震災後の政府対応にモノ申す!
今更だが、此度の「東日本大震災」は主に大津波によって太平洋沿岸地域に未曾有の甚大な被害を出した。今日現在、死者は15,000名を優に超え、未だに8千人を超える方々の安否が不明のままである。しかも自宅を追われ、避難している被災者は15万人を超えている異常事態。2か月経った今でも故郷に戻れる目途さえ立たないのである。これら一連の出来事はまさしく「驚天動地」の悪夢で、それは1995年の1月に起きた「阪神淡路大震災」を遙かに凌ぐ、我が国が初めて経験した大規模複合型の自然災害であった。しかし、学識者達が声を揃えて言うように、想定外の大津波が襲来したとは言え、原発問題に関してはあくまで人災であると言わざるを得ない。今回の一連の原発事故は、INESの評価基準では最悪の「レベル7」である。そもそも原子力発電所の設置については、1955年に「原子力基本法」が国会で成立して以降、国の原子力エネルギー政策が推進されるようになった。当初はどこも引き受け手がない状況の中、多額の給付金交付により、地域活性化の旗手として注目を浴びるようになった。我が福島県でもエネルギー革命により、常磐地区の石炭産業が斜陽化したため、新たなエネルギー源を模索していた。国と地方の思惑が一致したことにより、安全性より地方財政の安定を優先した当時の知事が建設招致を地元住民の反対を押し切って強行決定。1964年に用地買収が開始され、1967年の9月に1号基の建設開始、1971年の3月より営業運転を開始した。しかしながら、原発招致の際には、甘い餌をばらまき、二重三重の安全策が施されてあると「万全の安全体制」を強調しておきながら、ひと度、政府曰く「想定外の震災」が起こればこのザマで、「周章狼狽」の如くなすすべもない醜態を曝している。2ヶ月経った今でも現状把握がままならず、「メルトダウン」の定義を巡って「朝令暮改」の如く発言が二転三転する東京電力は、「権謀術数」を巡らしているように思われても仕方あるまい。結局は地震発生から72時間以内に水蒸気爆発を起こした全基(1~3号機)すべてで炉心溶融していたことを正式に認めた。しかも3月15日には、原子炉建屋の屋根が原型を留めないほど、跡形もなく木っ端微塵に吹き飛ぶほどの大規模爆発を起こし、原子炉格納容器に10センチの穴が開き、燃料棒が溶けて高レベル放射性物質が大量に漏れ出ていたことが判明した。日本の原子力に関する安全性がなおざりにされていたことを窺い知れるし、それを早期の段階から把握できなかった政府の見通しと東電の事故への認識の甘さ、それに対応の無策さがこれほど事態を悪化させ、なおかつ長期化している要因でもあろう。国益を優先するあまり人命を蔑ろにするような国策など非人道的で何の意味があるのか。その積年の代償を今払わされているのだ。
ここへ来て次々と明るみにされる事実。外国からの支援の申し出を早々に断り、自力での解決を模索し続けた真の理由は、日本の弱点を暴露することを回避するため、つまり「日本の原子炉において、致命的な事故が起きてしまったことを国際社会に対して事実を覆い隠すことに懸命だった」ことを暗に示唆しているにほかならない。勘繰れば、極東アジアに位置する虚構で固めたどこぞの亡国と同じく、「外国には見られたくない極秘事項があったか」とさえ疑われる。更には、「日本の高水準の原子力技術や世界一とさえ謳われた安全神話が地に落ちた」と評価を下げることになるため、どこまでも体面ばかりを優先する日本人気質の悪い面が露呈した結果とも言えよう。それにしても一定の時間をおいてから、ほとぼりが冷めた頃合いを見て発表するこの狡賢さは一体何なのか?東電は福島県民である私の立場からすれば、元より「隠蔽体質」の巣窟であり、もっとも許し難き朝敵にも匹敵する存在で、端から信用できない。一番可哀相なのは底辺の5万3千人もいる、原発とは相関の薄い一般社員だろうし、その事故現場で明日も見えない暗黒の中、防護服に身を包み、命懸けで放射線と最前線で対峙している、電力の知識など一切持ち合わせていない日雇いで集められた原発作業員達である。また、社員にしてみれば、「雪案蛍窓」の甲斐あって総資産額14兆円(凍結)を超え、誰もが憧れの超一流企業である「東京電力」に入社したまでは良かったが、よもやこのような「四面楚歌」の窮地に立たされることになろうとは誰一人として予想だにできなかったことだろう。今では堂々と名刺を差し出すのも憚れるような状況に追い込まれてしまっている。しかも追い打ちをかけるように、数千億円に上るとも言われている莫大な損害賠償を捻出するため、苦肉の策ながら経営規模縮小の方針を打ち出し、その補填のため、相当数の持株や資産の売却を断行するようである。更には、これまで会社の歯車となり、「精励恪勤」してきた社員のリストラまで強行するようである。また、寸暇を惜しんでの行方不明者の捜索や遺体の収容作業を行い、相当数の疲労とストレスが蓄積されている自衛隊員にまでそのツケが廻されているのも合点が行かない。国家公務員と合わせて一律10%給与削減が時限付きながら閣議決定した。これにより30万円の給与の隊員は、有無を言わさずひと月3万円も減俸を余儀なくされる。通常勤務の何倍もの過酷な状況で捜索活動に携わって、本来なら「特別超過勤務手当」を貰わないと割に合わない筈なのに、血も涙もない減給措置とは・・・。気の毒としか言いようがない。改めて「想定外」という言葉で片付けられてしまった今回の災害の代償はあまりにも大きかったと言わざるを得ない。
また、此度の一連の震災に関する政府対応を見ていると、先進国の一角を担っている日本という国家は、危機管理がおしなべて甘く、重大な非常事態に直面した時、こんなにも脆かったのかと大いなる疑念を抱かざるを得ない事象が相次いで起きている。政府は東京電力だけに責任の一切合切を擦り付けて見殺しにして潰すわけには行かない。電力供給が滞ると我々庶民の生活が麻痺してしまうだけでなく、日本経済や産業自体がブラックアウトしてしまう。普通の民間企業なら「破産宣告」に見舞われた場合、倒産後に管財人が財産を差し止めするが、東電の場合、電気自体、扱いを誤れば死をもたらす目に見えぬ厄介な代物だけに、日本航空の赤字処理の際と同様、見殺しにして潰すような訳には到底出来ないのだ。元々原子力エネルギー政策は、国の方策(つまりは国策)として推進してきた経緯がある。そのための法整備もまた国が推し進めてきた。そうした意図で行われてきた以上、責任の所在は一蓮托生である。国が本来あるべきは「経世済民」でなければならない。それをこの期に及んで大局を見失い、重箱の隅を突くかのように批判が渦巻く政界。政府内の一大臣や東電の発表を巡り、「言った言わない」で一悶着。こんなどうでもいい下卑な罵りあいの泥仕合は国益に何のメリットがあろう。従前からそうであったように、「綸言如汗」とも言うべき政府高官の迂闊な一言は、身を滅ぼしかねないが、今はそのような些細ないざこざで、責任を追及したり、論破して失脚させようなどと画策している状況ではな い筈だ。一昨日、政権与党である民主党内で党分裂の危機を思わせるような若手議員の離党表明がクローズアップされた。この事態の収拾と収束に党執行部が丸一日も振り回された。離党を表明した横粂衆議院議員の決意は相当固い。ただでさえ小沢問題や、震災と原発の政府の対応を巡って党内から批判が続出して、党の協力体制が希薄であり、いかにも諸刃の剣で一枚岩ではないことが露呈されていた。まさに国家の中枢を担い、国民の代表者としてその執務を代行する国会議員が四分五裂といった危機に瀕している中、どうしても憂いに近い感覚で受け止めざるを得ない。そんなお家の窮地に直面しているのに、当の民主党は犬猿の仲だった本県選出の長老・渡部恒三議員と小沢一郎議員が袂を分けあっていた実態を暴露。政治家ともあろう者が「私はシカトしていたのですが」などと平然と宣い、自ら「人面獣心」の本懐を吐露していた。政界一の実力者と言われる大物がこうした発言に終始する日本の政治体質も論外である。そして首尾よくいやが応にも「挙党一致」の雰囲気を偽装アピールしていた。この国家の一大事に政権を担当する民主党内での内紛(内ゲバ)暴露はデメリットしかもたらさないだろう。「一体今まで政治家同士、何をやってたんだ!」と国民からは非難の集中砲火を浴びるのは必然だろう。同じ党内にもかかわらず、気の合う仲間が集う派閥や仲よしこよしのグループがあちらこちらに存在し、抵抗勢力まであるようではお先真っ暗。「青眼白眼」が政界(永田町)の論理らしい。事ここに及んで、「肝胆相照」を悟ったのか、はたまた「同病相憐」の心境だったのか、そこには小沢グループに距離を置いていたはずの前原誠司氏も会合に出席。しかし、何か不自然で、無理な演出で民主党の健在ぶりを内外に示す試みを画策したとしか映らなかった。ここまでやらないと分裂の危機を回避できない与党に成り下がってしまったのか。横粂議員ならずともこのような政党には愛想を尽かし、離脱したくなるのも無理からぬことと理解できよう。
一方、対抗勢力の旗手として政権与党の座を虎視眈々と狙うべき筈の自民党も、何故か政府の後手後手の復興対策には努めて寛大であり、追及の手を緩め、模様眺めや高見の見物を決め込む傾向がありありである。通常ならこれほどの国民の不信を買い、打算的な見通ししか示せない政府に対し、内閣不信任案の最終カードを切るのが順当なのだろうが、そうしたカード自体も切れないで躊躇している様子が見て取れる。何故か?今、最終手段であるそれを駆使し、国会に提出すれば、民主党内にも、執行部の顛末振りに業を煮やした造反議員が多数出て、ひょっとすると可決するかも知れない。そうなれば、内閣総辞職するか下手すると破れかぶれ解散に踏み切って、国民に真意を問う事態になる可能性は無きにしも非ず。さすれば、逆に自民党を始めとする野党にとってもこれは青天の霹靂で、選挙の準備が追いつかないし、政局がらみで復興支援が更に頓挫する懸念も憂慮される。もちろんそうなれば、被災者を始めとする国民から痛烈な批判を浴びることは必至だろう。国の一大事に政治家は「何を流ちょうなことをやってるのだ」と。そのことを谷垣氏は誰よりも察知しているからこそ何も有効な手を打てないのだ。万が一、再び政権交代のうねりを起こせば、菅政権の復興支援や原発処理問題に関わる失態のツケをすべて背負わされることになるのは火を見るより明らか。そんな危険な橋を渡れるわけがない。本当に政権を奪取せんとする気構えがあるなら、両院議員総会を開催し、党が結束して政府の責任追及なり、最終カードを切るべきなのだ。その覚悟すら谷垣総裁にはない。だから今は、遠巻きに旗色を伺い、立つべき時勢を見極めている段階であることから、「狐疑逡巡」でお手並み拝見を決め込むしかないのが実状なのだ。
また、菅直人首相が苦し紛れの策として模索した「大連立」構想も挫折を見た。呉越同舟的な発想は、所詮、「羅針盤を持たない泥の船」と一緒で、船頭だけ多くて山に登るようなものだ。短絡的な発想で危機を乗り切ろうと一国の主が思いついたのも末恐ろしいものがあるが、結局は「会従連衡」にしてその場しのぎの夢は潰えたのは公然の事実。結局のところ、「犬馬之労」は絵空事でしかない。長期的な見通しがなく「規矩準縄」もないまま「当意即妙」の打開策しか示せない状況で、「多士済々」と思しき政治家達が雁首を揃えたところで、有効な手立てを講じられない。そういう自分の面子ばかりを優先し、危急存亡の危機に何一つ有効な手立てを講じられない無能な政治家達は、単なる税金泥棒と一緒だ。国家としての毅然たる姿勢や方針がなければ国民はうらぶれた卑屈な感情さえ抱いてしまう。各政党もまた然り。「党利党略」ばかりが優先されて、自己の都合や利益だけを欲し、政権獲得を旗印に国家存亡の事態にさえもそればかりを追求し、与党の揚げ足を取ることしかできぬ日本の政党政治の実態。かの聖徳太子が諭した「和を以て貴と成す」という言葉は現世の日本の民主政治にはおよそ無縁のようだ。
かくなる上は根本的な政治システムの再構築が求められる。かつて当ブログに於いて、私が提唱したように、諸葛孔明の掲げた「天下三分の計」の構築が政治社会にも求められる時期に来ているのだ。つまり政党を3つに分け、「55年体制」の反省に立って、このような忌々しき事態に陥り、政権不安定になった際には、いつ如何なる場面でも政権委譲が簡素に行われるようなシステムに再編することが重要なのだ。10人未満の少数政党で一体何が出来よう。社民党や国民新党などのように、自らの政治信念を捻じ曲げてもどこかと連立を組み、結局は与党の座に収まることしかできなくなるのだ。結党時の主義主張は一体どこに消え去るのか。だから今こそ、政党政治の在り方を根本から見直す必要があるのだ。しかるに、以前に私が提唱したように再編するしかないのだ。つまり、民主・国民新党などで一党、自民・公明・社民などで一党、そして革新勢力として共産党を中心とする一党で構成する。無所属や少数野党は金輪際廃止する。方向性が異なる政党同士が、つかず離れずで轡を並べての「呉越同舟」的な連立政権は土台無理な話。必ずどこかで不協和音が出て、軋みが生じるのは必然。選挙制度もガラリ変える必要がある。政治家たるもの、身を粉にして国民のために働き、一命を投げ打って職責を全うするだけの覚悟を持って貰いたい。そういう確固たる信念の持ち主に立候補してほしい。言っちゃ悪いが、小泉チルドレンとして、独特なパフォーマンスを駆使して、たいした実力もないのに、物珍しさから周囲にチヤホヤされて、タナボタ状態で代議士になったものの、落選以降はへらへらとバラエティ番組に登場し、顔を売るだけで信念も何も持たない「杉村太蔵」なんかに政治を託した私達も愚かだった。タレントは出来ても彼に「政治のいろは」を語らせたのがそもそもの間違いだったのだ。元政治家ぶっているのなら一刻も早く被災地を訪れ被災者たちが「今何を考え、国に何を要望したいのかを聞いて来い!」と言いたい。今の政治家は、選挙では「金科玉条」、「美辞麗句」を並べ立て、「巧言令色」で「青雲之志」だけは一丁前だが、いつしか大志をなおざりにし、特定の所属政党の中で「主義主張」は影を潜め、角は削ぎ落ち、「井の中の蛙」で縮こまってしまう。「志操堅固」の者でさえ、気づけば朱に染まり、「臥龍鳳雛」を期待できず、「画竜点睛」を欠くしか道はない現行政治体制自体に問題があるのだ。
では、結びに政治に期待できない中、「私達民間レベルで活動して、社会全体の大勢を変える新たな潮流を生み出すことも可能なのではないか」という結論に至る。もちろん外国の様に、クーデターを巻き起こそうという気はさらさらない。民主国家にはそれ相応の対応の仕方があるだろう。それには法律遵守の観点からも、一定の手順や段階を経なければならないし、相応の成果を上げるまでには相当な時間と手間がかかるだろう。しかし、現状に満足していては改革などあり得ない。TBSの「サンデーモーニング」の「風をよむ」のコーナーを見ていると、考えさせられることが多々あるが、総じて言えることは、私達は決して政治に無関心であってはならない。国や政治家が独断専行で決めた庶民の生活苦に拍車を掛けるような増税案を鵜呑みにして何の違和感も持たずに受け入れる、単なる言いなり状態では何の進展も得られないからだ。「YESかNOか」の態度を明確にし、今、何が必要で何を成すべきかを徹底討論して、ひとりひとりが意見や考えをしっかりと保持し、堂々と主張することこそがこの非常事態を乗り切る知恵を生み出すのだと信じている。「事なかれ主義」や「時代の傍観者」であってはならないのだ。だから反論を受けようが、私自身も慣れない稚拙な文章ながらこうして正々堂々と持論を捲し立てているのである。
今回の記事では、政府批判や個人名を出しての評論も行ったが、あなた自身はこの意見をどう見るだろう。事ここに至ってもなお、単に「何も出来なくせに夜郎自大の外野が偉そうなことをほざくな」としか思わないだろうか?されど「横行闊歩」や「暴虎馮河」と蔑むなかれ。私は生粋の福島県民なので、これだけの意見を述べる権利を有していると思っている。しかも私の祖父が会津人の血を引く生真面目な性格で、私利私欲に一切走らず、一生を慈善活動に身を捧げた地方政治家だったこともあり、国民の代弁者として国政に赴きながら、その地位を有り難がってろくな政策も断行できず、適当に誤魔化す輩は断じて見逃しておけないのだ。同じ民族として、何か相通じるものがあったら、考えを聞かせて欲しいと思う。それが「気息奄々」に瀕している日本を救う第一歩になると信じて。一見、私が軽々しく日本政府を容易に批判しているように聞こえるかも知れないが、10年後、20年後の日本のあるべき姿を憂慮してのことであると察してほしいものだ。
最後に、「大言壮語」かもしれないが、声を大にして言いたい。「これ以上、日本丸を羅針盤を持たないまま大海原を彷徨させてはならない」と・・・。
記事作成:5月25日(水)
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