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2011年1月19日 (水)

若くして亡くなった有名人~前編~

おことわり

 本記事は、著作権および故人の名誉に関わる記載が多分に含まれているため、自主規制により公開日、時間を限定してお送りしていますことをご了承願います。

 昨年12月は、あまり有名人が亡くならなかったので安心していたら、年が明けて相次ぎ訃報が飛び込んで来くるようになった。まず、1月8日に名テレビプロデューサーだった横澤彪さんが亡くなった。ほどなく14日には、甘い語り口調と低い声で女性を魅了した細川俊之さんが自宅で転倒し、硬膜下血種により不慮の死を遂げた。そして同じ日には、一時期、華々しくブラウン管に登場し、そのユニークな風貌と「ガハハ」という明るい笑い方が特徴的だった名演出家の和田勉さんまでが逝ってしまった。それぞれ亡くなった年齢はまちまちだが、テレビを賑わしていた有名人が亡くなるたびに、私は人生というものについて深く考えさせられる。私の身内を考えても、まず昭和62年に祖母が病気で亡くなり、平成15年に父親が急死、そしてその二年後の平成17年には私が尊敬して止まなかった祖父までもが天国へと召されていった。母方の祖父母も既に他界している。そしてつい先月には伯父までもが旅立った。かつての同僚や知人、友人などを含めたら、一体何人の方をお送りしたのだろう。葬式は、故人と最後の決別を行う大事な人生のエピローグのセレモニーなのだが、私は参列するのが年と共に辛く思えて来た。人間、いつかは死ぬと言う避けようのない事実を付きつけられるからだ。亡くなった人は、周囲の親しい人の記憶には残るだろうが、二度と生きては戻らない。時々記憶を辿りながら思い起こし、その人となりを回顧することで供養したいと考える次第である。そういう意図から、今回は、芸能界などで特に若くして亡くなった方々を20人、アットランダムにピックアップし、彼等を偲んでみたい。

Ozaki  尾崎豊(1965年11月29日-1992年4月25日 26歳で没)

 日本版ジェームスディーンであり、B型の特徴らしくカリスマ(教祖)的な存在として若者に支持された。優等生としての生活に嫌気がさし、青山学院の高等部を中退。音楽にのめり込んだ。1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でデビュー。4枚目のシングル「卒業」が大ヒットする。愛や夢を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう少年の心の叫びのようなその歌の世界が若者の共感を呼び、カリスマ的存在となる。代表曲は他に「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」など。26歳という若さでの突然の死はファンに大きな衝撃を与え、今なお尾崎を慕うファンは絶えず、その曲の数々は現在でも多くのアーティストにカバーされ続けている。1992年年(平成4年)4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが、診察した医師は深酒によるアルコール依存という診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が消防に通報。搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。彼がこの世を去って19年が経つとはとても信じられない。今でも「尾崎信者」はごまんといる。

http://www.youtube.com/watch?v=4R4EVAfaamE

Hide  hide(1964年12月13日-1998年5月2日 33歳で没)

 本名は松本秀人。日本のミュージシャン、アーティストであり、ご存知ロックバンド、X JAPANのギタリストであった。1987年初めに当時のXに加入。PATAも加わって、メジャーデビュー時のメンバー構成になり、たいていの楽曲でリードギターを担当した。また、一部曲の作詞および作曲も担当。ライブ等でも独自の派手かつ奇抜なパフォーマンス、ビジュアルで自らを主張し、YOSHIKIとはまた一味違う存在感を放った。他のメンバーが派手なビジュアルを止め、徐々に素顔を見せるようになる中で、HIDEだけは「ファンからどう見られるか」に徹底して拘り、ヘアースタイル、ステージ衣装にビジュアル性を重視し、独自の個性を貫き続けた。1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーである。1998年5月2日、朝7時30分頃にhideは自宅マンションの寝室にて、ドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態で、同居していた婚約者によって発見された。病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。この後ファンが後追い自殺をするなどの事態が発生したという。その後ワイドショーなどで死亡の原因について麻薬中毒などの憶測を呼んだこともあった。警察の発表では、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われると語っているが、真相はわかっていない。しかし、私達は1990年代を代表する人気ギタリストのひとりを失ったことに変わりはない。AB型。

http://www.youtube.com/watch?v=qbeWAt6nRfk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=poe932qQykc

Takahashi   高橋良明(1972年9月2日-1989年1月23日 16歳で没)

 彼は僅か16歳という若さで人生の幕を下ろした。アイドル俳優として、TBS系列の「うちの子にかぎって」というドラマに出演し、人気が沸騰していた。また「天使の反乱」という曲もリリースした。しかし、1989年(昭和64年)1月5日夜、オートバイを運転していた高橋は、車道を横断してきた中学生の歩行者に接触、バランスを崩して路上駐車していた自動車に激突、負傷した。現場は横浜市青葉区から川崎区麻生区にかけての地域であり、事故後、高橋は東京都稲城市の脳外科病院に救急搬送された。初期治療後、様態は回復に向かっていたとも思われたものの、同月22日に容態が急変、意識不明となり、翌23日午前2時46分に帰らぬ人となった。死亡当日、聖マリアンナ医科大学において司法解剖が行われ、死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と診断された。将来を嘱望された俳優だっただけに当時のファンの悲しみは大きかった。彼の弟もまた同じ事故で意識不明の重体を負い、役者としての再起は果たせていない。O型。

http://www.youtube.com/watch?v=mLR1Ojc5DG0

Horie  堀江しのぶ(1965年8月18日-1988年9月13日 23歳で没)

 1985年、クラリオンガールコンテストで平凡パンチ・アイドル賞を受賞し、イエローキャブに所属。芸能界デビュー時からグラビア・ドラマ・バラエティーなど、各分野において活躍した。しかし、1988年前半頃から腹痛や食欲不振などで体調を崩し、4月8日に緊急入院。その時点で、既に末期の「スキルス性胃がん」が卵巣にも転移しており(後に卵巣を全摘)、余命数ヶ月と診断されたが、本人には本当の病名を伏せていた。それから約5か月後の同年9月13日、わずか23歳の若さで逝去。最期の言葉は「わたし…仕事がしたい…」だったという。生前は礼儀正しい人柄と性格の良さにおいても評判が高かったこともあり、彼女の夭折は故人の関係者やファンだけでなく、芸能界全体にも多大な衝撃を与えた。大の親友同士でもあったマリアンは彼女の死に号泣し、親子のように交流を持ち、他界直前に実姉をガンで亡くしていた横山ノックも、参列した葬儀の席で「ガンが憎い」と悲嘆したという。代表作は「毎度お騒がせします」、「野球狂の詩」、「誇りの報酬」、「男女7人秋物語」など。A型。

http://www.youtube.com/watch?v=BEuppn4dtOM

Akagi  赤木圭一郎(1939年5月8日-1961年2月21日 21歳で没)

 1958年、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、「トニー」の愛称(1950年代~1960年代にかけ人気のあったハリウッドスター・トニーカーチスにどことなく風貌が似ていたことが由来)で主人公の弟分や準主役級として出演するようになった。鈴木青順監督の『素っ裸の年令』(1959年)で初主演。その後『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として、“マイトガイ”小林旭、“タフガイ”石原裕次郎に続く「第三の男」と呼ばれた。『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」と評価された。より多忙になる中でステレオやスポーツカー、オートバイなどに趣味を広げ、カーマニアとしても知られるようになった。1961年2月14日の昼下がり、映画『激流に生きる男』セット撮影中の昼休憩時にセールスマンが持ってきたゴーカートを日活撮影所内で運転中、咄嗟にブレーキとアクセル(乗用車とは逆位置)を踏み違え60km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突、慈恵医大病院に緊急入院。一時は意識が戻ったものの、1週間後の2月21日、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。

http://www.youtube.com/watch?v=0H24IuR0IOg

Ohba  大場政夫(1949年10月21日-1973年1月25日 23歳で没)

 WBA世界フライ級王座を合計5度防衛した。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。1965年6月1日に帝拳ジムに入門。1970年10月、世界初挑戦でベルクレック・チャルバンチャイを13回KOに降し、WBA世界フライ級王座獲得。帝拳ジム初の世界王者となった。1973年1月2日、日大講堂で行われた5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイ(タイ)。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け大場はダウン。この時大場は右足首を捻挫、以降ラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながらも打ち合いに応じていった。大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がるが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウト勝利を収めた。しかし1973年の1月25日午前11時22分頃、愛車シボレー・コルベットを運転中に、首都高速5号線池袋線・大曲カーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越えて反対車線に出たところで大型トラックと正面衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの惨状であった。この事故で現役世界王者のまま死去した。

http://www.youtube.com/watch?v=kkRMyUtb0e4&feature=fvst

https://www.youtube.com/watch?v=kkRMyUtb0e4

Takahashitoru  高橋徹(1960年10月6日-1983年10月23日 23歳で没)

 彼は天才と呼ぶにふさわしい自動車レーサーだった。1983年、ヒーローズレーシングからF2とGCの全シリーズに参戦することになった。全日本F2選手権第1戦の予選前に行われた公開練習で、並み居る強豪を尻目に高橋が最速タイムを記録し、関係者の度肝を抜く。更に予選ではいきなり4位、本戦でも最終ラップ、ヘアピンで星野をかわして中嶋悟に次ぐ2位に付け衝撃のデビューを飾る。国内トップ・フォーミュラにおける新人のデビュー戦最高成績を挙げ、一躍トップドライバーの仲間入りをした。5月の全日本F2選手権第4戦「鈴鹿J.P.Sトロフィーレース」に於いては予選で当時の鈴鹿サーキットのコースレコード1分56秒46を叩き出しポールポジションを奪取。これほど速く頂点に上り詰めたドライバーは、日本のレース史上、過去にも現在にも存在しないと言われる。ただし決勝は3位で悲願の優勝は成らず、高橋自ら体力不足を敗因に挙げた。全8戦で行われる全日本F2は前半を終えランキング6位。新人としては決して悪くない位置だったが、デビュー戦で2位を獲った事で周囲もファンも優勝を期待。高橋自身も「1位しか価値がない」と周囲に漏らしていたと言われる。また、富士での事故の直前には、成績が伸び悩んでいた。そんな状況の中で迎えた、10月23日の富士GCシリーズ最終戦「富士マスターズ250キロレース」。高橋は決勝レースでトップを走る星野一義を追走していたが、2周目の最終コーナー立ち上がりでスピンを喫する。車体は木の葉のように舞い上がり、車体上面(運転席付近)から観客席フェンスに突き刺さるようにクラッシュ。マシンやその破片の直撃を受けた観客一人が即死、一人重傷、二人が軽傷を負うという大事故となった。高橋は富士スピードウェイの医務室に運ばれたが死亡が確認された。まだ23歳と17日だった。彼の死後、富士スピードウェイは改装され、高速バンクは姿を消した。私はその3年後の1986年に、彼の死を悼み、友人とバイクでそのサーキット場を訪れ、実際に使用されなくなったコースを歩いてみた。すると傾斜がきつく、とても立っていられないほどバンク角度は凄まじかったことを覚えている。

http://www.youtube.com/watch?v=nxfW638zUyg ← レースの模様

http://www.youtube.com/watch?v=mH-iErDw

http://www.youtube.com/watch?v=CG0pWI8VsSY&feature=fvwrel

Abe  阿部典史(1975年9月7日-2007年10月7日 32歳で没)

 ノリックの愛称で人気があった若き天才2輪レーサーだった。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾った。しかしながら、運命の2007年の10月の或る夕方、川崎市の片側2車線の市道の右側車線を500ccスクーター型バイクで北上中、左側車線から突然Uターンてきたコンビニエンスストア配送用の4トントラックに衝突し、午後8時50分過ぎ、搬送先の病院にて32歳の若さで急逝した。AB型。

http://www.youtube.com/watch?v=IMyliAYs7NU&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=CLDo-msRHWA

Natsume  夏目雅子(1957年12月17日 - 1985年9月11日 27歳で没)

 東京女学館の小中高を卒業。1976年日本テレビ・愛のサスペンス劇場のオーディション486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名(小達雅子)で女優デビューした。1977年、カネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、この時、夏の注目の目玉商品になることで、芸名を本名の小達雅子から夏目雅子へと改名する。またブレイクのきっかけを作ったこの時のCMディレクターが後の直木賞作家で夫の伊集院静であった。なお、このときの撮影ロケ地はチュニジアであった。
 その後、TBSの『すぐやる一家青春記』で二回目の連ドラ出演し、東映『トラック野郎』にも6代目マドンナに抜擢された。1978年、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に出演。日本テレビ系『西遊記』では三蔵法師役を演じて人気を得る。1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。1985年2月14日、舞台『愚かな女』の公演の最中に体調不良を訴え、出演続行を望む本人を何とか説得して、翌2月15日慶應病院に緊急入院した。急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院と共に夫の伊集院は、仕事をすべて辞めて彼女が亡くなるまで母親らと共に看病にあたった。約7ヶ月という長い闘病生活を送りながらも順調に回復し、退院間近の報道もあった矢先であったが、その後、抗がん剤の副作用等が原因とみられる肺炎を併発。8月下旬からずっと高熱を発し、9月8日に突然熱が一時的に引いたが、翌日から高熱を発して意識不明の重体に。1985年9月11日午前10時16分、帰らぬ人となった。まだ27歳だった。彼女の美しさは永遠のものとなって人々の記憶に刻まれ、時々CMなどで彼女の在りし日の姿を偲ぶことができる。B型。

http://www.youtube.com/watch?v=YYD65lRsvBg&feature=related

Matsuda  松田優作(1949年9月21日 - 1989年11月6日 40歳で没)

 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で人気を獲得。1970年代後半から東映セントラルフィルム作品、角川映画作品でアクションスターとして人気を博し、1980年代からは演技派としても認められるようになる。主演したドラマ『探偵物語』など、後進への影響も大きく、男気にあふれ情に厚く、その勇猛な人間性と卓越した演技力から、1980年代を通じてもっとも重要な日本の映画俳優の1人と評価されている。身長185センチの長身でタフなキャラクター・抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、アクション シーンにスタントマンを使わなかった。1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優・吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。1989年(平成元年)11月6日、午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。主な出演作は「探偵物語」、「蘇える金狼」、「家族ゲーム」、「ブラックレイン」、「暴力教室」、「野獣死すべし」など。A型。

http://www.youtube.com/watch?v=Klc27EJgw8g

 さて、ここで一息。一様に言えることは、若くして亡くなるとそれだけ衝撃的だし、その影響力もずば抜けて大きいということだ。 本日20人を一気に紹介するつもりだったが、それぞれに歴史とエピソード、そして伝説があるため、どうしても長くなってしまった。焦らすようで悪いが、今回の記事も前編と後編に振り分けてお送りしたい。本日の10人は、いずれも急死した人が多く、病気ということを世間には伏せていたケースや事故で何の前触れもなくあっという間に命を絶たれた方々である。それだけに世間に与えたショックは甚大であった。だから「運命」という言葉では片付けられないくらい、人生とは儚きものである。本人は死という観念も覚悟もないままに命を奪われている訳で、おそらく死と向き合う時間すら与えられなかったであろうし、志半ばでさぞかし無念であったろう。今も存命ならば、スクリーンを賑わす大スターになっていたとさえ思えてならない。謹んでご冥福をお祈りします。

 記事作成:1/18(火)

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