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2011年2月

2011年2月24日 (木)

華麗なる転身

 1980年代半ばのテレビコマーシャルにこのようなコピーがあった。「普通のOLからある日突然プロゴルファーへ」。これは女子プロゴルフの村口史子さんを取り上げた、実話を元にしたCMだった。駅のホームでどう見ても普通のOLスタイルの彼女が、電車を待つ間、手にしていた傘をクラブ代わりに振ったら、そのままゴルファースタイルに変身するというもの。結構当時はインパクトを与えた。その時代はバブルの絶頂期にあって、今では想像も出来ないくらい仕事が有り余っていた。、脱サラして飲食業を始める人、ベンチャー企業を起こす青年実業家、あるいは株式市場でマネーゲームをする投資家などが増え、転職やヘッドハンティングなどが市民権を獲得し、アルバイトニュースや女性転職専門誌「とらば~ゆ」が創刊され、流行語になるほどだった。そんな飽食で豊かな時代を契機として、華麗なる変身を遂げた方々を今日は紹介したい。 

 村口史子

Muraguchi  東京都渋谷区出身。習志野高校卒業。高校ではバレーボール部に所属するも、スパルタ練習にうんざりして高1で退部。高校卒業後、都内の商事会社に3ヶ月勤め退職し、1985年9月には研修生として千葉カントリー倶楽部に入社した。練習場で空振りをするレベルだったが郡司洋トッププロの下で4年間練習に専念し、1990年春にプロテストに合格した。24歳の時だった。 同年いすゞレディースでツアーデビューした。1991年は6月にサントリーレディスで初優勝を果たした。同年8月には、anクィーンズカップで2勝目をマークした。1994年は3年間守ったシード権を落としたが翌1995年には雪印レディ-ス東海クラシックに統一予選会からの出場ながら優勝した。1999年はヤクルトレディース、中京テレビ・ブリヂストンレディースオープンで2週連続優勝を果たし、続く新キャタピラー三菱レディースでは自己初となる年間3勝目を達成し、初の賞金女王の座に輝いた。そして2004年の最終戦終了後にツアー競技引退を表明した。近年はツアーの解説やリポーターでテレビに登場している。2009年10月四日からは、千葉テレビ放送で自身の冠番組である『村西史子のグッドゴルフ』がスタートした。ハウス食品のCMにも出演した。やはり決断が早いことから転職が多いB型の特徴を継いでいる。顔が市毛良枝に似て、私は好きだった。

CMはコチラ https://www.youtube.com/watch?v=Nu0mbz2Y0kI

 蓮 舫

Renhou  この人ほど劇的かつ華麗な転身はないかもしれない。クラリオンのキャンペーントップモデル(グラビアアイドル)から何と大臣である。アーノルドシュワルツェネッガー並みの変わり身の凄さである。しかも彼女の代名詞ともなった事業仕分けでは、「どうして2番ではダメなんですか」という名文句まで残した。台湾出身で、貿易商を営んでいた父とミス資生堂だった母の子として1967年に生まれた。幼稚園から大学(法学部)までエスカレーター式に青山学院大学で学生生活を送った。芸能界デビューは1985年、17歳の時に出演したNTTのテレホンカードCM。音響機器メーカーのキャンペ-ンガール、「1988年度クラリオンガール」として青山学院大学在学中に芸能界にデビューした。クラリオンガールへの応募理由は、自分が欲しかった車の価格が、優勝賞金と同額であったためである。見事グランプリを受賞し、車も購入した。一大転機は2004年7月、手塚仁雄の誘いで民主党から参議院議員選挙に出馬して初当選を飾った。2007年9月、民主党のネクスト年金担当大臣である長妻昭からの要請で、ネクスト年金担当副大臣に就任。2009年10月には、内閣府が設置した事業仕分けワーキンググループの一つである、農林水産省・文部科学ーうて省・防衛省担当の「仕分け人」となった。2010年6月8日に発足した菅内閣において、内閣特命大臣(行政刷新担当)に就任。2011年1月発足の第2次菅改造内閣では、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)に留任。「公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整担当」から外れ、新たに内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当も兼務することとなった。今や内閣の顔と呼ぶに相応しい活躍である。あのテキパキとした身のこなしやとげとげしい印象はやはり血液型がA型だった。

 美保 純

Mihojyun  彼女は今でこそ清廉なイメージだが、デビュー当時はAV女優だった。でもイメージ的にはPV風の「美や爽やかさ」を追求した映像での出方だった。静岡精華学園高等学校中退。静岡市内のデパート勤務の後、1980年、「ディスコ・クィーン・コンテスト」へ出場して優勝。その後上京して広告代理店でアルバイト中にスカウトされ、1981年、成人映画のにっかつロマンポルノ『制服処女のいたみ』で主演デビュー。1982年『ピンクのカーテン』(にっかつ)でブルーリボン新人賞を獲得。「隣のお姉さん」的なキャラクターで、週刊誌のグラビアなどに登場。人気を博し、デビューから約1年後には一般映画にも出演。『男はつらいよ』でタコ社長(太宰久雄)の娘・あけみ役などに抜擢される。現在も多くの映画、テレビドラマ(『菊次郎とさき』、『クライマーズ・ハイ』)、バラエティ(『Dのゲキジョー』パネラー)に出演し、活躍している。私は彼女の印象は可愛らしい女性だった。テレビドラマ「北の国から」や時代劇にも数多く出演し、演技の幅を広げた器用な資質の持ち主だと思っていた。血液型はA型。
 
 飯島愛

Iijima  飯島愛は、これまで当ブログで紹介してきたが、彼女も美保純と同様、AV女優から華麗な転身を図った一人である。タレントに転身して2007年に芸能界を引退するまでの間、常に一線で活躍しており、一度でもメディアでの影が薄くなった時期のない珍しいタレントである。バラエティー番組に飯島愛がいるだけで番組が成り立つとも大物司会者にまで言わせた存在である。「元アダルトビデオ出演女優」の肩書き(も同然)でデビューしたにもかかわらず、民放テレビに留まらずNHK教育テレビまでも頻繁に出演し、バラエティー番組・コメンテーター・ドラマ女優・作家・ボランティア活動等をこなすマルチタレントとして広く支持を得るという成功をおさめた稀有な例であり、世間のAV女優の憧れの的となっている。血液型はA型。芸能界を引退する表明をして、しばらく経った後に不慮の死を遂げてしまい、残念だった。ご冥福をお祈りします。

 長山洋子

 彼女はアイドル歌手からこぶしコロコロの演歌歌手への難しい転身を図った希少な女性だった。しかも由緒ある津軽三味線の澤田流の名取である。彼女のプロフを紹介すれば、1984年に「春はSA-RA SA-RA」でアイドル歌手としてデビューした。1986年にはショッキングブルーの「ヴィーナスを日本語にしたカバーがヒット。その後女優としての経験も積み、1993年には「蜩」で演歌歌手として再デビュー。1995年には「でもねポーズ」(曲にあわせ、手を広げ振ってみせる仕草)で有名の「捨てられて」がリリースされ、現在の地位を築いた。現在は演歌歌手をメインとして活動しているが、アイドル歌手としてデビューしたこともあって、活動ジャンルは幅広く、芝居では喜劇役者としての側面も見せる。演歌歌手に転じて10年が経った2003暮れに放送された「ザ・ベストテン2003」では、アイドル時代にヒットした「ヴィーナス」をドレス姿で熱唱し、アイドル時代の歌を解禁した。彼女は古典芸能を受け継ぐAB型である。とにかく和服が似合う純日本美人である。

Nagayama Nagayama1 Nagayama2 

 若人あきら(我集院達也)

Wakato  東京都渋谷区広尾出身の歌手・俳優・芸人・声優・作詞家・作曲家・編曲家音楽プロデューサーまで何でもこなすマルチタレントである。やはり血液型はB型。かつての芸名は『若人あきら(わかとあきら)』であった。一本につながったカモメ型眉が特徴。玄制流空手道1級で双節棍(ヌンチャク)も使える。テレビで若人あきら名義で郷ひろみの歌真似を隠し芸としてやったのがうけて、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)などで一躍人気者となり、レギュラー番組も増えたが、全部歌真似番組で歌手としての活動が思うように行かず、このままでは歌マネのお笑い芸人と思われてしまい不本意だと悩み、ノイローゼ気味になり精神科に通院しながらもステージでは明るく装い歌マネを続けていた。だが、それがストレスとなり自律神経失調症になる(当時のマネージャー談)。ところが一九九一年、熱海市の海岸で釣りの最中突然行方不明となり、3日後に小田原市にて記憶喪失状態で発見された。この事件の際、年齢を6歳逆鯖読みをしていたことも発覚している。事件の影響で、若人の名前が嫌になった本人は、イメージを刷新すべく、1993年に「我修院達也」へ4度目の改名(菩提寺の住職に依頼、経文から引用して付けてもらう。改名当初は仕事に恵まれず、通信カラオケの編曲やキャバレー回りをしていた。1999年に映画『鮫肌男と桃尻女』に出演。さらに、アスパラドリンクのテレビCM、SMAPのプロモーションビデオなど石井監督の作品に出演。これが注目されて、スタジオジブリ作品での声優などの仕事が入るようになり、現在は“個性派俳優””怪優”として活躍している。

 そのまんま東

Higashi  彼は先月まで宮崎県知事であった。つまり一国一城の主の夢を自らの努力によって実現したひとりである。彼は、かつては大森うたえもんとコンビを組む「ツーツーレロレロ」という漫才・コントを専門に行う芸人であった。漫才ブームが下火になった頃に登場したため、さほど売れなかった。そしてビートたけしに弟子入りし、「たけし軍団」の一因として下積み生活を行った。日曜日のお昼に放送の「スーパージョッキー」では、ガンバルマンズというコーナーで、熱湯風呂に入ったりして客を笑わせていた。また、講談社に殴り込みをかけて逮捕される一件もあった。それが有名美人女優の「かとうかずこ」と電撃結婚はするは、自らの夢を叶えたいと政治家を志し、早稲田大学に入学するなど猛勉強を重ねた努力家でもあった。そして、故郷宮崎を「どげんかせんといかん」と一念発起し、知事選に出馬して当選し、一期4年を勤め上げた。一階の芸人から県知事というとてつもない大転身を実行して見せた。そして自ら宮崎県の広告塔として東奔西走。トップセールスマン並に全国に宮崎をPRして廻った。そして今、俄に彼の周囲が慌ただしくなってきた。都知事選出馬か国政への転身かで騒がれている。今だから言うが、彼は私の亡き父親に背格好から仕草、雰囲気まで、まるで生き写しである。彼はマイペースで信念を貫き、我が道を行くB型人間である。

 片岡鶴太郎

 「オレたちひょうきん族」にチョイ役や汚れ役で出演し、必死に体を張ってパフォーマンスしていた。「マッチで~す!」と近藤真彦の真似で生きながらえた芸人であった。外見が似ていることから坂上二郎の真似もよくやっていた。「夕やけニャンニャン」の初代司会者として人気を得、その後、生き方を180度転換し、ボクサー免許やセコンドの資格を所有し、若手のプロボクサーのサポートを行ったり、陶芸や絵画の世界でも類い希なセンスを魅せ、芸術家としての地位も確立するまでに至った。俳優としても刑事役やサザエさんの波平役、そして番組の司会まで無難にこなすなどマルチな才能をいかんなく発揮しているスーパーマンである。代表作は他に、「男女7人夏(秋)物語」や「季節はずれの海岸物語」など。バイタリティの塊、さすがO型である。

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 若林正人

Wakabayashi  彼を覚えているだろうか。ヘッドハンティングが持て囃されていたバブル時代に、一流サラリーマンを退職してニュース番組の記者兼コメンテーターになった変わり種だった。彼の経歴は言語を絶するほどである。東京大学法学部を卒業後、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入社。オーストリアのウィーン事務所長など主にドイツ語圏を中心とした欧州畑で活躍したトップエリートだった。その後、脱サラして、久米宏がメインキャスターをして人気があったテレビ朝日系列の『ニュースステーション』キャスター公募に応募、異色のキャスターとして採用された。豊富な経済知識により経済を一般の人にわかり易く解説する「若様経済講座」、各地の夜桜を中継する「夜桜中継」、「金曜コンサート」で活躍し、「金曜コンサート」ではクラシック音楽への造詣の深さを披露した。1992年降板後、テレビ朝日『スーパーモーニング』の司会を務めた他、ABC『探偵!ナイトスクープ』、TBS『怪傑熟女』、日本テレビ『あの人は今?』などに出演。ザルツブルク音楽祭や様々なコンサートの案内役を務めるほか、エッセイも執筆している。現在、ミュージックバード『リクエストアワー 若林正人の大好きクラシック』に出演中。彼の旺盛な知的好奇心と思い立ったらすぐ行動するのは凝り性の代表格B型そのままの性格である。昔のプロフにはB型と出ていた。自由闊達な生き様を見せる人柄は、典型的かもしれない。

 田中義剛

Tanaka  彼は元々は青森県八戸出身のタレント兼泥臭い歌が信条のシンガーソングライターだった。それが今や年商数億円の大ヒット商品「花畑キャラメル」を世に送った酪農家、大実業家である。現在は株式会社花畑牧場の代表取締役社長である。彼のプロフは青森県八戸北高校を卒業後、北海道江別市にある酪農学園大学の酪農学部へ進学し、卒業した。理科(生物)の教員免許を持っており、母校の酪農学園大学では特命教授も務めている。身長184cmの長身だが老眼のため、物を見る時は眼鏡を着用している。転機となったのは1994年で、事務所からの借金により北海道札内村に『花畑牧場』を開業した。開業当初はチーズなどの自家生産に失敗し、出荷したが返品されたこともあった。本人の話によると「カビた商品が帰って来る事もあった」とか。また一時は夢の中にまでカビが出て来る事もあったらしく、カビ嫌いとなったとも話している。未だにカビ嫌いであると言っている為、相当なトラウマがあると思われる。 また借金は合計4億円(2万坪の土地購入資金に銀行の融資が2億円、傾きかけた事業の再生に向けて所属事務所から1億円、損失が1億円)となった。30人いた従業員も続々と辞めて、田中と1人残った従業員の2人だけになり、一時は土地を売却し自己破産を迫られる危機的な状況に陥っていた。土地は査定の結果「資産価値無し」と審査された所、「トムチーズ」というチーズがラーメン屋のトッピングとして使われてヒット。更に「カチョウガヴァロ」というチーズや生キャラメルがメディアに紹介され大ヒット。これら商品群のヒットを以って、花畑牧場ブランドとしての地位を獲得した。現在は年商120億円、従業員も1,500人を超える(2009年6月現在)規模に成長した。山あり谷ありの波瀾万丈な人生を送っている。初志貫徹の前向きさはやはりB型そのものであろう。

 今回のテーマを考えると、職種は変わらないが、今流行の局アナのフリーもまた同様のことが言えそうだ。去年暮れにはフジテレビのイメージガール、高島彩が古巣を退社し、今年は日本テレビの看板アナだった羽鳥慎一と夏目三久がフリーへ転身する。かつては男性アナでは、徳光和夫、小林完吾、露木茂、生野文治、草野仁、押坂忍、森本毅郎、久米宏、大塚範一、小倉智明、生島ヒロシ、福留功男、みのもんた、古館伊知郎、堀尾正明、福澤朗、宮根誠司、山中秀樹、吉田照美が局アナからフリーに転向して成功し、女性アナでも楠田枝里子、田丸美寿々、三雲孝江、勝恵子、大橋照子、雨宮塔子、膳場貴子、小宮悦子、永井美奈子、中井美穂、木佐彩子、有賀さつき、小島奈津子(なぜかフジテレビが多い)、赤江珠緒、古瀬絵理、山本モナなど、いわば「局の顔」だった。女性は結婚・産休を契機に局アナを卒業するケースが多い。個人的には日本テレビを退社した関谷亜矢子さんが好きだった。今後も中野美奈子や西尾由佳里なども売れっ子だけにフリーになる可能性は十分ある。

 しかしながら、こういったケースは芸能界という特異な世界の話である。世間一般論から言えば、この経済情勢と雇用情勢、新卒大学生の就職状況が頭打ちの世の中にあって、そうやすやすとは転職できる訳もない。かく言う私も、昨春に23年振りに大学生に戻り、仕事との両立に苦慮している一人だ。一流大学の名前を有り難がっているだけで、1年経過しても10単位しか習得できていない。やはり卒業まで平均8年かかるというのは、あながちハッタリではなさそうだ。要は自分の心掛け次第なのだが・・・。今回記事に挙げたものは極めて、稀なケースであり、決して手本とは考えないで、参考程度と考えて貰いたい。

 記事作成:2/18(金)

2011年2月23日 (水)

異色のおじさん芸能人

 最近は芸能ネタが多い。別に評論家でもないのに、いろいろごたくを並べている自分に気づく。芸能界は不思議な所で、時々風変わりな人々が時代の寵児として脚光を浴びる。ラジオ番組のコーナーで盛り上がった「なんちゃっておじさん」、「くしゃおじさん」、「エンペラー吉田」、「ピップエレキバンの会長」、「ドクター中松」、「浪越徳次郎」、「綾小路きみまろ」、ちょい悪おじさんの「ジローラモ」など、これまでも数多くの変わったおじさん(おじいさん?)達が時代のスポットライトを浴びて来た。時代が何を求め、何が原因でそうなるのかは不明だが、私も気持ちは若いつもりだが、遂に中年のおじさん世代になってしまった時に、こうしたおじさん世代の台頭や活躍に感化される部分もある。今日はこうした一時期だけでも華々しい活動をした一風変わった登場をしたおじさん達を取り上げてみたい。タイトルは芸能人としたが、一部大学教授などの文化人も含まれていることをご容赦願いたい。

 斎藤清六

Saito_seiroku  昭和55年頃、国民的な番組として「欽ちゃんのどこまでやるの」(水曜日21時テレ朝系)というのがお茶の間の人気を浚っていた。その番組内で黒子として独特のイントネーションと粘りのあるしゃべり方で注目されたのが斎藤清六であった。1971年、萩本欽一に弟子入りを求めて押しかける。しかし、3日間いた後、萩本の一言から浅草修行へ。10年ほどしてから萩本の下に舞い戻り、以降は欽ちゃんファミリー入り。清六の人柄に絆された萩本はバックアップをしていく。以来飾らないボケキャラで、お茶の間を賑せている。とくに『欽ちゃんのどこまでやるの!』「村の時間」のコーナーの仕切り役「たよりないアナウンサー」(番組では「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」のちに「稲穂カットでお馴染みの団栗坊や」と名乗っている)、『クイズ・デレミファドン!』のリポーター「セイロクマン」が当たり役となり、当時の人気お笑いタレントの一員となった(それ以前にも『スター誕生!』のコーナー司会で、ボケキャラ振りを見せていた)。しかし、テレビ番組等のレギュラー出演は1996年以降ほとんどなく、現在では主に単発番組にしか顔を見せていない。血液型はB型。

 たこ八郎

Taco  この人も本職がわからないような変わった人だったが、人の良さからなのか何故か取り巻きや友人が多かった。1940年宮城県仙台市生まれ、1985年(昭和60年)7月24日に亡くなった。コメディアン・俳優で元プロボクサー。本名は斎藤 清作(さいとう せいさく)。プロボクサーとして日本フライ級王者を獲得している。ボクサー現役時の愛称は「河童の清作」。引退後の愛称は「たこちゃん」。ボクサー引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。元々、由利はたこを弟子にするつもりはなく、ボクサー時代に弟子入りを希望してきたたこに、断る口実として「ボクシングでチャンピオンになったら弟子にする」という条件を出し、その時には王者になるとは思ってもいなかったが、実際に日本王者になり、それならと弟子入りを認めたという。芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。いつも酩酊状態(のような演技)で、「たっこでーす」という決まりの台詞と、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。金粉を全身に塗って走ったこともある。この様なTV画面などでみせる姿は、コメディアンとしての彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたといわれる。入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪く、寝小便も度々あったため本人がそれを気にし、家を出て友人宅を泊まり歩いた。受け入れた友人たちも「迷惑かけてありがとう」という彼の素朴で温厚な人柄に触れ、邪険に扱うことはなかった。また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったという。誰からも好かれる芸人であった。そんなたこの面倒をよく見ていたあき竹城は、飲酒が多いことを心配し、彼の世話を良く焼いていた。そのため、「たこの情婦」と言われたこともあったという。人気絶頂期の1985年7月24日の午前10時20分頃、神奈川県の真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴して心臓麻痺により死亡した。享年44歳だった。今で言う不思議キャラだったが、多くの芸能人から愛された人だった。血液型はB型。

 野坂昭如

Nosaka  この方は本職は作家なのだが、多芸であり、政治評論家とも思えるほど、世の中の事象に精通していた。独特な話し方とキャラがウケ、CMにも担ぎ出された。「ソソソクラテスかプラトンか~、ニニニーチェかサルトルか~、み~んな悩んで大きくなった~♪」というウィスキーのCMだった。放送作家としての別名は「阿木由紀夫」(あき ゆきお)、シャンソン歌手としての別名は「クロード 野坂」(くろーど のさか)、落語家としての高座名は「立川 天皇」(たてかわ てんのう)、漫才師としての野末陳平とのコンビ名は「ワセダ中退・落第」。現在は脳梗塞のリハビリを続けながら執筆活動を行なっており、テレビ・ラジオには出演していない。彼の代表作は、1967年の「火垂るの墓」「アメリカひじき」で、直木賞を受賞した。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗り、その体験から既存の右翼・左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。無類の大酒のみで、有名なのは映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪した。そんな奇行奇天烈で、波瀾万丈な生き方をした一人である。他には1963年の「オモチャのチャチャチャ」も彼の作品である。鎌倉市出身で現在80歳。

 日景忠男

Hikage  彼は1980年初頭頃にワイドショーを賑わせた一人。二枚目俳優だった沖雅也の養父兼マネージャーであった。彼はいわゆるオカマ(ゲイ)っぽい女言葉を使い、喋り方に癖があった。女性っぽく手を頬に当て「私はね・・・」というのが口癖だった。衝撃だった沖雅也の京王プラザホテルの外階段からの飛び降り自殺で、遺書に「オヤジ、涅槃で待つ」と書き残されたことから、養父の彼に注目が集まった。見るからに異様d、同性愛の破局の末の 自殺ではないかと憶測が流れた程だった。沖雅也自殺後、暫くは脚光を浴びる存在になったが、服装や装飾品など、普段から派手好みで、保険金目当てだったのではという噂まで飛び出した。そして覚せい剤取締法違反で逮捕されたり、かつての勤務先の社長から現金計150万円を脅し取ったとして、警視庁大崎署に恐喝 容疑で逮捕された。晩年はまさに「転落人生」を絵に描いた生きざまであった。

 安部譲二

Abejyoji  彼もまた波瀾万丈の人生を送っている人であろう。1937年に東京都品川区で出生。祖父は造船技師、父は日本郵船勤務という恵まれた家庭に生まれながら、名門麻布中学2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から暴力団の組事務所に出入りしていたため麻布高校への進学が認められず、慶應義塾高校に進学したが、暴力団との関係のため退学処分となった。その後、本格的にヤクザとなり、刑務所に服役したこともある。1981年にヤクザから足を洗う。1984年、山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化された。以後人気作家としての地位を築く。現在は73歳である。血液型はO型。

 竹村健一

Takemura 京都大学文学部英文学科を卒業後、毎日新聞社の英語新聞Mainichi Daily Newsの記者を経て、1963年に山陽特殊鋼へ入社し調査部長となる。だが1年後に山陽特殊鋼を退社し、以後は追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動に入る。また、並行してテレビ・ラジオでも出演。論調は基本的に保守的で友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価する。パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本で、海外の政治家を「さん」付けで呼ぶことは稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行うことで有名。1980年代の初頭頃にマスコミへの露出度が高く、様々なトーク番組に出演し、弁舌を振るった。物おじしない性格と、我が強く、理論とユニークさを兼ね備えた評論家というイメージが強かった。血液型はB型。

 ウガンダ・トラ

Uganda  グッチ裕三やモト冬樹らと共に、技巧派コミカルバンドの「ビジーフォー」の元メンバー。芸名は、容姿が似ていたウガンダ共和国のイディ・アミン元大統領に由来するが、それ以外にウガンダ共和国との接点はない。最初は余興だったものまねが人気を呼び、いつしかコミックに走るようになってしまった。しかし、1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを解散。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 (テレビ朝日系)、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』(TBS系)、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)などに出演。2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳だった。死因は急性呼吸不全だった。

 志茂田景樹

Shimoda  1940年3月静岡県伊東市出身。中央大学法学部を卒業後、保険調査員、塾講師、週刊誌記者など20種以上の職を転々。1976年、『やっとこ探偵』で小説現代新人賞を受賞、プロデビューを果たす。1980年、国鉄職員だった父が北海道に赴任した際に聞いた話をもとに書き上げた大作、『黄色い牙』で直木賞を受賞。「孔雀警視」シリーズなどのエロティックな官能を絡めた大人のユーモア推理小説をはじめ、大胆な解釈の歴史小説、伝奇小説、人物評伝、スペクタクル小説、ピカレスク小説など、ジャンルを問わない多様多彩な作品世界を構築し、その執筆スピードの速さもあいまって矢継ぎ早に発表して読者の支持を集める。執筆活動の他に奇抜なファッションセンスが注目され、1980年代後半には山本寛斎のファッションショーでモデルを務めたほか、1990年代には、タレントとしてバラエティ番組やドラマ番組に出演したり、ファッションブランド「KIBA」を立ち上げるなどエキセントリックな行動と存在感と名前の通り「過激」なファッションスタイル及び脚線美で注目を集めた。キャラクター性も抜群であり、本人もタレント活動にも積極的で数多くのバラエティ番組、ドラマなどにも出演。『ビーロボ カブタック』出演時には、同作プロデューサーから「あれほどの大作家なのに少しも偉ぶったところがない」と絶賛された。当然出演時の衣装はすべて自前である。血液型はA型。

 八名信夫

Yana  1935年8月、岡山県に手出生した。岡山東商業から明治大学に進んだが中退、プロ野球東映フライヤーズに投手として入団。しかし、試合中の怪我が元で選手生命を断たれ、現役を引退した。東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバー。野球選手引退後、親会社の東映専属の映画俳優となる。俳優転向の理由は、東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博から、「長嶋や王に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」と言われた事がきっかけとのこと。初の映画出演作は『遊星王子』だが、奇抜な衣装を身につけた悪役を演じることを馬鹿馬鹿しく感じ高倉健に愚痴を言ったところ、はじめは役をもらえれば良い方だと叱られたという。ギャングや悪党を専門に演じる俳優集団「悪役商会」のリーダー(会長)。刑事ドラマでのヤクザ・暴力団組長・凶悪犯、時代劇での用心棒・悪徳役人・妖術使いなど多くの悪役を演じた。1990年代、バラエティ番組において「1050回ぐらい殺されたかな~」と悪役を演じ、殺された回数の多さを述懐したことがある。だが、最近は悪役俳優のイメージを脱却し、孫と遊ぶ優しいおじいちゃんの役など個性派俳優としての活躍が目立つ様になっている。青汁のCMにも出演した。血液型はB型。現在は75歳。

 和田 勉

Wada  彼も1980年代に急にテレビへの露出度が高くなった。あの風貌とキャラにして名演出家。世間や番組スタッフが放っておく筈もなかった。幼少期に松阪から鹿児島県に転居し、高校途中まで鹿屋市に住む。早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。1953年にNHK入局。主にテレビドラマのディレクター、プロデューサーとして活躍。『竜馬がゆく』『天城越え』『阿修羅のごとく』『ザ・商社』『けものみち』『夜明け前』ほか、数多くのテレビドラマの演出を担当した。手がけた作品が軒並み賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名を受けたこともある。「テレビはアップだ」の信念のもとにクローズアップを多用した演出で知られた。1987年にNHKを定年退職。フリー以後はフジテレビの横澤プロデューサーからの誘いにより『笑っていいとも!』の月曜レギュラーになるなど、バラエティにも進出。演出業も並行して担当。映画『ハリマオ』は映画監督初作品。出演した日清食品Spa王のCMで披露するほど、ダジャレが得意。出前一丁のCM(東日本のみ)にもアニメで出演した。1994年には俳優養成学校「ザ・ドラマ・スクール」を開校。夫人は衣装デザイナーのワダ・エミ。2011年1月14日、食道上皮ガンのため川崎市の老人福祉施設で死去。80歳。血液型はB型。

 篠原勝之

Shinohara  彼も本業がわかりづらい人だったが、芸術家でもあり、小説家、絵本作家でもあり、タレント業もこなしたマルチだった。自らを「ゲージツ家」と称している。愛称は「クマさん」。来歴は北海道札幌市生まれ、室蘭育ち。地元の高校を卒業後、武蔵野美術大学に進学したが、中退した。血液型B型。趣味は剣道。KUMA's FACTORY(クマズファクトリー)所属。生まれてすぐジフテリアにかかり嗅覚とと左耳の聴覚を失ったと言われている。体にハンデを抱えながらも、芸術家として道を究めた努力家だった。文筆でも活躍し、2009年には『走れUMI』で第45回小学館児童出版文化賞を受賞。スキンヘッドに着流し姿がトレードマーク。愛称の「クマさん」は、本名よりもこちらの名前のほうが浸透している。ビートたけしやタモリと親しく、彼らの番組にしばしば登場する。ビートたけしのことを「ビートの旦那」と呼ぶ、数少ない人物でもある。現在は山梨県にアトリエを建て、創作活動の拠点としている。現在68歳。

 周 富徳

Syu  「今をときめく料理人」と言えば、ケンタロウこと小林健太郎と川越達也シェフ、それにイタリアンの鵜野秀樹であるが、1990年代に流行った料理番組といえば、フジテレビ系列の金曜日の23時台に放送していた「料理の鉄人」だろう。広東料理の料理人。横浜市中区の中華街の出身。通称「炎の料理人」。テレビ番組には「南園」時代から『きょうの料理』(NHK)に出演していたが、1990年代に入り『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)、『わいど!ウォッチャー』(火曜日のコーナー「周富徳の中華指南」、TBS系)、『たいほや』(フジテレビ系)等への出演でブレイクし、全国区の人気となる。「カメラ目線」が話題となった。『料理の鉄人』(フジテレビ系)では大親友でもある初代和の鉄人、道場六三郎との戦いでの活躍も有名である(対戦結果は1勝1敗)。 その後、セクハラ疑惑や脱税疑惑(税金の申告漏れ)でブームは縮小するも、中華料理店を多数経営するほか、各地で講演活動を行っている。以前一流ホテルの料理長の選抜試験を受ける際に、対抗料理人が制限時間目いっぱい使って豪華な料理を作ってたのにもかかわらず、彼は、残りの5分になるまでじっと待ってて、できたて熱々のシンプルな焼飯を作って勝利したエピソードがある。漫画「美味しんぼ」に登場した周大人は彼がモデルだと言われている。血液型はO型。現在67歳にして現役シェフである。

  宮路年雄(元城南電機社長)

Miyaji   城南電機を運営する信光電機創業者。小さな体(身長は154cm)に細部まで聞き取れないほどのダミ声と明るいキャラクターで、多くのテレビ番組にも出演した。和歌山県出身だが、親からもらった2千万円を手に上京。1961年、東京出版事業の下出源七理事長の運転手となったことを機に東京に定住。同年、家電品卸の信光電機有限会社を創業。1968年、世田谷祖師谷に小売部門(家電安売店)の城南電機1号店を出店。1994年3月、前年の記録的な冷夏の影響で全国的に米不足となった際に、秋田県大潟でヤミ米のあきたこまち29トンを買いつけ、店で赤字廉売した。当時の食糧庁は食糧管理法の無許可販売と判断し城南電機に行政指導したが、この一件で宮路は時の人になり、多くのテレビ番組に出演するきっかけとなった。社長業に加えてタレント業をこなす日々を送ったが、1998年5月5日、肺炎のため東京医科大学病院に緊急入院。5月9日死去。69歳。彼の死後、息子が後を継いだが全店舗閉鎖・倒産に追い込まれた。

 他にも様々な方々が一時ブームを呼び、嵐のように去っていった。AV界の異端児・村西とおる監督やライブドアの初代創始者で「ホリエモン」こと堀江貴文、マネージャーや芸能事務所社長という裏方でありながら「ひょうきん族」で彗星のごとく登場した石井光三、「天才たけしの元気が出るテレビ」で入れ歯を外して名物じいさんとなった福島県常葉町在住だったエンペラー吉田(決め言葉「偉くなくとも正しく生きる!」)もそうであろう。また、動物愛好家として名を馳せた畑正憲氏や千石正一氏、あるいは「クイズダービー」に出演したことで名物大学教授(学習院大)となった篠沢秀夫さんやUFOの存在を真っ向否定した大槻義彦教授、さらには戦場カメラマンこと渡部陽一氏もまたこのテーマに嵌る人々であろう。最近では、パパイヤ鈴木や芋洗坂係長などもそうかもしれない。

 以上見てきたように、異色な感じで登場する人は、やはりB型が多い。やはり「変わり者」という印象は否定できないし、やたらと目立つ存在となっている。13人の名物変わり者おじさんを見てきたが、6名はB型だった。不思議な存在だ。芸術分野や芸能分野はやはりB型が脚光を浴びる世界のようだ。「血液型で差別するな!」という声が聞こえてきそうだが、B型ほど傍目に見ていて面白い方達は他にはいない。歳をとれば好きなことをやって一生を終えたいと思うようになって来たが、それを自然体で実行している気がする。今日取り上げた方々の中にはは、既に亡くなられた人もいるが、そういう意味では自分に真っ直ぐ生き抜いたと言えるのではないだろうか。自分自身に照らし合わせて考えれば、本当にやりたいことが出来ているかは疑問だが、そういう生き方を少しは手本としたいものである。

 記事作成:2/18(金)

 

  

2011年2月22日 (火)

一世を風靡したCM ~旧国鉄・JR編~

 昨日コカコーラのCMをお送りしたところ、反響が大きかった。アクセス数も普段より多く頂いた。本日は「一世を風靡したCM」と題したテーマの第二弾。昔から秀逸した内容で好感を持っていた旧国鉄からJRに至るまでの鉄道CMから、特に私が好きだったものをランキング形式で5本紹介したい。

 第1位 「クリスマスエクスプレス」

 これは1988年から1990年代にかけて一世を風靡した「JR東海」の新幹線のCM。「シンデレラエクスプレス」の人気を引き継いで制作された。クリスマス時期になると必ず流れ、「逢うことの大切さ」を演出した最高傑作だと思う。このCMを登竜門として、一流女優の仲間入りを果たした方々である。一作目は深津絵里(1988年)、二作目が牧瀬里穂(1989年)、三作目が高橋理奈(1990年)、四作目が溝淵美保(1991年)、五作目が吉本多香美(1992年)。いずれも彼氏を待つ、乙女心を描写した秀作であった。このようなドラマチックな内容のCMは最近てんで御無沙汰である。

2000年特別編はコチラ↓

http://www.youtube.com/watch?v=ruWiLw0ajdg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=WgGuPL4RALU&feature=related

 第2位 「ファイト!エクスプレス」

 佐野元春の名曲「SOME DAY」をBGMに、「別れと新しい旅立ち」をモチーフにした傑作であった。高校を卒業し、都会へと旅立って行く若者像を描いた。以前は1分間の高画質の完全版がアップされていたのだが、著作権絡みで残念ながら削除されてしまった。これでも当時の懐かしさと共に、時代背景や誰でも経験があるであろう「別れ、そして旅立ち」の記憶が甦って来るのではないだろうか。

 第3位 「ハックルベリーエクスプレス」

 この作品もシリーズ化した。ひと夏を親の故郷で過ごす思春期の少年の物語。冒頭の「また来たよ~」と言って田舎のおじいちゃんおばあちゃんの家に駆け込む場面は、夏休みのひとコマや風物詩を描いていると思う。野山を駆け巡り、海で思う存分泳いで過ごし、ちょっとしたドキドキ感がある。様々な想い出を作り、そしてまた都会へと戻って行く。都会に住む方なら、おなじ経験をしたことがあるのではないだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=kK1jhlFIhwI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=MSxepO6LbO8&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=izdra5QIc2o&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=edQiioDlKzk&feature=related

 第4位 「JR東日本 青森新幹線開業」

 2010年12月に、長い間の悲願が叶い開業した「青森新幹線」。その開業に合わせて新幹線のイメージアップ用に様々なCMが制作・放映された。新米駅員に「三浦春馬」を起用し、ストーリー仕立てでPRを行った。ドラマティックトレインが青森へといざなう。「はやて」からもうじき「はやぶさ」へとバトンが渡る。描き続けた夢と希望を携えて新幹線は新たな第一歩を刻み、みちのく路を駆け抜ける。これは「一世を風靡した」というタイトルにそぐわないが、ストーリー性があって、ほのぼのするような内容に仕上がっていたので、4位にランクインした次第である。これは福島県内では放送していなかった。青森県限定CMだったのかもしれない。

http://www.youtube.com/watch?v=v1q_v4dbk4k&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=WvHD2QavAuY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=c5dn7JcTMXg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=TnY0wXG3jvU&feature=related

 第5位 「旧国鉄~いい日旅立ち・エキゾチックジャパン」

 1978年の山口百恵の「いい日旅立ち」キャンペーンや1984年の「エキゾチックジャパン」などの旧国鉄のキャンペーンで、数多くのCMが制作された。残念ながら単品では「You Tube」にはアップされておらず、バラエティ番組に取り上げられた映像をどうぞ!

http://www.youtube.com/watch?v=ptzAuoyQ1ZE

 JRのイメージアップCMエトセトラ

http://www.youtube.com/watch?v=Bwjh-CzRvPk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=9LONxNa_aFo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=AIDZXj3nO60

http://www.youtube.com/watch?v=BJtS4xlrpek&feature=related 

http://www.youtube.com/watch?v=GBGB_MgFY-8&feature=related

 

 これ以外にも、以前当ブログで取り上げた「JRのSKI」CMシリーズも大好きな作品だった。さて、「旅好き」な私には堪えられない旧国鉄とJRのCMの数々。それぞれの時代を彩った名作がズラリである。そしてJRには各駅ごとに発車のメロディーが異なるのも魅力だし、その時代時代で人生の縮図や場面が散りばめられている。

 とかく駅では出会いや別れ、そして旅立ちなど悲喜こもごもの人生ドラマが演じられてきた。何か特別な感情や思い入れ、寂しさや侘びしさなどがあって、私は大好きな場所である。これからもJRには人生を謳歌できるようなCM制作を期待したいものである。

記事作成:2/13(日)

2011年2月21日 (月)

一世を風靡したCM ~コカコーラ編~

 これまで幾度かテレビドラマやCMに関する記事を取り上げて来た。CMやCFは番組のスポンサーだから、単に販売促進にその取扱商品の宣伝で流しているだけかと思いきや、実はそれだけの目的ではない。制作者の意図として、何か特別な強いメッセージがその裏に込められている。昔から人気の高かったCMに「コカコーラ」があるが、若々しさや初々しさ、人生模様や人にはそれぞれに輝く瞬間があることを教えてくれたものが多かった。数多ある「コカコーラ」のCMシリーズの中で、私が「これぞ!」と思う作品を5編、ランキング形式でお伝えしたい。

 1位 「No Reason ~同窓会編~」

 2001年に、しきりに流れていた私の大好きなCMだった。何か「運命共同体」的な思想を醸し、連帯感や「ひとつになれる」ことを目指していた時期だった。時の流れの早さやその儚さを嘆いている節が素直に表現された作品だった。「こんなに楽しいのに、なんで泣きたいんだろう・・・・。」は本当に泣かせるセリフだった。サザンの「波乗りジョニー」もCMコンセプトとマッチし、最高だった。

  2位  「I FEEL COKE」

 「初めてじゃ~ないのさ~、いつでも~一緒なら~♪今何か~感じてる~コカコーラ~爽やかテイスティー I FEEL COKE~♪」でお馴染みのCM。1987年頃にしきりに流れていた。若々しい青春群像や人生の縮図を見事なまでにCMの中に盛り込んだ作品で、様々な映像シーンが撮影され、季節に応じてシリーズ化して放送された。とにかくコンセプトが爽やか。松本孝美さんやハーフのモデルを数多く起用した。

http://www.youtube.com/watch?v=m_bhJ9NZAUM&feature=related 女子剣道部編

http://www.youtube.com/watch?v=nAibuC4qvFg&NR=1 OL編

http://www.youtube.com/watch?v=hyuN6iHiPpk&feature=related アメフト編

http://www.youtube.com/watch?v=FroYY6k0kB0&NR=1 帰郷編

http://www.youtube.com/watch?v=kTCWeu-I8HU&feature=related 秋編

http://www.youtube.com/watch?v=7ZFwPYMH44w&feature=related 正月編

http://www.youtube.com/watch?v=8E7wp-ZQK-M&feature=related 特集編

http://www.youtube.com/watch?v=XFiccrmQpH8&feature=related 佐藤竹善編

http://www.youtube.com/watch?v=dNyx52DBThc&feature=related 1989編

http://www.youtube.com/watch?v=ZB_JpuiGBno&feature=related 高画質編

 3位 「Yes Coke Yes ~学食編~」

 1980年代初頭に流されたいたCM。やや出来過ぎで現実離れしてはいるものの、こんな大学の学食があったらいいと誰もが思ったに違いない。バブルの初期の頃の作品で、当時は「一気飲み」が流行っていた。若々しさや躍動感を醸し、同族意識や一心同体の風潮が漂い始めていた頃の秀作だと思う。

 

 4位 「No Reason ~五月の午後編~」

 俳優の瑛太が出ていた。とある大学(中央大学?)のキャンパスの外階段で、不意に同級生の女性(奥田恵梨華)から衝動的なキスをされて戸惑う彼。「ココロが求めてる」というタイトルで始まる新鮮かつ衝撃的なCMだった。「私、何で津田君とキスしてるんだろう」という台詞が微妙な乙女の心理を物語っているし、五月という季節も、新たな生活がスタートし、何か新しい刺激を求めている時期であることを如実に描写している。結構吃驚させられるCMだったが、反響も大きかった。このCMから早、10年の月日が流れ去っている。

 5位  「Go Go World Cup !編」

 若かりし香里奈が出演していた。曲はサザンオールスターズの「愛しのミーナ」。これは「2002年日韓ワールドカップ開催」を間近に控え、オフィシャルスポンサーだった「コカコーラボトラーズ」のイメージアップ作戦も絡んでいた、プロモーション的な意図も見え隠れするCMだった。また作風として、当時人気番組だった「あいのり」を意識した作りだった。

http://www.youtube.com/watch?v=7ABJbT7y3_I

 惜しくもランク外になってしまったが、1984年頃のCMで「Coke Is It !」というフレーズがあった。それも躍動感があって好きだったのでアドレス(下をクリック!)だけを紹介したい。特に2分後あたりに登場するCMが大好きだった。
http://www.youtube.com/watch?v=vXbDJ8QfoQU&feature=related

 さて、懐かしんで貰えたでしょうか。以前にも似たようなテーマを当ブログでお送りしたが、コカコーラのCMに限定した内容は初めてである。何か昔のCMは連帯感や仲間意識、絆という概念を最重要課題に考え、CMも内容が濃くて感動させるものが多かったし、共感できるものが多かった。今、しみじみと「あの頃は夢や希望がどこにでも転がっていていい時代だったなぁ~」と感じる。最近はストーリー性のあるものと言えば、「ホワイト家族」くらいしか記憶にない。明日は「旧国鉄とJR」に関するCMをお送りしたい。たぶんご期待に添える内容に仕上がっていると思う。どうぞお楽しみに!

 記事作成:2/12(土)

 

2011年2月19日 (土)

大ブレイクの手前で終わったスター達

 いきなり失礼なタイトルだが、芸能界は「虎の穴」の掟よりも厳しい世界で、流行り廃りが激しく、一年後には芸能界にはいないということも現実的にあるかもしれない。有名な俳優や歌手であっても、一体いつ引退したのかわからないような方々は大勢いる。例を挙げればキリがないが、渋谷哲平、伊藤政則、竹本孝之、長江健次、木村一八、新田純一、真木蔵人、加藤晴彦、ケインコスギ、根津甚八、二谷英明、露口茂、松尾嘉代、中島ゆたか、宇都宮雅代、結城しのぶ、篠ヒロ子、伊藤さやか、中原めいこ、生田悦子、斎藤ゆう子、細川ふみえ、斎藤友子、木村理恵、山本みどり、吉川十和子、東てる美、夏純子、佳那晃子、木内みどり、三浦リカ、竹井みどり、竹田かほり、山口美江、兵藤ゆき、篠原ともえなどは一時期、飛ぶ鳥を落とすような勢いで随分とテレビやドラマに出ずっぱりだった。それが知らないうちに、すっかりご無沙汰かあるいは登場回数がめっきり減ってしまっているように思える。
 また、残念なことに、堀江しのぶ、岡田由希子、可愛かずみ、飯島愛や早乙女愛、清水由貴子、古尾谷雅人、高橋良明、沖田浩之、尾崎豊など、若くして亡くなってしまった人達もいる。彼等・彼女たちは一時期であっても、トップスターとして輝いたからまだいいほうで、下積みだけで一花も咲かさず、蕾のまま散ってしまったスター達も数知れずいる。今回は華々しいデビューを飾りながら、一時のブームで去ってしまった歌手やグループを紹介したい。ファンだった方には申し訳ないが、憤慨したり、気を悪くしないで読んで頂きたい。なお、リンクした動画映像は、予告無く削除されている場合があります。ご了承ください。

 「コスミック・インベンション」

 日曜夜6時放送のNHKの「レッツゴーヤング」に出演して話題になった近未来感覚のバンドだった。シンセサイザーのキーボードや電子ドラムなどを駆使し、アップテンポの軽快なテクノ調の演奏を繰り広げ、一時期は日の出の勢いだった。そして特筆すべきはメンバー全員が中学生だったこと。新しい音楽の到来を予感させ、私はとても期待していたが、YMOの二番煎じ的な扱いで、結局2~3曲で終わってしまった。中学生なのに卓越した演奏技術を持っていて、実にもったいなかった。女性のドラマー(森岡みま)がボーカルという珍しいスタイルで、かなりハードな“弾き語り”を披露していた。メンバーの6人は以下の通り。

Cosmic_invention1 Cosmic_invention2

 ・森岡みま(カッパ)(1967年生まれ):ボーカル・ドラム
 ・井上能征(ビーバー)(1966年生まれ):トップキーボード
 ・佐藤克巳(オウマシャン)(1965年生まれ):セカンドキーボード
 ・橋本かんな(カンナ)(1966年生まれ):ベースキーボード
 ・安藤聖己(イヤミちゃん)(1967年生まれ):ストリングス・オーケストラ 元メンバーで、1981年に脱退した。

 代表曲
 ・YAKIMOKI:1981年3月に発売されたレコードデビュー曲。
 ・コンピューターおばあちゃん:NHKの「みんなのうた」で著名な曲。「あなたのメロディー年間優秀作品コンテスト」でオリジナル版を歌っている。
 ・ひこうき雲:後に志賀真理子によってカバーされた。

 アイドル夢工場

 夕やけニャンニャンのひと夏のイベント「夢工場’87」から誕生したおニャン子クラブの妹分としてデビューしたのだが、衣裳もメンバーも楽曲(アドベンチャードリーム)も良かったのに、何故かパッとしないまま一曲で終わってしまった。当時は「夜のヒットスタジオ」に出演するなど破竹の勢いがあった。7人組のアイドルグループ構成で、メンバーはいずれも1987年のミスマガジンの準グランプリ、各賞入賞者から成っている。可愛らしさは皆折り紙つきのアイドルだったのだが・・・。特に解散宣言があったわけではなく、2曲目の発売が無かったため(期間限定ユニットであったためと言われている。)自然消滅した。こちらも実に勿体ないアイドルグループだった。メンバーは以下の通り。

Idol_yumekojo Idol_yumekojo2

 ・仲地さより・・・第6回ミスマガジン準グランプリ
 ・太田千秋
 ・桜川佳世・・・1986年8月10日に行われた「ミス・セブンティーンコンテスト」で「夕やけニャンニャン賞」を受賞した。
 ・時田成美・・・女優として『赤いシュート』や『青春オーロラ・スピンスワンの涙』など、いくつかのドラマや映画に出演している。
 ・村岡英美
 ・安原万里子
 ・渡辺恵

http://www.youtube.com/watch?v=17HWTtgZzMA

 中原理恵

 デビュー当時は宝塚の男役を彷彿させるようなショートヘアーでムード歌謡風の黒いイブニングドレスに身を包み、1978年に大ヒット曲「東京ららばい」を引っ提げて颯爽とブラウン管に登場した。年末には、第20回日本レコード大賞新人賞など数々の新人賞を受賞し、第29回NHK紅白歌合戦にも「東京ららばい」で出場。第二弾「ディスコ・レディー」も大ヒットとなり、歌手として華々しいスタートを切る。曲調に合わせて、落ち着いた年齢という印象を与えたかったのか、女性にしては珍しい2歳年上に鯖読んでいた。彼女は特異な才能の持ち主で、バイタリティに満ちていて芸人としての資質も備えていた。それが萩本欽一のフォローもあって、月曜日の21時放送「欽ドン!よい子悪い子普通の子」(1981ー1982年)のお母さん役で開花し、その中のコーナー「良い妻悪い妻普通の妻」を一人で演じきるなど数々のアドリブで笑いをとり、お茶の間の人気者となった。彼女のプロフは、1958年6月17日生まれ。現在52歳。出身は北海道函館市。遺愛女子高校卒業。身長160cmのスレンダー美人だった。血液型はO型。

Nakahararie Nakahararie2

 今回の主旨とは外れるが、彼女は十分メジャーだった。でも活動時期が思いの外短かったということで、今回は掲載させて頂いた。それでは「東京ららばい」を動画でどうぞ!

  BaBe(ベイブ)

 BaBe(ベイブ)は、1980年代後半に活躍した日本の女性デュオ、タレントである。所属 事務所はエスワンカンパニー。 1987年、流行だったユーロビートのカバー曲「Give Me Up」でデビュー。ダンスを踊りながら歌うスタイルで、色白で奔放な性格の近藤と、色黒でしっとりと淑やかな性格の二階堂というキャラクターの組み合わせであった。洋楽のカバーを多数リリースしてヒットしたことでも知られたが、1990年には解散。表記は "BaBe" が正しく、"Babe"、"BABE" は誤り。(以上 Wikipediaより)。私は洋楽のカバーばかりだったのであまり好きではなかったが、兄貴がファンで、今は無き8cmCDを数枚所有していた。メンバーは・・・
近藤智子(こんどう ともこ、1968年2月17日- )東京都狛江市出身 愛称「こんちゃん」
二階堂ゆかり(にかいどう ゆかり、1967年8月29日- )東京都武蔵野市出身 愛称「にかちゃん」

Babe1 Babe2

 1987年、「I Don't Know !」で、第29回日本レコード大賞新人賞、第14回FNS歌謡祭最優秀新人賞、銀座音楽祭最優秀新人賞、全日本歌謡音楽祭新人奨励賞、輝け! 第18回日本歌謡大賞放送音楽新人賞を獲得。しかし、1990年に二階堂の妊娠・結婚によって解散となった。BaBeは一時期、破竹の勢いでCDの売上も順調だったが、コンビ解散によって2年程度の活動で幕引きを迎えてしまった。1990年代のダンスブームの前に、これほどのパフォーマンスを見せていた希少価値が高いユニットだった。

 ひかる一平

Hikaruippei  本名は谷口 一郎、私と同い年の1964年5月生まれ。東京都大田区大森出身の俳優である。元々は、ジャニーズ事務所に所属した男性アイドル・歌手であった。その後「サードプロデュース」を経て、「クロスポイント」に所属。堀越高校卒業。身長172cm、血液型は見るからにO型。姉がジャニーズ事務所に一平の履歴書を送ったことで芸能界入り。事務所の社長・ジャニー喜多川から、本名が地味だという理由で“ひかる一平”と命名される。1980年、高等学校1年生の時に、テレビドラマ『3年B組金八先生(第二シリーズ)』ので俳優デビュー。1981年5月に「青空オンリー・ユー」で歌手デビュー。以降、1980年代前半はアイドル歌手として活動した。1981年、「第8回FNS歌謡祭」最優秀新人賞候補にノミネートされた(受賞したのは同じ事務所の近藤真彦)。私が彼に関しての印象に残る出来事は、ラジオであった。夜23時過ぎからの「ひかる一平の恋のサインはSHE-SAYS-DO!」 (シー・セイ・ドゥー、1981年4月 - 1982年3月、ニッポン放送)であった。よく聴いたものだった。資生堂の単独提供。この番組が縁で同社の「シャワーコロン」のCMに出演することになった。ファンには悪いが、一時期女性ファンを中心に盛り上がったが、そのブームが長くは続かなかったという点で掲載したことをお断りしておきたい。あまり「You Tube」にはこれといった映像が残されていない。

 LAZY(レイジー)

 このバンドも熱狂的な女性ファンを生みだした。しかし、現在はメンバー5人中、2名が亡くなっている。

 ボーカル:Michell(景山浩宣) 再結成後はアコースティック・ギターも担当。血液型A。
 ギター:Suzy(高崎晃)血液型はA型。
 ベース:Funny(田中宏幸)2006年、急性心不全のため46歳で逝去。血液型はO型。
 キーボード:Pocky(井上俊次)
 ドラムス:Davy(樋口宗孝)2008年、肝細胞ガンのため49歳で逝去。血液型はA型。

Lazy

 1977年6月、デビューのため大阪から上京。7月、デビューシングル『Hey! I Love You!』を発売。本来はハードロック志向のバンドだったにもかかわらず、制作サイドの意向により「ベイ・シティ・ローラーズ」のようなイメージを要求されることになり、ニックネームとお揃いのコスチュームを与えられた。この方針はメンバーを困惑させることになった。しかし、「売れれば好きなハードロックができる」との説得を受け、これに応じることになる。景山は後に「生き残るということを考えれば(アイドル路線は)妥当なものだったと今なら思えるが、当時はショックの方が大きかった」と語っている。1978年、3rdシングル『赤頭巾ちゃん御用心』がオリコン32位にランクインし、レイジーの名を一躍有名にする。しかし、自分たちが望まない路線でのヒットはメンバーの複雑な思いをさらに強くするものであった。彼等は「やりたい音楽」と「求められる音楽」のギャップを感じ続けていた。1980年7月から始まったツアー「DOMESTIC TOUR IN SUMMER」で「ヘヴィー・メタル宣言」が行われた。これは彼等が「本当にやりたい音楽」をやるための、宣戦布告とも呼べるものだった。

 さて、懐かしい方々も登場したかもしれない。タイトルがちょっと過激で「彼(彼女)はどうみてもメジャーだっただろう」と憤慨されている方も大勢いることだろう。その辺は個人の主観の問題なのでご容赦願いたい。しかしながら、「人間って怖い」と思うのは、一時のブームで持ち上げられて持て囃されるのはいいのだが、それが1年も続くと飽きられ、見向きもされなくなる点だ。ついこの前まで若手漫才ブームがあったのに、人気に翳りが見え出すと「エンタの神様」や「レッドカーペット」などその手の放送が打ち切りとなってしまう。世知辛い世の中だ。したがって、現在ブレイクしている「渡辺陽一」や「楽しんご」、ちょっと前に中高年のアイドルとして祀り立て上げられ、3~4年ぶりに再ブレイクした「綾小路きみまろ」も、いずれは「過去の人」になってしまうのかも知れない。されど、いずれの場合も、一時期「飛ぶ鳥を落とす勢い」でスターダムにのし上がることを夢見て活躍していたことは間違いない事実だ。私達はトップスターにはなれなかったものの、その時代のスターとして私達の記憶の中にしっかりと刻み込まれていくことだろう。

 記事作成:2/18(金)

 追記

 当記事をご覧いただいた方から、「表現に不快を与える不適切な部分がある」とのご指摘をいただきましたので、一部訂正させて頂きました。

2011年2月 7日 (月)

「未来日記」~珠玉の純愛ドラマ~

Mirai 「未来日記」を覚えているだろうか?1998年から2002年までTBS系列で放送されていた「ウンナンのホントコ」の番組内で放送されていた人気コーナーであった。水曜日の夜9時からの放送で、素人参加型の「純愛」をテーマにしたドラマ仕立ての構成であった。内容は、見ず知らずの一組の男女が出会って、脚本通りに恋愛ストーリーを展開していく中で、本当の恋愛感情が芽生えるかというのを実験的に検証して行く「仮想恋愛ドラマ」と言うことが出来た。これは恋愛バイブル的な存在となり、若者を中心に大好評を得、シリーズ化した。テレビ版は9作品、そして劇場版(映画)まで制作された。このドラマは文字通り本になり、またそれを実体験できるアトラクションが東京ドームシティにオープンするなどの大反響があり、一時大ブームになった。カップルはそのロケ地を巡るのが一種のステータスになったりしたものだった。よく女の子は、恋愛成就のためにジンクスやゲン担ぎ、占いやおまじない、ラッキーアイテムや御利益などを重要視するが、そういった女の子ウケするようなシチュエーションがストーリーのあちこちに鏤められていた。そして出演者は、もちろんセリフ は各人の自由だが、相手が誰になろうとも、必ず恋愛日記に書かれた指示や指令通りに行動しなければならない決まりだった。中にはひとりの女性を巡って三角関係の熱きバトルが展開されたり、外国からの企画参加もあった。主なタイトルとストーリーは以下のようなものだった。(Wikipedia参考)

    未来日記 Ⅰ 「ラブリング」
 ・構成:全3話 脚本:いとうせいこう

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 http://www.youtube.com/watch?v=I8erBkNxUlM&feature=related  

  未来日記Ⅱ 「どぶねずみ」
 ・構成:全4話 脚本:東野幸治 主題歌:THE BLUE HEARTS『リンダリンダ』
  テーマは「もてない男の奮闘」。男性はそれまで交際経験が一切無かった。そしてこのシリーズだけが唯一「失恋ドラマ」で終わってしまった作品である。

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 http://www.youtube.com/watch?v=yDhav69oOns&feature=related

  未来日記Ⅲ 「3人のクリスマス」
 ・構成:全6話 脚本:内村光良 主題歌:サザンオールスターズ『TSUNAM I』         
  テーマは「三角関係」。親友である男性2人と、女性1人の計3人による物語。
  出演者の青谷桃子は広島カープの広瀬選手と結婚した。最終話のラストシーンは感動的だった。新宿駅南口の前でオーロラビジョンに二人が映し出され、そこでラブシーンを演じた光景は、周囲の観客の拍手喝采を浴びたことを覚えている。まさしく映画のワンシーンを素人の二人が最後まで演じきった。そしてBGMで初めて流された『TSUNAMI』の存在を世に知らしめる名作となった。当ブログで公開した詩「首都高速環状線~C1の愛~」は、このストーリーをモチーフにして私が作ったものであった。

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 http://www.youtube.com/watch?v=yHJh1vr26_g&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=-7Vs6THG7mw&feature=related

  未来日記Ⅳ 「恋はミラクル」
 ・構成:全4話 脚本:原千晶 主題歌:サザンオールスターズ『TSUNAMI』
  テーマは「女の子の献身的な純情」。
  この回は始まりは赤い糸をたぐっていく所から始まった。ロケ地は浅草の「花屋敷」だった。

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 http://www.youtube.com/watch?v=AUzTBssrtqg&feature=related

  未来日記Ⅴ 「スケッチブック」
 ・構成:全8話(第一部4話、第二部4話) 脚本:南原清隆
  主題歌:福山雅治『桜坂』(オリジナル楽曲)
  テーマは「言葉の壁」。日本人男性と台湾人女性との、国境を越えた恋の物語。言葉の通じない2人がスケッチブックを用いてコミュニケーションをとっていく。第二部(最終話を除く)は台湾でロケが行われた。思い出の場所で2人は出会うのか・・・。

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http://www.youtube.com/watch?v=w_EdbDdl3Gk&feature=related

  未来日記Ⅵ 「虹になりたい」
 ・構成:全5話 脚本:いとうせいこう 主題歌:TUBE『虹になりたい』(オリジナル楽曲)
  テーマは「愛と夢の選択」。ミュージシャンを目指す男性と、それを応援する女性の物語。最後は彼が夢(音楽活動)と愛(彼女)の2つからの選択を迫られ、片方を選んだらもう片方を捨てなければならなかった。七色のミサンガがキーアイテムとなっていた。

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 http://www.youtube.com/watch?v=NvJMEIyV-qk&feature=related

  未来日記Ⅶ 「Summer Days」
 ・構成:全8話 脚本:優香 主題歌:GLAY『とまどい』(オリジナル楽曲)
  テーマは「4人の男女の夏物語」。男性2人、女性2人の計4人が海岸で出会い、海の家を経営していく中での恋物語。2組のカップルが生まれる。舞台は千葉県。

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 http://www.youtube.com/watch?v=T-ivJeno4Pc&feature=related

  未来日記Ⅷ 「choice」
 ・構成:全8話(第一部5話、第二部3話) 脚本:南原清隆
  主題歌:松任谷由実『幸せになるために』
  テーマは「元彼と新しい彼との狭間の愛」。女性1人と、女性の元彼、新しい彼の3人による物語。元彼はオーディションではなくスタッフからの直接の依頼によって出演。「choice1」「choice2」の二者択一の未来日記が頻繁に登場することが特徴。20世紀(2000年)から21世紀(2001年)にまたがってロケが行われた。

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 http://www.youtube.com/watch?v=dK3T_X-K9bA&feature=related

  未来日記Ⅸ 「Secret Love」 
 ・構成:全5話 脚本:内村光良 主題歌:Noyori/李浩『Secret Love〜秘密的恋情〜』
  2002年、『ウンナンのホントコ!』終了直前に放送された最後の『未来日記』。日本人男性1人と、日本人女性、香港人女性(シャーメイ・リー)の計3人による物語。まず日本人の男女が選出された後にストーリーが構想され、追加の出演者として香港人女性が加わることになった。テーマは「秘密の恋」。日本人女性は最初の1日しか恋することを許されず、その後は男性と香港人女性との恋のサポート役をしなければならなくなる。このまま日本人女性は恋をできずに終わっていくのだろう・・・か?ロケの大半は香港で行われた。シャーメイ・リーは現在女優として香港で活動中。

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 http://www.youtube.com/watch?v=O7dGixRkMFQ&feature=fvw

 http://www.youtube.com/watch?v=g1PZiYUCFv0 ←テーマソング(名曲です)

  未来日記  映画版
 ・
主題歌:GLAY『SPECIAL THANKS』(オリジナル楽曲収録)
  テーマは「都会の男の子と田舎の男の子」。島根県隠岐郡西ノ島にてロケが行われた。島根県隠岐西ノ島。自分に自信が持てない都会の女子高校生・佐藤友香と、人に必要とされているか不安を抱える都会の男子高校生・鶴野太朗は、未来日記に導かれ、あるバス停で都会にコンプレックスを持っている島の男子高校生・三島邦起と出会う。3人は、それぞれにこの夏の目標を立てる。三島は島の伝統行事である徹夜相撲をやり遂げることを、佐藤は島に伝わる踊りをマスターし夏祭りで披露することを、鶴野は丘一面にヒメヒマワリの花を咲かせることを。そして、3人の恋物語が始まった。佐藤にほのかな想いを寄せながら、日記によってふたりの恋のサポート役に回らねばならない三島。そんな彼の気持ちを知り、日記によって東京へ帰ることを選択する鶴野。また、三島と鶴野の間で気持ちが揺れ動く佐藤。やがて、3人に別れの時がやってくる。ヒメヒマワリの花こそ咲かせることは出来なかったものの、徹夜相撲をやり遂げた三島、夏祭りで踊りを成功させた佐藤。この夏の経験を通して成長した3人は、最初に出会ったバス停で永遠の別れをする。だがその後、最後の日記が佐藤に渡され、三島と鶴野とのそれぞれの待ち合わせ場所が告げられる。佐藤が向かったのは、鶴野との待ち合わせ場所だった。

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 私は映画版(劇場版)は見なかったが、テレビで放送された回は欠かさず毎週見ていた。特に好きだったのはシリーズ3作目で「TSUNAMI」がBGMとして使われて大好評を博した「3人のクリスマス」と4作目の「恋はミラクル」、そして人気を不動にした5作目の台湾出身の女性が登場した「スケッチブック」だった。ロケで桜坂が使われ、警官役で福山雅治が出演した。番組当初は、モテない男の子を救済するために恋愛チャンスを作るための場だったのだが、あまりの反響と高視聴率を連発し、シリーズ化することとなった。ストーリーでは、ラストシーンは必ずハッピーエンドではなく、番組上だけで成立する夢物語的な要素が強く、お互い別れて離れ離れになる段取りとなっていた。そして、出演中に絶対に内緒でメルアドや連絡先を交換してはいけないルールだったため、番組終了と共に出演者はそのまま別れることを余儀なくされていたのだ。だから、両者が気に入って両想いになっても番組の構成上、二度と会えないことになる。しかし、あまりにも未練を残したまま「不完全燃焼」で終わってしまい、視聴者からの大反響があったことから、その数日後、出演者本人に追跡取材を行い、番組に出演してみての感想を聞いたり、お互いの印象を尋ねたりした模様を放送した。そこでお互いの気持ちが変わらなかった場合、その真実の愛を確かめる目的で、「未来日記その後」を放送した。そして二人がどういう結果になったかをスタジオに登場して貰って報告するスタイルを取った。この「未来日記」は、若者のバイブル的存在となり、BGMとして使われた「TSUNAMI」や「桜坂」は200万枚を超えるダブルミリオンセラーを記録した。しかし、爆発的な人気絶頂の中、視聴者の誰も予想だにしなかった突然の放送打ち切り。ファンはガッカリした。思いもよらぬ大ブームを生んだことで、「所期の目的を達成できた」というのが番組サイドの発表だった。世代的に25歳以上の人なら一度は見ていると思われるので、今回の掲載で「若かりし日の想い出」に浸ったり、懐かしんで貰えたら幸いだ。残念ながら著作権が厳しく、「You tube」の映像は各回の第一話(初回)のみのアドレスを掲載した。クリックすれば懐かしい映像を完全視聴できますが、個人の責任においてどうぞご覧ください。更にもっと見たい人は、全編ビデオ化されているので、そちらをご覧あれ!

 記事作成:2/7(月)

 追記
 この作品は、本日執筆して完成したばかりの出来たてホヤホヤの記事である。本当は明後日の水曜日に公開する予定だったが、自分も書いているうちに妙に懐かしさを覚え、早くアップしたい衝動に駆り立てられてしまい、急遽掲載を決定した次第である。

2011年2月 2日 (水)

性同一性障害からの脱却

 始めに断っておきたいが、今回の記事は否定的な見解を述べたり、偏見を煽るために掲載するものではない。「性同一性障害」で悩み苦しんでいる方々を理解し、肯定的にとらえ、同じ地球に暮らす同じ人間である彼等の人権を尊重すると共に、寛容の眼差しで温かく見守っていきたいという趣旨から記載するものである。

 今から10年ほど前、昼下がりの番組「ごきげんよう」にゲストで「オール阪神・巨人」が出演した時のこと。冒頭のフリートークで、ボケ担当の阪神さんが、交差点で停車中に後ろから車で追突された時の話をした。すると相手方のドライバーが、いわゆる「おネェことば」を話す人だったらしい。今でこそ人権保護団体から差別用語としてクレームが付いて用いられなくなったが、当時使われていたのは、このような人を「オカマ」と呼んでいた。そしてその話自体は、「オカマにオカマを掘られた」というオチだったのだが、プロの漫才師である阪神さんはそれだけでは終わらず、「やっぱりオカマにも運転免許証は必要なんでしょうかね?」と無茶振りを司会の小堺一畿に差し向けた。すると、それにピンと来た小堺がすかさず反応。「そりゃおかまいなしという訳にはいかないでしょうね」とあいの手を入れた。そこで会場の客が爆笑したという話。つまりオカマとお構いなしのダジャレだったのだが、今回のテーマを述べるにあたって、昔聞いた話を思い出した次第だ。

 最近では、おネェ言葉を話す人や、「オカマ」っぽい人は、特に芸能界を中心として別段珍しいことではなくなったが、かつてはそれをカミングアウトする人など殆どいなく、もし身近にそういう雰囲気の人がいれば、大きな話題に上り、好奇や異質な目が注がれたり、ともすれば変人扱いされた時代だった。もちろん「性同一性障害」などという病名はなかった訳で、そういう節の人は、人知れず悩み、深刻な葛藤に苛まれていたに違いない。そして30年以上も前から、そういう方々は主に芸能界や水商売の世界で活躍していた。古くは先駆けと言っていいだろう「カルーセル麻紀」さんやピーター、更には美川憲一さん、おすぎとピーコもそうだった。しかし、「体は男だが、心は女」(昔の「オカマ」)やまたはその逆パターン(「オナベ」)がれっきとした疾病であると一般庶民が理解するまでには相当の時間を要した。生まれながらにしてそういうことで違和感を覚えた人も意外に多く存在しているということである。20年ほど前には「ミスターレディー」や「ニューハーフ」なる新語まで誕生し、少しずつ市民権を得、そういう雰囲気を持った男女(おとこおんな)が自己主張の場や機会を手にしたことで一気に増え、巷に「オカマバー」や「ショーパブ」など、水商売でもそれ風の飲み屋が多数登場するほどだった。

 では、そもそもこの病気はどんなものなのか、「Wikipedia」の記事を参考に調べてみた。性同一性障害(せいどういつせいしょうがい、Gender Identity Disorder, GID)とは、『生物学的性別(sex)と性の自己意識(gender identity、性自認)とが一致しないために、自らの生物学的性別に持続的な違和感を持ち、自己意識に一致する性を求め、時には生物学的性別を己れの性の自己意識に近づけるために性の適合を望むことさえある状態』[1]をいう医学的な疾患名。日本の性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律では、同法における「性同一性障害者」の定義を、『生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。』としている。岡山大病院ジェンダークリ二ックの中塚幹也教授(産婦人科)によると、原因ははっきり分かっていないが、胎児期に外部からのホルモンに曝されるなど、何らかの原因で体の性とは異なった方向に、脳の性分化が進んだという説(ホルモンシャワー説)が知られている。家庭での育て方の問題ではなく、いくら説得しても「男(女)らしくしろ」と叱っても、精神療法によっても、心の性は変えることが出来ないとされている。身体の性への違和感がある人や、そう見られる人の割合を各地で調べた調査に基づき、「1000人に1人、大きな学校だと全校生徒中に1人くらいはいる可能性もある」と見られる。症状としては、ジェンダー・アイデンティティと反する生物学的性別を持っていることに違和感、嫌悪感を持つ。間違った性別の身体で生まれたと確信する。陰茎や精巣、月経や乳房に嫌悪を抱いたり、取り除くことを希望する。生物学的性別と反対の性、自身のジェンダー・アイデンティティと一致する性への、強く持続的な一体感、同一感。日常生活や社会においても、生物学的性別とは反対の性役割をおこなう。実際に性同一性障害を有する者は、幼児期や児童期の頃からすでに何らかの身体的性別への違和感、ジェンダー・アイデンティティに一致する性への一体感を覚えることが多い。性同一性障害を抱える者それぞれに個々の境遇や心境などがあるため、さまざまな経緯や状態がある。生来から常に身体的性別としての扱いや役割を求められる環境にあったため、その身体的性別に応じた男性性または女性性の一部を身につけている場合がある。より社会へ適応するため、あるいは違和感や嫌悪感から逃れるために性自認を抑え込み、身体的性別に応じた過剰な男性性または女性性の行動様式を取ろうとする場合もある。自身が反対の性の容貌や外性器を持っているという確然たる事実や、当然のように身体的性別で扱われる環境にあって、姿形の見えない性自認はそれだけでは不安定であるため、性自認に基づく男性性または女性性の行動様式を過剰に取ろうとする場合もある。性自認に基づく性別の実生活経験が無かった故に、性別移行の始めは不慣れであったり不自然であったりする場合がある。性自認に揺らぎがある場合もある。当初は本人自身も同性愛と混同したり、異性装と認識してその後に自身の性自認が明瞭となることもある。性同一性障害は、自身の身体への強い嫌悪感、日常において常に反対の性役割を強いられる等の精神的苦痛から、鬱病、摂食障害、アルコール依存症、不眠症などの合併症を患うことがある。

 先日、性同一性障害で苦しみながら、自分の本当の気持ちをカミングアウトした「佐藤かよ」さんについて記事を書いたが、彼女もまた、あれだけの美貌の持ち主であると同時に、声までも女性そのものである。ひょっとすると本当の女性よりもずっと女らしいかもしれない。歌舞伎の世界で女形を演じる俳優は、女性以上に女性らしい仕草を研究しているし、気配りや話し方、目付きまでも女性のそれ以上かもしれない。最近では男女を問わずこうした「女っぽい男」や「男っぽい女」がやたら目につくようになった。男でも身だしなみやファッションに気を配り、美容室に通う若者やピアスや化粧までする男性もいるようだ。一方、我が街郡山では、近所のスーパーでも、寝起きのダボダボのスエットの上下に髪はボサボサ。寝ぼけた面構えですっぴんで買い物をしているギャルまで出没するようになった。「世も末か」と見ているが、男性以上に同性に嫌がられるのではないかと思ってしまう。ただ本人達は周囲のそうした冷たい視線を我れ感せずという風で意に介す素振りはない。貪欲なまでに女性らしさを追求する彼等の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいである。

 日本に限らず社会構造の変化、そして多様化が、このような大きな変化をもたらしているように思える。これは恐らく、過度のストレスなどによって、男女が本来持っているホルモンバランスが崩れ、女性でも声の低い人がいたり、毛深い人が増え、男より乱暴できつい言葉遣いを平気で話す女性も増えた。事実、男以上に男っぽい性格の若い女性もやたらといる。これは男女同権が当然の世の中で、女性の社会進出により、男勝りの仕事をバリバリこなす女性が急増し、実際女性の管理職も多くなっていることでも理解できる。しかし、これらは長いスパンで物事を展望しようとすれば、こうした変化はあまり歓迎できない。日本があまりにも欧米化し、ライフスタイルだけでなく、思考や気質までもどんどんアメリカ人並みになってしまい、日本人らしさが急激に失われていく危惧をどうしても抱いてしまう。

 さて、話は変わるが、最近は綺麗な元男子が芸能界やモデルとして活躍している。2009年、タイで行われた『ミス・インターナショナル・クイーン 2009』に再挑戦し、優勝した「はるな愛」も人気抜群だし、青山学院の大学生として登場して来た「椿姫彩菜」、更には「相沢咲姫楽」もまた美形のニューハーフであろう。また、話言葉だけなら安田大サーカスのクロちゃん、山咲トオル、クリス松村、マツコデラックス、ミッツマングローブ、IKKO、KABAちゃん、ジェニーいとう、假屋崎省吾、楽しんごなどもいる。芸能界だけでもこれだけいるのだから、これらは氷山の一角で、実際に御くびに出せずに人知れず悩んでいる人は大勢いるということだろう。

 では人権に配慮しつつ、最近、芸能界で活躍している美形のニューハーフの方々のプロフを簡単に紹介したい。皆さん驚くほど綺麗であり、いずれも社交性があり、人を惹きつける魅力の持ち主だったりする。

Satokayo  佐藤かよ

 誕生日:1988年12月26日
 星座:射手座
 出生地:愛知出身
 血液型:A型
 サイズ:172cm 80-58-85
 経緯:ショップ店員として働いていたところをモデル事務所のスタッフからスカウトされる。2008年頃から名古屋を中心にモデル活動を開始し、ファッション雑誌『東海SPY GIRL』の専属モデルを2009年まで務めた。2010年8月31日放送回のバラエティ番組『魔女たちの22時』のコーナー「今週の魔法の扉」において、男性として生まれてきたことをカミングアウトした。これが佐藤のメディアを通して初めてのカミングアウトとなった。現在は本業の雑誌モデルの傍ら、タレントとしても活動し、「サンジャポ」に準レギュラーで出演している。背が高い以外、頭の先からつま先までどこからどう見ても女の子である。

Haruna_ai  はるな愛

 誕生日:1972年7月21日生まれ
 星座:獅子座
 出身地:大阪市平野区
 血液型:O型
 経緯:1995年、大阪市・わだ形成クリニックにて性別適合手術を受け、身体的に女性となった。また、「男性と結婚するまで本名(大西賢治)でいることが親孝行」を理由に、戸籍上の名前は現在も「大西賢治」のままである。声に関しては、元々は女性アイドルの曲を原曲キーのまま歌え、話声も女性と同じ高さだった。「あやや」のもの真似を得意とし、タレントや芸人として活動し、2009年、『ミス・インターナショナル・クイーン 2009』に再挑戦し、優勝した。前哨戦である『Angel of Talent contest』でも優勝し、2冠に輝いた。日本人の優勝は初めてで、賞金1万ドルを獲得。タレント業に加え飲食店を多数経営するなど実業家としての才能も持っている。ANGEL.LOVE株式会社代表取締役。昨年の24時間テレビのマラソンランナーとして頑張った。 

Ayana  椿姫彩菜

  誕生日:1984年7月15日生まれ
  星座:かに座
  出身地:埼玉出身
  血液型:O型
  サイズ:身長165cm
  経緯:青山学院大学文学部仏文学科4年在学中。性同一性障害を抱え、子供の頃から心の性と体の性の間に違和感を抱いていた。2004年、20歳の時に性同一性障害特例法の施行を知り、大学を休学して実家を飛び出した。そして性別適合手術の費用を貯めるために新宿区歌舞伎町のショーパブに勤務した。現在の芸名はその当時の源氏名であり、名字の「椿姫」は自身の好きなオペラ『椿姫』から、名前の「彩菜」はショーパブのママが画数を考慮して提案した候補から、それぞれ採ったという。2006年に単身タイに渡り性別適合手術を受ける。帰国後は戸籍を女性に変更し、2007年に復学。2008年からはファッションモデルとしてだけでなく、タレント、音楽家、商品開発プロデューサーなど「女性の幸せをプロデュースする」活動を始める。

Sakira  相沢咲姫楽

 誕生日:1986年2月8日
 星座:水瓶座
 血液型:A型
 出身地:福岡県
 趣味:お料理、カラオケ
 好きなタイプ:笑顔の素敵な人
 好きな芸能人:妻夫木聡
 好きな音楽:恋系の曲!
 好きな言葉:か・わ・い・い
 好きなブランド:CHANEL、Christian Dior
 今一番欲しい物:香水、圧力鍋
 自分を動物にたとえたら:猫(淋しがりやの気分やさんのところ)
 経緯:学校へ行こうMAXのコーナーに出演し、その可愛らしさから一躍有名に。新宿三丁目のニューハーフパブ『SUGAR』に以前勤めていたらしい。

Nakamura  中村中(なかむらあたる)

  誕生日:1985年6月28日
 星座:かに座
 出身地:東京都墨田区
 血液型:不明
 経緯:現在はシンガーソングライイター、俳優として活動中。中学時代から作詞作曲を始め、ストリートミュージシャンも行う。2004年3月28日、第5回かつしかバンドフェスティバルにてグランプリを受賞。11月、ヤマハ音楽振興会主催のTEEN'S MUSIC FESTIVAL 2004の全国大会に出場する。以後、ヤマハの発掘育成システム「MUSIC QUEST」と契約し、楽曲制作や、ライブハウスなどでのライブを続ける。性同一性障害で、戸籍上の性別は男性だが、精神は女性。やや中島美嘉に似ている印象がある。

 写真を見てもわかるように、外見も女性そのもので美しい。やはり女性らしさや美を追求する気持ちが普通の女性よりも旺盛だから自然とそうさせるのかもしれない。家族や周囲の理解を得るのが難しい病気だけに、思い詰めたり、人知れず悩むことが多く、精神的ストレスを抱えやすいこともあるだろう。しかし、変に包み隠さずに、堂々とカミングアウトすることで、自分の素直な気持ちを周囲に伝え、応援して貰えることもある。特に芸能界はそういう場所である。自分に正直に、そして真っ直ぐで前向きに生きようとする「彼女たち」の今後をこれからも温かく見守っていきたい。

 記事作成:1/30(日) 

 

2011年2月 1日 (火)

引田天功の「世紀の大脱出」

 初代「引田天功」を覚えているだろうか。もちろんクレオパトラを彷彿させる風貌の「プリンセス天功」ではない。昭和40年代に彼は彗星の如くブラウン管に登場し、テレビの前の国民の視線を釘づけにし、そしてハラハラドキドキと興奮をさせまくった命知らずな人間だった。それは現代のイリュージョンとは程遠く、血生臭く、そして泥臭い「脱出劇」の数々だった。常に死と隣り合わせの恐怖と、立て続けに大爆発が襲ってくる中、数秒遅れれば爆死という壮絶で過酷な状況の中、脱出劇を完成させる、それは或る種「男の美学」さえ漂わせる超絶マジックショーであった。

 それは40代以上の方ならご存知の、「日本テレビ」系列で放送していた「木曜スペシャル」の番組内の企画だった。元祖どっきりカメラや超能力ブーム、はたまたUFOブームを巻き起こす火付け役となった例のスペシャル番組である。ゴールデンタイムの夜7時半から90分間、お茶の間を賑わしていた人気お化け番組で同局の看板番組でもあった。手品もさほどエンターテイメントとしての地位を確立していなかった時代に、テレビ番組として「命賭けのチャレンジ」をさせる大それたものはそれまで前例がなかった。水中や爆発など極限状態からの「脱出マジック」はわが国で類を見ないもので、彼がその先駆者だった。そして彼は「脱出王」の異名を欲しいままにしていた。

 「脱出」と軽々しく口にするが、実態はそんな生易しく簡単なものではなかった。彼が独自に考案したトリックを駆使し、実際に「成功するか失敗するか」は本人にすらわからないほどの一か八かの賭けだった。大量の爆薬と至近距離で向きあい、死の恐怖とも立ち向かい、そしてギリギリのシチュエーションの中で闘う。そして何より凄いのはその大がかりな仕掛けと装置類にあった。恐らく数千万円の費用をかけて製作したであろう脱出用の巨大特殊セットの数々であった。彼が命名した「死の水道管」や「油壺火炎地獄」を始め、時速90kmで疾走し、燃えさかるジェットコースターから命からがらの脱出を試みたり、高さ40mはあろうかという火炎塔から地上までの脱出など手に汗握る世紀のパフォーマンスに、国民は皆絶句し、不安な眼差しで見守っていたものだった。何が彼をそんな危険極まりない衝動に駆り立てさせるのか?死ぬのが怖くないのか?さまざまな憶測を呼んだ。中には「箱に入ると見せかけて、実はヘリコプターで吊り上げられる前に別の脱出口からいち早く脱出を完了していて、前もって脱出用のカプセルにまんまと避難しているのではないか?」という噂や週刊誌などでは「番組の共演者(和田浩治・石川牧子アナ)やスタッフ一同が皆グルで、後から幾らでも映像を編集しているだけのヤラセやオトボケ演出をしているのではないか?」などと憶測が飛び交い、「引田天功の脱出劇はすべてインチキではないか?」とさえ囁かれたほどだった。これも今となっては真偽のほどは確かめようがない。

 彼はどの脱出でも、必ず手錠を嵌められ、木箱の中に閉じ込められる。そしてヘリコプターで天高く吊り上げられ、脱出元となる所定の位置まで辿り着くのだが、時限爆弾のタイマーはヘリコプターが地上を離れたと同時に作動し、カウントダウンを開始する。したがって爆破開始まで一刻を争う緊急事態である。スタッフの作業が遅れれば、それだけ脱出が遅れ、命の危機に曝される。そして時限発火装置によってダイナマイトなどの爆薬に引火させ、彼が乗り込んだ木箱もろとも木っ端微塵に破壊するのだが、毎回発火予定時刻より何故か早く爆破するのだ。そのことで予定と違う何かトラブルが起こったと思わせ、視聴者の不安感を煽るのだ。これも彼ならではの一流の演出であった。そして必ず、脱出先となる小屋などもまた猛火に包まれてしまい、最後は焼け落ちてしまう。余計に視聴者の不安を募らせるのだ。もちろん、不幸にして脱出に失敗し、丸焦げの死体で発見されるようなことになれば、当然放送など出来る筈もなく、あくまでショーマンシップの要素が強いことは事前に察知できるのだが、巧みな演出とナレーションについ騙され、固唾をのんで緊張しながら見てしまうのだった。

 ではここで、彼のプロフ紹介と共に、生涯に行った合計7度の大脱出の全貌を振り返ってみたい。

Hikitatenko  本名は疋田 功。1934年7月3日生まれ。出身は横浜市。日本大学の工学部卒業となっているが、学部の詳細は定かではない。生前、1968年から1975年までまで7回にわたって行われ、放送された「脱出イリュージョン」は、「死のジェットコースター大脱出」、「死の火煙塔大脱出」、「死の水道管大脱出」、「油地獄水面炎上大脱出」といった大それた内容で、従来のマジックからは考えられないほどのスケールの大きさで毎回高視聴率を記録し、日本中に脱出ブームを巻き起こした。脱出のアイディアは、彼の尊敬するハリー・フーディニの脱出劇にヒントを得たものであり、大規模な火薬をセッティングした大掛かりなパフォーマンスであった。彼はこれらの脱出を成功させるため、訓練中に瀕死のアクシデントを経験している。脱出の際の爆薬の威力は凄まじく、爆音と高熱と猛煙に相当悩まされたとも自身の著書に記している。そして彼は、脱出を手掛けるアクションスターの割には大柄であった。脱出イリュージョンで日本のマジック界をリードする存在であったが、中年期より心筋梗塞など重度の心臓疾患に苦しんだ。晩年は催眠術に取り組むなど体に負担をかけずかつ新鮮な芸にも挑戦しながら、ナイアガラ瀑布脱出など、新たな脱出イリュージョンを構想していた。しかし、自身の病状の進行等の諸事情から果たせず、1979年の大晦日に志半ばで早世。「引田天功は脱出マジックに失敗して命を落とした」とか「煙を吸い込んで、肺を痛めたのが早世につながった」という噂もあったが、公式の死因発表は心臓病死である。彼の死後、事務所の後輩だった若手タレント朝風まりが彼の遺志を引き継ぎ、二代目・引田天功を襲名、プリンセス・テンコーの別名で活躍しているのは衆知の通りである。

 次に「You Tube」にアップされている映像(ダイジェスト版と実際のテレビの脱出映像を3つ)紹介したい。

 1.ダイジェスト

 2.「死のジェットコースター大脱出」(昭和48年3月)

 http://www.youtube.com/watch?v=ZiBnrpF4fu0&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=ki6SLU6NERU&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=57O0sa95kaE&feature=related

 3.「死の火煙塔大脱出」(昭和50年4月)

 http://www.youtube.com/watch?v=s_HiSlNWoo8&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=hCaocwrFxh4&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=IJlG73szPxI&feature=related

 4.「油地獄水面炎上大脱出」(昭和50年10月)

 http://www.youtube.com/watch?v=vB6KmuqANgU&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=yPUxL1DhZ0U&feature=related

 この油壺の脱出については、彼の死後、今から25年ほど前に彼がどのようにしてこの脱出を成功させたか、事細かに検証する番組を放送した。福留功男アナのナレーションで、いかに緻密に仕組んだ計画だったかを逐一解説して行った。私は当時VHSビデオに録画し、繰り返し何度も見て、彼の天才ぶりを賞賛した覚えがある。また、初期の「死の水道管大脱出」については映像がないので、こちらのHPをどうぞ!

 http://homepage3.nifty.com/arb/subpage4-03.htm  

 ところで、オランダにも彼に負けずとも劣らない今は亡き、名スタントマンがいた。彼の名はアラン・バンクス。彼は命知らずな冒険野郎としてアメリカ中にその名を轟かせる一流のスタントマンだった。ところが、自分で発案・設計して挑んだカースタントで、彼は帰らぬ人となった。それは1987年、縦に3台並んで置かれたバスに向かって猛スピードで車を走らせ、体当たりして車体をぶち破り、向こう側に着地して無事に生還するというものだった。しかし、炎の中に突っ込んだ瞬間、ほんの一瞬体を助手席側に倒れ込むのが遅れ、そのまま首が吹っ飛び、即死してしまうという悲劇に見舞われてしまった。一瞬で騒然となり、番組スタッフや助手たちは頭を抱えてその場にひれ伏した。そのVTRを15年くらい前に見て、私もショックを受けた記憶がある。常に命の危険と隣り合わせのスタントや脱出マジック。ほんの一瞬の誤差や手違いが生死を分ける典型例となってしまった。(下の映像はその時のものだが、心臓の弱い方はご遠慮ください)

 http://www.youtube.com/watch?v=Eb17i0eSTLg&feature=related

 ところで、引田天功は既に30年以上も前にこの世を去った。彼の最期は無念にもスタントや脱出マジック中ではなく、長年患ってきた病気によるものだった。死因は心臓に持病を抱えていたため、その発作となっているが、恐らくはそうした過激な脱出の連続により、緊張や心肺機能へ相当の負荷をかけていたからに相違あるまい。日本の脱出王は自らの死によって、永遠に私達の記憶の中に眠る「伝説」となってしまったのである。享年45歳。合掌。

 記事作成:1/30(日)

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