栄光のV9戦士たち~前編~
昭和40年から昭和48年まで川上哲治監督率いる読売巨人軍が9年連続セ・リーグ制覇、そして日本シリーズ9連覇の大金字塔を打ち立てた。それまでどこのチームも成し得ていないし、これから未来永劫も不滅の大記録だろう。その原動力は、充実した戦力と勝利の方程式を最初に確立したチーム構成だったことに起因する。特に役割分担を明確化した打線と投手力、そして見事なまでに管理野球を実践した川上監督の采配は、現代のメジャー型の野球スタイルを彷彿させるものだった。ドラフトがない時代に有能なスター選手を一堂に会し、ONを中心とした強力布陣で「巨人大鵬玉子焼き」と呼ばれるほど時代を築き、球界の盟主として日本プロ野球を牽引したのだった。勝つことを至上命令に宿命づけられたチームだった。そして、V9戦士は不動だったように思われているが、9年間の中にはスタメンが一定していた訳ではないし、年代によってメンバーが入れ替わっている。ここでは、私が一番好きだった固定メンバーを紹介したいと考えている。それでは栄光のV9戦士を振り返ってみよう。
1番センター 柴田勲(背番号12→7)
俊足好打の先頭打者にはうっ付けの逸材。スイッチヒッターで赤い手袋をまとい、隙さえあれば貪欲に次の塁を虎視眈々と狙う。高校(法政ニ高)時代は、甲子園優勝投手。しかも夏春連覇の立役者。そのずば抜けた野球センスを買われ、1962年に読売ジャイアンツに入団。1年目から開幕一軍となり、開幕第2戦(対阪神タイガース)で先発起用されるも5回途中でノックアウトされる。その後も投手成績は芳しくなく0勝2敗で「投手失格」の烙印を押される。そして野手に転向し左打ちに取り組み、スイッチヒッターとなる。翌1963年にレギュラー獲得。以後は主に1番打者として活躍した。赤い手袋をトレードマークに盗塁王6回(1978年に34歳で開幕迎えたシーズンの同獲得は現在もセ・リーグ記録)。自己最高は1967年の70盗塁。通算盗塁数579は現在もリーグ1位。また1968年には26本塁打、通算で191本塁打を放つパワーもあった。1980年に通算2000本安打を達成。巨人の生え抜き選手で巨人在籍時に2000本安打を達成した最後の選手である。2000本安打を達成した1980年限りでの引退を決意していたが、シーズン終了後に長嶋茂雄が監督を辞任して、新監督に就任した藤田元司から慰留され、翌1981年も現役続行する。巨人はその年リーグ優勝、そして日本一を達成している。柴田は日本シリーズの第6戦に5番左翼手で先発出場している。日本シリーズは10打数4安打を記録、これを花道として現役引退。引退後は1982年から1985年まで巨人守備走塁コーチを務めた。。1992年4月、現金賭博(トランプ賭博)の現行犯で逮捕され、フジテレビ解説者を解任される。)。2009年12月には、株式会社日本プロ野球名球会の代表取締役社長に就任した。血液型はA型。67歳。
通算成績(20年間)
7,570打数2,018安打 194本塁打 708打点 579盗塁 通算打率.267
クールな二枚目、赤い手袋でスイッチヒッターの柴田選手。
2番セカンド 土井正三(背番号6)
バントの名士。小兵ながら出塁した柴田をきっちり送って進塁させる役目を担った。育英高校から立教大学でプレー。東京六大学リーグ通算84試合出場、274打数67安打、打率.245、0本塁打。1964年春季のリーグでは遊撃手のベストナインに選ばれた。1965年に巨人軍に入団。同年から始まった前人未到の大記録V9の主力選手のひとりとして、チームに貢献した。主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治や長嶋茂雄へのつなぎ役であった。打撃面では追い込まれたカウントでもファウルで粘ったり、巧みに右打ちしたりするなど、玄人好みの打撃が光った。犠打などの小技や走塁が上手く、二塁手としても堅実で職人的な守備を見せた。チームバッティングや堅守で魅せ、ときに一流選手をも凌駕するいぶし銀の活躍をしたことから、「超二流」選手の代表格といわれている。
特に土井が名声をあげたのは、1969年の日本シリーズでの本塁突入の走塁である。1969年日本シリーズ(巨人対阪急)第4戦(10月30日)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手・岡村から二塁手・山口を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上唯一(2010年現在)の退場処分を受けた。試合後、川上監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日、各新聞で、岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した唯一の写真が、第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。
1978年、110試合出場、打率.285、リーグ最多の犠打27個を記録し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど活躍したが、同年に現役を引退した。引退後は巨人の守備走塁コーチ(1979年~1980年、1986年~1988年)を務めた。1991年から1993年までオリックスの監督を務めた。2009年9月25日、午後零時24分、東京都内の病院にて膵臓がんのため死去。67歳没。
私は巨人が郡山の開成山球場で公式戦を行った時、亡き父親に連れられて現役選手として出場していた彼の勇姿をしかとこの目で見届けた。その試合では巨人の庄司選手が3打席連続ホームランを放ったのを覚えている。血液型はO型
通算成績(14年)
4,853打数1,257安打 65本塁打 425打点 242犠打 135盗塁 打率.263
往年の土井選手の打撃フォームと物議を醸した技ありのホームイン!
3番ファースト 王貞治(背番号1)
ご存知世界のホームラン王。通算868本塁打は日米を通じても堂々世界一。彼は小学生の頃から背が高かった。高校1年時には早実高校のエースとして全国優勝を達成した。しかし、国籍が中国だったことから国体出場を果たせなかった。高校卒業後、巨人軍に入団。最初の数年間は泣かず飛ばずの成績。水原監督から投手に見切りを付けられ、打者に転向。一塁手となった。しかし、打撃コーチの荒川と血の滲む練習の結果、一本足打法を習得。当時6大学からの花形スターだった長嶋茂雄とONとして大活躍。シーズン55本塁打や7打席連続ホームランなど輝かしい記録を残す一方、王シフトや敬遠されるなど、大打者ならではの苦しみも味わった。晩年は長嶋が3番、王が4番を打つことが多くなった。チームメイトからはワンちゃんと呼ばれた。尊敬するベーブルースの記録を抜いた年に、ハンクアーロンが来日し、世紀のホームラン合戦が演じられた。そこからはファンやテレビ各局がホームラン世界一を巡って列島が大フィーバーとなった。1977年9月3日の対ヤクルト戦で鈴木康二朗投手から756号を放った。当時の福田赳夫首相の発案でわが国初の国民栄誉賞が贈られた。その後も地道に本塁打を積み上げ868本まで記録を伸ばした。そして忘れもしない冷夏だった昭和55年に30本の本塁打を放った年に、突如現役引退を発表。長嶋監督の解任が発表された数日後のことで、この年、球界は悲しみに包まれ、世代交代を強く印象付けた。その後、藤田監督の下、3年間助監督を務め、その後、5年間巨人軍の監督を務めたが、1年のリーグ優勝だけに留まり、長嶋監督と同様、事実上解任となった。その後、ダイエーホークスの監督として采配を振るい、日本シリーズでのON対決も実現させた。また、第1回WBC監督に就任し、死闘の末、チャンピオンに輝いたが、そのストレスから胃がんを発症し、手術を受け、その後は監督から引退し、球団顧問として野球の発展に携わっている。血液型はO型
通算成績(22年)
9,250打数2,786安打 868本塁打 2,170打点 5,862塁打 2,931四死球 通算打率.301 3冠王2度達成 本塁打王15回 首位打者5回 打点王13回
この一本足打法が一世を風靡した。756号達成の瞬間!張本さんのジャンプ力は徒者ではない!
4番サード 長嶋茂雄(背番号3)
ミスタープロ野球と呼ばれ、「燃える男」として大舞台やチャンスには滅法強く、大勢のファンに愛された。ファンサービスに長け、守備での派手なスタンドプレーやヘルメットを吹き飛ばすほどのフルスイング。ゴロをさばく時も、飛びついてファンを沸かせるなど、とにかく絵になる男だった。チームメイトからはチョーさんと呼ばれていた。また神話になるエピソードを数多く残した。デビュー戦での金田投手から4打席4三振、野村捕手の呟き作戦に乗らないマイペースな性格、天覧試合でのド派手なサヨナラホームランやベース踏み忘れの幻のホームランなど。天才肌で天真爛漫、自分が一番目立ちたいB型の性質そのものだった。元々は千葉県佐倉市出身。立教大学出身で6大学のホームラン記録を引っ提げて鳴り物入りで巨人に入団。入団1年目から華のある中心プレーヤーとして活躍した。1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり巨人の10連覇が消えた日、長嶋は現役引退を表明。引退会見2日後の10月14日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となった。満員の後楽園球場で、球場内を歩いて一周し、ファンに別れを告げた。そして最後のセレモニーで球史に残るスピーチで、「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を残した。その挨拶はレコードになった。私も購入し、その台詞をすべて暗記したほどだった。
引退と同時に川上監督に代わって監督に就任したが、自分が抜けた穴はあまりにも大きく、巨人軍として初の最下位に沈んだ。長嶋は6年間の監督の後、解任され、その後スポーツ解説者として浪人生活を送った。そして長い充電期間の後、巨人の監督に復帰。落合や清原、工藤など他チームの主力をFAやトレードで次々獲得し、戦力を整えた。そして背番号も90番から33番、そして2度目の監督時にはファン憧れの3番を付け、話題となった。そして9年間の監督業で勇退。原監督にその座を譲った。しかし、王監督と同様、長嶋は監督としては賞賛できる戦績を残した訳ではなかった。通算15年間の監督歴でリーグ優勝は僅か5回。常勝軍団を築けなかった。日本シリーズ制覇はたったの2回に留まった。
引退後、2002年、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月、長嶋は脳梗塞で倒れた。一時は重態となり、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。ONは選手時代の栄華とは裏腹に監督としては過酷で苦難の道を歩み事となり、晩年は病魔との闘いを強いられた。血液型はB型。
通算成績(17年)
8,094打数2,471安打 444本塁打 1,522打点 190盗塁 通算打率.305
首位打者 6回 本塁打王2回 打点王5回
5番ライト 末次利光(背番号38)
鎮西高校2年時に投手から外野手に転向し、甲子園に出場。卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグで首位打者2回、ベストナイン4回獲得するなど活躍した。リーグ通算76試合出場、287打数87安打、打率.303、10本塁打、39打点。1965年に巨人軍に入団。
1970年頃からレギュラーとして定着し、川上哲治が監督として率いるV9時代に、ONと共に5番打者としてクリーンアップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年年には3割1分6厘というリーグ4位の打率を残し、ベストナインにも選ばれている。しかし1977年、オープン戦前の練習で同僚の柳田真宏の打球を左目に受け、その後遺症で視界が狭くなってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退。無骨な性格で表情が少なく、華やかなスターが揃っていた当時の巨人軍の中にあっては、極めて異色の目立たない存在であった。現役引退後は、1978年から1980年まで二軍打撃コーチ、1981年から1986年まで一軍守備走塁コーチ、1987年から1991年まで再び二軍打撃コーチ、1992年から1994年まで二軍監督を務めた。二軍打撃コーチ時代には井上真二、福王、緒方耕一らを一軍に送りこみ、一軍においては中畑、篠塚、松本ら主力選手を3割打者へと育て上げた。1995年に現場を離れてフロント入りし、スカウト部長を務めた。スカウト時代には阿部慎之助、木佐貫、亀井など後の主力級の選手の獲得に貢献している。2005年限りで部長職を退任。血液型はAB型。
通算成績(13年)
3,324打数895安打 107本塁打 456打点 通算打率.269
右はサヨナラホームランの場面。ホームベース付近で長嶋監督が両手を広げ熱烈歓迎されてホームインしたことを昨日のように覚えている。
本日はここまでとしたい。明日は黒江、高田、森に加え、それ以外の野手でV9に貢献した選手たち、例えば国松、上田武司、吉田孝司、富田勝、柳田真宏などを始め、豪華投手陣についても触れたい。中村、城之内、宮田、堀内、横山、関本、高橋一三、小川、高橋良昌などの懐かしいプレーヤー達も登場する。どうぞお楽しみに!
記事作成:9月19日(月)
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