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2011年12月

2011年12月30日 (金)

私が好きだったCM⑪

 このCMは3部作だった。2007年の年末の藤原紀香がMCを務めた「Panasonicスペシャル」番組内で再三流された感動ストーリーだった。涙を流さずにはいられないCMで、時代は変わっても、これだけはずっと変わらないでいて欲しい、そんな気持ちに溢れた秀作だと思う。じっくりご覧ください。

 <おばぁちゃんの人生>

 孫娘が自分の結婚式のビデオを見せながら、おばあちゃんの人生は幸せだったか尋ねるストーリー。最後の「幸せだったよ」という祖母の声を聞いて、孫娘が嬉しそうに微笑む場面は人生の縮図を見ている思いがした。

 <天国へのメール 病床の母がパソコンを始めた理由>

 余命いくばくもない入院中のおばあちゃんが、孫の顔を見れずにこの世を去って行かなければならないことを悟り、メールに率直な気持ちを託す。「里花ちゃんへ」と題されたメールの数々は孫をひと目見たい、その悔しさと優しさで溢れていた。「もっと~したかった」というフレーズが涙を誘った。おばあちゃんが亡くなった後、娘がPCを開き、おばあちゃんの本心を知り、その思いを叶えてやろうとする姿にも心を打たれた。まさしく天国からのメールだった。会えずにこの世を去ったおばあちゃんから何かを孫に伝えたい、そんな想いが綴られた感動秘話だった。

 <小さな命の物語>

 大学に進学し、純という男の子と知り合った女子大生が、彼の人間味あふれる行いに心を惹かれ、命の大切さを身を以て知るストーリー。人とは何か、優しさとは何か、そして命とは何かを教えてくれた「命の物語」だった。

 そして「感動CM」で欠かすことが出来ないCMを見つけた。それは阪神淡路大震災の15年後に宛てた関西電力のCMだった。今年、東日本大震災があって、同じ電力会社が明暗を分けた皮肉的な映像になってしまったが、関西電力のCMは当時の人々に光を与えてくれた。東電はまだまだこの足元にも及ばないが、いつか笑って話せる、そんな日が来て欲しいと切に願ってやまない。

http://www.youtube.com/watch?v=zOeXc_v0Mvk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=n92v7uQvXmw&feature=related

 東北電力はコチラ↓(懐かしいボンネット型特急ひばり号も登場します)

http://www.youtube.com/watch?v=CPrEJ-RDOv4

記事作成:平成23年11月21日(月) 

2011年12月23日 (金)

伝説の男③ ~音速の貴公子~

 日本人が一番好きな外国人として、毎年上位に名を連ねていたのが彼だった。時速300kmを越える音速の世界、F1。彼は、モンスターマシンを操り、常に命の危険と背中合わせのギリギリの場所で生きていた。本田宗一郎を崇拝し、結果だけがすべての世界で、マクラーレンHONDAの契約ドライバーとしてF1に出場、圧倒的な速さで年間チャンピオンに君臨した。ここで言う彼とは、ブラジルが生んだ英雄にして孤高の天才ドライバー、アイルトン・セナである。彼が逝ってから早17年が経過した。

~アイルトン・セナのプロフ~

Senna  Ayrton Senna da Silva(アイルトン・セナ・ダ・シルバ)1960年生まれ、1994年5月1日逝去。享年34歳。フォーミュラ1、通算161戦41勝、ワールドチャンピオン3回、ポールポジション65回、ファステストラップ19回、数々の伝説を残す『音速の貴公子』と呼ばれた。血液型はB型。トールマンでデビューし、ロータス、マクラーレン、ウィリアムズと名門チームを渡り歩いた。また1987年から92年にかけてはHONDAのエースとしても活躍した。1994年サンアリノGPイモラサーキット、予選で度重なる大クラッシュが続く中行われた決勝にて、6周目およそ310km/hで彼のマシンは突如制御不能に陥り、そのままコースアウトしてコンクリートウォールへ一直線に激突した。激突の瞬間、マシンの左フロントのサスペンションが破損し、そのシャフトが彼のヘルメットを直撃。すぐに救急隊員が駆けつけたが、おびただしい頭部からの多量出血。ドクターヘリでボローニャの病院に搬送後、彼の非業の死が伝えられた。母国ブラジルでは、プロサッカーのゲーム途中で彼の死が伝えられ、スタンドが悲しみに暮れた。試合を中断して選手とスタンドが一体となって彼の死を悼み、黙祷を捧げた。その後、ブラジルが生んだ英雄を偲び、国葬として執り行われた葬儀では、全国民が喪に服し、彼の冥福を祈った。

~セナのラストラン~

 セナのファンだった私にとって、これらの映像は衝撃的で深い悲しみを覚える映像シーンだ。本心はアップすることも辛いのだが、彼の最期の文字通り命をかけた魂のラストランだけに、目を背けずに直視しなければならない衝動に駆り立てられる。

http://www.youtube.com/watch?v=xjSLaywkoho&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=YvbPXP33m1c&feature=related

 セナの伝説回顧

 当時、F1ドライバーとしては、アラン・プロストを筆頭にネルソン・ピケやナイジェル・マンセル、M・シューマッハなど並み居る強敵がいた。そんな誉れ高き男達に混じって、その類い希な才能を開花させていった。時に最後の周回で、意図的にチームメイトに優勝を譲る優しさもあった。そして常に冷静で寡黙な男だった。男が惚れる男で、決して奢ることをせず、控えめな男だった。

 あの日から17年の歳月が流れた。星になった彼は、今時分、どこかでサーキットに散った仲間達と陽気にシャンパンファイトをしているかもしれない・・・。

  記事作成:12月2日(金)

2011年12月20日 (火)

世界三大思考

 2009年の11月20日に当ブログで「日本三大思考」という記事を書いた。2年も前のことで、私自身が忘れていたが、それにちなんで今日は「世界三大思考」をお送りしたい。私はふとした思いつきで、何でもかんでもブログ記事にしてしまう恐ろしい習性を持っている。おそらくは、それを胸の内に仕舞っておくことが出来ないタイプ。したがって、秘密を守るのが大の苦手で、幼少の頃から「誰にも言うなよ」と言われて打ち明けられたことは、黙っていられない。だからといって秘密を暴露してしまうことはしないが、「だったら初めから何も言わないでくれ」という性質だった。今回もその例に漏れず、「思い立ったが吉日」とばかりに単なる思いつき企画でお送りしたい。あまり構えずに気楽に読んで頂けたら幸いかと思う。もちろん取り上げる内容も独断と偏見で無作為に選んだものばかりだ。そして今回は画像は割愛させて頂く。

 世界三大美女・・・クレオパトラ・楊貴妃・小野小町

 これも異論他論入り乱れている。大体世界の人が小野小町を知っている筈がなかろう。日本人が小賢しい知恵で勝手に美女に奉っただけの話ではないか?世界の通説では小野小町のところにヘレネが入るらしいし、インドでは「メンカ、シャクントラ、ルップマティ」、ギリシャでは「アフロディーテ(ビーナス)、アテナ、ヘラ」、中国では「楊貴妃、貂蝉、王昭君、西施」なのだそうだ。なお、美人と美女の違いは、お互いに容姿端麗であることに違いはないが、美女はセクシーさを併せ持ち、男性にとってセックスシンボル的な妄想を感じさせる存在なのだそうだ。ちなみに、現代の日本人女性で三大美女を選ぶなら、檀れい・松嶋菜々子・吉瀬美智子あたりか。なぜか3人ともA型なのだ。美しさなら夏帆や蒼井優も群を抜いている。やっぱりこのふたりもA型。所詮個人の好みになってしまうようだ。

 世界三大珍味・・・フォワグラ・キャビア・トリュフ

 この中でトリュフはなかなか出てこない解答だ。よく間違い探しのクイズで、同じ茸ということで松茸となっている場合がある。それくらいトリュフは日本人には馴染みのない食材だった。もちろん貧乏人の私は、ガチョウの肝臓のフォワグラもチョウザメの卵のキャビアも人生で一度か二度しか食べていない。質より量の人間にとってはおよそ無縁の豪華料理なのだろう。ちなみに世界三大スープなるものもあって、フカヒレ・ボルシチ・トムヤンクンだそうだ。

 世界三大秘宝・・・ツタンカーメンの黄金のマスク・ミロのヴィーナス・モナリザ

 エジプトのピラミッドの王家の棺から出土し、発掘されたツタンカーメンの黄金マスク。若くして王位に就いたが、死亡するのも早かった。毒殺説など憶測が飛び交っている。その黄金のマスクもまた訳ありで、発掘に関わった考古学者等が相次いで怪死を遂げている。これを俗に「ツタンカーメンの呪い」という。結局は棺を荒らしているのは間違いないところで、言うなれば現代の調査とは名ばかりの盗賊集団と同じで、遺体を暴き、埋葬品を持ち帰るなど神への冒涜で天罰が下っても当然の報いだというのが一般的な見方のようだ。ミロのヴィーナスは言わずもがなだが、古代ギリシャ時代に制作された女性彫刻。制作者不詳で、現在はパリのルーブル美術館にある。モナリザはレオナルドダビンチ作による深緑の衣装を着た一人の女性が、僅かに微笑んだ半身の肖像画である。こちらもルーブル美術館収蔵。

 世界三大夜景・・・ナポリ・香港・函館

 私は函館の夜景(3回)しか見たことがないが、写真で見るナポリや香港よりは、眼下に湾曲して両側に海がある光景は函館が世界一だと思っている。日本では六甲山からの神戸の夜景や長崎の夜景も素晴らしいと聞くので一度見てみたい。

 世界三大発明・・・方位磁針(羅針盤)・火薬・印刷

 火薬の発明自体は画期的で、その後の物的な進歩に貢献しているが、人を殺す道具や武器として使われるケースも多々あって、個人的にはあまり重要だとは思えない。羅針盤と活版印刷は当時革命的で文化的発達をもらたした点で評価できる。要はそれを使う側の良識がもっとも重要だろう。

 世界三大通貨・・・ドル・ユーロ・円

 今はもう「円(\)」ではなく、「元」に間違いないだろう。GDPはアメリカに次いで世界第2位に躍進した。もとから人口12億円の脅威は感じていたが、経済力を付けた中国ほど恐ろしいものはない。中国人は歴史的な観点から未だに日本人を敵視し、一般的には我が強い民族である。他人への気遣いや思いやりよりも自分の権利や利益を優先する傾向が強い。主義主張は立派である。そうでなければあの人口の中で、個人が埋没してしまい、自分の存在を知らしめることなど出来ないからだ。しかし反面、利己主義が故に、著作権や商標、盗作に関する意識が希薄であることは過去の事象から明白だ。この民族が経済力をつけた日には始末に悪い。軍事力を増強し、東シナ海や日本海を領海・領空侵犯し、威圧をかけてくるのは必至。沖縄にアメリカ軍基地があるために中国は日本に手出し出来ないことを我々日本人は認識しておく必要がある。沖縄の方々には申し訳ないが、もしアメリカ軍が政治的混乱の末に、沖縄から全面撤退するようなことになれば、間違いなく中国軍が沖縄に進出して来ることは明らかだ。憲法第9条がある限り、軍隊を持たない日本は、有事の際アメリカに軍事依存していることを忘れてはならない。つまり、中国が日本に手出しできないのは、アメリカ軍が沖縄に駐留し、絶えず東シナ海を監視し、防衛線を張ってくれているからこそである。もしそれを反故にし、白紙に戻したければ、国際平和の概念に逆行していると思われるかもしれないが、憲法を改正し、日本も軍事力を増強しなければ、力の均衡は保てないことを現実問題として、あるいは国際問題として絶えず念頭に置かなければならない。

 世界三大都市・・・ニューヨーク・ロンドン・東京

 いわゆるメガロポリスとして人口が集中し、国家の中枢を成し、そして経済発展もめざましい一極集中都市である。近年はドバイ、香港、サンパウロもその台頭が目覚ましい。いずれ東京は過去の栄華とされ、中国のシャンハイや香港などと入れ替わる日も近いのではないか?ちなみに私が選ぶ現存する古代都市はローマ、アテネ、カイロで、滅亡した三大国は「古代ローマ帝国」「インカ帝国」「アトランティス」だと考えている。

 世界三大映画祭・・・ヴェネチア国際映画祭・カンヌ国際映画祭・ベルリン国際映画祭

 日本でも何人かこの由緒ある映画祭に出品し、監督賞などを貰っていることから判断して、日本映画も世界では高い評価を得ていることが証明できる。北野武(ビートたけし)は世界では名監督の誉れ高い。

 世界三大宗教・・・イスラム教・キリスト教・仏教

 本来宗教とは、平和を願い、人を救うために存在する目的であるべきなのに、世界各地で宗教紛争によって多数の死者を出す現状は、一体何の意味があるのだろうか?宗教にのめり込むと周囲が見えなくなり、自分の信仰以外は断じて認めたくなくなるようで恐ろしい。ちなみに世界三大聖地はバチカン・エルサレム・メッカである。ある時期だけ決まって全世界から巡礼にやって来る。そして世界三大聖人とはムハンマドイブンアブドゥッラーフ・イエスキリスト・釈迦

 世界三大交響曲・・・運命・新世界・未完成

 それぞれベートーヴェン、ドボルザーク、シューベルトの名作である。シンフォニーは管弦楽の頂点と目され、音楽家にとって憧れの存在である。

 世界三大作曲家(3B)・・・バッハ・ブラームス・ベートーヴェン

 これもつまり、ドイツの偉大な作曲家だけを取り上げる妙な三大思考である。オーストリア出身のシューベルトやロシアのチャイコフスキー、ポーランド出身のショパンだって同系ではないのか?私はクラッシックにはあまり造詣が深くないが、小学生時分に合奏部でメロフォンを吹いていた。カール・E・キング作曲の「印度の女王」という意味ありげな曲で、福島県小中学校合奏コンクール(県大会)で金賞を頂いた。携帯電話もなかった時代にどうして知ったのかは不明だが、福島県文化センターでの演奏終了後の帰りのバスの中でその知らせを聞いて皆、狂喜乱舞したことを覚えている。

 世界三名瀑・・・イグアスの滝・ヴィクトリアの滝・ナイアガラの滝

 名瀑とは巨大な滝のことである。瀑布とも言う。日本でも那智の滝(和歌山県)、袋田の滝(茨城県)、華厳の滝(栃木県)が日本三大瀑布と呼ばれているが、世界のそれは、高さも幅もスケールがまるで違う。

 世界三大文豪・・・シェークスピア・ダンテ・ゲーテ

 イギリス人劇作家で、四大悲劇(リア王・オセロ・マクベス・ハムレット)や「ロミオとジュリエット」、「真夏の夜の夢」などの名作を遺したのはシェークスピア、同じくイギリス人の詩人のダンテは「神曲」があまりにも有名、ドイツ人の詩人で劇作家でもあったゲーテは「若きウェルテルの悩み」や「ヘルマンとドロテーア」などの秀逸した作品を遺したことで知られている。

 世界三大料理・・・中華料理・フランス料理・トルコ料理

 日本料理が入っていないのは仕方ないにしても、メキシコ料理や印度料理も捨てがたい。私は基本的に中華料理は好かない。調味料が濃くて辛い印象がある。どちらかといえばあっさり系が自分の舌に合う感じがする。ちなみに世界三大穀物は小麦・米・トウモロコシらしい。関係ないが、最近はサトウキビやトウモロコシから燃料を造るバイオマス発電が欧州では盛んに行われている。

 世界三大コーヒー・・・ブル-マウンテン・キリマンジャロ・コナ

 ブルマンはとにかく高い。高いから珍重されるのだろうか?私は庶民的で香りも味も楽しめる「モカ」が大好きだ。一時期、残留農薬問題で1年くらいモカが飲めずやきもきした。ついでに世界三大嗜好飲料を加えると、コーヒー・紅茶・マテ茶(ココア)なのだそうだ。また、世界三大美酒はワイン・大吟醸酒・紹興酒らしい。日本酒が入っていることが何より嬉しい。

 世界三大サッカーリーグ ・・・プレミアムリーグ(イギリス)・リーガエスパニョーラ(スペイン)・ブンデスリーガ(ドイツ)

 世界最高峰の一流プレーヤー達が一堂に会すACミランやインテルミラノ、ユベントスなどが所属するセリエA(イタリア)が入っていないのはおかしい・・・。

 世界三大モーターレース

 インディ500・モナコグランプリ・ルマン24時間

 ちなみに世界三大選手権レースは、世界ツーリングカー選手権・世界ラリー選手権・フォーミュラ1だそうだ。

 結構日本の物も含まれていて嬉しい感じがするのは俗物根性の表れか?中にはこんなリスト、一体「だれが、いつ、どこで決めたんだ?」という代物もある。また、異説も多数あるようである。本日紹介したのはほんの一部。気が向いたら続編を考えたいと思う。

 今回参考にした文献はコチラ↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%89%E5%A4%A7%E4%B8%80%E8%A6%A7

日本三大思考はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-e50f.html

 記事作成:11月29日(火)

2011年12月17日 (土)

私が好きだったCM⑨

<エメロンシャンプー&リンス>

 街角でみかけた髪の綺麗なべっぴんさんを追いかけてインタビューする企画もの。「ふりむかないで~、○○の人~♪」というハニーナイツの歌がBGMで流れていた。

 1970年 - 『エメロンクリームリンス』が発売され、テレビコマーシャルでは「日本縦断ふりむき娘」という日本全国の街角でインタビューに応じて「ふりむいてください」と素人女性が顔出して放映され、当時はセンセーショナルなCMだった。

http://www.youtube.com/watch?v=4SpBxtNnVaA&feature=related

これは全国津々浦々に出没したシリーズCMで、好評を博した。

「ふりむかないで」 by ハニーナイツ

泣いているのか 笑っているのか
うしろ姿の すてきなあなた
ついてゆきたい あなたのあとを
ふりむかないで 東京の人

ポプラ並木に ちらつく雪が
あなたの足を いそがせるのか
しばれる道が 気にかかるのか
待って欲しいな 札幌の人

たなばた祭りの 一番町で
ふとゆきあって 目と目があった
ゆかた姿の すてきなあなた
ささやきたいな 仙台の人

雨の今池 小さなスナック
一人ぼんやり しているあなた
ほろり涙が まつげにたまる
抱きしめたいな 名古屋の人

今にも空が 泣き出しそうな
道頓堀の 橋のたもとで
何を思案の こいさん一人
声かけたいな 大阪の人

泣いているのか 笑っているのか
那珂川ばたに たたずむあなた
ついてゆきたい あなたのあとを
ふりむかないで 博多の人

はちがとんでる 平和の塔に
ちらりのぞいた 八重歯が光る
レモンのような 可愛いあなた
呼びかけたいな 広島の人

誰を待つのか 香林坊で
ふとほほえんだ あなたの瞳
春風みたいに 心にふれる
みつめてたいな 金沢の人

連絡船が 屋島をすぎて
風に黒髪 なびかせていた
ひとりぼっちの あなたはだあれ
並んでみたいな 高松の人

  さて、懐かしんで貰えたでしょうか?恐らく45歳以上の方なら、記憶の片隅にあって見覚えがある映像だったと思う。それにしても「You Tube」は有り難い。私にとって宝箱だ。その時代に立ちかえることが出来るし、その頃の感性を甦らせてくれ、それと同時に様々な想いが脳裏を去来する。

記事作成:11月21日(月)

2011年12月16日 (金)

伝説の男② ~魂の名セコンド~

 映画「ROCKY」を観たことがあるだろう。イタリアの種馬との異名をとる主人公ロッキー・バルボアがライバル、アポロ・クリードと2度に渡る死闘の末にヘビー級チャンピオンとなる苦難と栄光の物語である。それを支える恋人エイドリアン、飲んだくれで博打好きのふがいないエイドリアンの兄・ポーリー、そして今回取り上げたいのが、泣かず飛ばずの生活を送っていたロッキーにボクサーとしての魂に火を付け、サクセスストーリーを歩むきっかけとなった名セカンド・ミッキーである。いや、正確に言えば、そのミッキーを取り上げる訳ではない。彼の人生を地で行った実在した名セカンド兼トレーナーであり、今はもう伝説となった男を紹介したい。その男の名は「エディ・タウンゼント(本名はエドワード)」という。彼は列記としたアメリカ人だが、日本のボクシングジム所属で、これまで何人ものボクサーをチャンピオンに育て上げた名トレーナー兼セカンドだった。今でも彼の名前を知っている方は、相当のボクシング通であろう。それではまずは彼の経歴を紹介したい。

 ~エディ・タウンゼント~

 Eddie Townsend、1914年10月4日 - 1988年2月1日)は、 アメリカ合衆国のボクシングトレーナー。ハワイ州ホノルル出身。本名は、エドワード・ タウンゼント。 多くの世界チャンピオンを育て上げ「名トレーナー」「名伯楽」として尊敬された。父はアイルランド系アメリカ人で弁護士、そして母は日本人のハーフの子として誕生した。彼が僅か3歳の時に母親が病気で他界した。11歳からボクシングを始め、12勝無敗のハードパンチャーとしてハワイのアマチュアフェザー級チャンピオンになったが、ボクサーに見切りをつけトレーナーとして次の世代を担う人材育成を志すようになった。たまたまハワイ巡業に来ていた力道山に招請されて1962年に来日。しかし、力道山が暴漢に刺されて1963年12月に死去したためにエディは再び孤独の身となってしまう。そんなエディの処へ、ハワイ時代から旧知の仲だった日系三世のポール・タケシ・藤井が偶然訪れ、トレーナーとして1967年に世界チャンピオンへと導いたことで注目される存在となる。
 以降、6人の世界チャンピオンと赤井英和・カシオペア内藤らの名ボクサーを育て上げた実績のみならず、人間性や指導方法も高く評価され「名トレーナー」として日本のボクシング関係者・ボクシングファンから尊敬される様になった。
 高齢となったエディが、一から育て上げ最後の弟子と言われた井岡弘樹は、とりわけ愛情を注いだボクサーの一人である。井岡のことを「ボーイ」(Boy)と呼び、ジムの二階で寝食を共にして実の息子のように可愛がった。ただし、この二人三脚の生活はかつて何人かの弟子に裏切られたエディが思春期の少年に半ば禁欲生活を強制するためのものだった。
 1987年10月に行われたWBC世界ミニマム級王座決定戦で、井岡を世界チャンピオンへと導いたが、この頃は既にエディの体は「直腸がん」の病魔に蝕まれており車いすで生活しながら指導するようになる。そして迎えた1988年1月31日、大阪城ホールで行われた井岡弘樹が世界同級1位の李敬淵(韓国)を迎えた初防衛戦では、どうしても井岡の試合を見守りたいと切望し、入院中の病院からベッドに横わった状態で試合会場入りしたが、試合開始直前に意識不明の危篤状態に陥り田中外科へと引き返した。井岡が挑戦者の李を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取った。ドラマ以上にドラマティックな最期、そして彼の人生劇場だった。

 それでは彼の壮絶人生の回顧録をご覧頂き、彼がどんなに偉大な人物だったのか、そして彼の功績を称えたい。

http://www.youtube.com/watch?v=YaGqMKrJtx0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=tSeUhg9-8z0&feature=related

 彼の壮絶人生を通して、人生で一番大切な物は何か、男には何が必要か?といった人生訓や生きる理由を語りかけて来るように思える。彼は自分が果たせなかった夢を、次世代の若者たちに託し、そして世界チャンピオンを育てることで自分の人生を謳歌しようとしたし、それを使命のように感じていたに相違ない。彼は人をこよなく愛した。そして彼もまた、弟子たちに愛され、ボクシングファンに愛され、彼の人生そのものが、生き様が人々に深い感動を与えている。彼が亡くなって24年近く経とうとしているが、彼の肉体は滅び、土に還っても、その魂は脈々と受け継がれている・・・。最後に彼が遺した名言の数々を紹介して結びとしたい。

 自分が育てた選手に贈る言葉

 「勝った時は、会長が抱くの、負けた時は、僕が抱くの・・・」

 「試合に負けた時、本当の友達が分かります。」

  •  「100%教えないんですよ。70%。残り30%、選手、自分の頭使わなかったらいいボクサーになれない。」
  •  
  •  「試合が近づいたらハッピーになりなさい。」
  •  「ボクシング辞めた後の人生の方が長いのよ。誰が そのボクサーの面倒を見てくれるの?無事に家に帰してあげるのも私の仕事ね」
  • 「勝っ た時には友達いっぱい出来るから私いなくてもいいの。誰が負けたボクサー励ますの?私負けたボクサーの味方ね」
  •  「リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるのですか?私はハートのラブで選手を育てるね」
  •  「この試合、判定なら貴方の負けね。でもケンカなら貴方強い。貴方負けない。この試合ケンカ、今から行ってぶっとばして来るの」
  •  「ボクシングにメイビーはない」
  •  「35%は自分でやるの」
  •  「ワン・キーポイント言うの」
  •  「僕ね ボクシング以外何もできないけど1つだけ得意なことあるよ。それはねぇ、しおれた花をしゃんとさせることよ。」

  •                                 by エディ・タウンゼント

     記事作成:12月1日(木) 

    2011年12月13日 (火)

    私が好きだったCM⑧

     <石屋製菓 白い恋人 恋の予感>

     ご存知北海道銘菓の「白い恋人」のCM。出演は松井さやかと篠原愛美、男子生徒役は井出拓也。篠原と井出はNHK教育テレビの「天才てれびくんMAX」の「てれび戦士」として出演して活躍していた。とてもメルヘンチックで可愛らしい作品だと思った。

     松井 さやか(まつい さやか、1993年6月18日 - )は北海道出身の女性ファッション モデル、タレント。所属事務所は、ミストケイズカンパニー。血液型はB型。

     1998年 『なかよし』・『たのしい幼稚園』の読書モデルでデビュー。芸能事務所「ミストケイズカンパニー」に入所。

  •  2004年 『ちゃお』(小学館)のアイドルガールオーディション準グランプリを獲得。
  •  2005年 ローティーン向けファッション雑誌『ピチレモン』の後期第13回読者モデルオーディョンで準グランプリを獲得。同年10月号より専属モデル(ピチモ)として活動。
  •  2007年3月7日 オフィシャルブログ「さやかろぐ」開設。
  •  2010年9月30日 ピチレモン専属モデルを10月号をもって卒業。
     現在は、北海道の私立高等学校の現役高校生。
  • Matsui Matsui2

     篠原愛美(しのはらつぐみ/1993年3月10日生まれ / うお座 / 東京出身 / O型)

  •  2001年- 宝映テレビプロダクションに所属し芸能活動を開始する。
  •  2004年4月- 2006年3月 『天才てれびくんMAX』にてれび戦士として3年間レギュラー出演。
  •  2005年- プロダクション尾木へ移籍。
  •  2007年- 6月号より2年間『ピチレモン』の専属モデルになる。2009年4月号で卒業。
  •  2007年10月- 1年間、ディズニーチャンネル『DVD Dash!編集部』にレギュラー出演。
  •  2009年-TBSの『小公女セイラ』にて、連続テレビドラマ初レギュラー出演。
  •  2011年- 日本テレビの『美咲ナンバーワン!』に、生徒役としてレギュラー出演。
  •  2011年3月- 私立日出高等学校を卒業。
  •  2011年4月- 都内の私立大学に在学中。
  •  2011年4月- TBSの『生まれる。』にレギュラー出演。
  • Shinohara Shinohara2

     彼女は、「天才てれびくんMAX」のてれび戦士だった頃から知っていた。とってもチャーミングで可愛らしい。同じO型の小池里奈に似てると思っていた。こんな子が自分の娘だったら心配でたまらないだろう。

     さて、私は石屋製菓のこのCMも好きだが、もうひとつ、3~4年ほど前に放送していた「美冬」というお菓子のCMも大のお気に入りだった。高校生くらいの超可愛い女の子が2階でフルートを奏で、そこを通りかかったカメラマンの男子が、その美貌に視線を奪われ、ついファインダーを向け、夢中でシャッターを押すというもの。残念ながらこの作品は「You tube」にはアップされていない。昔のCanCan時代の山本博美(現在の京本政樹夫人)に似ていた。やはりCMには想い出を重ね、何か人を惹きつける魅力があるようだ。

     追記

     折しも、この記事を完成した数日後、石屋製菓が「白い恋人」のブランドを汚されたとしてヨシモトエージェンシーが販売した模造品「面白い恋人」に対して販売差し止めを求めて提訴した。不思議な感じ。私には先見の明があるのだろうか?これまでも取り上げた話題が、その数日後に脚光を浴びたことが何度かあった。

     記事作成:11月11日(金)

    2011年12月10日 (土)

    私が好きだったCM⑦

    <No Reason コカコーラ ボクたちの同窓会編>

     これも想い出深いCM。確か2001年のCMだった。桑田佳祐のご機嫌ナンバー「波乗りジョニー」に乗せて、同級生たちが懐かしい学び舎で久し振りの再会を楽しむ。童心に帰りはしゃぎまくる若い男女。きっと昔、ここで楽しい想い出をたくさん作ったのだろう。そんな想い出を懐かしみながら普段の生活を忘れ、思いっきり遊びまくり、そして最後は当時の姿を重ね合わせながら感慨にひたる。帰りのバスの中で、「こんなに楽しいのに、なんで泣きたいんだろう」というメッセージは深く心に突き刺さる。私は数あるコカコーラのCMの中でも3本の指に入る傑作だと思っている。

     なお「コカコーラ」に関するCMリストは、過去に以下のブログに記載済みですので、ご覧ください。

    http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-e393.html

     記事作成:11月11日(金)

    2011年12月 9日 (金)

    伝説の男① ~キックの鬼~

     その昔、「キックの鬼」と呼ばれ、伝説となった孤高の天才キックボクサーがいたことを覚えているだろうか?1970年代、それは梶原一騎原作・監修の「巨人の星」や「タイガーマスク」、そして「アタックNo.1」などいわゆる「スポ根」ものが流行っていた頃のことで、キックボクシングがテレビのゴールデンタイムを賑わせ、人々を熱狂させていた時代があった。今は格闘技(K-1)に押され、その競技が存在していたことすら忘れ去られてしまっているが、当時絶頂期にあったプロレスの「燃える闘魂」アントニオ猪木と並んで1970年代を代表するヒーローの一人として彼の名前を忘れる訳にはいかない。その人の名は「沢村忠」と言う。必殺技「真空飛び膝蹴り」や拳ひとつで狙いすました一撃必殺を繰り出し、相手をマットに沈める抜群の反射神経を駆使して王者に君臨したのだった。生涯成績は241回リングに上って232勝5敗という驚異の勝率で無敵神話を残した。しかし、彼は絶頂の時に、或る日忽然と姿を消したのだった。まずは、懐かしい彼の勇姿を、三宅裕司が司会を務めていたテレビ朝日系列の番組「驚き桃の木20世紀」から紹介したい。タイトルは「沢村忠の真実」であった。

    http://www.youtube.com/watch?v=So6-HboimC0

    http://www.youtube.com/watch?v=gVSQ44NbIcc

    http://www.youtube.com/watch?v=lgriVQSgGkU

     ここであまり知られていなかった彼の輝かしい経歴を振り返りたい。

    Sawamura  1943年(昭和18年)1月5日生まれ。剛柔流空手道参段。満州出身。本名は白羽秀樹(しらは ひでき)。娘はタレントの白羽玲子。半生を描いた漫画やアニメの『キックの鬼』の影響により、世間からは「キックの鬼」と呼ばれていた。幼少より祖父から剛柔流空手道を習う。法政大学第一高等学校を経て、日本大学芸術学部映画科を卒業。大学在学中には全日本学生選手権で優勝し、60戦無敗であった。野口修はその実力を評価し、キックボクシングに勧誘した。1966年(昭和41年)4月に日本キックボクシング協会が旗揚げされ、リングネーム“沢村忠”として参戦。大阪府立体育会館で行われたデビュー戦は“空手vs.ムエタイ”と銘打たれた試合で、ラークレイ・シーハーマンを2R(ラウンド)KO勝利した。6月にはリキバレスで、ムエタイのルンビニーフェザー級8位のサマンソー・アディソンと対戦したが、16度のダウン(19の報道もあり)を奪われ、25ヶ所以上の打撲を負い、4RKO負けを喫した。しかし、この敗北を機に特訓を積み、必殺技「真空飛び膝蹴り」や飛び前蹴りを武器にKOを重ね、活躍。1973年には日本プロスポーツ大賞を獲得した。1976年(昭和51年)7月2日に最終試合を行い、翌年の10月10日に引退式を行った。最終成績は、241戦232勝(228KO)5敗4分(一説には500戦以上戦歴があるともされている)であった。

     思い出して貰えただろうか。40代以上の人なら記憶の片隅にあった人物で、懐かしく思えたことだろう。引き分けを除けば98%近い驚異の勝率を残した、これぞプロ中のプロと言える天才キックボクサーだった。まさに「キックの鬼」と呼ぶに相応しい輝かしい戦績である。激しい殴り合い、そしてキックの雨霰。相手の隙を突き、一撃で相手を倒す。これぞキックボクシングの真骨頂で、厳しい練習に耐え、極限まで体を痛めつけて築き上げた上腕ニ頭筋に象徴される強靭な肉体と驚異の精神力の持ち主。誰よりもタフで強い、男の中の男。あまり多くを語らず、結果はリングの上で出した孤高の天才だった。世の男子なら誰でも憧れる存在だっただろう。それなのに何故、失踪したのだろうか。天才が故の勝利に対する重圧に押しつぶされたのか。あるいは孤独に苛まれたのか。それとも体力の衰えを悟り、競技を続行することが怖くなったのか。

     彼が消息を絶ってからというものの、様々な憶測を呼んだ。一時期、彼は殴られ続けたのが原因で、気が狂ったようになって、人知れず我が故郷・郡山市内にある安積保養苑(現在の安積ホスピタル)に逃げ、そこに入院して精神病の治療にあたっていたという噂まで飛び交った。また、一時期「引退後、酒で身を持ち崩した」「死亡した」という説が出回っており、真偽のほどは定かではない。それくらい彼の消息不能はさまざまな憶測を生み出したということだ。強くて逞しい男の典型だっただけに、その影響はとてつもなく大きかった。

     しかし、噂はどうあれ、彼が残したキックボクサーとしての功績は偉大だ。その後、回し蹴りで一躍東洋ウェルター級チャンピオンの座を掴んだ富山勝治が、沢村引退後のキックボクシング界を背負い、エースとして君臨した。68歳となった現在は、自動車の修理販売業を営む傍ら、子供達に空手を教えている。パチンコ台販売会社「セイブシステムリンク」の常務取締役でもあるそうだ。

     私は決して忘れないと思う。あれほど華やかなスポットライトを全身に浴びて、自分の持てる力を存分に発揮し、命懸けで闘ったチャンピオンがいたことを。最後に、彼の魂のこもった壮絶な一戦を紹介して結びとしたい。ちなみに解説はあの寺内大吉氏である。

    http://www.youtube.com/watch?v=fg4DxeuVvzI&feature=related

     追記

     本日から連載を開始した「伝説の男」シリーズは、週1回ペースで執筆し、全10回シリーズで完結としたい。

     記事作成:11月29日(火)

    2011年12月 6日 (火)

    往年の東北本線・特急&急行列伝

     私は昭和39年生まれ。つまり東京五輪や新潟地震があった年の生まれである。この年のもう一つの大きな出来事は、オリンピック開催に間に合わせるために、突貫工事で行われた首都高速道路開通と共に国家の威信をかけたビッグプロジェクトが東海道新幹線開業だった。それは時速250km走行という、まさに「夢の超特急」だった。それまでの旧国鉄の特急と言えば「燕」に代表されるように、表定速度100km/h出せれば御の字という高速鉄道と呼ぶにはおよそ無縁の代物だった。それが東京~大阪間を従来の半分以下、日帰り可能という速さで結ぶのだから、まこと大願成就なのだろう。この苦難の開発物語については、NHKの「プロジェクトX」で取り上げられたことでも知られる通りだ。

     さて、私は高度経済成長期に幼少時代を過ごし、そうした高速交通時代の中で成長した。小学生時分は、毎夏、親に東京旅行へ連れて行って貰う際は、決まって「L特急のひばり1号」で上野駅まで旅した想い出がある。しかし、上野~仙台間を往復するこの「ひばり号」を始めとして、東北本線を往来していた様々な特急や夜行急行列車は今となっては過去の遺物と化してしまった。あの赤とクリームのツートンカラーの電車の勇姿が未だに脳裏に焼き付いて離れない。そして巨人戦のナイターを見た後は、上野駅から小豆色とクリームのツートンの急行列車「あづま」や「ばんだい」、「まつしま」などで3時間半かけてゆっくり家路に就いたものだ。今はもう記憶の中でしかお目にかかれない、私を興奮させてくれ、かつ夢を叶えてくれるカッコいい速い電車の数々。コンパクトサイズの「電車百科」を買って破れるまで見直して、憧れの車両に熱い視線を送ったり、鉄道写真の撮影にハマった時期もあった。また、小学生の頃は、親に無理を言って高価なNゲージのセットを買って貰ったこともあった、今思えば、金食い虫の親不孝な子供だった。それくらい今で言う「鉄道オタク」だったのだ。暇さえあれば時刻表を眺め、空想や妄想で旅行プランを立て、架空の電車旅行をしていたのだった。

     さて、前置きの想い出話はこの程度にして、いよいよ今回のテーマである東北本線を実際に走っていた、今は廃止となった特急・急行列車をピックアップし、それらを紹介することで同年代やオールドファンの方々に懐かしんで頂こうという企画を組んでみた。では、早速懐かしい画像と共にご覧頂こう。但し我が街・郡山経由の列車限定で、例えば「ひたち号」や「みちのく号」などの常磐線廻りの列車は除きたい。

     <在来線特急列車>

     L特急ひばり
     
     営業期間:1961年10月1日~1982年11月14日
     始発駅:上野
     終着駅:仙台
     特徴:東北本線の主要L特急として当時13往復走っていた。「ひばり号」は、輸送力、速度、知名度のどれをとっても東北のエース特急だった。郡山駅5番ホーム7時19分発の上野行きの「ひばり1号」が私の御用達列車だった。キハ82系に始まり、ボンネット型とのっペら鉄仮面型の483系・485系が使用された。

    Hibari Hibari2

          今となっては懐かしい国鉄時代の「ひばり号」の特急券
    P5051811 P5051806
        実際に私が旅行に使用したもので、現存している特急券です。

     L特急はつかり

     営業期間:1958年10月1日~1982年11月(盛岡以北は2002年11月30日まで)
     始発駅:上野
     終着駅:青森
     特徴:クリーム色に青のツートンカラー。いかにも涼しげで颯爽とした快速特急のイメージだった。毎日8時間以上かけて青森~上野を往復していた。583系と485系がメイン。

    Hatsukari Hatsukari2

     L特急つばさ

     営業期間:1961年10月1日~1992年7月1日
     始発駅:上野
     終着駅:秋田
     特徴:福島から奥羽本線に入り、山形、新庄、横手経由で秋田まで運行していた。1992年の山形新幹線開業に伴い、新幹線の名前として再登場したものの、在来線特急は廃止された。

    Tsubasa Tsubasa2

     L特急やまびこ

     営業期間:1959年~1982年
     始発駅:上野
     終着駅:盛岡
     特徴:当初は福島~盛岡間の準特急として登用された。1961年に青森駅まで延伸し、1978年にL特急に指定され、1982年に新幹線開業に伴い、新幹線の名称に。在来線特急は廃止となった。車両は主に485系ボンネットと鉄仮面型。これらは東北本線の在来線特急に共通していた。

    Yamabiko Yamabiko2

     L特急やまばと

     営業期間:1964年10月~1985年3月
     始発駅:上野
     終着駅:山形
     特徴:1964(昭和39)年10月改正で急行「ざおう」1往復を格上げして登場 。上野~山形を結ぶ特急列車で、当初はキハ80系が使用されていたが、1968(昭和 43)年10月改正で485系が投入された。運行末期は秋田運転区(当時)に配置された485系1000番台が主に使用され、特急「つばさ」と共通で運用されていたが、1985(昭和60)年3月改正で東北新幹線が上野まで開通すると廃止された。

    Yamabato3 Yamabato Yamabato2 

     特急あいづ

     営業期間:1968年~1993年
     始発駅:上野
     終着駅:会津若松
     特徴:東北本線郡山駅から単線の磐越西線に入り、猪苗代経由で会津若松まで走っていた。「あいづ」と言えば、ひばりと同型の485系ボンネット型の外見をまず思い浮かべる。同じ車両の特急でありながら、上野~郡山間は「ひばり」のほうが断然速かった。現在は快速の「あいづ赤ベこ号」として沿線住民に親しまれている。

    Aidu Aiduliner

     <寝台特急>

     はくつる

     営業期間:1964年10月1日~2002年12月1日
     始発駅:上野
     終着駅:青森
     特徴:急行「北上」を格上げして寝台特急として登場。東北線発の寝台特急となった。1964(昭和39)年、東北本線で初めて営業運転を開始した寝台特急(20系による運転)。当時は全線電化ではなかったため、仙台から北は蒸気機関車が牽引していた。そして、1968(昭和43)年10月に東北本線全線電化が行われると、寝台電車特急583系による運転が開始されスピードアップ。その後、長い間583系による運転が定着していた(ちなみに2往復)。

    Hakutsuru Hakutsuru2

     あけぼの

     営業期間:1970年10月1日~(1990年9月)
     始発駅:上野
     終着駅:秋田
     特徴:寝台特急「あけぼの」は、上野駅 - 秋田駅間を東北本線および奥羽本線経由で運行開始した定期寝台特急列車。これに先駆け、同年7月からは臨時寝台特急として同区間で毎日1往復の運転が開始され、定期化される前日まで運行された。その後、山形新幹線・秋田新幹線の工事、開業に伴って福島駅 - 秋田駅間が新幹線に供されたため、高崎線・上越線・羽越本線経由の現在の経路に変更された。

    Akebono Akebono2

     これ以外にも上野発、常磐線経由、青森行きの寝台特急「ゆうづる」が1965年10月から営業を開始した。また、札幌五輪を記念して上野~青森間を往復する寝台特急オリンピア号が運行した。他にも常磐線経由の「みちのく」もあった。

     <急行列車>

     「まつしま」

     営業期間:1954年~1985年3月
     始発駅:上野
     終着駅:仙台
     特徴:急行「まつしま」は、1954年(S29年)に客車急行として誕生した「松島」、1963年(S38年)451系により電車急行となり、1964年(昭和39年)に漢字の「松島」から「まつしま」に。東北本線の花形急行として活躍したが、1985年(S60年)3月に廃止された。

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     「あづま」

     営業期間:
     始発駅:上野
     終着駅:福島
     特徴:「まつしま」「ばんだい」と同じ小豆色とクリーム色のツートンカラーの455系を使用していた。東北本線の急行と言えばこの色が主流だった。オレンジと緑のタイプもあったが、宇都宮止まりが殆どだった。「あづま」の歴史は古く、客車牽引の準急時代の1954年から客車急行時代を経て、1964年の電車急行時代と変遷を辿り、1985年3月13日に引退した。亡き父親との想い出がが詰まった郷愁列車だった。ナイターを見た帰りに夜行急行として使った。郡山まで3時間半、客室が混んでいて、デッキに新聞紙を広げて座って時間を過ごしたこともあった。

    Aduma Aduma2

     「あぶくま」

     営業期間:1958年10月~
     始発駅:上野
     終着駅:福島
     特徴:準急行列車として運行開始。1961年には仙台まで延伸し、夜行準急として走る。やはり455系が主流だった。

     「ばんだい」 

     営業期間:1961年
     始発駅:上野
     終着駅:喜多方
     特徴:磐梯山に由来した列車名「ばんだい」は、もともと上野~喜多方間の準急に付けられた ものだったが、1961(昭和36)年に上野~会津若松間の急行に引き継がれ、翌年には キハ58系気動車を投入。455系と457系が使用された。。1967(昭和42)年に磐越西線の郡山~喜多方間が電化されると、一度はすべて455系電車(後に457系も加わる)に統一されたが、翌年には客車による夜行が加わる。そして72(昭和47)年には、すべて電車による6往復に落ち着いた。東北新幹線が開業した82(昭和57)年以降は本数を削減、84(昭和59)年からは磐越西線内の快速となり、2004(平成16)年に「ばんだい」の名称は廃止された。

    Bandai Bandai2

     <夜行急行>

     「八甲田」

     営業期間:1961年10月1日~1993年12月1日
     始発駅:上野
     終着駅:青森
     特徴:赤色の電気機関車EF57・58・65に牽引された客車型の列車だった。北海道の大学に帰る際はいつもこの列車だった。郡山を18時台発のこの列車に乗って、午前0時過ぎの深夜に青森駅へ。そこで青函連絡船に乗り換える。そして北海道で特急北斗を乗り継いで岩見沢まで16時間半かけて帰ったものだった。だから私にとって八甲田というと故郷を離れる哀愁漂う望郷列車という印象が強い。1993年に臨時列車に格下げとなり、定期運行は廃止となった。

    Hakkouda Hakkouda2

     「津軽」

     営業期間:1954年10月~1993年12月1日(1997年1月完全廃止)
     始発駅:上野
     終着駅:青森
     特徴:意外にも歴史は古く、青森から集団就職に向かう際の列車として使用された。出世列車とも呼ばれた。10系・12系・20系・14系客車が使用された。この列車には3~4回お世話になった。東京から郡山、そして20時台の郡山発で2時頃青森駅到着だった。この列車にも数多くの想い出が染み着いている。客車でシートを外して斜めにしてベッド代わりにして寝たこともあった。津軽海峡冬景色の歌詞のように北へ向かう人は皆、無口で重苦しい雰囲気に満ちていた覚えがある。

    Tsugaru Tsugaru2  

     他には仙台~青森間の急行「くりこま」やj常磐線経由の急行「十和田」「きたかみ」もあった。

     東北本線は東京駅を起点として青森駅までの575.7kmの長距離路線である。昔は関東近郊は1500ボルトの直流運転で、東北地方では2万ボルトの交流だった。したがって黒磯でその切り替えが必要だった。私が「ひばり号」で旅行中、急に電源がブチッと切れて車内は消灯、その間は惰性で走行し、再びモーターが再稼働するシーンがあった。この時に電流の方式を切り替えたのだった。これらの特急列車は時代の寵児として愛され、利用者も多かった。しかし、更なるスピード化の波には勝てず、より高速性と快適性を求めて安全走行可能な高架橋の上を走る新幹線時代の到来と共に世代交代を余儀なくされ、徐々に姿を消して行った。かつてあれほどの栄華を誇った長距離寝台特急ブルートレインが次々と廃止され、過去の遺物と化してしまったように・・・。今年も「日本海」が引退となる。栄枯盛衰を実感する。ところで、近いうちに大宮にある「鉄道博物館」を訪ねてみたいと思う。中央線のガード近くの万世橋に「交通博物館」があった頃は、何度か行ったことがあるが、埼玉県に移ってからは一度も行っていない。スケールが段違いで、昔懐かしい特急列車もそのまま陳列されていると聞いた。是非訪れて、記憶を取り戻したいと考えている。

     最後に、私が小学生の頃に開発され、試験運転を繰り返して来たリニアモーターカーだが、私が大人になる20世紀には実用化されているものと考えられていたが、半世紀近く時を刻んでも、未だに20年先の話のようだ。全国津々浦々で活躍していた特急列車が新幹線に道を譲ったように、まもなくリニアが取って代わる近未来的な高速交通ネットワーク時代が到来するだろう。もしかして私がこの世にいるうちに乗車が叶わないかもしれないが、東京~名古屋を1時間で結ぶ開業の目途はどうやら立ったようだ。今から待ち遠しい限りだが、そのためには一刻も早く工事に着手してほしいものである。

     記事作成:11月24日(木)
     

    2011年12月 5日 (月)

    私が好きだったCM⑥

    <1980年代 不二家ソフトエクレア>

     私が高校時代に流れていたCM。特に、ユーミンの「まぶしい草野球」に乗せて髪をなびかせ自転車で走る少女が登場するこのCMが大好きだった。あどけない感じで清純派の彼女は、当時の私のど真ん中ストレートだった。名前も知らない彼女は今、どこで何をしているのだろう。「♪ソフトエクレア~」という最後のジングルもピッタリだった。

     不二家はこれ以外にも、若かりし頃の藤吉久美子が出演していた「不二家ペップル」があった。また、お菓子のCMではネスレもまたお気に入りだった。例えば宮沢りえと後藤久美子が共演していた「キットカット」など美少女の登竜門のようなCMばかりであった。

    http://www.youtube.com/watch?v=sMZXk9xlic0&feature=player_embedded

    http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=T8UUN3JOaFE

    <お宝映像はコチラ>

    昭和60年放送の両者ともに12歳の時の貴重な映像だ。

     記事作成:11月11日(金)

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