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2010年11月19日 (金)

プロレスが熱かった頃~外国人レスラー編~

 昨日は日本人レスラーを取り上げたが、彼等とバトルを行い、時として憎まれ役や悪党になりきって日本のプロレスを盛り上げてくれた1980年代までの名レスラーたちを紹介したい。早速、選手名鑑ばりに写真とプロフを掲載するが、一部「きらく」より文言を抜粋していることを先にお断りしたい。

<記憶に残る外国人レスラー>

Taiz Destroyer Leis

ルー・テーズ

 「鉄人」の異名をとり、最強とうたわれたレスラー。得意技は「バックドロップ」、「フライング・ボディシザース・ドロップ」など。16年ミシガン州バナット生まれ。33年プロレスデビュー。39年エベレット・マーシャルを破り、NWA世界ヘビー級王者となった。戦後は47年に3度目の王者となり、王者転落後48年に4度目の王者となった。以降55年にレオ・ノメリーニに反則で敗れるまで、引き分けをはさんで936連勝を達成した。57年には初来日、力道山と2度にわたり名勝負を繰り広げた。58年にはインターナショナルヘビー級初代王者に認定されたが、力道山に王座を奪われる。64年には馬場の挑戦を退けNWAタイトルを守った。66年には来日しジャイアント馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑戦したが、馬場に敗れてしまった。68年に国際プロレスで来日した際も桁違いの強さを示した。グレート草津との対戦では、バックドロップで草津を失神させた。サンダー杉山にもバックドロップで、豊登はパイルドライバーで止めをさした。73年には57歳で新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木・坂口征二と「世界最強タッグ戦」を戦った。

ザ・デストロイヤー

 「白覆面の魔王」として力道山、ジャイアント馬場らと熱戦を繰り広げた人気覆面レスラー。必殺技の「足4の字固め」で日本中を熱狂させた。後年は和田アキ子、せんだみつお司会のバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』にレギュラー出演するなど、コメディアンとしても活躍し、お茶の間の人気を博した。31年米国・ニューヨーク出身。大学時代からアメリカンフットボールやアマチュアレスリングで活躍。62年に覆面レスラーに転向。WWA世界ヘビー級王座を獲得、通算3度チャンピオンとなった。 63年に初来日し力道山と対戦、その後も馬場の好敵手として活躍した。72年からは全日の一員としてアブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。日本ではベビーフェイスだが米国ではヒールとして活躍、68年には黒覆面の「ドクターX」を名乗りバーン・ガニアを倒しAWA世界チャンピオンとなった。

ハーリー・レイス

 「ミスター・プロレス」と呼ばれた名レスラー。通算8回NWA王座についた。得意技は「ダイビングヘッドバット」、「インディアン・デスロック」など。43年ミズーリ州セントルイス出身。ドリー・ファンク・シニアに師事し64年にプロレスデビュー。65年ラリー・ヘニングと組んでAWA世界タッグ王座を獲得。68年初来日、72年に坂口征二のUNヘビー級王座に挑戦した。73年にはドリー・ファンク・ジュニアを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得した。同年全日本プロレスに参戦し、以降常連となり馬場、鶴田、ブッチャー、ミル・マスカラス、ディック・マードック等と戦いを繰り広げた。全日年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦にも4回出場し、84年には数度のAWA王者ニック・ボックウィンクルと「夢の帝王コンビ」を実現させた。 86年からWWF(現在のWWE)に移籍、"キング"ハーリー・レイスとして活躍、89年にはハルク・ホーガンに敗れキングの称号を手放したが、変わらぬ強さを誇っていた。

Dorryfunk Terryfunk Karl   

ドリーファンクJr.

 弟テリー・ファンクとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも大人気だったレスラー。本国でも実力世界一とうたわれ、NWA世界ヘビー級チャンピオンとして長く君臨した。得意技は「スピニング・トーホールド」、「ダブルアーム・スープレックス」など。41年インディアナ州インディアナポリス出身。63年デビュー。69年ジン・キニスキーを破り、NWA世界ヘビー級王者となった。73年ファンク道場で修業を積んだハーリー・レイスに敗れるまで4年3ヶ月にわたり王座を守った。世界王者として69年に初来日、70年にも再度来日、猪木・馬場と熱戦を演じた。弟テリーとの「ザ・ファンクス」としても71年に参戦、馬場、 猪木組からインターナショナル・タッグ王座を奪取した。馬場との関係が深く、その後は全日本プロレスの常連として、ブッチャー、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディなどと名勝負を残した。ただし80年代に力が衰えてからも出場していたため、日本では実力世界一というイメージは薄い。77年には世界オープンタッグ選手権に弟テリーと組んで優勝、79年・82年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝している。

テリーファンク

 「テキサスブロンコ」の異名を持つ名レスラー。兄のドリー・ファンク・ジュニアと名タッグ「ザ・ファンクス」を組み、日本でもベビー・フェイスとして大活躍した。 人気漫画『キン肉マン』のテリーマンはテリー・ファンクがモデル。必殺技は「スピニング・トーホールド」。44年テキサス州出身。プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男。65年デビュー。75年にジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王者となった。77年にハーリー・レイスに敗れて王座を陥落した。日本では70年に初来日、71年には「ザ・ファンクス」として馬場・猪木組を破りインター・タッグ王座を獲得した。72年の全日の旗揚げシリーズに参加以降全日の常連として大活躍した。77年の世界オープンタッグ選手権ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組を退けて優勝、79年と82年にも優勝した。 凶器攻撃を繰り返すブッチャー、ザ・シーク組に対し、血みどろになりながら「テキサス魂」で勝負を挑む「ザ・ファンクス」に日本中が声援を送った。

カール・ゴッチ

 日本ではプロレスの「神様」と称される名レスラー。海外では「無冠の帝王」の異名を取る。得意技は「ジャーマン・スープレックス」や滞空時間の長い「ブレーンバスター」。24年ドイツ・ハンブルク出身とベルギー出身の2説あり。50年にプロレスデビュー、60年にアメリカへ進出、61年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得した。この頃からカール・ゴッチのリングネームを名乗った。63年から64年にルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦したが、全て引き分けに終わった。68年に日本へ移住し、日本プロレスのコーチに就任、「ゴッチ教室」を開き、猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授した。72年には新日本プロレス設立に助力、72年から74年にかけて猪木と対戦し、3勝2敗の戦績を収めている。その後フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」で藤波、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らを育成した。07年逝去。

Bucher Sheik Eric 

アブドーラ・ザ・ブッチャー

 ピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』のテーマ曲で現れ、「地獄突き」、「ヘッドバット」、「凶器攻撃」、最後は「毒針エルボー」で馬場やファンクスをはじめとする対戦相手を血に染めた「黒い呪術師」。格好もユニークで、白いブカブカのズボンに先がクルリと尖って丸まった魔法使いが履くようなブーツを纏っていた。41年(36年)カナダ・オンタリオ州出身。61年デビュー。70年初来日。開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からいきなりピンフォールを奪い、人気に。73年の全日創設以来常連として登場、、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクらと抗争を繰り広げた。77年、79年には「チャンピオン・カーニバル」でも2回優勝。また、77年から79年の「世界オープンタッグ選手権」ではザ・シークとの最凶コンビで、ファンクスとの流血戦を演じた。81年~85年は新日本プロレスで猪木ではなく、外人と死闘を演じた。87年に全日本プロレスに復帰、90年代にはベビーフェイスに転向し始め、馬場、鶴田とのタッグも実現した。

ザ・シーク

 火炎殺法や蛇を使ったりなどのパフォーマンスで人気を誇った「アラビアの怪人」。得意技は「キャメルクラッチ」。24年ミシガン州出身。名門ミシガン大学でもアメフトのスター選手として活躍した。47年プロレスデビュー。ドリー・ファンク・シニアと戦った。64年からは「デトロイトの帝王」としてプロモーターとしても手腕を発揮した。72年日本プロレスに初来日、坂口征二からUNル選手権を奪取した(翌日奪還される)。73年全日本プロレスに参戦、馬場のPWF世界ヘビー級選手権に挑戦した。77年~79年の全日本の「世界オープンタッグ選手権」にはブッチャーとの「地上最凶悪コンビ」で参加、ザ・ファンクスを凶器攻撃で血まみれにし、観客を騒然とさせた。80年以降も来日したが年齢による衰えは隠しようもなかった。

フリッツ・フォン・エリック

 アイアンクローの元祖で、「鉄の爪」と呼ばれた名レスラー。200kgを超えると言われた握力で顔面、または胃袋を握りつけるアイアンクローで人気を博した。29年テキサス州出身。54年プロレスデビュー。 63年バーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得した。66年に初来日、以降馬場とインター王座のベルトをめぐり6回も好勝負を繰り広げた。全日本プロレスにも3度来日し、馬場のPWF王座に2度挑戦している。97年逝去。

Brussy Tigerjetsin Andre 

フレッド・ブラッシー

 噛みつき攻撃で日本中を騒然とさせた「銀髪鬼」。18年ミズーリ州セントルイス出身。得意技は「ネックブリーカー」、「噛みつき」。35年プロレスデビュー。フレッド・マクダニエルとしてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど、正統派レスラーとしてならした。59年に髪を銀色に染め、噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向した。61年初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山にタイトルを奪われた。62年初来日、ブラッシーの噛みつき口撃で血まみれとなったグレート・東郷の姿をテレビで見てアメリカの老人がショック死した事件も起こった。同年アメリカで力道山からタイトルを奪回、馬場の挑戦も2度退けた。日本プロレスには通算5度来日した。72年には全日本プロレス、74年には新日本に参戦し馬場や猪木と対戦した。後年はハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すマネージャーを務めた。

タイガー・ジェット・シン

 ターバンを巻き、サーベルを振りかざす姿で有名となった新日本のリングで活躍した悪役レスラー。「インドの狂虎」と呼ばれた。地元トロントではベビーフェイスとして活躍した。44年インド出身のシーク教徒。得意技は「コブラクロー」、「凶器攻撃」など。 64年にシンガポールでデビュー、その後馬場の師匠フレッド・アトキンスに師事し、65年カナダ・トロントでデビュー。73年新日本プロレスに参戦、11月には新宿で猪木襲撃事件を起こし話題となる。この後猪木との因縁の勝負を展開する。74年には歴史に残る遺恨勝負を繰り広げた。ヒールのイメージが強いが実力も本物で、75年には猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得、76年には坂口征二を破り初代アジアヘビー級王座を獲得、また上田馬之助とのタッグで坂口、小林組を破り北米タッグ王座も獲得した。81年には全日本に移籍し、再び上田とのタッグで馬場、鶴田組からインタータッグ王座を獲得している。その後はハンセンの影に隠れ、また本来のスピーディーな動きもなくなり、精彩を欠いた。

アンドレ・ザ・ジャイアント

 新日本プロレスで大活躍した身長約220cmの巨人レスラー。ただのキックやフライング・ボディプレスもその威力は驚異的だった。46年フランス・グルノーブル出身。64年パリでアンドレ・ロシモフとしてデビュー。得意技は「ジャイアント・プレス」、「人間エグゾセミサイル」、「エルボードロップ 」など。 73年にアンドレ・ザ・ジャイアントと改名、ベビーフェイスとしてハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハム、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアーらと対戦した。日本には70年モンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスへ参戦、74年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとして新日本で猪木らと死闘を演じた。81年には日本プロレス史上最高の外国人名勝負とうたわれるスタン・ハンセンとの死闘を演じた。ハンセンがボディスラムでアンドレを投げる姿に観客は熱狂した。87年にはアメリカでヒールに転じコスチュームも赤の両ショルダーから黒のワンショルダーに変更、レッスルマニアIIIではWWF王座を賭けハルク・ホーガンと戦い、敗れた。ホーガンがアンドレをボディスラムで投げると観客は狂喜した。翌年、雪辱している。90年に久しぶりに来日、馬場と日米大巨人タッグを結成して話題をよんだ。93年死去。

Brody Hansen Hulkhogan 

ブルーザー・ブロディ

 「キング・コング」と呼ばれ同郷のハンセンと共に新日本・全日本のマットで大暴れしたレスラー。得意技は「キングコングニードロップ」。46年ニューメキシコ州出身。アメフト出身で、NFLの「ワシントン・レッドスキンズ」を経て72年プロレスデビュー。74年スタン・ハンセンと組みUSタッグ王座を奪取した。76年WWWF入り、ブルーノ・サンマルチノやアンドレ・ザ・ジャイアントとの名勝負で名を挙げた。78年にはNWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスを破る。さらにディック・ザ・ブルーザーとの「ブルーザー対決」に勝利、WWAタイトルを奪取した。 79年全日本プロレスに参戦、馬場に反則負けした以外負けなしの圧倒的な強さをみせつけた。81年10月にはドリー・ファンク・ジュニアからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取、鶴田、天龍とベルトを巡って名勝負を繰り広げた。82年には全日本に移籍したハンセンと「超獣コンビ」を結成、世界最強タッグ決定リーグ戦では優勝1回、反則負けによる準優勝2回とまさに最強タッグといわれた。85年には1年限りに終わったが新日本プロレスに移籍、猪木と7度にわたり互角に渡り合った。87年全日本に移籍、ハンセンと最初で最後の勝負を行った。88年には当時最強といわれた鶴田からインターナショナル・ヘビー級王座を奪回した。しかし同年プエルトリコでナイフで刺され急死した。

スタン・ハンセン

 一撃必殺のフィニッシュ・ホールド「ウエスタン・ラリアット」で多くの選手をマットに沈めた名レスラー。新日本で猪木と多くの名勝負を繰り広げた。あまりの強さに「不沈艦」と呼ばれた。49年テキサス州出身。アメフトのボルティモア・コルツ、サンディエゴ・チャージャーズを経てファンク道場に入門、鶴田やボブ・バックランドと研鑽を積んだ。73年プロレスデビュー。76年、マジソンスクエアガーデンでWWWFチャンピオンのブルーノ・サンマルチノの首を骨折させ一躍有名となった。77年新日本プロレスに参戦、猪木からNWFヘビー級王座を獲得、以降5年間で通算9回、猪木とNWF王座を争った。81年にはアンドレ・ザ・ジャイアントと名勝負を行い、アンドレをボディスラムで投げ観客を驚かせた。ハルク・ホーガンとの強力タッグも話題となった。82年からは全日本に参戦、ブルーザー・ブロディとの「ミラクルパワーコンビ」は圧倒的な強さを誇った。83年には馬場からPWFヘビー級王座を奪取、3度防衛している。85年にはリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王者となった。86年AWAとPWFの両王座をかけてインターナショナル王座の鶴田とトリプル・タイトルマッチを行い、勝利した。90年代になっても強さは衰えず鶴田、天龍にかわり台頭してきた四天王を抑え92年と93年とチャンピオン・カーニバル2連覇を達成した。さすがにその後は衰えたが98年、99年と世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝となり最後の意地を見せた。00年引退。

ハルク・ホーガン

 右手人差し指を上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズどおり、世界最強を誇ったマッチョ系レスラー。「超人」と呼ばれた。必殺技は「ランニング・レッグ・ドロップ」とご存知「アックスボンバー」。53年フロリダ州タンパ出身。ボディビル出身でスーパースター・ビリー・グラハムに憧れプロレス入りを決意、77年プロデビュー。79年ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでデビュー、20連勝を記録した。アメコミ「超人ハルク」から、ハルク・ホーガンに改名した。日本では80年から83年に新日本の常連となり、「アックスボンバー」で相手をなぎ倒し、大人気となった。特に83年の「IWGP決勝リーグ戦」では猪木をアックスボンバーで場外に飛ばし失神させ、日本中の度肝を抜いた。93年にもWWFヘビー級王者として来日し、IWGPヘビー級王者グレート・ムタと対決した。本国アメリカでは82年には映画『ロッキー3』へ出演、人気となった。84年にはWWF王座を獲得、シンディー・ローパーとMTVに出演、人気がプロレスファン以外にも広がった。その後ホーガンのための大会「レッスルマニア」が開催され、87年のアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決には全米が熱狂した。90年にWWF王座を陥落した。90年代は王座復活と陥落を繰り返した。02年には当時の人気ナンバー1のザ・ロックと頂上決戦を演じている。06年まで現役で戦っている。

Maskarasu Nick_2 Brazil   

ミル・マスカラス

 メキシコのルチャリブレを代表する世界で最も有名な覆面レスラーの一人。華麗な空中殺法で高い人気を誇った。試合毎にマスクを変えることから「千の顔を持つ男」とも呼ばれた。日本のマットで入場テーマ曲を初めて使用した。曲はジグソーの『スカイ・ハイ』。 得意技は「ダイビングボディアタック」、「フライングクロスチョップ」など。42年生まれ。65年デビュー。71年初来日、70年後半から全日本プロレスに参戦した。77年には鶴田のUNヘビー級王座に挑戦、熱戦となりプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。81年、82年には弟のドス・カラスと組みPWF杯争奪タッグリーグ戦で優勝した。

ニック・ボックウインクル

 華麗な技でAWA王者に長く君臨した名レスラー。得意技は「足4の字固め」、「スープレックス」など。34年ミズーリ州セントルイス出身。15歳で王者ルー・テーズ相手にデビュー。70年来日、NWAタッグリーグ戦ではジョニー・クインとタッグを組み、決勝で猪木・星野組と戦った。75年バーン・ガニアを破り、AWA世界ヘビー級王座を獲得、4年8ヵ月に渡り王座を守った。その後も同王座を合計4回獲得、延べ7年以上保持した。79年にはWWF王者であったボブ・バックランドとダブルタイトルマッチも行い引き分けている。78年に全日本プロレスに登場、通算7回来日した。84年にはジャンボ鶴田戦に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を奪われている。(すぐに奪回)。87年引退。

ボボ・ブラジル

 「黒い魔神」と呼ばれた、大木金太郎と並ぶヘッドバットの名手。得意技はジャンプする頭突きの「ココバット」、「ドロップキック」など。24年ミシガン州出身。51年プロレスデビュー。 57年初来日、力道山と激闘を繰り広げた。66年にはバディ・キラー・オースチンを破り、WWA世界王座を獲得した。68年には6度の防衛を誇ってい馬場のインターナショナル・ヘビー級王座を奪取した。直後に奪還されるが、72年に空位となっていた同王座を「頭突き世界一決定戦」と呼ばれた大木金太郎との戦いに勝利し、再度獲得した。

 今回紹介した外国人レスラーたちは、ほんの氷山の一角で、他に印象に残っているレラーは五万といる。「人間風車」の異名を持ち、アントニオ猪木と名勝負を繰り広げたビル・ロビンソン、巨体の持ち主であるマウンテン・マイク、イラン出身のアイアンシーク、華麗で甘いマスク、「狂乱の貴公子」と呼ばれたリックフレアー、ディック・マードックなど個性的なレスラーが数多に存在していた。今回想すると、懐かしさだけが脳裏をよぎる。

<名レフェリー>

Joe Mrtakahashi Kotetsu

ジョー樋口

 今月8日にガンで逝去した元プロレスラーであり、全日本プロレスの名物元レフェリー。本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。横浜市出身。法政大学卒業。俳優の菊池隆則は息子。生前は日本プロレス、全日本プロレスでレフェリーを務め、死去するまでプロレスノア監査役、GHCタイトル管理委員長などを務めた。日本プロレスを離脱したジャイアント馬場が1972年に旗揚げした全日本プロレスに参加。以降、馬場の試合に欠かせないレフェリーとして一躍有名になる。スキンヘッドと青のコスチュームがトレードマークで、日本人のNWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所的存在でもあった。それまでのレフェリーのイメージはどちらかと言えば地味であったが、よく足を使い、試合がストップした状態でも観客を飽きさせないそのレフェリングで有名になった。試合がグラウンド状態になった際に叫ぶ言葉「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」も、実は観客を飽きさせないための工夫であった。また試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもお馴染みであった。そのためファンから絶大な支持を得て、リングアナが選手をコールしたあと「レフェリー・ジョー樋口」と宣言すると、観客が「ジョー!」と大歓声を上げるという流れができるほどであった。とりわけ1980年代前半には、乱闘に巻き込まれて失神して決着になだれこむ「ジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発した。この時期に馬場から「ジョーさん、現役の頃よりいい受け身取っているんじゃない」と言われたことがあるという。

ミスター高橋

1941年、横浜に生まれる。山本湖鉄とは幼馴染み。柔道三段、パワーリフティングヘビー級初代日本選手権者。1963年にプロレスラーに転向。アジア各地を転戦する。腕の太さは素人離れしていた。1972年、山本小鉄の勧誘でレフェリー兼外国人レスラー担当として草創期の新日本プロレスに入団。以来25年余にわたりメインレフェリーとしてアントニオ猪木らの試合を2万試合以上裁き、マッチメイカー、審判部長も務める。また、NWAの公認レフェリーだったこともある。新間寿は「ミスター高橋は大事な試合はまるで任せてもらえなかった」と発言しているが、新間が例として挙げている試合は、ほとんどが他流試合か異種格闘技戦(ルスカ・アリ戦など)で、新日本所属レフェリーだった高橋が裁く道理がないものばかりである。事実、新日本の通常の興行における大勝負はほとんど高橋が裁いている。平成に入ると、長州力の信任を受けたタイガー服部にメインレフェリーの座を譲り、1988年に現役レフェリーを引退。高校の体育教師となる。

山本小鉄

 「鬼軍曹」と呼ばれ新日本プロレスで若手の指導に活躍したレスラー。得意技はダイビング・ボディプレス。41年神奈川県横浜市出身。63年日本プロレスに入門、デビュー。67年星野勘太郎とともにアメリカ遠征に出かけ、「ヤマハブラザーズ」というタッグチームを組み活躍した。69年のワールドリーグ戦でゴリラ・モンスーンと対戦、勝利した。72年猪木と新日本プロレス旗揚げを実現、現場責任者・コーチとして活躍した。 74年に星野とのヤマハ・ブラサーズを復活、79年には国際プロレスに乗り込み、グレート草津・マイティ井上組を破ってIWA世界タッグ王座を獲得した。80年の引退後は、鬼コーチとして、また解説者・レフェリーとして活躍した。

<リングアナウンサー>

倍賞鉄夫

 プロレスの試合時、彼の「赤コーナー、250パウンド~アントニオ猪木~!」という名調子の紹介が楽しみだった。彼は、アントニオ猪木の元妻である、女優の倍賞美津子の義理の弟である。現在は2人が離婚した後も、繋がりがあり、株式会社猪木事務所(本社東京)の、代表取締役社長を務めている。残念ながら当時の画像が見あたらない。

 さて、2回に渡ってお送りした私の小中高校時代にリングを盛り上げ、時には社会現象やブームを作ったプロレス。私は亡き父親との想い出が大きいが、彼等が開発し、リングで魅せた技の数々。人間業とは思えないような空中殺法、一見地味でも相手を「ギブアップ」させる必殺技などを炸裂させる出で立ちは、少年たちのヒーローそのものだった。鍛え抜かれた鋼(はがね)の様な肉体。全国を巡業し、ほぼ毎日繰り広げられた試合。よく怪我もせずに闘えるものだと感心した。残念ながら、今は亡くなってしまった名レスラーたちも多い。改めて謹んでご冥福をお祈りすると共に、K-1人気や異種格闘技に取って代わられ、プロレスが下火になってしまった今、力道山のプロレス創世記にあったような、国民がテレビの前に釘づけになったような再び闘う男たちが脚光を浴び日が訪れることを願って今回のブログを閉じたいと思う。

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