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2011年9月

2011年9月23日 (金)

栄光のV9戦士たち~後編~

 3回シリーズに拡張してお送りして来た「栄光のV9戦士」もいよいよラストを迎えた。本日は、常勝巨人軍の屋台骨を支えた強力投手陣とスタッフに焦点を当てたい。実は私はあまり投手陣の顔ぶれを知らない。先発投手は堀内と高橋の左右のエースは知っているが、第三の男が誰だったのか、華々しい戦績を残した選手が一体誰なのか印象に残っていない。おそらくこれは、往年の名投手は金田正一にしろ、稲尾和久にしろ、怪童尾崎にせよ、連戦連投だったのではないか?だから1シーズン42勝などという途方もない勝ち星を残せたのだ。まさに鉄腕である。金田の400勝も冷静に考えれば末恐ろしい数字だ。昔の投手は強靱な肉体の持ち主だったようだ。

 城之内邦雄(背番号15→12)

 彼は当時、「エースのジョー」と呼ばれた。これは小林旭主演の日活映画の「渡り鳥シリーズ」で共演した宍戸錠の役名から付けられたニックネーム。佐原一高では3年生のとき投手になり、日本ビールを経て、1962年に巨人に入団。新人ながら開幕投手を務める(その後新人の開幕投手は22年後の高野光までプロ野球には出現しなかった)。この年24勝、防御率2.21で新人王を獲得。豪快なフォーム(一旦打者に背を向ける、野茂英雄の「トルネード投法」の先祖ともいうべきスタイル)から投げ込む速球とシュートを武器に、入団から5年で101勝を挙げ、7年連続で2桁勝利を記録した。入団から5年で100勝に到達した投手は城之内以降、現れていない。1965年から1973年にかけて続いたV9時代の初期におけるエースとして活躍。1968年5月16日の大洋戦でノーヒットノーランを達成。その後は腰痛に苦しみ登板機会が減り成績も下降。1971年には腰痛は回復し球威も全盛期に近い状態まで戻っていた(本人談)が、失った信頼を再度得ることは出来ず登板機会は与えられなかった。「巨人の城之内」で終わりたいという本人の希望も有り1971年退団、任意引退となった。

 通算成績
 359試合登板 141勝88敗 勝率.616 奪三振 936  防御率 2.57

Jyounouchi

 中村稔(23→26)

 城之内(先発)、宮田(リリーフ)と共に3人の20勝投手を出した時の中心メンバー。三重県伊勢市出身。宇治山田商工卒業後の1957年に巨人軍にに入団。1961年には17勝10敗・防御率2.13をマークし、1965年には20勝4敗・防御率2.21をマークするなど主力投手として活躍した。1969年に現役引退。引退後は巨人で投手コーチを務めた(1977年までは二軍担当)。また、1978年から1996年までは日本テレビやラジオの野球解説者を務めた。藤田元司が巨人監督の時は、必ず投手コーチに中村を起用していた。

 通算成績
 352試合登板 72勝53敗 勝率.576 649奪三振 防御率 2.76

Nakamura

 堀内恒夫(背番号21→18)

 山梨県甲府市出身の元プロ野球 選手(投手)・監督。 ニックネームは「悪太郎」、「甲府(甲斐)の小天狗」、「ホリさん」等。 現在は日本テレビ野球解説者。1965年のドラフト1位で巨人軍に入団し、1年目の1966年から一軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。入団時の背番号は21だったが、翌1967年からはエースナンバー18を背負った。27歳の若さで150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1972年には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。
 私は個人的に彼のエピソードは3つ覚えている。ひとつは小天狗と呼ばれていたほど悪態を突いていた。遠征で門限を破り、王貞治に殴られたことと、バッティングも天才的で、1試合3ホーマーを打ったこと、更にはV9がかかった甲子園球場での対タイガース最終戦で先発し、2塁を踏ませない好投で9-0で圧勝し、逆転Vを達成したことだ。
 大の練習嫌いで才能だけでやって来た選手と自白したが、学者肌で監督には向いていないのに監督を引き受け、巨人を低迷させた。

 通算成績
 560試合登板  203勝139敗 6セーブ 勝率.594 奪三振1,865 防御率3.27

Horiuchi

 高橋一三(背番号21)

 V9時代の貴重な左腕エース。広島県出身で北川工業から1965年に巨人に入団。張本との大型トレードで、1976年から日本ハムに移籍。最優秀投手2度、最多勝1度、最多奪三振1度、ベストナインに2度選出している。青いグローブと顎のほくろが印象的だった。全身をバネのように使い、深く沈み込むダイナミックなフォームが特徴だった。
 通算成績
 595試合登板 167勝132敗 12セーブ 勝率.559 奪三振1,997 防御率 3.18

Takahashikazumi

 横山忠夫(背番号13)

 北海道出身。網走南ケ丘高校から立教大学を経て1972年に巨人へ入団。巨人には6年間在籍し、ロッテへ。181cmの長身から投げ下ろす直球は威力があった。

 通算成績
 70試合登板 12勝15敗 勝率.444 奪三振129 防御率 4.64 

Yokoyama

 小川邦和(背番号54)

 尾道商業高校から早稲田大学、日本鋼管を経て巨人に1973年に入団。アンダースローの技巧派だった。巨人在籍は5年だったが、大リーグの3Aや2Aを経験した後、広島へ移籍した。

 通算成績
 248登板 29勝20敗 9セーブ 勝率.592 奪三振252 防御率 3.83

Ogawa

 高橋良昌(背番号15)

 高知県出身。高知商業から中央大進学、1967年に東映に入団後、1973年から1977年まで巨人で活躍。僅か5年で引退したが、記憶に残る投手だった。善正が本名。

 通算成績
 384試合登板 60勝81敗 7セーブ 勝率.426 奪三振625 防御率 3.34

Yoshimasa

 関本四十四(背番号20)

 今でいうセットアッパーで、貴重な中継ぎ投手だった。新潟県出身で糸魚川商工から1968年に巨人に入団した。1971年には最優秀新人に輝いた。また、1974年には最優秀防御率投手となった。私が小学生の時分、お風呂でラジオのナイター中継を聴いていて、二死満塁の場面で打者を三振に取ってピンチを切り抜けた場面を痛烈に覚えている。
 通算成績(11年)
 166試合登板  27勝41敗 1セーブ 勝率.397 奪三振257 防御率3.14

Sekimoto

 渡辺秀武(背番号11)

 冨士高校から日本軽金属経由で1963年に巨人に入団。10年間で83勝59敗の好成績を残したが、日拓(日本ハム)、大洋、ロッテ、広島と渡り歩いた。巨人時代の1970年に23勝を挙げてV6に大きく貢献した。

 通算成績(20年)
 試合登板 118勝100敗 8セーブ 勝率.541 奪三振1,041 防御率3.35

Watanabe

 倉田 誠(背番号54→17→15)

 東京都出身。鶴見高校から1965年に巨人入団。16年間の現役生活のうち、巨人には12年間在籍し、その後ヤクルトで活躍した。1973年には18勝を挙げ、V9に貢献した。

 通算成績
 374試合登板 55勝37敗 13セーブ 勝率.598 奪三振644 防御率3.36

Kurata

 宮田征典(背番号24) 

 ご存知V9時代には欠かせないリリーフエース。いつも試合終盤の先発投手が疲れた頃に、颯爽とマウンドに現れ、試合を締める。ちょうど登板する時間から「8時半の男」の異名をとった。群馬県出身で前橋高校から日本大学を経て1962年に巨人入り。8年間という短い在籍および現役生活だったが、しっかりと人々の記憶に残る投手だった。

 通算成績
 267試合登板 45勝30敗 セーブは当時は不詳 勝率.600 奪三振460 防御率2.63

Miyata Miyata2

 藤田元司も巨人のエースとして活躍したが、V9の前に引退していた。また、巨人の左右のエースとして活躍した小林繁(故人)と新浦寿夫もまた、V9とは関係が無く、第一次長嶋監督時代の活躍選手だった。

<監督>

  川上哲治(背番号16→77)

 ご存知現役時代は背番号16(永久欠番)の「打撃の神様」赤バットの川上。ボールが止まって見えると言う名言を残した。ここではV9がテーマなので、巨人黄金時代を築き上げた監督としての実績について触れたい。

 1961年に名将水原茂が辞任後に監督就任。1961年から14年間、巨人ひとすじに指揮を執った。就任したばかりの年にいきなり優勝。以来、常勝巨人を築き、V9を含む11回の優勝(すべて日本一)を成し遂げた。つまり、日本シリーズでは無敗を誇った。徹底した管理野球で選手の実力を判断し、適材適所で役割分担を明確にした。牧野茂をヘッドコーチに抜擢し、頭脳的な戦略で他のチームを圧倒した。もっともONという無類の強打者を核とした切れ目のない打線があってのことだが。血液型はA型。

 監督としての成績
 1,866試合 1,066勝739敗 61引き分け 勝率.591

Kawakami V9  

<コーチ>

  牧野茂(背番号72)

 V9時代の川上監督の片腕で名参謀役。当時の巨人監督・川上哲治が、その野球理論に感銘を受け、コーチとして迎えることを決意。1961年のシーズン途中に巨人の一軍コーチとして入団した。当時、自球団出身者以外の者をコーチとして招聘したのは巨人ではもちろん、他球団においても例がなかった。川上監督はロサンゼルス・ドジャースで実践され、成功を収めた組織野球戦術「ドジャース戦法」をチームに根ざすことを考えていた。牧野の執筆した記事を読んだ川上は、その野球理論に惚れ、ドジャース戦法導入のキーマンと考え、コーチとして入団させたのである。それまで「特別練習」と呼んでいた練習をより強い意味にしようという思いから「特別訓練」、略して「特訓」という言葉を生み出した。これがマスコミによって喧伝され、現在では誰もが当たり前に使う言葉として定着したのはいうまでもない。この年の巨人のキャンプはドジャースの本拠地アメリカのベロビーチで行われた。牧野はチームの帰国後もアメリカに残り、ドジャーズ戦法をはじめとした組織野球戦法の研究に努めた。そしてその成果は1965年から1973年までの9連覇という形で現れる。以後作戦コーチとして活躍。川上巨人の名参謀として川上監督の絶対的な信頼を得た。三塁コーチスボックスにコーチが立って選手にサインを送る姿は現在では珍しくないが、それを最初に実践したのは牧野である。それまではチームの監督が立ってサインを直接選手に送っていた。監督がコーチに作戦を指示し、それをコーチがブロックサインで選手に送る方式は、V9時代の巨人がパイオニアである。その他にも、柴田勲のスイッチヒッターへの転向や、宮田征典の成功によるストッパー、セットアッパーの登場、ケガや病気による選手の二軍調整など、現在のプロ野球の常識となった手法はV9の巨人で最初に行われたものが多い。川上哲治はのちに『知ってるつもり?!』で牧野が取り上げられた際、「もし牧野がいなかったら、巨人の『V9』は達成できていなかっただろう」と話していた。

 また、長嶋監督が辞任後、藤田元司が監督に就任した際も、王助監督と共にヘッドコーチに就任し、トロイカ体制で巨人の復権に貢献した。

Makino

最後に、巨人ファンならば、誰もが見たいであろう2つの貴重な映像を紹介したい。

1.伝説の巨人対阪神戦(V9達成の前日の首位攻防戦)

2.日本シリーズV9達成の瞬間



3.メンバー回顧(巨人の星)

 さて、如何だったでしょうか。3日間に渡ってお送りした「栄光のV9戦士たち」の記事を懐かしく回顧して頂けたら幸いです。私が野球少年だった頃、巨人の並はずれた強さは、熱狂的なプロ野球ブームを呼び、誰もが憧れの選手がいて、目標にしていたと思う。今となっては40年ほど前の出来事で、古き佳き時代の想い出だが、常勝巨人が一世を風靡していた、時代を席巻していた頃が確かに存在していた。最近の巨人の戦いぶりは目を覆わんばかりである。先輩たちが築き上げた伝統を汚さぬよう、全力プレーを心がけて貰いたいものだ。最後に苦言を呈してこの記事を締めたいと思う。

 記事作成:9月21日(水)・22日(木)

 

2011年9月22日 (木)

栄光のV9戦士たち~中編~

 さて、本日は昨日お送りした「栄光のV9戦士たち」と題した特集の後編と行きたい。今日は打順で言うところの6番から9番打者まで、更には脇を固めた名選手やV9を支えた投手陣にもスポットを当ててみたいと考えている。では早速始めたい。

 6番ショート 黒江透修(背番号67→5)

 1938年12月12日生まれの現在72歳。愛称は「豆タンク」(165cmと小柄で、なおかつ太っていたのが由来)。確かに小兵でずんぐりむっくりしていた印象がある。鹿児島高校から杵島炭鉱、日炭高松、立正佼成会を経て、1964年に読売ジャイアンツ(巨人)に入団。165cmと小柄ながら堅実な守備で、土井正三とともにV9巨人の内野の要となった。1967年には129試合に出場し、.278の好打率を残し、レギュラーに定着した。1968年には遊撃手でベストナインに選出される。7番を打つことも多かった。以降、1973年まで毎年ほぼフル出場、打率.270前後とコンスタントな成績を残す。しかし、1974年より河埜和正(背番号29)に遊撃手を明け渡すようになり、同年限りで現役引退。引退後は、指導者(コーチ)として主に名参謀として活躍し、長嶋茂雄(巨人)、近藤貞雄(中日)、広岡達朗(西武)、森祗晶(昌彦)(西武・横浜)、江尻亮(ロッテ)、王貞治(ダイエー)、渡辺久信(西武)らを支えた。2001年~2002年まで横浜一軍ヘッドコーチ(2002年は打撃コーチも兼務していたが、監督の森祇晶解任に伴いシーズン途中より監督代行)を歴任。6球団のうち4球団で優勝、西武と福岡ダイエーでは日本一に貢献している。私は名参謀役として彼の才能を高く評価している。血液型はA

 通算成績(11年)

 3,478打数923安打 57本塁打 371打点 127盗塁 通算打率.265

Kuroe1 Kuroe2

 7番レフト 高田繁(背番号8)

 1945年7月24日生まれ。大阪府大阪市住之江区出身の元プロ野球選手・監督。鹿児島県生まれ。身長173cm、体重70kg。 明治大学時代は島岡監督の信望が厚く、主将を務めた。リーグ通算102試合に出場し384打数127安打、打率.331、5本塁打、30打点、48盗塁。通算127安打と7度のベストナインは今なお六大学野球記録。1967年にドラフト1位で巨人軍に入団。俊足・強肩・強打の外野手 として、読売ジャイアンツV9時代に活躍した。特に1968年、1年目から左翼手のレギュラーに定着し、打率3割・20盗塁をマークし新人王を獲得、以後、走攻守と三拍子揃った外野手としてV9時代の巨人を支えた。6番や1番を打つことも多かった。高田はプロ野球史上でも屈指の名左翼手の呼び声が高い。特に得意としたのは外野フェンスに当たった打球がどのようにはね返るかを正確に先読みし、本来なら二塁打となる当たりをシングルヒットにとどめてしまうというプレーで、「壁際の魔術師」と呼ばれた。その後、張本の巨人入団により、コンバートされた内野手の1年目でダイヤモンドグラブ賞を獲得して、史上初の外野手・内野手両方で受賞を遂げている。一方、バッティングは強烈な引っ張りが特徴で、レフト線への強烈な打球がファールになることが多く、「高田ファール」と名付けられるほどだった。引退後は日本ハムファイターズ監督、巨人コーチ、二軍監督を歴任し、2005年度から2007年度まで日本ハムのゼネラルマネージャー(GM)。2008年度から2010年度途中まで東京ヤクルトスワローズ監督。

 個人的にも高田選手は大好きで、後楽園球場に野球観戦に行った際には、わざと彼に近いレフトスタンドで応援をしたものだ。そして「高田~こっち向いて!」と声援を送ったら、ちゃんと苦笑いしながらスタンドを振り返ってくれた。監督としてはあまり好成績を残せなかったが、人間性は素晴らしく、自分の役割をきちんとこなした名選手だった。血液型はA

 通算成績(13年)

 5,064打数1,384安打 139本塁打 499打点 200盗塁 通算打率.273

Takada Takada2

 8番キャッチャー 森昌彦(背番号27)

 監督になって改名し「森祇晶」となったが、現役時代は昌彦だった。彼は名実ともにV9を支えた立役者だった。巨人軍のV9当時の捕手は彼と、吉田孝司くらいしか思いつかないほど守りの要だった。「V9の頭脳」と呼ばれたほどだった。捕手には珍しい右投げ左打ちの選手だった。
 現役時代は岐阜県立岐阜高校から1955年に巨人軍に入団。現役引退までレギュラーの座を死守し続け、8年連続ベストナインに輝くなどV9時代を支えた。洞察力が鋭く、頭脳明晰、研究熱心であり、バッテリー間のリード力は当時の他のプロ野球界のキャッチャーの中で、群を抜いて優れていた。相手チームのバッターの苦手コースや、一つの試合毎の味方相手チームのバッテリーの配球をすべて正確に暗記している記憶力の持ち主だった。この記憶力を武器に、ボール球なども巧みに使った緻密な配球の組み立てをおこない、相手チームの打者を翻弄しつづけた。キャッチングも優れており、現役時代全体を通じて、わずか42個のパスボールしか記録していない。
 打撃に関しては決して強打者とはいえず、足も遅かった。しかし左打者だったため、王貞治・長嶋茂雄の後ろで5番も打つこともあり(1964年から1965年にかけて6試合だけ4番を打ったこともある)低打率ながら勝負強さを発揮する打者であった。1967年には日本シリーズMVPを受賞している。

 また、私は彼の貢献度は計り知れなく、監督としての功績も輝かしいものがある。広岡監督が基礎を作り、それを引き継いだ彼が常勝軍団西武を築き上げ、巨人から球界の盟主の座を奪還した。監督業は10年だが、西武時代の9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を達成した名監督である。血液型はO。

 現役時代の通算成績(20年)

 5,686打数1,341安打 81本塁打582打点 通算打率.236

Mori1 Mori2

 それではメインのメンバー以外でV9に貢献した選手を簡単に回顧したい。

 国松彰(背番号36)

 西京高校から同志社大学在学中の1955年に投手として巨人軍に入団し、1957年から外車種に転向。ONの脇を固める巧打者としてV9時代を支えた。1961年には監督推薦で、1963年にはファン選抜でオールスターゲームに出場した。1970年に現役を引退し、その後巨人のコーチやニ軍監督も務めた。現役生活は15年間で6番を打つことが多くあった。

通算成績
4,025打数979安打 93本塁打 427打点 125盗塁 通算打率.243 

Kunimatsu

 富田勝(背番号25)

 田淵、山本浩二と共に「法政三羽ガラス」の一人。大阪府出身。1968年にドラフト1位で南海に入団後、巨人に移籍。3年間しかプレーしなかったが、印象に残る内野手だった。その後、高橋一三と共に日本ハムに電撃トレード。代わりに安打製造機の張本勲が巨人に入団した。

通算成績
4,028打数1,087安打 107本塁打 451打点 126盗塁 通算打率.270  

Tomita

 吉田孝司(背番号9)

 兵庫県出身。市立新港高校から1965年に巨人軍に入団。森と共に捕手として巨人のV9を支えた。1984年に引退。

通算成績
2,025打数476安打 42本塁打 199打点 通算打率.235(現役生活20年)

Yoshida Yoshida2

 上田武司(背番号2)

 兵庫県出身。1964年に鳴尾高校から巨人に入団。内野手。1978年引退

通算成績 960打数215安打 15本塁打 89打点 通算打率.224 

 河埜和正(背番号29→5)

 愛媛県出身。八幡浜工業高校から1970年に巨人に入団。どちらかというと守備の人だった。遊撃手。1977年にベストナイン、1974年にゴールデングラブ賞。オールスターにも4度選出されている。守備の際の構えがクラウチングに近く、独特だった。私も同じ遊撃手だったため、真似していた。とにかくエラーが少なく、送球が安定していた記憶がある。

通算成績
4,195打数1,051安打 115本塁打 416打点 153盗塁 通算打率.251

Kouno

 柳田俊郎(真宏)(背番号36)

 熊本県出身。九州学院高校から1967年に西鉄ライオンズに入団。1969年から巨人へ。左投げ左打ちの外野手だが、代打での起用が多かったが、チャンスに強く、長打力があった。

通算成績
2,303打数649安打 99本塁打 344打点 通算打率.282(現役生活16年)

Yanagida

 萩原康弘(背番号32)

 神奈川県出身。荏原高校、中央大学を経て1970年に巨人に入団。6年間代打や守備要員として出場し、その後広島へトレードされた。古巣相手の試合で外野飛球を追いかけ、フェンスに激突しながら捕球し、骨折。その際、古葉監督から労いの言葉をかけられ、涙したというエピソードはあまりにも有名。

通算成績
910打数217安打 20本塁打 114打点 打率.238 

Hagiwara

 今回の企画は、巨人のふがいない戦いぶりに業を煮やし、「喝」を注入するために筆を取った次第だ。今の巨人は坂本の怠慢プレーと言い、センスや格好良さだけで野球をしているような気がする。かつての一球入魂などのスポーツ根性や一生懸命さ、全力プレーなど泥臭さが無くなって来ている。勝負に対する執念が減って来ており、プロ野球を40年以上見て来た私からすれば残念極まりない。

 さて、2回シリーズで終わらせるつもりが、巨人や野球を話題にすると、ついつい力が入り、長くなってしまった。申し訳ないが、スペースが不足してしまい、投手編は明日に延期してお送りしたい。V9時代の栄華を誇った常勝巨人の勝ちっぷりを知っているだけに、叱咤激励の意味で掲載させて頂いた次第だ。ドラフト制によって戦力が分散し、連覇を達成することは至難の業だが、黄金時代を再び築くことを願ってやまない。

 記事作成:9月20日(火)・21日(水)

2011年9月21日 (水)

栄光のV9戦士たち~前編~

 昭和40年から昭和48年まで川上哲治監督率いる読売巨人軍が9年連続セ・リーグ制覇、そして日本シリーズ9連覇の大金字塔を打ち立てた。それまでどこのチームも成し得ていないし、これから未来永劫も不滅の大記録だろう。その原動力は、充実した戦力と勝利の方程式を最初に確立したチーム構成だったことに起因する。特に役割分担を明確化した打線と投手力、そして見事なまでに管理野球を実践した川上監督の采配は、現代のメジャー型の野球スタイルを彷彿させるものだった。ドラフトがない時代に有能なスター選手を一堂に会し、ONを中心とした強力布陣で「巨人大鵬玉子焼き」と呼ばれるほど時代を築き、球界の盟主として日本プロ野球を牽引したのだった。勝つことを至上命令に宿命づけられたチームだった。そして、V9戦士は不動だったように思われているが、9年間の中にはスタメンが一定していた訳ではないし、年代によってメンバーが入れ替わっている。ここでは、私が一番好きだった固定メンバーを紹介したいと考えている。それでは栄光のV9戦士を振り返ってみよう。

 1番センター 柴田勲(背番号12→7)

 俊足好打の先頭打者にはうっ付けの逸材。スイッチヒッターで赤い手袋をまとい、隙さえあれば貪欲に次の塁を虎視眈々と狙う。高校(法政ニ高)時代は、甲子園優勝投手。しかも夏春連覇の立役者。そのずば抜けた野球センスを買われ、1962年に読売ジャイアンツに入団。1年目から開幕一軍となり、開幕第2戦(対阪神タイガース)で先発起用されるも5回途中でノックアウトされる。その後も投手成績は芳しくなく0勝2敗で「投手失格」の烙印を押される。そして野手に転向し左打ちに取り組み、スイッチヒッターとなる。翌1963年にレギュラー獲得。以後は主に1番打者として活躍した。赤い手袋をトレードマークに盗塁王6回(1978年に34歳で開幕迎えたシーズンの同獲得は現在もセ・リーグ記録)。自己最高は1967年の70盗塁。通算盗塁数579は現在もリーグ1位。また1968年には26本塁打、通算で191本塁打を放つパワーもあった。1980年に通算2000本安打を達成。巨人の生え抜き選手で巨人在籍時に2000本安打を達成した最後の選手である。2000本安打を達成した1980年限りでの引退を決意していたが、シーズン終了後に長嶋茂雄が監督を辞任して、新監督に就任した藤田元司から慰留され、翌1981年も現役続行する。巨人はその年リーグ優勝、そして日本一を達成している。柴田は日本シリーズの第6戦に5番左翼手で先発出場している。日本シリーズは10打数4安打を記録、これを花道として現役引退。引退後は1982年から1985年まで巨人守備走塁コーチを務めた。。1992年4月、現金賭博(トランプ賭博)の現行犯で逮捕され、フジテレビ解説者を解任される。)。2009年12月には、株式会社日本プロ野球名球会の代表取締役社長に就任した。血液型はA型。67歳。

 通算成績(20年間)

 7,570打数2,018安打 194本塁打 708打点 579盗塁 通算打率.267

Shibata Shibata2

クールな二枚目、赤い手袋でスイッチヒッターの柴田選手。

 2番セカンド 土井正三(背番号6)

 バントの名士。小兵ながら出塁した柴田をきっちり送って進塁させる役目を担った。育英高校から立教大学でプレー。東京六大学リーグ通算84試合出場、274打数67安打、打率.245、0本塁打。1964年春季のリーグでは遊撃手のベストナインに選ばれた。1965年に巨人軍に入団。同年から始まった前人未到の大記録V9の主力選手のひとりとして、チームに貢献した。主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治や長嶋茂雄へのつなぎ役であった。打撃面では追い込まれたカウントでもファウルで粘ったり、巧みに右打ちしたりするなど、玄人好みの打撃が光った。犠打などの小技や走塁が上手く、二塁手としても堅実で職人的な守備を見せた。チームバッティングや堅守で魅せ、ときに一流選手をも凌駕するいぶし銀の活躍をしたことから、「超二流」選手の代表格といわれている。

 特に土井が名声をあげたのは、1969年の日本シリーズでの本塁突入の走塁である。1969年日本シリーズ(巨人対阪急)第4戦(10月30日)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手・岡村から二塁手・山口を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上唯一(2010年現在)の退場処分を受けた。試合後、川上監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日、各新聞で、岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した唯一の写真が、第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。

 1978年、110試合出場、打率.285、リーグ最多の犠打27個を記録し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど活躍したが、同年に現役を引退した。引退後は巨人の守備走塁コーチ(1979年~1980年、1986年~1988年)を務めた。1991年から1993年までオリックスの監督を務めた。2009年9月25日、午後零時24分、東京都内の病院にて膵臓がんのため死去。67歳没。

 私は巨人が郡山の開成山球場で公式戦を行った時、亡き父親に連れられて現役選手として出場していた彼の勇姿をしかとこの目で見届けた。その試合では巨人の庄司選手が3打席連続ホームランを放ったのを覚えている。血液型はO型

 通算成績(14年)

 4,853打数1,257安打 65本塁打 425打点 242犠打 135盗塁 打率.263

Doi1 Doi2

往年の土井選手の打撃フォームと物議を醸した技ありのホームイン!

 3番ファースト 王貞治(背番号1)

 ご存知世界のホームラン王。通算868本塁打は日米を通じても堂々世界一。彼は小学生の頃から背が高かった。高校1年時には早実高校のエースとして全国優勝を達成した。しかし、国籍が中国だったことから国体出場を果たせなかった。高校卒業後、巨人軍に入団。最初の数年間は泣かず飛ばずの成績。水原監督から投手に見切りを付けられ、打者に転向。一塁手となった。しかし、打撃コーチの荒川と血の滲む練習の結果、一本足打法を習得。当時6大学からの花形スターだった長嶋茂雄とONとして大活躍。シーズン55本塁打や7打席連続ホームランなど輝かしい記録を残す一方、王シフトや敬遠されるなど、大打者ならではの苦しみも味わった。晩年は長嶋が3番、王が4番を打つことが多くなった。チームメイトからはワンちゃんと呼ばれた。尊敬するベーブルースの記録を抜いた年に、ハンクアーロンが来日し、世紀のホームラン合戦が演じられた。そこからはファンやテレビ各局がホームラン世界一を巡って列島が大フィーバーとなった。1977年9月3日の対ヤクルト戦で鈴木康二朗投手から756号を放った。当時の福田赳夫首相の発案でわが国初の国民栄誉賞が贈られた。その後も地道に本塁打を積み上げ868本まで記録を伸ばした。そして忘れもしない冷夏だった昭和55年に30本の本塁打を放った年に、突如現役引退を発表。長嶋監督の解任が発表された数日後のことで、この年、球界は悲しみに包まれ、世代交代を強く印象付けた。その後、藤田監督の下、3年間助監督を務め、その後、5年間巨人軍の監督を務めたが、1年のリーグ優勝だけに留まり、長嶋監督と同様、事実上解任となった。その後、ダイエーホークスの監督として采配を振るい、日本シリーズでのON対決も実現させた。また、第1回WBC監督に就任し、死闘の末、チャンピオンに輝いたが、そのストレスから胃がんを発症し、手術を受け、その後は監督から引退し、球団顧問として野球の発展に携わっている。血液型はO型

 通算成績(22年)

 9,250打数2,786安打 868本塁打 2,170打点 5,862塁打 2,931四死球 通算打率.301 3冠王2度達成 本塁打王15回 首位打者5回 打点王13回

Oh Oh2

この一本足打法が一世を風靡した。756号達成の瞬間!張本さんのジャンプ力は徒者ではない!

 4番サード 長嶋茂雄(背番号3)

 ミスタープロ野球と呼ばれ、「燃える男」として大舞台やチャンスには滅法強く、大勢のファンに愛された。ファンサービスに長け、守備での派手なスタンドプレーやヘルメットを吹き飛ばすほどのフルスイング。ゴロをさばく時も、飛びついてファンを沸かせるなど、とにかく絵になる男だった。チームメイトからはチョーさんと呼ばれていた。また神話になるエピソードを数多く残した。デビュー戦での金田投手から4打席4三振、野村捕手の呟き作戦に乗らないマイペースな性格、天覧試合でのド派手なサヨナラホームランやベース踏み忘れの幻のホームランなど。天才肌で天真爛漫、自分が一番目立ちたいB型の性質そのものだった。元々は千葉県佐倉市出身。立教大学出身で6大学のホームラン記録を引っ提げて鳴り物入りで巨人に入団。入団1年目から華のある中心プレーヤーとして活躍した。1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり巨人の10連覇が消えた日、長嶋は現役引退を表明。引退会見2日後の10月14日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となった。満員の後楽園球場で、球場内を歩いて一周し、ファンに別れを告げた。そして最後のセレモニーで球史に残るスピーチで、「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を残した。その挨拶はレコードになった。私も購入し、その台詞をすべて暗記したほどだった。

 引退と同時に川上監督に代わって監督に就任したが、自分が抜けた穴はあまりにも大きく、巨人軍として初の最下位に沈んだ。長嶋は6年間の監督の後、解任され、その後スポーツ解説者として浪人生活を送った。そして長い充電期間の後、巨人の監督に復帰。落合や清原、工藤など他チームの主力をFAやトレードで次々獲得し、戦力を整えた。そして背番号も90番から33番、そして2度目の監督時にはファン憧れの3番を付け、話題となった。そして9年間の監督業で勇退。原監督にその座を譲った。しかし、王監督と同様、長嶋は監督としては賞賛できる戦績を残した訳ではなかった。通算15年間の監督歴でリーグ優勝は僅か5回。常勝軍団を築けなかった。日本シリーズ制覇はたったの2回に留まった。

 引退後、2002年、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月、長嶋は脳梗塞で倒れた。一時は重態となり、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。ONは選手時代の栄華とは裏腹に監督としては過酷で苦難の道を歩み事となり、晩年は病魔との闘いを強いられた。血液型はB型。

 通算成績(17年)

 8,094打数2,471安打 444本塁打 1,522打点 190盗塁 通算打率.305
 首位打者 6回 本塁打王2回 打点王5回

Nagashima1 Nagashima2

 5番ライト 末次利光(背番号38)

 鎮西高校2年時に投手から外野手に転向し、甲子園に出場。卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグで首位打者2回、ベストナイン4回獲得するなど活躍した。リーグ通算76試合出場、287打数87安打、打率.303、10本塁打、39打点。1965年に巨人軍に入団。

1970年頃からレギュラーとして定着し、川上哲治が監督として率いるV9時代に、ONと共に5番打者としてクリーンアップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年年には3割1分6厘というリーグ4位の打率を残し、ベストナインにも選ばれている。しかし1977年、オープン戦前の練習で同僚の柳田真宏の打球を左目に受け、その後遺症で視界が狭くなってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退。無骨な性格で表情が少なく、華やかなスターが揃っていた当時の巨人軍の中にあっては、極めて異色の目立たない存在であった。現役引退後は、1978年から1980年まで二軍打撃コーチ、1981年から1986年まで一軍守備走塁コーチ、1987年から1991年まで再び二軍打撃コーチ、1992年から1994年まで二軍監督を務めた。二軍打撃コーチ時代には井上真二、福王、緒方耕一らを一軍に送りこみ、一軍においては中畑、篠塚、松本ら主力選手を3割打者へと育て上げた。1995年に現場を離れてフロント入りし、スカウト部長を務めた。スカウト時代には阿部慎之助、木佐貫、亀井など後の主力級の選手の獲得に貢献している。2005年限りで部長職を退任。血液型はAB型。

 通算成績(13年)

 3,324打数895安打 107本塁打 456打点 通算打率.269

Suetsugu Suetsugu2

右はサヨナラホームランの場面。ホームベース付近で長嶋監督が両手を広げ熱烈歓迎されてホームインしたことを昨日のように覚えている。 

 本日はここまでとしたい。明日は黒江、高田、森に加え、それ以外の野手でV9に貢献した選手たち、例えば国松、上田武司、吉田孝司、富田勝、柳田真宏などを始め、豪華投手陣についても触れたい。中村、城之内、宮田、堀内、横山、関本、高橋一三、小川、高橋良昌などの懐かしいプレーヤー達も登場する。どうぞお楽しみに!

 記事作成:9月19日(月)

2011年9月17日 (土)

本日の釣行記(2011/9/17)

釣行記録 「史上最悪の釣行!」

DATE : 9月17日(土)
TIME  : 詳細不能  
PLACE: 新潟西港・新川漁港河口
WEATHER: くもり  26.7℃~27.7℃ 日出5:26 日没17:50
TIDE:中潮 満潮4:10(38cm) 干潮11:40(20cm)
EFFECT:0尾 (計0尾) 実釣時間0.5h 
THEME:「釣り場がない!吐き気、めまい、ほとんど釣りをやらず380kmの新潟ドライブで終了!?」

<往路経過>

 9月16日(金)
 19:33 自宅発 行方不明だったクリップライト発見 
 19:34 GS(43.5L 1L=140円 計6,090円)19:38発
 19:42 上州屋(コマセ・アオイソメ  計787円 ポイントカード行方不明)19:47発
 19:48 カワチ(飲み物パン購入628円)
 19:57 郡山IC
 20:13 猪苗代高原IC
 20:24 会津若松IC
 20:42 西会津IC  一台も抜かれず トンネル内は60~70km/hペース
 20:47 県境
 21:05 阿賀野川SA(休憩&仮眠 クオカードでスパとカフェオレ478円)全く眠れず
       メール2件 たぶん1時間程度 カーTV砂嵐
 
 9月17日(土) 
 1:43 阿賀野川SA発
 1:54 新津IC
 2:05 新潟中央IC 3,600円分が無料
 ここからが迷い道、釣り場探し 間違えてみなとトンネル潜る。ラジオAKBのオールナイト(MC高橋・小嶋・横山)

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 2:58 山ノ下埠頭
 行ったり来たり4往復 逆送 西港立ち入り禁止 殆どの埠頭、釣り場が立ち入り禁止で周辺を右往左往 時間だけが空しく過ぎる。1時間以上も釣り場を探して32kmも無駄走り。二度目に訪れた「佐渡汽船造船場」前に決定。
  3:35 佐渡汽船 片道198km
 信濃川の流れ早く、にごりきつい。風もある。投げ竿1本のみで様子を見る。ポロシャツに釣り針が引っ掛かり破れる。クリップライトを落とし、電球切れ使用不能に陥る・・・。トラブル続出。15分程で、釣り具屋のオヤジに苦情を言われさっさと撤収。そこは渡船のお客様用駐車場だった。行ったり来たりしているうちに自分の運転で車酔い。気持ち悪くなり、吐きそう。めまいも酷く、睡魔にも襲われる。
 その後も釣り場を求め、マリンピア方面を周回。日和山周辺も散策。どこも釣り人が占拠し、砂浜ばかり・・・。漁港などの堤防なし。関屋分水ほか。無駄走り。

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 5:10 西海岸公園 朝焼け 夜が明けてしまいマジ焦るが釣り場が見つからず・・・。大失敗。日本海(夕日ライン)を柏崎方面へ。気持ち悪い。

 6:05 新川漁港 釣り師だらけ 総勢100人以上が防波堤に点在
      河口の堤防でやっと実釣 ルアー竿でシーバス狙い。20回キャストするが、
      手ごたえなし。この時、ルアー竿の「ZALTZ」のケースを堤防の下に置いたの
      に忘れてきてしまう・・・。どんより曇り空で今にも降りそう。

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 6:30~7:15 日本海ラインの駐車スペースで仮眠 昨夜出したメールの返信届く。
      こんな情けない釣りは初めて。吐き気、めまいが酷くて気分悪く動けない・・・。
      早くもこの時点で帰路を決意。ここまでの走行メーターは220.8km。

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 7:33 現地発
 7:44 新潟西IC
 7:53 新津IC ピンクパンサーCRV妨害 烏の死骸を踏ん上る・・・。
 8:04 阿賀野川SA 小休憩 餌無駄ポイする・・・。8:09発 トンネル内渋滞60km/hペース
 8:34 西会津
 8:53 会津若松IC 覆面PC(白のアスリートが違反車を検挙中)磐梯高原SA先のループコイル80km/hで通過

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 9:03 猪苗代高原IC トンネル先からいきなり降雨
 9:13 磐梯熱海IC下車 合流地点から車列 料金所までは5分ほど PC2台
      出口から磐梯熱海町内(R49)まで大渋滞。原因は今日開催の「風とロック福島LIVE」イベントの観客の車。
 9:45 帰宅 総走行距離 376.5km

 帰宅後、釣り具片付け中にルアー竿のケースを新川漁港の川沿いの堤防に忘れて来たことに気づく。結構気に入っていたソフトケースだったのでショックは大きい・・・。

 <費 用>

 ガソリン代 6,090円
 エサ代     787円
 飲食費   1,106円    合計 7,983(ガソリン代除けば1,893円)

 COMMENT

 史上最悪の釣行となった・・・。往復380kmの無駄走りもいいところだ。釣竿を出したのは、約30分未満。新潟市内は釣り場がどこもかしこもシャットアウトで閉鎖状態。本来は西港の突堤3kmを歩く筈だったが、入口が閉鎖。重い荷物を抱え危険な難所を乗り越える勇気なし。実釣できそうな釣り場は3連休初日とあって千客万来。隙間がないくらい地元の釣り師達がびっしり連なっていた。そしてあちこち釣り場を探して往復しているうち、車酔いしてしまい、具合が悪くなる。睡魔にも耐えられず、45分の仮眠の後、せっかく新潟を訪れたのにそそくさと帰還してしまった。コマセとイソメのエサも殆ど使わず、ポイ。勿体ない。自分でも情けないくらいだった。いつもなら事前に念入りなまでに釣り場の下調べを行うのだが、今回は本命の西港が立ち入り禁止で、予定がすべて狂ってしまった。時間とお金の無駄遣いに加え、ケースは置き忘れるはポロシャツに穴を開けるはで踏んだり蹴ったり状態だった。悔しいので近いうち、ちゃんとした場所を見つけてリベンジを果たしたい。 

 

2011年9月12日 (月)

てっぱんで使われた名曲たち

 前回の特集で「てっぱん」に関する記事は暫く封印すると告知したが、もう一つ主題歌や挿入歌として使われた曲を紹介しておきたくなり、いとも簡単に封印を解いてしまった。「てっぱん」の劇中に使用された曲は、意外と古い楽曲が多かった。1960~70年代に流行った曲ばかりだった。その時代遅れの古い歌を敢えて使ったのはいかにも視聴者の年齢層を考え、世間ウケを狙ったNHKの戦略が見え隠れするが、これを吹奏楽の演奏曲としたことで、逆に新鮮さを醸しだした。人情話が主体のドラマ構成だったこともあって、この古臭さが私のような年代には心地よかった。それでは早速、「てっぱん」で使われた名曲の数々を紹介したい。

 「ひまわり」(オープニング)

 この曲は大勢の方々が参加しててっぱんダンスを踊りながらオープニングとして使われた。私は、あかりがずっと恋焦がれていた実の父親の橘さんからプレゼントされたこの曲を、泣きながら部屋で吹いたシーンが忘れられない。とても綺麗なメロディーに心洗われる思いだ。一度聞いたら耳に残る。実際は葉加瀬太郎が作曲していた。

http://www.youtube.com/watch?v=XNCHY_nAf5k&feature=related

 「また逢う日まで」 尾崎紀世彦

 連続テレビ小説「てっぱん」の中で、商店街バンドの演奏曲として使用された。訳のわからないまま成り行きで夏ライブに担ぎ出されたあかりが、いきなり楽譜を渡されて即興で演奏したのがこの曲だった。歌詞なしのブラバンの演奏で聞くと、リズミカルで軽快。何か元気が出そうな曲だとわかる。1971年の大ヒット曲で、年間順位は3位。9週間に渡ってオリコン1位を成し遂げた。100万枚近いセールスを記録した。

     また逢う日まで 逢える時まで
  別れのそのわけは 話したくない
  なぜか さみしいだけ
  なぜか むなしいだけ
  たがいに傷つき
  すべてを なくすから
  ふたりで ドアをしめて
  ふたりで 名前消して
  その時心は何かを 話すだろう

  また逢う日まで 逢える時まで
  あなたは何処にいて 何をしてるの
  それは 知りたくない
  それは ききたくない
  たがいに気づかい
  昨日に もどるから
  ふたりで ドアをしめて
  ふたりで 名前消して
  その時心は何かを 話すだろう

  ふたりで ドアをしめて
  ふたりで 名前消して
  その時心は何かを 話すだろう

 「銀河鉄道999」 ゴダイゴ

 ゴダイゴと言えば東京外大卒のタケカワユキヒデがボーカルを務め、外国人メンバー2名を含む国際色豊かなバンド。キーボード担当のミッキー吉野が楽曲を手掛けた。ニューミュージックブームを背景にヒット曲を連発した。他には堺正章・夏目雅子出演の「西遊記」の主題歌になった「ガンダーラ」や「モンキーマジック」、そして「ビューティフルネーム」などがある。てっぱんでは、実の父親とは知らずにあかりがトランペットのレッスンを受けた時に演奏したのがこの曲。この曲は番組内のバンド演奏のシーンでは決まって使われた。哲郎とメーテルが出演したアニメ映画「銀河鉄道999」のテーマソングとして作られた。1979年のヒット曲で、「ザ・ベストテン」では1位を獲得した。

 「銀河鉄道999」

 さあ行くんだ その顔を上げて
 新しい風に心を洗おう
 古い夢は 置いて行くがいい
 ふたたび始まる ドラマのために
 あの人はもう 思い出だけど
 君を遠くで 見つめてる

 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey
 A never ending journey A journey to the stars

 そうさ 君は気づいてしまった
 やすらぎよりも 素晴しいものに
 地平線に消える瞳には
 いつしかまぶしい男の光
 あの人の目がうなずいていたよ
 別れも愛のひとつだと

 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey
 A never ending journey A journey to the stars
 
 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey A never ending journey
 A journey to the stars

 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey A never ending journey
 A journey to the stars

 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey A never ending journey
 A journey to the stars

 The Galaxy Express three nine
 Will take you on a journey A never ending journey

 「上を向いて歩こう」 坂本九

 この曲は1961年の坂本九のバラードが原曲。あかりが一人でトランペットを練習する際やのぞみさんのお腹の中の子に聞かせた曲。また、あかりの実の母である千春さんが川辺で練習していた時もこの曲を吹いていた。残念ながら坂本九は、1985年の日航ジャンボ機墜落事故で還らぬ人になってしまった。この曲は失恋ソングなのだが、外国では「スキヤキソング」として空前の大ヒットを記録した。日本でも3ヶ月に渡り1位を獲得したが、全英で10位、全米では4週連続1位に輝いた。

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す春の日 一人ぼっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜

「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子

http://www.youtube.com/watch?v=zaujrwJKerA&feature=related

 清純派の歌手としてデビューした小柳ルミ子が1972年4月にリリースした4枚目のシングル。いわゆる瀬戸内海をモチーフにしたご当地ソング。瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。オリコン順位1位、年間順位は2位だった。この曲は第3階日本歌謡大賞、日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。「てっぱん」では、あかりが大阪へ就職することが決まり、旅立ちの日に見送りに行けない父親・村上錠が浸水式の式典で人目を憚らずに号泣しながら娘に捧げた曲となった。また、クリスマスコンサートで、そのことを思い浮かべながらあかりがトランペットで演奏した曲でもある。

 瀬戸は日暮れて 夕波小波
 あなたの島へ お嫁に行くの
 若いと誰もが 心配するけれど
 愛があるから だいじょうぶなの
 だんだん畑と さよならするのよ
 幼い弟 行くなと泣いた
 男だったら 泣いたりせずに
 父さん母さん だいじにしてね

 岬まわるの 小さな船が
 生まれた島が 遠くになるわ
 入江の向うで 見送る人たちに
 別れ告げたら 涙が出たわ
 島から島へと 渡ってゆくのよ
 あなたとこれから 生きてく私
 瀬戸は夕焼け 明日も晴れる
 二人の門出 祝っているわ

 最後はクラシックの名曲「威風堂々」を挙げたい。この曲は1901年に英国のエドワード・エルガーによって作曲された行進曲である。この旋律は今日「希望と栄光の国」として愛唱され、英国の第2の国歌と称されている。劇では、彼女が高校時代(尾道一高)に所属していた吹奏楽部の定期演奏会で発表する曲のひとつになっていた。しかし、ご存知のように、べっちゃー(おばあちゃんの初音)の登場により、尾道で就職をすることを決断したあかりは、定演当日、就職試験を受けに行き、出演できなくなった。猛練習を重ねてきたあかりにとって、高校生活最後の大事な演奏会に参加できなかったことは相当なショックだったに違いない。この曲が流れているとき、公会堂の外で仲間に拍手を送る姿は痛々しかった。

「威風堂々」

 如何でしたか?劇中で使われた曲にはこのような歴史がその裏に存在していたのです。私の年代は、これらがヒットしていた時代を生き抜いたので、妙に懐かしさが漂う。おそらく主人公あかりにしてみれば、初めて耳にする曲ばかりで、古さは否めないが、新鮮さも感じとったのではないだろうか?ここ数年、1970年代の音楽やファッションが見直されているが、栄枯盛衰をひしひしと感じながらも、何故か嬉しく心が温まる感覚を覚えてしまった。「てっぱん」はかように見どころを探れば幾つも出て来る。いろいろな角度でこのドラマを眺め、また何か気付いた時には筆を振るいたいと思う。

 記事作成:9月7日(水)

2011年9月 9日 (金)

今は亡き白虎隊の出演者達

Byakkotai  私が大学生だった頃、年末になると決まって大型時代劇が制作&放送されていた。「忠臣蔵」に始まり、翌年(1986年)は二日間に分けて6時間もの超大作の「白虎隊」が放送された。キャストは毎年同じ顔ぶれだったが、その豪華さは他の比ではなかった。この壮大なスケールで撮影された「白虎隊」は、県内のみならず、全国に多大な反響をもたらした。もとより観光地だった会津が取り上げられただけでなく、あちらこちらでロケが敢行されたのだ。日新館、会津武家屋敷、飯盛山、鶴ヶ城周辺などである。

 この番組が2日連続で放送されるやいなや、年明けからドラマの感動が人を呼び寄せ、全国から観光客がわんさか訪れたのだった。特に、白虎隊が集団自決を遂げた飯盛山や形状が美しい鶴ヶ城には観光客が大挙して押し寄せ、周辺のロケ地では、屋外スピーカーで主題歌となった「愛しき日々」がエンドレスで流され、それは空前の観光ブームで賑わったものだった。あれから25年の歳月が流れた。

 昨年、そのDVDをレンタルし、久し振りに全編後編をフルで見た。すると記憶の片隅にあった様々な感動場面が鮮やかに甦り、幕末の戦乱を生きた会津人たちの意気と誇りを感じたものだった。愛する御國のために一命を投げ打って尽くす会津武士道、「ならぬものはならぬ」の厳しい規律、保科正之が定めた会津藩の伝統的な家訓(15箇条)を伝承してきた高尚な会津の魂が宿っていたことをつぶさに感じ取れる内容だった。そして、同時にこの名作に出演したキャストの多数が、残念ながらこの世を去っていることにも気付いた。
 特に、先月の名優・竹脇無我の急逝は衝撃的だった。そこで今回は、会津にゆかりのある私が愛してやまない「白虎隊」の出演者で、既にお亡くなりになられた方々を紹介して行きたい。当時を懐かしむと共に、その足跡を辿ることで名優たちを偲びたいと思う。

 神保内蔵助役ー丹波哲郎(1922年7月17日-2006年9月24日)

 神保家は家禄1000石の上級藩士である。内蔵助は200石を加増され1200石を食んだ。1862年閏8月、若年寄から家老に就任し、藩主・松平容保に仕えるが翌年10月に免職。1864年に復職した。禁門の変では新撰組と協力し、天王山に立て籠もった真木和泉ら17名を自決に追い込んだ。戊辰戦争では会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく六日町口の守備にあたったが防ぎきれず、甲賀町口の守備にあたっていた家老田中土佐と共に医師の土屋一庵邸で自刃した。享年52。

 丹波哲郎自身はかなり個性が強く、話し方も独特な節回しやイントネーションの置き方にも特徴があった。中央大学法学部出身のエリート役者だが、代表作は「キーハンター」、「Gメン’75」のボスがハマリ役だった。刑事ドラマ、時代劇や戦争物には欠かせない大人物だった。晩年は霊界の伝道師として俳優兼監督として存在感を示した。84歳没。

 井上丘隅役ー森繁久弥(1913年5月4日-2009年11月10日)

 元会津藩士であり、剣術の師範として日新館などで後進の指導にあたっていたが、戊辰戦争発生時には隠居の身だった。家老たちも一目置く存在。この役は森繁久弥のハマリ役だった。屋根の上のヴァイオリン弾きや東宝社長シリーズ、大河ドラマや大型時代劇には欠かせない重鎮的存在であった。交友関係が広く、96歳まで長生きした名優だった。

 野村左兵衛役ー竹脇無我(1944年2月17日 - 2011年8月21日)

 文化12年(1815年)、400石取りの家臣・野村直樹の次男として生まれる。幼少時から聡明で知られ、長じては長沼流兵学を修め軍事奉行として起用された。安政6年(1859年)には藩主・松平容保から江戸屋敷公用人に任じられる。文久2年(1862年)には容保の京都守護職就任に賛成したため、信任を受け、禁門の変の後に京都会津藩筆頭公用人に昇進した。温厚篤実で和歌を嗜む教養人だったことから幕府にも公家にも受けが良く、「先生」という敬称で呼ばれて人望が厚く公家や諸藩との交渉で手腕を発揮している。加増を受け禄高は550石となった。 また、公用方への幅広い人材登用と権威拡張に寄与した。慶応3年(1867年)5月19日、病に倒れ死去した。享年53。ドラマでは、敵弾にあたって亡くなったことになっている。辞世の句は「のりならす 駒のひづめの 香るまで 並木の桜 春風の吹く」だった。

 私は竹脇無我は個人的に好きな俳優だった。特に「大岡越前」で登場する小石川療養所の医師役では、北町奉行の大岡忠相守の相談役的な役割を担い、好評を博した。誠実な人柄で、声や話し方にも長け、魅力的な俳優だった。現代劇にも数多く出演したが、やはり髷を結った武士役など時代劇役者としての印象が強い。森繁久弥を実の父のように慕っていた。代表作は他に「姿三四郎」「江戸を斬る」「人生劇場」。67歳没。

Tanba Morishige Takewaki

 間瀬まつ役ー南田洋子(1933年3月1日 - 2009年10月21日)

 間瀬岩五郎・源七郎・きよの母役として実の夫婦揃って白虎隊に出演していた。巧妙な会津弁を使い、お歯黒スタイルで登場した。落ち着いた物腰の名演技が光る女優だった。発声が個性的だった。プライベートでは俳優・長門裕之の妻として相思相愛のおしどり夫婦だった。主な出演作は、「十代の性典」「太陽の季節」伊豆の踊子」76歳没。

 篠田兵庫役ー長門裕之(1934年1月10日 - 2011年5月21日)

 南田洋子の夫で、役柄としては「池中源太80キロ」の編集長役がハマリ役だったが、芸歴は古い。日活の子役としてスクリーンデビュー。銀幕の俳優として人気を博した。立命館大学中退し、演劇の道に邁進した。家族、親戚縁者が俳優で占めているサラブレッドでもあった。代表作は「無法松の一生」「太陽の季節」(南田洋子と出逢う)、「にあんちゃん」など。実弟の津川雅彦と長年にわたる確執があったが、晩年に和解。惜しまれつつこの世を去った。白虎隊では白虎隊士の篠田義三郎の父親役(会津藩士)として登場。長男とともに戦死した。次男の名前を叫びながら絶命した場面は迫真の演技だった。77歳没。

 沖田総司役ー中川勝彦(1962年7月20日 - 1994年9月17日)

 このドラマで新選組の沖田総司役を務め、美男子だった中川勝彦もまた、演じた夭逝した沖田と同様、僅か32歳の若さでこの世を去った。中川勝彦は中川翔子の実父である。東京都出身で、ミュージシャン・歌手、俳優、声優と多彩な活躍をしたマルチタレントだった。個人的にはロッカーとしてのイメージがある。血液型A型は娘の翔子と同じ。
 ドラマでは、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛する際に、剣闘鋭く敵を斬りまくり、直後に喀血。近藤正臣演じる土方歳三に抱えられながら引き上げたシーンが印象的だった。
 俳優としては、テレビドラマ等で活躍していたが、1992年9月に急性骨髄性白血病を発症した。以後9か月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳で死去。1986年に24歳で演じた沖田総司が厚顔無恥で適役だった。残念だが、この僅か8年後に亡くなった。

Minamida Nagato Nakagawa

 老人役ー加藤 嘉(1913年1月12日 - 1988年3月1日)

 昔のことはわからないが、私が物心ついた時には名バイプレーヤーとしての地位を確立し、老人役ばかりだった。特別個性があるわけではなく、一老人として民衆の中に埋もれてしまうことが多い中、普通のお年寄り的存在の彼を中心に据えて喋らせることで、民意を代弁する象徴として際立つ存在となった。白虎隊では、ややアルツハイマー的で会津藩が敗色濃厚になる中、城壁に意味もなく石を積み上げて予期せぬ場面で思いもよらぬ行動で周囲を驚かせる役どころが多かった。彼自身も一風変わった特徴的な番組に出演することが多かった。人は見かけで判断できない。彼は慶應義塾高校のOBである。代表作は他に「女の一生」「砂の器」「白い巨塔」1983年の映画『ふるさと』では、モスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を獲得している。75歳没。

 田中土佐役ー佐藤 慶(1928年12月21日- 2010年5月2日)

 文政3年(1820年)、会津藩家老・田中玄良の長男として生まれる。田中家は会津九家に数えられる藩内の名門で、家禄は2000石である。父と同じく家老として藩主・松平容保に仕えた。文久2年(1862年)、容保が幕府から京都守護職就任を命じられた際、同じく家老の西郷頼母と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。しかし京都守護職就任が決定すると、野村左兵衛らと先んじて上洛し、事前調整に努めている。戊辰戦争では会津戦争において、会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく、甲賀町口で戦った。畳を銃弾を防ぐ壁にして奮戦したといわれるが負傷し、家老・神保内蔵助と共に医師・土屋一庵(150石)の屋敷で自刃した。享年49。

 佐藤慶自身は会津出身。俳優だけでなく様々なジャンルのナレーターとしても引っ張りだこだった。和服が似合うことから任侠ものに多数出演した。落ち着いた存在感のある名優だった。81歳没。

 七兵衛役ー高品格(1919年2月22日 - 1994年3月11日)

 大都会の黒岩刑事率いる刑事役の印象が強い。主役を張ることはなかったが、名バイプレーヤーのひとり。年相応の渋みがかったいぶし限の名演技が光った。小柄で低い声が特徴的だった。代表作は「嵐を呼ぶ男」。75歳没。

Kato Sato Takashina

 井上とめ子役ー山岡久乃(1926年8月27日 - 1999年2月15日)

 京塚昌子、池内淳子と並び、ホームドラマには欠かせなかった「日本のお母さん」である。特に昭和40年代に一世を風靡した「ありがとう」や「渡る世間は鬼ばかり」は、母親役を不動のものにした。白虎隊では、井上丘隅の妻役として、城内の世話役を司り、籠城戦の最中、赤ん坊を取り上げたり、そこに居るだけで安心できる特異な存在だった。72歳没。

 中川宮役ー松山英太郎(1942年7月9日 - 1991年1月11日)

 中川宮は、長州討伐を決断できない帝に代わり、御宸翰(ごしんかん)を持ち出し、幕府守護職の会津藩に命を下すなど、幕府側に肩入れし、会津藩の便宜を図った朝廷の宮様。松山英太郎と言えば、時代劇やホームドラマの顔だった。「江戸を斬る」の鼠小僧次郎吉がハマリ役。1970年代に高視聴率のホームドラマ「ありがとう」に出演するなど、1970年代の顔という存在だった。48歳というその早すぎる死はファンだけでなく同じ俳優仲間からも惜しまれた。

 山本八重子役ー田中好子(1956年4月8日 - 2011年4月21日)

 元キャンディーズのスーちゃんだが、このドラマでは再来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主役となる山本八重子を演じた。会津出身の彼女は、幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれ、戊辰戦争に多少でも貢献したいと繰り返し「夜襲」を行っていた正義感溢れる女傑である。砲術家だった山本覚馬の妹である。後に同志社大学創設者・新島襄と結婚し、新島八重子となった。スーちゃんが今年急逝されたのはファンに大きな衝撃を与えた。55歳だった。

Yamaoka Matsuyama Tanaka

 野村(井上)ちか子役ー坂口良子(1955年10月23日 - 2013年3月27日)

 井上丘隅の娘で、竹脇無我が演じた野村左兵衛の妻役だった。演技力があり、昔から大好きだった。「金田一耕助シリーズ」や「サインはV」、「二百三高地」、「池中玄太80キロ」に出演するなど、人気女優だった。

 近藤勇役ー夏八木勲(1939年12月25日 - 2013年5月11日)

 新撰組の局長、近藤勇役を演じた。渋い役どころが多かったが、「池田屋騒動」の鬼気迫る殺陣シーンは見ごたえ十分だった。血生臭い戦場で、威風堂々とした立ち居振る舞いが真骨頂で、存在感があり、硬派な役者だった。
 他にも千葉真一と共演した「戦国自衛隊」での「長尾景虎」役は彼そのものだった。

Sakaguchi Natsuyagi

 さて、如何でしたか?少しは懐かしんで頂けたでしょうか?このドラマが公開されたのが1986年の晦日と大晦日だった。つまりあれから25年の月日が流れたことになる。まこと「光陰矢の如し」であるし、自分も歳をとるはずだ。あの頃大学3年生だった自分は、今や2児の父である。いいおっさんだ。そして栄枯盛衰を感じる。あの頃トップスターとして君臨していた憧れのスター達も今や鬼籍に入り、過去の人となった。時々「白虎隊」のDVDを見るが、時代劇という特質もあって、当時の記憶のまま脳裏に焼き付いており、あまり古さを感じない。

 現在も活躍中の俳優・女優さん

 里見浩太朗(西郷頼母役)
 風間杜夫(松平容保役)
 国広富之(神保修理役)
 近藤正臣(土方歳三役)
 西田敏行(萱野権兵衛役)
 竜雷太(山本覚馬役)
 露口茂(秋月悌二郎役)
 あおい輝彦(板垣退助役)
 中村雅俊(坂本龍馬役)
 池上季実子(神保雪子役)
 多岐川裕美(照姫役)
 石橋正次(桂小五郎)

 「白虎隊」番組宣伝用PVはコチラ↓

 悲劇の会津戊辰戦争、そして武士としての立ち居振る舞い、潔さは会津人の魂の叫びを垣間見れた。

 懐かしい「白虎隊」のオープニング(愛しき日々)はコチラ↓

 この主題歌「愛しき日々」を聞く度、ドラマのシーンが思い出され、目頭が熱くなる。特に薙刀の名手だった中野竹子が鉄砲で撃たれ、回転しながら地べたに倒れるシーンは号泣。そして母親に介錯を依頼し、絶命する場面はボロボロだった。

 最後に、「白虎隊」の話題に触れる際には書き漏らすわけにはいかない、我が「落城の賦」とも言うべき詩がある。それを紹介して私のゆかりの地、会津「白虎隊」に関する話を閉じたい。

 ~百虎の魂 飯盛の地に果てぬ~

時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世 
倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
その存在を世に知らしめた新撰組
戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった

禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転

慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に 
錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
城を抜け江戸へと逃げ帰る 
あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意 
会津は後ろ盾を失い 京を追われた
やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ 
倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった

「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
その猛威の前に退却を余儀なくされた

Tsurugacastle

奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
それが会津人の魂
その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
「ならぬものはならぬ」の尊い教え
よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
誰一人として想像した者はいなかった

やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図

戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷 
そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前 
息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
それこそが武士道 それこそが武士の本懐
かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った

僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
死んでいったに相違ない
悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった

Byakkotai

時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
もうひとつの悲劇があった
妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
壮絶な最期であったとされる

「なよ竹の 風にまかする身ながらも
           たわまぬ節はありとこそ聞け」

その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった

Byakko

あれから百数余年が経ち 
平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
遠い昔の出来事が現世に甦る
旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡 
柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み 
霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
しかと見届け脳裏に刻み込む

そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
今も後を絶たない 
そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
後世まで語り継がれることとなった

志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした

終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
死んでいった多くの防人たちの魂の叫び 
今もこの胸に去来して止まず
その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている

彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである


「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」

 薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である

Aizubyakko

 記事作成:9月7日(水)

 追記

 あまりにも要望コメントが多かったため、この記事を作成2年3ヶ月後の平成25年12月21日(土)に沖田総司役を演じた中川勝彦さんの記事を追記として掲載しました。

 この番組は1986年に放送されたが、あれから31年後の今年(2017年)1月、日本テレビ制作だったのに、なぜかテレビ朝日系列の福島放送で6日間、この番組が放送された。懐かしいと思う反面、大勢の方が亡くなられてしまったことを残念に思う。

 追記

 この記事を公開後に亡くなられた方、あるいは死去が確認された方をここに追記として掲載致します。

 佐々木只三郎役ー中康次(康治)
 セツ役ー中原早苗
 西郷律子役ー南美江

 

2011年9月 3日 (土)

てっぱん迷珍場面ベスト10~後編~

 本日は昨日の続編で、第6位から第10位までをお送りしたい。今回のテーマの趣旨は感動場面ではなく、ついつい微笑みたくなるような「ほのぼした場面」や、予期せぬ展開に思わず吹き出してしまうようなお笑いシーンなどを取り上げてお送りしている。最近のNHKっぽくない、あたかも民放テレビ局のようなコミカルな演出に戸惑うことも多いが、視聴者にとってみれば、旧態依然のお堅いイメージを打破してくれただけでも、期待感は高まる。放送終了後、半年が経過してもなお私が愛して止まない国民的ホームドラマ「てっぱん」。これまで数回に渡り、特集記事で見どころを説明したり回顧してきたが、今回でこの類のシリーズ記事の執筆を一旦休止したいと考えている。それでは「迷珍場面」を懐かしみながら、心ゆくまで楽しんで頂ければ幸いだ。

 第6位 あかりと滝沢の滑稽な掛け合い

 ① 「睨んでるようにしか見えへん」(第51話)

 おばあちゃんに弟子入りして大阪のお好み焼きを研究していたあかり。店でひとり、接客の仕方を練習していたところを滝沢に見つかり、お客さん役をお願いする。そこで自分の方を必死に見ているあかりと視線が合った滝沢は「何見てんねん?」と怪訝そうな顔をする。「(おばあちゃんが)お客さんを見てやらにゃいけん」と答えるが、首を横に振り、「睨んでるようにしか見えへん」と指摘。それでもぎこちない作り笑いを浮かべようとするあかりの顔を見て、思わず「アホか」と吹いてしまう滝沢。このやりとりは微笑ましかった。

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 ② コインランドリーでの会話「変なもん忘れんといてよ」(第74話)

 コインランドリーの乾燥機の中を開けたところ、男物のパンツが出て来た。それをあかりが汚らしい物をいじるような手つきでつまみ出した時に、それを忘れたことに気づいた滝沢が取りに戻って来た。「お前、人の下着で何してんねん」と言って奪い返す。「何これ?変なもん忘れんといてよ」と慌てて弁解するあかり。「他にも何かとってへんやろな」と乾燥機の中を調べようとする。自分の洗濯物を見られると思ったのか「ちょっと何するん!」と焦るあかり。「お前のもんなんて興味ないわ」と滝沢が切り返す場面が傑作だった。素直でうぶな感じがとても可愛らしいあかりだった。

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 ③ 滝沢に押入れを開けられ、悲鳴を上げるあかり(第98話)

 婚約を破棄したことが原因でやけ酒をくらい、酔いつぶれたのぞみを不本意ながら自分の部屋に泊めざるを得なくなったあかり。彼女を部屋に運ぶ際に問題のシーンは起きた。男性陣が本人と布団などを運び込み、滝沢が「シーツどこ?」と尋ね、あかりが「押入れの2段目」と答えた。すると直後に「うぁ~、ちょっとどこ開けとるんよ~も~!」と慌てて滝沢を弾き飛ばし、押入れ(タンス)を押さえるあかり。「お前が2段目言うたんやろ」と弁解する滝沢に「ふつう下から2段目じゃろ~」。すかさず根本が「お前何を見たんや?」と問い詰め、浜勝社長にも「とぼけなや~」とどやされる。滝沢はこの時、すっかり変態扱いされた。おそらく下着が入った引き出しを開けてしまったと容易に想像がつく場面だった。74話の仕返しという感じの場面設定だった。②と③の演出は、NHKが思い切った秘策に出たものと思えた。

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 第7位 ダジャレ合戦・・・。(第78話)

 番組中、ダジャレの帝王といえば「浜勝」の鰹節削り職人の神田(赤井英和)さん。初登場時の「あんた、あかり、これはかり」から始まり、ちりとりネタや「ゆのみっちゃん」などとダジャレを連発し、場をシラケさせる天賦の才能の持ち主。しかしこれが滝沢と鉄平にも伝染。クリスマスコンサート後の打ち上げで、「おのみっちゃん」に一同が集結。そこで初音がローストチキンならぬ和風チキンを振る舞った。その際に滝沢の口から意外な一言が・・・。「取り(鳥)扱い注意やな」。予想外の人からの思いもよらぬ発言に固まるあかりと初音。すぐに切り返す鉄平。「チキン(きちん)と食べよう」「もうだまっとりぃ~!」するとこれが中岡さんにも波及し、「にく(肉)いこと言いますね」。土つぼにはまる展開に一同唖然。「もうダジャレ合戦か?」と呆れる民男。個人的にはツボに入って結構ウケた。

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 第8位 住職・隆円さんのオモロすぎる性格(第4話ほか)

 本当の娘じゃないことを知り、「自分が誰なのか」わからず居たたまれなくなり、吹奏楽の練習中に飛び出して隆円さんの寺に駆け込んだあかり。鐘に頭を突っ込み。「うわぁ~!」と大声で叫ぶ。その声に飛び起きた隆円さんの一言は「煩悩じゃのう~」。モナカアイスを頬張りながらあかりの元へ。「ウチ、どうしたらええんじゃろ、何かええこと言うてよ~」と助けを求めるあかりに、「ん~」を連発。そして思いついた答えは「(鐘を)突け。これを突けばすべての煩悩が消えて無くなる」と助言。でも「煩悩って何?」と尋ねられても「ん~」を繰り返す。まことおもろい坊主だ。
 また、初音と一緒に暮らしていることを知った錠が相談に訪れた際にも、深刻そうな錠を尻目に「ついに真知子ちゃんに愛想つかされよったか・・・」。さらに、千春さんの手紙騒動の際には、あかりに「この世にはな~永久不滅のものなんて何にもないで~」「お前さんも変わらんようで随分と変わっておる。時に人はそれを成長と呼ぶ。坊さんみたいなこと言うたの~。」という名セリフを吐く。そしてクリスマスイブが錠と真知子の結婚記念日であることから、隆円さんにとっては最悪の日。「クリスマスが近づくと胸が疼くんよ~」と20年以上も前の出来事なのに未だに未練たらたら。心底真知子に惚れていたことが見て取れる。若い頃、「錠の抜け駆けによって愛する真知子ちゃん取られた」と妬みながらも、そこはお坊さんらしく、大きな心で今でも誰よりも村上家の行く末を案じている。そして神出鬼没で村上家のメシ時になると必ず現れる。よほど鼻が利くと見た。変幻自在のユニークな語録はその場その場で重要な役割を担った。

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 第9位 間が悪すぎの欽也(第18話・第26話)

 ① あかりが就職の面接のため、定期演奏会に出られなかった。自宅での会話で理由を問いただす家族。そこへ何も知らない欽也が帰宅して「演奏会どうじゃった?やっぱりアレか、最後はぼろ泣きか?」と場にそぐわない発言をしてひんしゅくを買う。

 ② 下宿のみんなに本当の孫とおばっちゃんの関係をバラしてしまう。ふたりの関係をひた隠しにしてきた初音とあかりだが、彼の突然の田中荘訪問によって、内緒にしていたことがバレてしまう。初音のことを「大家さん」と呼ぶあかりを叱りつけ、「あかり、さっきから何じゃ、大家さん大家さんて。お前なぁ、自分のおばあちゃんに向かってそんな他人行儀な言い方すなぁ~!」。この発言により、実の祖母と孫の関係が暴露され、衆知のものとなった。この間の悪さは随所に見られ、どうやら天然のものらしい。間が悪いだけでなく、墓穴を掘るのも村上家の血筋らしい。余計なひと言で要らんことを掘り起こしてしまう。でも私は不器用で人間くさくて好きなキャラである。

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第10位 小夜子さんと神田さんの微妙な関係(第88話・第89話)

 有馬温泉のペア宿泊チケットが福引で当たった神田さん。どうにか小夜子さんを誘いたいが、なかなか言い出せない。その引っ込み思案で女性に対してはしおらしい神田さんが微笑ましかった。チケットを手渡された小夜子さんは、そんな神田さんの気持ちを知らず、「おおきに、早速(誰か)誘ってみるわ」と言ってそそくさと出て行ってしまう。それを茫然と見送る神田さん。この掛け合いが絶妙。さすが大阪人。ちゃんとオチをつけてくれはる。また、小夜子さん自身も有馬さんからプロポーズされたことをあかりに伝えるため、ヤケ酒をくらって店の前であかりを待ち伏せ。「酔ってます?」とあかりが心配する場面も良かった。

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 「浜勝」の工場内は、スタジオで撮影されたが、「浜弥鰹節」という実在するお店をモデルとして使用したことが判明した。下のアドレスをクリック。

http://www.katsuobusi.com/hamakatu.html

 さて、迷珍場面の数々、如何だったでしょうか?今回のテーマは、前回お送りした「感動場面」とはまた、ひと味もふた味も違う楽しみ方を味わって頂けたのではないでしょうか?これ以外にも見応えのあるシーンは山ほどあった。初音がお店をやっていたことが下宿人にバレてしまった時に、あかりが謝りに初音の部屋を訪れた際、笑い袋が鳴りだし、下宿人たちが「何や笑うてるで、怖い・・・」という場面(第28話)も面白かったし、千春さんの手紙が出現した時は、その内容に恐れおののいた錠が苦悩の末、手紙を燃やそうとして真知子に「いけんよ、燃やしたらいけんて!」と必死に引き留められる場面(第56話)やお盆休みの浜勝の電話番のくじ引きを当ててしまった時のあかりの反応や表情(第31話)も面白かった。また、加奈があかりを出しぬいておばあちゃんの肩たたきをし、すっかり打ち解けて仲良くしている場面に出くわし、見てはいけないものを見てしまったかのように障子戸を一旦閉めて、またおそるおそる開け、「ウチのあの苦労は何じゃったん~?」という焼きもちを焼く場面(第23話)、のぞみが酔いつぶれてあかりの部屋に一泊し、指輪を忘れて行った時、こっそり悪戯して自分の指に嵌めてみた時の表情(第98話)も実に可愛らしかった。ガンボタレと言われているが、女の子の一面が垣間見れた。このように見応えのある箇所は随所に鏤められ、挙げ出したらキリがない。

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 ところで、何故か人を呼ぶ性格のあかりは、一体何人を自分の部屋や田中荘に泊めたのだろう。加奈、欽にぃ、鉄平、真知子、両親、小夜子さん、のぞみ、冬美など。彼女の人となりがそれとなくわかる。よほど居心地が良い場所なのだろう。あかりは、天性の寛容により、その世話好きな性格が周囲にも伝わり、尾道、大阪を問わず彼女を取り巻く方々にこよなく愛される特異な存在だった。錠が家族に向けて語ったメッセージに「道に迷うた時はひとりで悩むな。誰かひとりの問題は家族みんなの問題じゃ。ひとりだけ幸せにはなれん。ひとりだけ不幸にもできん。それが家族じゃとお父ちゃんは思う。」というのがあった。村上家の連帯感や所属感は彼のこうした家族訓、人生訓によって自然に培われたものではなかったのだろうか。換言すれば、これが現代社会においては象徴的で、ある意味、失われた古きよき時代の産物への皮肉めいた警鐘にも受け取れる。もしかすると今の日本に最も欠けていることを暗に指摘していたのではないのだろうか。それくらいこのドラマは奥が深く、さまざまなメッセージを国民に向けて発信していたような気がする。私のような世代には、今更ながら昔の日本の家族形態を思い起こさせ、ある種の安堵感を与えてくれたドラマだったように思えてならない。

 最後に、このドラマの醍醐味は豪華な出演者達の見事なリレーションとコラボにあった。各キャスト達が自分の立場を理解し、それぞれの持ち場で、各々の役割を精一杯演じていた。それぞれの人生を全うしていた。視聴者は世代に応じて、或る時は父親の目線で、また同年代の人は主人公あかりの娘の目線で、他にも妹思いの兄貴の目線で見たり、母親の立場でご覧になった方も多いことだろう。連続テレビ小説は、国民ウケする内容が盛りだくさんだが、誰が見ても気軽に楽しめる良さがあるのではないだろうか。そして昔気質の日本家族の絆を彷彿させ、自身も人間愛を考え直す契機となった気がする。現在放送中で、「てっぱん」の後継番組の「おひさま」も傑作のようだ。この「てっぱん」は、私にとっては特別思い入れが強いドラマとなったが、今後もこのような国民的番組をどしどし世に送り出して貰えたら幸いだ。それを楽しみにしつつ、今回のテーマを閉じたい。最後までご覧頂きありがとうございました。

 記事作成:9月1日(木)

 

2011年9月 2日 (金)

てっぱん迷珍場面ベスト10~前編~

Teppan  またまた連続テレビ小説「てっぱん」に関するシリーズで申し訳ない。そろそろこの記事も見飽きた頃かと思うが、ご容赦願いたい。私にとってこのドラマは、冬ソナ以来の大ヒットであり、私の世代は特に、昔ながらの手法で描いた、いわばアットホームな作品についつい心を惹かれてしまう。前回は感動場面や名場面を特集し、独断と偏見で選び抜いたベスト20位までをランキングで紹介したが、今回は趣向を変え、見ていて微笑ましい光景や、思わずプッと吹き出してしまう「抱腹絶倒シーン」を集めて一挙お送りしたい。ドラマの設定が、養子だったことを知ってしまった主人公あかりが、単身大阪に乗り込み、実のおばあちゃんに挑戦しながら、自分探しを行っていくという、どちらかといえばシビアなテーマだったことで、涙を流したり、悩んだりするシーンが多かった。しかし、この作品はNHKには珍しく、コミカルな演出もところどころに鏤められ、その都度光彩を放っていた。今回は全151話の中から、私が選りすぐった「笑いを誘うような迷珍場面」を取り上げたい。きっとそれぞれの出演者の個性が、場に応じて生き生きと光り輝いていたように思える筈だ。それでは早速、独断と偏見で選んだマイランキングを紹介したい。

 第1位 隆円さんの「ダバダバの法則」に照れまくる欽也(第119話・第121話)

 小早川のぞみと欽也のロマンスにいち早く気づき、ちゃちを入れる隆円。橘さんの登場によって村上家総出で大阪に押しかけた時、洗い物をし、のぞみから自然に食器を受け取る欽也を見て、間髪入れず「あうんの呼吸じゃの~」と問い詰める。慌てふためいて取り乱す欽也を見て「何照れとる~ダバダバか~?」とからかい始めたのが発端。また、別の回では、店でふたりが話している最中、「♪ダ~バ~ダ~ダバダバダ~♪」と自分で口ずさみながら割って入ってくる。欽也も「変なこと言わんでよ~」と言いながらまんざらでもない。そしてふたりの会話中、家族が店に入ってきた際、「いいとこじやったのに気がきかんの~」と秘密を暴露。母親の真知子やあかりから「お邪魔じぁったかね~」と冷やかされ、照れまくる欽也。そして恥ずかしくて店を出ようとする欽也に対し、隆円さんがドアが開かないよう中から引っ張って入れさせないように意地悪をする。とにかくこのシーンはほのぼのしていて傑作ナンバー1。やっぱり隆円さんはいい味出してる。

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 第2位 村上錠の名(迷)言挨拶(第12話)

 「金へんに定めると書いて錠と言います。」という丁重すぎるまでの律儀な自己紹介を行う。劇中何度もこのセリフを耳にした。娘・千春を捜して初音が尾道の村上鉄工所を訪れた時や初めて「おのみっちゃん」のお店を訪れた際、あかりの実父である橘と面会した場面でも同じフレーズで始めた。そして一番笑えたのが、あかりが尾道から旅立つ日のシーン。進水式のスピーチで、舞い上がったお父ちゃん(錠)は、のっけから外しまくった。まず、いつもの常套句での自己紹介から始まり、続いて家族構成を紹介。これが大笑い。進水式という場にそぐわないスピーチ。長男・欽也のことは「金欠也(きんけつなり)と書いて欽也、こともあろうに信用金庫勤めでございます」と言わなくて良いことまで暴露。更に次男・鉄平のことは「金を失うと書いて鉄平、名前を付けてから気づいた次第であります」と失言。セレモニーに集まった来賓を苦笑させた。最後には大阪に旅立つ愛娘に向けて、「瀬戸の花嫁」を熱唱するほどの親バカぶりだった。それほど長女・あかりのことは目の中に入れても痛くないほど可愛がっていて、本当の親子以上の愛情を注いで育てたことが見て取れる。あかりのことになるとすぐに無気になって頭に血が上るあたりは実に微笑ましかった。

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 第3位 夢の中でベッチャーに追い回されるあかり(第3話)

 初音の電撃お宅訪問によって、村上家の養子だったことが明るみになり、知りたくもなかった事実を知らされたあかり。その夜、彼女は悪夢にうなされた。幼少の頃、ベッチャーのことが大嫌いだったあかりは、その夢を見た翌朝は必ずおねしょをしていたのだった。ベッチャーに追い回されて恐怖に戦く表情と、初音が角を生やした鬼(ベッチャー)に扮し、「あんたはここの子やない、ウチの子なんや~」とてっぱん返しを叩くシーンは傑作だった。そして慌てて飛び起きた時のあかりの表情も可愛かったし、「悪夢じゃ」という台詞も絶妙。朝の食卓で、母親に「おねしょ」を問いただされ、「アホか、17の娘つかまえて」というのも笑えた。

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 第4位 西尾冬美の冷やかし顔(第123話・第124話)

 あかりが実の父親との対面を果たした直後、ひょっこりお店に現れた冬美。実家の新潟に引っ込んでから久々の大阪訪問だった。そこで8か月振りにお店や下宿先での劇的な変化を痛感する。特にあかりを取り巻く恋愛模様が急進展していることに驚くが、その時の反応が愉快痛快だった。まず、浜勝の社長とあかりが「おのみっちゃん」で、お父さんと対面したことについて話している場面では、ふたりの表情を見比べながら「ニタニタ」。そして自分も照れながら「うふふふ」とほくそ笑む。「えーっ、どうしたんですか急に?」と気味悪がるあかり。また、あかりと滝沢がふたり並んで食器洗いをしている現場に出くわすと「何、何、あんたらいつの間に~?」とちゃちを入れる。自分も一緒にお風呂に行くというあかりを制止し、「あとは若いお二人さんで、も~ど~も~お邪魔しました~」と冷やかす。この一連の間や微笑ましいやりとりは、あかりを妹のように可愛がっていた冬美でしか出せない味だった。そして伝さんの家に冬美と浜勝社長、岩崎先生が集まって飲んでいた時には、「あんた前から聞こう思うとったんやけどな、もしかしてあんた、おのみっちゃんのこと・・・」「そうや悪いんかい」と社長。すると「キモっ」というのもウケた。「あんたよ~そんなんで鰹武士(節)ってお侍名乗ってんな、本気で思ってんのやったら真剣に勝負してみぃ、お侍さん!」とはっぱをかける。「いっそ尾道まで追っかけちゃえ、足の速い男の子(滝沢)にさらわれる前にな」と唆す。冬美の好奇心旺盛でひょうきんな性格が出ている場面だった。この冬美のからかい癖は以前からあったものだ。尾道で合宿を張ったことが判明した際には、もしかして恋のタイフーン?」と冷やかしたり、お盆休みで尾道に里帰りしたあかりを待ちわびる初音をからかったり・・・。人一倍人の心理状態を読む才能に長け、何かと首を突っ込みたくなる性格。結構場を和ませる不思議な力を秘めていた。

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 第5位 鉄平の置き手紙で滝沢があかりのことを好きだと指摘された時の反応(第97話)

 鉄平が尾道に帰り、実家の鉄工所を継ぐ決意を固め、お世話になった大阪の方々にお礼の手紙を認めた。翌朝、下宿人たちが食堂でお互いのメッセージを披露。しかし、滝沢は「大したこと書いてなかったわ」とトボケようとする。「あ~恥ずかしい秘密でも書かれとるんじゃね~」とあかりに冷やかされる。そして油断した隙に民男に手紙を盗られ慌てる。そこには「駅伝へ。お前本当はあかりに惚れてるの」との鋭い指摘が書かれてあった。民男に「お兄ちゃんはお姉ちゃんのこと好きってこと?」と問われ「そうなん?」と目を丸くして滝沢のほうを向く。この表情はすっとんきょうで、可愛らしい反応だった。

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 さて、ベスト5までお送りしたが、自分の好きなシーンはあったでしょうか?改めて見ると主人公のあかりだけでなく、登場人物の個性には目を奪われるものがある。「欽にぃ」にしても「お父ちゃん」にしても、「久太さん」だって、笹井さん、民男くんにしても皆いい味出している。脇役とはとても言い難い存在感を醸し出している。個人的には隆円さんが好きだが、伝さんもいぶし銀の役どころとベテランの円熟した演技力が冴え渡っている。浜勝の社長も小夜子さんも冬美さんもしっかり脇を固めていた。聞いたところによると出演者同士が皆、本当の家族のように仲が良かったようだ。だから随所にそうした温かい雰囲気を感じ取れたのだと思う。

 もう少し続きを見たいところだと思うが、今回はベスト5までで勘弁してほしい。本当はベスト10を一気に紹介するつもりで、一度は完成した記事なのだが、一回ですべて読み切るにはもったいないと判断し、2回シリーズ(前編と後編)に分けてお送りしたいと考えた次第だ。続きは翌日のお楽しみ。貴方の好きなシーンが登場すれば嬉しいのだが・・・。もし差し支えなければ、あなたが好きなシーンをコメントなどで教えてほしい。

 記事作成:9月1日(木)

 

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