今は亡き白虎隊の出演者達
私が大学生だった頃、年末になると決まって大型時代劇が制作&放送されていた。「忠臣蔵」に始まり、翌年(1986年)は二日間に分けて6時間もの超大作の「白虎隊」が放送された。キャストは毎年同じ顔ぶれだったが、その豪華さは他の比ではなかった。この壮大なスケールで撮影された「白虎隊」は、県内のみならず、全国に多大な反響をもたらした。もとより観光地だった会津が取り上げられただけでなく、あちらこちらでロケが敢行されたのだ。日新館、会津武家屋敷、飯盛山、鶴ヶ城周辺などである。
この番組が2日連続で放送されるやいなや、年明けからドラマの感動が人を呼び寄せ、全国から観光客がわんさか訪れたのだった。特に、白虎隊が集団自決を遂げた飯盛山や形状が美しい鶴ヶ城には観光客が大挙して押し寄せ、周辺のロケ地では、屋外スピーカーで主題歌となった「愛しき日々」がエンドレスで流され、それは空前の観光ブームで賑わったものだった。あれから25年の歳月が流れた。
昨年、そのDVDをレンタルし、久し振りに全編後編をフルで見た。すると記憶の片隅にあった様々な感動場面が鮮やかに甦り、幕末の戦乱を生きた会津人たちの意気と誇りを感じたものだった。愛する御國のために一命を投げ打って尽くす会津武士道、「ならぬものはならぬ」の厳しい規律、保科正之が定めた会津藩の伝統的な家訓(15箇条)を伝承してきた高尚な会津の魂が宿っていたことをつぶさに感じ取れる内容だった。そして、同時にこの名作に出演したキャストの多数が、残念ながらこの世を去っていることにも気付いた。
特に、先月の名優・竹脇無我の急逝は衝撃的だった。そこで今回は、会津にゆかりのある私が愛してやまない「白虎隊」の出演者で、既にお亡くなりになられた方々を紹介して行きたい。当時を懐かしむと共に、その足跡を辿ることで名優たちを偲びたいと思う。
神保内蔵助役ー丹波哲郎(1922年7月17日-2006年9月24日)
神保家は家禄1000石の上級藩士である。内蔵助は200石を加増され1200石を食んだ。1862年閏8月、若年寄から家老に就任し、藩主・松平容保に仕えるが翌年10月に免職。1864年に復職した。禁門の変では新撰組と協力し、天王山に立て籠もった真木和泉ら17名を自決に追い込んだ。戊辰戦争では会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく六日町口の守備にあたったが防ぎきれず、甲賀町口の守備にあたっていた家老田中土佐と共に医師の土屋一庵邸で自刃した。享年52。
丹波哲郎自身はかなり個性が強く、話し方も独特な節回しやイントネーションの置き方にも特徴があった。中央大学法学部出身のエリート役者だが、代表作は「キーハンター」、「Gメン’75」のボスがハマリ役だった。刑事ドラマ、時代劇や戦争物には欠かせない大人物だった。晩年は霊界の伝道師として俳優兼監督として存在感を示した。84歳没。
井上丘隅役ー森繁久弥(1913年5月4日-2009年11月10日)
元会津藩士であり、剣術の師範として日新館などで後進の指導にあたっていたが、戊辰戦争発生時には隠居の身だった。家老たちも一目置く存在。この役は森繁久弥のハマリ役だった。屋根の上のヴァイオリン弾きや東宝社長シリーズ、大河ドラマや大型時代劇には欠かせない重鎮的存在であった。交友関係が広く、96歳まで長生きした名優だった。
野村左兵衛役ー竹脇無我(1944年2月17日 - 2011年8月21日)
文化12年(1815年)、400石取りの家臣・野村直樹の次男として生まれる。幼少時から聡明で知られ、長じては長沼流兵学を修め軍事奉行として起用された。安政6年(1859年)には藩主・松平容保から江戸屋敷公用人に任じられる。文久2年(1862年)には容保の京都守護職就任に賛成したため、信任を受け、禁門の変の後に京都会津藩筆頭公用人に昇進した。温厚篤実で和歌を嗜む教養人だったことから幕府にも公家にも受けが良く、「先生」という敬称で呼ばれて人望が厚く公家や諸藩との交渉で手腕を発揮している。加増を受け禄高は550石となった。 また、公用方への幅広い人材登用と権威拡張に寄与した。慶応3年(1867年)5月19日、病に倒れ死去した。享年53。ドラマでは、敵弾にあたって亡くなったことになっている。辞世の句は「のりならす 駒のひづめの 香るまで 並木の桜 春風の吹く」だった。
私は竹脇無我は個人的に好きな俳優だった。特に「大岡越前」で登場する小石川療養所の医師役では、北町奉行の大岡忠相守の相談役的な役割を担い、好評を博した。誠実な人柄で、声や話し方にも長け、魅力的な俳優だった。現代劇にも数多く出演したが、やはり髷を結った武士役など時代劇役者としての印象が強い。森繁久弥を実の父のように慕っていた。代表作は他に「姿三四郎」「江戸を斬る」「人生劇場」。67歳没。
間瀬まつ役ー南田洋子(1933年3月1日 - 2009年10月21日)
間瀬岩五郎・源七郎・きよの母役として実の夫婦揃って白虎隊に出演していた。巧妙な会津弁を使い、お歯黒スタイルで登場した。落ち着いた物腰の名演技が光る女優だった。発声が個性的だった。プライベートでは俳優・長門裕之の妻として相思相愛のおしどり夫婦だった。主な出演作は、「十代の性典」「太陽の季節」伊豆の踊子」76歳没。
篠田兵庫役ー長門裕之(1934年1月10日 - 2011年5月21日)
南田洋子の夫で、役柄としては「池中源太80キロ」の編集長役がハマリ役だったが、芸歴は古い。日活の子役としてスクリーンデビュー。銀幕の俳優として人気を博した。立命館大学中退し、演劇の道に邁進した。家族、親戚縁者が俳優で占めているサラブレッドでもあった。代表作は「無法松の一生」「太陽の季節」(南田洋子と出逢う)、「にあんちゃん」など。実弟の津川雅彦と長年にわたる確執があったが、晩年に和解。惜しまれつつこの世を去った。白虎隊では白虎隊士の篠田義三郎の父親役(会津藩士)として登場。長男とともに戦死した。次男の名前を叫びながら絶命した場面は迫真の演技だった。77歳没。
沖田総司役ー中川勝彦(1962年7月20日 - 1994年9月17日)
このドラマで新選組の沖田総司役を務め、美男子だった中川勝彦もまた、演じた夭逝した沖田と同様、僅か32歳の若さでこの世を去った。中川勝彦は中川翔子の実父である。東京都出身で、ミュージシャン・歌手、俳優、声優と多彩な活躍をしたマルチタレントだった。個人的にはロッカーとしてのイメージがある。血液型A型は娘の翔子と同じ。
ドラマでは、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛する際に、剣闘鋭く敵を斬りまくり、直後に喀血。近藤正臣演じる土方歳三に抱えられながら引き上げたシーンが印象的だった。
俳優としては、テレビドラマ等で活躍していたが、1992年9月に急性骨髄性白血病を発症した。以後9か月の闘病生活を経て復帰するも1994年8月に白血病が再発し、32歳で死去。1986年に24歳で演じた沖田総司が厚顔無恥で適役だった。残念だが、この僅か8年後に亡くなった。
老人役ー加藤 嘉(1913年1月12日 - 1988年3月1日)
昔のことはわからないが、私が物心ついた時には名バイプレーヤーとしての地位を確立し、老人役ばかりだった。特別個性があるわけではなく、一老人として民衆の中に埋もれてしまうことが多い中、普通のお年寄り的存在の彼を中心に据えて喋らせることで、民意を代弁する象徴として際立つ存在となった。白虎隊では、ややアルツハイマー的で会津藩が敗色濃厚になる中、城壁に意味もなく石を積み上げて予期せぬ場面で思いもよらぬ行動で周囲を驚かせる役どころが多かった。彼自身も一風変わった特徴的な番組に出演することが多かった。人は見かけで判断できない。彼は慶應義塾高校のOBである。代表作は他に「女の一生」「砂の器」「白い巨塔」1983年の映画『ふるさと』では、モスクワ国際映画祭の最優秀主演男優賞を獲得している。75歳没。
田中土佐役ー佐藤 慶(1928年12月21日- 2010年5月2日)
文政3年(1820年)、会津藩家老・田中玄良の長男として生まれる。田中家は会津九家に数えられる藩内の名門で、家禄は2000石である。父と同じく家老として藩主・松平容保に仕えた。文久2年(1862年)、容保が幕府から京都守護職就任を命じられた際、同じく家老の西郷頼母と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。しかし京都守護職就任が決定すると、野村左兵衛らと先んじて上洛し、事前調整に努めている。戊辰戦争では会津戦争において、会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく、甲賀町口で戦った。畳を銃弾を防ぐ壁にして奮戦したといわれるが負傷し、家老・神保内蔵助と共に医師・土屋一庵(150石)の屋敷で自刃した。享年49。
佐藤慶自身は会津出身。俳優だけでなく様々なジャンルのナレーターとしても引っ張りだこだった。和服が似合うことから任侠ものに多数出演した。落ち着いた存在感のある名優だった。81歳没。
七兵衛役ー高品格(1919年2月22日 - 1994年3月11日)
大都会の黒岩刑事率いる刑事役の印象が強い。主役を張ることはなかったが、名バイプレーヤーのひとり。年相応の渋みがかったいぶし限の名演技が光った。小柄で低い声が特徴的だった。代表作は「嵐を呼ぶ男」。75歳没。
井上とめ子役ー山岡久乃(1926年8月27日 - 1999年2月15日)
京塚昌子、池内淳子と並び、ホームドラマには欠かせなかった「日本のお母さん」である。特に昭和40年代に一世を風靡した「ありがとう」や「渡る世間は鬼ばかり」は、母親役を不動のものにした。白虎隊では、井上丘隅の妻役として、城内の世話役を司り、籠城戦の最中、赤ん坊を取り上げたり、そこに居るだけで安心できる特異な存在だった。72歳没。
中川宮役ー松山英太郎(1942年7月9日 - 1991年1月11日)
中川宮は、長州討伐を決断できない帝に代わり、御宸翰(ごしんかん)を持ち出し、幕府守護職の会津藩に命を下すなど、幕府側に肩入れし、会津藩の便宜を図った朝廷の宮様。松山英太郎と言えば、時代劇やホームドラマの顔だった。「江戸を斬る」の鼠小僧次郎吉がハマリ役。1970年代に高視聴率のホームドラマ「ありがとう」に出演するなど、1970年代の顔という存在だった。48歳というその早すぎる死はファンだけでなく同じ俳優仲間からも惜しまれた。
山本八重子役ー田中好子(1956年4月8日 - 2011年4月21日)
元キャンディーズのスーちゃんだが、このドラマでは再来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主役となる山本八重子を演じた。会津出身の彼女は、幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれ、戊辰戦争に多少でも貢献したいと繰り返し「夜襲」を行っていた正義感溢れる女傑である。砲術家だった山本覚馬の妹である。後に同志社大学創設者・新島襄と結婚し、新島八重子となった。スーちゃんが今年急逝されたのはファンに大きな衝撃を与えた。55歳だった。
野村(井上)ちか子役ー坂口良子(1955年10月23日 - 2013年3月27日)
井上丘隅の娘で、竹脇無我が演じた野村左兵衛の妻役だった。演技力があり、昔から大好きだった。「金田一耕助シリーズ」や「サインはV」、「二百三高地」、「池中玄太80キロ」に出演するなど、人気女優だった。
近藤勇役ー夏八木勲(1939年12月25日 - 2013年5月11日)
新撰組の局長、近藤勇役を演じた。渋い役どころが多かったが、「池田屋騒動」の鬼気迫る殺陣シーンは見ごたえ十分だった。血生臭い戦場で、威風堂々とした立ち居振る舞いが真骨頂で、存在感があり、硬派な役者だった。
他にも千葉真一と共演した「戦国自衛隊」での「長尾景虎」役は彼そのものだった。
さて、如何でしたか?少しは懐かしんで頂けたでしょうか?このドラマが公開されたのが1986年の晦日と大晦日だった。つまりあれから25年の月日が流れたことになる。まこと「光陰矢の如し」であるし、自分も歳をとるはずだ。あの頃大学3年生だった自分は、今や2児の父である。いいおっさんだ。そして栄枯盛衰を感じる。あの頃トップスターとして君臨していた憧れのスター達も今や鬼籍に入り、過去の人となった。時々「白虎隊」のDVDを見るが、時代劇という特質もあって、当時の記憶のまま脳裏に焼き付いており、あまり古さを感じない。
現在も活躍中の俳優・女優さん
里見浩太朗(西郷頼母役)
風間杜夫(松平容保役)
国広富之(神保修理役)
近藤正臣(土方歳三役)
西田敏行(萱野権兵衛役)
竜雷太(山本覚馬役)
露口茂(秋月悌二郎役)
あおい輝彦(板垣退助役)
中村雅俊(坂本龍馬役)
池上季実子(神保雪子役)
多岐川裕美(照姫役)
石橋正次(桂小五郎)
「白虎隊」番組宣伝用PVはコチラ↓
悲劇の会津戊辰戦争、そして武士としての立ち居振る舞い、潔さは会津人の魂の叫びを垣間見れた。
懐かしい「白虎隊」のオープニング(愛しき日々)はコチラ↓
この主題歌「愛しき日々」を聞く度、ドラマのシーンが思い出され、目頭が熱くなる。特に薙刀の名手だった中野竹子が鉄砲で撃たれ、回転しながら地べたに倒れるシーンは号泣。そして母親に介錯を依頼し、絶命する場面はボロボロだった。
最後に、「白虎隊」の話題に触れる際には書き漏らすわけにはいかない、我が「落城の賦」とも言うべき詩がある。それを紹介して私のゆかりの地、会津「白虎隊」に関する話を閉じたい。
~百虎の魂 飯盛の地に果てぬ~
時は幕末 京の都は暗雲垂れ込める政変の世
倒幕 維新を叫ぶ勤皇の獅子に敢然と立ち向かい
幕府最後の砦 京都守護職の命を拝した容保
尊皇攘夷が旗印 長州の策略をことごとく排除し
天下に名を轟かせた会津藩 その配下で一躍
その存在を世に知らしめた新撰組
戦の度に翻る誠の紋章はまさしく時代の象徴
されどその栄華はほんの一時に過ぎなかった
禁門の変で会津は討幕派の憎しみを一身に背負い
その後 龍馬の仲立ちで 薩摩がまさかの寝返り
同盟が成り立つや 一気に形勢は逆転
慶応四年 鳥羽伏見の戦いでの敗北を機に
錦旗が討幕派に落ちると 末代将軍慶喜は身を案じ
城を抜け江戸へと逃げ帰る
あれほど忠誠を誓った筈の将軍家の唐突な翻意
会津は後ろ盾を失い 京を追われた
やがて謂れのない逆賊の汚名を着せられ
倒幕の嵐の中へと呑み込まれていった
「勝てば官軍負ければ賊軍・・・」気がつけば朝敵
孝明天皇より授かったご宸翰も もはや過去の遺物
やがて戦の舞台は北へと移り 押し寄せる薩長連合
その猛威の前に退却を余儀なくされた
奥州会津 そこは美しい山河に囲まれた四十二万石の
城下町 剣に生き 忠義を尊び 生真面目で情け深い
それが会津人の魂
その後戦況悪化に伴い士中二番隊 白虎隊が結成された
歳の頃は十八にも満たぬ紅顔無恥の少年たち
日新館の学び舎で鍛えた強靭な精神と身体
「ならぬものはならぬ」の尊い教え
よもや会津の豊かな自然が血で汚れることなど
誰一人として想像した者はいなかった
やがて西軍が白河の関を攻め落とし その後母成を攻略
会津への玄関口 日橋川に架かる十六橋を突破し
一気に城下へなだれ込む 強大な武力の前に
ことごとく退却 そして敗走 戦況は誰の目にも明らか
ほどなく白虎隊に下った出陣の命 廻し文のお触れ
やがて城下のあちらこちらで戦火が立ち上り
噴煙のさ中で見る悪夢 それはまるで地獄絵図
戸の口原で奮闘した白虎隊だったが 圧倒的な数の前に
あえなく後退 隊士たちは四方八方散りじりに
命からがら戦場から敗走 崖をよじ登り谷間を下り
洞穴を潜り抜け 疲れ果てた末に辿り着いた運命の地
そこは飯盛山に中腹にある松林 小高き丘より
隊士たちが見たものは 燃えさかる己の故郷
そして火の海の先には 激しく燃える五層の天守閣
鶴ケ城の異名をとる美しき城も もはや落城寸前
息を呑む悲惨な光景に「もはやこれまで」と誰もが
死を覚悟 「生き恥を晒すなら死を以って尊しと成す」
それこそが武士道 それこそが武士の本懐
かくして副隊長篠田儀三郎以下隊士十六名は
遅れをとるまいと次々切腹 全員が潔く自ら命を断った
僅か十代で国を想い 故郷を護り そして儚く散った
会津の空の下 その瞼には父母の姿を思い浮かべ
死んでいったに相違ない
悲運なことに この時隊士が見たものは 燃えさかる
城下の噴煙であって 事実城はまだ落ちてはいなかった
時同じ頃 敗色濃厚となり 筆頭家老西郷頼母邸では
もうひとつの悲劇があった
妻千重子 子供 親類縁者二十一名の集団自決であった
うたかたの夢は潰え 敵に辱めを受ける前の
壮絶な最期であったとされる
「なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け」
その後も薩長の容赦ない攻撃の前に 会津藩はただただ
成すすべなくたじろぐばかり 頼みの援軍は来たらず
奥羽列藩同盟の血判などどこ吹く風 孤立無援の篭城戦
小田山に据えられた 南蛮渡来の大砲の集中砲火に
勝敗はあえなく決した 明治元年九月 会津は降伏した
それは白虎隊の悲劇の僅か十六日後のことであった
あれから百数余年が経ち
平穏な時世にあって 当時を偲ぶ名所を訪ね歩いた
四十九号国道 強清水より峠を深く分け入れば
そこは歴史を辿る旅路 そこで繰り広げられた時代絵巻
遠い昔の出来事が現世に甦る
旧街道に架かる滝澤峠を下れば 城下へ続く一本道
その出口にあるのは戊辰戦争時の本陣跡
柱には今も生々しく残る刃の跡 その南側一帯こそ
白虎隊ゆかりの地 飯盛山 非業の死を遂げた場所には
終焉を印す墓標 眼下に広がる綺麗な街並み
霞の彼方にうっすらと浮かぶ 鶴に例えし美しき城
白虎隊士も見たであろう丘の上より あの日の光景を
しかと見届け脳裏に刻み込む
そして高台の石畳には 肩を並べて佇む十九の墓石
彼らの早すぎる死を悼み 線香を手向ける人々が
今も後を絶たない
そしてその外れの山林にひっそりと立つ 飯沼の墓
彼こそ全員が自刃した筈の白虎隊士の唯一の生き残り
まさに歴史の目撃者 そして生き証人 皮肉にも彼が
生き残ったために 壮絶な白虎隊の悲劇が
後世まで語り継がれることとなった
志半ばで戦火に倒れ散っていった 勇ましき会津人の魂
それを心の奥底で感じ 夕焼けに染まる天守閣を
しかとこの目に焼きつけ 会津を後にした
終戦から早幾歳月 こよなく会津を愛し美しき山河を守り
死んでいった多くの防人たちの魂の叫び
今もこの胸に去来して止まず
その遺志を引き継ぎ 天下泰平の世を続けることこそ
我等が使命 そして彼らへの何よりの供養
今の会津があるのは 多くの犠牲があるおかげ
会津白虎の魂は 脈々と現世に受け継がれ息づいている
彼岸獅子が秋の訪れを告げる頃 決まって私は
今は亡き祖父母の郷里会津を訪ね 来し方行く末を案じ
いにしえの歴史を胸に刻み、思いを馳せるのである
「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」
薙刀の名手で 若くして戦場に散った中野竹子の辞世の句である
記事作成:9月7日(水)
追記
あまりにも要望コメントが多かったため、この記事を作成2年3ヶ月後の平成25年12月21日(土)に沖田総司役を演じた中川勝彦さんの記事を追記として掲載しました。
この番組は1986年に放送されたが、あれから31年後の今年(2017年)1月、日本テレビ制作だったのに、なぜかテレビ朝日系列の福島放送で6日間、この番組が放送された。懐かしいと思う反面、大勢の方が亡くなられてしまったことを残念に思う。
追記
この記事を公開後に亡くなられた方、あるいは死去が確認された方をここに追記として掲載致します。
佐々木只三郎役ー中康次(康治)
セツ役ー中原早苗
西郷律子役ー南美江
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こんにちは。
年末に地方番組で白虎隊をやっていて、懐かしく見ていました。
そして、この人もこの人も亡くなったなあ…と思っていたところです。
因みに 沖田くんの役をやった中川勝彦も亡くなってます。中川しょこたんのパパです。
この大型時代劇は全部見ましたよ。
子供心に感動が大きく、何度もビデオを借りてきて見たものです。
いい俳優さんがいっぱいでてました。本当によかった。
私は出身が新潟なんで会津には何度も行きました。白虎隊を偲ぶツアーも勝手にやってました。
ーきくさん、初めまして。管理人のSUZUです。私の拙い記事をご覧いただきましてありがとうございます。
中川勝彦さんの情報ありがとうございます。実は、彼は中退されたようですが、私と同じ大学に通っていたようですね。美少年として名高い沖田総司役にぴったりの美男子でした。でも、中川翔子のお父さんだったとは知りませんでした。もう18年も前に亡くなっていたとは・・・。32歳の若さで急性白血病で他界されたのですね。もし生きていれば今年50歳。さぞかし味のあるいい役者になっていたことでしょう。残念です。
ところで、私自身は被災地・郡山市出身ですが、私の祖父母が会津出身ということもあり、昔から会津は特別の地でした。私自身も平成元年から2年まで1年間住んでいました。「会津三泣き」というのも経験し、会津の土地柄や人情の厚さに惚れこみました。新潟と同じく雪の量も多くて、寒い場所ですが、その分、人に対して優しいのだと感じました。「白虎隊」、今の若い方々はこのドラマを知らないでしょうが、会津武士道を受け継いだ白虎の魂は、後々の世まで語り継がれてほしいと願っています。また、何かお気に入りの記事がございましたら、コメント頂ければ幸いです。
なお、会津に関する下の記事も、ぜひご覧ください。
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-015d.html
投稿: きく | 2012年1月 6日 (金) 16時59分
こんにちは、私はこの時代劇が放送された1986年に生まれた会津出身の者です。私もこの作品が好きで何度も何度も見返しました。特に修理様が亡くなる所は何度見ても泣きました。この作品が出て30年、私も30歳になり、数年前に他県の方と結婚をしました。その相手を紹介する時、『何県の方?』と両親や祖母が気にしていたのを思い出します。山口や鹿児島じゃないよ、と言った時のほっとした顔が忘れられません。もう何年も経っているのに、まだまだ根深いんだな、と実感しました。私自身、今のこの世の中は維新派がいたからこそと分かっていても、寝返った薩摩や同盟を促した坂本龍馬を好きになる事は出来ません。本音は末代将軍の慶喜も好きではありませんが、慶喜を嫌いだと言ってしまえば会津藩の徳川家に対する誇りや忠誠を踏みにじる気がして申し訳なく思ってしまいます。不思議ですね、その時代を生きた訳でもないのに、『会津は賊軍じゃない』と
叫びたくなります。
今は毎日の生活や子育てに追われ忙しくしていますが、会津の心を忘れずに生きていきたいです。
長文になり、失礼致しました。
・・・えみさんこんにちは。嬉しいですね。この物語に共鳴してくれる若い方がいて・・・。私の祖父母は会津地方出身(磐梯町と河東町)で、祖父は旧制会津中学を出て、剣道を行っていたため、会津武士道の精神を持っていて、私も幼少期には剣道を習っていました。その祖父から、白虎隊や会津戊辰戦争の話を聞かされていました。
大学生の頃に、このドラマがテレビで放映され、すっかり会津が好きになりました。
えみさんが、会津人の誇りを胸に日々生活していることに深く感銘を受けます。私自身も、転勤で1年間、会津若松市に住んでいましたが、会津人の情の深さに「三泣き」を経験し、大好きになりました。その後も毎年欠かさず訪れている
街です。
また何か気になった記事がありましたら、コメントを頂けたら幸いです。
最後にえみさんに紹介したい、詩がありますので、ぜひご覧ください。これは私のホームページに掲載した詩です。タイトルは「白虎の魂 飯盛の地に果てぬ」です。この記事の最後に掲載したものの元になっているものです。(SUZU)
http://homepage3.nifty.com/tmsuzu/byakkotai.htm
投稿: えみ | 2016年3月17日 (木) 15時51分