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2011年2月23日 (水)

異色のおじさん芸能人

 最近は芸能ネタが多い。別に評論家でもないのに、いろいろごたくを並べている自分に気づく。芸能界は不思議な所で、時々風変わりな人々が時代の寵児として脚光を浴びる。ラジオ番組のコーナーで盛り上がった「なんちゃっておじさん」、「くしゃおじさん」、「エンペラー吉田」、「ピップエレキバンの会長」、「ドクター中松」、「浪越徳次郎」、「綾小路きみまろ」、ちょい悪おじさんの「ジローラモ」など、これまでも数多くの変わったおじさん(おじいさん?)達が時代のスポットライトを浴びて来た。時代が何を求め、何が原因でそうなるのかは不明だが、私も気持ちは若いつもりだが、遂に中年のおじさん世代になってしまった時に、こうしたおじさん世代の台頭や活躍に感化される部分もある。今日はこうした一時期だけでも華々しい活動をした一風変わった登場をしたおじさん達を取り上げてみたい。タイトルは芸能人としたが、一部大学教授などの文化人も含まれていることをご容赦願いたい。

 斎藤清六

Saito_seiroku  昭和55年頃、国民的な番組として「欽ちゃんのどこまでやるの」(水曜日21時テレ朝系)というのがお茶の間の人気を浚っていた。その番組内で黒子として独特のイントネーションと粘りのあるしゃべり方で注目されたのが斎藤清六であった。1971年、萩本欽一に弟子入りを求めて押しかける。しかし、3日間いた後、萩本の一言から浅草修行へ。10年ほどしてから萩本の下に舞い戻り、以降は欽ちゃんファミリー入り。清六の人柄に絆された萩本はバックアップをしていく。以来飾らないボケキャラで、お茶の間を賑せている。とくに『欽ちゃんのどこまでやるの!』「村の時間」のコーナーの仕切り役「たよりないアナウンサー」(番組では「あぜ道カットでお馴染みの甘栗坊や」のちに「稲穂カットでお馴染みの団栗坊や」と名乗っている)、『クイズ・デレミファドン!』のリポーター「セイロクマン」が当たり役となり、当時の人気お笑いタレントの一員となった(それ以前にも『スター誕生!』のコーナー司会で、ボケキャラ振りを見せていた)。しかし、テレビ番組等のレギュラー出演は1996年以降ほとんどなく、現在では主に単発番組にしか顔を見せていない。血液型はB型。

 たこ八郎

Taco  この人も本職がわからないような変わった人だったが、人の良さからなのか何故か取り巻きや友人が多かった。1940年宮城県仙台市生まれ、1985年(昭和60年)7月24日に亡くなった。コメディアン・俳優で元プロボクサー。本名は斎藤 清作(さいとう せいさく)。プロボクサーとして日本フライ級王者を獲得している。ボクサー現役時の愛称は「河童の清作」。引退後の愛称は「たこちゃん」。ボクサー引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。元々、由利はたこを弟子にするつもりはなく、ボクサー時代に弟子入りを希望してきたたこに、断る口実として「ボクシングでチャンピオンになったら弟子にする」という条件を出し、その時には王者になるとは思ってもいなかったが、実際に日本王者になり、それならと弟子入りを認めたという。芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。いつも酩酊状態(のような演技)で、「たっこでーす」という決まりの台詞と、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。金粉を全身に塗って走ったこともある。この様なTV画面などでみせる姿は、コメディアンとしての彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたといわれる。入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪く、寝小便も度々あったため本人がそれを気にし、家を出て友人宅を泊まり歩いた。受け入れた友人たちも「迷惑かけてありがとう」という彼の素朴で温厚な人柄に触れ、邪険に扱うことはなかった。また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったという。誰からも好かれる芸人であった。そんなたこの面倒をよく見ていたあき竹城は、飲酒が多いことを心配し、彼の世話を良く焼いていた。そのため、「たこの情婦」と言われたこともあったという。人気絶頂期の1985年7月24日の午前10時20分頃、神奈川県の真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴して心臓麻痺により死亡した。享年44歳だった。今で言う不思議キャラだったが、多くの芸能人から愛された人だった。血液型はB型。

 野坂昭如

Nosaka  この方は本職は作家なのだが、多芸であり、政治評論家とも思えるほど、世の中の事象に精通していた。独特な話し方とキャラがウケ、CMにも担ぎ出された。「ソソソクラテスかプラトンか~、ニニニーチェかサルトルか~、み~んな悩んで大きくなった~♪」というウィスキーのCMだった。放送作家としての別名は「阿木由紀夫」(あき ゆきお)、シャンソン歌手としての別名は「クロード 野坂」(くろーど のさか)、落語家としての高座名は「立川 天皇」(たてかわ てんのう)、漫才師としての野末陳平とのコンビ名は「ワセダ中退・落第」。現在は脳梗塞のリハビリを続けながら執筆活動を行なっており、テレビ・ラジオには出演していない。彼の代表作は、1967年の「火垂るの墓」「アメリカひじき」で、直木賞を受賞した。また、社会評論も多数執筆するようになり、「焼跡闇市派」を名乗り、その体験から既存の右翼・左翼それぞれを批判していく評論活動を行う。無類の大酒のみで、有名なのは映画監督大島渚の真珠婚式パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわすが、大島も負けじとマイクで野坂の顔面を2発殴った。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪した。そんな奇行奇天烈で、波瀾万丈な生き方をした一人である。他には1963年の「オモチャのチャチャチャ」も彼の作品である。鎌倉市出身で現在80歳。

 日景忠男

Hikage  彼は1980年初頭頃にワイドショーを賑わせた一人。二枚目俳優だった沖雅也の養父兼マネージャーであった。彼はいわゆるオカマ(ゲイ)っぽい女言葉を使い、喋り方に癖があった。女性っぽく手を頬に当て「私はね・・・」というのが口癖だった。衝撃だった沖雅也の京王プラザホテルの外階段からの飛び降り自殺で、遺書に「オヤジ、涅槃で待つ」と書き残されたことから、養父の彼に注目が集まった。見るからに異様d、同性愛の破局の末の 自殺ではないかと憶測が流れた程だった。沖雅也自殺後、暫くは脚光を浴びる存在になったが、服装や装飾品など、普段から派手好みで、保険金目当てだったのではという噂まで飛び出した。そして覚せい剤取締法違反で逮捕されたり、かつての勤務先の社長から現金計150万円を脅し取ったとして、警視庁大崎署に恐喝 容疑で逮捕された。晩年はまさに「転落人生」を絵に描いた生きざまであった。

 安部譲二

Abejyoji  彼もまた波瀾万丈の人生を送っている人であろう。1937年に東京都品川区で出生。祖父は造船技師、父は日本郵船勤務という恵まれた家庭に生まれながら、名門麻布中学2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から暴力団の組事務所に出入りしていたため麻布高校への進学が認められず、慶應義塾高校に進学したが、暴力団との関係のため退学処分となった。その後、本格的にヤクザとなり、刑務所に服役したこともある。1981年にヤクザから足を洗う。1984年、山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化された。以後人気作家としての地位を築く。現在は73歳である。血液型はO型。

 竹村健一

Takemura 京都大学文学部英文学科を卒業後、毎日新聞社の英語新聞Mainichi Daily Newsの記者を経て、1963年に山陽特殊鋼へ入社し調査部長となる。だが1年後に山陽特殊鋼を退社し、以後は追手門学院大学英文科助教授、拓殖大学客員教授などを経て、マーシャル・マクルーハンのメディア論の紹介で注目されて文筆活動に入る。また、並行してテレビ・ラジオでも出演。論調は基本的に保守的で友人・知人にも保守派の論客が多く、日本共産党や公明党とは主張が異なるものの、政党傾向や人物に偏らず、良いと思えるところは率直に評価する。パイプを銜えた独特な風貌、「大体やね」「ブッシュさんはね」(日本で、海外の政治家を「さん」付けで呼ぶことは稀)など、独特の口調や語の強調による特徴的かつ辛辣なトークによる評論を行うことで有名。1980年代の初頭頃にマスコミへの露出度が高く、様々なトーク番組に出演し、弁舌を振るった。物おじしない性格と、我が強く、理論とユニークさを兼ね備えた評論家というイメージが強かった。血液型はB型。

 ウガンダ・トラ

Uganda  グッチ裕三やモト冬樹らと共に、技巧派コミカルバンドの「ビジーフォー」の元メンバー。芸名は、容姿が似ていたウガンダ共和国のイディ・アミン元大統領に由来するが、それ以外にウガンダ共和国との接点はない。最初は余興だったものまねが人気を呼び、いつしかコミックに走るようになってしまった。しかし、1983年末「同じような曲ばかり演奏させられる生活に飽きた」との理由で、リーダー島田と共にビジーフォーを解散。音楽活動を休止してピン芸人になり、『グッドモーニング』 (テレビ朝日系)、『鬼龍院花子の生涯』、『スーパーポリス』(TBS系)、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)などに出演。2008年に入ると体調不良が顕著になり、死期を悟ったのか一方的に離婚して店も畳んだ。Vシネマのロケ先に向かう同年5月10日の朝、「足元がふらつく」と訴えて緊急入院し、復帰叶わず5月31日に死去、55歳だった。死因は急性呼吸不全だった。

 志茂田景樹

Shimoda  1940年3月静岡県伊東市出身。中央大学法学部を卒業後、保険調査員、塾講師、週刊誌記者など20種以上の職を転々。1976年、『やっとこ探偵』で小説現代新人賞を受賞、プロデビューを果たす。1980年、国鉄職員だった父が北海道に赴任した際に聞いた話をもとに書き上げた大作、『黄色い牙』で直木賞を受賞。「孔雀警視」シリーズなどのエロティックな官能を絡めた大人のユーモア推理小説をはじめ、大胆な解釈の歴史小説、伝奇小説、人物評伝、スペクタクル小説、ピカレスク小説など、ジャンルを問わない多様多彩な作品世界を構築し、その執筆スピードの速さもあいまって矢継ぎ早に発表して読者の支持を集める。執筆活動の他に奇抜なファッションセンスが注目され、1980年代後半には山本寛斎のファッションショーでモデルを務めたほか、1990年代には、タレントとしてバラエティ番組やドラマ番組に出演したり、ファッションブランド「KIBA」を立ち上げるなどエキセントリックな行動と存在感と名前の通り「過激」なファッションスタイル及び脚線美で注目を集めた。キャラクター性も抜群であり、本人もタレント活動にも積極的で数多くのバラエティ番組、ドラマなどにも出演。『ビーロボ カブタック』出演時には、同作プロデューサーから「あれほどの大作家なのに少しも偉ぶったところがない」と絶賛された。当然出演時の衣装はすべて自前である。血液型はA型。

 八名信夫

Yana  1935年8月、岡山県に手出生した。岡山東商業から明治大学に進んだが中退、プロ野球東映フライヤーズに投手として入団。しかし、試合中の怪我が元で選手生命を断たれ、現役を引退した。東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバー。野球選手引退後、親会社の東映専属の映画俳優となる。俳優転向の理由は、東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博から、「長嶋や王に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」と言われた事がきっかけとのこと。初の映画出演作は『遊星王子』だが、奇抜な衣装を身につけた悪役を演じることを馬鹿馬鹿しく感じ高倉健に愚痴を言ったところ、はじめは役をもらえれば良い方だと叱られたという。ギャングや悪党を専門に演じる俳優集団「悪役商会」のリーダー(会長)。刑事ドラマでのヤクザ・暴力団組長・凶悪犯、時代劇での用心棒・悪徳役人・妖術使いなど多くの悪役を演じた。1990年代、バラエティ番組において「1050回ぐらい殺されたかな~」と悪役を演じ、殺された回数の多さを述懐したことがある。だが、最近は悪役俳優のイメージを脱却し、孫と遊ぶ優しいおじいちゃんの役など個性派俳優としての活躍が目立つ様になっている。青汁のCMにも出演した。血液型はB型。現在は75歳。

 和田 勉

Wada  彼も1980年代に急にテレビへの露出度が高くなった。あの風貌とキャラにして名演出家。世間や番組スタッフが放っておく筈もなかった。幼少期に松阪から鹿児島県に転居し、高校途中まで鹿屋市に住む。早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。1953年にNHK入局。主にテレビドラマのディレクター、プロデューサーとして活躍。『竜馬がゆく』『天城越え』『阿修羅のごとく』『ザ・商社』『けものみち』『夜明け前』ほか、数多くのテレビドラマの演出を担当した。手がけた作品が軒並み賞を受賞したことから、「芸術祭男」の異名を受けたこともある。「テレビはアップだ」の信念のもとにクローズアップを多用した演出で知られた。1987年にNHKを定年退職。フリー以後はフジテレビの横澤プロデューサーからの誘いにより『笑っていいとも!』の月曜レギュラーになるなど、バラエティにも進出。演出業も並行して担当。映画『ハリマオ』は映画監督初作品。出演した日清食品Spa王のCMで披露するほど、ダジャレが得意。出前一丁のCM(東日本のみ)にもアニメで出演した。1994年には俳優養成学校「ザ・ドラマ・スクール」を開校。夫人は衣装デザイナーのワダ・エミ。2011年1月14日、食道上皮ガンのため川崎市の老人福祉施設で死去。80歳。血液型はB型。

 篠原勝之

Shinohara  彼も本業がわかりづらい人だったが、芸術家でもあり、小説家、絵本作家でもあり、タレント業もこなしたマルチだった。自らを「ゲージツ家」と称している。愛称は「クマさん」。来歴は北海道札幌市生まれ、室蘭育ち。地元の高校を卒業後、武蔵野美術大学に進学したが、中退した。血液型B型。趣味は剣道。KUMA's FACTORY(クマズファクトリー)所属。生まれてすぐジフテリアにかかり嗅覚とと左耳の聴覚を失ったと言われている。体にハンデを抱えながらも、芸術家として道を究めた努力家だった。文筆でも活躍し、2009年には『走れUMI』で第45回小学館児童出版文化賞を受賞。スキンヘッドに着流し姿がトレードマーク。愛称の「クマさん」は、本名よりもこちらの名前のほうが浸透している。ビートたけしやタモリと親しく、彼らの番組にしばしば登場する。ビートたけしのことを「ビートの旦那」と呼ぶ、数少ない人物でもある。現在は山梨県にアトリエを建て、創作活動の拠点としている。現在68歳。

 周 富徳

Syu  「今をときめく料理人」と言えば、ケンタロウこと小林健太郎と川越達也シェフ、それにイタリアンの鵜野秀樹であるが、1990年代に流行った料理番組といえば、フジテレビ系列の金曜日の23時台に放送していた「料理の鉄人」だろう。広東料理の料理人。横浜市中区の中華街の出身。通称「炎の料理人」。テレビ番組には「南園」時代から『きょうの料理』(NHK)に出演していたが、1990年代に入り『浅草橋ヤング洋品店』(テレビ東京系)、『わいど!ウォッチャー』(火曜日のコーナー「周富徳の中華指南」、TBS系)、『たいほや』(フジテレビ系)等への出演でブレイクし、全国区の人気となる。「カメラ目線」が話題となった。『料理の鉄人』(フジテレビ系)では大親友でもある初代和の鉄人、道場六三郎との戦いでの活躍も有名である(対戦結果は1勝1敗)。 その後、セクハラ疑惑や脱税疑惑(税金の申告漏れ)でブームは縮小するも、中華料理店を多数経営するほか、各地で講演活動を行っている。以前一流ホテルの料理長の選抜試験を受ける際に、対抗料理人が制限時間目いっぱい使って豪華な料理を作ってたのにもかかわらず、彼は、残りの5分になるまでじっと待ってて、できたて熱々のシンプルな焼飯を作って勝利したエピソードがある。漫画「美味しんぼ」に登場した周大人は彼がモデルだと言われている。血液型はO型。現在67歳にして現役シェフである。

  宮路年雄(元城南電機社長)

Miyaji   城南電機を運営する信光電機創業者。小さな体(身長は154cm)に細部まで聞き取れないほどのダミ声と明るいキャラクターで、多くのテレビ番組にも出演した。和歌山県出身だが、親からもらった2千万円を手に上京。1961年、東京出版事業の下出源七理事長の運転手となったことを機に東京に定住。同年、家電品卸の信光電機有限会社を創業。1968年、世田谷祖師谷に小売部門(家電安売店)の城南電機1号店を出店。1994年3月、前年の記録的な冷夏の影響で全国的に米不足となった際に、秋田県大潟でヤミ米のあきたこまち29トンを買いつけ、店で赤字廉売した。当時の食糧庁は食糧管理法の無許可販売と判断し城南電機に行政指導したが、この一件で宮路は時の人になり、多くのテレビ番組に出演するきっかけとなった。社長業に加えてタレント業をこなす日々を送ったが、1998年5月5日、肺炎のため東京医科大学病院に緊急入院。5月9日死去。69歳。彼の死後、息子が後を継いだが全店舗閉鎖・倒産に追い込まれた。

 他にも様々な方々が一時ブームを呼び、嵐のように去っていった。AV界の異端児・村西とおる監督やライブドアの初代創始者で「ホリエモン」こと堀江貴文、マネージャーや芸能事務所社長という裏方でありながら「ひょうきん族」で彗星のごとく登場した石井光三、「天才たけしの元気が出るテレビ」で入れ歯を外して名物じいさんとなった福島県常葉町在住だったエンペラー吉田(決め言葉「偉くなくとも正しく生きる!」)もそうであろう。また、動物愛好家として名を馳せた畑正憲氏や千石正一氏、あるいは「クイズダービー」に出演したことで名物大学教授(学習院大)となった篠沢秀夫さんやUFOの存在を真っ向否定した大槻義彦教授、さらには戦場カメラマンこと渡部陽一氏もまたこのテーマに嵌る人々であろう。最近では、パパイヤ鈴木や芋洗坂係長などもそうかもしれない。

 以上見てきたように、異色な感じで登場する人は、やはりB型が多い。やはり「変わり者」という印象は否定できないし、やたらと目立つ存在となっている。13人の名物変わり者おじさんを見てきたが、6名はB型だった。不思議な存在だ。芸術分野や芸能分野はやはりB型が脚光を浴びる世界のようだ。「血液型で差別するな!」という声が聞こえてきそうだが、B型ほど傍目に見ていて面白い方達は他にはいない。歳をとれば好きなことをやって一生を終えたいと思うようになって来たが、それを自然体で実行している気がする。今日取り上げた方々の中にはは、既に亡くなられた人もいるが、そういう意味では自分に真っ直ぐ生き抜いたと言えるのではないだろうか。自分自身に照らし合わせて考えれば、本当にやりたいことが出来ているかは疑問だが、そういう生き方を少しは手本としたいものである。

 記事作成:2/18(金)

 

  

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