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2012年1月

2012年1月31日 (火)

私が好きだったCM⑰

 化粧品のCMは数あれど、1980年代から90年代にかけてテレビを彩ったシリーズ作品があったのを覚えているだろうか?資生堂、カネボウ、コーセー、オッペン、マックスファクターなど数多くの化粧品メーカーがあったし、大手メーカーではキャンペーンガールを募り、そこからモデルや女優などタレントに転向する例も多かった。代表格は夏目雅子さんや今では国会議員まで登り詰めた蓮舫さんだろう。そして「燃えろいい女」など化粧品のCMをカバーし、大ヒットした曲も多くある。しかし、私が化粧品のCMシリーズで好きだったものと言えば、先に挙げたものではない。それはノエビア化粧品の秀作である。女性パイロットが小型のジェット機を操縦するCMも有名だったし、特に好きだったのはモダンアート絵画風の女性を描いたシリーズCMで、数年前の大ヒット曲をBGMにしたもので、他の歌手がカバーしている、まさに異次元世界を描写し、未来感覚のコスメティックをイメージした作風だった。あれこれ説明するより、見て貰った方が話が早い。

 まずは女性操縦士のお馴染みだったCMから。

 キャッチコピーは「働く女性は美しい」だった。ノエビアを一躍有名にしたのはこのCMコンセプトだった。この作品も複数制作されたが、私がお気に入りだったのは上のQueenのヴォーカル・フレディ=マーキュリーの「I was born to love you」だった。このシリーズの他の作品は以下の通り。

http://www.youtube.com/watch?v=QrKbooMI6Wg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=SuDEZcfrDvA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=R-scEr5bY30&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=EjmOQUpQOx0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=XlDT_Aqb2HE&feature=related

 そしてCMに革命をもたらしたと言われる作品シリーズはコチラ

 これらのCMは、全部で20シリーズ以上あったように思う。今見ても古さを感じないし、むしろ斬新さを漂わせているようにさえ思う。カバーした歌手は、大物シンガーばかり。もんたよしのり・坂本冬美・アンルイス・今は亡き柳ジョージ・デーモン小暮・宇崎竜童・甲斐よしひろ・狩人・沢田研二・松崎しげる・つのだひろ・桑名正博・西城秀樹・世良公則・上田正樹・森進一らそうそうたる顔ぶれである。

 それ以外の有名どころを紹介したい。

http://www.youtube.com/watch?v=guD0Gd8R4nQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=52aWAojiHuo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=D_R8m0mvaDc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=DxtKkTxz2Uo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=axZrmbqO_jc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=9FqL9k6CPQY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=9JYs0qLjyWw&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=LQhOK2EMkBo&feature=related

 そして最後の決め台詞(キャッチコピー)は「コスメティック・ルセッサンス・ノエビア」。

 この20年の間にCMも進化して来たが、一大スペクタクルのような壮大なスケールの作品は少ないし、心に残る感動大作は少なくなっている。最後の決め台詞もまた然り。先に紹介した「ん~マンダム」など、この商品を見れば、同時にチャールズブロンソンの顔とそのセリフが浮かんだものだ。私はこうした印象に残るCMの再来を期待したい。

 記事作成:12月5日(月)

2012年1月27日 (金)

伝説の男⑦ ~栄光と挫折の果てに~

Tsuburaya1  この写真を見て、名前をすぐに答えられた人は50歳以上か同じ出身地の方であろう。彼は死ぬまで日の丸の重圧と闘い続け、非業の死を遂げた伝説のランナーと言って然るべき人物だ。何を隠そう、私は彼がゆかりの深い同郷の出身だし、彼が出場した東京オリンピックの生まれである。時を遡ること48年前の1964年に、国家の威信をかけ、「戦後復興」のアピールを全世界に発信する上で、是が非でも成功させたい国家プロジェクトがこの東京オリンピックだった。私は9月生まれなので、10月開幕し、彼が一躍ヒーローになったレースの際には、既にこの世に生を受けていた。従って、彼の功績はすべて理解しているし、表彰台の栄光を手にしたばかりに、その後、日本人の期待を一身に背負い、その重圧に押し潰されたマラソンランナーだった。さて、ここまで言えば、彼の名前を思い出していただけただろうか?「君原健二選手?」まだお分かりになりませんか?「お嬢様の目はやはり節穴ですか?」というセリフがつい頭を過る。ではもっと付け加えて説明しよう。彼は福島県の須賀川出身で、「東京オリンピック」では、花形種目の男子マラソンに出場した。そして、記憶に残るエチオピアの名ランナー、アベベが圧勝したそのレースで、競技場に2位で姿を現したのが誰あろう彼だった。しかし、数メ―トル後方を追い上げて来た外国人ランナーに、日本中の視線が集まったその競技場内で抜かれ、3位に落ちた。歓声と怒号が交錯する中、日本人で最高位、そして初のメダルを獲得する快挙を成し遂げたのだった。しかし、なまじこの大会を転換期として英雄に祀り立てられたばかりに、彼は予期せぬ重圧と闘うことを強いられた。日本人の期待を一身に背負って、次回五輪のメキシコオリンピックに向け、厳しい練習に耐えていた。しかし、心ならずも、故障に泣き、思うようにタイムが上がらない不遇に苛まれた。そして彼は、自ら「死」を選び、この世を去ったのだった。ここまで言えばもう理解しただろう。そう、彼の名は「円谷幸吉(つぶらやこうきち)」である。今日は彼の栄光と孤独に満ちた壮絶なマラソン人生にスポットを当ててみたい。

Tsuburaya3 Tsuburaya2

<円谷幸吉のプロフ>

 円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち、1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛 官。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。

 須賀川第一中学校を経て須賀川高校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、県対抗東日本縦断駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰痛のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。1962年、東京五輪に備えて前年発足した自衛隊体育学校に駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。翌1963年8月には2万mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して1万mのオリンピック代表選手に選ばれた。東京オリンピック開催年の1964年、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2:23:31で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソンに出場、2:18:20.2で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。

 東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、君原が日本人では最有力と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。しかし、男子マラソン本番では君原や寺沢徹がメダル争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技に於いて獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。レースの模様は以下の通り。

 次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年には手術を受ける。病状は回復したが、既に嘗てのような走りを出来る状態ではなかった。メキシコシティ五輪の開催年となった1968年、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頸動脈を切って自殺。27歳での夭折だった。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。

 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に大きな衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。

 現在は、彼の銅像が母校の福島県立須賀川高等学校に遺されている。彼の遺志は、その後、同僚だった君原健二によって受け継がれ、幸吉が「メキシコで日の丸を上げる」と決意し親友・君原と固く誓った約束を、銀メダル獲得という栄誉で果たしたのである。君原氏は、毎年、幸吉の郷里で行われている、彼の偉業を称える「円谷幸吉メモリアルマラソン」にゲストとして参加している。レース前には必ず彼の墓参りを行い、大好きだったビールを墓前に供えお参りをするという。

 彼は東北人特有の実直で生真面目で融通の利かない泥臭い人間で、気持ちが弱い人間だったかもしれない。しかし、自ら死を選ぶほど、追い込まれていたのも事実だ。日の丸を背負うことの意義、そしてその重圧を誰よりも孤独の中で噛みしめていたに相違ない。私は同じ郷里の人間として、彼の偉業を誇りに思う。最後に、あの川端康成を以て「美しくて、まことで、かなしいひびきだ」「千万言も尽くせぬ哀切」と言わしめた、涙がとめどなく流れ落ちる彼の遺書の文面を紹介して結びとしたい。

 記事作成:12月20日(火)

2012年1月26日 (木)

私が好きだったCM⑯

 TDKカセットテープCM

 このCMはバブル時代を象徴するかのような勢いを感じる作品だった。実際はバブル崩壊後の1989年と1990年に流れていたが、コンセプトはバブル絶頂期のまま。出演していたのは若きカリスマロッカーの小比類巻かほる。恐らく35歳以上の方は覚えているだろう。とにかくノリノリでカッコいい女性シンガーだった。今も現役の歌手で、KOHHYというネームで音楽活動を続けている。特に、ビルの屋上でカクテル光線を浴びて摩天楼をバックに歌うシーンが盛りだくさんのTDKのCMはスケールが大きくて大好きだった。そしてもうひとつは、車の往来が激しいストリートで、ヘッドライトの波をバックに従えてダンス付きでカッコよく歌う作品。その模様は、この時代の繁栄をそのまま映していたように思える。では早速ご覧頂きたい。

 摩天楼バージョン

 メイキングPVはコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=Sb_tcwuzXmM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=5Dc_OH_-CUo&feature=related

 ストリートバージョン

 ショートバージョンはコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=MfLsgdVq4TQ&NR=1

 その他のバージョンはコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=uPJSY-bYkVw&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=1AwPvsaaCZ8&feature=related

 今考えるとカセットテープのCMなんて懐かしい。しかもメタルポジションやクロームポジション、ハイポジション(ハイポジ)などという、今となっては死語のも言える製品だ。CDのないアナログ時代に、とことん高音質を追及した末に出来上がったのがこのテープだった。時代の流れや栄枯盛衰を感じてしまう。ご覧頂いてわかる通り、小比類巻かほるは21年も前なのに、やたらとカッコ良かった。レザーファッションもうまく着こなし、変に飾っている感じも無く、自然体であったことでストレートに伝わってきた、今では数少ないシンガーのひとりだった。

 記事作成:11月30日(水)

2012年1月21日 (土)

私が好きだったCM⑮

 <いすゞジェミニ>

 1980年代から始まったアクロバティックなカースタント。これは大好評で、その後シリーズ化した。地下鉄の駅の階段を車が駆け降り、ホームを駆ける抜ける。噴水広場で、隙間なく並列走行したり、片輪走行、更には空中でクロスしたり、挙句の果てにはセーヌ川をジャンプして小船の屋根にバウンドしながら反対岸に着地したりと、それは当時CG技術など無い時代にあって、「一体どうやって撮影したのだろう?」と物議を醸したものだった。ではさっそくその信じられないような特撮技術を駆使したCMをご覧頂きたい。

 メイキングはコチラ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ziQUKXP9YeI&feature=related

 いかがでしたか?「懐かしい~」という声が聞こえてきそうだ。卓越した特撮技術で、ここまで完成度を高めたカースタントは見事というしかない。社会的反響が大きかったことも頷けるだろう。こういうCMを見ると、1980年代とは、まさに夢のような時代だったと痛感してしまう。最近、往年の名車が続々と廃車となって姿を消している。残念でならない。大手自動車メーカー3社を見ただけでも、ソアラ、マークⅡ、クレスタ、チェイサー、コロナ、セリカ(XXを含む)、スープラ、MR2、カムリ、ビスタ、カリーナ、スプリンター、セラ、レビン、トレノ、マリノ、セレス、スターレット(TOYOTA)、シーマ、レパード、ローレル、シルビア、セフィーロ、プリメーラ、プレセア、ブルーバード、サニー、パルサー(日産)、プレリュード、CR-X(HONDA)などは今はもう製造中止である。栄枯盛衰を感じる。日本の産業の屋台骨を支えて来たのは、建設業界と自動車関連企業である。かつて日本車が輸出によって貿易黒字を溜めこんで経済が発展したように、このCMを見習って、誰もが飛びつく様な新車を開発することで自動車メーカーが再び息を吹き返し、経済再生の旗振り役をして貰いたいものだ。

 記事作成:11月26日(土)

2012年1月20日 (金)

福島県出身のアナウンサー②

 前回、昨年の7月に「唐橋ユミ」さんを紹介してから間が空いてしまったが、ようやく2回目である。このシリーズは県内のマスコミに所属する局アナだけでなく、日本各地で頑張っている福島県出身の女子アナを取り上げて、応援する意図から制作し、紹介するものである。2回目の今回は、地元郡山市出身の柳沼淳子さんを扱う。

 <柳沼淳子のプロフ>

 1978年6月2日、郡山市生まれの33歳。血液型はA。皆藤愛子や長野美郷と同じセントフォース所属。郡山市立郡山第一中学校、福島県立安積女子高等学校を経て青山学院女子短期大学部国文科卒業。短大在学中に1997年度の第41代ミス渋谷に選ばれる。 その後フジテレビ739の『競馬予想TV!』のアシスタント、グリーンチャンネルの『全国競馬便り』のキャスターなどを務め、人気を博す。関西テレビ版『DREAM競馬』のメインMCを、2007年1月から2009年末の番組終了まで務めた。また、2004年からは、セント・フォースのアナウンサーとしては、異例の水着グラビアにも進出。趣味は世界中の旅。国内の温泉を巡る旅。お花を飾る。空間の演出。歌舞伎や能の鑑賞、ワインと料理、旅行。好きなスポーツはテニス・水泳・ゴルフ。
2006年10月、日本ソムリエ協会認定ワインエキスパートの資格を取得。
2008年8月、SSI認定利き酒師の資格を取得。
2009年12月6日、公式ブログにて会社経営者と婚約したことを発表。2010年11月、フランス・ボルドーワイン最高評議会よりコマンドールを叙任される。2011年4月、芸能界では初となる日本ソムリエ協会認定「シニアワインエキスパート」の資格を取得。

Yaginuma1 Yaginuma2

Yaginuma3 Yaginuma4 

 ~主な出演番組~

http://www.youtube.com/watch?v=6RxUajp4Woc

http://www.youtube.com/watch?v=hMQFig4rE0Y&feature=related

 <テレビ>

 ザ・ウルトラシェフシリーズ(LaLa TV、「ザ・超人シェフ」時代の2007年6月17日より司会・審査)

  東京シティ競馬中継(TOKYO MXTV、2005年4月~2007年3月)
 競馬予想TV!(フジテレビ739、2000年9月〜2002年7月)
 全国競馬便り(グリーンチャンネル、2003年1月12日~2005年12月25日)
 DREAM競馬(関西テレビ制作分メインMC、2007年1月7日~2009年12月27日) 婚約と共に卒業し、さらに同番組タイトルでの放送自体も終了した。
 サタうま! 不定期ゲスト出演(関西テレビ、2007年~)
 『DREAM競馬』出演により不定期に出演。取材ロケでは六車奈々、高山梨香(テレビ西日本アナウンサー)と共演していた。
 モバイル・ぐっど・モーニング(モバHO!)
 ハッピーデザイン(BSジャパン)
 ビューティー通信(BSジャパン)
 ワールドビジネスサテライト ウイークエンドサテライト(テレビ東京系列全国ネット)
 内村プロデュース秋の復活祭SP 新!内村プロジェクト(2005年10月23日、テレビ朝日系列全国ネット)
 ワンダフウ(TBSテレビ、2000年頃)- 部屋査定 「TRAP(Tokyo Rooms Assesment Project)」コーナー
 踊る!さんま御殿!(日本テレビ系列全国ネット、2007年4月24日)
 ファーストクラス(テレビ神奈川、2007年4月17日~9月25日)- ロンドン役

 <ラジオ>

 ショーアップナイターニュース(ニッポン放送)

 これ以外にもグラビア写真集やDVD(PV)などを発表している。

 地元ではまず、お目にかかれることはなく、県内出身者と知らない人が多い。芦名星や伊東美咲など、女優の中には、片田舎で、泥臭いイメージを嫌ってか「福島県出身者」というプロフを伏せたい人もいるようだが、堂々と自分の故郷を誇りに思って欲しい。

 

 柳沼淳子オフィシャルブログ「Junko's Cellar」はコチラ↓

http://ameblo.jp/yaginuma-junko/

 「福島県出身のアナウンサー① 唐橋ユミ編」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-5c6f.html

 記事作成:12月30日(金)

2012年1月18日 (水)

伝説の男⑥~正確無比の名ジャッジ~

 岡田功という人物を記憶しておいでだろうか。彼はNPBの審判を37年間勤め上げたプロ中のプロと形容されるほど正確無比の判断で、その名を残している大人物である。もちろん、彼を一躍世に知らしめた名ジャッジは、50代以上の人でないとわからないだろう。それは「神の目」とまで言わしめた1969年10月30日に後楽園球場で行われた日本シリーズ第4戦(巨人対阪急)での出来事だった。

 4回表、無死一・三塁で巨人は、一塁走者の王貞治が二塁に向け、続いて三塁走者・土井正三が本塁に向けてスタートをきる、いわゆるディレードダブルスチールを仕掛けた。ボールは、捕手・岡村 - 二塁手・山口富士雄 - 岡村と転送され、土井は捕手・岡村に跳ね飛ばされた形となったことから、このプレイはアウトと思われた。しかし、この試合で球審を務めていた岡田は「セーフ」の宣告をし、この判定に、完璧に土井をブロックしていたと確信していた岡村は激高し岡田を殴打。岡田は岡村に日本シリーズ初の退場事件となる処分を下した(なお、約60年にわたる日本シリーズの歴史で、退場処分を受けているのはこの岡村一人である)。岡村に代わりマスクをかぶった岡田幸喜は、左投手からの投球をわざと捕球せず、球審を投球の的にするという報復に出た(これはかなり危険な行為である)。この報復に反発して、その直後に岡田球審はボールを直接投手に送球して渡さずに三塁に転がすという行為に走った。

 試合後、記者に囲まれた岡田は「どうみてもアウトではないのか?」「モニターでは土井の足はホームに達していないぞ!」と詰め寄られた(岡田は後に「確かにモニターを見る限り、土井の足はホームに達していなかった」と述懐している)。帰宅後、ミスジャッジをしてしまったかもしれないと考えた岡田は辞表を提出しようと考えていたところ、報知新聞記者近藤唯之から電話が入り、「あなたのジャッジのとおりの写真が出た」と知らされた。そして、翌朝の各新聞に問題となった本塁でのクロスプレイの写真が大きく引き伸ばされて掲載された。宮崎仁一郎カメラマンの撮影した写真である。そこには、土井が跳ね飛ばされる直前に彼の左足が岡村の両足の間をかいくぐり、しっかりと本塁を踏んでいる瞬間が見事に写し出されていたのである。これにより、問題のジャッジは正しかったことが証明され、周囲からの非難は一気に沈静化。逆に「鋭い部分を見ていた」との称賛の声も出た。その問題のシーンの連続写真はコチラ↓

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Doi   

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 また、岡田自身が「フジテレビ739」で語ったところによれば、第6戦で岡田がライト外審として出場したときは、(ジャッジの正当性が証明されたにもかかわらず)真上にいる阪急ファンから大ブーイングを受けたという。また、その時審判を小突いて退場処分を喰らった岡村捕手もまた、「絶対にアウトだ」とその後も自説を譲らなかったし、阪急監督の故・西本幸雄も同様に、これほど鮮明な証拠写真を突きつけられてもなお、「写真がどうした?アウトはアウトだ」と自らの正当性を変えることはなかった。では決定的な証拠となる検証VTRを見て貰いたい。

 さて、このシーンをきっかけとして日本シリーズの流れが大きく変わり、巨人が優勝を成し遂げた。そして連覇が途切れず、最終的には9連覇の偉業が達成されることとなったのは衆知の通りだ。一方の西本監督は、この件といい、「江夏の21球」のように日本シリーズに8度コマを進めるも、一度も日本一になれなかった監督となり、「悲運の闘将」と呼ばれた。

 この名シーンで思うことは、岡田主審の的確で冷静なジャッジに尽きる。もちろん、キャッチャーのブロックを掻い潜って足を潜り込ませた土井の名走塁も絶賛されて然るべきだ。まさしく「神の足」と言えるだろう。こうしたことは筋書きのない真剣勝負だからこそ実現されたのである。岡田主審の勇気あるジャッジは、「プロ中のプロ」の仕事と言って過言ではない。彼の見る目の確かさを神様は見捨てなかったのだろう。新聞社の記者(カメラマン)の偶然撮り収めた、たった一枚の決定的瞬間の激写に救われたのだ。あわや退職に追い込まれかねない「世紀の大誤審」に仕立てられる寸でのところで彼は甦ったのだ。それだけ日頃から「確かな目」を養っていたことの賜物だと思えてならない。毎年、ルールが目まぐるしく変わる日本のプロ野球界にあって、変わらずにあって欲しい名ジャッジであったし、既に当事者の二人(土井・西本)がこの世を去った現在に至っても、この記憶がいつまでも色褪せないで欲しいと思う。

 記事作成:12月17日(土)

2012年1月17日 (火)

私が好きだったCM⑭

 私は消費者金融から借りたことは一度も無いが、「アイフル」のくぅ~ちゃんにしても「初めての~アコム~」にしても、明るくて親しみやすい雰囲気を演出し、気軽にお金を借りられるようなCMをこれまで各社が相次いで制作して来た。言ってみれば「高利貸し」や「サラ金」という、昔は取り立てが厳しく、返済が滞るとヤクザさんが押し寄せてくるなど怖い印象を持っていた。そうした悪いイメージを払拭しようと、様々な趣向を凝らしたCMでその暗いイメージを一掃しようと努める意図や狙いは明確に伝わってきた。それらは、バブル以降、主に1990年代からが消費者金融に関する消費者保護の法律が制定されたこともあり、大幅な路線変更やイメチェンを図った感がある。爽やかお姉さんの小野真弓を起用したり、チワワを使ってみたり、サラ金とは一切関係のないダンサーを集め、躍動感溢れるダンスをさせてみたり、とにかく従来の悪いイメージを一新し、関心を持って貰おうという意図は見栄見栄だった。そこで今回は、その中でも特に異彩を放った代表格の3社を取り上げて紹介したい。

 <¥Shop 武富士>

http://www.youtube.com/watch?v=ARnoDtNWSI8&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=5YQY8ES_drA&feature=related 

 ご存知「武富士ダンサーズ」である。大人数で華麗なダンスを繰り広げる様は、昔の映画「ステイアライブ」や「フラッシュダンス」を彷彿させた。このCMを見て、ダンサーを志した人もいると聞く。消費者金融を全く関連性のないダンスに置き換えてPR作戦を展開たことで収益が上がったことを考えれば、企画の勝利だと言えよう。

 <どうする?アイフル>

http://www.youtube.com/watch?v=7b4Lu8hOiFE&feature=related

 「どーするアイフル?」のコピーでおなじみになった。俳優の清水章吾さんが演じるパパがペットショップで一匹のチワワと目が合い、その可愛らしい釘付けとなり、海岸を一緒に走っている場面を空想してしまう。娘役の本多彩子から「パパ、パパ~」と声を掛けられても視線が一点を凝視する絵柄に、多くの視聴者は「あ~あ、こりゃ~飼うっきゃないわ」と思ったことだろう。それと同時にこのCMの続編を期待したに違いない。ペット好きにはたまらないストーリーだった。キャッシュレスでも電話一本で現金を用立ててくれるのは有り難い存在だが、やはり便利だからと言って借りるだけでなく、利率や返済を念頭に置いて、自己破産への道を突き進まないようにすべきだと思う。やっぱり「ご利用は計画的に」である。

 安田美沙子バージョンはコチラ↓

http://www.youtube.com/watch?v=5jvRl35nVvo&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=uQEz6j5btEM&feature=related

 その他

http://www.youtube.com/watch?v=oaqA70ENX1Q&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=T5_g7zJONKk&feature=related

 <初めての~アコム>

http://www.youtube.com/watch?v=bp3JcoYFsr8&feature=related

 小野真弓の爽やかキャラの起用で、アコムのイメージアップ戦略は奏功した。「元気な挨拶」をモットーに明るく印象を与えた。彼女のCMは5本以上制作され、彼女自身を一躍有名にした出世作とも言える。当時彼女はグラビアモデルやタレントだったのだが、彼女のような実際、「窓口にあのような可愛い娘ちゃんが受付などにいたら・・・」と妄想させるようなCMコンセプトだったし、気軽に入店できるような雰囲気作りに成功した。

 他にも「ほのぼのレイク」や「むじんくん」(アコム)などのCMも登場し、華やかだった。今は何故かこうしたCMが自粛されたのか、めっきり少なくなった。もちろん武富士は昨年9月に会社更生法適用により、韓国の金融会社に売却となったし、アイフルもまた、強引な営業活動や悪質な取り立てなどの違法行為が社会問題になり、2005年に4月に「アイフル被害対策全国会議が、被害者や弁護士・司法書士らにより結成された。また、2006年4月には財務相近畿財務局長がアイフルに、全店舗の業務停止命令を出した。これを受けて2006年4月から2ヵ月間のCM自粛を発表し、2002年から放送されてきた「チワワのCM」のシリーズが打ち切られた。

 「金にめがくらむ」とか「金の亡者」、「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、金は人の性格を変えてしまうもののようで、まさに金に踊らされ、皮肉にも金に会社を奪われた顛末となってしまった。

 記事作成:11月26日(土)

2012年1月14日 (土)

お気に入りの若手O型女性芸能人

 私は以前「私が愛したO型タレント」と言う名の記事を当ブログに掲載した。自分がO型のせいか、同じ血液型の女性タレントに惚れやすく、ついつい夢中になって応援したくなる理由も記した。例えばこれまで好きになったO型には、時系列で追うと、吉永小百合、美空ひばり、岡田奈々、木之内みどり、伊藤つかさ、田中美佐子、鶴田真由、森高千里、優香などがいた。色白で愛嬌のある丸顔、性格も明るく、癒し効果を与えてくれる印象が強い。感情表現がストレートで甘え上手。屈託が無いし、わざとらしさも無い。もちろんA型の竹下景子や松嶋菜々子、竹内結子、檀れい、チェ・ジゥ、夏帆、バドミントンの潮田玲子も好きだったし、B型の菊池桃子、伊藤さやか、小倉優子、膳場貴子も気に入っていた。現在では皆藤愛子も大好きだ。AB型は大原麗子や藤吉久美子、鈴木えみ、戸田恵理香、水沢エレナに興味があった。でもO型ほど熱狂した訳ではない。なぜか不思議なくらいO型に魅力を感じ、心酔してしまう。やはり可愛らしさを全身に漂わせ、男として守ってあげたい様な雰囲気を醸しだしているからだろうか。実際に、O型女性はモテモテで、恋愛の主人公となるケースが多く、必ず男性の取り巻きがあって、奪い合いとなることも多々ある。それゆえ早く結婚する人が多いのも頷ける。前口上はこれくらいにして、今回は、現時点で私が興味を持っている若手女性O型芸能人を10人取り上げたい。以前も似た企画をお送りしているが、年も改まったし、穏やかな心持ちで読んで貰えたら幸いだ。

 瀧本美織

 1991年10月16日生まれ。鳥取県鳥取市出身。スターダストプロモーション所属 。鳥取敬愛高等学校卒業。亜細亜大学経営学部在学中。身長162cm。靴のサイズ23cm。血液型O型。視力は両目ともD(0.3未満)。趣味は歌とダンス。名前の「美織」は本名で、「美しい風景を彩るように、織りなす女の子に育つように」という願いを込めて、両親が命名した。一人っ子で、小さい頃は男子に混ざって遊んでいた行動派だった。小学生の頃から芸能界に興味を持ち、地元からダンススクールなどに通うため度々上京し、芸能活動をスタート。2003年8月、エイベックス所属のヴォーカルダンスユニットSweetSのメンバーとして芸能界デビュー。2006年8月にリリースしたベストアルバムを最後に同グループは解散。その後「早稲田アカデミー」のCMに出演。2008年、現事務所に。2010年、映画『彼岸島』で女優デビュー。高校卒業までは仕事やレッスンの度に上京していた。2010年2月に同年度下半期のNHK連続テレビ小説『てっぱん』の主役に起用された。2011年、人気韓国ドラマのリメイク版となる『美男ですね』(TBS系)で民放ドラマ初主演した。今年は「ハングリー」に出演中。

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http://www.youtube.com/watch?v=wTB0_LPFbpM&feature=relmfu

 長野美郷

 1986年11月27日生まれ。愛知県みよし市出身。身長157cm。血液型O型。所属事務所はセント・フォース。三好町立中部小学校、三好町立三好中学校、愛知県立豊田西高等学校卒業。2009年3月、上智大学経済学部経済学科卒業。在学中、上智大学放送研究会(SBC)に所属。2006年度ミスソフィア、Miss of Campus Queen Contest RITZ賞を受賞。2009年3月30日からフジテレビ『めざましテレビ』の5代目お天気キャスターとしてデビュー。2009年9月18日、神奈川県警麻生警察署にて1日警察署長を務めた。2010年6月、オリコンの「好きなお天気キャスター・気象予報士」ランキングで総合2位獲得(女性では1位)。特技はピアノ。部活動は小学校でマーチングバンドクラブ(楽器はアルトサックス)、中学校では吹奏楽部(楽器はフルート)に所属していた。アナウンス技術関連の資格である、DJ・MDライセンスを所持している。趣味は和カフェめぐり、ネイルアート。読売巨人軍のファンである。好きな食べ物はマンゴー、チョコレート、冷麺。視力はあまり良くなく中学卒業まではメガネを着用し、高校からはコンタクトレンズを使用している。

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http://www.youtube.com/watch?v=Gph0c6NvDFk

 山岸舞彩

 1987年2月9日生まれ/みずがめ座/東京都中央区出身/O型/フリー アナウンサー、ファッションモデル、タレント。セント・フォース所属。
 幼稚園から大学まで一貫して、日本女子大学の系列校及び同大学に学内進学で在籍して、2009年3月に日本女子大学文学部日本文学科を首席で卒業した。大学入学後にモデルとしてデビューし、2005年秋には2006年東レミスキャンペーンガールに選出された。2006年春からはテレビ東京系『激走!GT!』で1年間リポーターを務め、同年秋にはテレビ朝日系『だめんず・うぉ~か~』に出演。2007年秋にアンジェリックから現在のセント・フォースに移籍し、2007年秋 - 2009年春にテレビ朝日系『やじうまプラス』で天気予報や交通情報のキャスターを担当した。中学時代にゴルフで関東6位、2005年から毎日書道展に7年連続入選、2010年の第62回毎日書道展では「かな部1類」でただ一人U23新鋭賞を受賞と多才な面もある。2009年12月には現代書道研究所の教育部師範試験に合格し、翌年の2010年1月に師範免状を授与された。2011年4月から、NHK総合テレビの週末のスポーツニュース・情報番組「サタデースポーツ」・「サンデースポーツ」のメインキャスターに就任。特にサタデースポーツは6年間の中断期をはさんだリメイク版での初代司会者となる。実際の彼女もスポーツウーマンで実績も高い。水泳では、背泳ぎでジュニアオリンピック東京都大会に出場する程の実力。水泳を続けてきたことで、肩幅ががっちりしている。そのことから「肩さん」というあだ名がインターネット上でついてしまう。「肩幅のことを言われるのは女性としてあまり嬉しくは無い」と、渋々に話しのネタにする場合がある。

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http://www.youtube.com/watch?v=6FjbWJKNVZE&feature=related

 吉高由里子

 1988年7月22日生まれの23歳。東京都出身。アミューズ 所属。スリーサイズはB85 W63 H88 身長は157cm。左利き。趣味は絵を描くことと、音楽鑑賞。血液型はO型。
 
 高校1年生の時に原宿で買い物をしている所をスカウトされた。2006年、映画『紀子の食卓』でデビュー。第28回ヨコハマ映画祭最優秀新人賞受賞。2007年9月頃交通事故に遭い、顎の骨を折る重傷を負い、ICU(集中治療室)に5日間入院していたことがある。この出来事がきっかけで、金原ひとみの『蛇にピアス』に感銘を受け、映画化にて主演、デビュー以来初のヌードと大胆な絡みシーンを披露した。こうした大胆行動もO型ならではである。2009年10月、フジテレビ系月9ドラマ『東京DOGS』のヒロインに抜擢される。2010年7月、日本テレビ系『美丘-君がいた日々』で地上波連続ドラマ初主演。2011年にはテレビドラマ「私が恋愛できない理由」、映画「カイジ」にも出演した、今、もっとも乗りに乗っている女優である。

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http://www.youtube.com/watch?v=dKQuu2rcZqg

 北川景子

 1986年8月22日生まれの25歳。本名同じ。愛称は、 きーたん、景子、景たん、景子たん。 兵庫県神戸市中央区出身。血液型はO型。スターダスト プロモーション所属。身長は160cmある。趣味は映画・音楽・絵画鑑賞と読書。
 高校2年の時に、地元神戸のモデル事務所・ノイエにスカウトされたことが芸能界入りのきっかけ。2003年、「ミスSEVENTEEN」に選ばれ、モデルデビュー。テレビドラマ『美少女戦士セーラームーン』の火野レイ/セーラーマーズ役で、女優デビュー。2004年4月、ノイエから、スターダストプロモーションへ移籍。2005年4月、明治大学商学部商学科入学。2005年、10月から、映画撮影のために渡米。2006年、9月を最後に、SEVENTEENモデルを卒業。2009年3月、明治大学商学部商学科を卒業。2008年の「太陽と海の教室」、2009年の「ブザー・ビート~崖っぷちのヒーロー~」、2010年の「月の恋人~Moon Lovers~」と3年連続で月9枠ドラマに出演している(このうち、2作はヒロイン役である)。また、2011年は「LADY~最後の犯罪プロファイル~」や櫻井翔と共演した「謎解きはディナーのあとで」に主演し、高視聴率をマークするなど、今もっとも売れっ子と言える女優に君臨している。また、この5年間に16社のCMに出演するなど近年のCMクイーンでもある。

Kitagawa1 Kitagawa2

http://www.youtube.com/watch?v=Gj7btfRBafs&feature=related

 キム・テヒ

 1980年3月29日生まれの韓国の女優である。男1人女2人姉 弟の次女で、姉と、俳優の弟イ・ワンがいる。蔚山(ウルサン)市出身で、ウルサンサム シン小学校、ウルサンテヒョン中等学校、ウルサン女子高等学校を経て、日本で言うところの東京大学と同等の学歴を有する「ソウル大学」の生活学部衣類学科に入学し、2005年に卒業した才媛。カトリック教徒である。連続ドラマ『天国の階段』(2003年、SBS)の悪女役や『アイリス』(2009年、KBS)のヒロイン役などで知られる。韓国では最も人気がある俳優の一人である。身長165cmと長身。血液型はO型。
 2000年、キム・テヒは地下鉄で偶然会った広告代理店のデザイナーに勧められ、テレビ・コマーシャルで芸能界にデビューした。翌2001年、『ラストプレゼント』で主演イ・ヨンエの中学生時代役で映画に出演し、2002年の短編映画「新都市人」から本格的な演技活動を始め、有名になったのは、2003年 SBS の人気ドラマ『天国の階段』で主人公の意地悪な義理の妹役ハン・ユリを演じてからである。翌2004年、SBSの大学生の恋愛劇『ラブストーリー・イン・ハーバード』に出演した。両作品ともにキム・テヒの貢献が評価され、『九尾狐外伝』で最優秀新人賞を、『ラブストーリー・イン・ハーバード』で最高人気賞を受賞している。2009年、4年ぶりにテレビドラマに出演した。このイ・ビョンホン主演のスパイ推理劇『アイリス』は、韓国ドラマ史上最大級の製作費をかけたもので、批評家の称賛と商業的な成功を獲得し、平均視聴率30%を記録。放送開始から各週の最高人気作となった。2011年10月には、日本での本格的活動のスタートとなる主演作『僕とスターの99日』がフジテレビ系列で放映開始された。この連続テレビドラマでは、ダブル主演となる「さえない男」役の西島秀俊を相手に韓国の人気女優役を演じ、好評を博した。

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http://www.youtube.com/watch?v=Hba889xjBtA&feature=fvsr

 安田美沙子

 1982年4月21日生まれの29歳。北海道札幌市で生まれ、京都府で育った。血液型はO型。身長162cm。スリーサイズは82-62-90cm。股下が72cmあり、プロポーションは抜群。英語が得意で英語検定2級取得。
 宇治市立東宇治中学校を経て京都府立東宇治高等学校卒業。摂南大学国際言語文化学部に在学中だった2001年4月、京都市のデパート、JR京都伊勢丹の靴売り場でスカウトされて芸能界デビュー、同年12月放送の番組 『美少女図鑑』がテレビ初出演となった。翌2002年、少年雑誌主催のコンテスト 「ミスマガジン2002」に於いて優勝、『ミスヤングマガジン』に選出されたことで広く知られるようになった。安田はこの頃から多忙になり、大学は中退した。この年から、安田の地元である京都を本拠とする消費者金融会社、「アイフル」のCMに出演し、話題となった。e-niceレーベルから歌手デビューを果たし、2004年には、『サントリービールキャンペーンガール』に選出された。翌年にはテレビドラマ 『熟年離婚』に出演し、連続ドラマにおける女優デビューとなった。同年暮れに公開された映画 『ルナハイツ』では、初の映画主演女優を務めている。テレビ番組のトークでは、「うちは」や「めっちゃ」など、普段から京言葉を多用し、おっとりとしたキャラクターを印象づけている。癒し効果抜群のタレントとして主にバラエティ番組に数多く出演している。バドミントンの潮田玲子に似ている。

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http://www.youtube.com/watch?v=gkQjhrHCNaI&feature=fvst

 桜庭ななみ

 1992年10月17日生まれ、鹿児島県出身の19歳。演劇・音楽 グループbump.yのメンバーである。スウィートパワー所属。身長は162.5cm。スリーサイズはB:79cm W60cm H:87cm。趣味は、ピアノ。特技はテニスとバレーボール、書道。
 2007年夏、地元のゲーセンでプリクラ撮影中にスカウトされて、芸能界入りする。2008年2月放送の『栞と紙魚子の怪奇事件簿』第6話でデビュー。2008年5月に同時公開の『同級生』と『体育館ベイビー』で、映画初出演。2008年、ミスマガジン2008グランプリに約17,000人の中から選ばれ、同年の全国高校ラグビーフットボール大会において、イメージキャラクターを務めた。そして同年にはドラマ「東京少女桜庭ななみ」に主演した。2010年3月、翌年度の日本雑誌協会キャンペーンキャラクターに、選出。2010年、映画『最後の忠臣蔵』では、ヒロインを演じる。今後飛躍が期待される大型タレントである。若い頃の吉永小百合や広末涼子にも似ている。やはりO型。

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http://www.youtube.com/watch?v=4pAJ63AcFAY

 南沢奈央

 1990年6月15日生まれの21歳/ふたご座/埼玉出身/O型。 スウィートパワー所属。身長は163cm。

 2006年、現在の所属事務所に中学3年生の夏からスカウトされてきたが、高校受験を控えていたことや人前に出ることの苦手意識、また元々女優の仕事にあまり興味がなかったことなどから断り続けていた。高校進学後、事務所から同事務所所属の黒木メイサ主演の舞台『あずみ~AZUMI RETURNS~』に招待され、それを観て感動し芸能界入りを決める。立教大学現代心理学部在学中。同大学は両親の出身校でもある。英語検定・漢字検定共に、2級を所持している才女でもある。学校の部活動ではバスケットボール部やバドミントン部など、小学校から高校まで運動部に所属。水泳なども経験がある。
 2006年10月、テレビドラマ『恋する日曜日ニュータイプ』で、主演デビュー。2007年3月にはNTT東井本「DENPO115」で、CM初出演。4月には 『生徒諸君!』で、地上波ドラマ初レギュラー。8月 - 第28回「ビクター・甲子園ポスター」キャンペーンイメージキャラクターに選ばれる。10月には『象の背中』で、映画初出演。11月、 1st写真集『南沢の風〜Nao's Journey Ⅰ〜』を発表。2008年、 『栞と紙魚子の怪奇事件簿』で、地上波ドラマ初主演。12月、TBSドラマ『赤い糸』で、映画初主演を果たし、注目を集める。2009年4月、『赤い城 黒い砂』で、初舞台。10代・20代の男女を対象に実施した「2009年 期待の若手女優ランキング」のアンケート調査で、第1位を獲得。2011年2月、 第2回『赤坂BLITZ寄席LIVE』で、古典落語に初挑戦。12月 - 1stDVD『いま。』を発表。

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http://www.youtube.com/watch?v=GaNS1qM-RWg&feature=fvst

 小池里奈

 1993年9月3日生まれの18歳/おとめ座/栃木県小山市出身/O型/155cm41kg/スリーサイズは73-56-82cmと決してグラマラスではない。女優・タレント・歌手・アーティスト・モデル・司会者・MCとマルチに活躍しているが、グラビアアイドルとしてのステータスが強い。キュートなベビーフェイスでアンニュイな感じ。

 小学3年生の大晦日に、家族で出かけた新宿で現事務所社長にスカウトされる。2004年、小学5年生でTBS系『ぼ少女戦士セーラームーン』のルナ(人間体)役でデビュー。同年、1枚目のDVD『おにいちゃんといっしょ』を発表した。2006年4月から2007年年9月まで、エンタ!371の、『NEWS!371』におけるジュニアNEWSのMCを担当する。同年、『Chu→Bohチューボー』(海王社)に参加する。しばしば表紙も飾り、連載コーナーを持つなど同誌の代表的な存在だった。2007~8年は2年連続生徒会長。2009年2月同誌主催のイベントにて卒業。同年、テレビドラマ『喰いタン』に出演、以降、女優としての活動が増える。2008年、TBS『ランク王国』において、「ぜんぶ小池里奈のRina-Boh(海王社)」および「里奈の旅」が、番組調べによる2008年年間アイドル写真集売上げランキングTOP20のそれぞれ2位、3位に選出。同じく、「りなっつ☆」が、同番組調べによる2008年年間アイドルDVD売上げランキングTOP20の4位に選出。2009年5月、書泉ブックマートの販促イベントにおいて、ムック写真集「sabrina」を2,150部を売り上げ同店の最高記録を更新した。普段はメガネ、あるいはコンタクトレンズを装用している。趣味は星をみること、イラスト、水泳、ダンス、バレーボール、サッカー観戦。特技はピアノ、ドラム、バイオリン演奏である。長所は明るく元気で前向き、体が柔らかい事、短所は天然な部分、短気なところである。テレビでは主にバラエティーに多く出演している。

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http://www.youtube.com/watch?v=eVkSmsKn4Rc

 これ以外にも、「私が好きだったCM⑧」で紹介した天テレ戦士だった篠原愛美(つぐみ)や井上真央、ビーチバレーの浅尾美和もお気に入りだし、最近は「サンデーモーニング」のアシスタントとして奮闘中の宮城出身の佐藤渚さんも好意を持っている。そして本当はランキングに載せたかったのが、めざましテレビに出演しているフジテレビアナの加藤綾子もピカイチだ。それにしても、こうしてランキングの10人を見比べると、どこか雰囲気が似ているし、甘ったるいゆるキャラの印象を受けるだろう。念のため断っておくが、私は別段ロリコン趣味ではない。それだけは誤解しないでもらいたい。好きになる女性は、美人系よりも可愛い系が好きだというだけのことだ。そしてO型女性の特徴として、自己顕示欲が強く、非常に外見を気にする。その表れとして、写真映りを気にしたり、自分を綺麗に見せようという意識が過剰に働く。その結果、化粧や特にネイルに異常なほどのこだわりを持っている人が意外に多いことに気づく。不思議なくらい、赤とかオレンジとか派手系の色を好む性質がある。そして、年下好きが多い点も挙げられる。面食い(つまりイケメン好き)がO型女性に多いのも頷ける。どうです?O型の女性の方々、心当たりがあるのでは?

 ところで、私的には、2011年にオリコン上位を独占したAKBにはあまり好きな人はいない。というよりいたらおかしいような年齢になってきたからだ。強いて言えば、小嶋陽菜、市川美織、指原莉乃くらいか。やはり3人ともO型。A型の前田敦子、板野友美、篠田麻里子にはあまり関心が無い。B型の柏木由紀と秋元才加やAB型の渡辺麻友、高橋みなみは普通。

 本日挙げた彼女たちのプロフを見ると10人中9人が街を歩いていて偶然にスカウトされたのが芸能界入りするきっかけとなった。真偽のほどは定かではないがあ、いずれにしても、周囲に埋没せず、光彩を放つ魅力があったことには間違いないだろう。それは外見の可愛らしさだけなのか?それとも内面から滲みでるオーラがあったのか?理由はどうあれ、芸能人になりたいなら、街を歩くことも重要であることはあながち否定できない気がする。ただナンパや犯罪に巻き込まれても責任は負えないが・・・。さて、この記事、如何だったでしょう?単に個人的趣味を暴露しただけのような気がするが、O型は何か人を惹きつける魅力に溢れていると感じるのは、私だけではあるまい。

「私が愛したO型タレント」の記事はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-4b74.html

 記事作成:12月25日(日)

2012年1月11日 (水)

私が好きだったCM⑬

 公共広告機構(1983年) 「資源とともに消えた島」

 このCMは私が高校生の頃に何度も流れていたCMで、こんな人工的な島が日本に存在していることに驚きを隠せなかった。それはその名の通り「軍艦」をイメージする佇まいで、周囲1.2km程度しかなく、しかし、それでもそんなちっぽけな島に5千人もの人々がひしめき合って生活していたのだ。そう、そこはかつて「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭発掘のために、九州や遙々本州からやって来た炭鉱夫たちで賑わっていた、日本版ゴールドラッシュを地で行くような、まさに宝の島だった。しかし、1960年代に突如沸き起こったエネルギー革命によって、石炭から石油への大転換が国策として進められ、その結果、日本全国の炭鉱は次々閉鎖、廃鉱に追い込まれていった。かつては日本一の埋蔵量を誇った北海道の北炭夕張や南鉱でもガス突出や爆発事故、坑内火災などの事故が相次いで起き、多数の炭鉱夫が犠牲になるなど、石炭産業は一気に斜陽を迎えた。そしてこの軍艦島も、かつての栄華とは裏腹に、家族同然の共同生活をしていた炭住の人々も、先を争うように島を出て行き、終末は、ひとっこ一人いない廃墟だらけのゴーストアイランドと化したのだった。そうした過去の遺物にスポットをあて、限りあるエネルギー資源を国民一人一人が真摯に向き合い、その利用を考えるよう警鐘を鳴らすCMだった。では、早速ご覧頂きたい。

 この島は長崎県の沖合に浮かぶ端島が正式名称の小島だ。上空から見ると、本当に軍艦の形をしている。隙間無く、団地があり、学校や病院、映画館など生活に必要なものは何でも揃っていた。最近、ここを世界遺産にしようという動きが活発に展開されている。ただ、何年も上陸禁止措置がとられたにもかかわらず、ここ数年間は観光目的で渡航できるようになり、新たに船着き場や桟橋を整備したので、何か場にそぐわない風情になった感がある。この島のいわれや歴史的な知識を持たぬ者が、興味半分で訪れるとどうなるか。上陸記念に落書きをしたり、ゴミを平気で散らかすj非常識な輩、石や生活用品を無断で持ち帰る不届き者が現れるに相違ない。これが日本人の悪い点である。

 私は北海道に住んでいた際に、赤平市や三笠市、夕張市などの炭鉱街を歩き、錆び付いて誰も住まなくなった炭住や廃線となった線路、そして古ぼけたトンネル跡、そしてズリ山の跡などを嫌と言うほど見せつけられた。溜息しか出なかった。かつてはここに人々の幸せな暮らしがあったのだろうと想像すると居たたまれない気持ちになった。今や町自体がゴーストタウン化してしまい、人口は激減し、活気が失せた。北海道に限らず、九州の三池炭鉱も同じ境遇を辿った。落盤事故やガス事故で一体何人の尊い命が奪われたのだろう。安否不明のまま、火災鎮火のために水を注入し、水没してしまった炭鉱まである。そこまでして犠牲を払い、日本の経済や産業を支え続けた偉人達の功績があったのだ。このことを私達は決して忘れてはならないし、その事実に蓋をしては断じてならないのである。今回、フラガールに夢中になった経緯から、その足下をもう一度見直したくてこの話題を提示した次第である。

「資源とともに消えた島」のブログはコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-c6b2.html

 記事作成:11月24日(木)

 

2012年1月10日 (火)

伝説の男⑤ ~ドラゴンと呼ばれたスター~

 彼がこの世を去って40年近い歳月が過ぎようとは、俄かに信じられない。彼の名は李小龍と言う。たぶんわかって貰えないだろう。本名はリー・シャオロン、レイ・シウルンと言い、サンフランシスコ生まれの中国人と聞けばどうだろう。たぶん、それでもまだ彼の正体を理解できないだろう。それではカンフー映画の「ドラゴン」シリーズと言えば一発でBINGO!だろう。そう、今年が辰年だからという訳ではないが、今回取り上げたい伝説の男とは、中国武術家、武道家、香港俳優の「ブルース・リー」である。彼は名作「ドラゴン怒りの鉄拳」や「ドラゴン危機一発」、「ドラゴンへの道」、「死亡遊戯」に出演し、数多くの危険なアクションシーンを自ら演じ、当時の観客の度肝を抜いた。彼を一躍有名にした出世作が1973年公開の「燃えよドラゴン」であった。これらの映画で、彼はカンフーアクションを駆使し、揺るぎない第一人者としての地位を獲得し、人気も絶頂だった。しかし、彼が「伝説の男」と位置づけられる所以となったのは、そんな人気が最高潮の時に、突如、原因不明の腹痛によって、32歳という若さでこの世を去ったことによる。もちろん一流映画スターの突然の謎の死の報には、マスコミやファンならずとも様々な疑惑が浮上し、憶測が渦巻いた。公式な死因は脳浮腫である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していたことが判明した。頭蓋内圧亢進により脳幹部が圧迫されて死に至ったと考えられる。

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 まずは簡単に彼のプロフと功績を振り返りたい。

 父親の中国系で広東演劇の役者の李海泉と、混血の母親グレイスが家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、サンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれた。5人兄弟の次男。何不自由なく育ったリーの将来を心配した父は、「俳優の不良息子」として悪名を知られた香港から離し、渡米を命じる。18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役や映画「キルビル」に抜擢され、派手なアクションで人気を博す。1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。ところが、ハリウッドとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。しかし、前述したように1973年7月20日に彼の急死によって、彼は「永遠のヒーロー」としてその短い生涯を閉じた。リーの死後、彼が待望していたハリウッド主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに全世界で公開され、大ヒットとなった。しかし皮肉なことにアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた。

 次に彼のアクションシーンをご覧頂きたい。

 カッコいいテーマソングはコチラ

http://www.youtube.com/watch?v=cuaLE0I17ns&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=137z3WCh3GM

 当時は、ヌンチャクはおろか、カンフーアクションなど見たことも無い時代。その鬼気迫る戦闘シーンは見る者を圧倒したし、その寸分たがわぬ、息も継がせぬような派手なアクションには、私自身圧倒され、度肝を抜かれた記憶がある。もちろんCGなどなかった時代。すべて彼が実際に演じているのだ。「ジャーン、ジャジャン!」といういつものBGMもまた臨場感を効果的に盛り上げた。そして彼が発した「アチョー!」という絶叫にも似た掛け声もトレードマークになった。そして筋骨隆々の体型を駆使し、一撃必殺で敵を仕留める華麗なアクションは見ごたえあった。手に汗握る攻防も何故か心地よかった。

 さて、ことのついでにプライベートな話をすれば、私はさほどでもないが、私の小中高の親友に、ブルース・リーの熱烈なファンがいた。DVDはすべて買い揃え、部屋には彼がアクションシーンで着ていた黄色い繋ぎのスーツがハンガーにかかっていたし、通販でヌンチャクまで購入していた。それくらい彼の迫真のアクションや戦闘シーンは心を打つ惹かれるものがあるようだ。それもその筈、彼はスクリーン以外ではもう二度と見れない永遠のスターになってしまったからである。

 最後に、彼の死後も不可解なことが起きた。彼の実の息子ブランドン・ブルース・リー奇怪な死を遂げた。1993年に映画『クロウ飛翔伝説』の収録中、銃撃されるシーンで使用する拳銃に空砲ではなく実弾が装填されており、誤って発射された弾丸が腹部に当たり事故死したのだった。28歳没。

 ブルースリーの亡きがらは、青春時代を過ごしたシアトルで静かに眠っているという。

 記事作成:12月5日(月)

 

2012年1月 5日 (木)

私が好きだったCM⑫

<1970年代 マンダム>

 このCMはロングランだった。アメリカ人大物俳優のチャールズ・ブロンソンを起用したこのCMは、男臭さをプンプン漂わせた男性用化粧品「マンダム」だった。BGMのこの曲「男の世界」もすっかりお馴染みで、最後の決め台詞「う~ん、マンダム」というのも流行語になった。1970年から1980年まで11年間出演し、彼と言えばマンダムが代名詞だった。

 名曲のジェリー・ウォレス Lovers Of The World/「男の世界」は下をクリック!

http://www.youtube.com/watch?v=SH4QKICO3iI&feature=fvwrel

 <チャールズブロンソン>

 1921年11月3日、アメリカペンシルバニア州生まれ。本名はCharles Buchinsky。リトアニア移民の父の下、15人兄弟の五男として生まれる 。高校卒業後、家計を助けるために炭坑夫など様々な職に就き、43年空軍に入隊。 B29の射撃手となった。46年に除隊後美術学学校に入学して舞台の裏方となりエキストラも経験。48年に友人と共にNYに移住して舞台に端役として出演するように。その後LAへ移りパサディナ・プレイハウスで演技を勉強。51年映画デビュー。当時は本名を名乗っていたがその後“Charles Buchinski”に改名。「太鼓の響き」からブロンソン名義になった。そして60年の「荒野の七人」、63年の「大脱走」で共に男臭い風貌が人気を呼んで俳優としての地位を確立。「さらば友よ」や「雨の訪問者」で国際的にもスターとなった。日本ではマンダムのCMで一世を風靡。外人タレントのCM起用の先駆けとなった。その後も独特の個性を活かしてアクション作品で活躍。近年は「狼よさらば」の主人公、ポール・カージイの復讐劇を描いた“デス・ウィッシュ”シリーズで健在なところをアピールした。49年の女優と結婚してふたりの子供も出来たが67年に離婚。翌年ジル・アイアランドと再婚して多数の作品で共演。しかし彼女が乳ガンを患い90年に死別。その後98年に再婚した。しかし彼自身もアルツハイマーとの闘いの末、03年に肺炎でこの世を去った。

 記事作成:12月上旬

2012年1月 2日 (月)

伝説の男④ ~永遠のチャンプ~

 あなたがボクシングの日本人世界チャンピオンをひとり挙げるとしたら、一体誰の名を口にするだろうか?「カンムリワシ」の異名で13連続防衛という大金字塔を打ち立てた具志堅用高?それとも「森の石松」をイメージした衣裳を身に纏い、派手な入場パフォーマンスを繰り広げ、後生は「O.K牧場」が口癖のガッツ石松?それとも「カエル跳びジャンプ」や相手を油断させての逆転パンチなどありとあらゆる奇襲戦法で相手をだまからかすことが得意だった輪島功一?おそらく今の若者に聞いても彼等の現役時代を知る術もなく、おそらくは亀田3兄弟や内藤大助の名前くらいしか出てこないだろう。しかし、かつて、何度ダウンを奪われても、ふらふらになりながらも自分の足で立ち上がり、ファイティングポーズをとり続け、まるでアニメ「あしたのジョー」を地でいくのよう伝説のチャンプがいたことを覚えているだろうか?その人の名は「大場政夫」という。今回は23歳という若さで旅立った彼の栄光と挫折に満ちた非業とも言える壮絶人生を取り上げたい。

 ~大場政夫のプロフ~

Oba2 1949年10月21日生まれ、1973年1月25日死亡。日本のプロボクサーとして世界王者に君臨した。東京都墨田区出身。スタイルはオーソドックス。帝拳ボクシングジム所属 。第25代WBA世界フライ級王者。 WBA世界フライ級王座を5度防衛した。現役世界王者のまま事故死したため「永遠のチャンプ」と称される。ギャンブル好きの実父の影響で家計は苦しく極貧の環境で育つ。しかしプロボクシングファンだった実父の影響で、小学生の頃から「プロボクシングで世界王者になり、両親のために家を建てよう」と人生の目標を設定していた。 義務教育が終了した直後の1965年6月1日に、帝拳ジムに入門。入門当初は身長160cm、体重48kgと貧弱で周りからはプロボクサー向きかどうか疑問視されていた。その後の略歴は以下の通りである。

 1970年10月22日、世界初挑戦でベルクレック・チャルバンチャイ(タイ)を13回KOに降し、WBA世界フライ級王座獲得。帝拳ジム初の世界王者となった。
 1971年4月1日、ベツリオ・ゴンザレス(ベネズエラ)を15回判定で降し初防衛。
 1971年10月23日、フェルナンド・カバネラ(フィリピン)を15回判定で降し2度目の防衛。
 1972年3月4日、花形進(横浜協栄)を15回判定で降し、3度目の防衛に成功するとともに新人時代の借りを返した。試合前には両者の舌戦が話題となったが、共に相手を認め合う親友同士でもあった。
 1972年6月20日、世界1位で最強の挑戦者と言われたオーランド・アモレス(パナマ)を5回KOに降し4度目の防衛。1回に左を食って尻餅をつくダウンを喫し、バッティングで額から出血するなど苦戦するが、2回に右ストレートでダウンを奪い返し、5回に一気のラッシュでKO勝ちを収めた。
 1972年9月26日、ノンタイトル12回戦で、世界ランカーのナタリオ・ヒメネス(ドミニカ共和国)に5回KO勝ち。
 1973年1月2日、チャチャイ・チオノイ(タイ)を12回KOに降し、5度目の防衛に成功。この日大講堂で行われた5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイ(タイ)。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け大場はダウン。この時大場は右足首を捻挫、以降ラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながらも打ち合いに応じていった。大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がるが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウト勝利を収めた。

 しかし、その壮絶な打ち合いでの劇的勝利から僅か23日後に彼に悲運が襲いかかったのだった。1973年1月25日午前11時22分頃、愛車シボレー・コルベットを運転中に、首都高速5号池袋線・大曲カーブ(飯田橋出入口ー早稲田出口間)を曲がり切れず中央分離帯を乗り越えて反対車線に出たところで大型トラックと正面衝突。現場はトラックの下に車がめり込んだ状態でつぶれており、即死だった。駆けつけた救急隊も生存の可能性がないものと判断せざるをえないほどの惨状であった。この事故で現役世界王者のまま死去した。享年23歳。

 それでは彼の功績を称え、彼の生き様とも言える魂のファイティングシーンを映像で振り返りたい。

 ジェームスディーンや赤木圭一郎もそうだったが、天才的な人物というのは若くして夭折している。やはり人生、太く短く生きるか、細く長く生きるかのどちらかを神様は用意しているような気がしてならない。彼が僅か23歳という、あまりにも短すぎた人生の中で、身を粉にしながら訴えたかったこととは何なのか?そして私達は彼のボクシング人生を通して何を感じ、彼から何を学び取れるのだろうか?彼自身は、夢であった世界王座の名誉を手にした。しかし、それと引き換えに自分の命を天に差し出すことになったことも事実だ。彼が命がけで訴えたかったことを私達が与し、ただ単に彼を神として崇めるのでなく、彼から得た教訓を後の世に伝えることこそが、残された者の使命だし、務めだと感じている。
 最後に、折しも本日は彼が伝説となったあのチャチャイ戦から39年目の日にあたる。彼に捧げるテンカウントを聞き、彼の人生を振り返ったテレビの映像をご覧頂きながらお別れしたい。

<知ってるつもり?の映像はコチラ>

 記事作成:12月3日(土)

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