プロレスが熱かった頃~日本人レスラー編~
今は亡き父と幼少の頃、何度かプロレスを見に連れて行って貰ったことがある。郡山のセントラルホールや総合体育館、そしてわざわざいわき市にある平市民体育館まで足を伸ばしたことがあった。特に、必殺技「空手チョップの力道山」の登場から始まり、昭和40年代後半から50年代にかけての隆盛期には、テレビのゴールデンタイムを1時間フルに使い、プロレス中継をやっていた。当時のスター選手と言えば、アントニオ猪木、ジャイアント馬場を始め、坂口征二やダブルアームスープレックスが決め技のジャンボ鶴田であった。そんな彼等が身の丈を越えるほどの巨漢外人レスラーたちを痛快にやっつける日本人レスラーたちは当時の子どもたちのヒーローであった。その後、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスとアントニオ猪木が統括する新日本プロレスに分裂。日本テレビが全日本側に、テレビ朝日が新日本側と契約し、それぞれがテレビ中継を行っていた。特に古館のオーバー的な実況が話題となった新日本プロは、番組タイトルを「ワールドプロレスリング」とした。しかし、週に2回のプロレス中継は、プロ野球のナイター中継と同様待ち遠しい存在だった。様々な新技が繰り出され、胸を躍らせた、流血もなんのその。彼等の一挙手一投足にブラウン管に釘付けとなった。そこで今日と明日の2回に渡り、「プロレスが熱かった頃」と題して特集を組んで、当時、一時代を築き、繁栄を極めた、私が特に憧れていたレスラーを取り上げたい。まず今日は、昭和を代表する日本人のスター選手、名レスラーの武勇伝を紹介したい。(一部「きらく」より抜粋)
<記憶に残る日本人レスラー>
力道山・・・お馴染み戦後の日本に明るい希望を与えた一人。大相撲の力士出身で第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップ(アメリカではジュードーチョップと呼ばれていた)でばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始されたことも重なり日本中のヒーローとなる。1954年12月29日、蔵前国技館で開催されたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦で柔道王者の木村政彦に勝利し、日本のプロレス界を統一した。しかしながら、世紀の一戦が八百長崩れであることが明らかになり(プロレスに一定のストーリーがあるということは当時全く知られていなかった)、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。しかし1955年には、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年には、プロレスの神様・鉄人「ルー・テーズ」を破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールドリーグ戦を開催し優勝する。ワールドリーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされており、、いかに力道山の人気が絶大であったかがうかがえる。しかし、1963年12月に遊興中の赤坂のナイトクラブで他の客と口論になり、馬乗りになって殴打したところ、下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。一週間後の12月15日に化膿性腹膜炎で39歳という若さで死去した。血液型はAB型。
ジャイアント馬場・・・全日本プロレスの社長でもあった彼は、身長209cm、体重は135kgあった。何と巨人に投手として入団した経歴を持つ。1960年に左肘軟骨を痛め、プロ野球引退後、プロレスに入門。力道山の門を叩いた。「アジアの壁」と呼ばれ、諸外国人レスラーたちに一目置かれた。図体がでかくて動きが鈍い割には「十六文キック」や「水平チョップ」、「脳天唐竹割」、「ネックブリーカードロップ」、「かわず掛け」などの技を駆使し、世界チャンピオンとして君臨した。ザ・デストロイヤーやブッチャー、カールコッチ、ハーリーレースらと名勝負を繰り広げ、年老いてもなお現役を貫いた。プロレスラーらしからぬほど気持ちが優しく、おとぼけもうまく、大勢のレスラーに慕われる存在だった。NWA世界ヘビー級王座に3度就いた。晩年は器用にもクイズ番組やバラエティもかなすタレントとしても活躍した。1999年1月、大腸ガンが転移し、最後は肝不全により61歳で亡くなった。生涯で通算5,769試合を行い、死の2ヶ月前までリングに上がり続けた。4月に日本武道館で行われたファン葬には3万8千人が参加し、ファンに愛され続けたレスラーだった。血液型はO型。
アントニオ猪木・・・彼の代名詞は「燃える闘魂」である。神奈川県横浜市に生まれたが、幼少の頃に一家でブラジルへ移住。コーヒー豆の栽培に携わった。現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場して優勝。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。1960年4月にサンパウロで興業を行っていた力道山から「日本に行くぞ」と直接スカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団した。同年9月には東京都台東区体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗戦)。その後、日本プロレスでは馬場に次ぐ待遇を受け、馬場とのタッグ・BI砲としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。テレビ朝日が日本プロレス中継を開始すると日本テレビとの取り決めで、馬場の試合が日本テレビの独占とされた関係上、NETの日本プロレス中継のエースという格になり、UNヘビー級王座を獲得した。しかし、馬場との対戦要求が容れられなかった(力道山が日本マットを統一して以降、日本人対決はタブーになっていた)ことや日本プロレスの経理が不透明であったことなど日本プロレスとの度重なる確執から1971年に追放処分を受ける。同年11月、ラブラブショーで知り合った女優の倍賞美津子と結婚した(1987年に離婚)。日本プロレスを追放された後は新団体設立を画策し、1972年1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。その後の活躍は周知の通りだが、猪木ボンバーイエ」のテーマに乗って長いガウンでリングに登場。片手を上げながらクルリと一回転し、黒パンツに赤いタオルを首から提げるお決まりの決めポーズ。彼はとにかく会場の観客を盛り上げる。必殺技「卍固め」や「延髄切り」、「Bow and Arrow」、トップロープから舞い降りる「ストンピング」、「キーロック」、「ナックルパート」など多彩な技を繰り出し、相手レスラーを仕留めた。「ダーッ」という大声で拳を突き上げるポーズは今や語り草。また、プロレスの地位向上と最強王者を決める目的で異種格闘技が行われた。空手家ウィーリー・ウイリアムスや「蝶のように舞い蜂のように刺す」という異名をとったあの伝説の世界チャンプ「モハメド・アリ」と世紀の一戦を交えた。アリ戦は日本中がその話題に溢れた。戦前は激しい殴り合いになとの前評判だったが、アリ側が反則事項を一方的に指定したことにより、猪木は得意技やプロレス技の大部分を封じられ、床に寝そべった状態で足蹴りだけを多用せざるを得なかった。これを「アリキック」と呼んだ。引退後は、政界進出や「闘魂注入」と言ってビンタを食らわしている。人を殴って訴えられないのは猪木くらいのものだろう。年齢を聞いてびっくりするがあと3年後には70歳を迎える。血液型はAB型。
ジャンボ鶴田・・・三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)。本名、鶴田 友美。血液型はO型。ミュンヘンオリンピック、レスリンググレコローマンスタイル最重量級代表を経て全日本プロレスリング入り、ジャイアント馬場後継の次の時代の大型エースとして期待され順調に成長し 1980年代、トップレスラーとして活躍した。ダブルアームスープレックスを日本人で初めて持ち技にしたレスラーだと心得ている。馬場とダッグを組み、底知れぬ体力と溢れるガッツで無類の強さを誇り、チャンピオンになったが、B型肝炎を発症したことにより第一線を退く。その後、桐蔭横浜大学、中央大学、慶應義塾大学で非常勤講師を勤めた他、アメリカオレゴン州ポートランド州立大学教授となるなど、教育者としても活躍した。残念ながらB型肝炎は肝硬変を経て肝臓がんへ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日に息を引き取った。奇しくもこの日は、16年前にAWA世界ヘビー級王座から陥落した日であった。49歳没。
ストロング小林・・・猪木と風貌が似ていた。国際プロレスのエースとして活躍したパワー・ファイター。得意技は「カナディアン・バックブリーカー」。1940年東京都青梅市出身。ボディビルダー出身で、1967年覆面レスラー第1号である「覆面太郎」としてデビュー、14勝1引き分けという強さを誇った。1968年素顔でデビュー、海外修行へでかけ、1969年には豊登と組んでIWA世界タッグ王座を獲得した。1971年にはIWA世界ヘビー級王者となり、25回防衛、2年6ヶ月王者として君臨した。国際プロレスのエースとして活躍していたが1974年、新日本プロレスに参戦、猪木と敗れはしたが歴史に残る名勝負を演じた。その後坂口とタッグを組み、76年には北米タッグ王座を獲得した。79年には坂口のパートナーの地位を長州力に奪われたが、80年には永源遙とのタッグでIWA世界タッグ王座に返り咲いた。84年引退。以降はタレントとして、「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」などで活躍した。
坂口征二・・・「世界の荒鷲」というネックネームがついた。猪木と共に設立当初の新日本を牽引した柔道出身のプロレスラー。次男は俳優の坂口憲二。得意技はアトミックドロップ、ネック・ハンギング・ツリー、ボストンクラブ、各種のバックブリーカーなど力技が多かった。1942年福岡県久留米市出身。1965年全日本柔道選手権で優勝。1967年日本プロレスに入団。すぐにアメリカに遠征し、「ビッグサカ」として活躍、カール・ゴッチと引き分けた。帰国後ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。猪木、馬場離脱後は日本プロレスのエースとなった。1973年新日本プロレスに入団、NET(現テレビ朝日)がテレビ放送を開始、猪木と並ぶスターとなった。1974年には猪木と組んで、北米タッグ王座を獲得。1979年にはジョニー・パワーズを破り北米ヘビー級王座を獲得、念願のシングル王者となった。1985年にはIWGP王座決定トーナメントで藤波に敗れ、二番手の座を譲り渡した。1990年引退。1989年には新日本プロレスの社長となり、猪木時代の借金を完済するなど大きな功績を残した。2005年にスポーツ・ジム「坂口道場」を設立した。必殺技はなかったものの、ジャンピングニーは高い打点で敵の顔面に炸裂した。
ラッシャー木村・・・全盛期は金網デスマッチで鳴らし「金網の鬼」、後年は馬場を挑発するマイクパフォーマンスが人気で「マイクの鬼」と呼ばれた国際プロレスのスター。黒タイツがトレードマーク。得意技は「ブルドッキング・ヘッドロック」、「ラッシングラリアット」など。1958年大相撲宮城野部屋入門、1964年相撲を廃業し日本プロレスに入門した。1966年東京プロレスに参加、崩壊後は国際に移籍。1969年リングネームを「ラッシャー木村」に変更、1970年には日本初の金網デスマッチを行い勝利、以降連勝し「金網の鬼」と呼ばれる。1975年マッドドッグ・バションを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得、以降エースとして活躍、バションやキラー・トーア・カマタと熱戦を繰り広げた。1979年にはニック・ボックウィンクルとAWA王座、IWA王座をかけてのダブルタイトルマッチで対戦、反則勝ちした。1981年国際プロレス解散後はアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦、猪木と熱戦を演じた。1984年全日本に参戦、国際の残党と「国際血盟軍」を結成、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが人気となった。馬場の死後の内紛後にはプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加した。今年5月24日に腎不全により68歳でその生涯を閉じた。合掌。
上田馬之介・・・日本プロレス界で初の本格悪役(ヒール)。 竹刀を振り回すなど得意の凶器攻撃でリングを盛り上げた。頭髪をまだら、後に全て金髪に染め「まだら狼」、「金狼」などと呼ばれた。名作プロレス漫画『1・2の三四郎 』の桜五郎は恐らく上田がモデルと思われる。得意技は、コブラクロー、クロスチョップ。正統派時代はダブル・リストロック。1940年愛知県一宮市出身。1958年大相撲の追手風部屋に入門、1960年力士を廃業し日本プロレスに入門した。1961年プロデビュー。1966年に渡米、「プロフェッサー・イトー」のリングネームで悪役レスラーとして活躍した。1970年に帰国。1971年に猪木、1972年に馬場が日本プロレスを離脱、1973年彼らが抜けた中、大木金太郎とのタッグでインタータッグ王座を獲得したが、日本プロレスが崩壊してしまった。再び渡米、1976年帰国、国際プロレスに参戦した。この頃から「まだら狼」へと変身、竹刀を振り回し、ヒールに徹するようになった。ラッシャー木村と金網デスマッチで死闘を演じ、IWA世界ヘビー級王座を獲得した。1977年には新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと組み、北米タッグ王座を獲得した。1978年には猪木と釘板デスマッチを行ったり、ヒロ・マツダ、マサ斉藤らと「狼軍団」を結成、活躍した。マサ斉藤と国際へも再び参戦した。1980年代にもシンと共に全日に参戦したり、新日軍団の一人としてUWF軍と戦ったりして活躍した。
キラーカーン・・・辮髪に鬚をたくわえ、モンゴル人として活躍した日本人レスラー。モンゴル帽子にモンゴル服で登場した。得意技は「アルバトロス殺法」(奇声をあげて放つフライングニードロップ)、「モンゴリアン・チョップ」など。1947年新潟県出身。春日野部屋に入門。1971年日本プロレスに入門した。1973年新日本プロレスに参加。1977年にカール・ゴッチのアイデアでモンゴル人スタイルに変身し、テムヒン・エル・モンゴルとして活躍した。ミル・マスカラスのIWA王座にも4回挑戦している。1980年にはボブ・バックランドの世界王座に挑戦。1981年にはアンドレ・ザ・ジャイアントの右足を骨折させたプロレスラーとし有名になった。1982年に凱旋帰国、アンドレと熱戦を繰り広げた。その後長州力の維新軍団に入り、1985年にはジャパンプロレス勢として全日本プロレスに参戦した。1987年には再びアメリカに遠征、WCCWTV王座を獲得した。
星野勘太郎・・・すばやい回転技やすばしっこい動きでメキシコマットでも活躍した猪木を敬愛するジュニア・ヘビー級レスラー。得意技はマシンガンパンチ。1943年兵庫県神戸市出身。高校時代はボクシング選手として活躍、1961年日本プロレス入門。1967年アメリカで山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成、NWA世界タッグを獲得した。メキシコに転戦後日本に戻り第1回NWAタッグリーグ戦で猪木と組んで優勝した。1974年から新日本プロレスに参戦し、山本とのタッグを復活させて活躍した。「突貫小僧」として、UWF軍団との抗争にも奮戦した。1995年引退。
大木金太郎・・・石頭で知られた韓国人レスラー。得意技は「原爆頭突き」。国際時代は「X固め」。1929年韓国全羅南道出身。1959年日本プロレスに入門し、デビュー。1963年に渡米、ミスター・モトと組んでWWA世界タッグ王座を獲得した。1963年力道山が死去、居場所がなくなり韓国へ帰国、「大韓プロレス」のエースとして韓国プロレス界の発展に尽力した。1967年にはマーク・ルーインを破り、WWA世界ヘビー級王座を獲得した。その後日本プロレスへ戻り、1972年にボボ・ブラジルを破りインター王座を獲得した。日本プロレス崩壊後は新日本プロレスに参戦、1974年には猪木との伝説となった名勝負を、坂口とは遺恨からのセメントマッチを展開した。1975年以降は再び全日本、1980年代は国際で戦った。2006年逝去。
グレート小鹿・・・北海道函館市出身。身長185cm、体重115kg。大日本プロレス代表取締役社長。「人と同じことはしたくない」との思いから、あえて反則殺法に専念した。得意技はニードロップ・顔面かきむしり・スリーパーホールド。1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。豊登の命名による『小鹿雷三』のリングネームでファイトする。1967年に渡米しテネシー州、ジョージア州のタッグ王座などを獲得。『カンフー・リー』などのリングネームを用い、SFなどでシングルプレーヤーとして活躍し、姑息なヒール戦法を駆使して憎まれ役としての存在感を発揮。ミル・マスカラスを破って成し遂げたアメリカス王座戴冠の実績が光る。1973年6月に全日本プロレスに移籍。1974年1月にテキサス・アマリロへ再渡米。テリーファンクからウェスタン選手権を獲得。その後はジャイアント馬場のセコンドに必ず付いていたほか、大熊元司との名タッグ『極道コンビ』でアンダーカードの一時代を築く。アジアタッグ王座はこのコンビとともにあったといっても過言ではない。
藤波辰彌・・・猪木と共に新日本プロレスを支えた名レスラー。後年は長州との抗争も話題となった。ニックネームは「ドラゴン」。テクニシャンで得意技は「ドラゴン・スープレックス」、「ドラゴンスクリュー」、「ドラゴン・ロケット 」など多数。1953年大分県出身。1970年日本プロレスに入門、1971年デビュー。1972年新日本プロレスの旗揚に参加。1974年若手の登龍門カール・ゴッチ杯を制し1975年から海外遠征へ、欧州、その後アメリカへ。1976年にはカール・ゴッチの指導を受けた。1978年マジソン・スクエア・ガーデンでホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWFジュニア王座を獲得、凱旋帰国した。その後王座を計43回防衛した。1979年にはスティーブ・カーンを破りNWAのタイトルも獲得、二冠王となった。ゴッチ仕込の華麗な技と飛び技でスピード感のある「ジュニアヘビー級」というジャンルを確立し、「ドラゴン・ブーム」を巻き起こした。1981年ジュニア王座を返上、ヘビー級に転向、「飛龍十番勝負」を開始、ボブ・バックランド、ホーガン、ブッチャー、らと死闘を演じた。82年からは長州力との抗争が始まり、新日本のマットを盛り上げた。特に1983年のWWFタイトルマッチはプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1985年にはIWGPタッグリーグ優勝戦で猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成、「プロレス大賞」でMVPを獲得した。1986年には新日本を離脱した前田日明らUWF勢が参戦、6月の前田との熱戦はプロレス大賞ベストバウトを獲得した。1988年には後進にメインを譲らない猪木に自らの前髪を切って現状改革を訴える「飛龍革命」を起こしファンを感動させた。89年椎間板ヘルニアで長期欠場し1990年復帰、1991年にはリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となった。1993年には馳浩を破りG1 CLIMAX優勝した。その後は闘魂三銃士が台頭し、一戦を退いた。
長州力・・・長髪の「革命戦士」として人気を博したレスラー。維新軍団を率いて新日本、全日本の正規軍と戦い抜き、プロレス人気を盛り上げた功績は計り知れない。アマレス仕込のテクニックは鶴田と共にぬきんでていた。得意技は「リキラリアット」、「サソリ固め」など。1951年山口県徳山市出身。アマレス出身で全日本選手権優勝者で、ミュンヘン五輪に韓国代表として出場したエリート。新日本プロレスに入門、1974年デビュー戦のエル・グレコ戦でサソリ固めで勝利を飾る。すぐに海外遠征し、1977年に帰国した。1979年には坂ロと組んで北米タッグ王座を獲得、君臨したが人気は今一つだった。1982年にメキシコでエル・カネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取。帰国後藤波辰巳との「名勝負数え歌」でブレイクした。マサ斎藤やキラー・カーンと共に「革命軍」を結成、さらにアニマル浜口、寺西勇、谷津嘉章らと共に「維新軍」を結成した。1984年にはジャパンプロレスを旗揚げ、維新軍団を率いて全日本プロレスに参戦した。1985年にはアマレス時代からのライバル鶴田とジャパン対全日本の頂上決戦を行った。名勝負となり、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。また、ブルーザー・ブロディ、ニック・ボックウィンクルなどと名勝負を残した。1986年には谷津とのタッグでで鶴田、天龍の鶴龍コンビを破りインターナショナル・タッグ王座を奪取した。さらにハンセンを破りPWFヘビー級王座を獲得、当時の強さは圧倒的だった。1987年に新日本に出戻りし、ニュー維新軍を率い活躍した。1988年には猪木から念願のフォール勝ちを奪い、新日本の中心となった。1998年引退。得意技は「リキラリアット」
木村健悟・・・藤波辰巳と共に新日本のジュニアヘビー級を牽引した「稲妻戦士」。テクニシャンで得意技は「稲妻レッグラリアット」、「バック・ドロップ」など多数。1953年愛媛県新居浜市出身。宮城野部屋を経て1972年日本プロレスに入門。1973年新日本プロレスへ移籍した。1978年上田馬之助と共にアメリカ遠征、パク・チューというリングネームで活躍、上田と組んでアメリカス・タッグ王座を獲得した。その後メキシコではNWA世界ライトヘビー級王座を獲得、4度の防衛に成功している。1979年に帰国、1980年にはにブレット・ハートを破りNWAインターナショナルジュニア王者となった。その後ヘビー級に転向、85年には藤波辰巳とのタッグでアントニオ猪木、坂口征二組に勝利、初代IWGPタッグ王座を獲得した。6度の防衛を重ねたが、1986年前田日明、木戸修組に敗れて王座転落した。この後王座奪回後に藤波と抗争、数々の名勝負で新日本のマットを沸かせた。1988年には再び藤波と組んで藤原、山崎組が持つIWGPタッグ王座を獲得、翌年長州とマサ斎藤組に敗れるまで3度防衛した。1997年にも藤波と組んで蝶野、天山組のIWGPタッグ王座を奪取、長州、佐々木組みに敗れるまで3度防衛した。1992年には越中詩郎らと反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成、1999年の解散まで副将として活躍した。 2003年引退。血液型はB型
タイガーマスク(佐山サトル・三沢光晴)・・・初代タイガーマスクとして一世を風靡したプロレスラー。その後はショーマンシップを排した真の格闘技を目指した日本の総合格闘技の祖。1957年山口県下関市出身。新日本プロレスに入門、1976年デビュー。1978年にメキシコ遠征、1979年にはNWA世界ミドル級王座を獲得した。1980年にはイギリスへ渡り、ブルース・リーの従弟「サミー・リー」としてマーシャル・アーツ・スタイルの人気選手として大活躍した。1981年に帰国し初代タイガーマスクとしてダイナマイト・キッド戦でデビュー、勝利した。ストロングスタイルのプロレスをベースに、ルチャリブレの空中殺法と、かねてから取得していた打撃技を織り交ぜたレスリングスタイルで、空前のタイガーマスク・ブームを巻き起こした。1982年には藤波が返上したWWF世界ジュニアヘビー級王座決定戦でキッドに勝利し王者となった。さらにソントンを破り、史上初のNWA・WWF王者となった。ブラックタイガーとはWWF王座熱戦を巡り熱戦を繰り広げた。その後は小林邦昭、寺西勇らとNWA、WWFの王座を争った。しかし1983年8月、155勝1敗9分けの成績を残し突如引退、素顔を公表した。1984年に第1次UWFへ「ザ・タイガー」、後に「スーパー・タイガー」として再デビュー、前田を倒し、「実力№1」の称号を獲得した。1985年にUWFを脱退。1994年には新日本に復帰、獣神サンダー・ライガーとのエキシビジョンマッチに参加、1995年には「タイガーマスク」として復帰した。みちのくプロレスなど他の団体にも参戦、1997年には猪木とも対戦した。
獣神サンダー・ライガー・・・永井豪原作の漫画『獣神ライガー』を模したマスクマン。「ジュニア・フォーフォースメン」としてジュニアヘビーのプロレス界を盛り上げた。得意技は「垂直落下式ブレーンバスター」、「ライガーボム」など。1964年広島市出身。1983年新日本プロレスに入門、1984年デビュー。 1986年、ヤングライオン杯に優勝、イギリスに遠征、欧州の世界ミドルヘビー級王座を獲得。1989年獣神ライガーとしてデビュー、IWGPジュニアヘビー級王者となった。1994年にはジュニアのオールスター戦「スーパーJカップ」を開催した。ディーン・マレンコ、ワイルドペガサス、2代目ブラック・タイガーと「ジュニア・フォーフォースメン」を結成、人気を博した。血液型AB型。
ザ・グレートカブキ・・・アメリカでも大きな成功を収めたレスラーである。東洋の神秘の異名も同リングネームに関連して持つ、代表的なペイントレスラーの一人。元々は正統派で堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年、テキサス州ダラスにおいてアメリカ人のマネージャーのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにした、東洋系を前面に押し出したペイントレスラーにギミック変更。同時にザ・グレート・カブキのリングネームを用いだす。デビュー戦は1981年1月10日、対戦相手はザ・スポイラーだった。顔にペイントを施し、着物や能面を着けて登場、ヌンチャクを操り毒霧を吹くという東洋系のヒールキャラクターが受けて、アメリカ各地の団体で活躍。時に連獅子姿の他に鎖カタビラに日本刀を携えた忍者をモチーフにしたコスチュームでも登場し、フォン・エリック・ファミリー、ブルザー・ブロディ、ハーリーレイス、リックフレアー、アンドレ・ザ・ジャイアントらのトップスターと対戦した。
もちろんそれ以外にも輪島大士、天龍源一郎、前田日明など昭和を代表する名レスラーは大勢いた。私が小中学生だった昭和40~50年代はプロレスが全盛だったと思っている。その後K-1(格闘技)が登場したが、その礎を築いたものが紛れもなくプロレスだった。そうした先駆者がいたからこそ、彼等に憧れて続々とプロレスの門を叩いたレスラーたちがいる。さて、明日はそんなヒーロー達と数々の名試合を展開した外国人レスラーたちを紹介していきたいと考えている。
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