木と共に設立当初の新日本を牽引した柔道出身のプロレスラー。次男は俳優の坂口憲二。得意技はアトミックドロップ、ネック・ハンギング・ツリー、ボストンクラブ、各種のバックブリーカーなど力技が多かった。1942年福岡県久留米市出身。1965年全日本柔道選手権で優勝。1967年日本プロレスに入団。すぐにアメリカに遠征し、「ビッグサカ」として活躍、カール・ゴッチと引き分けた。帰国後ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。猪木、馬場離脱後は日本プロレスのエースとなった。1973年新日本プロレスに入団、NET(現テレビ朝日)がテレビ放送を開始、猪木と並ぶスターとなった。1974年には猪木と組んで、北米タッグ王座を獲得。1979年にはジョニー・パワーズを破り北米ヘビー級王座を獲得、念願のシングル王者となった。1985年にはIWGP王座決定トーナメントで藤波に敗れ、二番手の座を譲り渡した。1990年引退。1989年には新日本プロレスの社長となり、猪木時代の借金を完済するなど大きな功績を残した。2005年にスポーツ・ジム「坂口道場」を設立した。必殺技はなかったものの、ジャンピングニーは高い打点で敵の顔面に炸裂した。

Rasher Ueda Killer_kern 

ラッシャー木村・・・全盛期は金網デスマッチで鳴らし「金網の鬼」、後年は馬場を挑発するマイクパフォーマンスが人気で「マイクの鬼」と呼ばれた国際プロレスのスター。黒タイツがトレードマーク。得意技は「ブルドッキング・ヘッドロック」、「ラッシングラリアット」など。1958年大相撲宮城野部屋入門、1964年相撲を廃業し日本プロレスに入門した。1966年東京プロレスに参加、崩壊後は国際に移籍。1969年リングネームを「ラッシャー木村」に変更、1970年には日本初の金網デスマッチを行い勝利、以降連勝し「金網の鬼」と呼ばれる。1975年マッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得、以降エースとして活躍、バションやキラー・トーア・カマタと熱戦を繰り広げた。1979年にはニック・ボックウィンクルとAWA王座、IWA王座をかけてのダブルタイトルマッチで対戦、反則勝ちした。1981年国際プロレス解散後はアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦、猪木と熱戦を演じた。1984年全日本に参戦、国際の残党と「国際血盟軍」を結成、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが人気となった。馬場の死後の内紛後にはプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加した。今年5月24日に腎不全により68歳でその生涯を閉じた。合掌。

上田馬之介・・・日本プロレス界で初の本格悪役(ヒール)。 竹刀を振り回すなど得意の凶器攻撃でリングを盛り上げた。頭髪をまだら、後に全て金髪に染め「まだら狼」、「金狼」などと呼ばれた。名作プロレス漫画『1・2の三四郎 』の桜五郎は恐らく上田がモデルと思われる。得意技は、コブラクロー、クロスチョップ。正統派時代はダブル・リストロック。1940年愛知県一宮市出身。1958年大相撲の追手風部屋に入門、1960年力士を廃業し日本プロレスに入門した。1961年プロデビュー。1966年に渡米、「プロフェッサー・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年に帰国。1971年に猪木、1972年に馬場が日本プロレスを離脱、1973年彼らが抜けた中、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得したが、日本プロレスが崩壊してしまった。再び渡米、1976年帰国、国際プロレスに参戦した。この頃から「まだら狼」へと変身、竹刀を振り回し、ヒールに徹するようになった。ラッシャー木村と金網デスマッチで死闘を演じ、IWA世界ヘビー級王座を獲得した。1977年には新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと組み、北米タッグ王座を獲得した。1978年には猪木と釘板デスマッチを行ったり、ヒロ・マツダ、マサ斉藤らと「狼軍団」を結成、活躍した。マサ斉藤と国際へも再び参戦した。1980年代にもシンと共に全日に参戦したり、新日軍団の一人としてUWF軍と戦ったりして活躍した。

キラーカーン・・・辮髪に鬚をたくわえ、モンゴル人として活躍した日本人レスラー。モンゴル帽子にモンゴル服で登場した。得意技は「アルバトロス殺法」(奇声をあげて放つフライングニードロップ)、「モンゴリアン・チョップ」など。1947年新潟県出身。春日野部屋に入門。1971年日本プロレスに入門した。1973年新日本プロレスに参加。1977年にカール・ゴッチのアイデアでモンゴル人スタイルに変身し、テムヒン・エル・モンゴルとして活躍した。ミル・マスカラスのIWA王座にも4回挑戦している。1980年にはボブ・バックランドの世界王座に挑戦。1981年にはアンドレ・ザ・ジャイアントの右足を骨折させたプロレスラーとし有名になった。1982年に凱旋帰国、アンドレと熱戦を繰り広げた。その後長州力の維新軍団に入り、1985年にはジャパンプロレス勢として全日本プロレスに参戦した。1987年には再びアメリカに遠征、WCCWTV王座を獲得した。

Hoshino Ohki Kojika 

星野勘太郎・・・すばやい回転技やすばしっこい動きでメキシコマットでも活躍した猪木を敬愛するジュニア・ヘビー級レスラー。得意技はマシンガンパンチ。1943年兵庫県神戸市出身。高校時代はボクシング選手として活躍、1961年日本プロレス入門。1967年アメリカで山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成、NWA世界タッグを獲得した。メキシコに転戦後日本に戻り第1回NWAタッグリーグ戦で猪木と組んで優勝した。1974年から新日本プロレスに参戦し、山本とのタッグを復活させて活躍した。「突貫小僧」として、UWF軍団との抗争にも奮戦した。1995年引退。

大木金太郎・・・石頭で知られた韓国人レスラー。得意技は「原爆頭突き」。国際時代は「X固め」。1929年韓国全羅南道出身。1959年日本プロレスに入門し、デビュー。1963年に渡米、ミスター・モトと組んでWWA世界タッグ王座を獲得した。1963年力道山が死去、居場所がなくなり韓国へ帰国、「大韓プロレス」のエースとして韓国プロレス界の発展に尽力した。1967年にはマーク・ルーインを破り、WWA世界ヘビー級王座を獲得した。その後日本プロレスへ戻り、1972年にボボ・ブラジルを破りインター王座を獲得した。日本プロレス崩壊後は新日本プロレスに参戦、1974年には猪木との伝説となった名勝負を、坂口とは遺恨からのセメントマッチを展開した。1975年以降は再び全日本、1980年代は国際で戦った。2006年逝去。

グレート小鹿・・・北海道函館市出身。身長185cm、体重115kg。大日本プロレス代表取締役社長。「人と同じことはしたくない」との思いから、あえて反則殺法に専念した。得意技はニードロップ・顔面かきむしり・スリーパーホールド。1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。1967年に渡米しテネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得。『カンフー・リー』などのリングネームを用い、SFなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。1973年6月に全日本プロレスに移籍。1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。テリーファンクからウェスタン選手権を獲得。その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。

Fujinami Cyosyu Kimura_kengo   

藤波辰彌・・・猪木と共に新日本プロレスを支えた名レスラー。後年は長州との抗争も話題となった。ニックネームは「ドラゴン」。テクニシャンで得意技は「ドラゴン・スープレックス」、「ドラゴンスクリュー」、「ドラゴン・ロケット 」など多数。1953年大分県出身。1970年日本プロレスに入門、1971年デビュー。1972年新日本プロレスの旗揚に参加。1974年若手の登龍門カール・ゴッチ杯を制し1975年から海外遠征へ、欧州、その後アメリカへ。1976年にはカール・ゴッチの指導を受けた。1978年マジソン・スクエア・ガーデンでホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニア王座を獲得、凱旋帰国した。その後王座を計43回防衛した。1979年にはスティーブ・カーンを破りNWAのタイトルも獲得、二冠王となった。ゴッチ仕込の華麗な技と飛び技でスピード感のある「ジュニアヘビー級」というジャンルを確立し、「ドラゴン・ブーム」を巻き起こした。1981年ジュニア王座を返上、ヘビー級に転向、「飛龍十番勝負」を開始、ボブ・バックランド、ホーガン、ブッチャー、らと死闘を演じた。82年からは長州力との抗争が始まり、新日本のマットを盛り上げた。特に1983年のWWFタイトルマッチはプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1985年にはIWGPタッグリーグ優勝戦で猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成、「プロレス大賞」でMVPを獲得した。1986年には新日本を離脱した前田日明らUWF勢が参戦、6月の前田との熱戦はプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1988年には後進にメインを譲らない猪木に自らの前髪を切って現状改革を訴える「飛龍革命」を起こしファンを感動させた。89年椎間板ヘルニアで長期欠場し1990年復帰、1991年にはリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となった。1993年には馳浩を破りG1 CLIMAX優勝した。その後は闘魂三銃士が台頭し、一戦を退いた。

長州力・・・長髪の「革命戦士」として人気を博したレスラー。維新軍団を率いて新日本、全日本の正規軍と戦い抜き、プロレス人気を盛り上げた功績は計り知れない。アマレス仕込のテクニックは鶴田と共にぬきんでていた。得意技は「リキラリアット」、「サソリ固め」など。1951年山口県徳山市出身。アマレス出身で全日本選手権優勝者で、ミュンヘン五輪に韓国代表として出場したエリート。新日本プロレスに入門、1974年デビュー戦のエル・グレコ戦でサソリ固めで勝利を飾る。すぐに海外遠征し、1977年に帰国した。1979年には坂ロと組んで北米タッグ王座を獲得、君臨したが人気は今一つだった。1982年にメキシコでエル・カネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取。帰国後藤波辰巳との「名勝負数え歌」でブレイクした。マサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成、さらにアニマル浜口、寺西勇、谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成した。1984年にはジャパンプロレスを旗揚げ、維新軍団を率いて全日本プロレスに参戦した。1985年にはアマレス時代からのライバル鶴田とジャパン対全日本の頂上決戦を行った。名勝負となり、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。また、ブルーザー・ブロディ、ニック・ボックウィンクルなどと名勝負を残した。1986年には谷津とのタッグでで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破りインターナショナル・タッグ王座を奪取した。さらにハンセンを破りPWFヘビー級王座を獲得、当時の強さは圧倒的だった。1987年に新日本に出戻りし、ニュー維新軍を率い活躍した。1988年には猪木から念願のフォール勝ちを奪い、新日本の中心となった。1998年引退。得意技は「リキラリアット」

木村健悟・・・藤波辰巳と共に新日本のジュニアヘビー級を牽引した「稲妻戦士」。テクニシャンで得意技は「稲妻レッグラリアット」、「バック・ドロップ」など多数。1953年愛媛県新居浜市出身。宮城野部屋を経て1972年日本プロレスに入門。1973年新日本プロレスへ移籍した。1978年上田馬之助と共にアメリカ遠征、パク・チューというリングネームで活躍、上田と組んでアメリカス・タッグ王座を獲得した。その後メキシコではNWA世界ライトヘビー級王座を獲得、4度の防衛に成功している。1979年に帰国、1980年にはにブレット・ハートを破りNWAインターナショナルジュニア王者となった。その後ヘビー級に転向、85年には藤波辰巳とのタッグでアントニオ猪木、坂口征二組に勝利、初代IWGPタッグ王座を獲得した。6度の防衛を重ねたが、1986年前田日明、木戸修組に敗れて王座転落した。この後王座奪回後に藤波と抗争、数々の名勝負で新日本のマットを沸かせた。1988年には再び藤波と組んで藤原、山崎組が持つIWGPタッグ王座を獲得、翌年長州とマサ斎藤組に敗れるまで3度防衛した。1997年にも藤波と組んで蝶野、天山組のIWGPタッグ王座を奪取、長州、佐々木組みに敗れるまで3度防衛した。1992年には越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成、1999年の解散まで副将として活躍した。 2003年引退。血液型はB型

Tiger_mask Lyger Kabuki 

タイガーマスク(佐山サトル・三沢光晴)・・・初代タイガーマスクとして一世を風靡したプロレスラー。その後はショーマンシップを排した真の格闘技を目指した日本の総合格闘技の祖。1957年山口県下関市出身。新日本プロレスに入門、1976年デビュー。1978年にメキシコ遠征、1979年にはNWA世界ミドル級王座を獲得した。1980年にはイギリスへ渡り、ブルース・リーの従弟「サミー・リー」としてマーシャル・アーツ・スタイルの人気選手として大活躍した。1981年に帰国し初代タイガーマスクとしてダイナマイト・キッド戦でデビュー、勝利した。ストロングスタイルのプロレスをベースに、ルチャリブレの空中殺法と、かねてから取得していた打撃技を織り交ぜたレスリングスタイルで、空前のタイガーマスク・ブームを巻き起こした。1982年には藤波が返上したWWF世界ジュニアヘビー級王座決定戦でキッドに勝利し王者となった。さらにソントンを破り、史上初のNWA・WWF王者となった。ブラックタイガーとはWWF王座熱戦を巡り熱戦を繰り広げた。その後は小林邦昭、寺西勇らとNWA、WWFの王座を争った。しかし1983年8月、155勝1敗9分けの成績を残し突如引退、素顔を公表した。1984年に第1次UWFへ「ザ・タイガー」、後に「スーパー・タイガー」として再デビュー、前田を倒し、「実力№1」の称号を獲得した。1985年にUWFを脱退。1994年には新日本に復帰、獣神サンダー・ライガーとのエキシビジョンマッチに参加、1995年には「タイガーマスク」として復帰した。みちのくプロレスなど他の団体にも参戦、1997年には猪木とも対戦した。

獣神サンダー・ライガー・・・永井豪原作の漫画『獣神ライガー』を模したマスクマン。「ジュニア・フォーフォースメン」としてジュニアヘビーのプロレス界を盛り上げた。得意技は「垂直落下式ブレーンバスター」、「ライガーボム」など。1964年広島市出身。1983年新日本プロレスに入門、1984年デビュー。 1986年、ヤングライオン杯に優勝、イギリスに遠征、欧州の世界ミドルヘビー級王座を獲得。1989年獣神ライガーとしてデビュー、IWGPジュニアヘビー級王者となった。1994年にはジュニアのオールスター戦「スーパーJカップ」を開催した。ディーン・マレンコ、ワイルドペガサス、2代目ブラック・タイガーと「ジュニア・フォーフォースメン」を結成、人気を博した。血液型AB型。

ザ・グレートカブキ・・・アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。元々は正統派で堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年、テキサス州ダラスにおいてアメリカ人のマネージャーのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにした、東洋系を前面に押し出したペイントレスラーにギミック変更。同時にザ・グレート・カブキのリングネームを用いだす。デビュー戦は1981年1月10日、対戦相手はザ・スポイラーだった。顔にペイントを施し、着物や能面を着けて登場、ヌンチャクを操り毒霧を吹くという東洋系のヒールキャラクターが受けて、アメリカ各地の団体で活躍。時に連獅子姿の他に鎖カタビラに日本刀を携えた忍者をモチーフにしたコスチュームでも登場し、フォン・エリック・ファミリー、ブルザー・ブロディ、ハーリーレイス、リックフレアー、アンドレ・ザ・ジャイアントらのトップスターと対戦した。

 もちろんそれ以外にも輪島大士、天龍源一郎、前田日明など昭和を代表する名レスラーは大勢いた。私が小中学生だった昭和40~50年代はプロレスが全盛だったと思っている。その後K-1(格闘技)が登場したが、その礎を築いたものが紛れもなくプロレスだった。そうした先駆者がいたからこそ、彼等に憧れて続々とプロレスの門を叩いたレスラーたちがいる。さて、明日はそんなヒーロー達と数々の名試合を展開した外国人レスラーたちを紹介していきたいと考えている。

2010年11月13日 (土)

本日の釣果(2010/11/13)

釣行記録

DATE : 11月13日(土)
TIME  : 3:45~11:00(約7H)
PLACE: 中之作漁港白灯台先端
EFFECT:ドンコ19cm 1尾、アジ10~19cm 13尾、カレイ18cm 1尾 計15尾 
COMMENT: 

~ やっぱりアジ爆釣の巻 ~

 前日、先週に引き続き釣行を決意。前回アクアマリンで壊滅状態で、リベンジを果たすべく否が応にも釣り師魂に火が付いた。前回最後まで迷った「中之作」へ。1年前の同じ時期にも訪れていた。しかしその時は、濁りが凄く、夜中にドンコしか掛からなかった。前日は風が強いとJ屋のメールが知らせていたが、予報は快晴で、しかも朝方の冷え込みも緩く、予想気温は最低9℃で日中は18℃まで上がる見込み。これは天の助けとばかり、潮回りはイマイチだが、カレイと根魚のアイナメ、ドンコを狙うのには持って来い。これらをターゲットに考えていた。19時半にJ屋で餌を購入。前回2年越しで使い切ったアミエビのツインパック(L)を購入。コマセとアオイソメも1パック。計1,207円。帰りには二週連続で満タンに。今回は安全運転を励行したい。帰りにラジオのFMを79.1MHzに合わせたら、試験放送を流していた。マジで郡山にコミュニティFM「ココラジ」が誕生するらしい。出力は20W。本当に清水台のマンションの屋上にアンテナを設置したらしい。

 そして釣り当日。夜中2時前に起床。またしても数時間しか寝ておらず、殆ど徹夜に等しい。なかなか布団から出れない。そんなに寒くはないのだが・・・。車載用の温度計は13℃。この時期の夜中には珍しい暖かさ。近所のコンビニに立ち寄り、「おにぎり100円セール」を見つけ、いつもは食べれない高級おにぎりを5つ買い込み、先週同様「濃いお茶」も買物カゴへ。計699円。そして、会津街道沿いにあるそのコンビニを2時16分に出た。今日はスピード控えめで自重気味。先行車はほとんどゼロ。前車に追いついたら、その直後がすべて追い越し禁止解除区間というラッキーもあった。先週と同様「AKB」のオールナイトニッポンを聴きながらハンドルを握る。平田村を2時46分通過。終始独走で快調ペース。長沢峠を2時54分、温度計は7℃だった。三和ICを3時3分通過、そして平中央ICは3時9分だった。R-6バイパスが3時15分で、中之作へは3時23分の到着をみた。往路は89.3kmで1時間7分で到達。やっぱり速かった。

 更にラッキーは続く。市場側の白灯台は無人だった。さっそくポールポジションを占拠。タコ釣りの先客がひとりいた。煙草を吹かし、防波堤に匂いをまき散らしていた。意外にも風が強かった。予報では1~2mの弱風の筈なのに・・・。100均の携帯用のスモールライトがスイッチ不良で電源が切れないトラブルに見舞われた。そして暗闇の中、仕掛けをセットし、実釣開始は3時45分からだった。5時までは辺り一帯は無人で貸し切り状態だった。曇っていて、満天の星空は拝めなかった。そのために冷え込まず、風が強いだけで寒さは感じなかった。すると防波堤にイカの墨らしき跡が残っていた!「ここでイカが上がるなんて聞いたことないぞ!?」冷静に考えれば、恐らくタコの墨だったのだろうが、その時は知る由もなく、日の出まではがむしゃらにエギングに没頭した。また、出し竿は最初、投げ釣り2本。しかし、3本フロートや天秤仕掛けなどを根がかりでことごとく失う。時々当たり(鈴が鳴る)はあるのだが、合わせに数回失敗。昼飯を車に置き忘れたことに気づき、途中まで戻ったら、急に釣り師が現れたので、場所を取られてはたまらんと慌てて戻る。そして待望の獲物ゲットは5時50分。何気に上げた天秤仕掛けの竿にドンコが付いていた。19cm。小振りだがとりあえずキープ。そして夜が明るくなり出した6時過ぎから、遠投磯竿4号に投げサビキをセット。ロケットカゴにコマセを詰め、何度か遠投。すると6時20分を皮切りに小アジが連続してヒット!以下、時系列で紹介。6時20分10cmのアジ、6時26分小アジダブル、6時45分投げ用のウキが破損。強風が嘘のように止む。

 6時58分小アジ、7時17分小アジ、ルアーにシンカーとワームをセットして穴釣りにチャレンジしたら、根がかりで2つとも失う。7時30分、小アジ。7時38分小アジがダブルでヒット。下オモリに替えたら、それも失う。坂本つり具店の政丸が4往復。風があっても波が穏やかなら沖堤渡船はやるようだ。そして或る客が車の窓を開けっ放しだったようで、マイクで呼びかけていた。親切な船長(店長)さんだ。鍵を預かり、事なきを得たようだ。8時30分、小アジ。この辺は竿の面倒で忙しかった。すると急に左の足首が痛み出す。8時45分には投げサビキがセットごと潮に流され、根に引っ掛かり、10m近いラインと共に、途中で切断。ショック!急いで前もってJ屋で購入しておいた、他の567円のサビキセットに差し替えた。ウキ止めゴム付きの本格派だった。そしてテトラの近辺で引っ掛かって浮遊していたウキとロケットカゴ、サビキ針&オモリをルアーでひっかけて回収することに成功した。9時22分、新サビキ仕掛けに小アジがダブルでヒット。9時33分には根がかりで失った1本バリの下オモリ式に木端カレイ(18cm)がかかる。鈴を鳴らすような獲物は皆無だが、嬉しい一尾。とりあえずキープ。その直後、仕掛け回収成功に寄与したルアーが、キャストした途端にラインが切れて吹っ飛んで行く・・・。相変わらずトラブルは多い。9時55分にはいつものウキと違う動きが。沈み込んでいる。これは大物?一気にリールを巻いたが、これまでと違うグググッという感触。どうやらひと回り大きなアジのようだった。アジは口が弱いのでバレないようにゆっくりと引き上げた。案の定19cmのアジだった。土産品がまた増えた。その後もアジラッシュは続く。10時には再び小アジ。10時5分には投げ竿の様子を見たら、ずっしり重い。ここで悪いクセでポンピング。すると根がかり。しかし無理やり引っこ抜いた。そしたら何と海底に眠っていた他の釣り師のオモリや仕掛けのセットを2個引き上げた。全部でオモリを3個キープした。これって公共物離脱横領にはならないのか?でも他人の仕掛けはマジ勉強になる。10時過ぎから再び風が出てくる。小潮の割には午前中の時間帯は満ち潮で、70cmの高低差があって状況は良かったようだ。周辺にいた10名前後の釣り師は、私以外誰も魚らしきものを上げていなかった。やはり白灯台先端は大漁ポイントなのだ。真夜中からの釣り座確保が奏功した。そして11時には餌切れとなり、納竿となった。次回はイソメを1,000円分買ってもいいかもしれない。すぐに無くなってしまう。カレイやアイナメは、房掛けでアピールしたほうが釣果が上がるかもしれない。7時間の実釣りはあっという間だった。今日は、土曜日だったが、市場周辺には車横付け派の釣り師が10名ほどいたが、さほど混んではいなかった。

 帰りはまたしても高速を使った。11時21分に現場を離れた。民友主催のウォーキング大会が催され、中之作漁港にも人が列を作って歩いていた。そして、鹿島街道に向かう山道で、パトカーがパトライトを点灯させたまま緊急停車。車内で電話をしていた。11時32分に6号国道に合流。気温は何と11月も中旬なのに17℃あった。11時42分に平中央ICを通過。11時50分に三和ICから高速へ。ノロノロの軽に行く手を阻まれる。一気に加速して追い越す。小野ICは12時4分通過。前回の様な暴走は差し控えたが、それでも抜かれたのは2台(1台は抜き返した)。横風が強かった。また、先週もそうだったが、小野街周辺の高速の両側の紅葉が綺麗だった。より鮮やかさを増していた。そう言えば、中之作の周辺の小高い丘の森林はようやく色づき始めたくらいだった。12時10分に阿武隈高原SA。12時14分には三春船引ICに到達。すると郡山東ICの手前3kmで路肩にはみ出して停車しているガンメタフィットがいた。危ない・・・。12時19分に郡山東ICを降りた。週末割引で800円。そしていつもの通勤ルートを通り、10分程で自宅へ。途中、八山田の急坂を前のスモークのクリーム色のレジェンドが物凄い加速で駆けあがって行った。とても追いつけなかった。最後の交差点で改造ワゴン車に割って入られ、タイムロス。12時29分に自宅へ到着した。復路は1時間8分という早業だった。でも往路は、国道49号線経由だったのに、高速利用より1分速いってどんだけ・・・。そして速攻で釣り具の洗浄を終え、13時過ぎには作業は完了していた。

 今季はあと1~2回で終わりとなる見込み。まだ今シーズンは7回目。昨年までのおよそ半分。原因は明らか。せめて最後くらいは大漁か大物ゲットで終わりたいと思う。

今日の走行距離は 182.1km。

<かかった費用>

エサ代 1,207円(コマセ262円 アオイソメ525円 アミエビ420円) 
朝食昼食代 699円(コンビニ100円均一おにぎり・ペット茶)
高速代 800円   
合計 2,706円      

<釣り場の写真>

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<本日の釣果>

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左上 ドンコ、右上 豆アジ、左下 木端カレイ、右下 アジ 

2010年11月12日 (金)

1980年代のB級アイドルたち Part5

 今週5日連続で、シリーズで行ってきた「1980年代のB級アイドルたち」も、いよいよ今回で最終回を迎えた。自分でもよくもまぁこんなに多くの昔のアイドルを覚えていたものだ。ネットの力は甚大だし、私と同じように、昔を懐かしむようにアイドルに関するブログやHPを作成している方が大勢いたことに感謝したい。すでに40名のプロフと足跡を振り返って来た。名残惜しいが、ラスト10名、じっくり味わいながら読み進めて頂ければ幸いだ。

41.きゃんきゃん

Cancan  1982年から1983年にかけて活動した女性3人組アイドルグループ。これに伴い、グループ名の表記もカタカナの『キャンキャン』から、ひらがなの『きゃんきゃん』に変更された。メンバーは唐沢美香 (からさわ みか、1964年3月生まれで東京都品川出身。東京女子高校卒 157cm 42kg 78-57-84 O型、趣味はショッピング、テニス、お菓子作り、ジャズダンス 家業はラーメン屋。山本博美 (やまもと ひろみ、1962年11月生まれの大阪府出身 大阪成蹊女子高校卒 162cm 48kg 81-60-86 A型 趣味はお菓子作り、バレーボール、小物集め、編み物、ピアノ、ソフトボール、ジャズダンス  家業は床屋。現在は俳優の京本政樹夫人。桜井直美 (さくらい なおみ、1966年3月生まれの東京都両国出身、壽悦女子高校卒 160cm 46.5kg 79-60-86 A型 趣味は小物集め、バスケットボール、お菓子作り、バレーボール、スケート、ジャズダンス 家業は八百屋。シングルリリースは「あなたのサマーギャル」(1982年6月25日)、「涙のC・Cガール」(1982年9月26日)、「迷うルージュの色 」(1983年1月21日)、「なに?お巡りさんが・・・」 (1983年6月21日)の全4曲。」

http://www.youtube.com/watch?v=PioB0_GHDgo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=v9d2Xx0Pi6w&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Z-aI2MsdkS8&feature=related

Cancan2

42.松本友里

Matsumotoyuri  1968年3月18日生まれ-本名:鈴木友里子)は、元女優。東京都出身、血液型A型、俳優・松平健の後妻としても知られる。堀越高校卒。村上事務所に所属していた。1984年にアイドル歌手としてデビュー(歌手時代の読み方は「まつもと ゆうり」)。その後、俳優業に移行し舞台をフィールドに活動を続けていた。2004年10月、松平だけが出演した舞台を松本が観劇したことで交際に発展した。2005年10月、松平と入籍。話題となるが、これを機に芸能活動停止状態に入った。2006年10月に男児を出産。現在もマスコミなどへの露出も控え家事・育児に専念。俳優天野新士と宝塚歌劇団OGの和歌鈴子(ダンスの名手としてカリスマ的人気があった)夫妻のもと出生。1983年に父親とともに『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)の「父と娘大会」に出場したことがある。この番組を出演したのをキッカケで、スカウトされ、アイドル歌手としてデビューした。私は、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などの時代劇の町娘役がハマリ役だと思っている。とても日本髪が似合い、優しくて可愛らしい顔立ちにゾッコンだった。まさか「将軍・吉宗」と結婚するとは・・・。歌手としては4枚のレコードを出した。「過剰にオンリー・ユー」(1984年6月21日)、「ボーイ・キラー(1984年9月21日)、「SAYONARAを止めて」(1985年5月1日)、「飛んで火に入る恋の虫」(1985年10月5日)。

 追記・・・誠に残念なお知らせをしなければならないが、この記事を掲載した僅か3日後の11月15日、彼女自身が不遇かつ非業の死を遂げるショッキングなニュースが飛びこんで来た。この記事が彼女の生きた証を象徴するものとなってしまい残念でならないが、もしかすると虫の知らせだったのかもしれない。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

http://www.youtube.com/watch?v=ViLx5kPUdsg
http://www.youtube.com/watch?v=nmjp75owfQM
http://www.youtube.com/watch?v=-Uu2STEO85A&feature=related

43.オールナイターズ(おかわりシスターズ・おあずけシスターズ)

Okawarisisters  世間がバブル景気で酔いしれている時期(1983年~89年)に、土曜深夜を賑わしていたのがフジテレビの「オールナイトフジ!」である。要は女子大生や芸能人達がスタジオでバカ騒ぎしてフィーバーする番組。しかし、これが女子大生ブームの火付け役となり、その後のおニャン子を生みだした。その際の現役女子大生達で構成されたグループユニットが「オールナイターズ」であり、そこから人気のあった3人組でユニットを結成して登場したのが「おかわりシスターズ」(山崎美貴(東海大学)ーAB型・松尾羽純(杉野女子短大)ーB型・深谷智子(日本女子大)ーO型)と「おあずけシスターズ」だった。いわばその後の大人数ユニット誕生の先駆けとなったのである。しかし、「夕やけニャンニャン」が全国ネットで女子高生ブームを巻き起こしたのに対し、彼女たちは関東近辺の「フジテレビ」ネットワークの狭い範囲でのフィーバーだったので、全国区ではなく知名度が低かったということで、B級アイドルに入れてしまった。他にお気に入りは明治大学農学部に通っていた松山香織で、彼女その後アナウンサーになった。その他のメンバーでは片岡聖子、井上明美、冨田香織らがいた。曲は他に「心はシーズンオフ」、「素顔にキスして」、「虹色のカノン」など。私は松尾羽純の大ファンだった。私の兄も東京に住んでいた時に、この番組が心のよりどころだったらしく、シングル「恋をアンコール」から「L・A・S・T」までアルバムレコードを全て持っていた。松尾羽純が日比谷野音のコンサートで感涙し、「みんな大好き~」と絶叫した名セリフは未だに心に残っている。

http://www.youtube.com/watch?v=EHVta5w-xFE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=R8lUkhgLhIY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=kHVTFsqgOMs
http://www.youtube.com/watch?v=jPphlrmIi4s&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OhXebAAlbJE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7NtaLNwBh_Q&feature=related

44.BaBe

Babe1Babe 1980年代後半に活躍した日本の女性デュオ、タレントである。所属事務所はエスワンカンパニー。1987年、流行だったユーロビートのカバー曲「Give Me Up」でデビュー。ダンスを踊りながら歌うスタイルで、色白で奔放な性格の近藤と、色黒でしっとりと淑やかな性格の二階堂というキャラクターの組み合わせであった。洋楽のカバーを多数リリースしてヒットしたことでも知られたが、1990年解散。近藤智子1968年2月生まれで東京都狛江市出身のO型。愛称は「こんちゃん」、二階堂ゆかり1967年8月生まれの東京都武蔵野市出身のA型。愛称は「にかちゃん」。デビュー時はいわゆるアイドルとして活動し、数々の歌番組・バラエティ番組へのテレビ出演は無論のこと、その年の新人賞レースにも参戦していた。しかし、翌年からアーティスト指向に方向転換し、活動のフィールドをラジオ番 組やライブハウス出演などに比重を移す。後半のアルバム『Brand-new』(1989年)や『CONTRAST』(1990年)では作詞やソロにも挑戦している。1987年、「I Don't Know!」で、第29回日本レコード大賞新人賞、を始め、その年のショーレースを独占した。1990年、二階堂の妊娠・結婚により解散。近藤も結婚を機に芸能活動を引退した。テレビ主題歌CM挿入歌などになることが多く、ヒット曲には恵まれた2人だった。「Give Me Up」(1987年2月21日)、「I Don't Know!」(1987年5月2日)「Somebody Loves You~明日の恋人~」(1987年7月22日)、「Hold Me !」(1987年10月21日)、「TONIGHT !」(1988年1月21日)、「Chance !」(1988年5月11日)、「WAKE UP !」(1988年8月31日)、「She has a dream」(1989年3月1日)

http://www.youtube.com/watch?v=FaGY9IcgwxY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=p6WEbEWvETc
http://www.youtube.com/watch?v=RNzeZYAwjJQ&feature=related

45.仁藤優子

Nitou  1971年8月28日生まれの千葉県出身の元アイドル歌手。本名は栗田 優子。ホリプロ所属。おとめ座のO型。堀越高校卒業。1986年のホリプロスカウトキャラバンで「アクターアクトレス賞」を受賞し、芸能界入り。1987年6月に「おこりんぼの人魚」で歌手デビュー。同年の日本歌謡大賞で放送音楽新人賞を受賞。歌唱力は評価が高かったが、喉の不調等によりその後歌手業を断念し、一時期同事務所の井森美幸とともにバラドルとして活躍した。その後、女優に転向した。また、芸能人女子フットサルチーム「XANADU loves NHC」に所属していたが、2008年5月に退団した。2009年4月、声優の西凛太朗と結婚した。主な代表作は「おこりんぼの人魚」 (1987年6月17日、オリコン13位)、「秋からの Summer Time 」(1987年9月17日、10位)、「センチメンタルはキ・ラ・イ」 (1988年2月3日、18位)、「そのままの君でいて」 (1989年12月5日、52位)、「パールカラーにゆれて」(1990年10月21日)。

                                                                                                                                                

http://www.youtube.com/watch?v=keu-UD1LOFk
http://www.youtube.com/watch?v=3jJXo9-JBaI&feature=related

46.真弓倫子

Mayumitomoko  1971年6月27日生まれの 東京都出身の日本の女優、タレント。本名、市来倫子(いちき ともこ)。かに座のA型。堀越高等学校卒業。原宿で街頭スカウトされ芸能界入り。デビュー当時は、大手芸能事務所「バーニング」系列の事務所である「ビッグアップル」に所属し、TBS系の連続ドラマ『毎度おさわがせします3』で女優デビュー。TVCM「ビオグール」出演で注目を浴び、そのCMソングでアイドル歌手として(RVC)より「片思いグラフティー」で歌手デビュー。また、日本テレビ系『歌のトップテン』の注目曲として出演し、鳴り物入りのデビューであった。サードシングル「アイ・ハード・ア・ルーマー」は、失敗に終わり、ビッグアップルとの契約もまもなく切られた。事務所を移籍し、コンスタントに曲をリリースするが、ヒット曲には恵まれなかった。徳永英明のマンションに住んでいるとフライデーにスクープされたこともあったが、再びヘアーヌード写真集「RE-BIRTH」(スコラ)で芸能界に復帰し、その後濡れ場を中心にVシネマ、映画、ドラマなどで活動する。現在はフットマッサージ師として働きながら、女優の活動もおこなっている。シングル曲は「片思いグラフィティー」(87.06.06)オリコン最高位19位、「9月のプロムナード」(87.09.16)オリコン最高位50位、「アイ・ハード・ア・ルーマー」(87.12.16)オリコン最高位89位、Confusion~静けさを破って~」(88.08.21)、「こしゃくなMy Halation!」(89.02.21)。

http://www.youtube.com/watch?v=_Otf0As-F5k
http://www.youtube.com/watch?v=MhND7vKQr5g&feature=related

47.伊藤智恵里

Itohchieri  1971年4月1日生まれ、東京都世田谷区出身の女優、歌手。本名同じ。身長:163cm。B78.W58.H80。血液型はA型。趣味は耳かき収集、映画鑑賞、食べ歩き、料理研究、アニメ・漫画。1987年にフジテレビ系ドラマ『キスより簡単』に出演、同番組の挿入歌「パラダイス・ウォーカー」で歌手デビュー。当時の所属事務所はオフィスジュニア。その後、TBS系ドラマ『母さんと呼びたい』の主題歌になった「トキメキがいたくて」、「雨に消えたあいつ」、ハウスフルーツインゼリーのCMソングに使用された「夢かもしれない」「キッスでささやいて」、中原めいこのカバー「ココナッツの片想い」などのシングルをリリースし、1990年発売の「天気になれ」が伊藤智恵理時代の最後の曲となった。また歌と平行して 女優やテレビタレントとして、数多くの映画・ドラマに出演、『志村けんのだいじょうぶだぁ』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などの人気コント番組へのレギュラー出演、『オールナイトフジ』『ミックスパイください』などバラエティー番組の司会・アシスタント、そしてCM出演などの活動を行った。1996年に芸名を“Chieri”とし、THE RHYTHM KINGSのボーカルとして、またソロとしても歌手活動を再開。ソロとしては、自身も出演したフジテレビ・フラワーセンターのCMソング「TSUBASA」、シングル5曲とフルアルバム『SKY SONGS』を発表。2001年には自らサイトを立ち上げインターネット上でも活発に活動した。シングルは「パラダイス・ウォーカー」(1987.6.11)、「トキメキがいたくて」(1987.8.8) 、「雨に消えたあいつ」(1987.11.6)、「夢かもしれない」(1988.3.5)、「ココナッツの片想い」(1988.7.21)、「キッスでささやいて…」(1989.3.21)、天気になれ」(1990.4.21)。
                                                         

http://www.youtube.com/watch?v=7uwhBehahIw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PPw2DnrouGw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=wQfjBvn5Nk4&feature=related

48.国実百合

Kunizane  1970年12月19日生まれの高知県高知市出身の元歌手。血液型はO型。現役時代の所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社は日本コロムビア。本名國實百合(結婚前;読みは同じ)。高知県立高知小津高等学校から堀越高等学校に編入後、同校を卒業。高校2年の時に芸映プロが主催した「ザ・オーディション・ボーイズ・アンド・ガールズ」に応募、1987年10月に調布グリ-ンホールで行われた決戦大会で優勝し、翌1988年3月に「青い制服」でデビューを果たす。しかし、おニャン子クラブの展開から解散に伴うアイドル像の変質、バンドブームの影響によるアイドル系歌番組の減少などからCDセールスは低迷した。1991年に芸名を國實唯理に改名。同年4月、TOKYO FMホールにてファーストライブを実施する。結果的には最初で最後のフル・ライブとなった。同年11月、東京都内で行われたイベント会場で突然芸能活動の一時休止を発表。同月末に行われた大阪・枚方市のくずはモールでのイベントを最後に完全休止、のち完全引退。腎炎発症・悪化及び治療専念のためだったといわれている。シングルは1988年から91年までに12枚が発売されたが、オリコンチャートでベスト10入りした曲はない(最高位は「青い制服」の週間売上19位)。 またアルバムはベスト盤2枚を含む6枚と、他アイドルとのコンピレーションカバー盤が2枚発売されている。 当初デビュー曲は「ガラスのタイプライター」が予定されていたが、直前になり「青い制服」に変更となった。主な曲は、他に「ボーイフレンド」(1988年6月21日)、「秋色の街」(1988年9月28日)、 「友だち以上」(1988年12月10日)、「あなたしかいらない」(1989年3月1日)、「きっと…」(1989年7月5日)など。佐野量子に似ていた。
                                                                                                          

49. 姫乃樹リカ

Himenogi  本名:Rika Crigger、旧姓:西村理香(にしむら りか)、1971年10月6日 - )は、1980年代後半から1990年代前半に活躍していた日本の元アイドル。 日出女子学園高校卒。 出生地は大分県豊後大野市犬飼町。血液型はO型。1982年にテレビ東京の『ちびっ子歌まね合戦』に出場、これがきっかけで芸能界入りとなる。1986年、雑誌『Momoco』の6月号に登場、同年10月TBSテレビの番組『モモコクラブ』にレギュラー出演。芸名の姓が「姫乃樹」となったのは、やはりモモコクラブにいた西村知美とのバッティングを防ぐ為で、当初は本名も非公開だった。1988年2月、アニメ映画『めぞん一刻完結篇』の主題歌『硝子のキッス』でキティレコードより歌手デビュー。同年4月にはラジオのレギュラー番組『姫乃樹リカのおしゃべりサラダ』がスタートし、出生地・大分県の大分放送などで放送される。パーソナリティ人気投票でベストテン入り6回を記録するほどの人気ぶりだった。当時のファンクラブの名前は「Rika's騎士(リカズナイト)」、会報は「姫鈴(ひめりん)」。1992年に芸名を西邑理香(にしむら りか)に改名、同年8月には舞台初出演を果たす。1993年にはユニット「西邑理香 with COMING SOON!」(後に「THE COMING SOON!」に改名)を結成。1995年12月、ベーシストのDave Criggerと入籍。現在はアメリカに在住し、3児の母。その他の曲は「ときめいて」、「もっとHurry Up!」、「アンバランスに抱きしめて」、「ロマンの騎士」、「スタンド・バイ・ミー」、「地上の楽園」。太い眉毛と八重歯がチャームポイントだった。

http://www.youtube.com/watch?v=w-8meb2Nl5U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=LnbVy5TPv5Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=semEwXTv61A&feature=related

50.中嶋美智代

Nakajima  本名:大村美智代、旧姓中嶋、1973年1月2日 - )は、埼玉県志木市出身の女性アイドル・歌手・女優・声優。血液型A型。豊南高等学校卒業。乙女塾3期生。ハーベストムーン所属。乙女塾3期生。1991年にソロデビューーしたが、これ以前にribbonのメンバー候補として予定されていた。容姿の可愛らしさから乙女塾メンバーの永作博美、三浦理恵子、瀬能あづさと並ぶ人気を得ていた。デビュー当時は「最後の清純派」と言われていた。とても大人しい性格として知られる。独特の鼻にかかる声で「鼻声の魔術師」という二つ名を持つ。デビュー当時の芸名は「中嶋美智代」だったが、1998年に名前をカナ表記にした「―ミチヨ」に改名。元CoCoの宮前真樹とは乙女塾時代からの親友で、現在も親交は続いている。2000年8月に千葉ロッテマリーンズのサブロー(本名:大村三郎)外野手と結婚。現在2男1女の母。テレ朝の「1ヶ月1万円生活」出演以降、旦那に少額の小遣いしか渡さない、節約料理など締まり屋の節約妻として知られ、ワイドショーに出演することもある。2008年1月末で所属のサンミュージックを退社した。主なソロの曲は、「赤い花束」(1991年1月30日オリコン最高位9位)、 「ひなげし」(1991年4月17日オリコン最高位10位)、 「初恋通り」(1991年7月17日オリコン最高位13位)、「とても小さな物語」(1991年9月21日オリコン最高位15位)、「思い出にもなれない」(1992年1月29日)など13曲。
                                                                                                                      

                                                         
<おまけ~番外編~>

制服向上委員会(吉成圭子)

Seifuku  テーマの主旨を逸脱するが、オマケとして記載したい。“清く正しく美しく”をモットーにアイドルの王道を行くべく1992年秋に結成されたグループ。メンバーは随時入れ替えられて継続していたが、2006年9月をもって“卒業”した。その後、SKiファミリーとして実質的に活動は継続し、グループではないが集合体総称という意味合いを持っていたが、2010年9にグループとして再始動した。学生服をコスチュームにし、“名門女子校のお嬢さん生徒”的に行動するのが特徴。コンサート「制服の日」、制服ファッションショーを始め、反戦集会、メーデーへの参加、社会貢献など多彩な活動を行っていた。ここでは初代メンバー(一期生)のみ紹介したい。吉成圭子(初代リーダー、血液型A型)、高瀬あやの、青山れい(2代目リーダー)、佐藤枝里子、中野あき、安達恵美、志村和美、奥山美夏、藍田真潮、加納理紗、前田厚子、秋山望、滝本久美、白石桃子、吉田未来、岩崎愛、宮本里枝子、望月菜々、松田ゆかり、諸岡なみ子(3代目リーダー)、中沢ひとみ。シングルは7曲リリースしている。「制服宣言!」(1993年3月3日発売)、「清く正しく美しく」(1993年5月21日発売)、「笑顔がスキッ!」(1993年10月21日発売)、「おはよう!」(1994年7月25日発売)、「同級生」(1995年4月17日発売)、「鼻くそMANが行く」(1998年4月1日発売)、「寿司屋のマスター」(1998年11月1日発売)。ボーカルの吉成圭子のアニメ声が気に入っていた。

http://www.youtube.com/watch?v=skY841-JFPU
http://www.youtube.com/watch?v=pDSC7cuaIq0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=l1G57Sx4xaA&feature=related

Yoshinari Keiko Keiko2

 

 これ以外にも、三井比佐子、菊池陽子、高橋美枝、山口由佳乃、森恵、川村愛、佐藤弘枝、千葉湖吹美、成清加奈子、山本理沙、田中久美、山本ゆかり、松尾久美子、相川恵理、木元ゆうこ、川原理加、横田早苗、林紀恵、畠田理恵、小林千絵、八木さおり、河上幸恵、川島恵、秋本理央、沢田富美子、キャプテン、ツインキー、ポピンズ、ベリーズ、カントリー娘、オレンジシスターズ、セブンティーンクラブ、アイドル夢工場、あすか組、スクールメイツなど数多くのアイドルたちがいたことを書き漏らすわけにはいかないが、A級とB級の線引きが難しい上に、独善的な判断にどうしても依存してしまうので、おそらくはファンの方はご立腹だろうが、その辺は広い心でご容赦願いたい。また、恒例の元アイドルたちの血液型を判明した分を見たところ、やはり比較的多かったのがO型だった。55名中22名もいた。実に40%。日本人の約4割近くを占めるA型の23名(42%)とほぼ同数だった。いかにO型アイドルが持て囃されているか証明がつく。O型は優柔不断と言われながらも甘え上手で、おおらかであまり細かいことにこだわらない。感情表現がストレートでわかりやすく裏表がない。見て安心感や癒し効果を与えてくれるのだ。また、色白でおっとりした性格は、思わず「守ってあげたい」という感じを醸し出し、それが世間ウケしている理由なのだと推測できる。B型は9名(16%)、AB型は極端に少なく1名(2%弱)という結果だった。このことからアイドル候補としてはO型が秀逸していると言えそうだ。

 ところで、何を隠そう私は、中1の頃には「石野真子」のファンクラブに入会していたし、時代を彩ってくれた各アイドルのファンになったことも大にしてある。今回5回に渡って特集でお送りしたが、時代の寵児として「アイドル」が持て囃された世相があったのは紛れもない事実で、特に中高生は明日のスターを夢見て、様々なオーディションに挑戦して芸能界に飛び込んだ少女たちだった。街角でスカウトされたアイドル予備軍もいるが、いつの時代も「アイドル」とは恋い焦がれる存在であるようだ。1990年代のアイドル不在と言われた氷河時代を経て、21世紀はモーニング娘やAKB48の台頭により、再びアイドルが見直されて来ている。大人数のユニットで歌と踊りの両看板でこのデジタル化、あるいはバーチャル化したテレビ業界を華やかに彩っている。私自身も今回のブログを契機に、昔のビデオを検証し、どんな時代にいかなる世相を反映し、どんな曲が流行ったのかを再確認したい。そして曲調やファッションや髪形、化粧一つでも、比較対象となるものが見つかるかもしれない。アイドルはジュニア世代のファッションリーダーであり、ステイタスシンボルである。今後もずっと夢を与え続ける存在として光彩を放ってほしいと切に願い、結びとしたい。

追記
 
 ファンの中にはB級アイドル呼ばわりされて憤慨する方もいると思うが、かなり高くハードルを設定したものであり、世間一般の評価ではなく、あくまで一個人の見解だと解釈して頂ければ幸いである。

2010年11月11日 (木)

1980年代のB級アイドルたち Part4

 今週3日連続で、シリーズで行ってきた「1980年代のB級アイドルたち」も、いよいよ今回と明日の最終回を迎えるだけとなった。既に30名の元アイドルを紹介してきたが、本日も10名のアイドルを回顧して行きたい。この時期は「ブーム」と読んで差し支えないくらいアイドル歌手が五万といた。彗星の如く現れては、花開かず、人知れず芸能界から去っていった方たちもいる。特に女性アイドルは、その輝く時期が極めて短いため、その限られた僅かな時期に、歌や踊りを通して精一杯自己表現しようという意識が見て取れる。健気だし10代のパワーも感じる。では本日も早速、彼女たちが一番輝いていた時期に一緒にタイムスリップしてみよう。

31.吹田明日香

Suitaasuka  1964年3月13日、京都府生まれで大阪府豊中市出身のタレント・放送キャスターである。本名同じ。同志社大学文学部英文学科卒業の才媛である。血液型B型。大学在学中にテレビ番組『スター誕生!』に出場し、1982年5月、第41代グランドチャンピオンとなる。1983年にワーナーパイオニアより「バ・ケー・ション」で歌手としてデビュー。シングル4枚、LP1枚をリリースしアイドルとして活躍していたが、1990年代に入りタレント・放送キャスターに転向。『読売新聞は~い朝刊』や、『NNNニュースプラス1・いちなな情報』、さらには『BSニュース50』のキャスター・レポーターを担当した。1997年から、NHK総合テレビ『生活ほっとモーニング』でレポーターと「健康スペシャル」の司会を9年間務めた。2007年に浅い企画へ移籍後は、それまでの経験を活かし、「健康」を主なテーマとする、シンポジウムコーディネーターとしての活動も行うようになった。1985年の日本航空123便墜落事故で母親を亡くしており、そのショックから一時期芸能界を離れていたという。主な楽曲は「バ・ケー・ショ・ン」、「聖書 -バイブル-」、「二人は Magic」、「ライク・ア・ヴァージン」など。やはり同じB型の菊池桃子にダブって見える。彼女は一言で言えばプラトニック系美少女アイドルであるが、同志社大学を卒業している才女である。                                         
http://www.youtube.com/watch?v=2dKDv66Ea5I&feature=related                                            
                                                   
32.Lady oh ! (ラジオっ娘)
                                                                                                                    
Rajiokko  かつて存在した、水島かおり・西端やよい・高橋めぐみによる女性3人組のアイドルグループ。元々ラジオっ娘(らじおっこ)のグループ名でニッポン放送のDJとして活動していたが、シングルデビューに当たってLady oh!のグループ名が付けられた。所属事務所はマミューズ。「週刊プレイボーイ」のグラビアに登場したこともある。私が浪人していた時代に鶴光の後を受けて土曜深夜の「電話好きっ娘 ラジオっ娘 ~男の子にはナイショなの~」というタイトルの「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めた。いたいけな女子中高生のきわどい性の悩みや交際のトラブル相談をラジオの生電話で行っていた。キャンディーズを意識したコンセプトの歌手として活動する際は「Lady oh !」となった。メンバーの水島かおりは、竹を割ったようなサッパリ型の男勝りのB型。1964年6月生まれの千葉県袖ケ浦市出身。解散後は女優に転身。CM、ドラマ等に出演。夫は映画監督の長崎俊一。西端他やよいは-、1963年3月生まれで和歌山県田辺市出身。解散後、本名の西端弥生で関西地方を中心にタレント活動を続け、『ダウンタウンのごっつええ感じ』にも出演。のちの俳優・古田新太夫人。高橋めぐみは 東京都港区出身。解散、大学卒業後、本名の高橋尚代で、ニッポン放送に入社。編成局制作部アナウンサーとなった。結婚後退職。のち、英語教師などで活動。主なシングルカットは「やったね MARIKO!」(1982.02.21)、「恐れちゃいけない」(1982.04.21)、「茅ヶ崎サンライズ」(1982.08.05)、「あいつ Bye Bye」(1982.11.05)など。
                                              
                                             
33.志村 香
                                                      
Simurakaori  1969年7月30日生まれ、東京都墨田区出身の1980年代後半に活動した歌手、タレント。堀越高等学校卒業。血液型はB型。現役当時の所属事務所は芸映プロダクション、レコード会社は日本コロムビア。中学3年在学中の1984年9月、映画「パンツの穴(2)」のオーディションに応募、同年12月に池袋西武で行われた最終オーディションに於いて58,117名の中から選ばれる。翌1985年4月公開の映画で主役デビューを果たすと共に、「曇り、のち晴れ」で歌手デビューも果たす。当初のプロモーションはアイドル雑誌との連携など、前年デビューで系列事務所の菊池桃子を踏襲した展開で行われた。しかし、この1985年は有力新人が多く、同じ事務所からも芳本美代子がデビューしていた。各音楽賞に於いては菊池桃子にならって不参加という戦術を取ったが、これが裏目に出て、存在が埋没する結果を招いてしまった。加えて元々の歌唱が非常に不安定だった事もあり、デビュー曲はそこそこ売れたものの、2nd以降のシングルセールスを伸ばす事はできなかった。またこの年、菊池桃子がイメージガールとなっていた雑誌「momoco」が主催した、第一回ミスモモコグランプリで西村知美が優勝し、志村と同じ芸映プロに所属して翌86年3月に歌と主演映画でデビューする。そして、菊池と西村が軸になる形でアイドル育成プロジェクト「モモコクラブ」がマルチメディア的に展開してゆく一方で、志村香のデビュー当初のコンセプトは瓦解し、ドラマ「夏・体験物語2」に出演後、清純派アイドルからバラエティタレントへの転身を図ることになる。以降、毒舌を生かした突っ込みキャラとなって幾つかの番組に出演する。1980年代半ばには国内2輪ロードレースのイベントなどにゲスト出演していたが、末までには引退したものと思われる。2本の映画出演と音楽セールス実績で、後輩の国実百合を上回っていた。現在ではプロダクション関係者と結婚し、専業主婦となっているとのこと。出したレコードは「曇り、のち晴れ」(1985年4月21日)、「星のシンフォニー」(1985年7月24日)、「秋風はあなた」(1985年10月30日)、「危険がいっぱい」(1986年3月21日)、「知りたがり」(1986年8月21日)
                                                                                                                   
http://www.youtube.com/watch?v=GkyP1zFeKh0&feature=related                                             
                                                        

34.伊藤美紀

Itohmiki  1971年4月9日生まれで、愛知県名古屋市出身の日本の女優、歌手、元アイドル。ホリプロ所属で血液型はB型だった。1986年にホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを獲得して翌年の5月に CBS/SONY(HOLLYWOOD LABEL)より『小娘ハートブレイク』で歌手デビュー。1987年に『生徒諸君!』で初主演。1989年に総理府の消費税導入を告知するポスターに採用され、「消費税アイドル」として有名になる。2002年に一般のサラリーマンと結婚。翌年出産。堀越高校の同級生には、水谷麻里、若林志穂、本田理沙、久松由実、田中律子、仁藤優子、大根夕佳、岡谷章子などがいた。モココクラブのメンバーでもあり、同名を冠したTV番組にもレギュラー出演していた。デビュー曲以外の主なシングル曲は、「哀愁ビュセル」、「UBU」、「誘惑88」、「しゃきしゃきビーチタウン」など計7曲。端正な顔立ちで、アイドル顔していた。
                                                                                                               
http://www.youtube.com/watch?v=ueDQVbf-vqY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5qGXv7cASIY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=r0wxsL7wPzg

35.小沢なつき

Ozawa  1972年4月19日、東京都練馬区出身。1980年代後半にデビューしアイドル歌手・女優。2004年以降はAV女優に転身し、活動している。堀越高校卒業。アイドル時代に公表されていた本名は、山下純子。血液型はアイドル時代はA型と公表していたが、AV女優ではB型と発表。1986年に、神部和夫、イルカが社長を務める芸能事務所K-HOUSEのマネジャーに新宿でスカウトされ芸能界入り。同年7月、ドラマ『パパ合格ママは失格』でテレビデビュー。1987年6月にはレコードデビューも果たした。1989年には特撮番組、『魔法少女ちゅうかなばいばい!』(東映、フジテレビ)で、テレビドラマ初主演を果たした。しかし、途中降板という形で番組が終了。小沢は、そのまま芸能界から引退となった。この事態に付いては当時、「撮影予定時間に撮影所に現れずに、恋人であるマネージャーの部屋にいるというスキャンダルを起こした」、「妊娠による引退」、「結婚し男児を出産」、などと噂された。後年、出演したテレビ番組で小沢は、「忙し過ぎて訳がわからなくなり、マネジャーと駆け落ちまがいのことを計画したが、待ち合わせ場所に相手は来なかった」と、事態の背景を話した。その後、1993年、小沢はヌードグラビアへの出演で芸能活動に復帰した。さらにVシネマにも出演し、断続的に芸能活動を続けていたが、次第に仕事が無くなり、一時期はキャバクラで働くなど、水商売で生計を立てていたという。2004年4月、AV女優に転身した。同年9月にいったんAV引退を宣言するが、翌年末に復帰を果たした。しかし、その後再び休業状態に入っている。

http://www.youtube.com/watch?v=Ca9rkIwNk3M
http://www.youtube.com/watch?v=Jab00IHHvBc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=-aqAg41CE_g&feature=related

36.吉田真里子

Yoshida  1970年11月19日生まれの兵庫県姫路市出身。身長156cm、体重45kg。血液型はB型。1980年代後半から1990年代前半にかけて活躍した日本の女性アイドル、シンガーソングライター。 スリーサイズはB79cm W59cm H80cm。とにかく美形で、私にとってベビーフェイスな感じと清楚なお嬢さんタイプは好きになる要素を十二分に満たしていた。何を隠そう私は彼女の写真入りの詩集を持っていた。どことなく菊池桃子に雰囲気が似ていた。やはり二人ともB型アイドルである。1987年に第6回ミスマガジン特別賞を受賞。1988年に「とまどい」でメジャーデビュー。シングル8枚、アルバム5枚をリリース。1993年、インディーズレーベル「ブルータートル」を設立。1999年、最後のライブ。以降オフィシャルHP開設し時々日記更新、ラジオ番組出演、ファン向けイベントのみ活動。2002年、自身のHPにて、2001年9月に入籍した事を発表。あわせて芸能活動引退を発表。主なシングルカット「とまどい」(1988/05/21)、「さよならリフレイン」(1988/09/21)、「夢を追いかけて」(1989/02/10)、 「夏の恋人達」(1989/06/01)、「嘆きの天使」(1989/12/10)、「陽ざしのソリチュード」(1990/05/21)、「Roman〜ロマン〜 」(1990/10/21)、「すべては空の下」(1991/11/21)
                                                                                                                         http://www.youtube.com/watch?v=NcOWsuhJkzU
http://www.youtube.com/watch?v=TAd5Q9xuPhA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=T585bzUyq4k&feature=related
                                                                                                                        
Yoshidamariko

37.CoCo

Coco  1989年、フジテレビのテレビ番組『パラダイスGoGo!!』内の乙女塾から誕生した、女性アイドルグループである。当初メンバーは5人(宮前真樹・羽田恵理香・大野幹代・三浦理恵子・瀬能あづさ)だったが、1992年に瀬能あづさが脱退し、その後は4人で活動を続け、1994年に解散した。「アイドル冬の時代」と言われた、90年代前半の代表的なアイドルグループであり、セールスも同時期に活動していた多くの他のアイドルグループを常に上回っていた。シングル全14枚中、デビュー曲「EQUALロマンス」から「横浜Boy Style」まで、11曲連続ベスト10入り、3枚目のシングル「夏の友達」から「Newsな未来」まで、4曲連続ベスト3入りを果たしている。乙女塾全体としてのレギュラー番組である『パラダイスGoGo!!』と『週刊スタミナ天国』を除くと、これといったレギュラー番組を持たなかったにもかかわらず、レギュラー番組・出演CM等を持つ同時期の後発グループに、セールス面においては常に水を開けていた。5人の時代が全盛期であり日本武道館でのコンサートを開催させた実績などから、歴代で数少ない女性5人組アイドルの中でも最も成功した女性5人アイドルグループである。「最後の正統派アイドルグループ」とも言われるCoCoだが、楽曲においては正統的なアイドルポップス(男女の恋愛を謳ったいわゆるラブソング)偏重というわけではない。シングルを見ても、幻想的なダンスナンバー「Live Version」、当時の世界情勢をモチーフとした「Newsな未来」、そしてCoCoそのもののテーマとも言うべき「夢」を謳った「夢だけ見てる」や、「夢」でもアイドルが歌うには少し重すぎる(しかし全ての人間が確実に自覚すべき)視点からのメッセージソング「ちいさな一歩で」など、バラエティに富んでいる。シングルのカップリングにはメイン曲と対照的な曲が取り入れられることが多かった。全く恋愛を扱っていない「Live Version」のカップリングには、失恋から立ち直る男女を描いた「神様はいじわるじゃない」、メッセージソングの「Newsな未来」には明るくコミカルな「幸せかもね」、情熱的なラブソング「無敵のOnly You」には静かな「キミがくれた宝石」、そしてラストシングル「You're my treasure〜遠い約束」には、別離、終焉といった要素を全く含まない正統派ラブソング「あなただから好きなの」といった具合である。中心メンバーだった瀬能あづさがソロ活動専念を理由に、1992年5月の日本武道館公演を最後に脱退。その後1994年9月に解散するまで、4人での活動を継続した。1990年代中盤の女性アイドルグループで正式解散したのは、CoCoとMelodyの2組だけである。

http://www.youtube.com/watch?v=FloeAak06ks&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5pfNm81aiC0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=htQGMoiADhk&feature=related

38.田村英里子

Tamura  1973年1月16日生まれ、茨城県出身の女優、歌手。 血液型はB型。3サイズはT164 B82 W56 H85。 SAGのメンバー。父親の仕事の都合で8歳から13歳までを旧西ドイツで過ごし、現地では日本人学校へ通っていた。14歳で日本に帰国し、受けたオーディション「決定!全日本歌謡選抜・スターは君だ」でグランプリを受賞。大手プロダクション各社からスカウトされ、サンミュージックに所属することを決める。中学3年の終わりに上京、東映映画『花の降る午後』に古手川祐子と数シーンだが共演しスクリーンデビューを果たす。3枚目のシングル「真剣(ほんき)」では、1989年度の新人賞を総なめにした。愛称の「えりりん」は田村英里子をモデルにしたアニメ『アイドル伝説えり子』の主人公「田村えり子のあだ名が「えりりん」だったことから、田村のコンサートでそのまま持ち込まれ「えりり〜ん!」とファンや子供達から呼ばれるようになったのがきっかけと言われている。日本でのオンエアが終了した後も、スペイン、イタリア、フランス、また中近東でもオンエアが続いている。主なシングル曲は「ロコモーション・ドリーム」、「好きよ」、「真剣(ほんき)」、「プロセス」、「Domino」、「リバーシブル」など全16曲。                                       
                                            
39.ribbon
Ribbon  1989年、フジテレビのテレビ番組『パラダイスGoGo!』内の乙女塾から誕生した、女性アイドルグループである。メンバーは、永作博美、松野有理巳、佐藤愛子の3人。当初の結成計画では永作、松野と、中嶋美智代の3人だった。田辺エージェンシー所属ということもあって、バラドル的な活動が多かったが、乙女塾出身タレントの中では歌唱力の優れたメンバーが揃い、楽曲もアイドルらしい愛らしい曲、旋律やハーモニーの美しい曲から、コミカルな曲まで、様々なタイプの曲をこなしている。また、デビュー曲のみ松野がセンターだったが、セカンドシングル以降、永作がセンターとなる。ribbonは正式な解散発表も、解散関連のリリースやイベントも一切行われず、徐々に段階的に活動が減少し解体されるに至った。したがって最終となったリリースやイベントも、実施された時点ではそのような告知はされておらず、グループ消滅によって「結果的に最後」だったことが確定したもののみである。またそれらは実施時期もバラバラである。1993年10月、シングル「夜明けなんていらない」発売。これがラストシングルとなる。主な曲は「リトル☆デイト」(1989年12月6日)、「そばにいるね」(1990年4月11日)、「あのコによろしく」(1990年7月25日)、「Virgin Snow」(1990年11月14日)、「太陽の行方」(1991年3月3日)、「サイレント・サマー」(1991年6月26日)、「それは言わない約束」(1991年11月13日)など全15曲をリリースした。
                                                                                               
                                                                                         
                                                                                          
40.本田理沙
                                                      
Hondarisa  1971年5月27日生まれ、大分県中津市出身。日本のアイドル歌手、タレント。本名は本田こずえ。血液型:B型。堀越高等学校卒業。トゥルーウエーブ所属。1988年7月にCBSソニーからデビュー。デビューシングルは「Lesson2」。セカンドシングル「いちごがポロリ」は大胆な歌詞。テレビドラマ『花のあすか組!』(フジテレビ系)などに出演し、後にセミヌードで写真集を多数発売。2008年5月に週刊誌『FLASH』のグラビアにて復帰する。私生活では、1977年に結婚し引退するがその後離婚。2002年に再婚し、現在では2児の母である。個人的には「夕やけニャンニャン」が番組終了し、おニャン子クラブが解散した後、アイドル不在の中登場して来た印象が強い。「夕ニャン」の後番組の「桃色学園都市宣言」では森口博子ら共演した。シングル曲は「Lesson2」(1988.07.01)、「いちごがポロリ」(1988.10.21)、「本気!」 (1989.03.08)、「さそって入口 ふるえて出口」(1989.07.01)、「容赦なく愛して」(1989.11.01)、「ドキュメンタリー」(1990.05.21)、「a・za・mi」(1991.05.22)                                                                 
                                                                                             
 何故かこの時期のアイドルは、松本伊代や堀ちえみ、菊池桃子などB型がやたらと持て囃された。B型アイドルは、天真爛漫で裏表がない。A型の中森明菜のように、気分にムラガあって変にとりすましたり、時にはキャラが変わったかと思えるほど陽気に振舞ったり、何か見ていて違和感があって落ち着かない。本日紹介したアイドルのうち、8名がB型だった。さて、いよいよ明日は最終回となる。お目当ての歌手は出てきただろうか?自分がかつてファンだったアイドルもいれば、初めて見たという若い世代の人もいるだろう。10 ~20代の世代には、恐らく自分の母親くらいの年代と同じ年齢に達している筈で、お母さんが若い頃にアイドルとして活躍していた方々ということになる。今見ても可愛い人は可愛いし、古さを感じないかもしれない。今日の掲載で合計40名の紹介を終え、残すは明日の10名で終了となる予定だ。まだまだやっていたい気もするが、いつまでもアイドルに染まってばかりもいられない。最終回の明日は、最後に「1980年代B級アイドル」の総括を行いたい。もし評判が良かったら、日を改めて今回は掲載を見送ったA級アイドルも紹介できれば幸いだと思う。

2010年11月10日 (水)

1980年代のB級アイドルたち Part3

 さて、今日でこのシリーズも第3弾となった。昨日までで20人の元アイドルたちを紹介したが、やはり普段(平均500件)のアクセス数を超える訪問を頂いた。人それぞれお気に入りのアイドルが存在しているようだ。例えば40年以上前に、世の男性を虜にしたアイドル的存在と言えば吉永小百合だったし、30年前はキャンディーズや山口百恵がその頂点に君臨していた。今回取り上げている1980年代というと、20年前から30年前であり、その頃に多感な中高生だった若者は、現在では40代から50代前半の方々ということになる。コンサートホールでは、派手な鉢巻きとはっぴ姿で応援していた親衛隊やギャルの追っかけも多かった。アイドルの髪型やファッションを真似し、街を歩いていた人もきっと多いことだろう。しかし、90年代に入ると音楽シーンは急展開を見せる。「イカ天」が火つけ役となり、実力派のバンドブームが沸き起こった。その代表格が「プリプリ」であったし、「ピンクサファイヤ」だった。その後は「TRF」や「MAX」、「zoo」、「SPEED」などのダンスユニットが持て囃され、ミーハーではない、いわゆる本物志向のユニットが相次いで登場し、アイドルブームは廃れ一気に斜陽となった。最近は「モーニング娘。」や「AKB48」、「少女時代」などの台頭で、大人数でのダンスをパフォーマンスにするアイドルブームが復権の兆しを見せている。芸能界も世代交代が著しいが、一定のサイクルを持っているように思える。さぁ、前置きはこれくらいにして、今日は「Part3」と題して続編をお送りするが、今日こそはあなたのお気に入りのアイドルは登場するだろうか?

21.水野きみこ
                                                          
Mizuno  1965年5月11日生まれ、名古屋出身の元歌手(渡辺プロダクション所属)。本名は水野 規仁子。血液型はA型。愛称は“キミー” で、八重歯と笑顔が可愛い女の子だった。中学3年生の時、渡辺プロダクションの音楽学院に入学。1981年末、渡辺プロのオーディションを受け合格。1982年に愛知県から上京。堀越高校卒業。同年5月、ポリドールより「私のモナミ」でレコードデビュー。とても大人しい性格であった。2歳年上の姉がいる。芸能界引退後は、地元名古屋のデパートに勤務していた。水野の大ファンだった池田貴族(故人)が、当時メインMCをつとめていた『なごやかホルモン』(CBCテレビ)で会いたいとラブコールを送り、引退後は一切テレビなどに出演していなかったが、一度だけ同番組に出演している。主なレコードリリースは「私のモナミ/小さな恋のメロディ」(1982年5月21日)、「夢見るアニー/TOMORROW」(1982年9月25日)、「神よ何てお礼を言えばいいのか分からない/ハイヒールDreamin’」(1983年2月25日)、「VIRGIN/愛はケセラ・セラ」(1983年6月25日)の4曲のみ。可愛さはピカイチだったけど歌はイマイチだった。同じA型アイドルの松本友里とイメージが重なる。
                                                   
             
Mizunokimiko Kimiee Kimiko1                                                              
                                                       
22.浅倉亜季
                                                                                                                                
Asakura  1968年7月3日生まれの1980年代後半に活動した日本のアイドル歌手、タレント。東京都出身。血液型はA型。本名は大倉亜季。1986年3月に開催された、当時漫画とテレビアニメで大人気の『タッチ』のヒロイン・浅倉南のイメージガールを選ぶ「ミス南コンテスト」で優勝して芸能界入り。芸名もこれに由来し、名付け親は原作者のあだち充。同年5月にテレビアニメ『タッチ』の挿入歌で、ローソンのCMソングでもある「南の風・夏少女」で歌手デビュー。その後も、同じあだち充原作のテレビアニメ『陽あたり良好!』の主題歌などを歌った。女優として、フジテレビの月曜ドラマランド『ナイン』、『タッチ』やミュージカル『タッチ』のヒロイン役など、あだち充に関連する作品で演じる事が多かった。歌手としてはテレビの主題歌を歌うことが多く、代表作は「南の風・夏少女」(アニメ「タッチ」挿入歌)、「オータム・リップス」、「内気なボーダーライン」(主演ドラマ「ナイン」挿入歌)、「陽あたり良好」(アニメ「陽あたり良好!」主題歌)、「感傷(センチメンタル)ヴァケーション」(主演ドラマ「タッチ」挿入歌)、「Double Meaning」(主演ミュージカル「タッチ」テーマソング)などであった。
                                                                                                                               http://www.youtube.com/watch?v=zO-F48Ns6Jw&feature=related

23.相原勇

Aihara  1967年4月1日生まれで広島出身の元アイドル。 おひつじ座のO型。中学生の時に、ミュージカル『ピーター・パン』で、榊原郁恵の演ずるピーターパンが観客の上を飛ぶのを観て感動し「ピーター・パンを演じるために1984年に芸能界に入った」と自ら語っている。高校生の時、第9回ホリプロタレントスカウトキャラバンに応募。中国・四国地区代表として決勝まで残る。この時の優勝者は井森美幸であった。1985年4月、芸能界デビューのため上京。19866年4月、別の事務所から、本名の小原靖子で「ちょっとHENSHIN」でデビュー。そして「じゃけぇ」や「たいぎぃ」などの広島弁を随所に散りばめた「恋はBUCHIBUCHI!」という曲を同年8月に出すも、事務所の倒産もあり、芸能界での活動は制限されてしまった。1987年、小学館の雑誌『GORO』の激写で篠山紀信撮影のヌードを披露。1989年2月、TBS『平成名物TV』内の1コーナー「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称「イカ天」)の司会者に抜擢され、明るく元気な女の子といったキャラクターで大ブレイク。もし「イカ天」に抜擢されていなかったら、「広島に帰っていた」と本人も語っている。この番組出演を機に芸名を相原勇に変えての再スタートであった。1990年は、女優として4月に映画『香港パラダイス』に、10月にフジテレビ月9ドラマ『すてきな片想い』に出演し、歌手として7月にシングル「ボクはパワー」で相原勇として歌手デビュー、また4月から10月まで文化放送のラジオ番組『相原勇のBEBOP YOU』に出演する他、CM出演や番組司会でも活躍した。1998年にニューヨーク滞在中、英語と演劇を学んでいる時に出会ったアイルランド人男性の画商とアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに結婚した。
                                                                                                                       http://www.youtube.com/watch?v=Vqtzl3f9ssg

24.小出広美

Changelove  1966年3月3日生まれの元歌手、元グラビアアイドル。愛知県海部郡大治町出身。堀越高等学校中退。血液型はA型。中学生の頃より名古屋の芸能事務所巣山プロダクションに在籍。1981年、『ぱろぱろエブリディ』に火曜日アシスタントとしてレギュラー出演。番組内で彼女をモチーフにしたドラマも作られ、番組を見たキングレコードの関係者にスカウトされ、東京に進出。 『レッツゴーヤング』(NHK)の番組内グループサンデーズのメンバーに選抜され、1983年にはキングレコードより「タブー」でアイドル歌手としてデビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「'83 誰もがKOIDE(恋で)狂いです」。マイナー調の中森明菜路線の歌謡曲で、少し陰のある部分を演出し、“ポスト明菜”として注目を浴びた。サードシングル「水色の輝き」のリリース発売直後所属事務所を研音へ移籍。1984年に、シングル「最近のム・ス・メ」を発売する予定がお蔵入りとなり、研音から契約を破棄され、事実上の引退となる。引退の真相は未だに謎である。シングル「最近のム・ス・メ」は業界関係者向けのサンプル盤が数百枚しかプレスされず、中古レコード市場で高額で取引されている。後年、CDとして再発売されたが、これも発売直後に廃盤となった。権利関係に問題があったとされる。1987年からはグラビアアイドルとして活動し、数冊の写真集及びヘアーヌード写真集を発売する。その傍ら、都内の高級クラブ「水芭蕉」のママとなり、現在も営業を続けている。2010年11月「週間現代」にてヘアヌードグラビアで久々に登場。馬にヘアーヌード姿で乗るなど大胆な姿で登場して話題を呼んだ。デビュー曲以外の主な代表作は「タブー」、「チェンジLOVE」、「水色の輝き」、「心はプリズム」、「最近のム・ス・メ」など。
                                           
http://www.youtube.com/watch?v=m4W2IfYVfdQ&feature=related                 
 
Koide_hiromi Koidehiromi 
                                                            
25.原真祐美
                                                        
Haramayumi  1966年9月13日生まれは、元モデル・女優・歌手。出身は北海道札幌市。本名:種田真祐美。血液型はO型。札幌の街でショッピング中にスカウトされる。その後、モデルとして、各種ポスター、スチール、CM出演などで活躍。「ミルクランド北海道」のCM出演中に、第一プロダクションにスカウトされ、芸能界入り。三角形の小顔でえくぼがチャームポイント。 また同時期、デビュー前の1981年に、ホリプロスカウトキャラバンにて北海道代表として全国大会に進出した。歌手デビュー前、エースコック「麻婆拉麺」にCM出演した。1983年3月に「妹みたいじゃだめですか?」のキャッチフレーズで、「決心」でアイドル歌手としてデビュー。テレビ等に出演の際、帽子をトレードマークとすることが多かった。また同期のアイドルと比較し割とおっとりめの大人びた感じのキャラであった。サードシングル「Bye,Bye,September」は、FNS歌謡祭優秀新人賞をはじめ、あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭で新人奨励賞、ヤング歌謡大賞でアイドル賞、銀座音楽祭で銀賞、新宿音楽祭で銀賞、日本歌謡大賞など、各種新人賞を総なめにした。1984年からは、月曜ドラマランド「てんてん姫」の主演で女優業にも進出。以降、「瑠璃色ジェネレーション」「金曜日の妻たちへIII 恋におちて」などの作品に出演。「恋におちて」では、上司の妻(篠ひろ子)を恋愛の対象として慕うOLを演じた。堀越高校卒業後、いきなりの芸能界引退、第一プロダクションを退社。1年後、ヌード写真集「彩どり」を発売し、女優復帰宣言もしたものの、その後の活動は一切なく、事実上の引退となった。主なシングルレコードは、「決心」(オリコン102位)、「恋人なんて」(オリコン111位)、「Bye,Bye,September」(オリコン89位)、「夕暮れはLove Song」(オリコン91位)、「わかってマイ・ラヴ」(オリコン107位)、「夏のレッスン1(one)( オリコン109位)、「てんてん娘」:月曜ドラマランド『てんてん娘』主題歌、「ペルシャの涙」( オリコン169位)、「泣き虫なマリオネット」など。

http://www.youtube.com/watch?v=WqQNYjXhBXw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GzQdmtapEAM
http://www.youtube.com/watch?v=DcAr9tm3eW0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cQ703241-s8&feature=related

26.太田貴子

Ohtatakako  1967年8月13日生まれで東京都出身。歌手であり声優せもある。B-Box所属。血液型はB型。1982年、NTV『スター誕生!』第45回に出演し、決戦大会で徳間音楽工業からスカウトを受け、1983年に歌手デビュー。デビュー曲の「デリケートに好きして」は、自身が主演声優を務めた『魔法の天使クリィミーマミ』の主題歌にもなった。ちなみにこの曲の楽曲制作はビーイングが行っている。その後1984年にNHKの『レッツゴーヤング』のレギュラーメンバー「サンデーズ」の一員として参加。その後1989年にNECアベニューに移籍した。1985年頃には、新宿ルイードでライブを行うなど、アイドル系のポップス歌手としては異例の活動を行った。その後、音楽面でも徐々にロック色が強くなっていった。1994年に引退し、1996年に結婚。3人の子供にも恵まれる。1998年7月に行われた「スターぴえろ20周年記念ファン感謝祭にゲスト出演した際、芸能界への復帰宣言を行い、以後は主婦業のかたわらで芸能活動再開させた。主なヒット曲は「デリケートに好きにして」、「BIN・KANルージュ」、「LOVEさりげなく」、「夏にあわてないで」、「ハートブレイク・ミステイク」、「天使のミラクル」、「ハートのSEASON」など多数。空想的不思議少女キャラは小倉優子と同様。2人共にB型。
                                                                                                               
http://www.youtube.com/watch?v=SXK_HaxuJrY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=f0Y7Rr3vPjc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Hd9_7Uy-neY&feature=related

Ootatakako

27.勇直子

Isamu  1968年12月7日生まれの神奈川県出身。女優・元アイドル歌手。血液型はO型。1985年、原宿でショッピング中に芸能プロダクション『K-HOUSE』のスタッフにスカウトされ、芸能界入り。翌年、『夏・体験物語2』(TBS)でドラマデビュー。挿入歌『センターラインが終わるとき』でRVCより歌手としてもデビュー。『歌のトップテン』(日本テレビ)に出演した他、各種新人賞レースにもノミネートされ審査員奨励賞を受賞した。声の質が透明で歌唱力もあった。当時、作家の秋元康が彼女の才能に惚れこみ「本田美奈子」を超える、新時代アイドル歌手になる」と語っていた。ワイルドな外見とやや性格的に天然が入っており、ボケキャラ的な不思議少女の存在だった。歌手活動のかたわら、数々のミュージカルやドラマにも出演。1990年頃、芸能界引退。数年後には宮田和弥(JUN SKY WALKER(S)のボーカル)と結婚、出産も経験。2002年、芸能プロダクションoregaと契約し、芸能界に復帰。現在も、女優や、CMタレントなどで活躍中。主なシングルカットは「センターラインが終わるとき」、「ナーバスにならないで」、「さよならは落ち込まないで」、「BOOM BOOM BOOM」、「ラスト・パラシュート」、「ポラロイドのふたり」 など。

http://www.youtube.com/watch?v=Yjgt6ybwdSA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=EpW-Slk2PbA&feature=related

28.島田奈美

Shimada  1971年2月1日生まれ、東京都練馬区出身の音楽ライター、ディスクジョッキー。10代の頃は島田奈美という芸名でアイドルとして活動していた。現在は島田奈央美として活躍。富士見中学校・高等学校卒業。血液型はO型。アイドル時代は色白で丸顔、アンニュイな美少女的存在だった。とんねるずの妹分として「お坊っチャマにはわかるまい!」に出演してブレークした。ややイメージが伊藤つかさと被る。1983年、練馬区中村の私立富士見中学校に入学。。中学2年の時、本人を含めた家族5人でTBS系のクイズ番組「クイズ100人に聞きました」に出場し勝利を収めた。このときの賞品としてハワイ旅行がプレゼントされている。また、司会の関口宏が「この子芸能界に入りたいんだって!」と言ったため、芸能事務所からの誘いが殺到するが、その時は断ってしまった。映画『パンツの穴2~花柄畑でインプト』のオーディションで準優勝。1986年、アイドルとしてデビュー。デビュー当時のプロフィールは、「身長161cm、体重44kg、B80W60H83、足23cm」。同年4月から7月にかけて、TBS系ドラマ「お坊っチャマにはわかるまい!」にて、とんねるずの木梨憲武の妹、「平田奈美」役でテレビドラマデビュー。5月には「ガラスの幻想曲(ファンタジー)」で歌手デビュー。以後、シングル14枚、オリジナルアルバム10枚をリリース。一部の曲では本名の「島田 奈央子」名義で作詞も手がけていた。1987年2月、「Free Balloon」が「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」に初ランクイン。ファーストコンサートを大阪や東京・日本青年館などで開く。1988年、ラジオ番組「奈美のFLYING TEAPOT」放送開始。契約上の理由からか、引退後の1990年9月まで続いた。引退直前には「ラストアルバムでは、素直に自分のやりたいことが出来たので、思い残すことはない」ともコメントしている。しかし、後期に取り入れた「ダンスミュージックは受け入れられなかった気がする」というコメントも残しており、商業的には必ずしも成功とは言えなかったとみられる。1990年7月30日、MZA有明のファイナルコンサートを最後に、自らの意思でアイドルを引退した。主な楽曲は「ガラスの幻想曲」、「負けないで・・片想い」、「パウダースノーの妖精」、「Free Balloon」、「内気なキューピッド」、「パステルブルーのためいき」、「ハロー・レディ」、「タンポポの草原」などベビーフェイスの愛くるしい顔に合わせ、メルヘンチックな曲が大勢を占めた。おニャン子時代の渡辺満理奈に似ている。

http://www.youtube.com/watch?v=zrOih7-ovSg
http://www.youtube.com/watch?v=_shYiq74EUo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hJpXLE58WNI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=xSsNdevSaTw&feature=related

Shimada_nami Shimadanami Nami_shimada 

29.水谷麻里

Mari  1971年7月18日生まれの1980年代後半に活動した日本の元女性アイドル歌手。本名、江口 葉子。愛知県津島市出身。現役時代の所属事務所はサンミュージック、レコード会社はビクター音楽産業。堀越高等学校卒業。中学2年生時の1985年、資生堂主催の「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に応募、全国大会で54,129名の中からグランプリとなる。カラスの鳴き真似が得意で、コンテストでも演じ、これが審査員に大受けした事からグランプリを獲ったと評される。1986年3月、「21世紀まで愛して」でデビュー。デビュー年はアイドルブーム真っ只中で、年末には銀座音楽祭・メガロポリス歌謡祭・日本レコード大賞など多くの音楽祭が行われており、山瀬まみ・ポピンズ・真璃子・少年隊らと各新人賞を争い、彼らと共に多くの新人賞を獲得する。最初の1年目は細くやや不安定なボーカルで、どちらかといえば可愛らしさを前面に立てた典型的なアイドル歌手だったが、1987年1月に発売した4thシングル「春が来た」から歌唱が一変、見違えるように声が太くなり歌が安定する。以降、「不思議路線」と銘打ってハイテンションで意味不明な暴走パワーに満ちたシングルを連発する。1987年秋、雑誌の対談をきっかけに、デビュー前からファンだった漫画家の江口寿史との交際が親密化し、次第に芸能活動への熱意を失う。その後地元向けのDJやCMの仕事を続け、1990年に18歳で江口と結婚し、芸能界を完全に引退した。シングルは1986年から88年までに8枚発売され、オリコンチャートでは、内4枚が連続でベスト10入りした。最高位は「乙女日和」「春が来た」の週間売上9位。また、アルバムはオリジナル3枚、ベスト盤が2枚発売されている。これはもうB級アイドルではないかもしれない。シングルは「21世紀まで愛して」、「地上に降りた天使、、「乙女日和」、「春が来た」、「ポキチ・ペキチ・パキチ」、「バカンスの嵐」、「メビウス天国」、「春休み」など。香椎由宇に似ている気がする。血液型はO型。
                                                        
http://www.youtube.com/watch?v=FOF3eRkB7nM&feature=related                              
                                                         
Mizutani  
                             
30.真璃子             
                                                       
Mariko_2  1968年8月2日、福岡県筑紫郡大野町(現・大野城市)出身の歌手、アイドル。本名は古賀真里子。血液型はO型。1984年に文化放送の『決定!全日本歌謡選抜』のオーディション企画「スターは君だ!!」でグランプリを獲得。オフィスAtoZに所属し、1986年1月に「私星伝説」でデビュー。3枚目のシングルレコード「夢飛行」は1986年の第28回レコード大賞新人賞、第17回日本歌謡大賞放送音楽新人賞などを受賞している。二枚目のアルバム『♡ to ♡』から真璃子本人が作詞した曲が採用されるようになり、20枚以上のシングルと6枚のオリジナルアルバムを発売した。フォーライフ時代は不思議・幻想をテーマにした曲と少女視点の恋やあこがれを歌った曲を歌うことが多かった。ポニーキャニオン移籍後は、等身大の大人の恋愛やメッセージ性のある楽曲へとシフトしていった。歌番組での衣装もフリルのドレスからドレッシーなスーツへの変遷が見られる。 ポニーキャニオン移籍後は高見沢俊彦(お嫁にいきたい)・松任谷由実(セシルの週末)・中島みゆき(ほうせんか)・尾崎亜美(届かなかったエアメイル)など様々なスタイルの作家の曲を歌いこなした。女性シンガーソングライターの御三家(松任谷・中島・尾崎)の曲を歌った数少ない一人である。特に尾崎亜美とのコラボは後にアルバム「ヴィーナスたちへの伝言」の制作へと発展しており、現在でも名盤と言われる一枚となっている。ラストアルバム「I LOVE ME」レコーディングはオーストラリアのパースで行われ、オリコンにレコーディング日記を連載した。ラジオ番組の司会もこなし、女優としてテレビドラマへの出演歴もある。とんねるずと同じ事務所であったため、とんねるずの妹分としてかわいがられていた。1966年、故郷・福岡の中学時代からの先輩と結婚し、福岡市内に在住。二人の男児をもうけ現在は芸能活動から事実上引退している。私はずっと石田ゆりこに似ていると思っていた。
                                           

 「そういえばそんな名前のアイドルがいたな?」とか、例え名前と顔は覚えていなくても、「どこかで聞いたことがある曲だな」とか記憶の片隅にあるのではないだろうか。今は便利な世の中で、そういった記憶を取り戻してくれるメディアがビデオだったり、今回リンクして紹介している「You Tube」だ。こんなにも手軽で簡単に30年も前の映像を楽しめるなんて・・・。科学技術の進歩には敬服するばかりである。おそらく、かつて自分が支持していたタレントやアイドル歌手を思い出して欲しくて、あるいは自分がファンだったことを誇示したくてアップするのだろう。そういえば何を隠そう私も森高千里の大ファンで、彼女が出ていた歌番組は欠かさず録画していた。確かに30年前の曲であってもすんなり歌詞が出てきたりして自分でも驚いた。覚えやすいメロディーラインだったし、曲自体が3分そこそこと短かったのも耳に残る大きな要因だったのだろう。さて、今日で5分の3が終了となったが、まだ20名が残っている。「何で私が好きだったアイドルが出て来ないんだ?」とお嘆きのあなた!まだあと2回記事が残っている。「明日こそは・・・」と期待して貰いたい。というわけで明日は「第4弾」として合計で10名をお送りする予定だ。

2010年11月 9日 (火)

1980年代のB級アイドルたち Part2

 さて、今日は昨日の続きである。昨日10名の元アイドル歌手たちを紹介したところ、現在40代と思われる方々を中心に歴代1位となるアクセス数が殺到し、大変な反響があった。ミーハー根性と言われればそれまでだが、バブル時代に世間が沸き返り、何かにつけ色めきだっていた好景気にあって、可憐に、そして青春の魅力を爆発させていたティーンエイジの美少女アイドルたち。私達は彼女たちの一挙手一投足に目と心を奪われ、テレビに釘付けとなった(多少オーバーか?)ことを思い出す。80年代は「ぶりっこアイドル」の代名詞で、独特なヘアスタイルのブームの火付け役となった松田聖子を筆頭に、豊かな時代を象徴するかのように様々なアイドルたちが登場しては一時の繁栄とともに姿を消していった。私達は彼女たちの偶像を思い返すとき、自分の青春時代と重ね合わせ、当時の出来事や世相を懐かしむことが出来る。個人的に80年代は物資だけでなく心の豊かさを追求した時代だったように思う。自身も高校と大学時代にあたり、多感な時期に多彩なアイドルたちに出逢え、心ときめかせたことを今でも幸せに思っている。さぁ、今日は「Part2」と題し、昨日と同様に10名をピックアップして続編をお送りするが、果たしてあなたのお気に入りのアイドルは登場するだろうか?

11.宇沙美ゆかり

Usami  本名は金城ゆかり。1968年4月2日生まれ。元アイドル歌手、元女優。沖縄県浦添市出身。身長163cmで血液型はO型。地元沖縄で開催されたタレントオーディションで芸能事務所スカイコーポレーションにスカウトされ、芸能界入り。その後、井筒和幸監督映画「みゆき」の主演オーディションに合格し、その主演女優としてスクリーンデビューを果たす。本作により各種の映画賞を獲得する。1984年3月にはキャニオンレコードより「蒼い多感期」でアイドル歌手としてデビュー(その際のキャッチフレーズは「ときめきタイフーン」。なお、これはデビューシングルのB面のタイトルでもある)。また同曲はCM初出演の不二家「パフィ」に続く出演CMカネボウ「マイデイト」のCMソングとしても大量OAされた。その後、コンスタントにレコードをリリースしながら、1984年の「フジテレビ夏キャン・ガール」に選ばれ、同局放映の当時のアイドル女優の定番出演番組であった月曜ドラマランド「あ!Myみかん」では主演も務めた。また、フジテレビ系連続ドラマ「オレゴンから愛」の水泳部の学生役を務めた。1985年、フジテレビ系連続ドラマ「スケバン刑事」の主演に選ばれるが、同時期に松竹の奥山和由プロデューサーからの強いオファーにより映画「V.マドンナ大戦争」で主演を果たす。一方、「スケバン刑事」は映画と撮影時期が重なり降板することとなる。一見順調に見えた彼女の芸能界生活であったが、上記映画公開後、突然沖縄に帰郷。これがそのまま事実上の引退となる。この「引退」に関しては当時さまざまな憶測が流れたが、いまだに真相は謎のままとなっている。なお、帰郷後の一時期に地元でラジオDJとして活動していた時期がある。曲は他に「SHOCK!」、「ツライ・キライ・クライMAX」、「アルカリ少年(boy)」、「風のプリマドンナ」、「恋はDancing」など。

http://www.youtube.com/watch?v=5ILuugBh4_g&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=k3voeaCZq4k&feature=related  

12.渡辺典子

Watanabenoriko  1965年7月22日、大分県大分市出身の女優。 血液型A型、身長153cm。イイジマルーム所属。 彼女は角川映画の救世主と清楚な美人というイメージがある。1981年第6回ホリプロスカウトキャラバンの九州地区代表に選ばれ、決勝まで進出した(優勝者は堀ちえみ)。1982年4月、映画『伊賀忍法帖』のオーディションを兼ねた「角川映画大型新人女優募集」でも九州代表となり、応募総数57,480名から勝ち残った16名での本選(決勝)でグランプリを受賞し、芸能界デビュー。この時のオーディションで特別賞を受賞したのが原田知世である。薬師丸ひろ子、原田知世と共に「角川三人娘」と呼ばれた。歌手としても出演作の主題歌などを歌い、オリコンベスト10入りを果たす。「優等生役」が多かった薬師丸や原田に対し、可憐なお嬢様の外見とは大きく異なる『積み木くずし』の不良少女など汚れ役も演じた。役柄上、髪の毛を金髪に染めた為ショックで3日間泣いてしまったらしい。 2時間ドラマへの出演も多い。私生活では1995年にプロ野球選手西岡洋と結婚、1女をもうけるが1999年に離婚している。東宝映画「晴れ、ときどき殺人」や「いつか誰かが殺される」では主役を演じた。また、歌手としては「花の色」「晴れ、ときどき殺人」「いつか誰かが・・・」「カムイの剣」、「野ばらのレクイエム」、「火の鳥」の楽曲をリリースするなど映画の主題歌を歌うことが多かった。私は「♪花の色~移りにけりな~いたずらに人を~愛しては駄目~」という百人一首にある句をもじって歌詞にした「花の色」が大好きで、レコードを持っていた。

http://www.youtube.com/watch?v=o4DFL2-nXDc
http://www.youtube.com/watch?v=FFEtVo1AlHY&feature=related

Watanabenoriko_2

13.セイントフォー

 橋幸夫がかつてプロデュースしていた女性アイドルグループである。メンバーは岩間沙織、浜田範子、鈴木幸恵、板谷祐三子(いわお潤)だった。

Saint_four岩間沙織・・・1964年7月7日生まれ。血液型O型。神奈川県出身。バックダンス担当。イメージカラーは、緑。初代リーダー(グループ結成時からデビューまでの2年間を務めた)
浜田範子・・・1965年2月22日生まれ。血液型A型。埼玉県出身。リードボーカル担当。イメージカラーは、ピンク。
鈴木幸恵・・・1966年5月15日生まれ。血液型A型。神奈川県出身。リードボーカル担当。イメージカラーは、青。※二代目リーダー(デビューから解散まで務めた)
板谷祐三子・・・1968年3月5日生まれ。血液型A型。神奈川県出身。バックダンス担当。イメージカラーは、赤。1986年3月に脱退。
いわお潤・・・本名、岩男潤子。1970年2月18日生まれ。血液型AB型。大分県出身。
※板谷脱退後に加入したメンバー。

Saint4 1982年「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。デビュー当初は板谷・浜田・鈴木・岩間(立ち位置順)で構成されたが、後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙をするなど、アクロバティックなパフォーマンスが話題になった。事務所の方針により、グループのマンネリ化を防ぐため結成から2年ごとにリーダーを変えていく方針だった。同時期にデビューした少女隊と同じようにプロモーションに40億円をかけたといわれ話題になったが、所属事務所の日芸とレコード会社リバスター音産との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを出した後、新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2ヶ月後、本人たちの意思という形で解散した。主な曲は、「不思議Tokyoシンデレラ」 デビューシングル(オリコン最高35位)、「太陽を抱きしめろ」( オリコン最高15位)、「ハイッ!先生」、「ハートジャックWAR」( オリコン最高43位)など。解散後、浜田範子・鈴木幸恵はロック系ボーカルデュオ「ピンクジャガー」として再デビュー。解散後、浜田は濱田のり子としてセクシー系の女優として活躍。岩間沙織も現在は女優として活動している。いわお潤は本名の岩男潤子に芸名を戻して主に声優として活動、1990年代中期の女性アイドル声優ブームを代表する一人となり、現在でも声優、歌手として幅広い活躍を続けている。なお、メンバーの中では、板谷祐三子、浜田範子(濱田のり子)、岩間沙織(岩間さおり)が、それぞれソロでヌード写真集を発表した。売れなくなった芸能人が、当時は生き残りをかけてとる最終手段であった。
                                                                                                                                                                                                                                             
http://www.youtube.com/watch?v=1bq0SMA18Ag&feature=related                                            
                                                       

14.渡辺桂子

Watanabekeiko  1966年11月9日、大阪府生まれで1984年にデビューした元アイドル歌手。当時の本名は渡部桂子。血液型はA型。明治大学付属中野高等学校定時制卒。「スター誕生!」にてテレビに出ているところを、芸能事務所・ゴールデンミュージックプロモーションの社長にスカウトされ芸能界入り。また、同時期に大沢逸美が優勝したホリプロスカウトキャラバンで特別賞を受賞している。1984年3月に「お友達にしてくれませんか?」のキャッチフレーズでテイチクレコードより「H-i-r-o-s-h-i」でアイドル歌手としてデビュー。同曲で「ザ・ベストテン」の今秋のスポットライト、「ザ・トップテン」の話題曲など多くのテレビ番組に出演し、鳴り物入りのデビューであった。ポスト柏原芳恵(事務所の先輩でもある)、ポスト堀ちえみとも呼ばれた。やや岡田有希子に似た雰囲気を持っていた。その後、新人賞レースにも参戦し、多くの新人賞を受賞した。1985年、歌手として活動する傍ら、TBS系連続ドラマ「乳姉妹」に主演し、女優としても知名度をあげる。1986年4月に出演番組で知り合った日系二世の男性と逃避行気味に渡米・結婚し、突然引退。 しかし離婚して翌87年秋に本名の「渡部桂子」で芸能界に復帰。といっても男性誌(GORO・週刊プレイボーイ・平凡パンチなど)に写真集の宣伝としてヌードを披露した程度に留まる。同時期にビデオ3本を出した以外はこれといった芸能活動をせずに事実上の再引退、大阪に戻り再婚・出産したと言われている。他に「赤道直下型の誘惑」、「第Ⅱ少女期」、「グッバイ・ガール」、「恋人白書」、「真夏のレッスン」、「純情レジスタンス」など。
                                                                                                                                 
http://www.youtube.com/watch?v=12I3KtYnIBo&feature=related                                                        
                                
15.中山忍

Nakayamashinobu  1973年1月18日生まれの日本の女優、歌手、元アイドル。所属事務所はオフィスミューズ。女優の中山美穂は実姉。身長166cm。血液型はB型。亜細亜大学中退。日出女子学園高校では、同級生に岡本南、小林彩子などがいた。姉の美穂を家族と共に空港へ見送りに来ていた時にスタッフの目にとまり、これが芸能界に入るきっかけになった。1988年、テレビドラマ『オトコだろッ!』でデビューした。同時期にアイドルとして歌手活動も行っていた。歌手活動休止後は2時間ドラマを中心に連続ドラマ、舞台、CMなどで活躍している。1993年にに『ゴジラvsメカゴジラ』、1995年に『ガメラ大怪獣空中決戦』に出演したことで、ゴジラ映画とガメラ映画の双方に出演した初の女優となった。NHKの科学番組などへの出演も多い。各映画祭で助演女優賞を獲得した。なおヨコハマ映画祭、ブルーリボン賞では姉の中山美穂が主演女優賞を受賞しており、史上初の姉妹同時受賞となった。歌手の中山美穂に対して女優のイメージが強いが、アイドル時代には曲も出していた。代表作は「小さな決心」、「涙、止まれ!」、「負けないで、勇気」、「夏に恋するAWATENBO」、「駈けてきた処女(おとめ)」、「ロマンティック」など。私は彼女がブラウン管に登場した時からお気に入りだった。永遠のアイドル菊池桃子(同じB型)を彷彿させる天使のような雰囲気を持っていた。
                                                                                                                                                      
                                                                                                                                  
Nakayama_2
 
16.岩井小百合
 
Iwaisayuri  1968年8月10日は、女性アイドル歌手、タレント、女優。神奈川県相模原市出身。堀越高等学校東洋大学短期大学日本文学科卒業。小さい頃からのど自慢荒らしとして注目を集め、それがきっかけでユタカプロダクションにスカウトされる。10歳の頃映画「ガラスのうさぎ」に出演しまずは女優としてスクリーンデビュー。1983年1月に横浜銀蝿のマスコットガールとして、キングレコードより「ドリーム ドリーム ドリーム」でアイドル歌手としてデビュー。デビュー日のサンシャインシティの噴水広場で行なわれたデビュー曲発表会は1万人のファンが集まった。よって彼女をB級アイドル呼ばわりするのは大変気が引ける。ポニーテールがトレードマークで典型的な「アイドル」といった風貌だった。弱小事務所に所属していながらこの年の各種の新人賞を総なめにした。1983年9月には日本武道館でファーストコンサートを行った。15歳1ヶ月でのソロコンサートは日本武道館史上最年少記録となっている。同じくポニーテールにしていた武田久美子とは何かと比較され、歌番組でも共演することが多かった。デビュー2年目、トレードマークのポニーテールをばっさり切り、パーマをかけ、ショートカットにした。1987年ミュージカル「少公女セーラ」に主演する。その後、ワイドショーのレポーター、アニメの声優、パチンコアイドルなどで多方面で活躍する。 また、ライブの開催やピアノのインストゥルメンタルCDアルバム「LOVE LETTER」を発表するなど、音楽活動にも力をいれる。2003年9月に医師と結婚。2004年6月には女児を出産した。 2005年2月、初台DOORSのライブ会場でアメリカへ語学留学をすることを発表し活動を休止する。2005年4月、音楽・語学留学の為家族でアメリカ・ヒューストンに移住する。2005年12月、アイドル歌手時代の全音源を収録した『岩井小百合DREAMBOX 』が発売される。2007年には第2子となる男児を出産。2008年5月、留学を終え帰国した。主なシングル曲は『ドリームドリームドリーム』、『ドキドキHeartのバースディ・パーティ』、『いちごの片想い』、『恋◇あなた◇し・だ・い ! 』、『水色のラブレター』、『早春メモリー』、『パラレルガール』 『そっとさよなら』、『恋のアメリカン★パトロール』、『とまどい』、『涙のシルエット』、『涙に天使』など。血液型はA型。
                                       
                                                      

17.網浜直子

Amihama 1968年8月12日生まれ の しし座 で兵庫出身、血液型はO型。本名・秦 直子(はた なおこ 旧姓・網浜)。夫はタレントの三四六。1984年にミスセブンティーンコンテストで18万325人の応募者の中から選ばれ、松本典子とダブルでグランプリを獲得。翌年デビューとなる映画『バローギャング・BC』で人気のシブがき隊と共演。以降、映画『ビーバップ・ハイスクール高校与太郎完結編』『仁義なき野望』、ドラマ『愛という名のもとに』、『温泉へ行こう』、『同級生』、『ママまっしぐら!』など数多くの作品に出演。1985年には『竹下涙話』で歌手としてもデビュー。同期の中山美穂、森下恵理、斉藤さおりとは親友だった。今でも仲はいいらしい。日本青年館でのファーストコンサートでは、当時親友のダンプ松本、中山美穂も花束をもって祝いに駆けつけた。出演CMカゴメ「IMO」のCMソング「シリアス」、夏・体験物語挿入歌の「ホットサマーナイト」など続々リリースし、また、1987年コーセー化粧品「ソニア」のCMソング、コーセー1987年キャンペンガールもつとめた。ものまねバトル大賞での共演がきっかけで1998年にタレントの松山三四郎と結婚。2001年5月に男児を出産。現在は『愛の劇場』を中心に女優業で活躍している。二児の母でもある。

http://www.youtube.com/watch?v=s09TUUPLA0c&feature=related

18.岡本舞子

Okamotomaiko  1970年9月3日生まれの東京都出身の女優、アイドル。フロムスクラッチ所属。血液型O型。平尾昌晃ミュージックスクール東京本校出身。子役として芸能界入りし、西城秀樹が司会を勤めた土曜日朝の情報番組「モーニングサラダ」から、「サイニーサイド7」、「うるとら7:00(セブンオクロック)」へ続く一連シリーズのマスコットを勤める。また、テレビアニメ「魔法の妖精ペルシャ」のテーマ曲「見知らぬ国のトリッパー」を歌うほか、声優としてもゲストで出演した。1985年4月に、ビクター音楽産業より「愛って林檎ですか」で正式にアイドルとしてレコードデビュー。同年「第4回メガロポリス歌謡祭」優秀新人エメラルド賞、「第16回日本歌謡大賞」新人賞を受賞した。その後はミュージカルへの出演等順調な芸能活動を続け、1987年には、松竹映画配給「舞妓物語」でスクリーンデビューを果たす。しかし、同年秋に引退。現在は、一児の母となっている。主なシングル曲は「愛って林檎ですか」、「ファンレター」、「11月のソフィア」、「臆病なヴィーナス」、「ナツオの恋人ナツコ」、「さよならペガサス」など。容姿は見るからにO型特有の顔の作りをしている。清楚なお嬢様風。小顔で色白。うしろゆびさされ組の高井麻巳子に似て、私にとって「直球ど真ん中ストライク」の存在だった。最近では南沢奈央や桜庭ななみっぽい感じ。

http://www.youtube.com/watch?v=5eOYn0dui5E&feature=related          

http://www.youtube.com/watch?v=qTbyYj395Vo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=z-ay28bijm0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=7fPVP5C6w1w&feature=related

Okamotomaiko_2

19.徳丸純子

Tokumaru  1968年6月26日生まれの大分県出身。日本のモデルであり、元アイドル歌手、元女優である。かに座で血液型はO型。明治大学付属中野高等学校定時制卒業。1983年のTDKコア主催の「金の椅子オーディション」で優勝し、1983年の3月に「聖・ファーストラブ」でアイドル歌手としてデビューする。ハウス「フルーチェ」のCM出演で顔を売り、各種新人賞にも参戦した。1985年以降、俳優業に移行し、数多くのドラマに出演した。一時は、「東京乾電池」の劇団員として、舞台にも多く出演していた。数年前からはモデル事務所に所属し、モデル専業としてCM中心に活動している。現在は、シアトル在住である。主なアイドル時代のレコードは「聖・ファーストラブ」、「PICA-PICA」、「恋はシーソーゲーム」、「蒼いサスペンス」、「哀の心話」など。デビュー同期は桑田靖子、THE GOOD-BYE、伊藤麻衣子、岩井小百合、松本明子、小出広美、原真祐美、大沢逸美、森尾由美、木元ゆうこなどで地味な83年デビュー組とも言われていた。

http://www.youtube.com/watch?v=VxFG-4cjlCo
http://www.youtube.com/watch?v=ECH48EOxhcw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=f9wQwjlya_s&feature=related

20.スターボー

Starbow  1982年から1984年にかけて活動した女性3人組アイドルグループ。所属事務所は研音、所属レコード会社はポリドール。スターボーとは星の虹(レインボーからの造語)という意味で「星の架け橋」という意味が込められているとされている。グループ名の命名者は細野晴臣。1982年7月、「ハートブレイク太陽族」)でデビュー。当初の名義は宇宙三銃士スターボー。太陽系第10惑星「スターボー」から脱出し、地球に「A・I(愛)」を伝えるためにやってきた性別不明の3人組アイドルという設定の下売り出された。衣装は三銃士を意識した宇宙的なコスチューム、髪型も刈上げのテクノカット、また態度も無表情・無口と、徹底して性別不明で非人間的なイメージを演出して活動していた。 。デビュー当初、メンバーはそれぞれナガト、イマト、ヤエトと称していたが、全員の名前の語尾に「ト」が入るのは「男らしくするため」という理由があった。デビュー曲「ハートブレイク太陽族」もそのイメージ戦略は徹底しており、作曲者の細野が所属していたYMO色の強いテクノポップやニュー・ウェイヴ的なサウンドに、男目線で書かれた命令口調の歌詞のラブソングで、「なっちまう」の印象的なリフレインでよく知られている。またメンバーの歌唱法も意図的にドスの利いた野太い声で歌われ、男らしさをさらに際立たせていた。しかし、「ハートブレイク太陽族」のレコード売り上げが7千枚(オリコン最高98位)と商業的に失敗に終わったことから一転、大幅なイメージチェンジ・路線変更を行い、1983発売のシングル「たんぽぽ畑でつかまえて」以降はキャンディーズを意識した普通の女性アイドルグループになった。メンバーも当時流行したいわゆる「聖子ちゃんカット」にフリフリの衣装となり、名前もナミ、ナギ、メグと変えた。その後、同年に唯一のアルバムとなる『STARBOW 1』をリリース。翌1984年にリリースされたシングル「サマー・ラブ」を最後に活動を終えた。3人の現況は不明。事務所の勝手な方針でキャラを作り上げられただけでなく、その興行失敗によって人生を翻弄された3人組ユニットとなってしまった。シングルカットされたのは3曲のみで「ハートブレイク太陽族」(1982年)、「たんぽぽ畑でつかまえて」(1983年)、「サマー・ラブ」(1984年)

http://www.youtube.com/watch?v=0Kh6F6jlDuY
http://www.youtube.com/watch?v=gp4OLF_WN20&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=a1hYXxv5dD0&feature=related

 さて、第二弾の10名のアイドルたち、如何でしたか?よく芸能界は、タレントが成功するか否かはタレント本人の個性もさることながら事務所の力が大きいと言われている。せっかく掘り当てた金の卵を成功へ導けるかどうかは、そのタレントをどういうコンセプトで売り出すか、そのイメージ作りが何より大事で、その所属事務所とレコード会社のキャンペーン(戦略)によるところが大きい。「スターボー」は最初の「作り」が失敗に終わり、慌ててイメチェンを図った急を凌いだ典型だ。無理に作ったキャラは長持ちしないし絶対失敗する。やはりそのタレントの本質を見抜き、自然体で売り出すのが一番良いようだ。もちろん今日、私が取り上げたアイドルたちは、私が勝手な判断でB級などと命名して、大変失礼なことではあるが、決して彼女たちはマイナーではなく、一時期は歌番組やバラエティ番組に度々登場している売れっ子だったことに違いはない。ただ、ブームを巻き起こしたり、オリコンやベストテン番組の上位に入るようなアイドルではなかったというだけの話。もちろん、彼女たちひとりひとりが持ち味や個性を発揮し、ある一定のステータスを築き上げた上に、人気を博していたことに変わりはない。要は視聴者からすると、豊かな時代にあって、取捨選択が出来ていたわけで、自分の好みでお気に入りを指名できる状態にあったということになる。何とも贅沢で良い時代だったとつくづく思う。まだまだこれで5分の2。明日も10人のアイドルを取り上げ、一緒にお宝映像を楽しみながら昔を回顧したいと思う。どうぞご期待ください。

2010年11月 8日 (月)

1980年代のB級アイドルたち Part1

 今を遡ること30年前の1980年代は「アイドル全盛時代」だった。まるでバブルの申し子と呼ぶに相応しいほど次々と新しいアイドル歌手が登場しては消えて行った時代でもあった。原宿では週末になると「竹の子族」が歩行者天国で集団で踊りを披露し、テレビをつければアイドル歌手が親衛隊と呼ばれる派手な衣裳に身を包んだ応援部隊の声援を受けながら華やかに歌っている光景が随所で見られ、40代も半ばを過ぎた人間にとっては懐かしく思い出される。当時、芸能界のA級アイドルと言えば、男性がたのきんトリオ(田原俊彦・野村義男・近藤真彦)やシブがき隊(薬丸裕英・布川敏和・本木雅弘)、イモ欽トリオ(長江健次・西山浩司・山口良一)、吉川晃司、沖田浩之、ひかる一平、少年隊(錦織一清・植草克秀・東山紀之)などであった。一方女性は、70年代アイドルだった麻丘めぐみ、南沙織、天地真理、キャンディーズ(伊藤蘭・藤村美樹・田中好子)、桜田淳子、山口百恵、石野真子、大場久美子、木之内みどり、ピンクレディー(根本美鶴代・増田恵子)、榊原郁恵、高田みづえの後を引き継いだA級アイドルたち(松田聖子、河合奈保子、小泉今日子、中森明菜、早見優、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美、柏原芳恵、伊藤つかさ、菊池桃子、岡田有希子、荻野目洋子、西田ひかる、斎藤由貴、南野陽子、浅香唯、おニャン子クラブ、中山美穂、立花理佐、WINK(相田翔子・鈴木早智子)ら)がブラウン管を独占。ヒットチャートを賑わす常連だったし、歌番組やドラマ、バラエティ番組では彼等の顔を見ない日はないほどであった。当時人気絶大だったアイドルが出演していた番組と言えば、「8時だョ!全員集合」、「ザ・ベストテン」、「紅白歌のベストテン(後のザ・トップテン)」、「カックラキン大放送」、「夜のヒットスタジオ」、「ヤンヤン歌うスタジオ」、「たのきん全力投球」、「スーパージョッキー」、「アイドルパンチ」、「パリンコ学園No.1」、「レッツゴーヤング」などがあった。そして、彼女たちA級アイドルの華々しい活躍の陰で、明日のスターを夢見て、健気に頑張っていた女性アイドルたちも大勢いた。今風の言葉で例えれば、「B級アイドル」と言えるだろう。今回は、芸能界の荒波に、ともすれば埋没して忘れ去られがちな、そうしたアイドル達にスポットを当ててみたい。私は男なので、正直あまり男性アイドルはわからない。よってミーハーと言われるかも知れないが、女性アイドルを中心に総勢50名ピックアップし、特集を組んで全5回シリーズでお送りしてみたい。(アドレスをクリックすれば、「You Tube」の懐かしい映像が見られます。青春時代にタイプスリップ出来ますョ!)ただし、本日はスペースの都合上10名を「Part1」と題して紹介することにするのであしからず。

 1.天馬ルミ子

Tenma  彼女は正しくは、1978年1月に「教えてください、神様」でデビュー。ショートパンツに長く伸びた脚。それに超ショートカットというスタイル。衣装はまるで麒麟ルックを思わせる、昔風で古さが漂い、今見ると思わず吹き出してしまいそうだ。当時、所属していた事務所がピンク・レディーと同じT&Cだったことから「ピンク・レディーの妹分」として大々的に売り出されたアイドル歌手だった。ピンク・レディーとの連携もバッチリで、かなりの鳴り物入りとしてのスタートを切った。しかも彼女は歌手デビュー前からNHK「レッツゴーヤング」のサンデーズのメンバーとして活躍。歌手としてデビューした際には同番組でこの曲が何度も歌われ売り込みにかなりのプッシュ体制が組まれていた。そんな効果も手伝ってデビュー曲はオリコンで最高83位、2.6万枚を売り上げ、新人賞候補一番乗りとして気を吐くはずだったのだが…。シングル第2弾でイメチェンを図った「ありがとう青春」が予想外の大コケ。慌てて第3弾「その時わたしはTAXIを停めた」を発売するもデビュー時の華やかな勢いは戻らず、シングル第4弾「ミスター・シャドウ」を発売してアイドル人生を終えている。血液型はO型で神奈川県出身。

http://www.youtube.com/watch?v=uzZvunfqWjk

 2.能瀬慶子

Nosekeiko  彼女もまた1979年1月のレコードデビューである。1963年3月16日、千葉県で出生し、東京都文京区で育つ。1978年(昭和53年)高校在学中に第3回ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝。同年映画出演を果たし、1979年にNAVからシングル『アテンションプリーズ』で、歌手としてデビュー。1979年には「赤い激突」以来約1年ぶりに復活した赤いシリーズ第8作「赤い嵐」にヒロインとして出演。記憶喪失の少女・小池しのぶを演じた。二重人格による豹変ぶりは当時評判となった。また、記憶喪失時の「ここはどこ、私は誰?」という演技は、その後お笑い芸人などによってしばしばパロディのネタにされた。1983年(昭和58年)20歳で引退した後、ミュージシャンと結婚、し2児の母となった。他の代表作は「裸足でヤングラブ」など。血液型は見るからにO型。バレーボール日本代表の栗原恵(彼女もO型)に似ている。主なシングルは「アテンション・プリーズ」 (1979年1月5日)、「裸足でヤング ラブ」(1979年4月5日)、「He Is コットン100%」(1979年7月5日)、「美少女時代」(1979年9月5日)
                                                         

http://www.youtube.com/watch?v=QZiYj8cnKyI

 3.倉田まり子(坪田まり子)

Kuratamariko  1960年11月20日生まれの長崎県諫早市出身。TBSの番組『家族そろって歌合戦』が長崎県で収録された際、それに出場したことをスカウトマンに見初められて上京。NHKの人気歌番組『レッツゴーヤング』のサンデーズの一員として1978年4月からレギュラー出演した。芸名の「倉田」は、師匠で作曲家の当時レッツゴーヤングの司会を務めていた都倉俊一から一字もらったものと言われる。1979年1月に1月に「グラジュエイション」でレコードデビューし、伸びやかな高音としっかりした音程でしっとりと卒業式の気持ちを歌いあげて本格派歌手の素質を感じさせた。1979年8月月に発表されたシングル3曲目「HOW! ワンダフル」のヒットにより人気を確立、その年の日本歌謡大賞 放送音楽新人賞 、FNS音楽祭 最優秀新人賞をはじめ、多くの新人賞を受賞。また、石川ひとみに顔が似ているとも話題になった。所属事務所はニューバンブー。抜群のプロポーション、脚線美の持ち主だった。他に代表作は「恋はAmi ami」、「恋はライライライ」、「カナリヤ」、「冷たい雨」、「グラデュエーション」など。血液型はO型。アイドル後半にはスキャンダルに巻き込まれ、ゴシップネタにされたり、レポーターに追いかけられたりと気の毒な状況に苛まれた。現在は坪田まり子として活動中。

http://www.youtube.com/watch?v=FLm-9xUwnqg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GE0owc9zzjw&feature=related
                                                       
 4.比企理恵
 
Hikirie  1965年10月10日生まれのてんびん座。東京都出身の小麦色の健康アイドル。第4回ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝し、1979年12月に、シングル『恋のローラーブーツ』で歌手デビュー。昭和40年生まれのアイドル第1号として、デビュー当時話題になる。デビューに際し芸名を一般公募したが、本名から「子」を外すだけにとどまった。以来、アイドルとして活躍。歌手としては『恋のローラーブーツ』がオリコン199位で最高位だった。現在は、舞台を中心に活動している。ミュージカル『ピーターパン』では、6年連続で演じたウェンディ役を始めとして、2001年からはダーリング夫人役として出演し、2010年の公演で出演回数が500回を超えた。血液型はO型。伊藤つかさ(彼女もやはりO型)に似ている。曲は他に「ARE YOU HAPP?」、「陽気なフラ・ベイビー」、「恋のワナ・ワナ」、「想像力少女」など。褐色の健康的な肌と元気印が魅力で、歌詞はメルヘンチックな夢見る少女っぽい曲が多かった。現在は女優として活躍している。アイドル時代の出演作は、「不良少女と呼ばれて」、「スタァ誕生」、「ポニーテールは振り向かない」など。

http://www.youtube.com/watch?v=h5ShyQCtBRg
http://www.youtube.com/watch?v=tITBwsbxqI0&feature=related

Hikirie

 

                                           

                                                                                                                                                                                                                                                        

5.甲斐智枝美

Kaichiemi  1963年6月16日生まれの大分県大牟田市出身のもとアイドル歌手。1979年に日本テレビの人気オーディション番組「スター誕生!」で第29代グランドチャンピオンを獲得。これをきっかけに芸能界入り。1980年、シングル曲「スタア」で歌手デビュー。キャッチフレーズは「KIRARI!瞳が語る」。オリコン最高位は「マーマレード気分」の103位と、歌手としては奮わなかったが、デビュー当時から知名度は抜群で、アイドル雑誌の表紙を何度も飾っていた。1982年には、清純なイメージを打ち破り、当時としては珍しいヌード写真集も発売された。しかし、2006年年7月、朝になっても起きてこないのを心配した中学校3年生(当時)の長男が確認しに行ったところ、2階の寝室で首を吊っていたところを発見した。すぐに119番通報し、救急隊員と警察が駆けつけたが、自殺と断定した。原因不明の43歳にして早すぎる死だった。曲は他に「さよならサンセット」、「マーマレード気分」、「いつでも答えはYESなのよ」、「枯葉天使」など。血液型はA型だった。褐色の肌で健康的なイメージがあったが精神面はピュアだったアイドルのような気がする。御冥福をお祈りしたい。

http://www.youtube.com/watch?v=i_gD7z7qj6k
http://www.youtube.com/watch?v=Mz-hyKbuiv0&feature=related

 6.浜田朱里

Hamadajuri  1962年11月1日生まれで東京都出身の元女優・元女性アイドル。血液型はO型。1980年6月にCBSソニーから「さよなら好き」でデビュー。デビュー当時の所属は、プロダクション尾木。堀越高校卒業。松田聖子と親友で同期。当時アイドル・女優などで活躍したが、その後、芸能界を引退した。雰囲気が似ていたため、ポスト百恵を狙うが、同期に松田聖子などの強豪がいたため、セールス的に伸び悩んだ。しかし、ややハスキーで独特の雰囲気の歌声と整ったルックスのアンマッチさは、当時の女性アイドルの中では目立つ存在だったため、現役時代も現在も根強いファンが存在している。色白で丸顔でやや頬が膨れている感じは誰にでも親しみが持てる容姿であった。代表作は他に「あなたに熱中」、「青い花火」、「青い嫉妬」、「黒い瞳」、「18カラットの涙」、「想い出のセレナーデ」、「悲しみは駆け足でやってくる」など。当時としては超美系アイドルで、アンニュイな感じがウケて私も大好きな顔立ちをしていた。トップアイドルではなかったにも関わらず、復刻版は比較的多くリリースされている。山口百恵に似た雰囲気を持ち、同じ路線で売りだした。もっとも本人はあまり歌うことは好きではなかったらしく、「自分は歌が下手なので、将来は女優で勝負したい」とインタビューで答えていた。その後活動の中心をグラビア、バラエティに移し、深夜放送の「鶴光のオールナイトニッポン」内に於いて、坂上とし恵・日高のり子と共に後の無いアイドルと言う事で「がけっぷちトリオ」と命名されて出演するなど、バラドルの先駆け的存在としてそれなりに人気を集める。しかし当時はまだ、アイドルがグラビアやバラエティだけでやっていくのは難しかったようで、結局一時休業状態になる。復帰後は主に女優として活動。脇役としてはコンスタントに仕事をこなし、一定の評価は得るが、歌手同様こちらでも一線級になることはなく、ヌード写真集の発売で一時期話題になるものの徐々にフェードアウトしていき、1995年に一人目の子供を出産するために引退した。

http://www.youtube.com/watch?v=L8a1zMMC7Cw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=M9-dwQpY46E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Z3NaKZJYkds&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=EKSouejJ6EQ&feature=related

 7.新井薫子

Araikaoruko  昭和40年生まれで名古屋出身。1982-1983年の間活動した、愛知県名古屋市出身の元アイドル歌手、現芸術家。後発のTDKコアが手掛けた初の新人だったが、1年程活動しただけで療養のため休業し、趣味だった日本画や絵本を学ぶ傍ら、快復後には端役出演などこなした。1980年代末よりイラストレーター・キャラクターデザイナーに転身し、カオルコ・KAORUKO名義で各方面で活躍する傍ら、サイケポップユニット『the TABLES』を結成し中野薫子・KAORUCO名義で音楽活動も展開した。デビュー曲は「虹いろの瞳/風のジェラシー」(1982年3月21日)で、他には「イニシャルは夏/Holiday」(1982年6月9日)、「赤い靴/パステル気分」(1982年9月5日)、「私の彼は左きき/愛になりたい」(1982年11月21日)、「大和撫子“春”咲きます/片想いのイニシャル」(1983年2月21日)、「OH!新鮮娘/立ち入り禁止」(1983年5月21日)、「虹色の瞳」などをリリースした。血液型はA型だった。

http://www.youtube.com/watch?v=D_ieLlNYMgE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Tf8BW3gUUqs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=wYLPed2lvm0&feature=related

 8.井上望

Inouenozomi  元歌手・タレントで、音楽プロデューサーを中心に活動している。本名:武東 望(むとう のぞみ)、旧姓:井上。1963年2月4日生まれ。福岡県大牟田市出身で血液型はA型。日本テレビ系列の「スター誕生!」がデビューのきっかけである。1979年ビクターから「ルフラン」で歌手デビュー。同年暮れの第21回日本レコード大賞では「好きだから」で新人賞を受賞。アイドルとしては歌唱力があり「実力派アイドル」ともいわれたが、松田聖子・河合奈保子・柏原芳恵ら「1980年デビューアイドル」の台頭で割を食った形になった。曲は他に「花ねがわくば」、「メイクアップミー」、「シャドーボーイ」、「恋のシュラシュシュ」など。印象としては山口百恵に似た雰囲気を持ち、同じ路線で売り出そうとした事務所やレコード会社の戦略が見て取れる。

http://www.youtube.com/watch?v=2elsbcFnXOs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Xzqb0CGsmHQ&feature=related

9.ソフトクリーム

Nettaigyonotuxedo   遠藤由美子、天野千英、大塚真実の3人で結成された女性アイドルグループ(1984年6月、途中で天野千英が脱退し、大橋直美が入る)。活動当時の所属事務所は渡辺プロ。1982年12月ににシングル「熱帯魚のタキシード」でデビューする。「ソフトクリーム」というグループ名になったきっかけは、デビュー曲の作詞者だった島武実の「食べ物の名前にしたら売れるかな」という一言からだったという。グループ名に因んでマイクもソフトクリームのカバーが拵えてあってウケた。2枚目のシングル「すっぱい失敗」以降は作詞:森雪之丞、作編曲:後藤次利コンビで楽曲が作られた。詞の中身は「ちょっとHな意味を含んだアブナいもの」で、曲の構成やアレンジが従来のアイドル歌謡とは大きく異なっていたため、後のおニャン子クラブのプロトタイプとも言われることがある。リードボーカルは遠藤由美子。変声期の少年のような音質でよく伸びる声を持つ。グループ活動中と並行してソロ活動も行うことがあった。 1985年(高校卒業頃)に解散した。曲は他に「スキよ!ダイスキ君」、「やったね!春だね !! 」、「ごめんあそばせガンバリ娘」、「クラスメート失踪事件」など。遠藤由美子はA型で現在遠藤由実子として活躍中。天野千英はA型。大塚真実は不祥。

http://www.youtube.com/watch?v=8ilEsP1MRrs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PAp8F5DyKjk&feature=related

10.桑田靖子

Kuwata  本名は池田咲恵子、1967年10月30日生まれでは福岡県直方市出身の女性歌手・タレント。堀越高等学校卒業。身長156cm、血液型はA型。小学生時から歌が得意でちびっこのど自慢大会などにも多数出演した。1980(中学1年)に梓みちよの「よろしかったら」を歌い福岡音楽祭にてグランプリを獲得、1981年(中学2年)には文化放送主催のオーディション「全日本ヤング選抜スターは君だ」で優勝、1982年には「東芝・タレントスカウトキャラバン」でも優勝し、大手事務所サンミュージック所属となる。1983年3月にシングル「脱・プラトニック」でレコードデビュー。同年デビューの歌手に大沢逸美、森尾由美、、松本明子、小林千絵、岩井小百合、いとうまい子、小出広美などがおり、「不作の83年組」といわれた。明るいキャラクターでラジオパーソナリティなどもこなした。1988年に音楽活動に専念したい理由から、デビュー当時から所属してい事務所辞める。1990年代に入ってから自身のライブ活動、アニソン、コーラス業などで活動し「咲恵子(さえこ)」、「Sae」の名でも活動。1990年代後半から、2000年代前半にかけて、出身地の福岡に戻り、九州朝日放送やFBS福岡放送でリポーターや、テレビ出演をしていたこともあった。2010年より、桑田靖子名義でライブ活動開始。主な曲は「脱・プラトニック」、「愛・モラル」、「もしかしてドリーム」、「マイ・ジョイフル・ハート」、「あいにく片想い」、「ガラスのラブレター」、「ひそやかな反乱」など全15曲をリリースした。

http://www.youtube.com/watch?v=EeSfRvT8t0I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ZVcHKhuR7qc&feature=related

 

 本日はスペースの都合上ここまでとしたい。あなたがお気に入りだったアイドルには会えたでしょうか?「え~っこの娘はB級じゃないだろう!」と憤慨する声が聞こえてきそうだが、あくまで個人的な見解と私的な判断であることをご容赦願いたい。まして思い入れが人一倍強かったファンならなおさらそうだろう。本日の10人を見ても、この頃のアイドルは何か個性が無く、優等生っぽくて、誰もが同じ路線を歩こうとした意図が見え透いてしまうし、実際にそうした感が否めない。特に髪型は、当時隆盛を極めて高校生を中心に大流行した、下に行くにつれて両頬を覆い隠すようにカールしながらボリュームアップする「聖子ちゃんカット」で、皆同型であった。しかも轡を並べたように、決まってアイドル歌手の代名詞のミニスカートをフリフリして、笑顔も爽やかに歌っていた。そして明日以降の記事を見て貰えば納得すると思うが、この頃のアイドルは血液型がO型が断然多い。おっとりで丸顔、そして色白で妹的な雰囲気を醸し出し、思わず支えて守ってあげたくなるような(みんなで応援してあげたくなるような)空気を作っているからだ。そして容姿も曲調もどことなく似てきてしまうのだ。初回から飛ばしてしまったが、まだ5分の1。明日も10名のアイドルを紹介したいと思う。これから更に40名のアイドルたちが控えている。ドキドキ感を出すため、敢えて名前は前もって告知しないでおきたい。では続きをお楽しみに・・・。 

 <参考サイト>

http://www.otokichi.com/main/newotokichi/idoldebutehistoryjp.htm

http://www.youtube.com/watch?v=_TJb46x0zBQ&feature=related

*解説文は一部「Wikipedia」から抜粋。

2010年11月 6日 (土)

本日の釣果(2010/11/06)

釣行記録

DATE : 11月6日(土)
TIME  : 4:08~11:00(約7H)
PLACE: アクアマリン先端
EFFECT:アナゴ27cm1尾(リリース)、ハゼ17cm1尾 計2尾 
COMMENT:

~史上最悪の釣行・・・~

 何と約50日振りの釣行となった。今年、一念発起して大学生の身分に戻ったので、仕事と両立が意外と難しく、何かを我慢するとなると趣味の時間を割愛せざるを得なかった。10月に釣りに行けなかったのは、8年前に海釣りと出会ってから初めてのことだった。辛いが仕方ない。さて、前夜、中之作にするかアクアマリンにするかで思案したが、結局カレイが上がりそうとの期待を込めてアクアマリンへ。前夜J屋の店員 I さんに「中之作のほうが釣れると思いますよ」と言われたが、ここ数年、中之作は釣果が見込めないので、敢えてアクアマリンへ。これが裏目に。朝2時過ぎ起床。相変わらず眠れず殆ど徹夜状態。おそらく2時間も寝ていない。11月のこの時期にしてはそんなに寒くない。2時32分におにぎりとペット茶を購入した近所のコンビニを出発。AKB48のオールナイトニッポンを聴きながらドライブ。本日の担当は柏木由紀ら3人だった。今日はゆっくり走るつもりでいた。しかし、先行車が殆どなく順調ペースで巡行。長沢峠の温度計は4℃だった。そして8月に開通してまだ一度も通行していなかった三和トンネルへ。通行の際、自然と工事中にクレーン車の下敷きで亡くなった作業員に対し、合掌して通り過ぎた。トンネル内がカーブしていて、距離は旧道のほうが短そう。前車に追いつくが、かなりのハイペースで流れた。そして3時42分にアクアマリンの駐車場へ。ゆっくり行くつもりが、結局国道経由なのに1時間10分で到着してしまった。片道の距離数を考えると、平均70km/h程度は出していることになる。自重せねば・・・。

 アクアマリンのいつもの駐車場は、車の数は少なかった。車載温度計では9℃だったのでそんなに寒さは感じなかった。風も無風。しかし、釣り座を確保しようと夜中に到着したのに、いつもの角地のポジションは地元のおじさんが占領・・・。東側にもチラホラ人影が見えた。その一角に陣取り、チェーンブロック3本分を占拠し、都合出し竿は4本。4時8分開始。開始して早々の4時54分に事件が勃発!なんと暗がりの中、仕掛けのセット中、無意識に強く引っ張ったら何と左中指に天秤仕掛けの釣り針が刺さった!しかもかなり深く・・・。激痛!ところが針が一向に抜けない。マジ焦った!ペンチを使ってもダメ。いっそ釣りを諦めて救急車を呼ぼうかと思ったほどだ。出血はさほどでなかったが、どう足掻いても釣り針の返し部分が肉に食い込み、5分程もがき苦しむ!すったもんだの揚句、何とか無理やり力任せに引っこ抜いた。幸い折れずにそのまま抜けた。思ったより出血はなく、持参していた絆創膏を貼って急を凌いだ。最悪・・・実釣は、ここは根がかり少ない筈が、ことごとく天秤仕掛けのハリを損失する。その数4本!フロートの3本仕掛けも。他にはフロートも。出し竿はまず、天秤仕掛け用の投げ竿で開始し、餌はアオイソメ。これはカレイとアイナメ用。そしてもう一本は上2本はアミエビを付け、下はべた底のイソメ用の3本バリの仕掛けを投げ竿で投てき。夜明け頃からもう1本追加。遠投用投げ竿にサビキ仕掛け。ターゲットはサバとアジ用。そしてもう1本はルアー竿だった。しかし、イカ狙いのエギやスズキ狙いのフロート用のプラグ、青物狙いのジグと多彩に攻めたが、当たりすらなし。最後は遠投用の磯竿でウキ釣りまでバリエーション豊かに攻めてみたが鳴かず飛ばずで終わった感じ。釣果と言えば7時間も粘って5時32分に天秤仕掛けにアナゴ(上バリー27cm)、下バリに17cmのハゼがダブルでかかっただけ。竿先の鈴も鳴らず、巻く時の手ごたえもなかった。消化不良・・・。今回から岸波で購入した6000番の遠投用のリールを初めて試用した。使い勝手は良い。巻く時の感触が投げ用のリールっぽくて何とも言えない心地よさ。あと釣り場の出来事で、5時頃から、地元の老若男女がアクアマリンを散歩&ウォーキング、自転車、犬の散歩などで大勢周回している。通常6時頃だと、冷え込むものだが、寒さは感じなかった。日中は青空で、気温が上昇。無風で波も凪の状態だった。時間帯も到着時が満潮で、潮止まり。そしてお昼に向かって引き潮だったので、あまり状況的には良くなかった。せっかく貼った絆創膏がはがれてしまい、手持ちの3枚すべてを使い切った。最初痛みがなかったが、徐々に痛みが増してきた。バッグにアルコールティッシュの手拭きを持参して来たのが奏功した。やはり、コマセを手で触れるため、指先が皺だらけとなり、深爪したところがヒリヒリ痛む。たぶん皮が剥けるだろう。最悪だ・・。

 ところで話題と言えば、6時20分頃、犬を散歩していた地元のお母さんと知り合いになった。私の釣行日誌を興味深げにマジマジと見ていて、質問して来た。「こんなの書いている人を初めて見た」と話し、ひとしきり感心していた。そして耳寄りな情報を聞かせて貰った。それは平潟港の沖堤防へは500円で渡れるというもの。その方は9月に自分がハナダイをわんさか釣り上げたらしい。あそこはナメタガレイやマコの両型が上がることで有名なフィールド。渡船500円はネットで見つけた情報らしい。その人は、ネットやブログをやっていて、ブログのクラブに入っているらしく、さっそくCMを兼ねて私の「ようこそ釣り天国へ」のメモを渡した。すると、「これ知ってる!」「私のパソコンに入ってる」と言って頂いた。ところが、その作者をずっと女性だと勘違いしていたらしい。お近づきになれたので、今後も縁があれば交流を図りたいものだ。9時以降は日差しが出てポカポカ陽気。紫外線が強く眩しいくらい。20℃近くあったのでは?思わず腕まくりで実釣した。残念ながら、ららみゅう側(北向き)のイワシのポイントの人が立て続けに豆アジとイワシを釣り上げていた以外は、周辺の30人以上の釣り師は全滅状態のようだった。水温が17.5℃なので、丁度注中途半端だったのかもしれない。唯一、角地確保の先客おじさんが、玉網を使って33cmのアイナメを釣り上げていた。

 また、周辺海域の大規模港湾工事は、大小様々な作業船が出て、ものものしく工事を行っていた。沖の堤防にはダンプカーが乗り上げていたし、3号埠頭から沖に架かる橋は、台座が随分と出来ていた。ちょっと小耳に挟んだのだが、小名浜港を跨ぐ急勾配のアーチ橋の先に完成する広大なターミナルだが、そこに海釣り公園を増築し、釣り人に有料で開放するなどという噂があるようだ。真意は定かではないが、小名浜界隈はテロ対策の改正SOLAS条約で、大部分の埠頭が立ち入り禁止となった。もちろん釣りも禁止である。庶民の娯楽を法の名の下に奪った代償は大きい。よって、新地の釣り公園もそうだが、公共事業として整備するのは当然だろうと思う。

 そして、10時過ぎから順追って水道で洗浄作業に没頭。殆ど9割方は現地で完済となった。ここはそれができるからラッキーだ。だったら、もう少し遅くまで粘れるかも。私のスタイルだと、夕まずめの時間帯に釣り場にいれないのが残念でならない。いつか夕方の釣行も実現したい。

 帰りがてら、先月発見された不発弾の撤去作業の日時を知らせる看板を角地に立てかけてあるのを見かけた。残念ながら写メは撮れなかった。来週早々に水中爆発させて処理するらしい。でもボッコ灯台の目と鼻の先の海域で100kg爆弾が65年間も置き去りで眠っていたなんて・・・。もしかしてあの辺にオモリを着底させていたかもしれない。水中爆破を生で見たい気がする。そして駐車場目での帰り路、カートを曳いてアクアマリンのサイドウェイを歩いていたら、黒人の観光客が数人いて、釣り人に話しかけていた。

 とにもかくにも今日の釣行は最悪だった。釣果がサッパリなのもさることながら、指に針は刺して抜けなくなるし、ろくなことがなかった。その怒りという訳ではなかったが、帰りの運転は滅茶苦茶だった。ブログにはとても掲載できないが、特に高速道路では、一台も抜かれずに50台以上を抜きまくった。現地を出発したのが11時28分。三和ICから高速に乗ったのが11時50分。そして郡山東ICで降りたのが12時22分。高速道路は僅か32分で下車した。そして自宅に到着が12時37分という早業だった。帰路は1時間9分だった。恐らく最短記録更新だろう。こんなことで記録を作ってもしょうがないのだが・・・。結局、釣れなくて、ただ餌を海に捨てに行ったドライブという感じで終始してしまったので、帰りは節約のため、高速はパスしようと思っていたが、前を走るトラックが三和トンネル付近で渋滞を作っていたのでお昼「半田屋」もパスして高速を使ってしまった。でも小野近辺の高速の両側を埋め尽くす紅葉は綺麗で見応えがあった。今日の走行距離は176.4km。

<かかった費用>

エサ代     787円  仕掛け代 460円 
朝食昼食代 609円  高速代 800円   合計 2,656円      

<釣り場の写真>

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<本日の釣果> たったこれだけ・・・情けないが完敗!

Pb060359

 今年は、寒がりな私からすれば、あと1~2回で納竿となる可能性が高い。これから冬の魚(アイナメ・ドンコ・カレイなど)の出番なのに。今回の釣行が今年ようやっく6回目だったので、10回未満で終わってしまうのは確実だ。

2010年11月 5日 (金)

長続きしない芸能人カップル

 人の不幸を取り上げるのは些か気が引けるが、現代社会の風潮として飽きっぽい、嫌になったら我慢しないですぐ辞めてしまう。何かゲーム世代のオールクリア感覚の象徴であるかのように思う。つい先日も一部報道で、仲睦まじく、誰もが羨む美男美女で、尚且つあのおしどり夫婦というイメージがあった、NPBを代表する若手実力派投手のダルビッシュ侑と癒し系女優のサエコが離婚を前提に、双方が弁護士を立てて調停に入る見込みだと報じられた。特にここ数年、芸能界の大麻事件や離婚報道は感覚が麻痺した末の転落人生に似たものがあり、我々視聴者は「またか・・・」と堪え性のない芸能人の後先省みない即断に、半ば絶望感に近い印象さえ持ち始めている。それが独身時代に清純派アイドルでならした歌手やしっかり者のイメージの良妻賢母型の女優であってもそうだ。芸能界と言うところは、民間人より遙かに離婚率が高いのではないか。例えばこれまでも大物カップルの離婚や破局が相次いで起きて来たのは衆知の事実で、一例を挙げただけでも郷ひろみ(2回)、松田聖子(2回)、森進一(2回)、膳場貴子(2回)、小泉今日子、堀ちえみ、安室奈美恵、広末涼子、矢田亜希子など大勢いる。芸能人夫婦はモデルケースであり、我々庶民の鑑でもある。良き手本であって欲しいと願っているだけに、破局報道を耳にすると甚だ遺憾である。とかく芸能界は派手なショーマンシップの世界だし、話題性があってなんぼの所がある。しかし、やはり芸能人である前に社会人としての良識は持って貰いたい。芸能人だからといって罪が許されるわけではない。社会に与える影響が大きいだけに、他の手本となるような節度と場を弁えた責任ある行動をお願いしたいと切に願う。そのような経緯があって、今回は、5月26日付の当ブログ「血液型に見る芸能人カップル」の記事とは逆行するが、ここ数年で離婚した芸能人について取り上げたい。「大きなお世話だ!」とか「人のことはほっとけ」とお叱りを受けそうだが、そうカリカリしないで肯定的に読んでもらえれば幸いだ。

<芸能人カップルの離婚事例>

小林旭(AB型)と美空ひばり(O型)・・・1962年結婚→1964年離婚
吉田拓郎(A型)と浅田美代子(B型)・・・1977年7月結婚→1983年離婚 現妻は森下愛子(AB型)
長渕剛(A型)と石野真子(A型)・・・1981年8月結婚→1983年5月離婚 現妻は志穂美悦子(A型) 
森進一(O型)と大原麗子(AB型)・・・1980年結婚→1984年離婚
水谷豊(A型)とミッキーマッケンジー・・・1982年結婚→1986年離婚 現妻は伊藤蘭(O型)
沢田研二(A型)と伊藤エミ・・・1975年結婚→1987年離婚(慰謝料18億円!) 現妻は田中裕子(B型)
後藤次利(B型)と木之内みどり(O型)・・・1983年結婚→1987年離婚 現妻は河合その子(B型) 現夫は竹中直人(A型)
明石家さんま(B型)と大竹しのぶ(A型)・・・1988年結婚→1992年離婚
神田正輝(A型)と松田聖子(A型)・・・1985年6月結婚→1997年1月離婚
真田広之(A型)と手塚理美(AB型)・・・1990年結婚→1997年離婚
郷ひろみ(A型)と二谷友里恵(AB型)・・・1987年6月結婚→1998年4月離婚
玉置浩二(A型)と薬師丸ひろ子(A型)・・・1992年5月結婚→1998年離婚 現妻は青田典子(O型)
松方弘樹(A型)と仁科亜希子(AB型)・・・1979年結婚→1998年離婚
一般人(医師)と堀ちえみ(B型)・・・1997年結婚→1999年離婚
IZAM(O型)と吉川ひなの(A型)・・・1999年2月結婚→1999年9月離婚 現妻は吉岡美穂(A型)
波多野浩之(歯科医・A型)と松田聖子(A型)・・・1998年結婚→2000年離婚
大澄賢也(A型)と小柳ルミ子(A型)・・・1989年結婚→2000年離婚
前田亘輝(A型)と飯島直子(A型)・・・1997年結婚→2001年離婚
SAM(B型)と安室奈美恵(O型)・・・1997年10月結婚→2002年離婚
萩原聖人(B型)と和久井映見(A型)・・・1995年結婚→2003年離婚
石井浩郎(O型)と岡村孝子(O型)・・・1997年結婚→2003年離婚
前田耕陽(A型)と中村由真(B型)・・・1998年結婚→2003年離婚
松平健(B型)と大地真央(B型)・・・1990年結婚→2004年離婚 元妻は松本友里(A型)
永瀬正敏(B型)と小泉今日子(O型)・・・1995年2月結婚→2004年2月離婚
大鶴義丹(A型)とマルシア(A型)・・・1994年結婚→2004年離婚
保坂尚輝(A型)と高岡早紀(A型)・・・1996年結婚→2004年離婚
森進一(O型)と森昌子(A型)・・・1986年9月結婚→2005年4月離婚
そのまんま東(B型)とかとうかず子(B型)・・・1990年結婚→2006年離婚
紀里谷和明(写真家)と宇多田ヒカル(A型)・・・2002年9月結婚→2007年3月離婚
中村健太郎(モデル)と知念里奈(O型)・・・2005年8月結婚→2007年3月離婚
河島正三郎と小宮悦子(A型)・・・1994年12月結婚→2007年3月離婚
岡本健一(O型)と西克恵・・・1992年2月結婚→2007年3月離婚
会社員と黒田知永子(AB型)・・・1989年結婚→2007年5月離婚
MOTOAKI(A型)と川村カオリ(B型)・・・1999年2月結婚→2007年6月離婚 故人
SHOGO(O型)と今井絵理子(O型)・・・2004年6月結婚→2007年9月離婚
井口進と萩野志保子(B型)・・・2000年10月結婚→2007年秋離婚
花田勝(B型)と花田美恵子(B型)・・・1994年6月結婚→2007年10月離婚
コアラ(B型)と三原じゅん子(B型)・・・1999年11月結婚→2007年10月離婚
一般人とhitomi(B型)・・・2002年11月結婚→2007年11月離婚
春風亭小朝(O型)と泰葉(A型)・・・1988年6月結婚→2007年11月離婚
君武氏と宮崎ますみ(A型)・・・1994年8月結婚→2007年11月離婚
青山剛昌(B型)と高山みなみ(B型)・・・2005年5月結婚→2007年12月離婚
新庄剛志(A型)と大河内志保(O型)・・・2000年12月結婚→2007年12月離婚
遠藤章造(O型)と千秋(O型)・・・2002年7月結婚→2007年12月離婚
一般会社員と膳場貴子・・・2005年10月結婚→2007年12月離婚
中村獅童(O型)と竹内結子(A型)・・・2005年6月結婚→2008年2月離婚
岡沢高宏(モデル)と広末涼子(O型)・・・2003年12月結婚→2008年3月離婚 現夫はcandle JUNE
木村祐一(O型)と辺見えみり(O型)・・・2006年1月結婚→2008年4月離婚
本木裕仁と斎藤慶子(A型)・・・1997年7月結婚→2008年5月離婚
永澤俊矢(B型)と麻生祐未(O型)・・・2004年3月結婚→2008年6月離婚
黒田アーサー(O型)と一般人・・・2007年2月結婚→2008年8月離婚
長井秀和(O型)と一般人・・・1999年9月結婚→2008年11月離婚
小久保裕紀(AB型)と一般人・・・1995年結婚→2008年12月離婚
河原雅彦とともさかりえ(A型)・・・2003年4月結婚→2008年12月離婚
米国人男性と松原千明(O型)・・・1999年10月結婚→2009年離婚
井戸田潤(B型)と安達祐実(A型)・・・2005年9月結婚→2009年1月離婚
陣内智則(O型)と藤原紀香(A型)・・・2007年2月結婚→2009年3月年離婚
布施博(B型)と古村比呂(O型)・・・1992年2月結婚→2009年4月離婚
パテシエと冨永愛(B型)・・・2004年10月結婚→2009年4月離婚
村上隆と西川峰子(A型)・・・2001年7月結婚→2009年4月離婚
朝青龍(O型)とタミル・・・2002年12月結婚→2009年4月離婚
杉澤修一と木村郁美(A型)・・・2006年5月結婚→2009年5月離婚
一般人と遠山凪子・・・2009年5月結婚→2009年7月離婚
浅野忠信(A型)とchara(AB型)・・・1995年5月結婚→2009年7月離婚
押尾学(A型)と矢田亜希子(O型)・・・2006年11月結婚→2009年8月離婚
香田晋(B型)と一般人・・・1998年10月結婚→2009年8月離婚
田中裕二(B型)と夏美・・・2000年3月結婚→2009年10月離婚
遠藤久人と細川ふみえ(O型)・・・2007年11月結婚→2009年11月離婚
正司宏行と磯野貴理(A型)・・・2003年12月結婚→2009年11月離婚
ヘアメイクアーティストと裕木奈江(O型)・・・1999年結婚→2009年離婚
高相祐一と酒井法子(B型)・・・1998年12月結婚→2010年6月離婚
金聖響(韓国人指揮者)とミムラ(B型)・・・2006年11月結婚→2010年10月離婚

 順不同で列挙したが、何か気づかないだろうか?芸能人カップルで離婚しやすいのは意外にも真面目で責任感が強いと言われるA型に多いという事実だ。日本人の血液型比率から見てもそうなるのはわかるが、A型は神経質で几帳面、なおかつ傷つきやすい面があり、立ち直りが遅い。そして常にイメチェンや新しいもの好きで飽きっぽい面も持っている。現代では、離婚は前向きに捉える風潮があって、特に芸能人の場合は再婚や再々婚も決して珍しいことではない。逆に箔が付く様な感じもなきにしもあらずだ。人の価値観や判断基準が多様化している社会に於いて善し悪しは決められないが、その後に発生するだろう慰謝料請求などの生々しい場面に直面した危機的状況の中で、一番最優先して考えて配慮して欲しいのは当事者同士ではなく、その子供のことである。本人達は性格の不一致やすれ違いを理由としたり、お互いの意思を尊重して・・・云々と都合の良い理由や言い訳を述べているが、一番大きな被害者はその子供であるのは歴然だ。どうして第一に子供の行く末を案じて離婚回避に踏みとどまれないのか?本当に子供の将来のことをきちんと考えて決断したのだろうか?後先考えずに安易に結論をだしてしまっているようで、どうも理解に苦しむ。また、挙式と披露宴に大見栄切って数億円もかける例も多い。招待客も多く、多額のご祝儀を頂いて大々的に執り行われることが多いが、そのような招待客(つまりは見届け人)に対して、離婚は恩を仇で返すことになるようには決して思わないのか?これも常識が通じない世界なのか疑問が残るところだ。

 そして芸能関係の話題に触れるといつも最後はこうなるが、血液型の統計を見てみたい。72組の離婚カップルを見て来たが、その中で血液型が判明している男性50名、女性61名の合計111名を分析したところ、離婚したA型芸能人は男性が19名(38%)で、女性は何と断トツの24名もいたことが判明。山口百恵さんのように良妻賢母で忍耐強く思えたA型女性が39%にも上った。B型は男性で15名(30%)、女性で13名(21%)だった。また、O型は男性が14名(28%)、女性は18名(29%)、AB型では男性が2名(4%)、女性は6名10%であり、AB型の離婚率は極めて低いことが判明した。やはり平和主義で争いごとを嫌う温厚な性格の持ち主だけのことはある。一生添い遂げたいという大和撫子の体質やボランティア精神が旺盛で、佳き伝統文化を引き継ごうとするAB型気質が如実に表れている。一方、心配されるのはA型女性。傷つきやすく、意を決して離婚に踏み切ったはいいが、過去を引きずり、後々まで後悔するタイプが多い。思い詰めて可愛かずみや清水由貴子のように自殺に走らなければいいのだが。同じA型では、薬師丸ひろ子、ともさかりえ、宇多田ヒカル、森昌子、藤原紀香らも離婚当初はショックが大きく、かなり尾を引いて一時は復帰も危ぶまれたほどだった。最後に、彼等がどういう経緯で離婚に至ったかは千差万別だが、結婚・出産・離婚というサイクルが出来上がっている芸能界において、一生お互いを支え合い、補い合っている手本として欲しいおしどり夫婦を紹介して結びとしたいと思う。

 西村晃(B型・故人)と則子(故人)、関口宏(A型)と西田佐知子(A型)、長門裕之(A型)と南田洋子(A型・故人)、勝野洋(A型)とキャッシー中島(B型)、西川きよし(O型)と西川ヘレン、根上淳(B型・故人)とペギー葉山(A型)、二谷英明(B型)と白川由美(A型)、三浦友和(AB型)と山口百恵(A型)、大和田獏(AB型)と岡江久美子(AB型)など 

 関連ブログ

 「芸能人カップルに見る血液型相性」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-6c0f.html

 「世間を騒がせた芸能人の電撃結婚」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-afed.html

2010年11月 1日 (月)

国民的スターたち

   国民栄誉賞を知っているだろうか。日本の内閣総理大臣表彰のひとつで、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として福田赳夫内閣時代の1977年(昭和52年)8月に創設された。初代受賞者は756号フィーバーを巻き起こし、世界一の称号を手にした王貞治を始め、古賀政男、植村直己、渥美清、美空ひばり、千代の富士、山下泰裕、衣笠祥雄、高橋尚子ら18人がいる。しかし、選考基準があいまいで、同レベルの知名度や貢献度を比べれば、長嶋茂雄(ミスタープロ野球)や手塚治虫(漫画の神様)、藤子・F・不二夫(ドラえもん作者)、石原裕次郎(日活大スター)、阿久悠(作詞家)、大鵬(大横綱)、古畑廣之進(陸上)、野口みづき(陸上)、前畑秀子(水泳)、川上哲治(V9監督)、金田正一(400勝投手)、福本豊(世界の盗塁王)、具志堅用高(ボクシング防衛)、北島康介(水泳)、イチロー(二度打診があったがいぅれも辞退)、羽生善治(将棋7冠)、谷亮子(柔道)、矢沢永吉(歌手)らが選ばれないのは納得がいかない。また、ノーベル賞受賞者は誰一人として受賞していないことも腑に落ちない点だ。そこで今回は、国民に絶大な人気を誇るスターや有名人を取り上げてみたい。その点で言えば、国民的美少女や有名人となると、O型が圧倒的に多いのを御存知だろうか?O型は何故か損得勘定抜きで、全面的バックアップの下、国民に広く愛されるキャラのようだ。そのおおらかさやバイタリティの強さで誰にでも可愛がられ、応援される特異な性質の持ち主のように思える。それでは早速、私が独断と偏見で選ぶ、O型で国民的な人気を誇る有名人10人を取り上げたい。

Sadaharu_oh  1.王 貞治(プロ野球)

 彼の偉業に関しては、もはや詳述するまでもないだろう。当ブログに於いても何度も記事を掲載している。O型の彼は、物事に対して肯定的に受け入れる性質があり、あまり悲観せず、否定的に考えないところがある。不調時にもあまりへこまず、絶えずひたむきに努力を継続するタイプ。その地道な積み重ねと鋼のような肉体、バイタリティーの強さによって868本のホームラン数を残した。それはハンクアーロンの世界記録を塗り替える不滅の大記録である。彼の代名詞でもある「一本足打法」は、投手から打者への転向という苦難の時代を乗り越え、「シーズン50本塁打以上」、「ホームランで世界一を目指す」という確固たる信念の下に、その才能を見抜いた師匠である荒川博氏の発案と厳しい指導の賜であった。2人はB型とO型の師弟関係であった。しかし、「一流選手は一流監督に非ず」の言葉通り、監督として巨人、ダイエー(現ソフトバンク)を率いたが、現役時代の華々しい活躍とはかけ離れた苦難の連続であった。彼の肯定的な生き方は、あくまで巨人軍に固執した長嶋氏とは異なり、「来るものは拒まず」の柔軟な精神の持ち主だった。もちろん選手として名球会入りを果たし、野球殿堂入りもしたトップアスリートとしての成績により初代の国民栄誉賞受賞となったのである。

Yoshinaga  2. 吉永小百合(女優)

 10代の頃、1957年を皮切りに日活映画に多数出演。浜田光夫の相手役として銀幕で華々しく活躍した。当時の世の男性のハートを虜にし、「サユリスト」なるブームを巻き起こし、社会現象をもたらした。また、日本アカデミー賞(最優秀主演女優賞4回)やブルーリボン賞(主演女優賞2回)、キネマ旬報賞、毎日映画コンクール、報知映画賞、日刊スポーツ映画大賞など数々の賞を総なめにしてきた。若かりし当時から、チヤホヤされながらも足元をしっかりと見た実力と人気を兼ね備えた演技派女優として一時代を築いた。1962年の高校在学中には、『キューポラのある街』にヒロイン役で出演。作曲家・吉田正の門下生となり、ビクターから『寒い朝』でレコードデビューし20万枚のヒット。その年、橋幸夫とのデュエットで30万枚の大ヒットとなった『いつでも夢を』で「第4回日本レコード大賞」を受賞。NHKの紅白歌合戦にも歌手として5度出場した。1969年には、多忙な中、早稲田大学第二文学部史学科を正規の4年間、しかも次席で卒業するほどの才媛ぶり、努力家ぶりを発揮した。彼女の在籍中、早稲田の受験生が飛躍的に急増したのは言うまでもない。彼女は国民栄誉賞こそ貰っていないが、戦後の昭和を代表するトップスターとしての功績を考えれば、それに値する人物であるのは言うに及ばない。2006年に紫綬褒章、2010年には文化功労者に選ばれた。

Hibari  3. 美空ひばり(歌手)

 言わずもがなだが、彼女の存在は昭和歌謡史にとてつもなく大きな足跡を残したと同時に、激動の時代を生き抜いた日本国民の数少ない心のよりどころであった。特に、昭和(戦後)を代表する大スターであり、揺るぎなき日本の初代歌姫である。幼少時代から銀幕のスターで、戦後復興のシンボルとして彗星の如くスクリーンに登場し、人々に元気と勇気を与えた。母・加藤喜美枝の涙ぐましい努力で1946年に8歳で初舞台。49年、敗戦の喧騒のさなか弱冠12歳の天才少女、美空ひばりは「河童ブギウギ」にて登場。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を下敷きとした、このデビュー曲は残念ながらヒットに繋がらなかった。がしかし、同年公開された初主演映画『悲しき口笛』の同名テーマ曲が爆発的ヒットを記録し、一躍スターダムへとのし上がる。以降、ドメスティックな色合いの演歌歌謡楽曲を着実にヒットさせていく一方で、ジャズ/マンボ/ブルース/ロックンロール/ロカビリーなど、いわゆる洋楽テイストを大胆に導入し消化した、秀逸極まりない歌謡ナンバーを数多く世に残していった。また、50年代半ばより、江利チエミ、雪村いづみと共に“三人娘”として活躍。以後、脈々と受け継がれるイメージ戦略先行型三人編成アイドル・チームの礎となった。晩年は弟や最愛の母親と次々と死別。自らも病と闘う日々だった。波瀾万丈の1989年に惜しまれつつこの世を去った。1989年国民栄誉賞受賞。

Takuya  4. 木村拓哉(歌手・俳優)

 彼もまた、長い間イケメン歌手&俳優として女性を魅了する一人である。年齢と共にかっこよさを増している。しかも日本だけでは留まらず、台湾や韓国などアジア各国でも絶大な人気を誇っている。SMAPのメンバー、ジャニーズ事務所に所属。身長176cm。 イメージカラーはレッド。東京都出身、大阪府および千葉県育ち。妻は歌手、タレントの工藤静香。ファッションセンスも抜群でベストジーニストを5回受賞し、殿堂入りを果たす。ドラマアカデミーでは複数回主演男優賞を受賞している。特にフジテレビの月9では欠かせない存在で、いろいろな役どころを器用にこなしている。また、「芸能人好感度」や「抱かれたい男」では常に上位に食い込んでいる。また、CMキングとして君臨。彼がテレビに登場しない日はいない。代表作はドラマが「あすなろ白書」、「ロングバケーション」、「ラブジェネレーション」、「HERO」、「華麗なる一族」。CMでも、トヨタ自動車を始め、NTT東日本、富士通、JRA,TBCなど、どれも超一流企業ばかり。やはりイメージアップには欠かせない人材のようだ。今月38歳を迎えるとは思えないくらい若々しい。ニックネームは「キムタク」。

Masaharu  5. 福山雅治(歌手・俳優)

 彼もまた、今をときめく人の一人。「龍馬伝」で人気を不動のものにした。元々はミュージシャン(シンガーソングライター)だが、俳優、深夜放送のラジオDJ、ギタリスト、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、写真家とマルチな才能を発揮している。特に、現代劇から時代劇まで幅広くこなしこなし、老若男女を問わずして人気が高い。超イケメンなのに話がうまく、DJも器用にこなす。長崎県長崎市出身。長崎ふるさと大使も務めている。所属事務所はアミューズ。所属レコード会社はユニバーサルミュージック。その好青年ぶりから、20~30代の独身女性には抜群の人気を誇り、「端整なルックスから女性に圧倒的な人気を誇る。「抱かれたい男ナンバー1」に何度も輝き、女性の好きな有名人アンケートにおいて必ずといっていいほど上位にランクされている。また、an・anの好きな男ランキングにおいては10年連続2位を獲得しており、好感度は抜群である。主な主演ドラマは「ひとつ屋根の下」、「美女か野獣」、「ガリレオ」など。曲は「MELODY」、「HELLO」、「桜坂」、「はつ恋」など。彼は41歳。これからどういう歳の取り方をするのか楽しみである。
 

Ryo_2 6. 石川 遼(ゴルファー)

 埼玉県北葛飾郡松伏町出身のプロゴルファー。現在19歳。パナソニック所属。ニックネームは「ハニカミ王子」「遼くん」。 16歳3ヵ月24日の史上最年少のJGTOツアープロとなった。彼の人気もまた一種独特。若くして才能を発揮したため、特に40代以上の中高年の女性からの支持や人気が高い。損得を抜きにして応援したくなる存在だろう。決して大騒ぎせず、自分らしさを持ち、堅実ながら、時に苦境を自ら救う直接カップインなどのスーパープレーにゴルフファンならずともメロメロ。大きな期待感を持ってみてしまう。10代で賞金王に輝くなど年齢に似つかぬ大胆なパフォーマンスは人を惹きつける。彼のようなゴルフ界を引っ張るようなスーパースターが現れてくれ、ゴルフ関係者も意気盛んである。彼は19歳という若さながら、礼儀正しく、それが年配の層にも受けている原因だろう。そして飛ぶ鳥を落とす勢いと伸び盛りで新進気鋭なイメージはCM業界にも引っ張りだこ。主な主演は「ヨネックス」、「全日空」、「ロッテ」、「コナカ」、「トヨタ自動車」、「Panasonic」など一流企業ばかり。CMやゴルフメーカーのの契約料だけで年間数億円に上ると言われている。

Kumiko  7. 後藤久美子(女優)

 彼女の売りは「国民的美少女」だった。艶のある長い黒髪と小麦色の肌と引き締まったスレンダーな体格を特長にしており、身長163cmで46kgの抜群のプロポーションを誇った。子役から10代前半のブレーク時は少女体型で華奢であったが、「週刊プレイボーイ」ではセミヌードを披露。衝撃的なブラウン管デビューは僅か14歳だった。愛称は「ゴクミ」でだった。サバサバした性格で、落ち着きがあり、少女時代からハッキリとモノを言うタイプである。クールな印象が先行する一方で意外に感受性が強く、映画の撮影中では感情移入して泣き出すことも少なくなかった。時折マスコミに対する発言で物議を醸すことも多かった。調に芸歴を重ね、このままオスカープロの看板女優になると思われた矢先、妻子のあるアレジと交際が発覚した。以後は、グラビアやCMに出演する程度である。なお、アレジの出場するレースには必ず寄り添っており、隠し立てのないオープンな交際ぶりは注目を集めた。その後、アレジとは実質的に結婚した。フランスで同居し、3人の子供を設けた。彼女の所属事務所のオスカープロモーションは、彼女による美少女ブームを受けて、「第2の後藤久美子」を探せというコンセプトによるオーディション「全日本国民的美少女コンテスト」を1987年から開催した。したがって彼女自身はこのオーディション出身者ではない。このオーディションは今や「ホリプロタレントスカウトキャラバン」と並び称される一大オーディションとなり、オスカープロが世間に知られるきっかけとなった。

Naoko 8. 高橋尚子(陸上選手)

 彼女の愛称は「Qちゃん」で、誰からも愛されるキャラである。とりわけ2000年のシドニーオリンピックでの女子マラソンに於いて、日本人初の金メダルの快挙を成し遂げ、国民栄誉賞を受賞した。また、翌年の2001年ベルリンマラソンでも女性で初めて2時間20分の壁を破り、世界新記録(当時)で優勝した。岐阜県出身で県立岐阜商、大阪学院大学を卒業した。高校時代はインターハイにこそ出場しているが、中距離の選手で、ほとんど無名に近かった。しかし、大学時代に頭角を現し、1995年に実業団「リクルート」に入社し、奇将・小出義雄監督との運命的な出会いを契機に、二人三脚でマイペース調整でグングン日本代表選手として成長した。当時リクルートには有森裕子や鈴木博美など最強メンバーが揃っていたが、駅伝メンバーにも選ばれるほど実力をつけ、シドニー五輪候補になった際も、最後の選考会の名古屋国際女子マラソンまで縺れ込んだ。2000年のシドニー五輪では、猛暑の中、リディアシモン選手と最後までデッドヒートを繰り広げ、34km付近でサングラスをかなぐり捨ててギアチェンジしてスパートしたシーンは語り草である。細身の体でよく走りきった。2008年10月に苦渋の決断を行い、現役を引退した。

Peyonjyun  9. ペ・ヨンジュン(韓流スター)

 彼は大韓民国(韓国ソウル出身)の俳優で、当然日本人ではないが、2002年以降「冬のソナタ」が日本のBSで放送されるやいなや、韓流ブームに火がつき、世のおばさま方を中心に熱狂的なファンを創出し、流行語や社会現象にまでなった。何を隠そう「冬のソナタ」は、私にとっての特別なドラマで、第一回の放送からテレビに釘付けで、ユジン(チェ・ジゥ)の大ファンになった。今では韓国版のノーカットDVDと日本語吹き替え版の両方を所持している。NHKで放送していたのは各回ともに10分以上カットされている。サンヒョク役のパクヨンハが今年、衝撃的な自殺でこの世を去ったのは痛ましい。このドラマは、日本人に忘れかけていた懐かしい胸の内を見事に表現している。このドラマはおそらく、2年間で50回以上は繰り返し見ていると思う。何か昔の日本を思い出させるような郷愁を誘い、古き佳き時代の純愛路線が涙を誘い、受けるのだろうと思う。少し陰のあるチュンサンと好青年のミニョンさんの二役がハマリ、世の女性はメロメロ。1994年に『愛の挨拶』でデビュー以後、いくつものドラマに出演。特に1996年の『初恋』では韓国ドラマ史上最高視聴率65.8パーセントを記録し、主役を演じた彼自身も人気の座を手に入れた。韓国において、2002年に『冬のソナタ』のチュンサン役で、百想芸術大賞 人気賞(TV 部門『冬のソナタ』)、KBS 演技大賞 最優秀演技賞、人気賞、ベストカップル賞、ベストドレッサー賞を受賞している。日本での愛称は“ヨン様”。身長は180cm。

Saitoyuki 10. 斎藤佑樹(野球)
 
 先日、日本テレビの番組内で、彼をA型と紹介したが、これは完全なる誤りで、列記としたO型である。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に所属するアマチュア野球選手で群馬県出身。2006年の早稲田実業高校3年の夏の甲子園大会で、延長15回引き分け再試合にて現・楽天の田中将大投手と壮絶な投げ合いの末、優勝投手となった。試合中にマウンド上で折り畳んだハンカチで汗を拭う仕草から、マスコミ各社が「ハンカチ王子」と呼ぶようになる。また「佑ちゃん」という愛称でも親しまれている。早稲田大学でも史上6人目となる30勝300奪三振を達成。プロ入りが注目されたが、この度のドラフトで北海道日本ハムファイターズへの入団が濃厚となった。今日現在、最後の集大成となる早慶戦を戦っている。甲子園では全試合を一人で投げ抜き、強靱なスタミナを披露した。その陰で疲労回復のために高濃度酸素カプセルをレンタル使用していたことがわかり、物議を醸した。最速150km/hの球速とコーナーを突く制球力を併せ持ち、大学通算3年間でのWHIPは0.95と抜群の安定感を誇る。変化球は切れのいい縦のスライダーとフォーク、カットボールル、ツーシーム、落差のあるチェンジアップ、カーブを投げ分ける。いよいよ勝負の舞台はプロへと移る。今から活躍が楽しみだ。

 
 以上10名のO型の国民的スターや有名人を挙げてみた。もっとも個人的な主観や偏見もかなり入っているが、O型というのは万人に愛される性質を兼ね備えているように思えてならない。時にポーカーフェイスでクールだったり、おおらかで細かいことにこだわらない器など人を惹きつけてやまない感じがする。今回取り上げた10人以外にも、同じO型で上戸彩や広末涼子、宮崎あおい、相武紗希、北川景子、妻夫木聡、小栗旬などもあまり嫌いだと言う人はいないだろう。ちょっと昔のアイドルでは河合奈保子、小泉今日子、近藤真彦も同型だった。スポーツ界ではジャイアント馬場、中村俊輔、中田英寿らがそうだった。何かついつい応援したくなるような存在であろう。O型は周囲から孤立するようなことは少なく、どちらかと言えば好意を持って接して貰えることが多いし、援助をして貰える人徳と言うかそういう星の下にあるのかわからないが、いずれにしても生来お得な性格を有しているようだ。

 最後に、国民栄誉賞に関して意見を言いたい。選考基準を明確にして貰いたい。王選手が受賞しているのに長嶋選手は貰えない。メジャーリーグで二度もノーヒットノーランを達成するなど国際舞台で活躍し、その後の日本人プレーヤーのメジャーリーグへの道筋をつけた功労者と言って過言ではない野茂選手は、その候補にすら上がらない。シドニー五輪で金メダルを獲った高橋尚子選手は受賞しているのに、同じアテネ五輪で同種目で金メダルを獲得した野口みずきは貰えない。映画監督の黒澤明は貰っているのに、小津安二郎は貰えない。藤山一郎は貰えるのに三波春夫は貰えない。渥美清は受賞できても高倉健は頂けない。これらは明らかに平等性を欠いている。これは毎年、国民投票で決めるのが公平で良いのではなかろうか。最後に苦言を呈して結びとしたい。

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