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2012年2月

2012年2月27日 (月)

私が好きだったCM21

 約7年ほど前、長澤まさみが出演した「カルピスウォーター」のCMを覚えているだろうか?彼女の若々しい魅力を前面に押し出した可愛らしい乙女心を表現した作品だった。カルピスは私が幼少の頃からあった夏を代表する飲料水だったが、それを飲みやすくペットボトルで売りだし、一躍メジャーに押し上げたのがこのカルピスウォーターだった。作品コンセプトと商品コンセプトが上手くマッチングし、コラボして大ヒットとなった。このCMを皮切りに、長澤まさみという女優もまた全国的に認知されることとなり、スターダムにのし上がったのだった。まさしく戦略の勝利だった。では早速ご覧頂きたい。

Calpis 君の近くにいたい夏(2005年)

 恋愛シチュエーションを思い描きながらひとり芝居を実演し、微妙な乙女心、妄想心を表現した作品。とてもアンニュイな感じとキュートな印象がマッチして私は大好きなシリーズだった。

http://www.youtube.com/watch?v=aSjQkcFOSWQ

http://www.youtube.com/watch?v=4iMAdKLb4eI&feature=related

「てっぱん」に出演した朝倉あきが出演した続編の妹編はコチラ

Calpis - 君の近くにいたい夏 第二話 妹篇

http://www.youtube.com/watch?v=l3OPkh7X9vU&feature=related

 2007年版 夏の誘惑編はコチラ

 彼女が登場した時、デビュー当時の小泉今日子に似ていると思った。最初のCMは彼女が18歳の時に出演したものだった。可愛らしさと大人っぽい仕草、表情を併せ持つ、年上ウケしそうな風貌に思わずドキッとしたものだった。

 長澤まさみのプロフ

 1987年6月3日生まれの24歳。本名同じ。愛称は、まあちゃん、まっさん、がっさーわー。 静岡県磐田市出身。東宝芸能所属。堀越高等 学校卒業。父親は元サッカーの日本代表で、ジュビロ磐田の初代監督でもあった長澤和明氏。

 記事作成:2月11日(土)

2012年2月25日 (土)

JRに入社したくなるCM集

 私はもう一度生まれ変われるなら、絶対にJRに入社して新幹線の運転士になりたいと思っている。傍で見るより厳しい世界だとは思うが、人を運び、時に夢を届ける仕事だと思っているし、やはり小さい頃からの憧れの職業なのだ。大きな鉄の箱のような電車を操り、安全かつ快適な鉄道の旅を約束する。人々は鉄道を旅行やビジネス、休暇や出張等で利用する。時間に正確で、想い出に残るような旅、そして乗客を安全に目的地まで届けるという大事な使命を担い、責任をもって果たしていく。そんな旅のお手伝いをしてみたい。もちろん今の仕事を選んだことに後悔はしていないが、男として生まれたからには、何かやりがいのあるものに熱中して、最後までやり遂げて社会貢献を果たしたいし、充実した毎日を過ごしたい。仲間や同僚と切磋琢磨し、自分の技術や業を磨き、精進したい。私は学生の頃から鉄道やバイクで旅行することが好きだった。日本全国、知らない町や土地を巡り、そこで体験したことを文章にまとめたいと思い、実践もして来た。今はもう年齢も重ね、転職も難しい年齢になってしまったが、これから仕事を選び、就活を予定している人は、ぜひ頑張って自分の人生の歩みを支える仕事に就けるよう、誠意努力を惜しまないで貰いたい。では、これを見ればJRが好きになり、思わず入社したくなるようなCM5編を紹介したい。加えてこのCMをご覧になった方からのコメントを添えてお送りしたい。

<JR イメージアップCM>

すごくカッコイーィ!このCM観ているとJRの職員になりたくな­るような構成です!ウソモノかもなんてコメントがあるけど、ウソ­モノだとしてもすごく出来の良いCMです。もしかして本職はプロ­デューサーさんですか?躍動感が半端じゃない!昔の刑事ドラマのオープニングを見ているみたい!

JR東海CM 東海道新幹線25周年

http://www.youtube.com/watch?v=7W1L11z_TFU&feature=related

鳥肌が立ちました。JR東海のCMのなかで最高傑作と思います。安全は何よりも優先されるべき事項。新幹線は全人類に誇れるもの­。新幹線よ、永遠なれ!

昭和39年開業。(国鉄・JR側に起因する)死亡事故、いまだに­ゼロ。

「安全であり続ける」新幹線。日本人って、すごいもの作りました。日本に生まれて、よかったな­。

JR東海CM「東海道新幹線40周年」

運転士も車掌さんもかっこいいですね!

日本の高速鉄道は世界一だね  安全性 定刻どうりのダイヤ

本当にかっこいいですよね!

JR東日本 20周年 新幹線YEAR キャンペーンCM

http://www.youtube.com/watch?v=BJtS4xlrpek&feature=related

東北新幹線には旅情がある気がします。東北が復興したらこのCMを全国で放映してください!!JR東日­本のみなさんもきっと賛成してくれるはずです。ケツメイシの「トレイン」は旅情を掻き立てる名曲。わくわくしてすぐにでもどこかに旅に出たくなるようなCMで、大好きです。

JR東海 ファイト!エクスプレス 1991 「父の手紙」編

大学卒業後,地方から上京してきたので,心にぐっと来るものがあ­ります。

最後の「ファイト!エクスプレス」の文字カットが自分へのエール­のような気もして,

まだまだ頑張らなきゃな,と考えさせられます。

たった60秒のCMですが,小1時間かけて下らない話を展開して­いる昨今のドラマ

なんかより,ずっと心に残ります。こういうCMこそ,今もっと流­すべきですね。

記事作成:2月11日(土)

2012年2月24日 (金)

懐かしいCM~HONDA編~

 最近は「昔懐かしいCM」を取り上げた記事ばかりが目立つようになって恐縮しているが、歳のせいかあまり良いアイディアが思い浮かばなくなり、同じ類の記事で誤魔化そうというのが見え見えである。面目ない次第だ。今回もその例に漏れず、同じシリーズで勘弁願いたい。そういう理由から、今回は1980年代当時、バブル全盛で人々の暮らしも潤っていた頃にあって、スポーツカーやハイラグジュアリーカーが飛ぶように売れた「古き佳き時代」を象徴するようなCMを紹介したい。第1回はHONDA編をお送りしたい。今ではもう絶版になってしまった幻の名車達。その一世を風靡した時代に思いを馳せながら、名車達を追憶したい。

① プレリュードXX

 この2代目プレリュードは一時代を築いた。1982年11月25日に販売された。キャッチコピーは“FFスーパーボルテージ”。フロントサスペンションにダブルウィッシュボーンを採用し、リトラクタブル・ヘッドライトと相まって、先代よりボンネットフードが80~100mm低くされた。ほぼ車両中央部まで達する長いリバースAアームを備えたストラットをリアサスペンションに採用した。ワイパーに、他社のクーペが採用していた1アーム・シングルワイパーを適用するなど、当時としては斬新なデザインが女性にも好評で、運転席側にも助手席リクライニングノブがついており「デートカー」という言葉を生み出した。オプションとして、日本初の4wA.L.B.(4輪ABS)を「XZ」(5速MT車のみ)、「XX」に設定した。搭載されたエンジンは、ES型 1.8L 直4 SOHC CVCC 12バルブ クロスフローで、CVキャブが2連で装着され、ルーフ型燃焼室やB·Cトーチの採用による高圧縮比化(9.4)などにより、125PS(MT車、AT車は120PS)を発生。エアクリーナーをエンジン後部に装着することにより、ボンネットフードが低く置かれた。組み合されたトランスミッションは、5速MTとロックアップ機構が採用された4速ATの2種類が用意された。 当初の前期型には、法改正前のフェンダーミラーと当時流行のクルーズコンピュータが搭載されたが、後期型ではドアミラーに変更され、クルーズコンピュータは省略された。1985年6月20日には、3代目アコードのB20A型 2.0L 直4 DOHC 16バルブ PGM-FI(グロス値で160PS/6,300rpmを発生)を搭載した、「2.0Si」(BA1型)が追加された。

 我が国初のリトラクタブルライトは1980年代に開発されて次々商品化された。その先駆けとなったのはフェアレディZやサバンナRX-7、三菱GTOだった。そしてブームを呼ぶ起爆剤となったのは「セリカXX」で、名車の呼び声高い86レビン(FR)と姉妹車だったトレノにも搭載された。また、HONDAもクーペモデルとして市場に投入したのがこのバカ売れしたプレリュードだった。TOYOTAのソアラ、スープラ、日産シルビア、スカイラインと並んで爆発的なヒットとなった車だった。流線形のフォルムを採用し、デザインもトレンディだった。トレンディな印象で若者を中心にバカ売れした。

② バラードスポーツ「CR-X」

http://www.youtube.com/watch?v=SslsKDFv3jY&feature=related

 CR-X(シーアール-エックス)は、本田技研工業がかつて生産、販売していたハッチバック型(初代,2代目)またはタルガトップ型(3代目)の小型乗用車である。1983年7月に発売された初代は、同社の小型車シビックの姉妹車であるバラードの派生車種として、3代目シビック(ワンダーシビック)へのフルモデルチェンジに先立って市場に投入された。発売にあたり同社は、「FFライトウェイトスポーツ」という新ジャンルであると説明し、以来この言葉は同クラスの車種を分類する場合に使用されることになる。初代及び2代目には後部座席が装備されていたが、シビック3ドアよりも150mm以上短いホイールベースとファストバッククーペボディーが影響し、大人が2人座っての長距離移動は困難であった。なお北米向けには後席は無く、床下に浅い小物入れが装備されている。また、この2代に共通の特徴として「アウタースライドサンルーフ」があり、短い屋根ゆえに屋根後半にスライド型サンルーフを格納した場合は開放感を得るに十分な開口面積が確保できないため、ボディの外に電動スライドさせるものである。さらに北米においては、後述するように軽い車体重量を活かした低燃費仕様が設定され、CAFEの達成に貢献した。
 3代目は、走行性能を追求したそれまでの2代とは大幅にコンセプトを変え、開放感を楽しむタルガトップとして誕生し、1991年に発売されたビートに次ぐ、小型オープンカーとなった。これは、北米市場においてCAFEの達成に貢献する低燃費仕様としての役割を、リーンバーンエンジン搭載車が担うことになり、軽量化の要求がなくなったためである。

 コンパクトカーだが、コンセプトはかっとびツーシータースポーツカー。その後、TOYOTAでもミッドシップスポーツカーのMR2が爆発的ヒットとなった。お馴染みのマンガ「よろしくメカドック」で有名になった。峠をギンギンに攻めている光景をよく目にした。現在は後継車として「CR-Z」が登場しているが、この車自体は製造を中止している。

③ シティ

http://www.youtube.com/watch?v=Hw6kfbuFWYY&feature=related

 シティ(City)は、本田技研工業が生産・販売している小型自動車である。主に日本国内で販売された初代、2代目の3ドアハッチバック等のコンパクトカーは1993年で一度生産・販売を終了していたが、1996年に東南アジア地域向けに開発されたサブコンパクト4ドアセダンとして復活した。初代は1981年11月11日に発売開始。「トールボーイ」と呼ばれるユニークな背の高いデザインを採用し、人気車種となった。搭載されたエンジンは、COMBAX(COMPACT BLAZING-COMBUSTION AXIOM:高密度速炎燃焼原理)エンジンと名付けられた ER型 1.2L 直4 SOHC CVCCのみ。同時に商用バンとしてシティプロも発売された。乗車定員は「T」が2名で「F」が5名。1982年8月25日に、低燃費仕様の「EI」を追加。クラストップの低燃費 21.0km/L(10モード)を実現。1982年9月20日に、ターボチャージャー付きの「ターボ」を追加。

 思わず「懐かしい~」という声が聞こえてきそうだ。それくらいこのCMは流行した。

 ④ ビート

 ビート(Beat)は、本田技研工業がかつて生産、販売していたオープン2シーターの軽自動車である。ビートはバブル時代に企画、発売された「平成ABCトリオ」と呼ばれる3車種の軽2座席スペシャルティカーのBにあたり、総生産台数が3万3,892台で3車種の中で一番多い。NSXと同様にミッドシップエンジン・リアドライブが取り入れられ、ほぼ同時期の開発・発売とあって、その相似がとりあげられることもある。実際には開発チームは別々で双方の人的交流もなかったが、ルームミラーは開発陣が意図してNSXと全く同じものを装備していた。生産終了から15年あまりが経過するが、中古車市場では根強い人気が続あり、程度の良い個体には高値もついている。量産車として世界初のミッドシップフルオープンモノコックボディを採用した。サスペンションは四輪独立懸架のストラット式で、軽自動車としては初めて四輪ディスクブレーキ、SRSエアバッグ、サイドインパクトビームを採用した。駆動方式がMRということもあり、タイヤは前13インチ、後14インチと前後が異なるサイズを採用した。駆動輪である後輪のブレーキディスクは、当時のプレリュードのものが流用されていた。パワーステアリングは装備されておらず、ハンドル回転時の遊びも少ない。これに対し、「SUZUKI」も負けじとカプチーノを開発し、ライバル車として戦いを挑んだ。この頃はフェスティバキャンバストップやユーノスロードスターもバカ売れした。ビートのイメージカラーは黄色と赤だったように思う。1996年をもって生産を終了した。

 ⑤ インスパイア

 インスパイア(Inspire)は、本田技研工業が生産・販売しているセダン型の乗用車である。1989年10月12日に「アコード・インスパイア」(5ナンバーモデル)が誕生した。(型式名CB5)グレードは上位から「AX-i」、「AG-i」、「AZ-i」の3グレードで2.0Lのみで、姉妹車は2代目ビガーである。エンジンは、専用設計された直列5気筒 SOHC 4Valve 2.0LのG20A型と2.5LのG25A型。ホンダらしく高回転、高出力を念頭に開発され、スムーズに出力する特徴を備えていた。なお、5気筒特有の1次偶力によるエンジンの振動の対策には当初バランサーを用いていた。独特のFFミッドシップ・レイアウトが採用され、縦置きにしたエンジン横にディファレンシャルギアが置かれているため、駆動軸(ドライブシャフト)がオイルパンを貫通している。なお、以降登場するホンダの高級車はしばらくの間この仕様が継続された。その後北米仕様など生き残りを図ったが、残念ながら2007年6月には同年中の生産中止が決定した。

 この車も一世を風靡した。一日10台は見かけたほど売れに売れたメジャーな車だった。フォグランプが特徴的なデザインだった。

 いかがでしょう?懐かしく感じたのでは?上で紹介した5台については、今では生産中止となっている。つまりは幻と化してしまった。今思うとバブルは自動車産業がリードしたと言える。貿易黒字を溜め込み、外国では日本車が持て囃され、輸出が潤った。あれから四半世紀が経過し、当時バカ売れし、市場を闊歩した高級車やスポーツクオリティー車は大部分姿を消した。絶版になった車については以前、当ブログで紹介済みなのでここでは割愛したい。栄枯盛衰を感じざるを得ない自動車の末路といった印象は否めない、そんな記事になってしまった。韓国現代自動車や中国、インドの自動車メーカーの台頭が著しく、輸出が振るわない現状では、衰退する一方で、或る意味日本人として劣等感を抱かざるを得ない。かつて若者を惹きつけて止まなかったスポーツカーの競演。4年に一度のフルモデルチェンジで次々新しいコンセプトカーを次々市場に投入したメーカーの思惑と豊かな経済を背景に、どんどん買い手が付いたバブル時代。すべてが夢物語だった。今、それが「強者どもが夢の跡」といった印象は否めない。その代償をその数倍に渡って払わされている感じがする。90年代以降、市場の車の3分の2の車が生産中止に追い込まれた現状からも車産業の衰退は明白である。しかし、個人的に日本の技術や開発力は世界一だと信じて止まない。今後の日本車の行く末を案じている身から、日本経済を牽引してきた日本の自動車メーカーの巻き返しに期待し、エールを送って結びとしたい。

 記事作成:2月10日(金)

2012年2月21日 (火)

私が好きだったCM⑳

 今日は個人的な話題だが、私の歴代愛車のCMを集めてみた。ただ単に懐かしい・・・。

 昭和63年~平成3年(24歳~27歳)

 トヨタ ソアラ2000VX

 映画「湘南爆走族」などに使用された初代モデルのソアラ。何と初めて買った車が高級車のコレ!当時国産車では最高級クーペとして持て囃された。何故か「マツダ」の中古車センターで購入したのだった。価格は乗り出しで107万円。人気の2800GTツインターボではなく、昭和56年式の2000ccのVXだったので安かった。しかし、電動ドアミラーだった。オートクルーズ機能や画期的なデジタル表示のメーターに圧倒された。FRなのに、これで1シーズン30回以上もスキー場に通い詰めた。昭和63年の冬、須賀川勤務の際に購入し、会津若松市に転勤後も冬はスパイクタイヤを履いて頑張って走っていた。いわき市植田に転勤してからも暫く乗っていた。この頃、アマチュア無線の免許を取得し、モービルハムを実施していた。その際、「ラジオライフ」や「アクションバンド」を愛読していた。今だから言えるが、この頃「警察グッズ」に憧れていた私は、覆面PCに関するグッズを集めた。刑事車両のようなマグネット式の赤色灯などを通販で購入した。もちろん実際に設置すると車両法や道路交通法に抵触するため付けられなかったし、使用したことは無かったが、パトライトは緊急時のために、助手席の足元に忍ばせていた。実際に設置したのは、川向にある「TOYOTA部品共販」で購入した、教習車に装備しているWミラーだった。これが思いのほか安く購入でき、助手席の人の安全確認用に利用した。当時のPCや覆面パトには必ず装備していたものだ。それくらい警察車両が好きだったのだ。今でも「警察24時」などのドキュメント番組は切らさないが。一度だけ、深夜のドライブで訪れた山中で、公道以外の人目につかぬ空き地で屋根にパトライトを乗せて回したことがあった。刑事ドラマに出て来る機捜車のようで格好良かった。今はもうどこかに行ってしまって持っていない。まぁ若気の至りだろう。そして月極駐車場を借りて停めていて、リアの「SOARER」というシルバーのエンブレムを2回も盗まれたことがあった。それくらいヤンキー憧れの車だった。私は一切改造はしなかった。色は白。

 平成3年~平成8年(27歳~32歳)

 トヨタ VISTAハードトップ2000VR(ディーゼルターボ)

 購入は今は無き山根町にあった「トヨタビスタ福島」。ナンバーがイマイチだった。そして購入後しばらくファンベルトから異音が止まらず、ディーラーの修理対応の悪さに、本社にクレームをつけ、誠意ある対応を促した。手のひらを返したように部品交換に応じた。ハイラグジュアリーな大人の車だった。FFで非常に乗りやすかった。インテリアがとにかく高級感に溢れていた。AUTO(コン)ライトやウィンカーを上げると進行側斜めをライトが点灯し、暗闇を照らした。更にはターボタイマーを取り付けた。そして、無線機を積んで、トランクにアンテナを取り付けて仲間と交信していた。おじさんが乗るようなディーゼル車なのに、リアスポイラーを付けてかっとび仕様にしていた。屋根には平なキャリアを付けていた。横浜やディズニーランド、北海道も一周した車だった。主にいわき市植田に住んでいた頃に乗っていた。新居に引っ越したばかりの頃、雪の坂道で止まらず、接触事故を起こしたことがある。カラーはダークブルー。

 平成8年~平成15年(32歳~39歳)

 トヨタ イプサム(2000cc 4WD)

 

 子供が生まれたのを契機に車高が高く、乗り降りが楽なこれに替えた。オデッセイやグランディスに対抗して生まれたトヨタ初のミニバンだった。私にとって初の4WD。フルタイムだったので燃費は悪かった。でも雪道の走行は楽チンだった。ミドルクラスのビスタからファミリーユースの車にチェンジしたため、作りが雑だった。カーナビを後付けしたが、1年も持たずに下取りに出した。船引にも4年間通った車。そして3回も事故に遭った。修理代が大変だった車だ。色はシルバーとブルーのツートン。やはり山根のトヨタビスタ福島で購入。セールスマンだった課長が今のネッツの並木店支店長。上から目線で偉そうに商談を進めて来たことから、二度とそこでは購入しないと決めている。

 平成15年~平成23年(39歳~47歳)

 トヨタ ウィッシュ(1800cc 4WD)

http://www.youtube.com/watch?v=lFSvtKiYxA8&feature=related

 こちらはパートタイム4WD。やはり停車中に2回追突された車。板金修理も2回。親父の形身みたいな車である。何度も釣りに出掛けたし、昨夏は尾道へも足を伸ばして往復した。最も潮風に当たっている車で、錆が凄い。色々装置を付けた。まず純正ナビにセットのテレビを走行中も見られるようにハーネス(2万円以上)を付けた。福島県も完全デジタル化なので、まもなくこれも無用の長物となりそうだ。また、ETCもビルトインで取り付けた。そして2年前に釣りに行く途中の深夜、ねずみ獲りに御用となり、青切符を切られたのを契機にGPSレーダー(1.7万円)を取り付けた。無料更新できるモデルなので、DATAは常に最新。そして今年、事故の際の記録保存と安全運転啓蒙の目的で、5千円未満と言う破格値で「ドライブレコーダー」まで設置した。他にもブラインドコーナーカメラやバックドアカメラ、ナビやAV機器の操作は全てハンドルにスイッチがあるので、簡単操作が可能。これも重宝している。色はシルバーだった。この車はネッツトヨタ郡山堤店で購入。ここのセールスマンの人柄に惚れこんで、彼が転勤する度に安積店、郡山緑町店と追いかけて面倒を見てもらった。しかし、或る日突然トヨタを退社してしまった。残念だった。

 平成24年~現在(47歳~)

 現在の車は申し訳ないが明かすことはできない。 

 ところで、私は物持ちが良いほうで、車は高い買い物だという認識から長く乗り、乗り潰すことを優先的に考えている。もちろん商談は「月刊自家用車」を愛読書にしていたので、値切りは半端ではなかった。今の車はメンテナンスフリーで、ほとんど故障知らず。ライトの消し忘れでバッテリーを上げたことはあるが、重大な故障はない。通勤で車を使うため、特に雪道による事故が多かった。自損(縁石こすり)も何度かある。もらい事故のほうが多い。北向踏切、小和滝、太田診療所駐車場、原町市、内環状線久留米、ヨーカドー立体駐車場出口などで事故った。嫌なものだ。

 さて、こうやって振り返ると、私はあまり車には金をかけない性質だ。しかし、その時々で車にはたくさんの想い出が染み着いている、誰とどこへ出掛けたとか、車内での語らい、山(スキー)や湖や海、ロングドライブから旅行まで、通勤や生活の足として。そして子供の成長も車と一緒に見て来た。自身の車への愛着は人一倍だが、昔のように個性的でそそられるような車が少なくなってしまったのは残念だ。以前廃車となった車を挙げたが、私が乗っていた車もまた、次々と姿を消し、今ではもう絶版車である。あれほどの栄華を極めたソアラ、中年男性の絶大な支持を取り付けたビスタも今では絶版だ。シルビア、セリカ、プレリュード、シーマ、チェイサー、クレスタ、コロナ、スプリンター、サニー、プリメーラ、ブルーバード、カムリ、プロミネント、トルネオ、ファミリア、パルサー、レビン、トレノ、セラ、ロードスター、シティ、レジェンド、セフィーロ、ローレル、プレセア、ディアマンテ、レパードなど巷に溢れてた名車たちももはや製造していない。何か淋しい気がする。

 最後に、小学生の頃、スーパーカーブームが突如沸き起こって、スタイリッシュで格好いい外車のスポーツカーに憧れたことがあった。胸ときめかせ、いつかはこんな車に乗りたいと憧れたものだ。最近の若者は自動車離れが顕著だ。新車の登録台数も年々激減している。ハイブリッドや電気自動車など環境にやさしい燃費効率のいい車ばかりが注目されるが、車は格好良くて心躍らせてくれる存在であってほしい。あの車に乗りたいから仕事を頑張る的な発想も今では無くなった。古き佳き時代と懐かしむのではなく、いつまでも少年の心を持ち続けて行きたいと思う2012年の如月である。

 記事作成:2月1日

2012年2月18日 (土)

涙なくしては見られない感動ストーリー

 本日は、前置きす何を言っても野暮になる。実際に見て貰った方が良いと思う。今日は、どれも涙なくしては見れない感動ストーリーです。ハンカチを用意してご覧ください。

<ママに伝えたかった「ありがとう」>

 続きをご覧になりたい方は、下をクリックしてください。

http://www.youtube.com/watch?v=5mScZUsdve0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=2FgqSOeRPms&feature=related

<天国の母からのバースデーカード>

 映像の埋め込み処理禁止のため、下のアドレスをクリックしてご覧ください。可愛い我が子の成長を見届けられずに、未練を残しながらこの世を去った或る母親の物語です。我が子に伝えたかったことは、そして遺したかったこととは何か。グッときます。子を思う母心に触れ、たぶん号泣すると思います。

http://www.youtube.com/watch?v=fCHMTcDo_hA&feature=related

<病と闘う少女との日本一の約束」

 新庄は、病気の彼女のためにホームランを打つ約束をした。有言実行の彼は、すぐにホームランを打ってみせた...さらに彼女が強く望んだファイターズ日本一の約束を、自分­の選手生命に懸けても絶対に成し遂げようと心に誓った新庄であった。

 続きをご覧になりたい方は、下をクリックしてください。

http://www.youtube.com/watch?v=5f3D6ga1rNw&feature=related

<路線を外れた路線バス>

 或るバスの運転手の心温まる物語です。

http://www.youtube.com/watch?v=tetjlOKRb3g&feature=related

 震災以降、人の優しさが身に染みて有り難く感じるこの頃、こうした感動ストーリーを時々見ることで、生きる意味を知り、その力(バイタリティー)を貰っている自分がいる。もうすぐあの震災から一年。相変わらず余震活動が活発化している日常、冷温停止宣言とは名ばかりで、原発処理も先が見えない状況の我が故郷。最期の最期まで命の炎を燃やし続けて、人のために懸命に生き抜いた方の生き様を手本として、これからの人生を意義あるものとしていきたい。

 記事作成:1月27日(金)

2012年2月16日 (木)

休刊廃刊になった懐かしの少年誌

 昨今の若者の活字離れに加え、デジタル化を反映して、携帯やインターネット、スマートフォン、デジブック等の普及によってメディアが多様化し、今や出版業界は斜陽どころではなく火の車状態。発行部数・売り上げが共に落ち込み、経営危機に陥り、存続か否かで決断を迫られている出版社も数多いと聞く。最盛期には毎週、発行部数数十万部を売り上げていた各社の顔とも呼ぶべき書籍もまた例に漏れず、相次いで休刊や廃刊に追い込まれている。例えば、「ぴあ首都圏版・関西版」、「Emma」、「PCfan」、「おしゃれ工房」(NHK出版)、「就職ジャーナル」、「「ビーイング」、「とあば~ゆ」(リクルート)、「現代」(講談社)、「主婦の友」(主婦之友社)、「ダ・カーポ」(マガジンハウス)、「東北じゃらん」(リクルート)、「ロードショー」(集英社)、「マミイ」(小学館)などである。かつて社会現象をもたらすブームを呼んだり、流行語になった物もあった。価値観の多様化と流行り廃りの激しい現代において、継続して読者の支持を得るのは難しい時代になったと言えるだろう。では私が幼少時代に売れ線だった少年誌で、今はもう刊行されていないものを紹介したい。

 月刊少年ジャンプ(集英社)

 かつて集英社が発行していた日本 の月刊少年漫画雑誌。1969年(昭和44年)に『別冊少年ジャンプ』として創刊、1974年( 昭和49年)に『月刊少年ジャンプ』に改称。2007年(平成19年)休刊。1980年代の全盛期は学園コメディ漫画や少年向けのソフトなお色気漫画が多く、1990年代あたりからメディアミックスやおもちゃなどのタイアップ等を意識した漫画が目立つようになった。平均発行部数は最盛期の1989年(昭和64年/平成元年)には約140万部であったが、看板作品である『冒険王ビィト』が作者の病気の影響で長期休載になったのを境に、徐々に落ち込んでいき、2006年(平成18年)は約42万部と同じ月刊誌の『月刊少年マガジン』(講談社)などに大きく差を開けられている状況だった。こうした販売不振のため、2007年(平成19年)6月6日発売の7月号をもって休刊が決定。代表的な連載としては大人気少年野球漫画だった「キャプテン」や石森章太郎の「サイボーグ009」、永井豪の「けっこう仮面」、竜崎遼児の「どぐされ球団」などがあった。

Jump

 少年キング(少年画報社)

 少年画報社が発行した週刊漫画 雑誌。1963年7月8日に創刊されて、1982年4月に休刊。同年に月2回刊の『少年KING 』として復刊したが、1988年に再び休刊した。日本で三番目に創刊された週刊少年誌で、先に少年週刊誌を創刊した講談社や小学館などの大手出版社とは違い、中小出版社としては初めて創刊された週刊少年誌だった。出版社の資本力の影響から大手出版社に比べて部数的には常に最下位だったが、漫画界を代表する錚々たるメンバーが執筆。多くの名作やヒット作を生み出し、週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年チャンピオンと並んで五大週刊少年誌の一角を担った。主な代表作は「柔道一直線」、「怪物くん」、「アパッチ野球軍」、「ワイルド7」、「猫目小僧」など。

King

 冒険王(秋田書店)

 1949年から1983年にかけて秋田書店が発刊していた月刊漫画雑誌。後に児童向けテレビまんが誌に路線変更した。1949年に『少年少女冒険王』の誌名で創刊。『少年クラブ』、『少年画報』、『少年』などと共に子供向け漫画雑誌の一時代を築いた。増刊号として刊行された『漫画王』は兄弟誌として独立した。1960年代後半、週刊誌の台頭で月刊漫画雑誌の休刊が相次ぐ中、試行錯誤を続けた後、秋田書店自身ももう一つの月刊漫画雑誌『月刊少年チャンピオン』を創刊したため、この時期に講談社が新たに創刊した『テレビマガジン』の類似路線に転換する。しかし、漫画誌としての側面は失われておらず、特撮・アニメ作品とのバランスをとることで『テレビランド』『てれびくん』といった後続の競合誌との差別化を図った。またこの時期には、芸能関連やバラエティ番組の人気キャラクター、スポーツ選手などの記事にも他誌より力を入れた。1970年代前半には定期別冊で『映画テレビマガジン』が刊行されていた。テレビアニメとのコラボレーション企画としては、監督・総設定の松本零士自身による『宇宙戦艦ヤマト』の連載、また『機動戦士ガンダム』のコミカライズなどがある。連載漫画家は、手塚治虫、横山光輝、松本零士、赤塚不二夫、石森章太郎、ジョージ秋山などそうそうたる顔ぶれだった。

Boukenou

 小学三年生~六年生(小学館)

 小学館の歴史は1922年(大正11年)の学習雑誌発行から始まっており、2011年現在においても様々な学習雑誌が発行されている。同社の学習雑誌は対象読者の年齢・学年に応じてそれぞれ独立した雑誌として発行されているが、並行して連載される漫画なども多く、テレビアニメなどの連載誌表記では総称として小学館の学習雑誌が使用される。「小学一年生」から「小学六年生」までと、幼児向けの『学習幼稚園』を併せた7誌で学年別学習雑誌と総称される。歴史が古く、1922年発刊の「小学五・六年生」から90年間続いたが、2010年以降は相次いで休刊。「ピカピカの一年生」のCMでお馴染みのシリーズだった。

Elementary

 科学と学習(学研)

 科学・学習(かがく・がくしゅう)は、かつて学研教育出版(学研グループ)から刊行され ていた小学生向け学習雑誌の総称。一般に「科学と学習」もしくは「学習と科学」と称され る。 実際の名称は『○年の科学』と『○年の学習』とし、それぞれ1年〜6年の各学年向け発行されており、「科学と学習」という名の雑誌があったわけではない。また、教材付録がついており、学習・実験などが行える様になっていた。1946年に学習研究社より創刊された。『科学』は主に理科と算数を中心とした内容。また「想像力・考える力を養う 切る・はる・確かめる」をキャッチフレーズとした「立体編集」と銘打って、ページの一部をハサミで切ったり、折り曲げたり、糊付け等の作業をすることで、読者が体で学べるような工夫が施されている。同誌は学研躍進の契機となり、ピークである1979年には月販670万部にも上っていた。これは、第2次ベビーブーマーである団塊ジュニアが小学校に入学し始めた時期に相当する。
 『学習』は主に国語・社会を中心とした内容で(一部理科、算数も含む)読み物の割合が『科学』より多い。尚、『学習』に関しては別冊「読み物特集」もかつて存在した。1990年代以降は少子化や共働き世帯の増加による在宅率の低下、価値観の変化等の影響で購読する児童が減少。また時代の変遷と共に刊行形態に変更が加えられ、店頭での販売や、『学習』に関しては月刊から学期刊発行への移行(2004年度 - )がなされた。その一方で2005年には、本誌・教材のテイストを残しつつ大人向けに作られた『大人の科学』が刊行された。 しかし、児童向けは販売部数の減少に歯止めがかからず、「学習」は2009年度冬号、「科学」は2010年3月号を最後に休刊となった。

Science_study Microscope

 週刊ヤングサンデー(旧少年ビッグコミック)

 かつて小学館が発行していた日本の青年週刊漫画雑誌。『少年ビッグコミック』を青年誌 にリニューアルする形で1987年に月2回刊誌の『ヤングサンデー』として創刊。1995年に週刊化されて『週刊ヤングサンデー』に誌名を変更する。2008年に休刊。通巻901号(増刊含む)が発行された。

Big_comic Young_sunday

 少年画報

 戦後間もない1948年(昭和23年)に『冒険活劇文庫』として創刊され、1950年(昭和25 年)4月号より『少年画報』と改題。当時の少年向けのマンガ雑誌という現在では当たり前 のジャンルが確立していない時代に少年を対象とした漫画雑誌を刊行して漫画家の修練の場ともなり『少年画報』誌でデビューして後に大成した者も多くいる。1960年代前半は後発の他誌により発行部数が伸び悩むが、「マグマ大使」「怪物くん」「ロボタン」などの人気で盛り返し、更にそれらの作品がテレビ化された事で、テレビとのタイアップをメインにする様になる。しかし作品の終了と共にまた発行部数が伸び悩み、1969年(昭和44年)途中からは隔週刊の発行に改めるも振るわず、1971年に少年キングに合併という形で休刊に至る。他には漫画の黎明期の代表作とも言える「黄金バット」、「赤胴鈴之助」なども連載されていた。

Gahou

 月刊ヤングジャンプ(集英社)

 『漫革』(まんかく) は1994年から2008年迄集英社が発行していた『週刊ヤングジャンプ』 の増刊号である。末期は年末年始や夏季には2・3ヶ月連続で毎月刊行の年平均6冊 刊行されていたが、2008年1月7日発売のVol.62(2月10日増刊)で幕を閉じ、2011年1月から新雑誌『ミラクルジャンプ』を創刊する事が発表された。

Young_jump

 その他、少年誌ではないが、かつて一時代を築きながら休刊や廃刊に追い込まれた雑誌をピックアップしたい。

朝日ジャーナル(朝日新聞社)
FOCUS(新潮社)
週刊明星(集英社)
週刊宝石(光文社)
平凡パンチ(マガジンハウス)
週刊ゴング(日本スポーツ出版社)
大相撲(読売新聞社)
ASAHIパソコン(朝日新聞社)

Focus Asahipc

 「え?あの雑誌、もう無くなっちゃったの?」と改めて衝撃が走ったものもあったのでは?悲しいかな、時代の趨勢とは無情なものであり、栄枯盛衰、時代風潮の縮図がかつて栄華を極めた出版業界だけを取り上げてもこれだけ垣間見れるだ。

 ところで、私が小学生の頃は何と言っても秋田書店の「少年チャンピオン」が大人気だった。福島県では金曜日に発売された。中でも「ドカベン」と「ガキ刑事(デカ)」の人気は凄まじかった。個人的にはこれらに加えて中学生・沢村投手の活躍を描く「しまっていこうぜ!」という野球漫画や主人公・光が登場する「750ライダー」がお気に入りだった。35年以上前は、あまり「少年マガジン」は小学生には読まれなかった。冒頭のグラドルや水着ギャルの刺激的なポーズ画像は小学生には不向きだった。また、「少年ジャンプ」は「こち亀」が人気が高かったものの、「キャプテン翼」はずっと後だった。また、小学校高学年に愛読していたのが、毎月姉が購入していたアイドル情報誌の「明星」と「平凡」だった。芸能情報はこの雑誌から入手していた。今では「平凡」は休刊したまま。淋しい限りだ。

Myojo Heibon

 私自身は少年誌は、子供達を読書から遠ざけてしまう存在で、単に娯楽の世界へ引きづり込む有害な書籍とは思っていない。かつて私自身がそうであったように、たとえ時間の浪費であっても、少なからず子供に夢や希望を見せてくれる羅針盤だと思っているからだ。私は「ドカベン」や「キャプテン」、「プレイボール」を読んで野球のルールを覚えたし、意外と雑学知識を養うことにも役立った。漫画家は、はらたいら(故人)や黒鉄ヒロシのように、クイズの解答者になったり、教養番組のコメンテーターに抜擢されることもあって、やはり知識の宝庫なのだろう。それにしても私が幼少時代に夢中で読み漁っていた雑誌が休刊や廃刊に追い込まれるのは実に忍びない。自分の生き方を否定されているような印象すら受ける。これも時代の流れなのか。それとも価値観の相違なのだろうか。少年誌は対象年齢10~20代が相応なのだろうが、遠い記憶ではなく、今もロングランで発売している雑誌を久し振りに手にとると、妙に嬉しくなる。各漫画家の描く絵づらも相当変わったが、今後も少年少女達に限りない夢を与える存在であってほしいと思う。

 記事作成:1月21日(土)

2012年2月15日 (水)

私が好きだったCM⑲

 トリス ~雨と子犬編~

 このCMは1981年に放送され、大ヒットした。今では「アイフル」のチワワ犬「くぅ~ちゃん」やソフトバンクの「カイくん」など犬を使ったCMは多様にある。このCMはいわば、その先駆け的な作品だった。雨が降りしきる門前町を雨に濡れながら、子犬が古い町並みを放浪する。途中、危うく自転車とぶつかりそうになったり、大木の下で雨宿りをする光景は愛らしく、妙に感動でき、民衆ウケして大人気となった。これがなぜウィスキーの「トリス」と結び付くのかは疑問だが、企画的にも興行的にも大成功だった。「ダディダディダ~ディダ~♪」というBGM(菅原進の「琥珀色の日々」)も映像と合っていたし、思わず守ってあげたくなるストーリーも共感できる内容だった。「癒し」と「温もり」を感じさせる秀作だった。この作品は、カンヌ国際広告映画祭のCM部門で金賞を受賞した。

http://www.youtube.com/watch?v=6b0cOimGSCo&feature=related

<このCMをご覧になった方からのメッセージ>

子犬が走るだけの映像でこんなに感動するのはなぜだろう。
映像美­の不思議さに驚愕。
生きることの大切さ、その意味を教えてくれたCMです。

動物を使った下品でウケ狙いなだけのCMは短期間で忘れる。
しかし、このCMは30年経っても忘れていない。
作り手の「体温」の差。作り手の「魂」の差。その差でしょうか。

素晴らしいCMですね。釘づけになってしまいました。
物語がありますね。
最近の動物を使ったCMにはない「ぬくもり」という温度感にあふ­れていました。
CMに「心」が見えた気がします

東日本大震災が発生した今、「いろんな命が生きているんだな..­.」「みんな元気で...」の言葉が心に染み渡ります。

 何か30年以上前に制作された物なのに、時空を越え、昨年の大震災を見越してリバイバルしそうなCM内容である。こんな心洗われるようなCMがこれから先も数多くこの世に登場することを期待したい。

 記事作成:1月27日(金)

 追記

 年配の方がイメージする「トリス」のCMはコチラをどうぞ!

 http://www.youtube.com/watch?v=UFfJ4x9DtD0&feature=related

2012年2月13日 (月)

昔流行った懐かしい飲み物

  昔のことばかり言うのは歳をとった証拠とはいえ、どうも子供の頃に流行った物とか体験したことばかり懐かしく思い出される此の頃。つい古き佳き時代の想い出に浸りたくなる。そこで今回は少年時代に流行った飲食物をテーマにしてみたいと考えた。では早速話を進めるが、小学生の頃にコマーシャルで「ファンタッスティック!」というフレーズが大流行したことがあった。これは「ファンタオレンジ」や「ファンタグレープ」などのジュースのCMだ。また、1970年~80年代には「yes coke yes」や「スカッと爽やかコカコーラ」のフレーズが一世を風靡した時代があったのをご存知だろうか。残念ながら、今では知らない人が多くなってしまった。つい30年ほど前に流行した物なのに、遠い記憶の片隅に追いやられてしまった感が強い。したがって、本日の記事は、そういう忘れ去られた飲み物や製造中止に追い込まれたジュースなどにスポットを当てたいと思う。もちろん今でも現役バリバリのものもある。それでは、いつもながらのランキング形式で、昔懐かしいジュースを50品目紹介したい。なお、付随するアドレスをクリックすれば、当時の懐かしいCMがご覧になれます。

 第1位 スプライト
 第2位 ファンタ(オレンジ・グレープ・レモン・フルーツパンチ) 
 第3位 バャリースオレンジ
 第4位 マウンテンデュー
 第5位 つぶつぶオレンジ
 第6位 メローイエロー
 第7位 プラッシー
 第8位 ハイシーオレンジ(HI-C)
 第9位 ペプシコーラ
第10位 ミルセーキ

SpriteMountaindiew Melloyellow

http://www.youtube.com/watch?v=gJvBiWuJgYE

http://www.youtube.com/watch?v=8tgymZ6RPXg

http://www.youtube.com/watch?v=F8SrivIserI&feature=results_video&playnext=1&list=PLE243EDC64D699A43

 第10位までは、AKB風に言えば一時代を築いた「神10」である。特に1位に挙げた「スプライト」は「コカコーラ」と並ぶ知名度抜群の炭酸飲料だった。数多くCMが制作され、大々的に宣伝していた。9位の「ペプシ」もまた30年以上前までは「コカコーラ」並みのメジャーな飲み物だった。「ペプシマ~ン♪」という節のCMがこれまた懐かしい・・・。

第11位 ミルメーク(コーヒー)
第12位 サンキスト(つぶゼリー)
第13位 ポンジュース(カゴメ) 
第14位 カナダドライ・ジンジャエール 
第15位 キリンレモン 
第16位 三ツ矢サイダー
第17位 鉄骨飲料
第18位 リボンシトロン
第19位 サントリー・エード
第20位 ロッテ・グァバ

Milmake Sunkist Kirinlemon 

http://www.youtube.com/watch?v=hEBdscdrIkg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=YWNFPyOfcjs

http://www.youtube.com/watch?v=bMg-GDVk-Sw

http://www.youtube.com/watch?v=mmcT524k67o&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Bh3Av2vUOqE

 「ミルメーク」は小中学校の学校給食で大人気だった。粉末状のそれを瓶牛乳に溶かして珈琲味にして楽しめた。牛乳が苦手な児童にも大好評を博した。「サンキスト」の缶デザインも斬新だったし、「キリンレモン」もまたこのロゴが懐かしい・・・。健康に良ろしくないとは言え、炭酸飲料が全盛だった。

第21位 こつぶ(はごろも)
第22位 不二家ネクター 
第23位 サントリー・ホップ
第24位 リボンオレンジ
第25位 スコール
第26位 ベルミーコーヒー
第27位 ゲータレード 
第28位 NCAA
第29位 カルピスソーダ 
第30位 キリンMets

Kotsubu Nectar Gatorade    

http://www.youtube.com/watch?v=mb0wJhYjzkM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=DxTDGkhtA5w&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=oy1rva2bpDE&feature=related

 「はごろもこつぶ」は衝撃的だった。果汁たっぷりのジュースに具まで入れ、その舌触りと食感は半端ではかった。「不二家ネクター(桃味)」もまた、果物の旨味を凝縮した味わいに虜(ひと味惚れ)になった。また私が中学時代に登場した画期的な栄養剤が「ゲータレード」だった。粉末を専用ボトルに入れ、水で溶かして飲用する新たなスタイルだった。要はタンパク質の補給なのだが、アスリート御用達のスタミナ栄養補助飲料水的なステータスを得た。

第31位 アンバサ 
第32位 パティオ
第33位 ミリンダオレンジ
第34位 熱血飲料
第35位 NOVAコーヒー
第36位 チェリーコーク
第37位 桃の天然水サプリ 
第38位 カルピスウォーター
第39位 はちみつレモン
第40位 レモンスカッシュ

Ambasa Cherrycoke Hachimitsulemon 

http://www.youtube.com/watch?v=cxDEWlKxAsY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=mGRLOsZeUtI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=J2a-DYD5w2c&feature=related

 「カルピスウォーター」や「桃の天然水」、「アンバサ」は、ソフトで甘ったるいイメージの夏の清涼剤という印象があった。どちらかと言えば薄味で、爆発的なヒットはないものの、何故か街の自販機には必ずあった代物ばかり。自販機もその飲料水メーカー専用のものばかりがあった。例えばコカコーラ、伊藤園、ダイドー、ヤクルト、KIRINなどである。

第41位 ポストウォーター
第42位 ミスティオ
第43位 チェリオ
第44位 ラムネ
第45位 OFF SIDE
第46位 アクエリアスレモン
第47位 ネーポン 
第48位 sasuke
第49位  パレード 
第50位 テトラパック牛乳

Ramune Nepon Tetrapack 

http://www.youtube.com/watch?v=CwS25IUIVHg

http://www.youtube.com/watch?v=Z-b6jvkljB4

 41位以下は、どちらかと言えば地域限定やマニアックな商品が多い。製造中止などの歴史を感じさせる飲料が多い気がする。そして「ラムネ」は今でもビー玉をネックに入れた形状を貫き、「ネーポン」や「パレード」は庶民の代表的な飲み物というイメージがあった。銭湯などで風呂上がりに一杯お目にかかれそうな物ばかりだ。50位に挙げたテトラパック型のコーヒー牛乳は、今では過去の遺物的な印象すら与える。今でも全国で販売されているだろうが、あまり見かけなくなった。何か時代を感じ、古くさくなった。テトラパックや肝油などは私が小学校低学年で姿を消したと思う。

 他にも「きりり」、「C.C.レモン」、「シーホープ」、「パインサイダー」、森永「マミー」や粉末で水に溶いて飲む「フレッシュソーダ」や「ハイレモンドリンク」、「メロン(アップル・パイン)ソーダの素」などもあった。水前寺清子さんが歌っていた「シーシーレモン!シーシーレモン♪」というフレーズも懐かしい。

http://www.youtube.com/watch?v=y2rp0HTPlm8 (水前寺清子 編)

http://www.youtube.com/watch?v=TCb_lJpOAxM&feature=related (相武紗季 編)    

 ジュース・コーヒー関係のCM集はコチラ↓

http://www.youtube.com/watch?v=y6uec2ZnMrQ

http://www.youtube.com/watch?v=8AY86nLF7wg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=KNHlN8sYwhA&feature=related

 また、1980年代を中心に外国産のお洒落なビールが持て囃されたことがあった。「バドワイザー」(アメリカ)、「カールスバーグ」(デンマーク)、「ハイネケン」(オランダ)などである。その頃の日本はバブル景気絶頂期で、飽食の時代。国産ビールだけでは飽き足らず、外国産に手を出した。缶のデザインも格好良く、缶ピースと同様、時代の寵児扱いだった。映画「私をスキーに連れてって」に登場したのもこの類のアルコール飲料。その他、アルコール飲料では、サントリーの「ペンギンズバー」、「カンチューハイすりおろしりんご」なども一時期流行った。

Budwiser Carlsberg Heineken 

 これだけ時代時代で多彩な商品ラインアップがあったということは、飲料水にも流行があるということだ。ジュースやコーヒーも嗜好品の一種だけに、万人受けする商品を開発すること自体難しいし、その味に飽きずに人気を長続きさせるのも至難の業だ。一世を風靡した「メローイエロー」や、鷲尾いさ子を起用して大々的に宣伝しまくり、1989年の新発売後の1年間で1億5000万本を販売した「鉄骨飲料」も20年以上後の現代まで人気は続いていない。車と同じで、味自体が革命的に変わった訳ではないのに、消費者に飽きられたらとメーカー側が感じれば、ネーミングを替えただけで同じような商品を次々と市場投入を図って行く。日本のビールの名前と似ている気がするのは私だけだろうか。

 結論めいたことを述べれば、人間歳をとると、昔飲んだジュースや新商品として出された革新的な飲料水がやけに美味しかったと美化してしまうものだ。それは記憶が薄れているから具体的な味の詳細まで思い出せないがために、余計そう思うのだ。しかし、日本人の味覚は東日本と西日本では微妙に異なるものらしい。やはり、万人受けする飲み物を開発せよというほうが無理なのかもしれない。化学調味料や着色料がふんだんに入れられ、見てくれだけ良い物を有り難がっている日本人にはなりたくないものである。

 記事作成:1月25日(水)~26日(木)

2012年2月10日 (金)

永遠の歌姫 ~テレサ・テン~

 もう二年も前になるが、当ブログで私が推挙する、今は亡き歌謡界を代表する三人の「歌姫」たちを取り上げたことがあった。私が「歌姫」を名乗る資質十分と感じている「美空ひばり」、「坂井泉水」、そして「テレサ・テン」の3人だった。あれから随分時間が経ったが、彼女たちが現世に残した名曲とその功績は、永遠に色褪せることはないと信じている。特に、私が大学時代から社会人の時分(1980年代後半~1990年代前半)によく聴いたのが「テレサ・テン」だった。彼女が突然この世を去ってから17年が経過したので、今の若い人々は彼女が誰なのか見当もつかないのではないか。ふとそんな不安に苛まれた。その時代、こんなにも私たちのハートに訴えかけ、妖艶な出で立ちながら、哀愁と悲哀に満ちた印象を刻み込んだ「アジアの歌姫」はそうはいなかった。その死も衝撃的だったが、それ故、彼女は女優・夏目雅子と同様、伝説の歌姫として語り継がれている。では、まず、彼女のプロフから振り返りたい。

 <テレサ・テン>

Teresaten  本名は鄧麗君(デン・リージュン)。生没は1953年1月29日 ‐ 1995年5月8日。1970年代から1990年代にかけて主に中華圏アジアと日本を中心に活躍した台湾の歌手だった。 日本や台湾、香港をはじめとする東アジアで絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。台湾を代表する歌手の一人。詳細は以下の通り。
 1953年に台湾の雲林県で生まれた外省人。日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。1973年、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。しかし、後に偽造パスポートで来日しようとする事件を起こしたため、国外退去処分を受ける。1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって再来日が許可される。レコード会社もユニバーサルミュージックからトーラスレコードに移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚、『時の流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』及び『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さだった。富と名声はあるのに、どこか影のある孤独な独身生活を送っていた。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。

 続いて、そのせつない女心をしっとりと歌い上げた秀逸した楽曲の中から、特に私がお気に入りの5曲と、YouTubeのコメントをいくつか紹介したい。切実な歌詞と覚えやすいバラード調のメロディーは、今もなお世の女性たちのカラオケレパートリーに数えられるほどである。作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えると言われている。なおリンクした映像は予告なく削除されることがあることを申し添えておきます。

 第1位 時の流れに身をまかせ

本当の意味でこんな風に思ってもらえる人ってどれだけいるんだろ­う。別曲にあるような「優しさが怖かった」を自然に経験してもらい、­その奥にも、表面的でない深い「優しさ」しかないことを伝えられ­た男だけが、そう思ってもらえるのかもしれない。自分もそんな男になりたい。

この曲をカラオケで歌うと涙ガ出て歌えなくなる。

こんなに色んな国の人に愛されてる歌手なんてそうそういない!テ­レサ、あなたは最高です!

 第2位 別れの予感 

http://www.youtube.com/watch?v=jKVZvdVvgYs&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=uVWgw_v9dTM&feature=related

この時代、彼女が生きていらした時代に戻りたい。そう思わせる映­像の数々。素晴らしい映像をありがとうございます。もっともっと­歌ってほしかった、そう思います。

歌謡曲は余り聴かないのですが・・・この歌は別です。本当に良い歌ですね。

 第3位 つぐない

(映像のタイトルが間違っていますが「つぐない」です)

http://www.youtube.com/watch?v=veX4ob2qI3I&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=NeVdlNZ4yMQ&feature=related

小生、少年時代から現在も聞かせて頂いております
決して時が止まったとは受け止めておりません
心の中で現在も進行中です♪

わたしのなかでは、三木たかし先生最高の傑作。映像の中だけどテレサは永遠に輝き続けます。

魅惑な歌声に魅了された いつかこんなスーパスターがまたこの世に現れますか

 第4位 愛人

http://www.youtube.com/watch?v=0tPAddMqNLM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=OimVhHNzFrU&feature=related

有線大賞三年連続受賞の大記録は永久に不滅です。
日本と台湾の友好は永遠成り!

 第5位 空港

http://www.youtube.com/watch?v=fUaOyMbOzng&feature=related

 各コメントを読むと、人それぞれ、テレサテンの曲に自分の人生や生活を重ね、共に生きて来たことが見てとれる。彼女は人間の人生そのもの、つまり人生模様をせつせつと魂込めて歌い上げていた。この歳になると、その歌詞の意味や人生の悲哀などを実感として感じる。涙が出そうになる。特に揺れる女心、彷徨う恋、意味深かつ人間の弱い内面を上手く描写し、そして歌詞のひとつひとつに散りばめられた様々な情景が脳裏に浮かぶ。

 若くして天国へ旅立った彼女を追悼し、彼女の命をかけて遺したかったラストメッセージとその功績に敬意を表したい。そして、いつか台湾に訪れ、彼女の墓参りに行きたいと考えている。

 「我が永遠なる歌姫」(2010/2/22)はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-abd8.html

 記事作成:1月24日(火) 

2012年2月 8日 (水)

私が好きだったCM⑱

 ~ au ケータイ  最後のメール~

 このCMは今から6年前に放送されていた。言語障害を持った女性に恋をした男が、彼女と何とか親しくなりたい一心で手話を勉強し、習得。仲間の制止を振り切り、勇気を振り絞って声をかけた。そして二人は付き合うようになった。しかし、すれ違いが多くなり、ふとした瞬間に、些細なことで喧嘩し、愛を見失いそうになる。彼女が会社を辞めて故郷に戻る日、男は、大切なものを失う衝動に苛まれ、夢中で駆けだす。駅のホームに駆け込む直前、彼は彼女にメールを送っていた。二人が出会うきっかけとなった「キミのとなりいいですか?」の文字。そして息を切らしホームに駆け込んだ男は、彼女を見つけ、夢中で駆けだす。メールが人と人を結ぶ絆になり得るという演出である。何か「ジーン」と来て、若かりし日の記憶を思い出した。

30秒バージョンはコチラ↓

http://www.youtube.com/watch?v=iIGeMsk4D84&feature=related

 ケータイに関するCMは、NTTドコモの宮崎あおいが東北各地を旅しながら、電話での交流を描いたシリーズ作品や石原さとみが出演したJ-PHONEのCMで、受験生の兄貴にメールでエールを送り、励ますCMが好きだった。この2点を紹介して結びとしたい。

 NTTドコモ

(智恵子の故郷編)http://www.youtube.com/watch?v=2nk7ABoJAH8&feature=related

(ストーブ列車編)http://www.youtube.com/watch?v=8diaTKQJoDo

(奥州平泉編)http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=ywMvvrtRHKw&NR=1

(鳴子編)http://www.youtube.com/watch?v=YfIGPuIeo-0&feature=related

(温海町編)http://www.youtube.com/watch?v=LNgY_lEnkww

(山寺編)http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=BiDW6JrAWhw&NR=1

 J-PHONE

  ケータイ各社は契約回線を伸ばすのに誘客に必死と見えて、工夫を凝らしたCM作戦を展開しているのが見て取れる。ドラマ仕立てで、いかにも携帯が最新トレンドであることを伺わせるような魅力的なCMが目につく。特にソフトバンクのホワイト家族はシリーズ化し、出演者もあの一家だけでなく、元政治家やグラビアモデル、宇宙飛行士など大勢の著名人を使っている。これほど通信業界が賑やかになった一方ではNTTドコモの寡占商売だった分野に他社が割り込み、自由化による様々なサービス合戦が繰り広げられるのは消費者としては大歓迎だ。割引率が大きくなったり、多種多様な料金プランから自分の使用頻度に合ったものをセレクトできるのも大きい。今は、使用エリアも格段に広がり、一部の離島を除き、日本全国通話可能となりつつある。また、近年はスマートフォンが主流となり、ネットやフェイスブックなどの媒体も利用できる。機能的にはどんどん進化しているが、根底にある、人と人との会話を大事に考えて欲しいと思うこの頃である。

 記事作成:12月23日(金)

2012年2月 6日 (月)

伝説の男⑧ ~蘇る金狼~

 昭和を代表する名優のひとりだった松田優作。彼から何を連想するだろうか?「ハードボイルド」?「(太陽にほえろの)ジーパン刑事」?それとも「探偵物語」?「カリスマアクションスター」?あるいは「遊戯シリーズ」?さまざまなイメージが浮かぶに違いない。私にとって彼は特別な存在である。僅か40歳でこの世を去ったことも惜しまれるが、彼ほど芝居や演技に対して真面目で寡黙に取り組む役者はいなかった。そして彼の役者人生を振り返れば、前半は過激なアクションスター、後半はダンディズムを追求した寡黙で味のある大人の役者という印象を抱いている。病魔に冒されてからは、やせ細ってしまっものの、病名を公にせず、そうした身の上をそのまま役になりきった。彼の遺作となったアメリカ映画「ブラックレイン」では、冷酷な犯罪者(護送犯)を演じ、鬼気迫る演技を披露して話題となった。彼には、嘘偽りのない役者魂をひしひしと感じさせてくれる、男気の漂う「本物」の役者だったと認識している。ファンには失礼だが、昨年他界した故・原田芳雄とも似ているように思う。それでは彼のプロフを改めて見てみたい。

Yusaku3

 松田優作のプロフ(Wikipediaより抜粋)

 1949年(昭和24年)9月21日 山口県下関市で、日本人の父と在日韓国人3世の母との間に非嫡出子として生まれた。血液型はA。1966年(昭和41年) 下関市立文洋中学校卒業。下関市立第一高等学校に進学。1967年(昭和42年) 11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。カリフォルニア州シーサイド市のシーサイド高校に入学、1年足らず滞在。1968年(昭和43年) 叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、9月、母に無断でシーサイド高校を中退し帰国。帰国後は極真会館本部池袋道場で稽古をしていた。その経験は、後のアクションシーンの随所に活かされる。長兄一家の池袋のアパートに居候して私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1969年(昭和44年) 3月、豊南高等学校卒業。1970年(昭和45年) 4月、関東学院大学文学部入学。
 1971年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。1972年(昭和47年) 関東学院大学文学部中退。同年4月、文学座付属演技研究所十二期生となった。文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。
 1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』に出演につながる。
 1973年(昭和48年)7月20日 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・壮絶な殉職シーンが話題となる。同年9月、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。通名だった松田優作が本名となる。

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 1973年(昭和48年) 志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にてスクリーン・デビュー。1974年(昭和49年) 黒木和雄監督、ATG、映画同人社提携作品の時代劇映画『竜馬暗殺』。主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。続いて同年公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演。サスペンスドラマ『赤い迷路』に、山口百恵の叔父役でレギュラー出演。
 1975年(昭和50年)刑事ドラマ『俺たちの勲章』に、中村雅俊とのコンビでレギュラー主演を果たす。1976年(昭和51年)1月31日 -前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者Eと共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。(逮捕時の新聞記事には「ジーパン刑事、逮捕される」の見出しがついた)このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間の謹慎生活を送る。身柄を東京拘置所に移された後、傷害容疑で起訴され、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。1976年(昭和51年)5月東映『暴力教室』がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、アクション映画という松田優作のイメージとは異なる臆病な侍を演じ、時代劇初主演となる。
 1976年(昭和51年)7月25日 - アルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年(昭和52年) - 刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。
 1978年(昭和53年)東映セントラルフィルム映画『遊戯シリーズ』第一作『最も危険な遊戯』主演(同年『殺人遊戯』、翌年『処刑遊戯』)。
 1979年(昭和54年)村川透監督角川映画『蘇える金狼』(翌年『野獣死すべし』)そしてアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では初主演になる推理・ミステリー映画『乱れからくり』。TVドラマ『探偵物語』に主演。本放送時は、中盤から視聴率が低迷したものの、一部に熱狂的なファンを生んだ。
 1980年(昭和55年)村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。『野獣死すべし』で見られる過酷な体重減量で痩せこけた姿が確認できる。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。
 1981年(昭和56年)泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージを一新する役柄を演じる。
 1983年(昭和58年) - 森田芳光監督の映画『家族ゲーム』では、数多くの賞を受賞。   
 1985年(昭和60年) - 『それから』で再び森田芳光作品に出演し、主人公を好演する。
 1986年(昭和61年) - 映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。
 1988年(昭和63年)深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

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 1989年(平成元年)11月6日 午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。40歳没。法名は天心院釋優道。

 ここで貴重な動画をご覧頂き、彼の生前の活躍を振り返りたい。なお「Youtube」の映像は予告なく削除される場合があることをお断りいたします。

http://www.youtube.com/watch?v=OoClnjg3Mx4&feature=related

<映画の予告編です>

http://www.youtube.com/watch?v=hnKkQzkR7Dg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=lM4zy_DeEbc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=sqWfhGqWJrI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=wAr6EEsImB4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=8bgn_FR9Y58&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=NaMjLAO9p5I&feature=related

<CM出演作品集>

 俄かには信じがたいが、彼が夭折してから早くも四半世紀近く経とうとしている。彼が天国へ旅立った後の芸能は今ひとつで、彼のような男気があって存在感を示すような大物俳優の出現は無に等しい。今をときめく向井理にしても、妻夫木にしても、小栗旬にしても、確かに甘いマスクと洗練された抜群のルックス(容姿)によって、若い女性を中心に大人気だが、渋さと重厚感を併せ持っていた彼と比べれば、ファンには悪いが何か軽い印象を抱いてしまう。一般的に複雑な生い立ちを乗り越えたり、下積みなどの苦難や障壁を克服した経験のないスターは、所詮は人間臭い味わいが出せず、一時のブームにすぎずに結果的に短命で終わってしまう例も多い。その点、彼は生前も死後も、ファンの脳裏に焼き付いている。それだけ存在感のある、器の大きな人間だったと言える。だから彼の演技ひとつひとつが嘘偽りのない迫真に迫るもので、ファンとしてはそれを愛おしく感じ、心底魅了されるのだと思っている。かつてジェームス・ディーンやブルース・リーもまたそうであった。生きていれば62歳だったが、未だに40歳の当時のままの彼は、これ以上歳をとることも無く、これから先もあの頃の姿のまま、私たちの心の中で生き続けていくのだ。「蘇る金狼」、これはまさに彼の生き様であり、時代の象徴でもあり、そして彼の代名詞そのものであったと思っている。

 記事作成:1月27日(金)

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