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2011年9月23日 (金)

栄光のV9戦士たち~後編~

 3回シリーズに拡張してお送りして来た「栄光のV9戦士」もいよいよラストを迎えた。本日は、常勝巨人軍の屋台骨を支えた強力投手陣とスタッフに焦点を当てたい。実は私はあまり投手陣の顔ぶれを知らない。先発投手は堀内と高橋の左右のエースは知っているが、第三の男が誰だったのか、華々しい戦績を残した選手が一体誰なのか印象に残っていない。おそらくこれは、往年の名投手は金田正一にしろ、稲尾和久にしろ、怪童尾崎にせよ、連戦連投だったのではないか?だから1シーズン42勝などという途方もない勝ち星を残せたのだ。まさに鉄腕である。金田の400勝も冷静に考えれば末恐ろしい数字だ。昔の投手は強靱な肉体の持ち主だったようだ。

 城之内邦雄(背番号15→12)

 彼は当時、「エースのジョー」と呼ばれた。これは小林旭主演の日活映画の「渡り鳥シリーズ」で共演した宍戸錠の役名から付けられたニックネーム。佐原一高では3年生のとき投手になり、日本ビールを経て、1962年に巨人に入団。新人ながら開幕投手を務める(その後新人の開幕投手は22年後の高野光までプロ野球には出現しなかった)。この年24勝、防御率2.21で新人王を獲得。豪快なフォーム(一旦打者に背を向ける、野茂英雄の「トルネード投法」の先祖ともいうべきスタイル)から投げ込む速球とシュートを武器に、入団から5年で101勝を挙げ、7年連続で2桁勝利を記録した。入団から5年で100勝に到達した投手は城之内以降、現れていない。1965年から1973年にかけて続いたV9時代の初期におけるエースとして活躍。1968年5月16日の大洋戦でノーヒットノーランを達成。その後は腰痛に苦しみ登板機会が減り成績も下降。1971年には腰痛は回復し球威も全盛期に近い状態まで戻っていた(本人談)が、失った信頼を再度得ることは出来ず登板機会は与えられなかった。「巨人の城之内」で終わりたいという本人の希望も有り1971年退団、任意引退となった。

 通算成績
 359試合登板 141勝88敗 勝率.616 奪三振 936  防御率 2.57

Jyounouchi

 中村稔(23→26)

 城之内(先発)、宮田(リリーフ)と共に3人の20勝投手を出した時の中心メンバー。三重県伊勢市出身。宇治山田商工卒業後の1957年に巨人軍にに入団。1961年には17勝10敗・防御率2.13をマークし、1965年には20勝4敗・防御率2.21をマークするなど主力投手として活躍した。1969年に現役引退。引退後は巨人で投手コーチを務めた(1977年までは二軍担当)。また、1978年から1996年までは日本テレビやラジオの野球解説者を務めた。藤田元司が巨人監督の時は、必ず投手コーチに中村を起用していた。

 通算成績
 352試合登板 72勝53敗 勝率.576 649奪三振 防御率 2.76

Nakamura

 堀内恒夫(背番号21→18)

 山梨県甲府市出身の元プロ野球 選手(投手)・監督。 ニックネームは「悪太郎」、「甲府(甲斐)の小天狗」、「ホリさん」等。 現在は日本テレビ野球解説者。1965年のドラフト1位で巨人軍に入団し、1年目の1966年から一軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。入団時の背番号は21だったが、翌1967年からはエースナンバー18を背負った。27歳の若さで150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1972年には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。
 私は個人的に彼のエピソードは3つ覚えている。ひとつは小天狗と呼ばれていたほど悪態を突いていた。遠征で門限を破り、王貞治に殴られたことと、バッティングも天才的で、1試合3ホーマーを打ったこと、更にはV9がかかった甲子園球場での対タイガース最終戦で先発し、2塁を踏ませない好投で9-0で圧勝し、逆転Vを達成したことだ。
 大の練習嫌いで才能だけでやって来た選手と自白したが、学者肌で監督には向いていないのに監督を引き受け、巨人を低迷させた。

 通算成績
 560試合登板  203勝139敗 6セーブ 勝率.594 奪三振1,865 防御率3.27

Horiuchi

 高橋一三(背番号21)

 V9時代の貴重な左腕エース。広島県出身で北川工業から1965年に巨人に入団。張本との大型トレードで、1976年から日本ハムに移籍。最優秀投手2度、最多勝1度、最多奪三振1度、ベストナインに2度選出している。青いグローブと顎のほくろが印象的だった。全身をバネのように使い、深く沈み込むダイナミックなフォームが特徴だった。
 通算成績
 595試合登板 167勝132敗 12セーブ 勝率.559 奪三振1,997 防御率 3.18

Takahashikazumi

 横山忠夫(背番号13)

 北海道出身。網走南ケ丘高校から立教大学を経て1972年に巨人へ入団。巨人には6年間在籍し、ロッテへ。181cmの長身から投げ下ろす直球は威力があった。

 通算成績
 70試合登板 12勝15敗 勝率.444 奪三振129 防御率 4.64 

Yokoyama

 小川邦和(背番号54)

 尾道商業高校から早稲田大学、日本鋼管を経て巨人に1973年に入団。アンダースローの技巧派だった。巨人在籍は5年だったが、大リーグの3Aや2Aを経験した後、広島へ移籍した。

 通算成績
 248登板 29勝20敗 9セーブ 勝率.592 奪三振252 防御率 3.83

Ogawa

 高橋良昌(背番号15)

 高知県出身。高知商業から中央大進学、1967年に東映に入団後、1973年から1977年まで巨人で活躍。僅か5年で引退したが、記憶に残る投手だった。善正が本名。

 通算成績
 384試合登板 60勝81敗 7セーブ 勝率.426 奪三振625 防御率 3.34

Yoshimasa

 関本四十四(背番号20)

 今でいうセットアッパーで、貴重な中継ぎ投手だった。新潟県出身で糸魚川商工から1968年に巨人に入団した。1971年には最優秀新人に輝いた。また、1974年には最優秀防御率投手となった。私が小学生の時分、お風呂でラジオのナイター中継を聴いていて、二死満塁の場面で打者を三振に取ってピンチを切り抜けた場面を痛烈に覚えている。
 通算成績(11年)
 166試合登板  27勝41敗 1セーブ 勝率.397 奪三振257 防御率3.14

Sekimoto

 渡辺秀武(背番号11)

 冨士高校から日本軽金属経由で1963年に巨人に入団。10年間で83勝59敗の好成績を残したが、日拓(日本ハム)、大洋、ロッテ、広島と渡り歩いた。巨人時代の1970年に23勝を挙げてV6に大きく貢献した。

 通算成績(20年)
 試合登板 118勝100敗 8セーブ 勝率.541 奪三振1,041 防御率3.35

Watanabe

 倉田 誠(背番号54→17→15)

 東京都出身。鶴見高校から1965年に巨人入団。16年間の現役生活のうち、巨人には12年間在籍し、その後ヤクルトで活躍した。1973年には18勝を挙げ、V9に貢献した。

 通算成績
 374試合登板 55勝37敗 13セーブ 勝率.598 奪三振644 防御率3.36

Kurata

 宮田征典(背番号24) 

 ご存知V9時代には欠かせないリリーフエース。いつも試合終盤の先発投手が疲れた頃に、颯爽とマウンドに現れ、試合を締める。ちょうど登板する時間から「8時半の男」の異名をとった。群馬県出身で前橋高校から日本大学を経て1962年に巨人入り。8年間という短い在籍および現役生活だったが、しっかりと人々の記憶に残る投手だった。

 通算成績
 267試合登板 45勝30敗 セーブは当時は不詳 勝率.600 奪三振460 防御率2.63

Miyata Miyata2

 藤田元司も巨人のエースとして活躍したが、V9の前に引退していた。また、巨人の左右のエースとして活躍した小林繁(故人)と新浦寿夫もまた、V9とは関係が無く、第一次長嶋監督時代の活躍選手だった。

<監督>

  川上哲治(背番号16→77)

 ご存知現役時代は背番号16(永久欠番)の「打撃の神様」赤バットの川上。ボールが止まって見えると言う名言を残した。ここではV9がテーマなので、巨人黄金時代を築き上げた監督としての実績について触れたい。

 1961年に名将水原茂が辞任後に監督就任。1961年から14年間、巨人ひとすじに指揮を執った。就任したばかりの年にいきなり優勝。以来、常勝巨人を築き、V9を含む11回の優勝(すべて日本一)を成し遂げた。つまり、日本シリーズでは無敗を誇った。徹底した管理野球で選手の実力を判断し、適材適所で役割分担を明確にした。牧野茂をヘッドコーチに抜擢し、頭脳的な戦略で他のチームを圧倒した。もっともONという無類の強打者を核とした切れ目のない打線があってのことだが。血液型はA型。

 監督としての成績
 1,866試合 1,066勝739敗 61引き分け 勝率.591

Kawakami V9  

<コーチ>

  牧野茂(背番号72)

 V9時代の川上監督の片腕で名参謀役。当時の巨人監督・川上哲治が、その野球理論に感銘を受け、コーチとして迎えることを決意。1961年のシーズン途中に巨人の一軍コーチとして入団した。当時、自球団出身者以外の者をコーチとして招聘したのは巨人ではもちろん、他球団においても例がなかった。川上監督はロサンゼルス・ドジャースで実践され、成功を収めた組織野球戦術「ドジャース戦法」をチームに根ざすことを考えていた。牧野の執筆した記事を読んだ川上は、その野球理論に惚れ、ドジャース戦法導入のキーマンと考え、コーチとして入団させたのである。それまで「特別練習」と呼んでいた練習をより強い意味にしようという思いから「特別訓練」、略して「特訓」という言葉を生み出した。これがマスコミによって喧伝され、現在では誰もが当たり前に使う言葉として定着したのはいうまでもない。この年の巨人のキャンプはドジャースの本拠地アメリカのベロビーチで行われた。牧野はチームの帰国後もアメリカに残り、ドジャーズ戦法をはじめとした組織野球戦法の研究に努めた。そしてその成果は1965年から1973年までの9連覇という形で現れる。以後作戦コーチとして活躍。川上巨人の名参謀として川上監督の絶対的な信頼を得た。三塁コーチスボックスにコーチが立って選手にサインを送る姿は現在では珍しくないが、それを最初に実践したのは牧野である。それまではチームの監督が立ってサインを直接選手に送っていた。監督がコーチに作戦を指示し、それをコーチがブロックサインで選手に送る方式は、V9時代の巨人がパイオニアである。その他にも、柴田勲のスイッチヒッターへの転向や、宮田征典の成功によるストッパー、セットアッパーの登場、ケガや病気による選手の二軍調整など、現在のプロ野球の常識となった手法はV9の巨人で最初に行われたものが多い。川上哲治はのちに『知ってるつもり?!』で牧野が取り上げられた際、「もし牧野がいなかったら、巨人の『V9』は達成できていなかっただろう」と話していた。

 また、長嶋監督が辞任後、藤田元司が監督に就任した際も、王助監督と共にヘッドコーチに就任し、トロイカ体制で巨人の復権に貢献した。

Makino

最後に、巨人ファンならば、誰もが見たいであろう2つの貴重な映像を紹介したい。

1.伝説の巨人対阪神戦(V9達成の前日の首位攻防戦)

2.日本シリーズV9達成の瞬間



3.メンバー回顧(巨人の星)

 さて、如何だったでしょうか。3日間に渡ってお送りした「栄光のV9戦士たち」の記事を懐かしく回顧して頂けたら幸いです。私が野球少年だった頃、巨人の並はずれた強さは、熱狂的なプロ野球ブームを呼び、誰もが憧れの選手がいて、目標にしていたと思う。今となっては40年ほど前の出来事で、古き佳き時代の想い出だが、常勝巨人が一世を風靡していた、時代を席巻していた頃が確かに存在していた。最近の巨人の戦いぶりは目を覆わんばかりである。先輩たちが築き上げた伝統を汚さぬよう、全力プレーを心がけて貰いたいものだ。最後に苦言を呈してこの記事を締めたいと思う。

 記事作成:9月21日(水)・22日(木)

 

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