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2011年1月

2011年1月28日 (金)

坂井泉水 FOREVER

 1990年代、その女性は日本のポップス界において最も光彩を放ち、輝いていた。彼女が出すシングルやアルバム曲は、毎週ヒットチャートの上位を独占。テレビアニメの主題歌に幾度となく起用され、誰もが口ずさめるシンプルでアップテンポでリズミカルなメロディーライン。しかし、神は無慈悲にも彼女に永遠の輝きを与えることはなく、試練を授けた。傍目には順風満帆の歌手人生に見えていたが、いつしか忍び寄る病魔に蝕まれ、あのような非業の死を遂げるとは思いもしなかっただろう。いやそれともそれも承知の上での覚悟の事だったのだろうか・・・。

 生前、彼女のデビューは秘密のベールに包まれていた。覆面歌手(ユニット)として、公の場に姿を見せることを頑なに拒むかのような身の置き方であった。まるで正体不明で、一時「彼女はこの世に実在しないのではないか」との憶測も飛び交うほどであった。デビュー当時の松山千春を彷彿させる、そんな不思議な存在だった。一体どんな人が歌っているのだろうと興味津々だった。
 独特な鼻にかかった甘ったるい声質。それでいて艶やかで伸びのある美声。初めて彼女の姿を見た時、私は言いしれぬ衝撃と感動を覚えた。「何て美しい女性なのだろう」と。ピュアな印象と透明感を醸し、現代の若い人には珍しいくらい独特な落ち着き。そしていつも伏し目がちで少し影を感じさせる妖しい雰囲気の持ち主。何もかもが魅惑的で神秘的。
 彼女はデビュー前、様々な職業をこなしていた。レースクイーンやモデル、カラオケのPV出演、そして時には、その美形な顔立ちとスタイリッシュな体型を活かしてイメージビデオにも出演した。しかしそれは自らの身を立てる為の手段で、内心は歌手になることを捨て切れなかったということで、何も引け目を感じることではないし、ファンへの裏切り行為でも何でもない。
 しかしながら、もしかすると、彼女の中でそうした過去を包み隠そうとしてテレビ出演を拒み、CDリリースのみで自分の感性を発表する場と考え、そのようなデビュー形態を確立しようと模索していたのかも知れない。そして彼女の雰囲気の中にある、そうした「影」の部分を自然のうちに作り出していたのかもしれない。彼女のCDジャケットやZARDのボーカルとして撮影された画像は、殆どがカメラ目線はなく、素顔を見せることを避けているかのように伏し目がちかあるいは遠目に撮影したものばかりである。ファンならずともここで言う「彼女とは誰なのか」もうおわかりだろう。そう、彼女とはポップス系ユニット「ZARD」のボーカルだった「坂井泉水」である。

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 彼女の歌声は1990年代、世の中を席巻し、テレビ、ラジオ、CDショップなどでは毎日のようにBGM替わりに流されていた。リリースする曲がすべてメガヒット。私は8cmCDの時代から、ずっとZARDのシングルを所有していた。
 デビュー曲の「Good-bye My Loneliness」から遺作となった「グロリアスマインド」まで。シングルは実に45枚発表された。オリコン調べによる(2009年6月現在)ランキングによると、アーティスト・トータル・セールス(CD総売上枚数)は3,743万枚で歴代7位の記録。シングル:1,768万枚(女性ボーカルアーティスト歴代2位) 、アルバム:1,971万枚(女性ボーカルアーティスト歴代4位) 、シングルTOP10獲得数:43作(歴代5位タイ)(女性ボーカルアーティスト歴代2位)、 90年代アーティスト・トータル・セールス:3位(女性ボーカルアーティスト1位) 、シングル1位獲得数:12作(女性ボーカルアーティスト歴代4位) 、シングルTOP100チャートイン数:45作(90年代デビューアーティスト歴代2位)、アルバムミリオン獲得数:9作(歴代4位タイ)、アルバム連続ミリオン獲得数:9作(歴代1位)、アルバム1位獲得数:11作(女性ボーカルグループ1位タイ)という実に輝かしい記録である。

 <私の好きなZARDの曲ベスト20>

 1位 「揺れる想い」・・・1993年5月19日発売 最高位1位
 2位 「マイフレンド」・・・1996年1月8日発売 最高位1位
 3位 「永遠」・・・1997年8月20日発売発売 最高位1位
 4位 「負けないで」・・・1993年1月27日発売 最高位1位
 5位 「心を開いて」・・・1996年5月6日発売 最高位1位
 6位 「君に逢いたくなったら」・・・1997年2月26日発売 最高位2位
 7位 「きっと忘れない」・・・1993年11月3日発売 最高位1位
 8位 「この愛に泳ぎ疲れても」・・・1994年2月2日発売 最高位1位
 9位 「風が通り抜ける町へ」・・・1997年7月2日発売 最高位3位
10位 「愛が見えない」・・・1995年6月5日発売 最高位2位
11位 「こんなにそばに居るのに」・・・1994年8月6日発売 最高位1位
12位 「Good-bye My Loneliness」・・・1991年2月10日発売 最高位9位
13位 「眠れない夜を抱いて」・・・1992年8月5日発売 最高位8位 
14位 「君がいない」・・・1993年4月21日発売 最高位2位
15位 「運命のルーレット廻して」・・・1998年9月17日発売 最高位1位
16位 「息もできない」・・・1998年9月17日発売 最高位3位
17位 「瞳閉じて」・・・2003年7月9日発売 最高位4位
18位 「もう少しあと少し」・・・1993年9月4日発売 最高位2位
19位 「あなたを感じていたい」・・・1994年12月24日発売 最高位2位
20位 「痛いくらい君があふれているよ」・・・1999年10月14日発売 最高位5位
次点  「この涙  星になれ」・・・1999年12月1日発売 最高位5位

  シングル曲ではないが、「Oh my love」も大好きな曲だった。

 タイトルを見ると、彼女はまるで自らの死期を悟り、悲しい別れを暗示しているかのような意味深なネーミングばかりである。タイトルを知らなくても、そのサビの部分やメロディラインの一部を聴いただけでも一度は聞き覚えのある曲ばかりに違いない。

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 デビュー前から彼女がスターダムにのし上がるまでの経歴をここで簡単に振り返ってみたい。彼女は1967年2月6日神奈川県平塚市生まれ。秦野市育ち(小学校4年より)。本名は蒲池幸子。血液型はA型。秦野市立西小学校、秦野市立西中学校、神奈川県立伊志田高等学校卒業。中学時代は陸上部で活動をする傍ら、ギタークラブでも活動していた。
 高校時代は硬式テニス部に所属。松蔭女子短期大学を卒業後、不動産会社にOLとして約2年間勤務した。しかし、転機が訪れた。街頭でスカウトされ、スターダストプロモーションに所属し、本名「蒲池幸子」でモデル活動を行う。モデル時代の公式プロフィールは1969年生まれとなっていた。この時期、セミヌード写真集「nocturne」を出している。
 1989年(22歳) からドラマや人気歌手のPV、更にはバラエティ番組のアシスタントなどに多数出演する。東映カラオケのPR活動などで地方のカラオケ店を巡業する。この企画はZARDでの歌手デビュー後の1991年3月まで続いた。日本エアシステムのフルロードキャンペーンのキャンペーンガール。
 1990年(23歳)の時には、日清カップヌードルレーシングチーム(2輪)のレースクイーン。岡本夏生は同期。 6月、写真集『Body Works』出版。 6月21日、ビデオ『SEXY SHOOTING』(サザンクロスビデオアーツ)発売。7月24日、写真集『NOCTURNE出版。モデルやグラビアアイドルとして順調に仕事をこなしていた。 冬にはフジテレビ系番組『オールナイトフジ』のグラビア美少女のコーナーに出演。
 その他、雑誌グラビアに多数掲載される。これらは華やかで決して下積みとは呼べないが、彼女がひた隠しにしたかった過去だったのかもしれない。そしてまたまた一大転機が訪れた。
 1990年8月に所属の「スターダストプロモーション」の代表取締役、細野義朗にビーイング社長、長戸大幸を紹介されオーディションを受ける。長戸に才能を認められ、坂井泉水として音楽ユニット「ZARD」結成の準備に入る。そして念願だった歌手デビューを1991年(24歳)で果たすこととなった。2月10日にシングル「Good-bye My Loneliness」でデビューし、 以降、音楽活動を続ける。それ以降の活躍については前述の通り。

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 「美人薄命」とは彼女のために用意された言葉なのかも知れない。運命の悪戯に翻弄され、天国と地獄の両方を味わい、人知れず病気と闘い、ひとり天国へと旅立っていった。ファンにあまりにも突然の悲しい訃報を残しただけで・・・。彼女は素顔を晒すことはあまりなかった。あれだけの美貌の持ち主ながら、結婚もせず、女性としての幸せを掴むことすら望まなかったように思える。ここから先の文面は、ややショッキングなため掲載するかどうか迷いに迷ったが、彼女が精一杯生き、人生を締め括るエピローグなので、やはり包み隠さずに全てを掲載したい。

Sakai11  2000年以降、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症と次々に病気を患い、通院の日々が続いた。その年のNHK紅白歌合戦を「体調がすぐれないため」として出場を辞退した。2006年4月、仕事中に体調が悪化したため、病院で検査をうけたところ子宮頸癌が発見される。6月1日に慶應義塾大学病院で病巣の摘出手術を受けて、7月に退院。 2007年年4月、肺への転移が見つかり、再入院。入院中は抗ガン剤による治療を受け、治療後のアルバム製作とコンサートツアーに向けて作詞を行うなど、再始動を目指していた。しかし、5月26日朝の5時40分頃、目撃者の証言によれば、入院先の病院内のスロープの手摺りに腰をかけていたのだが、そこから3メートル下に予期せぬ転落をして、駐車場で仰向けに倒れているのを通行人に発見される。ICUで緊急処置を受けたが、翌5月27日午後3時10分、後頭部強打による脳挫傷で急死し、還らぬ人となってしまった。倒れていたのが早朝6時前という時刻で、あまりにも不自然で不可解な突然死に、事件事故の両面から検証が行われたが、自殺とみられる兆候はなかったことから事故として処理された。これからという矢先の40歳という若さでの孤独な旅立ちであった。しかし真相は本人にしかわからない。闘病生活に疲れ、死を予感して、または先行きを不安視しての発作的に自ら落ちたのかも知れない。彼女の葬儀は青山葬儀所で、しめやかに親族だけの密葬として執り行われた。そして、レコード会社と所属事務所の合同音楽葬としてファンとのお別れ会が6月27日に青山斎場で開かれ、往年のヒット曲が会場に流れる中、四万人を越える大勢のZARDファンが詰めかけ、あまりにも唐突で早すぎる死を悼むと共に、彼女との永遠の別れを惜しんだ。

 彼女の衝撃的な死から早いもので3年以上の月日が流れた。私は未だに彼女がもう過去の人だという事実を受け止めきれないでいる。彼女のPVを見ると居た堪れない気持ちになる。今でも「名探偵コナン」のエンディングテーマに坂井泉水の声が鳴り響く時がある。私は毎日のように彼女のベスト盤CD(MD)を聞きながら、職場までの道のりを往復運転している。彼女の甘い歌声、時には「彼女が生涯をかけて伝えたかったことは何だったのか」という文字通り命題に至るまで深く考えさせられ、身につまされて感じることもしばしである。もう二度と生で歌う姿を見ることは叶わないが、彼女のあの愛らしい、そしてちょっと照れた素振りで歌う姿やスタイル、笑顔、そしてその美声を永遠に忘れはしない。
「坂井泉水、フォーエバー(永遠なれ)!」

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 「揺れる想い」 LIVEでは必ずオープニングで歌った私が一番好きな曲。

 最後に在りし日の彼女の歌声をどうぞ!

http://www.youtube.com/watch?v=lvYW1KDIPlI&feature=related

 「心を開いて」

 Oh my love

http://www.youtube.com/watch?v=dbqrY2vmSQ4&list=RD02OZEt21pk6pM

 「負けないで」の秘話

 

 関連記事(我が永遠なる歌姫)はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-abd8.html

 
 記事作成:1/27(木)

 追記(H25/10/28)

 坂井泉水さんのお墓参りの記事はコチラ ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1022-6804.html

 坂井泉水さんの転落事故現場訪問の記事はコチラ ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1023-1efb-1.html

 

 H26.7.15 一部記事を修正しました。

2011年1月22日 (土)

ドキュメンタリー46歳の挑戦~科目試験再び篇~

 このタイトルも久々だ。ハッキリ言って3日間の突貫工事のような学習法だった。昨年の7月に受けたのと同じ専門科目の試験をリベンジとばかりに再受験した訳なのだが、前回と同じことを覚え直しただけで、ヤマが外れれば一巻の終わりの状態だった。

Soccer  試験前日、覚えたことを3~4回、用紙に書いて復習し、書くべき答案の模擬練習を何度も行った。8枚もの内容を全て滞りなく覚えた。勉強とはそういうものだろうが、やっていないと不安になるくらいになれば本物だろう。「わからないところが何なのかわからない」うちは、勉強していない証拠だ。やっていれば必ずつまづきがあり。それを解決しようと調べ、紆余曲折があってどうにか解決する、その繰り返しで人は知識を蓄え、より高みに辿り着けるのであろう。そう考えれば「人生に勉強の終着点はない」ということだ。学ぶのを辞める時はおそらく死ぬ時なのだろう。疑問が解決した時の歓喜にも似た快楽と充実感、そして安堵感は何物にも替え難いものである。結局前夜は娘にチャンネル権を奪われ、23時からサッカーアジアカップ準々決勝のカタール戦を見ながらこの日最後の5回目の復習を行おうとしたが、それどころではなかった。手に汗握る激闘だった。警戒していたセバスチャンに個人技から持ち込まれ、先制を許し、追う展開。岡崎のGKの頭の上を超える技ありループを香川が頭で押し込み同点に。しかし後半早々、吉田が2枚目のイエローで退場。直後のFKで失点。また勝ちこされる。あまりにも痛い失点で、しかも一人少ない苦しい中、誰もが敗戦を覚悟しただろう。しかし日本は諦めなかった。後半も中盤過ぎ、明らかに疲れが見えだしたカタールに対し、日本はダイレクトパスで細かくつなぎ、豊富な運動量で圧倒。香川の値千金の同点シュートと伊野波の勝ち越しゴールで大逆転。若き日本代表の強さを見せつけた。これがサッカーなのだろう。カタールはワールドカップ開催が決まり、南米の選手を帰化させている。予選が免除なのだからこれはおいしい。これでベスト4進出が決定。相手はイランか韓国の勝者。どちらが来ても強敵だが、10人でも逆転勝利した日本の粘り強さが発揮できれば、2大会振り4回目の優勝も決して夢物語ではない。結局、興奮のあまり1時過ぎまで起きていたが、自宅では勉強が手に付かなかった。

Dvc00268  そして試験当日の1月22日(土)、朝7時20分に起床。午前中の10時から約1時間かけて最終点検。13時25分に自宅を出た。会津街道を駅方面に向かい、ツルハから右折。若葉町を素通りし、神明通りへ。試験は14時30分から清水台の職業訓練センターを会場として行われた。この場所は私が幼少の頃、剣道を習った「武徳殿」という木造の剣道場があった場所だ。もちろん私にとっては幼少期からの庭のような場所だ。帰りに立ち寄ることにして虎丸町のブックオフのPを拝借。そこから歩いて会場へ。13時50分に到着。今回は地元なので、一体どれくらいの人が私と同じ考え、そして同じ志で臨んで受験に来るのか楽しみだった。出来れば話しかけて仲良くなりたかったが、どうも試験会場に入った途端からピリピリムードで、話しかけられそうな雰囲気ではないかった。試験は女性が4人で男性が私を含めて2人。計6人で受験となった。私の前の男性は確か昨年7月にも福島テレサで会った人で、「西洋史」の試験を受けていた。また、私の後ろに座ったのが女性で、「英語Ⅶ」の科目を受け、右側の前から3列は「地理学Ⅱ」などを受験していた。私はこれで通算3回目の科目試験受験となったが、受験生と話が出来たのは仙台の時だけだった。しかも地元の65歳過ぎのおじいさんだった。退職してもなお、まだ学習意欲が冷めぬとは感服しか祀った。14時半から「E群」の試験開始となったが、設問を見るまでの緊張感が凄まじい。この用紙をめくった一瞬で、天国か地獄かが決まる。全く予想もしなかった問題に直面すれば、面喰って衝撃を受けて、1時間を打ちひしがれて棒に振るか、あるいはラッキーとばかりに時間を惜しんでカリカリとペンを走らせるか、まさしく月とすっぽんほどの差がある。今回の出題は「律令の中央官制を史料として、四等官制度について論ぜよ」というものだった。ここは学習していた範囲だったが、そこだけをこと細かく詳細に論じるのは相当厳しく、仕方なく、まずは四等官が律令官司の「長官・次官・判官・主典」から成る管理職で、行政の意思決定機関であることを述べ、さらに準管理職として「史生」、平役人として「使部」と「直丁」を置いたことなどを書いた。更には中央官制とは何か「二官八省一台五衛府」の行政組織を史料として挙げ、それぞれを説明し、最後に四等官がどういう役割を果たしたかを述べてまとめとした。Dvc00266珍しく誤字などで訂正は1箇所だけ。きれいな答案を作成できた。B4タテの用紙の一番下 まで埋められた。前々回(7月)の時もそうしたのだが、結果は「D」判定で不合格となってしまった。今回は出題の設問に沿った解答をしたのだが、前回の反省を生かせず余計なことを羅列したため、意外と減点されて厳しい結果が待ち受けているかもしれない。とにかくK大の試験は難しいことで有名で、うわべだけの勉強ではすぐに見抜かれてしまう。まんべんなくテキストを読み込んでおかないと、とても太刀打ちできない内容なのだ。これはスクーリング以外のテキスト学習で単位を取得するのは相当難しいかもしれない。通学生よりも通信制学生の方が、学力が高いと断言する教授がいるほどで、マジで卒業するのは入学生の5%程度、法学部に至っては僅か3%だというから狭き門なのだ。今回はダメ元で受けたものの、幸いにして覚えた内容が出題されたので、「C」で何とか合格するかもしれない。でも楽観はできない。下まで埋め、数回見直しして、試験開始から30分が経過した15時2分に「いの一番」に提出し、退室した。これは学生時代から変わっていない。常に一番に答案を仕上げ、真っ先に提出するのがこの上なく快感だったのだ。それが今でも体に染みついているようだ。「先手必勝」を座右の銘とする自分らしい。でも「慌てる何とかは貰いが少ない」と言われるように、早合点や勘違いで早とちりも自ずと多い方だ。だからこういう性格が災いして血圧が高いのかもしれないが。17時からは懇談会があったようだが、キャンセル。そして明日の試験(「憲法」)も申し込んでいたのだが、全く手つかずなので、残念ながら辞退することになった。もし今回受験した「日本法制史Ⅰ」の単位が認定なら、これまで3回の科目試験とスクーリングで12単位取得となり、4月の科目試験で1年間のスケジュール終了となるのだが、年間の目標(下方修正したが)の15単位取得の可能性は何とか残った。あと3単位は憲法(3単位)か政治学(6単位だがレポート未提出)で目標クリアとなる。これからは年間16単位目標でやれば、5年間で80単位。毎回科目試験では、欲を張らずに1科目(3単位平均)ずつ受験し、4回の試験で12単位を確実に取得し、それにスクーリングで4単位を加えればクリアとなる。これにすでに学士入学で取得済みの40単位分を合わせれば120単位ほど。6年目に卒論に取り掛かれば6年間で卒業となる。かなりのどんぶり&取らぬ狸の皮算用だが、そうすれば52歳時点で大学卒業というのも面白い。

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 その後、玄関先で今回受験したという証拠の写メを撮影。そして次に向かったのは、小中学校の同級生の経営するその近くの酒屋だった。商工会議所の隣にあった古い病院の名前を探り出すためだ。すると奥さんが同級生の主人の出先にTELし、わざわざ戻って来て貰った。何と中学卒業以来、31年振りの再会だった。古い昔話をしていくうちにいろんな記憶がよみがえってきた。なんと彼は、推し量ったかのように昭和20年頃の駅前周辺の正確で詳細な住宅地図を持っていた。しかも何故か新品。希少価値は凄い!それはすでに亡くなられた藤野さんという方が自分の記憶や足を頼りに聞き込みを行い、自分で作成した昔の地図だった。そして私が探していた病院は、「斗星堂(とせいどう)」だったことが判明した。そして駅前周辺の地図を見ると、昔懐かしい店屋の名前がズラリ。4号線より旧国道の方が広かった時代の図面である。街の真ん中(寿泉堂病院の南側)に防空壕があったり、道路拡幅で今は他の場所に移転した店も。昔はあの周辺は銭湯がやたらと多かった。内風呂があった家庭は少なかったからだ。「虎湯」や「柳湯」、「夢の湯」など、そして呉服屋と魚屋、自転車屋もずいぶん多かった。死んだ親父が見たら、すべてを知り尽くしていただろうから、さぞかし懐かしんだことだろう。15時5分から16時まで居座って昔話に花が咲いた。しまいには昭和一桁生まれの80歳すぎのおばあちゃんまで登場し、話に加わっていた。私の中学校の学区だけに同級生のお店も数多く記載されていた。とにもかくにも問題が解決して良かった。そして帰りがてら、再び試験会場の「職業訓練センター」に戻り、2階のホール兼ロビーで案内表示板を入れて写メ。

 その後、車を駐車した「ブックオフ」。「こち亀」の単行本を2冊500円で購入した。そして実家へ。昼飯も食べないで往復したので、「ホットモット」で「特から揚げ弁当」を430円で購入し、実家で食し、ついでにおかずを頂いた。そして18時過ぎに実家を出て、18時15分に帰宅した。途中、内環状線の「ツルハ」の斜め向かいに新規開店した「セブンイレブン」がイベントを開催していて大繁盛していた。ここの駐車場は滅茶苦茶広い。以前は一面畑があった場所だ。一昨日前に仙台で歩き過ぎて足が痛くなければ、この後はリゾートかミネロにナイタースキーに行く予定だった。釣りにしてもスキーにしてもいつも単独行動で自由気ままなのだが、この歳になると何かある(心臓発作とか)とまずい。子供や家内は同行出来ないので、このブログを見ている方で、一緒にスキー(orスノボ)に行っても良いという方(男女問わず)は、コメントにメルアドなど書いてお知らせください。当ブログにはアップ掲載せず、こちらからご都合等のご連絡を差し上げたいと思います。

 このところ3日間は試験勉強に明け暮れたが、なんとかやりきった感じ。ホッとした。これからは専門だらけなので、欲張らず、毎回1科目受験して確実に単位取得に結び付けて行きたい。ちなみに明日は休養日としたいが、やるべきことが溜まっている。まず、寒くて足が遠のいていた散髪とレポート作成の参考文献をかき集めに麓山の中央図書館へ行く。そして、もうじき確定申告なので給料明細表を見ながら収支計算書と青色申告書の書類作成。更には仕事が終わらず、家に持ち帰った仕事をパッパッと片付け、更には電気店巡り(ブルーレイの価格調査)とストック分が無くなった当ブログの執筆と結構忙しいかもしれない。とりあえず今日は、夕べのサッカー観戦で夜更かししてしまったので、ビールでも飲んでゆっくりと寝たい。

2011年1月21日 (金)

強行軍の仙台出張!

Dvc00222  予め断っておくが、これは昨日(1/20)の出来事である。あいにく2日連続のシリーズ記事(若くして亡くなった有名人)を掲載したために、とびとびは避けたいがため、アップが出来ず、一日遅れとなったことをまずお詫びしたい。
 早速本題に入るが、一昨年から仙台に行く機会が極端に増えた。昨年も1月(新幹線)、7月(車)、10月には大学の科目試験を受けに1,000円高速を利用し車で往復した。そして今年もまた、昨日の1月20日(木曜日)に、午後から仕事で仙台にとんぼ返りを強いられた。冬場なのでもちろん電車での往復。最近JRは、システムトラブルから緊急停車や運休など大幅なダイヤの乱れが相次いでいる。でもこの季節、車で行くわけにはいかない。午前中いっぱい仕事を行い、職場を12時前に出た。駅までの道が雪で危ういと思い、早めに出発したら、県道と美術館通りにはほとんど雪が無く、快調にドライブ。20分もかからずに、駅北側の線路の下を潜るトンネルへ。そしてあちこち安そうな駐車場を探し廻った。いつもの市営西口駐車場ではなく、民間の30分100円、最大800円という良さげな場所を見つけ、立体にピットイン。そこは「161パーキング」という駐車場だった。そこの3階の一角に駐車した。そして300mほど歩いて駅ビルへ。同じく仙台へ行く連れがいたが、思いのほか早くついてしまったため、同じ新幹線で行くという約束はしなかったため、直近の新幹線に乗ることにした。みどりの窓口へ猛ダッシュ。新幹線のWきっぷ(8,600円)を購入し、改札に駆け込んだ。ホームへ行く途中のロビーにある弁当屋で牛味噌煮焼肉弁当とホットのペット茶を990円で購入した。14時からの会議出席の為、12時31分発の「Maxやまびこ135号+つばさ135号」の連結新幹線に乗った。もちろん自由席(4号車)で、2階建ての車両の2階席。昼間の便は楽勝で座れる。途中、福島・白石蔵王と停車し、ずっと雪景色の中を北へ向かう。何と46分で仙台へ。その間、明後日に迫った科目試験の勉強をしようと 思っていたのだが、あっという間の出来事で、多少レポート用紙を眺めただけで、昼食替わりの駅弁を食べて終わりだった。途中車内で田舎臭いおっさんが、他の客の迷惑を顧みず、車内で携帯にて通話しっぱなし。マナーも何もない。そして13時17分に終着の仙台駅へと降り立った。そして強風が吹き付け、体感温度が下がるような寒さの中、会場を探してあちこち放浪。何とか会場の「Dvc00260仙台国際ホテル」に13時30分過ぎに辿り着いた。しかし、通りや歩道など仙台の街中は一切雪がなかった。早い列車に乗れたので、余裕で間に合った。会場は2階の結婚式場の大宴会場のような広々とした場所だった。ここに今日は東北6県の同業者たちが一堂に会して会合が持たれた。会議の開始まで、この2日間で覚え直した「日本法制史 I 」の科目試験対策用のプリントを何度も見直した。会議自体は、一方的に伝達事項を受動的に聞かされる取るに足らないものだった。会議は1時間半で、15時半まで。去年まで同じ職場にいた女性同僚2人を遠くに見つけたが、あえて声を掛けなかった。会議中、出された緑茶とコーヒーと冷水を交互にガブ飲み。会議終了後、速攻でトイレに立ち寄り、15時35分にはホテルを出発して足早に駅へと向かった。本当はなかなか来れない仙台、ゆっくりして行きたいのはヤマヤマだが、明日も仕事が仕えているので、出来るだけ早く失敬することにした。寒い中、足早に駅方面へ歩みを進める。心は早くも帰りがてら食すと固く決めていた「牛タン定食」に向かっていた。そして「笹かま」をお土産で購入。笹かまは毎回「鐘崎」と決めている。他社のもどきは絶対に口にしない。15時45分過ぎに駅へ戻ると、まず「NEWDAYS」のコンビニで鐘崎の笹かまを3つ購入(2,760円)。それを携えて、駅ビルの片隅にある牛タンだらけの飲食店街(通称「牛タンストリート」)へ。前回もお邪魔した喜助という店に入り、1,500円の牛タン焼き定食を注文。16時13分発の新幹線に乗るつもりだったため、時間が気が気ではなかった。そして店員さんに断って料理の写メを撮った。この牛タン、柔らかくて超美味。なんと10枚も入っていた。ご飯が麦飯っぽかったのも相性が良かった。そしてスープがまた格別。ネギと角煮が具として入っていた。10分ほどで完食。店内の壁には色紙が所狭しと並び、オードリーを初め芸能人のものが貼られてあった。結構人気店らしい。すぐさま会計を済ませ、レジで名刺サイズのスタンプカードとカードサイズのカレンダーを貰い、す ぐに改札へ。すでに列車がホームに入っていた。その列車は「MAXやまびこ218号」だった。自由席の5号車を探し、早速乗り込んだ。仙台始発なので労せずに座れた。行きも帰りもMAXで、2階の2列シートの窓際に陣取った。16時13分に出発となっDvc00238た。せっかくの仙台往復だったのに、結局は現地に3時間足らずしか滞在しないという早業だった。企業戦士になった気分だ。停車駅は福島のみ。帰りは外の雪景色を眺めている余裕などなく、ひたすら科目試験のための学習ノート(レポート用紙&プリント)とにらめっこ。実はこれ、去年の6月に福島市で受験した際に使ったプリントの再利用。ヤマが外れ、単位を落としてしまった科目だった。今回は是が非でもその2単位ゲットをもくろんだのだが、一度やっていたとはいえ、半年以上が経過し、すっかり忘れてしまっていた。2日間で記憶を甦らせて本番に臨むという無謀なドタバタ作戦だった。K大はそんなに甘くは無いだろう。16時53分には郡山駅のホームに滑り込んだ。新幹線はやはり早い。車の半分以下の時間で到着。やはり時速200km以上の世界は違う。事故の心配も無く時間厳守で進行する。2~3日前のシステムトラブルで運転停止や運休したとは思えないほど正確無比だった。時刻表通りの運行で安堵した。そして北口の出口から出てエスパルを横切り(高校生だらけ)、駐車場へ。ゲートで機械精算の際、1,000円という表示。一日最大800円ではなかったのか?ボッタクリか?してやられた・・・。市営西口駐車場とあまり変わらないではないか!そして17時に出庫し、駅前大通り(なぜかガラ空き)を西へ。さくら通りを上がって実家へ立ち寄ってみた。17時10分には着いていた。なんという早業。ツルハのPを拝借した。そして土産の笹かまを渡し、仏壇に向かって手を合わせた。そして満腹だったが、夕食のおかずを少々つまみ、そして19時に実家を出発し、12分に帰宅となった。今日はハードな一日となったが、科目試験の勉強が捗り、多少焦りがなくなった。最悪「受験キャンセルもあり得る」と思っていたが、土曜日の専門1科目(2単位)だけ受験したとしても「白紙提出」の危機だけは回避できそうなところまでこぎつけたと思う。せっかく地元で受験できるのにこれをみすみす逃す手はない。でも単位取得できるかは出題(設問)次第。そんなにK大の教授陣は甘くはない。
 下は仙台駅に停車中の「MAXやまびこ」の2階建て新幹線の車内(2階席)から駅前方面を撮影した写メ。(本日の出費:14,850円)

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2011年1月20日 (木)

若くして亡くなった有名人~後編~

 本日は昨日と同じテーマである。今日は日本だけでなく外国の有名人も加えてみたい。そして今日は、もちろん集めた訳ではないのだが、不思議にも自ら命を絶った方々が多くなってしまった。若くして亡くなるのは病気ももちろんあるのだが、やはり将来を悲観したり、役者や歌手としての壁にぶつかり、もがき苦しみ、鬱傾向に陥り、衝動的に死を選ぶケース、また、芸能人に多いとされる薬物に依存し、やがては中毒に至り、正当な判断が出来なくなったケース、更には女性に多いのが失恋を苦にしての自殺が多いように思える。私達ファンからすれば、理解しがたいほどの強い衝撃を受けることになるが、同時に後追い自殺ということも決して珍しいことでないのだ。芸能人は文字通りスターであり、光輝く存在であってほしいと常々願っている。では志半ばで散って逝った往年の若きスター達の人生劇場を振り返ってみたい。 

Okadayukiko  岡田有希子(1967年8月22日-1986年4月8日 18歳で没)

 1980年代中期のトップアイドルの一人。ポスト松田聖子として期待され、活躍 していたが、アイドルとしての絶頂期に自殺してしまった。それは衝撃的だった。当時の報道では思いを寄せる俳優にフラれたことがきっかけで(真相は謎だが)、自宅マンションで手首を切り、それでも死に切れず、ガス自殺未遂、更にはその治療直後に所属する四谷の芸能事務所の屋上近くから投身自殺を遂げてしまった。1986年の夕方の番組中、ニュース速報で伝えられ、我が目と耳を疑った。その時、自分は大学3年生で東京(三軒茶屋)に住んでいた。私は彼女のファンではなかったが、人気アイドル歌手の衝撃の急死のニュースはショックだった。もちろん若者にも大きな影響と波紋を与えた。彼女は名古屋市熱田区の出身で、1983年にオーディション番組『スター誕生!』の第46回決戦大会チャンピオンとなり、芸能界入りした。1984年4月に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。「ユッコ」の愛称でファンから慕われた。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』がオリコン初登場1位となる。憧れだった歌手として順風満帆そのものだったのに、あのようなショッキングな自殺をしたことがあまりにも唐突で信じがたい事実だった。その後、後にユッコ・シンドロームと呼ばれることになる、類例のない規模の後追い自殺(ウェルテル効果)が起こり、当時の衆議院文教委員会で取り上げられる大きな社会問題になった。その人数はなんと115人とも言われた。O型。

 当時のニュース映像 https://www.youtube.com/watch?v=NJ968RkzApM

 ワイドショー映像(閲覧注意) https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

Honda  本田美奈子(1967年7月31日-2005年11月6日 38歳没)

 1985年にデビューしたアイドル歌手で、当時は珍しいへそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。代表作は「Temptation(誘惑)」と「1986年のマリリン」だった。1990年代以降は主にミュージカルで活動した。代表作は「ミス・サイゴン」。オーディションでは、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。天使の歌声とまで称された美声で観客を心酔させた。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーにも挑戦した。しかし、2004年末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。本田は翌年1月12日、急性骨髄性白血病との診断を受けて緊急入院、その翌日にはその事実が公表された。その後、2度に渡る化学療法を行ったり、治療として骨髄移植が考慮され、骨髄バンクではドナーが見つからず、同年5月、臍帯血移植を受けた。同7月末には一時退院したが病気の再発が認められ、同年9月初旬に再入院し、輸入新薬による抗がん剤治療を受けた。その後、肺への合併症から容態が急変し、同年11年11月6日午前4時38分、家族らの見守るなか、永遠の眠りについた。親友のひとりの南野陽子は、追悼番組で気丈に振舞ったものの、その姿が痛々しく、視聴者の同情を誘った。O型。

http://www.youtube.com/watch?v=pHxE5tpNzbI&feature=related

Kawai  可愛かずみ(1964年7月9日-1997年5月9日 32歳で没)

 彼女の死もまた衝撃的だった。当時交際を噂されていた元ヤクルトスワローズの主力投手だったK選手の自宅マンションの7階から飛び降り非業の死を遂げたのだった。これに至るまでも3回に渡り、リストカットを繰り返していた。彼女は私と同い年だっただけに残念である。彼女に関しての印象はA型らしく生真面目で、精神面が脆く、傷つくと立ち直りが遅い。出演では「ひょうきんベストテン」の中森明菜役や私が大好きだったドラマ「季節はずれの海岸物語」の新井徳子(とっこちゃん)という役柄で鶴太郎がマスターをしていた喫茶店を手伝う役柄を演じ、好評を得ていた。優としての評価は高く、特に悲哀な内容の演技には周囲が絶賛していた。「若手女優でも将来が期待された一人だった」と多くの関係者が語っている。可愛の演技力が増していくことで、晩年のものぐさにも見えるアンニュイな雰囲気を漂わせる役柄の印象が、ありのままの可愛だと思う人が多かった。1992年に実力派女優として認められ、日活80周年記念作品『女猫~美しき復讐者~』の主役に抜擢された。

http://www.youtube.com/watch?v=qrsbkOn_ERs

Okita  沖田浩之(1963年1月7日-1999年3月27日 36歳で没)

 神奈川県川崎市出身の元アイドル、俳優。青山学院大学の夜間部を中退。デビューのきっかけは、1980年代に若者の中で大流行した「たけの子族」のリーダーをして躍って人気を博していたことから芸能人事務所にスカウトされた。TBS系列のテレビドラマ『3年B組金八先生』第2シリーズの松浦悟役で出演し、人気を博した。1981年には「E気持(イーきもち)」で歌手デビュー、曲がヒットした。また熱狂的ファンの親衛隊も多数結成された 。数ある親衛隊統制による、ステージ用の応援コールとして、「HIROはとってもいい男、今日は絶対チャンピオン、スーパーアイドル沖田浩之G.U.T.SガッツヒーローH.I.R.O.Y.U.K.Iいつでもヒーローチャンピオンゴー」というコールも作られた。その後は歌手、俳優として活躍していた。代表作は映画「私をスキーに連れてって」やVシネマにも出演するなど芸の幅を広げようと必死だった。そして俳優・津川雅彦が代表を務めるグランパパプロダクションに移籍、その後も俳優として堅実な歩みを続けていた。津川からは死ぬまで芸を磨けと叱られてばかりだったという。そして、1999年3月27日に自宅で首吊り自殺を図り死去、その理由は不明である。自殺の原因は当時、仕事が減っていた事に悩んでの自殺ではないかと囁かれた。なお沖田だけでなく、弁護士の祖父、企業経営者であった父(1996年9月)、父の生前から経営を引き継いでいた兄(2002年4月)など、本名である置鮎家は3代で4人の自殺者を出している。A型

Iijima  飯島愛(1972年10月31日-2008年12月17日:死亡推定日36歳で没)

 彼女の人生は数奇で波瀾万丈に満ちていた。AV女優から女優になり、テレビタレント、会社の取締役、そしてベストセラー作家になるなどマルチの才能を発揮した。感情表現がストレートで、歯に衣を着せぬ発言が多いが、不思議と交友関係が広く、友人が多かった。A型の彼女には珍しく、B型の支持者が多かった。中山秀征とはツーカーの仲だったし、あの徳光和夫やバラエティ番組で共演したテリー伊藤も彼女の前では一切の嘘も見透かされるので本音でしか付き合えないと絶賛し、飯島には一目置いていた。1990年代前半、『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタッフととんねるずの木梨憲武が、飯島のビデオのファンであったことから番組にハプニングゲストで出演(これがテレビ番組初出演になる)。2000年、半自伝的な小説『プラトニック・セックス』でリンチ被害、AV出演や性病感染、中絶手術、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っていた。2007年3月3日、芸能界引退の報道が流れる。事務所もこの内容をFAX回答で認めた。生出演した『サンデージャポン』では、この件について、3月いっぱいで引退することを本人が発表した。これは腎臓病が悪化していたから治療に専念したいという意図からであったと推測される。しかし、2008年12月24日、東京都渋谷区にある21階の自室にて死亡しているのが、親戚の女性によって発見された。その後、警察などの調査によって、発見時現在で死後1週間ほど経過していたことが判明した。死亡推定日は発見日から起算して12月17日前後であると考えられた。その後病理検査の結果が警察より発表され、死因は肺炎であったことが判明した。

http://www.youtube.com/watch?v=VnUCOnjZ2t0&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=AYDG9gDQ5ZE&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=6I3zUjECCPE&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=B8CcV6a1d5Q

http://www.youtube.com/watch?v=iKirG9esECg&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=H3V5KY5MrIg&feature=relmfu

Mouri  毛利公子(1960年9月29日-1990年4月7日 29歳で没)

 彼女はご存知女性3人組のポップスグループ「Sugar(シュガー)」のメンバーだった。その代名詞である大ヒット曲「ウェディングベル」は1982年の年間売上13位を記録した。Sugarはこの曲でその年の第33回NHK紅白歌合戦に出場。これが最初で最後の紅白歌合戦出場となった。その中でボーカル、ベース、リーダーを担当していたのがモーリこと毛利公子だった。彼女はSugar解散後、タレントとして活動していたが、第一子の出産直前に、胎児が死亡し老廃物が母体に逆流するという病気のため夭折した。女性として母親になれる手前の幸せの絶頂にあって信じられない最期であった。彼女が天に召されて22年が経過したとは俄かには信じられない。O型

http://www.youtube.com/watch?v=RXpyrX8Q3Gc

Yanagihara  柳原尋美(1979年10月19日1999年7月16日 19歳で没)

 彼女は1999年7月ににデビューした「カントリー娘」という3人組のアイドルユニットの初代メンバー(他に戸田鈴音・小林梓)であった。カントリー娘は以前はハロープロジェクト所属のアイドルグループで、モーニング娘。の妹分として結成された。里田まいやモー娘の石川梨華や紺野あさみ、藤本美貴らも一時期所属していた。しかし「二人の北海道」というファーストシングルをリリースする直前(一週間前)に不幸が起きた。デビュー直前の1999年7月16日に修業と称して、行われていた田中義剛の牧場での作業中に、柳原が交通事故で急死してしまったのだ。その僅か1か月後には小林が心労が祟り脱退。これによりカントリー娘。は戸田1人のみとなってしまった。事故の詳細は次の記事の通り。23日にデビューを控えていた女性3人組新ユニット、カントリー娘。のメンバー柳原尋美さん(19=やなぎはら・ひろみ、本名同じ)が16日、北海道で車を運転中に事故を起こし死亡した。帯広署によると、柳原さんは16日午後5時すぎ、北海道河西郡中札内村の村道を、自ら運転する三菱パジェロで走行中にハンドル操作を誤った。車が右に蛇行したため、慌てて左に切り返したところ車が横転、柳原さんは車外に放り出されて、車の下敷きになったという。救急車で帯広救急救命センターに運ばれたが、午後7時10分、緊張性気胸による急性心不全で死去した。

http://www.youtube.com/watch?v=vy1ADApm1SM

http://www.youtube.com/watch?v=vy1ADApm1SM ←生前の映像はコチラ

Yamada  山田かまち(1960年7月21日-1977年8月10日 17歳で没)

 彼は非業の死を遂げたひとりである。日本の画家・詩人 。死後に遺作となった詩や絵画によって知られるようになった。彼は幼少より類稀な絵画の才能を発揮する。中学3年生の頃からビートルズなどのロックに傾倒。同級生であり後にミュージシャンとして活躍する氷室京介とバンドを組んだこともあった。高校受験に嫌気が差し、16歳の1年を浪人として過ごす。群馬県立高崎高等学校1年生の17歳の時、自宅でエレキギターの練習中に死去。このエレキギターは17歳の誕生日にプレゼントとして贈られたものであった(死因には感電事故、自殺など諸説があるが遺族らの意向により公表されていない。没後、母親が出版した本には「改造したエレキギターの電源コードが原因の感電死」と記されており、一般にはこの説が流布しているが、この本は様々な点で創作箇所があると指摘されている。また本自体もノンフィクションの人物伝として書かれたものではない)。死後、保管されていた詩を書き付けたノートやデッサン水彩画を、母親や恩師などが中心となり詩集や画集として出版、一躍注目を集める。個展なども開かれた。これを機に、1992年に高崎市片岡町に「山田かまち水彩デッサン美術館」が設立された。残された詩、デッサンに対する評価は定まっていないが、一部マスコミによる「夭折した天才」という偶像化には批判の声も多い。彼の生きざまは教科書の題材にもなった。

James  ジェームズ・ディーン(1931年2月8日-1955年9月30日 24歳で没)

彼はインディアナ州マリオンで生まれる。ジェームズが9歳の時母親のミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。高校時代から演劇に興味をもち、UCLAの演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、 『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。「底抜け艦隊」等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年には代表作『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて、認められた。彼はこの役でアカデミー賞の最優秀主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。但し同作のジェット役を演じることをジェームズは乗り気ではなかったようである。しかし、 ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ550スパイダーでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった。ジェームズは特に『理由なき反抗』の演技で1950年代の若者の反抗を端的に表現した。このため同時代の多くの若者は彼をモデルにし、そしてその死は多くの同世代の人々に暗い影を落とした。スターダムにのし上がって半年足らずというあまりにも短いキャリアと突然の死、それに公開葬儀がジェームズを時代を超えた青春の象徴とした。日本では赤木圭一郎が彼と同じようにして急逝したことから「和製ジェームズディーン」と呼ばれている。

Jimi  ジミ・ヘンドリックス(1942年11月27日-1970年9月18日 27歳で没)

 天才ギタリストとして多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。ロックミュージックのパイオニアの一人。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを歯や背中で弾いたり、火を放ったり、破壊したりするパフォーマンスでも有名。『ローリングストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト』において第1位に選ばれている。その他にもブラジルのメタル専門誌『ROADIE CREW』で2008年5月に行った「HR/HM系ミュージシャンの選ぶギタリスト・ランキング」、『ギターマガジン』2010年12月号の「ギター・マガジンが選ぶ! 史上最も偉大なギタリスト100人」でも第1位に選ばれている。「ジミヘン」の愛称で日本でもカリスマ的存在である。しかし、1970年に彼は謎の死を遂げた。9月18日未明(深夜から早朝)、モニカ・ダンネマンという女性と二人でロンドンのホテルに滞在中に急逝したのだ。死亡時は27歳。デビューからわずか4年ほどでの死だった。死亡原因としては、睡眠前に飲酒しながらバルビツール酸系睡眠薬を併用したことによる中毒、及び睡眠中に嘔吐したことによる窒息死とされる。「自殺したのでは」などの憶測も飛んだが、現在では否定されている。

 他にもZARDの美人ボーカルだった坂井泉水さんやニック・ドレイクもいる。しかし、坂井さんについては以前に当ブログで「我が永遠なる歌姫」と題して追悼記事を掲載したし、英国のシンガソングライターだったニックドレイクは、フォークの分野で活躍して26歳という若さで亡くなっている。原因は鬱病を患っていた彼が抗鬱剤の過剰服用したことであったようだが、詳しくはここでは述べないようにしたい。さて、昨日と今日の2日間に渡ってお送りした「若くして亡くなった有名人」、どうだったでしょうか。昔の彼等の活躍を思い起こし、懐かしんで貰えたでしょうか。そして彼等の残した確かな足跡や功績を後世に伝えて行きたいものである。彼等はいずれも「太く短く生きた」面々であろう。人生は長さではなく、その濃さであるという人もいる。この世に生きた証として何を残すのか、それがわかれば、いつ死んでも悔いはないだろう。ただ不自由な体と満たされぬ心で生きながらえるよりも、彼等のように、死んでなお、人々の記憶から離れず、いつまでも愛され続ける人でありたいものである。

 記事作成:1/19(水)

 追記

 ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」三代目の主役で、「仮面ライダー響鬼」にも出演されていた神戸みゆきさん(24歳で没)やNHK「どんな問題Qテレビ」のお姉さん役で活躍し、アイドル歌手としてもデビューしながら、アメリカで不慮の交通事故で、僅か19歳で命を落とした志賀真理子、モデルやタレントとして売れっ子だった上原美優さん(24歳で没)も若くして惜しまれながら亡くなった方々だ。もし続編を執筆する機会があれば、そこで改めて紹介したい。

 11月24日(金)にアップした「若くして亡くなった有名人~続編~」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-67df.html

おことわり

 本記事は、著作権および故人の名誉に関わる記載が多分に含まれているため、自主規制により公開日、時間を限定してお送りしていますことをご了承願います。

2011年1月19日 (水)

若くして亡くなった有名人~前編~

おことわり

 本記事は、著作権および故人の名誉に関わる記載が多分に含まれているため、自主規制により公開日、時間を限定してお送りしていますことをご了承願います。

 昨年12月は、あまり有名人が亡くならなかったので安心していたら、年が明けて相次ぎ訃報が飛び込んで来くるようになった。まず、1月8日に名テレビプロデューサーだった横澤彪さんが亡くなった。ほどなく14日には、甘い語り口調と低い声で女性を魅了した細川俊之さんが自宅で転倒し、硬膜下血種により不慮の死を遂げた。そして同じ日には、一時期、華々しくブラウン管に登場し、そのユニークな風貌と「ガハハ」という明るい笑い方が特徴的だった名演出家の和田勉さんまでが逝ってしまった。それぞれ亡くなった年齢はまちまちだが、テレビを賑わしていた有名人が亡くなるたびに、私は人生というものについて深く考えさせられる。私の身内を考えても、まず昭和62年に祖母が病気で亡くなり、平成15年に父親が急死、そしてその二年後の平成17年には私が尊敬して止まなかった祖父までもが天国へと召されていった。母方の祖父母も既に他界している。そしてつい先月には伯父までもが旅立った。かつての同僚や知人、友人などを含めたら、一体何人の方をお送りしたのだろう。葬式は、故人と最後の決別を行う大事な人生のエピローグのセレモニーなのだが、私は参列するのが年と共に辛く思えて来た。人間、いつかは死ぬと言う避けようのない事実を付きつけられるからだ。亡くなった人は、周囲の親しい人の記憶には残るだろうが、二度と生きては戻らない。時々記憶を辿りながら思い起こし、その人となりを回顧することで供養したいと考える次第である。そういう意図から、今回は、芸能界などで特に若くして亡くなった方々を20人、アットランダムにピックアップし、彼等を偲んでみたい。

Ozaki  尾崎豊(1965年11月29日-1992年4月25日 26歳で没)

 日本版ジェームスディーンであり、B型の特徴らしくカリスマ(教祖)的な存在として若者に支持された。優等生としての生活に嫌気がさし、青山学院の高等部を中退。音楽にのめり込んだ。1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でデビュー。4枚目のシングル「卒業」が大ヒットする。愛や夢を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう少年の心の叫びのようなその歌の世界が若者の共感を呼び、カリスマ的存在となる。代表曲は他に「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など。26歳という若さでの突然の死はファンに大きな衝撃を与え、今なお尾崎を慕うファンは絶えず、その曲の数々は現在でも多くのアーティストにカバーされ続けている。1992年年(平成4年)4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが、診察した医師は深酒によるアルコール依存という診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が消防に通報。搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。彼がこの世を去って19年が経つとはとても信じられない。今でも「尾崎信者」はごまんといる。

http://www.youtube.com/watch?v=4R4EVAfaamE

Hide  hide(1964年12月13日-1998年5月2日 33歳で没)

 本名は松本秀人。日本のミュージシャン、アーティストであり、ご存知ロックバンド、X JAPANのギタリストであった。1987年初めに当時のXに加入。PATAも加わって、メジャーデビュー時のメンバー構成になり、たいていの楽曲でリードギターを担当した。また、一部曲の作詞および作曲も担当。ライブ等でも独自の派手かつ奇抜なパフォーマンス、ビジュアルで自らを主張し、YOSHIKIとはまた一味違う存在感を放った。他のメンバーが派手なビジュアルを止め、徐々に素顔を見せるようになる中で、HIDEだけは「ファンからどう見られるか」に徹底して拘り、ヘアースタイル、ステージ衣装にビジュアル性を重視し、独自の個性を貫き続けた。1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーである。1998年5月2日、朝7時30分頃にhideは自宅マンションの寝室にて、ドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態で、同居していた婚約者によって発見された。病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。この後ファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。その後ワイドショーなどで死亡の原因について麻薬中毒などの憶測を呼んだこともあった。警察の発表では、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われると語っているが、真相はわかっていない。しかし、私達は1990年代を代表する人気ギタリストのひとりを失ったことに変わりはない。AB型。

http://www.youtube.com/watch?v=qbeWAt6nRfk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=poe932qQykc

Takahashi   高橋良明(1972年9月2日-1989年1月23日 16歳で没)

 彼は僅か16歳という若さで人生の幕を下ろした。アイドル俳優として、TBS系列の「うちの子にかぎって」というドラマに出演し、人気が沸騰していた。また「天使の反乱」という曲もリリースした。しかし、1989年(昭和64年)1月5日夜、オートバイを運転していた高橋は、車道を横断してきた中学生の歩行者に接触、バランスを崩して路上駐車していた自動車に激突、負傷した。現場は横浜市青葉区から川崎区麻生区にかけての地域であり、事故後、高橋は東京都稲城市の脳外科病院に救急搬送された。初期治療後、様態は回復に向かっていたとも思われたものの、同月22日に容態が急変、意識不明となり、翌23日午前2時46分に帰らぬ人となった。死亡当日、聖マリアンナ医科大学において司法解剖が行われ、死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と診断された。将来を嘱望された俳優だっただけに当時のファンの悲しみは大きかった。彼の弟もまた同じ事故で意識不明の重体を負い、役者としての再起は果たせていない。O型。

http://www.youtube.com/watch?v=mLR1Ojc5DG0

Horie  堀江しのぶ(1965年8月18日-1988年9月13日 23歳で没)

 1985年、クラリオンガールコンテストで平凡パンチ・アイドル賞を受賞し、イエローキャブに所属。芸能界デビュー時からグラビア・ドラマ・バラエティーなど、各分野において活躍した。しかし、1988年前半頃から腹痛や食欲不振などで体調を崩し、4月8日に緊急入院。その時点で、既に末期の「スキルス性胃がん」が卵巣にも転移しており(後に卵巣を全摘)、余命数ヶ月と診断されたが、本人には本当の病名を伏せていた。それから約5か月後の同年9月13日、わずか23歳の若さで逝去。最期の言葉は「わたし…仕事がしたい…」だったという。生前は礼儀正しい人柄と性格の良さにおいても評判が高かったこともあり、彼女の夭折は故人の関係者やファンだけでなく、芸能界全体にも多大な衝撃を与えた。大の親友同士でもあったマリアンは彼女の死に号泣し、親子のように交流を持ち、他界直前に実姉をガンで亡くしていた横山ノックも、参列した葬儀の席で「ガンが憎い」と悲嘆したという。代表作は「毎度お騒がせします」、「野球狂の詩」、「誇りの報酬」、「男女7人秋物語」など。A型。

http://www.youtube.com/watch?v=BEuppn4dtOM

Akagi  赤木圭一郎(1939年5月8日-1961年2月21日 21歳で没)

 1958年、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、「トニー」の愛称(1950年代~1960年代にかけ人気のあったハリウッドスター・トニーカーチスにどことなく風貌が似ていたことが由来)で主人公の弟分や準主役級として出演するようになった。鈴木青順監督の『素っ裸の年令』(1959年)で初主演。その後『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として、“マイトガイ”小林旭、“タフガイ”石原裕次郎に続く「第三の男」と呼ばれた。『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」と評価された。より多忙になる中でステレオやスポーツカー、オートバイなどに趣味を広げ、カーマニアとしても知られるようになった。1961年2月14日の昼下がり、映画『激流に生きる男』セット撮影中の昼休憩時にセールスマンが持ってきたゴーカートを日活撮影所内で運転中、咄嗟にブレーキとアクセル(乗用車とは逆位置)を踏み違え60km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突、慈恵医大病院に緊急入院。一時は意識が戻ったものの、1週間後の2月21日、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。

http://www.youtube.com/watch?v=0H24IuR0IOg

Ohba  大場政夫(1949年10月21日-1973年1月25日 23歳で没)

 WBA世界フライ級王座を合計5度防衛した。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。1965年6月1日に帝拳ジムに入門。1970年10月、世界初挑戦でベルクレック・チャルバンチャイを13回KOに降し、WBA世界フライ級王座獲得。帝拳ジム初の世界王者となった。1973年1月2日、日大講堂で行われた5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイ(タイ)。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け大場はダウン。この時大場は右足首を捻挫、以降ラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながらも打ち合いに応じていった。大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がるが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウト勝利を収めた。しかし1973年の1月25日午前11時22分頃、愛車シボレー・コルベットを運転中に、首都高速5号線池袋線・大曲カーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越えて反対車線に出たところで大型トラックと正面衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの惨状であった。この事故で現役世界王者のまま死去した。

http://www.youtube.com/watch?v=kkRMyUtb0e4&feature=fvst

https://www.youtube.com/watch?v=kkRMyUtb0e4

Takahashitoru  高橋徹(1960年10月6日-1983年10月23日 23歳で没)

 彼は天才と呼ぶにふさわしい自動車レーサーだった。1983年、ヒーローズレーシングからF2とGCの全シリーズに参戦することになった。全日本F2選手権第1戦の予選前に行われた公開練習で、並み居る強豪を尻目に高橋が最速タイムを記録し、関係者の度肝を抜く。更に予選ではいきなり4位、本戦でも最終ラップ、ヘアピンで星野をかわして中嶋悟に次ぐ2位に付け衝撃のデビューを飾る。国内トップ・フォーミュラにおける新人のデビュー戦最高成績を挙げ、一躍トップドライバーの仲間入りをした。5月の全日本F2選手権第4戦「鈴鹿J.P.Sトロフィーレース」に於いては予選で当時の鈴鹿サーキットのコースレコード1分56秒46を叩き出しポールポジションを奪取。これほど速く頂点に上り詰めたドライバーは、日本のレース史上、過去にも現在にも存在しないと言われる。ただし決勝は3位で悲願の優勝は成らず、高橋自ら体力不足を敗因に挙げた。全8戦で行われる全日本F2は前半を終えランキング6位。新人としては決して悪くない位置だったが、デビュー戦で2位を獲った事で周囲もファンも優勝を期待。高橋自身も「1位しか価値がない」と周囲に漏らしていたと言われる。また、富士での事故の直前には、成績が伸び悩んでいた。そんな状況の中で迎えた、10月23日の富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース」。高橋は決勝レースでトップを走る星野一義を追走していたが、2周目の最終コーナー立ち上がりでスピンを喫する。車体は木の葉のように舞い上がり、車体上面(運転席付近)から観客席フェンスに突き刺さるようにクラッシュ。マシンやその破片の直撃を受けた観客一人が即死、一人重傷、二人が軽傷を負うという大事故となった。高橋は富士スピードウェイの医務室に運ばれたが死亡が確認された。まだ23歳と17日だった。彼の死後、富士スピードウェイは改装され、高速バンクは姿を消した。私はその3年後の1986年に、彼の死を悼み、友人とバイクでそのサーキット場を訪れ、実際に使用されなくなったコースを歩いてみた。すると傾斜がきつく、とても立っていられないほどバンク角度は凄まじかったことを覚えている。

http://www.youtube.com/watch?v=nxfW638zUyg ← レースの模様

http://www.youtube.com/watch?v=mH-iErDw

http://www.youtube.com/watch?v=CG0pWI8VsSY&feature=fvwrel

Abe  阿部典史(1975年9月7日-2007年10月7日 32歳で没)

 ノリックの愛称で人気があった若き天才2輪レーサーだった。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾った。しかしながら、運命の2007年の10月の或る夕方、川崎市の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーター型バイクで北上中、左側車線から突然Uターンてきたコンビニエンスストア配送用の4トントラックに衝突し、午後8時50分過ぎ、搬送先の病院にて32歳の若さで急逝した。AB型。

http://www.youtube.com/watch?v=IMyliAYs7NU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=CLDo-msRHWA

Natsume  夏目雅子(1957年12月17日 - 1985年9月11日 27歳で没)

 東京女学館の小中高を卒業。1976年日本テレビ・愛のサスペンス劇場のオーディション486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。1977年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する。またブレイクのきっかけを作ったこの時のCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった。
 その後、TBSの『すぐやる一家青春記』で二回目の連ドラ出演し、東映『トラック野郎』にも6代目マドンナに抜擢された。1978年、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中に体調不良を訴え、出演続行を望む本人を何とか説得して、翌2月15日慶應病院に緊急入院した。急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。約7ヶ月という長い闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体に。1985年9月11日午前10時16分、帰らぬ人となった。まだ27歳だった。彼女の美しさは永遠のものとなって人々の記憶に刻まれ、時々CMなどで彼女の在りし日の姿を偲ぶことができる。B型。

http://www.youtube.com/watch?v=YYD65lRsvBg&feature=related

Matsuda  松田優作(1949年9月21日 - 1989年11月6日 40歳で没)

 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から東映セントラルフィルム作品、角川映画作品でアクションスターとして人気を博し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。主演したドラマ『探偵物語』など、後進への影響も大きく、男気にあふれ情に厚く、その勇猛な人間性と卓越した演技力から、1980年代を通じてもっとも重要な日本の映画俳優の1人と評価されている。身長185センチの長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、アクション シーンにスタントマンを使わなかった。1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優・吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。1989年(平成元年)11月6日、午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。主な出演作は「探偵物語」、「蘇える金狼」、「家族ゲーム」、「ブラックレイン」、「暴力教室」、「野獣死すべし」など。A型。

http://www.youtube.com/watch?v=Klc27EJgw8g

 さて、ここで一息。一様に言えることは、若くして亡くなるとそれだけ衝撃的だし、その影響力もずば抜けて大きいということだ。 本日20人を一気に紹介するつもりだったが、それぞれに歴史とエピソード、そして伝説があるため、どうしても長くなってしまった。焦らすようで悪いが、今回の記事も前編と後編に振り分けてお送りしたい。本日の10人は、いずれも急死した人が多く、病気ということを世間には伏せていたケースや事故で何の前触れもなくあっという間に命を絶たれた方々である。それだけに世間に与えたショックは甚大であった。だから「運命」という言葉では片付けられないくらい、人生とは儚きものである。本人は死という観念も覚悟もないままに命を奪われている訳で、おそらく死と向き合う時間すら与えられなかったであろうし、志半ばでさぞかし無念であったろう。今も存命ならば、スクリーンを賑わす大スターになっていたとさえ思えてならない。謹んでご冥福をお祈りします。

 記事作成:1/18(火)

2011年1月15日 (土)

商業激戦都市事情 in 郡山

 我が街・郡山市は、人口33万人を抱える中核都市である。ここ20年のうちに、首都圏に大資本を構える大企業が、利潤追求の目的で出店し、あまりの激戦振りに撤退をも余儀なくされ、それを幾度となく繰り返してきた。週末ともなれば、広告や折り込みチラシの量は半端ではない。つまり、かなり過当競争なのである。もちろん撤退組の代表格は、いわゆる百貨店業界である。駅前に大規模店舗を建設し、営業していた丸光、津野、西武(西友)、ダイエー(トポス)、丸井等はいずれも閉店、もしくは県内から撤退していった。言葉は悪いが営業利益が芳しくなく、競争に敗れ、しっぽを巻いて逃げて行った負け組である。一方、入れ替わりに日の出の勢いで進出してきたのは、全国にチェーン店を展開する飲食店関係の店舗であった。代表格は「吉野家」などの安売りの牛丼業界であろう。郡山市は、元を正せば奥羽街道の宿場町だったが、昭和40年頃に新産業都市に指定され、商工業を中心に栄えた街だ。福島県のほぼ中央に位置し、交通の要衝だったことから、流通にずば抜けて強く、物流や商取引が盛んな土地柄であった。加えて人口が県内2番目(第1位のいわき市はかつて合併を繰り返し、全国1位の面積を誇ったし、第3位が県庁所在地の福島市なのはおかしい・・・)ということで、食品需要や人の流入・流出が盛んな場所であった。そこで今回は、我が故郷・郡山市で激戦を招いている企業(特に新規参入)や店舗を業種別に紹介したい。

 薬屋(ドラッグストア)・・・ツルハドラッグ・カワチ薬品・マツモトキヨシ・サンドラッグ・山口薬局・ドラッグてらしま

 昔から郡山市内で有名薬局と言えば、虎丸の交差点にあった野替薬局と相場は決まっていた。私の家の近所の小野薬局や小中の同級生の親が経営していた鈴木薬局やライオン堂もあった。また、麓山にも老舗の大学堂薬局がある。今は専門店と言うよりも食料品も売っていて専門店というイメージはない。
                
 眼鏡店・・・メガネスーパー・メガネセンター・メガネプラザ・トミタ・弐萬圓堂・メガネトップ・パリミキ・眼鏡市場・郡山眼鏡院ほか

 かつては「よかったな斎藤!」のCMフレーズでお馴染みの郡山眼鏡院がメインだった。それが一式1万円以内で買えるような激安眼鏡屋が続々と進出。業界勢力地図は一変した。特に私の自宅周辺(八山田界隈)には半径300m以内に3店舗(眼鏡市場・メガネのパリミキ・弐萬圓堂)もあって競争は激しい。

 ファミレス・・・デニーズ・すかいらーく系(ガスト・バーミヤン・夢庵)・サイゼリア・ビッグボーイ(旧ミルキーウェイ)・まるまつ・ココス・ロイヤルホスト・びっくりドンキー・トマトサン・サンマルク・羅布乃瑠沙羅英慕・トマト&オニオン・カフェレストラン四季・アンジェロほか

 デニーズの進出以降、矢継ぎ早に他のレストランチェーンが郡山に出店して来た。郡山はラーメン店も多いが、ファミレスや飲食店天国である。もちろん市内に同じ店が幾つもある。

 庶民的飲食店・・・安楽亭・ステーキ宮・牛角・雅・牛豊(焼き肉)、ラーメンショップ・幸楽苑(旧会津っぽ・尭伝・チーファン)・シコシコ(ラーメン)・かつ丸・ワールドビュッフェ・手延べうどんむぎの里(旧味の民芸)・龍宮城・珍萬・なるき(中華料理)・吉野家・すき家・半田屋・がってん寿司・ちゃいながーでん・道とん堀・炭火焼き肉さかい・だるま鮨・CoCo壱番屋・丸亀製麺・大阪王将・山忠ほか

 ケーキ・饅頭・お菓子・・・三万石・柏屋・シャトレーゼ・不二家・銀座コージー・ステラ・まるきーず・モーニング・フルラージュ・ルヴェルジェ・丹波家・大竹家・つつみ屋・よしだや・松風堂・大黒屋・エスボヌール・ロミオ・大友パンほか

 スーパー百貨店・・・うすい・ジャスコ・ザMALL・MOLTY・アティ・イオンタウン・ヨークベニマル・リオンドール・イトーヨーカドー・スーパー鎌倉屋・ブイチェーンほか

 ベニマルだけでも郡山には仰山店舗がある。特に希望ケ丘と片平地区には半径500m以内に3店舗もある異常事態。乱立して「サンショー」を駆逐してしまった。

 ホテル・・・ハマツ・東横イン・第一イン・シティホテル・アルファ1・バーデン・ワシントンホテル・リッチフィールド・ルートイン・スターホテル・ビューホテル(アネックス)・プリシード・ホテルロイヤル郡山・大八・チサンホテル・コンフォートホテル・セントラルホテル・ドーミーインExpress郡山ほか

 かつては宿場町で栄えた名残か未だに郡山市には大小合わせて数多くの宿泊施設がある。最近駅前や東口、インター周辺には破格のビジネスホテルが新設されて過当競争気味。おかげで従来の旅館が振るわず閑散としてしまった。

 回転寿司・・・かっぱ寿司・とっぴー・平禄寿司・源洋丸・元気寿司(旧元禄寿司)・すしおんど・ニコニコ寿司・鮨勘・はま寿司ほか

 一番流行り廃りが激しく、出店と撤退を繰り返している業種である。第一号はアーケード内にあった元禄寿司であった。

 ファーストフード系・・・ロッテリア・ミスタードーナツ・ケンタッキーフライドチキン・マクドナルド・モスバーガーほか

 郡山への出店第1号は桑野のロッテリアだった。初めてイタリアンサンドやシェイクを食した時の衝撃は今でも忘れられない。

 パチンコ・・・アラジン・スーパージャンボ・DAIEI・ニラク・マルハン・ガイア・ダイナム・ゴリラ・MAXほか

 テイクアウト&宅配・・・ピザハット・PIZZA-LA・ホットモット(旧ほっかほか亭)・鮨待夢ほか

 家電量販店・・・YESそうご電気・ヨドバシカメラ・ケーズデンキ(2店舗)・ヤマダ電機(2店舗)・コジマほか

 業界1位の売上高を記録しているヤマダが順調に店舗を増やした。回転寿司と同様に出店と撤退の変化が著しい業種だろう。
  
 本屋・・・岩瀬書店・みどり書房・未来屋書店・大黒屋書店・郡山書店・高島書房・ジュンク堂・叶屋書店・松文堂書店ほか

 町角の単独の書店は少なくなった。かつては八幡坂には僅か50m以内に2店舗あったし、一心坂にもあった。神明通りにもあったし、49号線沿いのビデオ1がある所は、ひと昔前は岩瀬書店だった。

 リサイクルショップ・・・アメ商百貨・開放倉庫・GOLD・Van Van・ブックオフ・くわの書店・オーディン・オフハウス・ハードオフ・DOKIDOKI・ブックマーケット・トレジャーファクトリーほか

 CD・DVDレンタル・・・TSUTAYA・ビデオ1・ゲオ・ビデオボーイほか

 服飾・衣料品系・・・ユニクロ・ライトオン・WILD1・コナカ・青山・AOKI・西松屋・しまむら・アーバンほか

 ユニクロの出店は大きい。衣料品店は大規模なデパートやスーパー内、あるいは駅ビルなどにテナントで入るようになり、町角ではあまり見なくなった。

 コンビニ・・・セブンイレブン・ファミリーマート・ローソン・ヤマザキデイリーストア・ミニストップ・ampm・サンマート・SAVEONほか

 カー用品・・・オートバックス・イエローハット・Fujiコーポレーション・タイヤ館・グランドスラム・タイヤ倶楽部・ジェームズ・タイヤガーデン・タイヤセレクト・タイヤランドほか

 ディスカウントストア・・・トライアル・ドンキホーテほか

 100円ショップ・・・ザ・ダイソー・シルク・キャンドゥほか

 100均の店が出来てから、既存の雑貨屋は振るわなくなり、閉店する店が相次いだ。特にさくら通り沿いや中央通りは劇的に変わってしまった。ダイソーも10店舗以上ある。特に女子大近くや安積町の4号バイパス沿い、イオンタウン内、ジョイフル山新隣りのダイソーは売り場面積が広い。

 ホームセンター・・・ビバホーム・カインズホーム・ケイヨーデイツー・ダイユーエイト・コメリ・ジョイフル山新ほか

 昔からあるのはビバホームだが、かつては安積町や喜久田町にもあった。今は桑野店と横塚店、大槻店のみ。ケイヨーも亀田のTSUTAYAがある場所に店舗があったが、今は安積町笹川にあるだけ。コメリはここ10年で店舗が半分に減ってしまった。

 スポーツ用品店・・・オノヤスポーツ・スポーツDEPO・ゼビオスポーツ・GO1・リトルビル・スポーツオーソリティー・ワタナベスポーツ・GOLF5ほか

 スポーツ店と言えば「ワタナベスポーツ」のひとり天下だったが、紳士服のサンキョーがゼビオになって以降、事業を拡大し、ゼビオスポーツを開店してからは、一気に斜陽となった。並木のコナカの裏手や富士館にも店舗があったのをご存知だろうか。スキーの大手専門店、ヴィクトリアとアルペンの進出も痛手となったことは言うまでもない。

 宝石貴金属・・・トミタ・金美堂・シンドバッド・今野貴石・ジュエリーマキ・関川栄達商店・増子時計店ほか

 雑貨屋・・・ブルドックほか 
 
 昔は中央通り沿いの「チロンヌップ」やビューホテル東隣りの「BLUE HOUSE」が有名だった。

 家具屋・・・川口ホームセンター・東京インテリア・家具ショップヤマダ・家具の山新・ホームファッションニトリ・プランツほか

 東京インテリアが来てから、既存の家具やが相次いで倒産(閉店)に追い込まれた。特に実家近くにあった「インテリアダイイチ」の閉店はショックだった。扇屋家具センターもまた然り。

 教習所・・・郡山自動車学校・西部自動車学校・富久山自動車学校・昭和ドライバーズカレッジ・中央総合自動車学校ほか

 人口33万人にしては教習所が5つあるのは多すぎ。少子化が進めば、経営が相当厳しくなるだろう。

 その他参入企業・・・ギフトプラザ・スターバックスコーヒー・ドトールコーヒーほか

 <今は無くなってしまった店・施設>

 カフェレストラン飛行船・シコシコ朝日店・京樽(並木)
 ぽえむハウス・ワンスアポンアタイムインアメリカ(アーク村)
 メンズCAPA・リーガルシューズ・ロミオ・紀尚堂(アーク村)
 木曽路(わっぱめし)=移転・ベニマル(さくら通り店・虎丸店)
 チムニー(バイキング)・第一家電・イセヤでんき
 デンコードー(旧よつば電機)・庄司電気(電激倉庫)
 日の丸亭・くら寿司・小僧寿し・小銭寿し・室町寿司
 ジャルダン・赤煉瓦・シャディ(名郷田)・BLUE HOUSE
 チロンヌップ・山乃井・紳士服のはるやま(4号バイパス沿い)
 ハローショップ・野替薬局(閉店)・創夢館・ビデオフォーラム
 ビデオボーイ(さくら通り沿い)・八重洲ブックセンター・大野屋
 アルペン・ヴィクトリア・ムラカミスポーツ・カンセキ・メガマート
 ジャンボエンチョー・ユニデン・ユアファクトリー・東北書店
 染本ホテル・パチンコTOYO・アーデン・磐梯グランドホテル
 磐光パラダイス・郡山アミューズメントパーク・セントラルホール
 郡山中央スケートリンク・インテリアダイイチ・扇屋家具センター
 1024(ケーキ&カフェ)・かまくら屋ラーメン・かにの甲羅
 イゲタストア・しばたストア・マインズハウス(旧土屋ホーム)
 ウンノハウス(49号線沿い桑野)・寿司のさざ波(咲田)
 志乃屋寿司・日東紡績・善導寺文化会館・少年文化センター
 ジェイク・マハラジャ・ザ・ブーン・ビヤホールKUWA・サンショー
 丸三・沢田釣り具・あだち屋・滝根屋・松本電気商会
 宮川工業所・山ノ井食品店・品田八百屋・小野屋文房具店
 ヤマニ書房・小野内科胃腸科・くるみパーパ屋・河合楽器店
 トキワスーパー・女鳥羽そば・角海老・北乃一丁・朴虎丸給油所
 伊藤石油(コスモ)ガソリンスタンド(虎丸町)・松英堂楽器店(大町)
 虎丸郵便局・松乃湯・東北文化風呂店・室塚病院(虎丸)・丸藤
 アムール(喫茶店)・かぼちゃ倶楽部・東北観光公社・マルニ看板
 県南酒販(中町・日出の山)・スーパーくるまや・虎丸医院
 ボローニャ(虎丸)・青山製麺所(虎丸)・伊東パン・東北軒 
 青木書店(黎明高向かい)・染谷商店・安積洋裁学校(長者)
 パチンコ大番 品田酒店・虎丸卓球所・東京模型店・おのざわ
 おもちゃのまるさた・本田輪業・郡山中央総合病院・佐藤書店
 ヨークベニマルさくら通り店・武徳殿・精養軒・磐梯向滝
 ドライバースタンド・鈴木美智子着物教室・赤トリ井・富士館ビル
 おもちゃのかんの(駅前)・タル川模型店(清水台)・くるまやラーメン
 コマツ醤油屋・ ななうみ(4号線沿い安積町にあったディスカウントストア)
 バッティングセンター(桑野・本町・成山)・松本書道塾・鈴木外科
 マツダオート福島開成センター・こおりやま会館(ラフィーネ)
 オートバックス島店・イエローハット富田店・やっちゃば桑野店
 関彰商事(R49桑野)・富士銀行・東宝(駅前アーケード)
 東映(堂前)・郡山ピカデリー・郡山スカラ座・カネボウ(長者)
 日産生命・佐久間畳店・片岡商店・亀井鮨・本多循環器病院
 国立郡山病院・KONAN(パソコンショップ)・日本旅行
 Maxバリュー・第一うすい・吉野家咲田店・栄光社宅・マルエー(魚屋)
 郡山レジャーセンター(安積町・現迎賓館グランプラス)
 郡山競馬場・椿山荘・鈴木忠きもの会館(豊田浄水場南側)
 新星堂の2階にあった楽器店・とまと倶楽部(古本屋)
 社会保険事務所の北側にあった巨大迷路・呉服のともゑ
 東京まん・ヤマト無線(本町)・ヴァンローゼ・毎日堂(虎丸)
 フランスベッド・月星シューズ・増子文房具屋・佐久間畳店
 北日本相互銀行(虎丸)・ヤマニ書店(中町)・靴のタカマツ
 白河納豆店・東急観光(駅前)・日本通運(駅前)・いなもと理容所
 イトーヨーカドー(中町)・郡山中央郵便局(中町)・グリーン衣料店
 深沢給油所・セブンイレブン池の台店・亜比留(バー)・マリヤ園
 出光緑町給油所・Aコープ富久山店・麓山の湯・A電気虎丸店
 キャラバンモータース(舞木)・大沼精肉店・ザベリオ学園(虎丸)
 うすい倉庫・いげたストア配送センター(神明町)・うすい寮(多田野)
 レストランシャンゼリゼ・チェリーボウル・聖マリア園・魚喜(支店)
 聖マリア幼稚園・まるせい文具店(芳山小前)・さくら会館・野村靴店
 万昭堂文具・大光相互銀行・藤田輪業・ワタナベ文具(野替ビル)
 本田塗装・高田青果店(虎丸)・アレンヂボール・サンマルク富田店
 文化堂印店・梅沢商店・シマ薬局・嶋皮膚科(神明町)・新月寿司
 カメラの田中(駅前)・村田商店・ほんだ衣裳店・神岡耳鼻咽喉科 
 安田商店(麓山の駄菓子屋)・麓山湯・さくらや酒店・橋本風呂工業
 まんぞく屋(中町)・津野洋装・衣料デパート鈴木・昭栄・十字屋書店
 松文堂書店・叶屋書店(神明)・タカマツ商店・ツタヤ・大沢釣り具
 セントラル郡山・ラッキーボール・喫茶ハニー・おけいこ湯・ルビアン
 美鈴旅館・ヤマカ加藤食品・スナックチャオ・きみ松・かみや寿司
 あんざいカバン・高橋金物店・渡辺家具店・太田屋旅館・シャルマン
 不二食堂(不二パン)・松川屋ダイヤストアー・玉善・コーヒー専科
 赤とんぼ・なるき・斎藤ピアノ教室・安積荘アパート・中塚荘アパート
 ライオン薬局・シューズフランセ(緑町)・システムイン郡山・その他

 どうでしたか。生粋の郡山生まれ郡山育ちの私だからこそ、その変遷をすべて知り尽くしている。綾小路きみまろのネタではないが、「40年前」の郡山と比べれば町並みは劇的に変わった。「西部自動車学校」があったのは今の「スーパーゼビオ」と「ケーズデンキ」がある所。「ホテルはまつ」はザベリオ学園だった。「ザ・MALL郡山」は広大な「日東紡績」の工場だったし、その桜通りには歩道橋がかかっていた。昭和40年頃までさくら通りは舗装されていなかった。区画整理で道幅が一方通行から対面通行になったのは良いが、そのために立ち退きや移転を強いられた。昔ながらの店が無くなると妙にさびしい半面、暫くぶりに通った道で更地を見つけると、以前ここに何があったっけ?と思うことも多い。特に、私の住む八山田界隈や会津街道沿い、駅裏(東口)、内環状線周辺の変化は著しい。それくらい郡山の町並みは劇的な変貌を遂げて来たし、現在も遂げている。特に先月の内環状線開通により、交通の利便性が飛躍的に向上し、あの界隈が再び賑わうことは間違いない。しかし、いくら発展を遂げようとも、我が故郷は今後も変わらない。市内であればどの裏道もすべて知り尽くしているし、「どこにどんな店があるのか」ある程度はわかっている。間違いなくこの町が私の「終の棲家」になるのであろう。かつては、郡山市は犯罪が多かったし、特にヤクザが多く、東北のシカゴと呼ばれた怖い時期もあった。今は、緑豊かで、住みやすい地方都市になっている。当面の課題は空きビル対策であろう。「ダイエー」は「トポス」が閉店後、もう20年も放置されたままだし、「丸井」もそのままの状態。「東北書店」もシャッターが閉められたままだし、駅前が閑散としている印象は否定しようがない。せっかく駅前広場を綺麗に整備したのだから、人の流れを取り戻し、活性化を図って貰いたい。最後に、私の故郷・郡山、いつまでも心の故郷であり続けることを願い、本日の記事を閉じたい。

 記事作成:1/14(金)

 追記

 郡山市内の事情に詳しい方で、下記の場所について名前をご存知の方は、コメント等でお知らせ頂ければ幸いです。当方、忘れてしまい、なかなか思い出せずに困っています。よろしくお願いします。

 ① 開成山大神宮の斜め向かいにあった古い旅館(源平団子屋の向かい側)の名前
   ・・・・解決しました。正解は「熱田屋」でした。 
 ② 清水台の中村酒店の南側にあった古くて平屋建ての大きな木造病院の名前(現在は駐車場になっている)
   ・・・・1/22に解決しました。正解は「斗星堂病院」で平屋ではなく二階建てでした。
 ③ 桑野のビバホームの西隣りにHonda Carsがあるが、その西側の二軒隣りにあった本屋の名前(横文字の名前だったような・・・)
   ・・・・2/14に解決しました。正解は「見聞録」でした。
 ④ 虎丸の交差点に野替薬局があったが、その北隣りの神明通り沿いにあった銭湯の名前
   ・・・・1/29に解決しました。正解は「常盤湯」でした。
 ⑤ 郡山二中の北側の角にあった小さな本屋の名前
   ・・・・1/29に解決しました。正解は「ふるやま書店」と「ハラダ商会」でした。
 ⑥ 富士館ビルの2階に昔(昭和55年頃)あった楽器店の名前
   ・・・5/21に解決しました。正解は「みのや楽器」でした。    
 ⑦ 市役所の北向かいにあったラーメン屋
   ・・・・1/29に解決しました。「サッポロや」と「あさひ食堂」、そして「麒麟」でした。
 ⑧ さくら通り沿い虎丸町の昔、品田八百屋の隣りにあったレコード店の名前
   ・・・・1/29に解決しました。「郡山オーディオ」でした。

 

2011年1月13日 (木)

非科学的空想物~後編~

 さて、今日は昨日予告した通り、「非科学的空想物」の続きと参りたい。昨日は前編としてお送りしたが、この世の中には科学では解明できない、なおかつ説明がつかないような出来事で溢れている。それは得てして自然現象だったり、本来見えない物が見えてしまったり、意図して人間自身が内在しているものを実際に作り上げた偶像まで存在する。今日はそういった物を中心に取り上げてみたい。(今日の対象物は多少怖い物も含まれるため、「You tube」の映像は差し障りのない物だけ掲載致します。)

 6 雪男・雪女・吸血鬼ドラキュラ・狼男

 最近は「ゲゲゲの女房」のヒットで、妖怪めいた物まで注目されるようになった。昔からお化け屋敷や肝試しなどと称して、怖いもの見たさから実験的に行ってきたことにもつながる。これらは古今東西、世界的にも同じ傾向らしい。和洋を問わず、妖怪は存在するものらしい。 
 雪男はヒマラヤ山脈のイエティ、ロッキー山脈のビッグフットなどを指すことが多い。それぞれの雪男の共通点として、人里離れた山奥に住む、全身毛むくじゃら、直立二足歩行するという特徴が挙げられる。体色については、白、茶色、灰色など諸説あり、共通認識とはなっていない。日本国内では中国地方のヒバゴンも雪男とされる。また富山県では、雪の夜に現れる大入道を雪男という。
 雪女は雪の妖怪。「ユキムスメ」、「ユキオナゴ」、「ユキジョロウ(雪女郎)」、「ユキアネサ」、「雪オンバ」、「雪ンバ」(愛媛)、「雪降り婆」とも呼ばれる。「ツララオンナ」、「カネコリムスメ」「シガマニョウボウ」など、つららに結びつけて呼ばれることも多い。雪女の起源は古く、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による『宗祇諸国物語』には、法師が越後国に滞在していたときに雪女を見たと記述があることから、室町時代には既に伝承があったことがわかる。雪女は『宗祇諸国物語』をもとにしたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』「雪女」の様に、美しい女性として語られることが多く、雪の性質からはかなさを連想させ、類人猿の姿をしている雪男とは対照的である。雪女が女(メス)であるのに対し、雪男は性別不明である。雪女が雪と深い関係があるのに対し、雪男は単に雪の多い所に棲むだけである。雪女は逸話にも度々登場し、どうも日本限定のような感じだ。雪男はどうみても怪物、なのに雪女は白肌の美人に描かれるのがどうも腑に落ちない。「美女と野獣」は妖怪の世界にもあるらしい。

Yukiotoko  Yukionna

 吸血鬼ドラキュラは西洋の妖怪。アイルランドの作家ブラム・ストーカーが、ルーマニアのトランシルバニア地方の伝説を基に書いた作品(1897)。トランシルバニアの古城に1人住むドラキュラ伯爵。その城を訪れたイギリスの弁理士ハーカーは、伯爵が昼は棺(かん)の中で眠り、日没とともに起き出して人を襲う恐るべき吸血鬼であることを発見する。吸血鬼に血を吸い取られ死んだ被害者は自分もまた吸血鬼と化して不死者となる。彼ら吸血鬼が恐れるのはニンニクと十字架と太陽光線で、彼らの魂には安息と平安はない。主人公の日記や手紙、新聞記事、電報などでドキュメンタリー風に構成された本編は、1927年に劇化、31年に映画化され、さらに繰り返し映画化されて世界的にポピュラーになった。日本では「怪物くん」に登場することから馴染みが深い。実在したかはわからないが、小説によって知られたのは事実。しかし「真実は小説よりも奇なり」である。
 狼男は、昼間は普通の人間が、夜間に狼に変身し、人間や家畜などを襲う話で、東ヨーロッパを中心にヨーロッパ各地に広く伝承されている。人狼(じんろう)werewolfといって人間が狼に変身する伝説は、古くギリシア・ローマの時代までさかのぼる。満月の光によって狼に変身し、おもに人の血や肉を求めてさまよい歩くが、夜明けとともに人間に戻る。変身のきっかけは、自分の意志による場合と、本人の意志を離れて外部からの力による場合の二つに分類できる。前者は狼の毛皮を身につけるとか、特殊な呪文を唱える、あるいは、食べてはならぬとされている、狼に殺された家畜の肉を食べて変身する。後者は、魔女の呪術によって狼にされる場合が多く、魔女からの求婚を断ったとか、結婚式に魔女を招待しなかったために呪(のろ)いをかけられ、狼にされた話などがある。狼にまつわる話はわが国にも多く伝承されているが、狼男の話はない。おもにヨーロッパ諸国に行われる話である。

Dorakyura Wolfman  

 7 謎の海域・バミューダトライアングル

Triangle  大西洋の沖合に浮かぶバミューダ諸島・米国フロリダ半島・プエルトリコ島を結ぶ三角形の水域。航空機・船舶の遭難が多発するため、魔の三角水域と呼ばれる。方位磁石計が狂い、羅針盤も位置測定不能に陥り、その海域を航行する船舶や飛行機が相次いで謎の失踪を遂げた。100年以上前から100を超える船や飛行機、1000以上の人が消息不明となっているとされる。しかし、「事件」について書かれた記事を引用する際に勝手に内容を改変し、単なる遭難事故を「怪事件」に仕立て上げてしまう例や、関連書籍等で事例として取り上げられた遭難事故の記録が存在しない、完全な作り話である例もあるという。多くの場合はハリケーンや竜巻などの悪天候時に起こったものや操縦ミス、計器の確認ミスであり、船や飛行機などの遭難件数が他の一般的な海域よりも多いという事実はない。この地域はハリケーンや霧の多発地帯として有名であり、ハリケーンに遭遇して遭難したと証明されている案件も多い。また、周辺に目印となる島や構造物も無いため遭難しても救助されにくい。特にこの海域は強力なメキシコ湾流が流れており、短時間で航空機や船舶の残骸が遠くに流されるという事も考えられうる。一例として、1945年12月にアメリカ海軍のアヴェンジャー雷撃機5機が訓練飛行中に消息を絶った事件について、バーミューダ・トライアングルの典型的な飛行機消滅の超常現象として長期にわたり出版、報道された。科学者もこれに関してはさまざな説を唱えている。ブラックホール説や宇宙人説、メタンハイドレート説、マイクロバースト説、電子雲説など多種多様である。謎は深まるばかりである。

http://www.youtube.com/watch?v=Rdoft9iQdxk

http://www.youtube.com/watch?v=w3MHKlCAI-w&feature=related

 8 昔話に見える世界観

 日本で古来伝わる昔話(お伽話)や童話は、実は勘ぐってみると恐ろしい内容であることが少なくない。かつては「本当は恐ろしいイソップ童話(グリム童話)」なる異説を唱えた解説本がベストセラーになった時期もあったが、日本の童話にも同様の事が言えそうだ。前日に記事にしたUFOや宇宙人との遭遇体験を文章化して伝えようとした物があるのだ。
                                               
 例示すれば、まず、浦島太郎。亀を助けて竜宮城へというのが本筋だが、亀に乗って海中に潜り、竜宮城にいる美人の乙姫様と会い、大層なご馳走や踊りのもてなし(まるでキャバクラ並みの待遇)を受ける。男なら一度は夢見るハーレム的な境遇や、成り金サクセスストーリーだが、冷静に考えると、ここに登場する亀は、実は宇宙船で、宇宙旅行をしてきたとも考えられる。そして長旅の後は、時間が経過していて、玉手箱を開けたらモクモクと煙が出て来ておじいさんに。これは宇宙人が、作為的に時間のロスの帳尻合わせした結果だったのではないか。創作物語にしてはうまく出来すぎている。
 また、一寸法師もあんなに小さくなってお椀(つまりはUFO)に乗り、悪い鬼をやっつける。
 桃太郎もまた然り。大きな桃(つまりはタイムマシンの機能を備えたUFO)が川を流れて来て、それを包丁で割ったら、玉のような男の子が・・・・。全くもって宇宙人の仕業。本当の人間だったら、血だらけで即死だったろう。
 そして極めつけは竹取物語。竹藪が光り輝き、それを割ったら中からかぐや姫が・・・。そして、成長するとみるみる綺麗になって、ある日、月からの使者(宇宙人)が迎えに来て、空飛ぶ馬車(UFO)に乗って月へと帰って行く。結果的にかぐや姫は地球を偵察に来ていたのではないか。
 どうです?見事なまでにつじつまが合い、怖くなって来たでしょう。「宇宙人の仕業でなければ何とする」である。単なる誘拐犯や暴れん坊ではないか?桃太郎がやってることは盗賊と同類だ。昔人の暮らしぶりから見て、当時のイマジネーションで、あそこまで精巧に話を作り上げたとはどうも信じがたい。わざわざご丁寧に書物にまで表して伝えようとしたからには、世にも恐ろしいようなそれ相当の身の毛もよだつ恐怖体験をしたに相違あるまい。いやむしろそう考えた方が自然なのではないのだろうか。
 当時はUFOという言葉や概念すらなかった時代。異星人との遭遇をそのような形で伝えようと試みたことは火を見るより明らかだ。 

 実はここ福島県にも数多くの昔話(民話)がある。ウィークデーの夕方に、ラジオ福島では「ふくしまの昔話」という番組を放送しているが、森和美さんという福島弁使いの語り手がせつせつと情緒豊かに読み聞かせてくれる。それらの逸話を聞いていると、やはり言い伝えや子供への躾の手段としての教訓めいた内容となっていることが多い。昔話はそうしたものだったのではないだろうか?

Urasima Taketori 

 http://www.youtube.com/watch?v=7zy2Ym_d2jE

 http://www.youtube.com/watch?v=XyS3Vf3pW5o&feature=related

 9 龍・天狗・河童・鬼・ツチノコ・人魚・口裂け女・幽霊・人魂

 これらの事象は人間の心理が作り上げたのではないかと思える物が少なくない。戒めだったり、教訓だったり、あるいは伝説(言い伝え)や迷信めいた物にも回帰するかもしれない。「夜に口笛を吹くと蛇が来る」のように、親が子をしつける場合の説得力を与えるために使う小道具のようなものかもしれない。
 龍は、中国神話の生物。古来神秘的な存在として位置づけられてきた。ドラゴンの訳語として「竜」が用いられるように、巨大な爬虫類を思わせる伝説上の生物全般を指す場合もある。竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説以来、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われる。「竜に九似あり」とされ、角は鹿、頭は駱馼、眼は鬼(注:中国で言う「鬼」は幽霊のこと)あるいは兎、体は大蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛にそれぞれ似るという。また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
 天狗は川に出るものが河童であるのに対して、山に出るものは天狗と相場が決っている。河童がかなり動物的であるのに対して、天狗はかなり人間的であり彦一頓知話などで天狗は彦一と対等にわたりあっている。また牛若丸に剣術を教えたのも天狗であるとされ、この天狗には鞍馬山僧正坊という名前がついている。
 河童は日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁種にセコなどがいる。水神、またはその依子り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。有名なのは岩手県遠野で、民話の里にもなっている。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。好物はキュウリ、魚、果物。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼ぶ。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる。河童の川流れなど、河童を使った諺も存在する。

Ryu1 Tengu Kappa 

 ツチノコは日本に生息すると言い伝えられている未確認動物のひとつ。鎚に似た形態の、胴が太い蛇とされる。北海道と南西諸島を除く日本全国で目撃例がある。主な特徴は、普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている。2メートルほどのジャンプ力を持つ。高さ5メートル、前方2メートル以上との説や、10メートルとの説もある。「チー」などと鳴き声をあげる。非常に素早い。尺取り虫のよう体を屈伸させて進む。尾をくわえて体を輪にして転がるなどの手段で移動するなど。
 人魚は水中に生息すると考えられた伝説上の生き物。ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類の体の場合を人魚と呼ぶことが多い。裸で登場する場合が多く服を着ている人魚は稀である。人魚は、マークフォークとも言われ、特に若い女性の人魚はマーメイド(mermaid)、男性の場合はマーマン(merman)などと呼ばれる。ヨーロッパで伝えられるものと中国、日本の伝承とでは、形状や性質は全くちがう。不吉な象徴とされることが多く、たいていの文学作品では、人魚は最後まで幸せなままでいることはない。日本でも人魚の存在が早くから知られている。最古の記録は619年とされており、大阪で漁師の網に人魚が捕えられたという記述が『日本書紀』にある。
 口裂け女は今でいう都市伝説のひとつ。1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題に まで発展した都市伝説。2004年には韓国でも流行した。マスクをした若い女性が、学校帰りの子供に「わたし、きれい?」と訊ねてくる。「きれい」と答えると、「……これでも……?」と言いながらマスクを外す。するとその口は耳元まで大きく裂けていた、というもの。「きれいじゃない」と答えると鎌や鋏で斬り殺される、と続く。この都市伝説は全国の小・中学生に非常な恐怖を与え、パトカーの出動騒ぎ(福島県郡山市・神奈川県平塚市)や、全国で集団登校が行われるなど、市民社会を巻き込んだパニック状態にまで発展した。マスコミに初めて登場したのは1979年1月26日付の岐阜日日新聞とされる。農家の老婆が母屋から離れたトイレに立った際、口裂け女を見て腰を抜かしたという噂が紹介された。私が中1の時で、さくら通りの安積国造神社に出たという噂が広がった。

Tsuchinoko Ningyo Kuchisake

http://www.youtube.com/watch?v=NrJoc6f0o-4&feature=related
 

 幽霊と人魂などは心霊現象だろう。死んだ者が成仏できず、この世に未練を残して姿をあらわしたもの。死者の霊が現れたもの。洋の東西を問わず世界に広く見られるものであり、中世のヨーロッパにも、中国にも、また陸上だけでなく、世界の海にもいるのである。西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも魂のほうが死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもある。西洋ではゾンビと呼ぶ。日本では古くは、何かを告知したり要求するために出現するとされていた。だが、その後次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現しているとされ、凄惨なものとされるようになった。「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、平家の落ち武者や大戦での戦死者のように、死んだときの姿のまま現れると言われる幽霊も多い。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを聞いてやり、執着を解消し安心させてやれば、姿を消す(成仏する)という。霊感がある人は見えやすいと言うが詳しいことは解明されていない。一方、人魂は火の玉ともいい、死者の霊をいう。人が死ぬときに人魂が出るといい、夜分に出ると青色の光を発して空中を飛ぶという。地上に落ちたものを見ると「こんにゃく」のようなものという。人魂が川を越すと本人はよみがえりあと3年ぐらい生存できるともいう。
 鬼は前述したが、桃太郎や一寸法師にも登場するし、地方の民俗的風習である「なまはげ」もいる。「なまはげはまさに躾の部類で、「悪いことすると鬼が来て懲らしめるぞ」と警鐘を鳴らしているのにほかならない。桃太郎や一寸法師などは、山賊や悪者どもを退治してくれる快刀乱麻の救世主を待ちわびる、「ヒーロー待望論」の心理を投影したものだろう。  

10 ノストラダムスの大予言

Nostradams  1999年にはミレニアムに合わせるかのように「ノストラダムスの大予言」なる物が脚光を浴びた。フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した『予言集』(初版1555年)について、彼の伝記や逸話を交えて解釈するという体裁をとっていた。その中で、1999年7の月に恐怖の大王が来て人類が滅亡するという解釈を掲載したことにより、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなった。この予言について、ノストラダムスがアンリ2世に対して1999年に人類が滅びると語ったとする史料などを引き合いに出し、人類滅亡を予言したものであると解釈した。そして、環境問題、核兵器、彗星衝突など、「恐怖の大王」の候補とされている各説について検証を行っている。また、その前後には、関連するという詩の解釈を行い、1999年までに襲い来る極度の大気汚染・水質汚濁(五島は「超汚染」と呼んでいる)や大震災による、陰惨な未来像を畳み掛けるように展開している。さらに、1999年以降に生き残った僅かな人類を待ち受ける悲惨な運命についても言及している。実はこの予言集、いかようにも解釈が可能のようで、最後に、数ページを使い希望を模索している。そこでは、まず、1999年の人類滅亡が先延ばしに出来る可能性や、局所的な破壊にとどまり人類が絶滅はしない可能性への希望を表明している。ベストセラーになったこの本が1980年代以降の新興宗教に少なからぬ影響を与えたと指摘しているさらにこうした影響がその後のオウム犯罪の遠因になったと指摘する者たちもいる。その他の影響としては、キリスト教やユダヤ教の終末論とはかけ離れた終末思想を生み出し、深刻に受け止めた若い世代の読者が、世界や日本の未来のみならず自己の未来をも暗澹たるものと考えてしまったため刹那的な行動に走ったり、将来設計を怠るなどの問題があったという見方がある。
 この予言は的中しなかったが、来年もまた予言が脚光を浴びることは間違いない。それは「2012年人類滅亡説」だ。これはマヤ文明において用いられていた暦の一つ長期暦が、2012年12月21日から12月23日頃に一つの区切りを迎えるとされることから連想された終末論の一つである。最近の有力な説の一つにオリオン座ベテルギウスの超新星爆発に伴うガンマ線バーストが地球を襲い、オゾン層を破壊し人類が死滅するというシナリオが挙がっており、支持する論者も多い。破滅時計が進行する中、北朝鮮の核開発、中国の軍事力増強などもあって第三次世界大戦勃発など俄かに信憑味が帯びて来た。

http://www.youtube.com/watch?v=t-emAACfvfI

http://www.youtube.com/watch?v=tceCyKX9p90&feature=related

 さて、2回に渡ってお送りした「非科学的空想物」、如何でしたか?これも私が個人的に思いついたものをただ列挙したに過ぎない拙文である。他にもそれらしいものを挙げたらキリがないだろう。座敷わらしや髪の毛が伸びる人形などの怪奇現象まで報告されている。トイレの花子さんも都市伝説のひとつだ。そう言えばどこの学校にも七不思議があっておかしくない。世界の七不思議もまたしかり。怨念やゲン担ぎ、おみくじや占いなども不思議なものだ。科学では証明できない。いずれも人間の深層心理が作り出す偶像や虚像なのかもしれない。さて、あなたはこの記事を読んで何を感じただろうか?

 記事作成:1/8(土)

日本各地には科学では割り切れない伝説や迷信が数多く存在している。

2011年1月12日 (水)

非科学的空想物~前編~

 この世には科学では証明が出来ないような事象が数多く存在し、謎の生物の目撃証言が後を絶たない。また不可思議な言い伝えや伝説、更には迷信などもある。私は性格的にSF小説はあまり好まないし、妄想に浸ることも少ない。どちらかと言えば、事実に基づいたノンフィクション系で、なおかつドキュメンタリータッチの物を好む傾向がある。当ブログでは、詩やエッセイ、小説めいたことも何点か掲載しているが、どちらかと言えば実体験を基礎とし、多少脚色して書き綴ったものが殆どである。根は完璧な文系型人間なので、論理的に筋道を立てて文章化する性質の持ち主で、理系の科学的分野に関しては知識が乏しいせいかあまり記事にならない。理系のカテゴリーで興味があるのは天体くらいのものだろう。では、早速本日のテーマ「非科学的空想物」について10個ほど例示し、自分なりの見解を添えてみたい。

 1 UFO(未確認飛行物体)

Ufo  UFOと言えば欠かせないのが、1970年代から80年代にかけて度々日本テレビ系列で放送していた「木曜スペシャル」(略してモクスペ)の特番である。矢追純一ディレクターが指揮をとり、外国の目撃地点などを取材し、目撃者へインタビューを敢行したり、あるいは実際の撮影映像を流したり、人々の好奇心を駆り立てると共に恐怖に陥れた番組でもある。偽映像やヤラセのインタビューも問題になったが、どうみても自作自演でないような映像も存在して謎が謎を呼んだ。月の裏側には宇宙人の基地があるとか、「車でドライブ中、急に上空に光の物体が現れ、車ごと円盤に吸い込まれ、宇宙人に解剖手術を施されたが、気づくと無事地上に生還していた」という証言まで飛び出した。また、ジグザグ飛行する様子や一瞬で物体が消えるVTRなど何度みたか知れない。また、円盤の形状も様々で、葉巻き型とかアダムスキー型とかがあった。イギリスのミステりーサークルやペルーのナスカの地上絵はUFOが制作したものであるという説まで飛び出した。視聴者の間で大変な反響があり、「人工衛星の燃え残りだ」とか流星群だとか隕石落下説、「夜間飛行の旅客機の見間違いだ」などさまざまな憶測が飛び交った。小学生時分は、その放送があった日は、夜に怖くてトイレにも行けなかった。番組構成として、「川口探検隊」にも同じ手法が見られが、いよいよう核心部分に触れると必ずCMが入った。そしてお決まりの「♪ちゃらら~ららちゃらら~♪」という今では十分笑えるが、当時は恐怖心を散々煽るジングル(BGM)を流していた。しかし、UFOが実際に見つかれば世界中を震撼させる大ニュースになっても何ら不思議ではないのに、世界の防衛機関には知らせないし、宇宙航空学会に発表すらしない。一説によるとNASA(アメリカ航空宇宙局)の宇宙飛行士たちも、アポロ時代からUFOらしき円盤を何度も目撃し、ロケットやシャトルが追いかけられたり、ニアミスも多く起きていると言う。絶対NASAは何かしらの情報は持っていても、それを一切公開しない。やはりトップシークレットであるUFOは、文字通り「未確認飛行物体」なのだろう。

Ufofureai  世界では、目撃情報が多いのは、メキシコ上空、ペルー、そしてアメリカ、オーストラリア、そしてアジアでは圧倒的に中国が多いと言う。かつて文明が栄えていた場所や広大な国土を有する大地に現れる率が高いのだろう。日本では、秋田県の男鹿半島が多い。私が北海道に住んでいた時は、アイヌ神話がある平取村というところがこれままた謎めいた奇妙な場所で、UFOの目撃証言が多く、UFOの基地と称される地点にはピラミッド型の巨大造形物まで拵えてしまった。福島県にもそれで村おこしを行った場所がある。UFOの里・飯野町だ。ここもまた町民の多くがUFOを目撃している凄い所だ。町じゅうに宇宙人の看板やオブジェが点在している。ここにピラミッド型をした千貫森という小高い山がある。ここの中腹にUFO資料館なる、見るからにそれらしい風貌の建物を建設し、資料の展示(手作りでパロディ風で、いかにも子供騙しで実に怪しい・・・何故か畳敷きの休憩所やお風呂まである。)をしている。2~3年前には「TVチャンピオン」という名人対決番組で、段ボールを使ったUFOの模型まで制作してしまった。ここの木下館長さんはやはり見るからに怪しげな感じの人だった。

飯野町UFOふれあい館→ http://www.f-date.net/2010/01/ufo-1.html

 一方で世間を賑わしていたUFOや宇宙冒険を題材にした映画も数多く制作された。「未知との遭遇」、「スタートレック」、「スターウォーズ」、「エイエイアン」、「インディペンデンスデイ」、「2001年宇宙の旅」などがそれで、いずれも大ヒットした。日本ではピンクレディーの歌のタイトルにまでなり、何と日本レコード大賞まで獲ってしまった。それくらいUFOは昔からインパクトが強く、人々の関心事のひとつになっていたと思う。未だに解明できていない謎だからこそ、その存在価値も大きくクローズアップされ、議論の対象に上るのかもしれない。最近はこの話題は下火で、UFOを取り上げる番組は極めて少ない。何か重大な新発見でもない限り、この最先端の科学技術の現代においては難しいのかもしれない。

http://www.youtube.com/watch?v=akeQLWjsKL0&feature=related

tp://www.youtube.com/watch?v=w-Dd4C-kshI&feature=&p=0C271F8B55F4DAF7&index=0&playnext=1

http://www.youtube.com/watch?v=xsUPEGQEWzY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=VHwMT0QcWb4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=rrrx9izp0Lc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=-eFmg1Dtpfo&feature=related

 2 ネッシー 

Nessi  ネッシー(英: Nessie)は、イギリス、スコットランドのネス湖で目撃されたとされる、 未確認動物「ネス湖の怪獣 (Loch Ness Monster、ロッホ・ネス・モンスター) 」の 通称。未確認動物の代表例として世界的に知られ、20世紀最大級のミステリーとして語られてきた。特に1933年以降、イギリス最大の淡水湖であるスコットtランド北部のネス湖で多くの目撃例が報告され、写真や映像が公表されてきた未確認動物。「ネッシー(Nessie)」の通称は世界的に使われるが、日本においては特にこの名が浸透している。科学の進歩で謎や不思議の少なくなった20世紀において、未確認飛行物体と並ぶ最大級のミステリーとして語られてきた。その正体については諸説が提唱されてきた。目撃談や写真に捉えられた形状から、恐竜時代に栄えた大型水棲爬虫類である首長竜の生き残りという説が、古くから最も知られている。太古に絶滅したとされる大型獣が生存していたとすれば大きなニュースであり、ロマンを掻き立てられる話題でもある事から、期待を込めて支持を集めてきた面もある。他には竜脚類の生き残り説や魚類説など、多数ある。しかし、目撃証言や写真・映像の多くが、既知動物や船舶、流木、航跡、または波動など自然現象の誤認であるか、あるいは捏造と判定され、決定的な証拠はないとの見方が一般的である。長年、ネッシーを撮影した物的証拠として、有名な一枚の写真があったが、撮影した外科医が死ぬ間際、撮影から約60年後の1993年に「あれはトリックだった」と証言した。これにより、ネッシーは一時「全くのでたらめだった」という結論が世界中に配信されたが、その他の目撃例やそれらしき獣影を映し出した写真も多数存在することから、真相はまだわかっていない。日本でもネッシーにあやかって、屈斜路湖のクッシーや池田湖のイッシーまで出現した。

http://www.youtube.com/watch?v=I26S_SSWf0I&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=yN_DJ9QFRrw&feature=fvw

 3 宇宙人とエリア51

Alien  昔、テレビドラマのワンシーンがきっかけで、宇宙人が「ワレワレハ、ウチュウジンダ(我々は宇宙人だ)」と話すフレーズが流行った。火星人の想像図なども巷に溢れた。それはまるでタコのようで、重力のない宇宙では足元は退化し、頭でっかちの不細工な図柄の物が多かったように思う。昔からUFOや宇宙人は人間の想像を掻き立てる、或る種ロマンに満ち足りた存在であった。宇宙人とはもちろん地球外生物を指すが、それは地球よりも遥かに文明や科学技術に優れた未知なる星からやって来ると伝えられてきた節がある。NASAでも一時期、宇宙人との通信を試みたことがあるし、実際にアメリカのエリア51地区には、地球に不時着したUFOの実物があり、実際に宇宙人を捕獲したとも囁かれている。宇宙人とは学問上、次の5つのカテゴリーに分類される。ヒューマノイド(人間型)、アニマリアン(動物型)、ロボット、エキゾチック(異型)、アバリッショナル(幽霊)。これは映画スターウォーズのキャラクターやシーンを思い浮かべれば納得できるだろう。ルーク・スカイウォーカーはヒューマノイド、C-3POやR2ーD2、ダースベイダーはロボット型、チューバッカやヨーダは動物型、オビワン・ケノービはアバリッショナルという感じだろうか。昔から宇宙人が登場する物語やテレビドラマが数多く制作された。竹取物語二{登場するかぐや姫、星の王子様、魔法使いサリー、コメットさん、ウルトラシリーズ、Xファイル、地球防衛軍、プレデター、メンインブラック、宇宙戦争などが代表格か。宇宙人を友好的とするか敵対者として描くかはストーリーやテーマによってまちまちである。

http://www.youtube.com/watch?v=CYJeGfE0MVw

http://www.youtube.com/watch?v=Ji8e49rMYcg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=RibQ7sxy0Vo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=0UP1OU9uQ2k&feature=related 

Area51  続いてエリア51について。その場所ははラスベガスの北北西約200km、アメリカネバダ州リンカーン郡のおおよそ155平方キロの土地に設置されており、広大なネリス射撃場の一部である。左下に空軍基地、その北東に滑走路とグルーム乾燥湖 (Groom Dry Lake)が 拡がる。 エリア51(Area 51、正式:グレーム・レイク空軍基地)はネバダ州の南部に ある、アメリカ空軍の管理する地区。アメリカ軍機密の航空機のテストを古くから行っていたとされ、近年では、特にステレス機の試験飛行を行っていると考えられている。また、「墜落したUFOが運び込まれているのではないか」とか、「ロズウェル事件と関係しているのではないか」さらに、「グレイ」と呼ばれる宇宙人が居るのではないか」とも疑われていたが、軍事機密が解除になったのを受け、オンレコで証言をした元職員により否定されている。いずれにしても、何らかの機密事項が基地内に存在することから、基地の敷地周辺の立ち入りはもちろん、撮影も一切禁止されており、これを無視して進み憲兵や衛兵に見つかった場合は逮捕され、処罰される。特に不審な場合は警告無しに発砲される事もある。「墜落したUFOを運び込み、宇宙人と共同研究をしている」という風説が非常に有名である。実際、基地周辺ではUFOらしき未確認飛行物体が頻繁に目撃されていると言われる。

http://www.youtube.com/watch?v=Wa-vExfUNUY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=X30gjtTCYf4&feature=related

 4 UMA(未確認生物) 

Seapen  UFOに対して目撃例や伝聞による情報はあるが、実在が確認されていない生物のことで、得体のしれない未確認生物をUMAという。例えばヒマラヤ山脈の奥深い山中で目撃された巨足の持ち主がビッグフット、南ベネズエラの獣人・モノス、蛇に似た巨大な海棲怪獣シーサーペント、アメリカのフロリダ州のリトルマイアミ川で警官が見かけたカエル男、ウエストバージニア州では体長2mもある巨大コウモリ獣のモスマン、アフリカコンゴのテレ湖にはネス湖のネッシーの小型版のモケーレ・ムベンベ、トルコ東部のヴァン湖に生息するとされるジャノ、南極付近で日本の調査捕鯨団によって度々目撃されている全長2~30mもあろうかというイルカとジュゴンを足したような白い海獣ニンゲン、メキシコ上空では謎の空飛ぶ人間型生物のフライング・ヒューマノイドの目撃例があるし、もっとも恐ろしいのは、チュパカブラであろう。1995年にプエルトリコ島 で、家畜の生き血が抜き取られ、大量に殺される事件が連続発生。これまでに山羊など2000頭以上が被害に遭っている。翌年にはメキシコのハリスコ州で人が襲われる事件も発生した。チュパカブラの体長は約1~1.8mで大きな頭と真っ赤な目を持ち、頭部から背中にかけてグレーまたは褐色のトゲのようなものが生えている。腕には鋭い爪がついている3本の指があり、口に上下両方から牙が2本ずつ突き出ているという。また、アメリカにはサンダーバードなる巨鳥が存在する。翼を広げると10m以上にもなり、鋭い爪で上空高くまで動物を持ちあげることもあるという。実際にこの鳥は捕獲され、剥製にされた。Newnessi1994年にはニューメキシコ州で、空飛ぶ魚「スカイフィッシュ」が撮影された。このスカイフィッシュは細長い棒の両側にヒレのようなものを付けたテレビの野外アンテナの様な姿をしており、そのヒレを波打たせて空中を飛ぶという。体長は数cmから30mと様々で空中だけでなく水中でも活動出来ると言われている。日本では兵庫県の六甲山周辺でも多数目撃されている。ここに挙げたのはほんの氷山の一角で、まだまだ生態が不明で新種の未確認生物は山ほどあるだろう。未確認動物は世界中で目撃例があり、ネッシーが生息すると言われたネス湖のように、特定の場所や地域で目撃される場合はその場所が観光スポットとなることもある。猿やカワウソの前脚が「河童の手のミイラ」と言われるなど、既知の動物の死骸や痕跡が未確認動物のものとして保管されている例もあるが、中には既知の動物には当てはまらない物もあるとされる。こうした未確認生物ではあるが、生物学上で言う突然変異とか、ヒトでさえ2mを優に越える人間も存在するのだから、成長過程でそういう巨大化した生物が居ても何ら不思議ではない。そして交配の仕方によっては新種の生物を作り出すことも可能だし、現にクローン羊(ドリー)が存在したことから考えれば、DNAやヒトゲノムなど遺伝子操作を行えば、理論上は可能だと言う。このUMAに関する映画で有名なのはE.Tだろう。猿の惑星もこの類か。奇怪な生物だからこそ、人々はそれを解明しようと好奇心や探究心、あるいは冒険心を掻き立てられ、謎が謎呼ぶこれらの生物を解明しようとするのではないだろうか。

Ningen Skyfish Tyupakabu 

 http://www.youtube.com/watch?v=IJjUt2sXo5o

 http://www.youtube.com/watch?v=wxLT9ANSrV8

 5 スプーン曲げ超能力

Uri_geller  昭和49年、ひとりの超能力者が来日した。40歳以上の人で彼の名前を知らない人はたぶんいないだろう。その人とは「ユリ・ゲラー」である。テレビカメラの前で、超常現象とも言うべき特異の能力を惜しげもなく披露し、視聴者の度肝を抜いた。それは俗に言うマジックらしきものではなく、超能力と呼ばれる特殊なものだった。彼が披露した能力は、まず壊れて動かなくなった時計を、念力によって再生させたり、書かれている文字やマークを透視によってズバリ当てるというもの。そしてテレポーテーションによって、念力を全国に送り、壊れた時計を直したりするパフォーマンスまで行った。全国の視聴者から時計が動き出したという報告の電話が鳴りやまぬほどの反響があった。そして彼を有名にしたのは誰にでもできる「スプーン曲げ」という超能力だった。スプーンの柄を軽く指先で擦り続け、スチール製の硬いスプーンでもいとも簡単にぐにゃりと曲がっていしまい、更には真っ二つに折れるというものだった。このパフォーマンスに全国の人が釘付けとなり、台所からスプーンを取り出し、テレビの前で一緒に真似をしたものだ。この放送以降、日本では空前の「超能力ブーム」が巻き起こった。日本人でも清田少年が登場し、スプーン曲げなどの念力や念写などの念動系の超能力を披露した。彼は「エスパー清田」とも呼ばれている。その後、NHKでも「少年ドラマシリーズ」で超能力を扱ったSFドラマ「謎の転校生」が放送されたほどだった。

 今回も思いのほか長くなって(いつものことだが・・・)しまった。本来は1回完結のトピックだったのだが、スペースオ-バーにより、この続きは明日に振り分けて掲載したい。ちなみに次回は、6.雪男・雪女・吸血鬼ドラキュラ・狼男、7.謎の海域・バミューダトライアングル、8.昔話に見える世界観、9.龍・ツチノコ・天狗・河童・人魚などの伝説上の創造物、口裂け女など人間が作り出した都市伝説の妖怪、そして幽霊・人魂など、10.ノストラダムスの大予言という話題でお送りしたい。お楽しみに。

記事作成:1/8(土)

2011年1月 9日 (日)

最強サラブレッド列伝

 私はサラブレッド(競走馬)が大好きだ。とは言っても、ご当地福島県には中央競馬管轄のJRA福島競馬場があるのだが、わざわざ競馬場まで行って観戦したり、馬券を買うことはしない。乗馬をしたことも未だかつて一度もない。では何故なのか。単にあの一迅の風の如く颯爽と駆け抜ける姿に惚れ込んでいるのだ。美しい毛並み、艶のある引き締まった馬体、上品で華麗な歩み、どれをとっても惚れ惚れしてしまい、我を忘れるくらい陶酔してしまう。私見だが、競馬ファンには悪いが、これを賭け事の道具にするなんて自分には到底理解できないのだ。だから、実際に競馬場に足を運び、ライブで見れば、臨場感や熱気などが直に伝わり、興奮の坩堝と化し、恍惚の極致に達するのだろうが、私自身は専ら解説付きの特定席であるテレビの競馬中継を見て楽しんでいるだけに過ぎない。それでも画面を通してひしひしと心を打つ感動を与えてくれる、そんな馬たちの織りなすドラマが大好きである。

 ところで、私は大学時代、教養課程の2年間を北海道にあるキャンパスで過ごしたことはこれまで何度も触れてきたが、その2年間を有効活用し、250ccバイクにてツーリングなるものを敢行し、様々な場所を訪れた。その中でも1・2を争うほど大好きだった場所が、日高地方に点在する牧場巡りだった。苫小牧から襟裳岬に向けて太平洋側の国道を走らせると新冠から静内にかけてその牧場地帯が現れる。その周辺は通称「牧場銀座」と呼ばれるほど、大小様々な牧場が密集している。一面の草原地帯に馬を放牧し、サラブレッドを育成しているのだ。その内陸に15kmほど入った辺りに、明和牧場というのがある。そこに競馬ファンを熱狂させ、競馬ブームの火付け役になったとされる、かの有名な名馬がいた。今はもう亡くなって久しいが、当時現役を引退し、種牡馬として第二の人生を送っていた。その史上最強のサラブレッドと謳われた名馬の名は「ハイセイコー」。そこで私は、たった二人きりの対面を果たしたのだその時の感動は今も忘れはしない。引退してもなお、凛として気品に溢れた雄姿は独特のオーラを発し、他の馬とは存在感が全く違っていた。それ以外にも覆面スタイルが印象的だった「グリーングラス」もこの目でしかと見届けた。

 そして昨年7月、無類の強さを誇り、人気・実力共に不世出の名馬がこの世を去った。彼の死を悼み、人間よりも豪華なお葬式まで執り行われ、別れを惜しむファンが数多く詰めかけた。ファンは彼の名を連呼し絶叫し涙を流した。当時、彼の人気は絶大で、彼を模した馬のぬいぐるみや関連グッズは飛ぶように売れ、サラブレッドには珍しい白い芦毛も注目を浴び、一大ブームを巻き起こした。そう、彼の名は「オグリキャップ」である。

 さて、前置きが長くなったが、早速、今回のテーマである「最強サラブレッド列伝」について語りたい。それぞれの競馬ファンには、一押しの馬や記憶に残るサラブレッドがいるであろう。必ずしも世間一般の人気とは合致しないだろうが、あくまで私個人の好みということでベスト10を発表したいと思う。(トップ3は詳細の解説付き)

 1位 シンボリルドルフ(1981年3月13日~現在29歳)

Shinbori  日本競馬史上4頭目のクラッシック三冠馬であり、また初めて無敗でクラシック三冠を達成した。三冠を含め、GI競走で通算7勝。1984年度優駿賞年度代表馬および最終週4歳牡馬、1985年度同年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。主戦騎手は岡部幸雄。1987年、顕彰馬に選出された。馬名「シンボリ」は馬主の冠名、「ルドルフ」は神聖ローマ帝国の皇帝ルドルフ1世にちなんで名づけられた。その競走成績・馬名から、「皇帝」、または「七冠馬」と称される。父パーソロンはリーディングサイアーに2度なった名種牡馬。母スイートルナはシンボリ牧場が生産した名馬スピードシンボリの産駒。日本では15戦13勝という驚異的な勝率を残し、生涯獲得賞金は6億8482万円を超えた。主な重賞勝利は皐月賞、菊花賞、有馬記念(以上1984年)、春天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念(以上1985年)など。シンボリルドルフと言えば「ルドルフ戦法」とも呼ばれた好位抜出型の典型と思われているが、実際には日経賞での逃げ切り、ダービーでの差し切りなど多様性に富んでいる。主戦であった岡部も著書の中で「平均的な勝ちパターンとすれば好位抜出型だが、ルドルフは自在性も多様性も持っている。その気になればテンからの大逃げも、最後方からのゴボウ抜きも出来るんだ。他馬が我慢できずに手前を替えるところでも手前を替えずにガマンできるのでタイムロスやスタミナの消耗が少ない。又、手前の替えも非常にスムーズであった」と、コーナリングの上手さがルドルフの強さを支える大きなポイントであったと舌を巻いたほどだった。常にレースは2着に3~4馬身差をつけるほどの圧勝だった。引退後、シンボリルドルフは公開入札という広く株主を募集する手法で10億円(2000万円×50株)のシンジケートが組まれ、北海道門別町のシンボリ牧場で種牡馬生活に入った。1世代目の産駒が1990年デビューし、その中から自身に勝るとも劣らないGI4勝の二冠馬トウカイテイオーを出した。このトウカイテイオーにより、父子2代連続の無敗での皐月賞・東京優駿の二冠制覇を達成した。外見的特徴では、人間で言う額の眉間に白く三日月型の蒙古斑があった。私が北海道在住時に夢中になっていた馬だ。彼が生きているうちにひと目見ておきたい。

http://www.youtube.com/watch?v=G1kk3VlmJp8

http://www.youtube.com/watch?v=nsexBRC8MjI

http://www.youtube.com/watch?v=FGfCfXelHWc

 2位 ハイセイコー(1970年3月6日~2000年5月4日30歳で没)

Haiseiko  競馬ファンのみならず国民的な人気を集め、「第一次競馬ブーム」「ハイセイコーブーム」と呼ばれる一大社会現象を巻き起こした。1984年にJRA顕彰馬に選出。1970年に北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにもタケシバオー(1969年春の天皇賞優勝馬)、メジロタイヨウ(1969年秋の天皇賞馬)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝馬)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬であった。母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、内3回はレコードタイムを記録した快速馬であった。ハイセイコーの競走馬としての生き様は、地方競馬出身の野武士が単身で中央競馬のエリート集団に挑んだという構図で語られることが多いが、中央競馬の馬と同様に、血統的にはハイセイコーもまた当時の良血(エリート)であった。その後、2年半の現役生活の中で、1972年7月のデビュー戦以降無傷の10連勝を飾った。主な重賞獲得は弥生賞・皐月賞・高松宮記念などで、22戦13勝であった。しかし、菊花賞や天皇賞、有馬記念などの優勝経験はない。競馬マスコミは中央移籍当初からハイセイコーを「怪物」「地方出身の野武士」と評し、その人気を煽り立てた。また、集団就職などで地方から上京し、都会で働いていた者たちには、地方競馬から出てきて中央競馬の一流馬たちに戦いを挑むハイセイコーに自身の姿を投影する者が多く、これがブームの根底を支える事になったとも言われる。NHK杯でデビュー以来無敗の10連勝を達成すると全国的な知名度と人気を獲得。「競馬を知らない者でもハイセイコーの名は知っている」と言われた。ハイセイコーが出走したレースのテレビ中継の視聴率はそれぞれNHK杯で20.2%、日本ダービーで20.0%(フジテレビ)、9.6%(NHK)を記録した。引退後も、明和牧場には多くのファン(赤木駿介によると、1975年はのべ30万人)が訪れ、新冠町はハイセイコーの故郷として全国的に有名になった。新冠町がハイセイコーの名前を冠した農作物を発売すると爆発的な売り上げを記録したという。有馬記念を最後に競走馬を引退し、翌1975年1月、東京競馬場で引退式が行われた。通常は最後の直線を500mほど走らせるところを、調教師の判断でコースを一周させた。ハイセイコーの引退直後に増沢末夫が『さらばハイセイコー』をリリースし、約45万枚の売り上げを記録した。

http://www.youtube.com/watch?v=ZzCfC9eaUcE

http://www.youtube.com/watch?v=6FkURlVLy-8&feature=related

 3位 オグリキャップ(1985年3月27日~2010年7月3日)

Oguri  「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期にハイセイコー以来といわれる高い人気を得た。父・ダンシングキャップ、母・ホワイトナルビーの子として生まれ、芦毛の美しい馬として1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。オグリキャップは女性にも人気を集め、多くの「オグリギャル」と呼ばれる女性ファンを観客として競馬場に集める原動力となった。32戦22勝(地方競馬時代含む)の成績を残して競走馬を引退した後は種牡馬となったが、中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。特に引退レースとなった1990年12月23日の有馬記念は、私にとって生涯忘れられないラストランになった。誰もが彼の体力の衰えを案じ、無事に走りきってくれればそれでいいと考えていた。しかし、彼は妥協を許さなかった。最後の直線で抜け出すと、往年の走りを彷彿させる粘りで、一着でゴールし、大観衆の喝采を浴びた。ウィニングランで鳴りやまぬオグリコール。競馬場が感動で震えていた。その快挙から2週間後の1月13日に行われた引退式では、誰もが涙し、誰もが彼に感謝し、競馬場が涙でぬれた一日となった。そして多くの競馬フリーク、オグリファンに見送られて彼はターフを去った。1991年、顕彰場に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など。彼は、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。優駿スタリオンステーション内で複雑骨折による安楽死処置にて25歳で没。その死は日本のみならず、共同通信を通じてイギリスのレーシングポストなどでも報じられた。オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、700人が出席。全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。

http://www.youtube.com/watch?v=dVr0x7aydls

http://www.youtube.com/watch?v=bybV0_t_DnU

http://www.youtube.com/watch?v=BkWwDLdVj8I&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=4L41ed-mL-E&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=GFPMwbm7uik&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=yg9P8KgMqgc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=hFVGggc9VDY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=-IPoPImD5ew&feature=related →泣かせます!

 4位以下については、主な経歴だけとさせて頂く。

 4位 テンポイント(1973年4月19日~1978年3月5日)

Tenpoint  トウショウボーイ・グリーングラス とともにTTGと称される。 1975年8月に競走馬としてデビュー。関西のクラシック候補 として注目を集め、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。クラシックでは無冠に終わったが、5歳時に天皇賞(春)と有馬記念を優勝した。後者のレースでトウショウボーイと繰り広げたマッチレース(2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある)は競馬史に残る名勝負のひとつといわれる。1978年1月に海外遠征に向けての壮行レース中に骨折し、43日間におよぶ延命治療の末に死亡した。1975年度優駿賞最優秀3歳牡馬、1977年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。1990年に中央競馬の顕彰馬に選出。主戦騎手は鹿戸明。父はコントライト、母はワカクモ。北海道早来町吉田牧場で出生。

http://www.youtube.com/watch?v=MlT2tgtRVG4&feature=related

 5位 シンザン(1961年4月2日~1996年7月13日35歳没)

Shinzan  1960年代に活躍した日本の競走馬、種牡馬。史上2頭目 、戦後初のクラシック三冠馬。1964年・1965年啓衆社賞年度代表馬。1984年に顕彰馬に 選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「鉈の切れ味」と形容された。1965年に有馬記念。秋の天皇賞を勝利したため、五冠馬と呼ばれることもある。デビュー時はあまり期待されていなかったが次第に頭角を現し、クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走をすべて制した。デビュー戦から引退レースまでの連続連対数19は、中央競馬におけるレコードである。「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズとともに、この後長らくシンザンは日本競馬の目標であった。競走馬引退後は種牡馬となり、ミホノシンザン、ミナガワマンナをはじめ、優秀な産駒を輩出。種牡馬引退後も1995年にサラブレッドの最長寿記録、1996年には軽種馬の最長寿記録を更新するなど最期まで注目を集めた。19戦15勝。父はヒンドスタン、母はハヤノボリ。

http://www.youtube.com/watch?v=W6Z_uP4GO8Q

 6位 ディープインパクト(2002年3月25日~現在8歳)

Deep_impact  史上6頭目のクラシック三冠馬(史上2頭目の無敗での三冠馬)である。2008年に顕彰馬に選出された。ディープインパクトはレース時の体重が436-452kgで、サラブレッドとしては小さな体型である馬として知られている。後方待機からの強烈な追い込みが身上であった。道中は中団から後方につけ、4コーナーから一気にまくりあげて他馬をごぼう抜きするという豪快なレーススタイルで数々のビッグレースを制した。特にジャパンカップでは、追い込み馬には不利とされるスローペースの中、道中最後方から直線で全馬を差し切って勝利した。 ディープインパクトの強みは優れた瞬発力とスピード、そして末脚の持続力である。実際、上がり3ハロンのタイムは日本国内のレースでは全レースで出走馬中最速であり、東京優駿(当時)、菊花賞、天皇賞(春)、ジャパンカップ、有馬記念(4歳時)等ではレース史上最速であった。また、天皇賞(春)ではいつも通りの後方待機策から残り600m付近で早くも先頭に立ったにも関わらずそのまま押し切っており、そのトップスピードの持続力は卓越していた。14戦12勝の圧倒的強さを誇った。生涯獲得賞金額は14億5455万円を超え、歴代2位であった。主戦騎手は武豊。父はサンデーサイレンス、母はウインドインハーヘア。

http://www.youtube.com/watch?v=5ERb1QUnIjU

http://www.youtube.com/watch?v=QH-LFeWUPjA&feature=related →凄いです!

 7位 トウカイテイオー(1988年4月20日~現在22歳)

Toukai  主な勝ち鞍は 1991年年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、1992年ジャパンカップ、1993年有馬記念など。日本調教馬として最初の国際G1競走優勝馬である。1991年度JRA賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬および最優秀父内国産馬、1993年度JRA賞特別賞。1995年、JRA顕彰馬に選出。七冠馬シンボリルドルフの代表産駒である。母はトウカイナチュラル。12戦9勝。生涯獲得賞金は6億2563万円。主戦騎手は岡部幸雄、田原成貴。出生は北海道新冠町の長浜牧場。彼のエピソードで欠かせないのは1991年5月に行われた東京優駿のレースの表彰式を終えてのことだった。競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われ、その結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6ヶ月」と発表され、年内の休養を強いられたことだった。その後も合計4度に渡る骨折と故障を繰り返しながらも、不屈の精神で這い上がり、その度奇跡の復活を遂げたことである。長いブランクの後、1年ぶりに出走したGIレースで見事優勝し、「奇跡の馬」として脚光を浴びた。翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を筋肉痛で回避。半月後には前回故障の患部である左前トウ骨を再び骨折し、4度目の休養に入った。以後は秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から引退が発表された。10月23日には東京競馬場で引退式が挙行された。当日のメイン競走はオープン特別競走であったにも関わらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、10万人以上のファンが訪れた。

http://www.youtube.com/watch?v=ypZ0aWdPOwg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Kjd-Js3NbQM&feature=related

 8位 トウショウボーイ(1973年4月15日~1992年9月18日19歳で没)

Tousyoboy  1970年代半ばにテンポイント、グリーングラス と共に「TTG時代」を作り、「天馬」と称された。主な勝ち鞍は皐月賞、有馬記念、宝塚 記念など。1976年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬。競走馬を引退した後に種牡馬としても大きな成功を収め、三冠馬ミスターシービーをはじめ7頭のGI級競走優勝馬を輩出。特に中小生産農家に絶大な信頼を寄せられ、「お助けボーイ」と呼ばれた。1984年、JRA顕彰馬に選出。父はテスコボーイ、母はソシアルバターフライ。出生は北海道静内町の藤正牧場で、主戦騎手は池上昌弘、福永洋一、武邦彦ら。サラブレッドとしては1976年1月から1977年12月までの2年間レースに出場。15戦10勝で獲得賞金額は2億8077万円。皐月賞や有馬記念で優勝したが、当時並みいる強敵揃いの中だったので、G1級制覇は他には宝塚記念と高松宮杯など。しかし、1992年8月5日、トウショウボーイが脚を痛がる様子が見られ、検査が行われた。この結果、蹄葉炎を発症していることが判明する。以降は職員総出の治療・介護が行われたが、病状の進行は止められず、9月18日に安楽死の措置が執られた。

http://www.youtube.com/watch?v=QNYGKMW3r1s

 9位 ミスターシービー(1980年4月7日~2000年12月15日20歳で没)

Mr_cb  日本競馬史において同名の競走馬が2頭存在するが、私が好きなのは2代目である。ミスターシービー(2代目)は1980年、北海道浦河町の千明牧場生産。1983年に中央競馬史上3頭目の牡馬クラッシック三冠を達成し、後に種牡馬になった。1983年度優駿賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬。父内国産の三冠馬は現在のところ本馬のみである。1986年、JRA顕彰馬に選出。父はトウショウボーイ、母はシービークイン。デビューは1982年11月から1985年4月までレースに出走し、当時、驚異的な末脚の追い込みで「捲りの刺客」と呼ばれた。主な重賞勝利は皐月賞・菊花賞・秋の天皇賞だった。当時の史上最強と謳われたシンボリルドルフとのジャパンカップ及び有馬記念での一騎打ちは競馬ファンの関心を一心に集めた。その後脚部不安を生じて休養、夏に調教を再開したものの、直後に骨膜炎を発症して復帰を断念し、引退。同年10月6日に東京競馬場で引退式が雨の中で執り行われた。15戦8勝。獲得賞金は4億959万円。主戦騎手は天才と呼ばれた吉永正人。

http://www.youtube.com/watch?v=vzelVgdxuHg

10位 グリーングラス(1973年4月5日~2000年6月19日)

Greengrass  テンポイント、トウショウボーイとともに、三 頭の馬の頭文字を取ってTTGと称され、三強の一角を担った。クラシック戦線最後の 菊花賞で花開いた晩成の馬で、第三の男とも呼ばれた。主な勝ち鞍は菊花賞、春の天皇賞、有馬記念など。1979年には年度代表馬と最優秀5歳以上牡馬に選出される。競走成績26戦8勝。4歳時、グリーングラスの単勝5250円は、今も菊花賞の単勝最高払い戻し金額である。父はインターメゾで母はダーリングヒメ。出生は青森県七戸町の諏訪牧場。獲得賞金は3億2845万円。安田富男、嶋田功、岡部幸雄、大崎昭一。彼のトレードマークと言えば緑色の覆面スタイルであろう。これがウケて人気にも火がついた。私は、彼が現役引退後、余生を送っていた北海道の牧場で、彼との対面を果たした。最期は佐賀県のエンドレスファームで柵に衝突し粉砕骨折し安楽死となった。彼もまた、競馬ブームの中、一世を風靡したサラブレッドということができるだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=J_Sqy_O3Pzs

 さて、あなた好みの馬は登場したでしょうか?もちろん有名どころを挙げればキリがない。メジロマックイーンも一時代を築いた名馬として捨てがたいし、日本産の馬としてジャパンカップを初制覇したカツラギエースもまた強かった。先行し大逃げする快速逃亡馬だったサイレンススズカもいた。結局は、先行逃げ切り型か最終コーナーから直線で猛然と追い上げて抜き去る差し馬か、あるいは牡馬か牝馬かなど、個人の好みによるところが大きいだろう。また、トウカイテイオーのように度重なる故障や骨折を乗り越えて、見事復活を果たし、優駿の名をほしいままにしている最強馬もいる。毎年、天皇賞や菊花賞、日本ダービーなどの重賞レースは、多くの競馬ファンが詰めかけ、プロ野球やサッカー観戦を遙かに凌ぐ16万人もの大観衆に包まれる。筋書きのないドラマを自分の目に焼き付けようと必死で声援を送り、勝負の駆け引きや抜きつ抜かれつの手に汗握るデッドヒート、騎手の手綱裁き、そして競走馬が本来秘めている闘争心を呼び覚ますゴール前の直線での激走を見守る。そして僅か鼻の差や頭ひとつ差での大逆転のゴールインを演出する。これらの出来事が複合的に相まって、身震えが来るほどの感動ストーリーを呼ぶのであろう。

 最後に、JRAが過去に行った「20世紀の名馬100」というテーマの人気投票の結果も合わせて掲載したい。投票総数は548,845票。

3冠馬 牝馬 殿堂馬

『20世紀名馬100』ベスト10 得票数
ナリタブライアン 21戦12勝 37,798
スペシャルウィーク 17戦10勝 31,061
オグリキャップ 32戦22勝 27,866
サイレンススズカ 15戦9勝 25,110
トウカイテイオー 12戦9勝 24,782
シンボリルドルフ 16戦13勝 22,521
シンザン 19戦15勝 17,159
ハイセイコー 22戦13勝 15,302
エアグルーヴ 19戦9勝 14,182
エルコンドルパサー 11戦8勝 13,667

『20世紀の名馬100』11位~100位
11 ライスシャワー 41 トウメイ 71 ナイスネイチャ
12 メジロマックイーン 42 メジロブライト 72 エアジハード
13 グラスワンダー 43 ナリタトップロード 73 ダイタクヘリオス
14 テンポイント 44 トキノミノル 74 サクラバクシンオー
15 マヤノトップガン 45 ウイニングチケット 75 タイキブリザード
16 タイキシャトル 46 スーパークリーク 76 サクラチトセオー
17 ミホノブルボン 47 バブルガムフェロー 77 マーベラスサンデー
18 ミスターシービー 48 イナリワン 78 キタノカチドキ
19 メジロドーベル 49 フサイチコンコルド 79 マチカネフクキタル
20 ビワハヤヒデ 50 シルクジャスティス 80 タニノチカラ
21 ヒシアマゾン 51 メジロライアン 81 ヤエノムテキ
22 トウショウボーイ 52 フジキセキ 82 コダマ
23 サクラローレル 53 メジロラモーヌ 83 アカネテンリュー
24 タマモクロス 54 メイセイオペラ 84 クリフジ
25 ホクトベガ 55 ジェニュイン 85 ファレノプシス
26 グリーングラス 56 タニノムーティエ 86 ダイユウサク
27 テイエムオペラオー 57 エリモジョージ 87 ミホシンザン
28 サニーブライアン 58 ダンスパートナー 88 オフサイドトラップ
29 タケホープ 59 ファビラスラフイン 89 ナリタタイシン
30 セイウンスカイ 60 キョウエイマーチ 90 レガシーワールド
31 ダンスインザダーク 61 トロットサンダー 91 ツインターボ
32 マルゼンスキー 62 カツラノハイセイコー 92 カブトシロー
33 スピードシンボリ 63 ヒカルイマイ 93 ウメノファイバー
34 ステイゴールド 64 テスコガビー 94 マサラッキ
35 ノースフライト 65 サクラスターオー 95 ニホンピロウイナー
36 カブラヤオー 66 カツラギエース 96 フラワーパーク
37 メジロパーマー 67 ヤマニンゼファー 97 セントライト
38 ベガ 68 アイネスフウジン 98 ネーハイシーザー
39 タケシバオー 69 キーストン 99 メイズイ
40 アドマイヤベガ 70 サッカーボーイ 100

 http://www.youtube.com/watch?v=E-3Da1suKVA&feature=related

 この結果をみればわかるように、この投票を実施した年に近い時期に活躍していた馬しか印象に残っていないような気がする。もちろん、世代的にリアルタイムでその活躍した時期を経験しなければ、その馬の本当の凄さを認識することはできないだろう。したがってこのような人気投票結果となったに相違ない。しかし、いずれにしても、どの馬をみても重賞レース(GI)で一度は勝利している名馬中の名馬であることに間違いはない。「サラブレッド」、その響きは良いが、調教師と共に過酷なトレーニングを乗り越えて、やがて檜舞台に立ち、第一線で華々しい活躍をする競走馬たち。何か人間の人生模様や生き様、社会の縮図に似て、思わず惜しみない声援を送ってしまう。これからも競馬史に残るような名馬の出現、名勝負・名レースを期待して結びとしたい。

 <JRA感動PV>

 誕生編→ http://www.youtube.com/watch?v=hj1zGPleEfk&feature=related

 デビュー編→ http://www.youtube.com/watch?v=Ol7mbahVrbc&feature=related

 G I 編→ http://www.youtube.com/watch?v=IWU-vF0JozQ&feature=related

 ラストラン編→ http://www.youtube.com/watch?v=TjldXGyKr6I&feature=related

 胸が詰まる動画
     → http://www.youtube.com/watch?v=YHhvI1k7qoc&NR=1&feature=fvwp

 なかなか勝てない馬がいる編
     → http://www.youtube.com/watch?v=wKtAj0tfOus&feature=related

 飛んでくる馬(ブロードアピールの伝説の差し切り)
     → http://www.youtube.com/watch?v=QYGCMtCW8Lc&feature=related

       http://www.youtube.com/watch?v=MLihD26xRX8&feature=related
       

 <当ブログ・HP関連リンク>

 競馬に関する詩

 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%20177.htm

 競馬に関するエッセイ

 http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/My%20homepage%2014.htm

 

 記事作成:1/7(金)

2011年1月 7日 (金)

美しきアスリートたち

 もう40年くらい前になるだろうか。昭和40年代の庶民の娯楽と言えば、映画とゴーゴーダンス、そしてスポーツ的要素を多分に含み、レジャー産業として世間を席巻し、一大ブームを巻き起こしたのは紛れもなく「ボウリング」だった。高度経済成長や所得倍増計画、列島改造論などによって民衆の懐具合も潤い、それに呼応するかのように日本全国津々浦々にボウリング場が建設され、健康の保持増進にも良いと言うことで、日本国民がこぞってプレーを楽しんでいた時代だった。その繁栄ぶりを示すかのように、テレビドラマでも「美しきチャレンジャー」という番組まで制作された。女子プロボウラーが持て囃され、「さわやか律子さん」こと中山律子プロや須田開代子プロ、そして並木恵美子プロら、実力のみならず美しさをも兼ね備えた女子アスリート達が世の男性を虜にした時代だった。その頃は、他にも「サインはV」(バレーボール)や「俺は男だ」(剣道)、「柔道一直線」、「われら青春」(ラグビー)など、いわゆる「スポ根もの」がテレビ業界を牛耳っていた印象がある。もちろんその流れを汲んだ訳ではないが、現代の女性アスリートたちは、見るからに美形で視線を釘づけにするような選手が何と多いことだろう。しかも日本のスポーツ界は明らかに女性上位で、世界を相手に戦える種目、そして人材が豊富である。数年前を見ただけでもテニスの伊達公子選手やバレーボールの姫こと菅山かおるなど、美人を絵に描いたようなスーパーアスリートだった。そこで今回は、現役で活躍する超美人(または可愛い系)のアスリートたちを10人ほど紹介したい。(映像はYou tubeより)

湯田友美(元陸上選手)

1985年5月28日生まれの25歳。愛知県犬山市羽黒出身。159cm43kg。血液型A型。日本の元陸上競技選手。専門は長距離走。犬山市立東小学校、犬山市立東部中学校を経て、愛知県淑徳高等学校卒業、ワコールに入社。現役時代は、ロングの髪を高めに左右に2つに結んだツインテールのヘアスタイルにしていることが多く、そのロングヘアをなびかせて走る姿にファンが多かった。第25回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会の第2区で湯田が記録した29人抜きは「ごぼう抜き」記録である。第2区は混戦から抜け出す区間であるので、過去においてもしばしばごぼう抜きが見られた。この大会で湯田は、34位から5位まで順位をあげた。2008年開催の第26回大会では京都府チームのメンバーとして同じく第2区を3位でタスキを受け、区間2位の記録で走り、すぐに2位の静岡(高橋)をかわし、更にラスト600mでトップを行く岡山(浦田)を抜きトップに立ち京都チームの4連覇に貢献した。毎年12月の全日本実業団対抗女子駅伝を目指して調整をしていたが、なぜかいつも1月に調子が上がってくるため、「1月女」とよく呼ばれていた。2010年3月1日、ワコール女子陸上部のHPにて現役引退、及び結婚を表明。その後、3月25日に日清食品の北村聡選手と結婚した。お幸せに。

Yuda1 Yuda2 Yuda3

http://www.youtube.com/watch?v=-iNCb7C9Jtg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=7Xvqnw0Ptlo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=NknfozwOz2E&feature=related

北風沙織(陸上選手)

1985年4月3日生まれの25歳。専門は短距離走。身長151cm、体重48kg、体脂肪率10%。血液型A型。北海道釧路市出身。江別市立大麻小学校・大麻中学校・恵庭北高等学校を経て、2008年に北翔大学生涯学習システム学部を卒業。現在は北海道ハイテクACに所属している。「沙織」という名の由来は、両親が南沙織のファンであったため、名付けられた。小柄ながらスタートのうまさは圧倒的。女子陸上界のアイドル的存在としても人気がある。2007年の静岡国際陸上では11秒52の北海道記録(当時)を予選で記録。その後、連覇を狙った日本インカレと日本選手権で高橋萌木子に次いで2位に終わるも、リレー要員として世界選手権代表に初選出された。7月の南部祈念陸上では11秒64で高橋と同タイムながら着差ありで優勝し、雪辱を果たした。社会人になってから最初の大会となった2008年4月の織田祈念陸上では100mで自己ベストの11秒42をマークしたが、チームメイトの福島千里が11秒36の日本タイ記録を樹立したため、2位であった。その後、左脛の疲労骨折等の故障で3度の手術とリハビリを経て2010年5月に開催された札幌市陸上競技協会主催の記録会女子100mに出場、11秒94のタイムで1位となって競技復帰を果たした。私は高校時代からインターハイの常連だった彼女の事を知っていた。北乃きいに似ている。

Kitakaze Kitakaze2 Kitakaze3

潮田玲子(バドミントン選手)

1983年9月30日生まれの27歳。福岡県京都郡苅田町出身。てんびん座の血液型はA型。166cm。右利き。九州国際大学付属高等学校女子部卒業。もと三洋電機バドミントン部所属、自身のマネジメント事務所はセントフォース。高校卒業後の2002年から2009年度まで三洋電機バドミントン部に所属し、チームメイトの小椋久美子と組んだ女子ダブルスペア「オグシオ」では2008年12月にペアを解消するまで美形、それでありながら全日本総合選手権大会5連覇、世界ベスト8以上に入れる実力派ペアとして、業界を問わぬ人気を誇った。2009年4月、ロンドン五輪でのメダル獲得を目指すべく、日本ユニシス所属の池田信太郎と混合ダブルスを結成(愛称「イケシオ」)。また三洋電機への所属形態を契約社員へ変更。同年7月には芸能事務所と契約、メディア活動のマネジメントを委託し、不定期ながらもキー局で自らの名を冠したコーナーを持っている。2010年3月30日付けで三洋電機との所属契約終了。5月16日付で日本ユニシスとプロフェッショナル社員契約をむすび、同社女子バドミントン部に加入した。あどけない表情からは想像も付かないほど負けん気が強く、勝負にはとことんこだわる性質。竹を割ったようにハッキリしてさっぱりした印象。

Shiota1 Shiota2 Shiota3

http://www.youtube.com/watch?v=FmOhQKS9HYY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=t5E6s0cm3cA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=kXmWknOb3ls&feature=related

浅尾美和(ビーチバレー選手)

1986年2月2日生まれの24歳。三重県鈴鹿市出身のみずがめ座で血液型はO型。172cm。53kg。スリーサイズは83-62-86cm。エスワン所属。競技オフィシャル・パートナーはハーバライフ。競技生活と平行してタレント活動も行い、ファッションモデルやグラビアアイドルとしても活躍、写真集やDVDなどを発売している。小麦色に焼けた肌と白い歯、そして抜群のプロポーション、その美貌からビーチの妖精とも呼ばれる。三重県立津商業高校で1年時よりレフトアタッカーとしてレギュラーを獲得。「キラ」というコートネームは、キラキラ輝く選手になるようにという意味で先輩につけてもらった。在学中、2年連続春高バレー出場、インターハイ・国体には3年連続出場し、3年生時はキャプテンを務めた。ビーチバレーに転向後は、ゴールデンタイムのバラエティ番組に水着で登場し、浅尾の知名度、人気は飛躍的に上がった。浅尾の出場試合は観客が急増し、浅尾を写真撮影しようとする観客も増えた。2008年2月から、ペアを組んでいる西堀健実と共に所属クラブをエスワンへ移籍した。その後、北京五輪代表を目指し世界を転戦していたが、出場に必要なFIVB世界ランキングにおいて上位にはるか及ばず、代表権を得ることは無かった。なお、五輪期間中はタレントとしてテレビ中継番組に出演した。8月12日に実妹が交通事故に遭い重体、一時容態は持ち直したものの9月5日に亡くなっていたことが判明。2009年11月、現状ではロンドン五輪出場は難しいとして、長年ペアを組んでいた、西堀健実とのペアを解消。12月、日体大出身元ユニバーシアード日本代表の草野歩と新ペアを組み、ロンドン五輪日本代表を目指す。しかし、2010年11月、所属事務所ホームページを通じチームの解散を発表、いわゆる「浅草コンビ」は1年間で解散することとなった。彼女はチャーミングとかキュートという形容詞がピッタリだろう。

Asao1 Asao2 Asao3

http://www.youtube.com/watch?v=tLHd9aP01jQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=h5FzbubyNAk

http://www.youtube.com/watch?v=po6x5tWSQ3A&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Y1l8XW0loDk&feature=related

狩野舞子(バレーボール選手)

 1988年7月15日生まれの22歳。東京都三鷹市出身。身長186cm、体重68kg。血液型A型。ポジションはウィングスパイカー。最高到達点303cm。所属は大沢スポーツクラブ→八王子実践中学校→八王子実践高等学校→久光製薬スプリングス(2007-2010)。久光製薬でプレーしていた狩野美雪は実姉。経歴は、中学3年で全日本入りした逸材。腰や膝に故障を抱えており、2008年に右アキレス腱を断裂するなど度重なる故障に悩まされている。2010年1月には左アキレス腱を断裂。2010年7月、リハビリに専念するため所属の久光製薬を退団した。8月30日、スポーツビズとマネジメント契約を締結。9月、全日本代表に追加選出された。11月11日、イタリア1部リーグ「パビア」に入団発表。背番号は3。既に、本人は現地入りし、チームと合流。開幕戦は28日のアゲーロ戦。11月27日、開幕戦でセリアAデビュー。途中出場ながら、貴重な1点をあげた。彼女の印象はしっかり者で頼れるお姉さん風。

Eabata1 Ebata2 Ebata3

http://www.youtube.com/watch?v=VZqUhIBHZ2w&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=_TIsAJbp4aU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ntcZ8Cd2R8E&feature=related

四元奈生美(卓球選手)

1978年9月21日生まれの32歳。 東京出身で乙女座のAB型。身長150cm、体重40kg。武蔵野高等学校、淑徳大学卒業。プロ卓球選手としては中国プロリーグ超級・北京 チーム→フリー→東京アート(2007年11月〜)所属。卓球の地味なイメージを変えたいと、カラフルなユニホームを着用して試合に出場する。デザイナーやファッションプロデューサーも勤め、自らのユニホームのデザインを行うこともある。『ジャンクSPORTS』など数々のテレビ番組に出演している。卓球界のジャンヌダルクと呼ばれる。確かにカッ飛んだお姉さん的な印象。西川史子女医にも雰囲気が少し似ているかも。

Yotsumoto3 Yotsumoto2 Yotsumoto1

http://www.youtube.com/watch?v=ELY1EgkTTNA

http://www.youtube.com/watch?v=BEYgNUd0sYE

http://www.youtube.com/watch?v=lkM_Yziu_sI&feature=related

有村智恵(プロゴルファー)

1987年11月22日生まれの23歳。熊本県熊本市出身。血液型はO型。東北高等学校卒業。所属は2008年シーズンより日本ヒューレット・ パッカード。。九州学院中学校時代には、2年時に日本ジュニアゴルフ選手権。女子12歳-14歳の部、3年時に全国中学校ゴルフ選手権を制覇する。その後、憧れの宮里藍を追うようにして東北高等学校に進学。同校在籍時は、東北女子アマチュアゴルフ選手権や東北ジュニアゴルフ選手権を制した。高校3年時にはアカデミック・ゴルフ・アウォード高校生の部・奨励賞を受賞している。2006年3月に高校卒業後は、再び地元熊本を拠点としプロツアーに参戦する。7月実施のプロテストを2位に7打差をつけるトップの成績で合格し、同年8月1日にデビュー。2008年6月29日、プロミスレディスゴルフトーナメントで初優勝。20歳220日での日本女子ツアー初優勝は史上7位の年少記録である。2008年シーズンは獲得賞金約4735万円。2009年9月、第37回ダンロップ女子ゴルフトーナメントで4勝目を挙げ、自身初・日本女子ツアー史上10人目の年間獲得賞金1億円突破を果たし、生涯獲得賞金は2億円を超えた。共に史上4番目の若さでの記録である。2009年11月、第28回大王製紙エリエールレディスオープンでは、22歳の誕生日をぶっちぎり優勝で飾り、最終戦の三つどもえ賞金女王争いに持ち込んだ。54ホール最少ストローク日本人歴代2位の通算20アンダーをマークし5勝目を挙げた。2009年シーズン最終結果は、賞金女王こそ逃したものの賞金ランキング3位、獲得賞金1億4080万4810円と、共に自己最高を更新した。

Arimura1 Arimura2 Arimura3

http://www.youtube.com/watch?v=U3aLel5TY6s&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=SnlSL6OwKTI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Mt6IVxM0caw&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=jz7QKYuTWzY

種田恵(競泳選手)

1986年9月20日生まれの24歳。北海道札幌市出身。身長162cm。血液型AB型。日本の競泳選手で、大手スポーツ用品 メーカーミズノ社員。種目は平泳ぎ。2歳の頃、喘息気味で体力をつけたいという理由から母とともにベビースイミングを始める。選手クラスには小学4年から所属。中学時代からトップレベルの大会に出場し、次代を担う存在として注目を集めていた。2002年4月、札幌大谷高等学校入学。インターハイで決勝の常連に名を連ねるものの、その先へ進むまでには今一歩の状態が続いた。2005年春に卒業後、日本水泳連盟からの勧誘を受けて母とともに上京。神奈川大学に入学、経済学部経済学科に籍を置いた。入学直後の日本選手権200m平泳ぎで優勝し、モントリオール世界選手権で日本代表に選ばれる。しかし、担当コーチが突然失踪し、指導者不在になった。JSS長岡の竹村吉昭コーチに救いを求め、2007年10月、長岡に転居した。2008年4月、北京五輪表選考会を兼ねた日本選手権において100m平泳ぎ、20日の200m平泳ぎでそれぞれ優勝し、初の五輪切符を手にした。本番では200mで決勝に残り8位となったものの、100mは予選敗退。2009年4月、神奈川大学を卒業し、ミズノ入社。それまでミズノ水泳部の女子部員は寺川綾だけだったこともあり、今後は商品開発のために泳ぐ傍らで自らのスキルアップを図るという厳しい環境の下で競技生活を続けることとなる。

Taneda1 Taneda2 Taneda3

小林由佳(空手)

1986年3月22日生まれの24歳。東京都豊島区出身。日本のフルコンタクト系空手家。身長150cm、体重40kg、スリーサイズはB80・W58・H80。血液型はB型。その容姿からアイドル的な人気があり、バラエティ番組などにも多数出演している。芦原会館西山道場所属。二段。目白大学人間学部心理カウンセリング学科卒業。所属事務所はBBMスポーツコミション。BBMSCが発表している。中学3年生だった2000年に極真全日本青少年大会でデビューし、高校在学中「女子高生空手家」として注目される。2007年7月時点の通算成績は177勝22敗。優勝は41回、準優勝が9回、3位が6回。2005年の成績は全日本女子空手道選手権大会無差別級で優勝、ワールドカップ軽量級で3位となっている。女子総合格闘技「ラブインパクト」・「スマックガールには空手ルールで参戦、2007年7月までに7戦7勝している。2008年春からは一般企業に就職し社会人としての生活もスタートさせている。2009年、映画「ハイキックガール!」で主演の武田梨奈と格闘を演じている。とてもチャーミングでAKB48にいそうな可愛らしさだ。渡辺麻友に似ている。

Kobayashiyuka1 Kobayashiyuka2 Kobayashi4

http://www.youtube.com/watch?v=P33jAd3C_LM&feature=fvw

http://www.youtube.com/watch?v=YvbEyVq0oME&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=28C1i5oCDV8&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=jbs6poMd6jE&feature=related

新谷奈津美(モーグル)

1984年6月25日生まれの26歳。150cm41kg。かに座のA型。ニックネームは「なつみん」。芸能活動をしながら、モーグル選手として多くの大会等へ出場。全日本(SAJ)モーグルランキング15位。2006年さのさかモーグル大会優勝。FIS フリースタイルスキーふくしま大会2位。第26回全日本フリースタイルスキー選手権大会シングル7位、デュアル5位。
2007年第27回全日本スキー選手権大会 11(予選5位)。全日本ランキング11位2008年第16回東京都モーグル競技会3位など。容姿はユンソナっぽい感じでお姉さん風。

Shintani Shintani2 Shintani3

 さて、スペースの関係上10人限定で書いてしまったので惜しくも掲載できなかったが、スキージャンパーの渡瀬あゆみ選手やカーリングの本橋麻里選手、テニスの平田清乃選手、陸上選手の辰巳悦加選手、体操の田中理恵選手、ショートトラックの伊藤亜由子選手、サッカーの仲田歩夢選手、茨城ゴールデンゴールズの片岡安祐美選手もまた美人である。そして人気、実力の両方を兼ね備えている。どうやら天は二物を与えてしまったようだ。それにしても、ひと昔前から比べると、スポーツアスリートも随分と美人が多くなったものだ。それにお洒落にも気を遣うようになった。ひと昔前ならアスリートがピアスをして試合に出たり、マニキュアを塗ってテレビに映ることは少なかった。時代は変わった。しかし、これは今ではとても良いことで、大会が単に華やかになるだけでなく、競技人口を増やす契機にもなる。私達は何か趣味を持ったり、スポーツを始める時に、意外と形や服装から入ることがある。格好を真似たり、同じ用具を揃えたりする。少年野球の用品でもイチローモデルは人気が抜群に高いようだが、そうした美人系アスリートが活躍すれば、それだけその競技が注目され、人気が出てメジャーとなり、その競技人口も増えると言うものだ。一例を挙げると、十数年前の長野五輪までカーリングという競技自体が五輪種目にあったことを知っていた人は少ないだろう。あのマイナースポーツを一躍メジャーに押し上げたのは、誰あろうべっぴん揃いのあの「チーム青森」であった。女性アスリートはいわばマスコット的存在で、彼女たちが可愛い顔に似合わぬ男勝りの活躍をし、世界を舞台に戦うからこそ熱狂的な応援と共にブームを巻き起こし、ステータスシンボルになるのだろう。とりわけ、共通しているのは、1983~1986年頃に生まれた、御年24~27歳くらいの選手ばかり。アスリートとして脂が乗り、そして一人の女性としても磨きがかかり、魅力的で光り輝く年齢がこのくらいなのだと言えるだろう。

Watase Motohashi Hirata

 http://www.youtube.com/watch?v=cq3i8YaBvZs

Tanakarie Nakataayumi Kataoka

 最後になったが、今年のスポーツ界は、来年2012年に開催されるロンドン五輪に向け、予選会や最終選考会が目白押しとなる大事な年となる。彼女たちの一挙手一投足から目が離せないが、そんな中にもお色気を振りまき、光彩を放ち、常に民衆を惹き付けるマドンナ的存在であってほしいと切に願ってやまない。

記事作成:1/5(水)

2011年1月 6日 (木)

懐かしの学園ドラマ 後編

 さて、本日は昨日アップして、大変な反響を頂いた「懐かしの学園ドラマ」の続編をお送りしたい。やはり40代以上の方々は、当時繰り返し放映されていた学園ものの青春ドラマと自身の学生時代との思い出が重なる人も多いようだ。私の場合、「飛び出せ青春」と「われら青春」は小学生時代、「ゆうひが丘の総理大臣」、「あさひが丘の大統領」が中学生時代、そして本日紹介する分が中学2年生以降から高校時代、そして大学時代に流行していたテレビドラマということになる。ちょうど青春真っ直中の時期に、人生観を養い、生き方や在り方の手本となる様な番組であった。とりわけ高校時代は、アイドルブームに加え、原宿を闊歩した「竹の子族」や横浜銀蝿に代表されるような「ツッパリ」ブームの渦中にいた。そんな多感な時期にあって、放映されていた番組は以下のようなものである。

Nettyu  「熱中時代~教師編~」 

 放送時期・・・1978年10月~1979年3月(全26話)日本テレビ系列
 内容・・・1987年春、1988年秋と1989年秋にもそれぞれ2時間の単発ドラマが製作され、家庭を持ち、時代と共に変わっていく子供達の気質に戸惑いながらも奮闘を続ける現在の姿が描かれた。当時社会問題になり始めていた教育現場でのさまざまな困難に、北海道の離島出身の田舎教師、北野先生が体当たりで熱中する姿が共感を呼び大ヒットした。特に独特なイントネーションの北海道弁は、親しみが持てた。実際、私が大学時代の2年間、北海道に住んでみて、地元の人が語尾にアクセントを置く「~ダネ」「~だなぁ~」という話し方は、まさに北野先生そのものだった。妙に感激し嬉しかった覚えがある。最終回の視聴率は46.7%を記録。本作の大ヒットに触発され、他局でも「3年B組金八先生」などの学園ドラマが多数制作された。その後、第2シリーズやスペシャル版も制作された。高校生くらいまで個人的に水谷豊が大好きだった。 

 主題歌:第1シリーズ「ぼくの先生はフィーバー」
      第2シリーズ「やさしさ紙芝居」
Nettyu2  出演者
 北野広大:水谷豊
 小糸桃子:志穂美悦子(校長宅に下宿する教師で同僚)
 花井恵子:音無美紀子(校長宅に下宿する教師で同僚)
 魚津早苗:島村佳江(校長宅に下宿する教師)
 小嶋田徳次:小倉一郎(同僚教師)
 八代徹:山口崇(綾子の実弟で校長宅に下宿)
 前田きく:執行佐智子(同僚教師で学年主任)
 安達勝也:小松方正(教頭)
 天城順三郎:船越英二(校長)
 天城綾子:草笛光子(順三郎の妻)
 天城育民:太川陽介(順三郎の息子)
 北野青空:池上季実子(広大の実妹)
 小宮新八郎:谷隼人(近所の派出所の警察官)

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=xJJUTrHl16Q&feature=related

             http://www.youtube.com/watch?v=b81NvPgE9no&feature=related

Kinpachi2  「3年B組金八先生」 

 放送時期・・・1979年10月~1980年3月第1シリーズ(全23話)TBS系列

 内容・・・坂本金八は、世田谷第一中学校から桜中学校に転任し、3年B組を担任することになった。諸問題の解決に励む金八だったが、優等生の浅井雪乃が妊娠していたことがわかる。相手は同じ3年B組の宮沢保だった。また、雪乃の家庭では兄の自殺という事件も起きていた。このシリーズでは、雪乃の妊娠について「十五歳の母」という副題で6回に渡って放送され、その中の「愛の授業」などで命の大切さが訴えられた。ストーリーの主要部は連続ドラマとして放送され、第1シリーズから第8シリーズまでの放送が完了。このほか、連続ドラマの各シリーズ間に挿入される形で、単発のスペシャルドラマが11作品放送されている。また、レギュラーシリーズでも一部の回がスペシャル版での放送になる回もある。ドラマで扱われるテーマには時勢も反映され、教育現場においての時代に応じた課題が扱われることも多い。受験戦争、中学生の恋愛、性、家庭不和、暴力、いいめ、友情、命の大切さなど多岐に渡っていた。この作品は武田鉄矢の金八先生だけでなく、さとう宗幸の仙八先生や岸田智史の新八先生などシリーズ化し、そこから生まれたスターも多かった。たのきんトリオ、三原順子、杉田かおる、沖田浩之、伊藤つかさなどである。本当は武田鉄矢ではなく、当時「君の朝」が大ヒットしていた岸田智史がこの役を演じることになっていたと聞いて驚いた。武田鉄矢の金八先生は幻になっていたかもしれないと知り、ぞっとした。

Kinpachi 主題歌・・・「贈る言葉」(海援隊)
 出演者  武田鉄矢
        鶴見慎吾
                杉田かおる
                田原俊彦
                近藤真彦
                野村義男
                三原順子
                赤木春恵
                倍賞美津子
                鈴木正幸

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=6bm3cIQvO-4&feature=related

            

Tadaima  「ただいま放課後」 

 放送時期・・・1980年5月~ 1981年3月(第1シリーズは全14話、第2シリーズが14話)フジテレビ系列。首都圏では月曜日20時からの放送だったが、ここ福島県では土曜日の21時から遅れて放送されていた。
 
 内容・・・新設の高校「隼学園」を舞台に、性格も経歴も対照的な二人の教師と個性的な生徒達との交流と活躍を描く。3ねんB組金八先生に続いての、たのきんトリオの出演が話題となり、人気ドラマとなった。テーマソングもヒットした。ロケ地は神奈川県厚木市及び海老名市。 番組冒頭のタイトルではくす玉が割られ、紙テープや紙吹雪が降るシーンがあった。各回ごとに「なぜか、それが愛」とか「きっと、これが青春」というようなサブタイトルが付いていた。キャスティングを替えて第3シリーズまで続いた。私は近藤真彦と同い年のため、よく髪型や服装を真似したものだ。人からマッチに似ていると言われ、調子に乗っていた時期があった。

Tadaima2  主題歌・・・「青春ひとりじめ」(田原俊彦)
 出演者
 森雄太(ドンガメ先生):本田博太郎
 広岡大助(チョロ先生):寺泉哲章
 岡田達也:近藤真彦…28話まで出演
 北川豪史:田原俊彦…15話まで出演
 杉原忠雄:野村義男…15話まで出演
 奈美:川島なお美…15話から出演
 坂上紀美子:早坂あきよ…15話から出演
 松岡譲:松原秀樹…15話から出演
 沢田美沙子(婦人警官):古手川祐子…28話まで出演
 
映像・・・https://www.youtube.com/watch?v=QRUH408eTHU


School_wars1  「スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~」 

 放送時期・・・1984年10月~1985年4月(全26話)TBS系列
 
 内容・・・大映テレビ取締役でプロデューサーでもある春日千春が、山下真司が演じた教師のモデルとなった山口良治の講演会をたまたまテレビで観た。当時、校内暴力が社会現象化しており、それを無くそうという意図でドラマを作ることを思い立ち、1週間で企画を書いてドラマ化に至った。あらすじは、元日本代表の名フランカーだった滝沢賢治は現役引退後、川浜市教育委員会に勤務し、ラグビー指導等をしていた。それに目をつけた市立川浜高校の山城校長から川浜高校体育教師の職にと懇願されたが、その悪いことなら県下一のワースト校が川浜高校であったため、妻・節子は反対した。しかし、一方では賢治の夢は教師になることで、悩みぬいた末、川浜高校に赴任した。生徒たちの反乱、そして屈辱の大敗を経て、ラグビー部として始動していき、全国大会の決勝戦に臨んだ。オープニングの冒頭近くに、モデルとなった伏見工業-大阪工大高校の決勝戦のキックオフ前後の映像が流れる。シュールでハードな作りは、さすがに大映テレビ制作だと思った。
School_wars_2
 主題歌・・・「HERO」(麻倉未稀)
 出演者
 山下真司    鶴見辰吾
 岡田奈々    大石悟朗
 松村雄基    谷村昌彦
 宮田恭男    チャールズ・モーガン
 伊藤かずえ   四方堂 亘
 岩崎良美    和田アキ子
 下川辰平    梅宮辰夫 
 名古屋 章   倉石 功 
 三浦浩一    坂上二郎 
 小沢仁志    宮田 洲    
 高野浩和    岩本宗規    
 坂上亜樹    間下このみ
 諏佐理恵子   近藤洋介 ほか    

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=I5DkJ_afwoQ&feature=related

Kyoushi  「教師びんびん物語」 

 放送時期・・・1988年4月~6月(全13話)フジテレビ系列

 内容・・・ドーナツ化現象の進展により大幅に生徒数が減少した東京・銀座の銀座第一小学校(中央区立泰明小学校がモデルとされている)を舞台とした学園ドラマ。シリーズ平均視聴率22.1%、最高視聴率24.9%を記録した。新米の熱血教師・徳川龍之介とその後輩の教師・榎本英樹のコンビを中心に、小学生の揺れ動く心理状態や、近隣の小学校との統廃合問題で揺れる学校運営などを描いた。好評につき、1989年4月からシリーズ2作目(全13話)が放映された。東京・御茶ノ水の名門私立小学校「聖橋大学附属小学校」に赴任し、中学受験を目指す児童たちを教えることに。慣れない進学校での勤務でも相変わらずの熱血指導を行う徳川と、受験戦争の中で苦しむ児童達とのふれあいを描いた。
 
Kyoushi2  主題歌・・・田原俊彦が歌う主題歌「抱きしめてTONIGHT」、「ごめんよ涙」が大ヒットした。 
 出演者
 田原俊彦:徳川龍之介
 野村宏伸:榎本英樹
 五十嵐いづみ:奥沢いづみ
 五十嵐淳子:国立響子
 萩原流行:満田亀造
 阿藤海:御前崎マキオ・長曽我部権三
 大竹まこと:江崎次郎
 長塚京三:三田不動産社長
 佐藤允:仲山校長
 紺野美沙子:奥沢まゆみ
 麻生祐未:三井祐子
 生田智子:木下玲子
 渡辺美奈代:木下ますみ
 生徒役:観月ありさ

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=pAVQng4t99I&feature=related

      http://www.youtube.com/watch?v=oDgjd01GkJE

      http://www.youtube.com/watch?v=QapNRWlP1As&feature=related

 
 さて、2日間に渡ってお送りした「懐かしの学園ドラマ」、如何だっただろうか?自分の青春時代の懐かしい思い出が甦って来ただろうか?これ以外にも上田美穂主演の「生徒諸君!」や吉田友紀主演の「俺はあばれはっちゃく」も好きなドラマだった。最近は、このような若い人の苦悩を真っ正面から受け止めて、共に考えさせるようなドラマがめっきり影を潜めている。昨年暮れに放送していた「サンデーモーニング年末スペシャル」で特集として取り上げていたように、「豊かなのに幸せになれない」というのは、個性の重視や個人の尊重ばかりが持て囃され、個人主義に陥ってしまい、かつての同族意識や所属感、地域や集団との関わりという体験が減ってしまい、遊びにしても、私が子供の頃には近所の子供同士で集まって鬼ごっこや缶蹴り、ソフトボール、雪だるまやかまくら作り、雪合戦など集団で遊んだものだ。しかし、今は「風邪を引いたら一大事」とか「事件や事故に巻き込まれる危険が増大する」といわんばかりに自宅でゲームばかりやらせる親が多くなった。近所のおじさんに叱られるような場面や地域ぐるみで子供を育てるといった風習や風潮がなくなった。学園ドラマを取り上げても、何か人間味や人間臭さらしきものが感じられない。どこか他人行儀である。最近の学園ドラマでは、前田敦子主演のドラマ「Q10」やAKBの「マジすか学園」などがあったが、設定がどこか非日常的で異質な印象だった。堀北真希と小栗旬が出演した「花ざかりの君たちへ~イケメンパラダイス~」もまたしかり。恋愛にばかり話題が行き、人間としての生き様や生き方・在り方を取り上げていない。昔は教育問題や社会問題を泥臭く追究し、それを体当たりで描写し、如実に物語っていた。若さゆえのつまずきや若者特有の苦悩を包み隠さず露骨に取り上げ、番組の中で切実に考えさせたものだ。そして「柔道一直線」や「サインはV」などのスポ根ものも多かった。そして、最近のドラマの傾向として1クール3ヶ月(11~12話完結)で終わってしまうものが大部分だ。これも残念である。短いから心に響かないし、記憶にもあまり残らない。テレビの制作会社は、青春時代の投影として、仲間意識や命の大切さを訴えるようなドラマを増やして貰いたいと切に願い、今回2日間に渡ってお送りした記事を閉じたいと思う。

記事作成:12/27(月)

2011年1月 5日 (水)

懐かしの学園ドラマ 前編

 1964年生まれの私にとって、学生時代(小・中・高・大)は1970年代から80年代であった。その頃、テレビドラマと言えば、刑事ドラマと学園ものの番組が主流だった。とかく影響を受けたのは青春の代名詞のような学園ドラマで、社会風刺や世相、その他教育問題をも鋭い視点で包み隠さず取り上げた内容が多かった。もちろん青春群像は余すところなく表現していたが、その中でも友との友情や家庭不和の問題、人生観に纏わることを巧みに描き、同年代の視聴者に多大な影響を与え、同時に波紋を投げかけた。そして何度も再放送されていたものだった。今回は特に、その時代を中心に人気が高かった「学園ドラマ」を取り上げたい。今回は甲乙つけがたいので、ランキングではなく、古い順にドラマの内容、コンセプト、出演者、映像があればオープニングやエンディングなど「You Tube」のアドレスを掲載したい。

Orewa 「俺は男だ」

 放送時期・・・1971年2月~1972年2月(全43話) 日本テレビ系列
 
 内容・・・主人公小林弘二は、兄が教師をつとめる青葉高校に転校して来る。同校は名門女子高としての歴史が長く、共学になって数年しか経過していないため、男子生徒の人数も少なく、女子生徒が主導権を握っているような状態であった。弘二が入ったクラスには、女子生徒のリーダー的存在でありアメリカ生活の経験もある成績優秀な吉川操がいた。また、操が住んでいるアパートは弘二の自宅の隣であり、弘二と操の部屋はごく近くにあり、窓越しに会話をすることができた。弘二は学校での「ウーマンリブ」打倒のために男子生徒を集め、剣道部を結成する。操がいるバトン部と対立しながらも徐々にお互いを理解し合える関係を築いていく。名文句「吉川く~ん!」と声を張り上げて叫んでいた森田健作も、今や千葉県知事である。これだから世の中面白い。

 出演者・・・小林弘二:森田健作
        吉川操:早瀬久美
               小林一郎(弘二の兄):河原崎長一郎
               小林清彦(父):松村達雄
               小林敏子(母):津島恵子
               小林かおる(妹):松本うたか
               小林源之助(祖父):笠智衆
               吉川美穂(操の姉):秋山ゆり ほか

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=02SPtJ2zkUM&feature=related


Tobidase  「飛び出せ青春」

 放送時期・・・1972年2月~1973年2月(全43話)日本テレビ系列

 内容・・・「来る者は拒まない」という校長の方針により、無試験入学制度をとっている太陽学園高等学校には全国から落ちこぼれが集まっていた。中でもサッカー部は劣等生の集まりだった。新任の教師・河野武は、赴任早々のトラブルで教頭に疎んじられ、さっそくサッカー部の部長を押し付けられる。だが、河野は持ち前のチャレンジ精神と同僚の女教師・本倉明子の協力を得て生徒たちに熱き思いを伝えてゆくのだった。第1話のタイトルでもある「レッツ・ビギン Let's begin!」がこのドラマを通しての合言葉でもあり、テーマでもある。

Tobidase  出演者・・・河野武(英語):村野武範
        本倉明子(国語):酒井和歌子
        杉田良策校長:有島一郎
        江川俊介教頭:穂積隆信
        塚本信二(世界史):柳生博
        後藤梅子(寮母):菅井きん
        名和半次郎(ラーメン屋):名古屋章
        本倉惣之介(理事長):佐藤慶
        高木勇作:石橋正次
        片桐次郎:剛達人
        柴田良吉:頭師佳孝
        山本大作:保積ペペ ほか

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=ngHEXM3fFD0
 

Warera  「われら青春」 

 放送時期・・・1974年4月~9月(全22話)日本テレビ系列

 内容・・・この作品は、前作『飛び出せ青春』と同じ太陽学園を舞台とした続編的な手法で製作された。主人公の沖田俊は、河野先生(村野武範)の大学の後輩であるという設定。前作より卒業できずに2年留年した生徒・山本大作(保積ペペ)、ラーメン屋の店主(名古屋章)、その店で働く真樹(青木英美)、杉田校長(有島一郎)に江川教頭(穂積隆信)、教頭の腰ぎんちゃく塚本先生(柳生博)、寮母の梅子(菅井きん)といった面々が前作から引き続いての出演となっている。マドンナ先生には島田陽子が扮した。取り扱うスポーツは、『青春とはなんだ』以降の青春学園シリーズの恒例(ラグビーとサッカーをできるだけ交互に取り上げる)にのっとり、前作のサッカーからラグビーとなっている。よって山本大作は、『飛び出せ!青春』時のサッカー部のユニフォームを着てラグビー部の設立に参加している。これにラグビーの名門校・星山学院]の部員だった神野吾郎(千葉裕)を中心とする男子生徒と、ボス的存在の白川梨絵(大原福美)を中心とした女生徒たちが絡み合って物語が展開していく。第14話では、『飛び出せ!青春』のメンバーが勢揃いし、前作からのファンに対する琴線をくすぐる演出がなされている。いずみたくシンガーズの歌う主題歌『帰らざる日のために』は60万枚を売り上げ、同曲からは「涙は心の汗だ!」の名フレーズも生まれた。また主演した中村の歌う挿入歌『ふれあい』はオリコン10週連続第1位を記録し、ミリオンセラーとなった。しかし視聴率的には伸び悩み、7月に入って発売された『ふれあい』の大ヒットも視聴率に反映されることはないまま、放映開始から半年で終了することとなった。初回の駅のホーム越しにラグビーボールをパスする名シーンは語り草となっている。臭い台詞が多く、若き頃の竹下景子も生徒役で出演した。私はドラマで流れていた「青春貴族」という曲が大好きだった。
 
Warera3  出演者・・・中村雅俊 - 沖田俊(新任英語教師)
        島田陽子 - 杉田陽子(英語教師)
        穂積隆信 - 江川俊介(教頭)
        柳生博 - 塚本信二(社会科教師)
        有島一郎 - 杉田良策(校長)
        草薙幸二郎 - 中岡大介(古文教師)
        日色ともゑ - 美山(化学教師)
        菅井きん - 梅子(寮母)
        保積ペペ - 山本大作
        千葉裕 - 神野吾郎
        清水明博 - 水野茂樹 ほか

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=C_XuKZbADzQ

      http://www.youtube.com/watch?v=j5Lf_CZEPgM&feature=related

      http://www.youtube.com/watch?v=dQ90__4ir0g&feature=related

      http://www.youtube.com/watch?v=cvcBCQfduMQ


Yuuhi  「ゆうひが丘の総理大臣」 

 放送時期・・・1978年10月~1979年10月(全40回)日本テレビ系列

 内容・・・日本テレビ青春ドラマの枠は、これより水曜夜8時台に移行。前作『青春ド真中!』のスタッフおよびキャストをほぼそっくり受け継ぐ形で再スタートを切った。ちなみに本作は望月あきらの同名コミックを原作としているが、ドラマの作りはオリジナルといって差し支えないだろう。「この教室じゃオレは総理大臣よりも上だ」と発言し、"ソーリ"というあだ名がついた新任教師大岩雄二郎を中心に展開される学園の笑いと涙。演技の幅を確実に広げた中村雅俊が痛快な教師を熱演してくれた。視聴者の気持ちを代弁する生徒役では、井上純一や藤谷美和子が人気者に。かつての石橋正次らに代わりシリーズ後期の顔となる。「俺たちの旅」から続く、番組のエンディングで流れる曲と青春のメッセージ(詩)が最高だった。

Yuuhi2  出演者・・・中村雅俊(大岩雄二郎)
        由美かおる(百田桜子)
        神田正輝(多野木念)
                宍戸錠(東剛教頭)
       名古屋章(大坂直次郎)
                小松政夫(伊井加一)
                由利徹(上条伸吉)
                木原光知子(山森久子)
                井上純一(柴田良次)
                草川祐馬(冬木健吉)
                斉藤友子(岡田君子)
                藤谷美和子(藤村春子)
                清水昭博(山川平作)
                長谷川論(遠藤壮一)
                北村優子(北川真弓)
                岡田奈々(大屋薫)
                樹木希林(大屋ふく)
                篠ひろ子(大坂道子)
                前田吟(山下健三)
                京塚昌子(百田てる) ほか
 
 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=V30FkP-mtT4&feature=related

      http://www.youtube.com/watch?v=v3h4Uwe9kUs&feature=related

Asahi  「あさひが丘の大統領」 

 放送時期・・・1979年10月~1980年9月(全36回)日本テレビ系列

 内容・・・『ゆうひが丘の総理大臣』のヒットを受けて制作された続編的作品。放映日時は水曜日20時から。主役教師を演じるのは「太陽にほえろ」のボン刑事で売り出し中だった宮内淳。これまでの学園ドラマの歴代教師を踏襲したキャラクターであだ名は"ハンソク"。これまでの歴代教師にも増して奔放で、トラブルメーカー的な役どころだった。そうした彼が一年後には生徒の心をがっちりつかんでいく。これぞまさしく学園ドラマの王道といえよう。不良や落ちこぼれはいても、決して陰湿な展開にならない。本作はそんなふれ合いを大切にした青春ドラマの終章でもある。主題歌の「新しい空」(小出正則)は知る人ぞ知る名曲だ。私はレコードを持っていた。オープニング映像の階段からラグビーボールが多数落ちて行く場面が妙に印象に残っている。私は北村優子のファンだった。

Asahi2 出演者・・・ 宮内淳(大西元)
        片平なぎさ(今井涼子) 
        秋野太作(野口英雄)
                金沢碧(今井しのぶ)
                谷隼人(小寺昌彦)
                井上純一(水野蕃)
                岡村清太郎(西脇耕治)
                長谷川諭(山下三吉)
                藤谷美和子(長尾あき子)
               北村優子(白石こずえ)
               久我直子(横田千晶)
               宍戸錠(高岩巌)
               名古屋章(横井兵衛)
               結城美栄子(倉橋ひろみ)
               由利徹(太田秀鶴)
               樹木希林(小関もも子)
               藤間紫(大西里枝)

 映像・・・http://www.youtube.com/watch?v=C_AFTfU5OD8

      http://www.youtube.com/watch?v=UhAT1Sijc6c&feature=related

 どうでしたか?青春時代の想い出が甦って来ませんか?自分の青春時代と重ね合わせたり、バイブルのように考えて生活していた方も多いでしょう。あるいはこの類の番組から人生の処世術を得ていた人も多いことだろう。本当はこのトピックを一話完結にしたかったのだが、思い入れが強く、ことのほか長くなってしまった。申し訳ないが、急遽、前編と後編に振り分けて2回シリーズとしてお送りしたい。今回はスペースの関係上ここまで。続きは明日のお楽しみ。明日も1970年代後半から1980年代にかけて一世を風靡した青春学園ドラマを5本お送りする予定です。

記事作成:12/26(日)

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