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2012年1月27日 (金)

伝説の男⑦ ~栄光と挫折の果てに~

Tsuburaya1  この写真を見て、名前をすぐに答えられた人は50歳以上か同じ出身地の方であろう。彼は死ぬまで日の丸の重圧と闘い続け、非業の死を遂げた伝説のランナーと言って然るべき人物だ。何を隠そう、私は彼がゆかりの深い同郷の出身だし、彼が出場した東京オリンピックの生まれである。時を遡ること48年前の1964年に、国家の威信をかけ、「戦後復興」のアピールを全世界に発信する上で、是が非でも成功させたい国家プロジェクトがこの東京オリンピックだった。私は9月生まれなので、10月開幕し、彼が一躍ヒーローになったレースの際には、既にこの世に生を受けていた。従って、彼の功績はすべて理解しているし、表彰台の栄光を手にしたばかりに、その後、日本人の期待を一身に背負い、その重圧に押し潰されたマラソンランナーだった。さて、ここまで言えば、彼の名前を思い出していただけただろうか?「君原健二選手?」まだお分かりになりませんか?「お嬢様の目はやはり節穴ですか?」というセリフがつい頭を過る。ではもっと付け加えて説明しよう。彼は福島県の須賀川出身で、「東京オリンピック」では、花形種目の男子マラソンに出場した。そして、記憶に残るエチオピアの名ランナー、アベベが圧勝したそのレースで、競技場に2位で姿を現したのが誰あろう彼だった。しかし、数メ―トル後方を追い上げて来た外国人ランナーに、日本中の視線が集まったその競技場内で抜かれ、3位に落ちた。歓声と怒号が交錯する中、日本人で最高位、そして初のメダルを獲得する快挙を成し遂げたのだった。しかし、なまじこの大会を転換期として英雄に祀り立てられたばかりに、彼は予期せぬ重圧と闘うことを強いられた。日本人の期待を一身に背負って、次回五輪のメキシコオリンピックに向け、厳しい練習に耐えていた。しかし、心ならずも、故障に泣き、思うようにタイムが上がらない不遇に苛まれた。そして彼は、自ら「死」を選び、この世を去ったのだった。ここまで言えばもう理解しただろう。そう、彼の名は「円谷幸吉(つぶらやこうきち)」である。今日は彼の栄光と孤独に満ちた壮絶なマラソン人生にスポットを当ててみたい。

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<円谷幸吉のプロフ>

 円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち、1940年(昭和15年)5月13日 - 1968年(昭和43年)1月9日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛 官。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。

 須賀川第一中学校を経て須賀川高校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、県対抗東日本縦断駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰痛のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。1962年、東京五輪に備えて前年発足した自衛隊体育学校に駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。翌1963年8月には2万mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して1万mのオリンピック代表選手に選ばれた。東京オリンピック開催年の1964年、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2:23:31で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソンに出場、2:18:20.2で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。

 東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、君原が日本人では最有力と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。しかし、男子マラソン本番では君原や寺沢徹がメダル争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技に於いて獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。レースの模様は以下の通り。

 次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されて来た特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年には手術を受ける。病状は回復したが、既に嘗てのような走りを出来る状態ではなかった。メキシコシティ五輪の開催年となった1968年、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頸動脈を切って自殺。27歳での夭折だった。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。

 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に大きな衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。

 現在は、彼の銅像が母校の福島県立須賀川高等学校に遺されている。彼の遺志は、その後、同僚だった君原健二によって受け継がれ、幸吉が「メキシコで日の丸を上げる」と決意し親友・君原と固く誓った約束を、銀メダル獲得という栄誉で果たしたのである。君原氏は、毎年、幸吉の郷里で行われている、彼の偉業を称える「円谷幸吉メモリアルマラソン」にゲストとして参加している。レース前には必ず彼の墓参りを行い、大好きだったビールを墓前に供えお参りをするという。

 彼は東北人特有の実直で生真面目で融通の利かない泥臭い人間で、気持ちが弱い人間だったかもしれない。しかし、自ら死を選ぶほど、追い込まれていたのも事実だ。日の丸を背負うことの意義、そしてその重圧を誰よりも孤独の中で噛みしめていたに相違ない。私は同じ郷里の人間として、彼の偉業を誇りに思う。最後に、あの川端康成を以て「美しくて、まことで、かなしいひびきだ」「千万言も尽くせぬ哀切」と言わしめた、涙がとめどなく流れ落ちる彼の遺書の文面を紹介して結びとしたい。

 記事作成:12月20日(火)

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