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2012年2月 6日 (月)

伝説の男⑧ ~蘇る金狼~

 昭和を代表する名優のひとりだった松田優作。彼から何を連想するだろうか?「ハードボイルド」?「(太陽にほえろの)ジーパン刑事」?それとも「探偵物語」?「カリスマアクションスター」?あるいは「遊戯シリーズ」?さまざまなイメージが浮かぶに違いない。私にとって彼は特別な存在である。僅か40歳でこの世を去ったことも惜しまれるが、彼ほど芝居や演技に対して真面目で寡黙に取り組む役者はいなかった。そして彼の役者人生を振り返れば、前半は過激なアクションスター、後半はダンディズムを追求した寡黙で味のある大人の役者という印象を抱いている。病魔に冒されてからは、やせ細ってしまっものの、病名を公にせず、そうした身の上をそのまま役になりきった。彼の遺作となったアメリカ映画「ブラックレイン」では、冷酷な犯罪者(護送犯)を演じ、鬼気迫る演技を披露して話題となった。彼には、嘘偽りのない役者魂をひしひしと感じさせてくれる、男気の漂う「本物」の役者だったと認識している。ファンには失礼だが、昨年他界した故・原田芳雄とも似ているように思う。それでは彼のプロフを改めて見てみたい。

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 松田優作のプロフ(Wikipediaより抜粋)

 1949年(昭和24年)9月21日 山口県下関市で、日本人の父と在日韓国人3世の母との間に非嫡出子として生まれた。血液型はA。1966年(昭和41年) 下関市立文洋中学校卒業。下関市立第一高等学校に進学。1967年(昭和42年) 11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら下関市立第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。カリフォルニア州シーサイド市のシーサイド高校に入学、1年足らず滞在。1968年(昭和43年) 叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、9月、母に無断でシーサイド高校を中退し帰国。帰国後は極真会館本部池袋道場で稽古をしていた。その経験は、後のアクションシーンの随所に活かされる。長兄一家の池袋のアパートに居候して私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1969年(昭和44年) 3月、豊南高等学校卒業。1970年(昭和45年) 4月、関東学院大学文学部入学。
 1971年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。1972年(昭和47年) 関東学院大学文学部中退。同年4月、文学座付属演技研究所十二期生となった。文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。
 1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーをしていたときに、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合いになり親交を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、松田を推薦した。このことが『太陽にほえろ!』に出演につながる。
 1973年(昭和48年)7月20日 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・壮絶な殉職シーンが話題となる。同年9月、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。通名だった松田優作が本名となる。

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 1973年(昭和48年) 志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にてスクリーン・デビュー。1974年(昭和49年) 黒木和雄監督、ATG、映画同人社提携作品の時代劇映画『竜馬暗殺』。主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。続いて同年公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演。サスペンスドラマ『赤い迷路』に、山口百恵の叔父役でレギュラー出演。
 1975年(昭和50年)刑事ドラマ『俺たちの勲章』に、中村雅俊とのコンビでレギュラー主演を果たす。1976年(昭和51年)1月31日 -前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者Eと共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。(逮捕時の新聞記事には「ジーパン刑事、逮捕される」の見出しがついた)このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間の謹慎生活を送る。身柄を東京拘置所に移された後、傷害容疑で起訴され、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。1976年(昭和51年)5月東映『暴力教室』がクランクイン。これにより映画復帰を果たす。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、アクション映画という松田優作のイメージとは異なる臆病な侍を演じ、時代劇初主演となる。
 1976年(昭和51年)7月25日 - アルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年(昭和52年) - 刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。角川映画『人間の証明』棟居刑事役で主演。
 1978年(昭和53年)東映セントラルフィルム映画『遊戯シリーズ』第一作『最も危険な遊戯』主演(同年『殺人遊戯』、翌年『処刑遊戯』)。
 1979年(昭和54年)村川透監督角川映画『蘇える金狼』(翌年『野獣死すべし』)そしてアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では初主演になる推理・ミステリー映画『乱れからくり』。TVドラマ『探偵物語』に主演。本放送時は、中盤から視聴率が低迷したものの、一部に熱狂的なファンを生んだ。
 1980年(昭和55年)村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために過酷な減量をし、原作のハードボイルドとは異なる鬼気迫る演技で主演。『野獣死すべし』で見られる過酷な体重減量で痩せこけた姿が確認できる。この時期を境にアクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。
 1981年(昭和56年)泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージを一新する役柄を演じる。
 1983年(昭和58年) - 森田芳光監督の映画『家族ゲーム』では、数多くの賞を受賞。   
 1985年(昭和60年) - 『それから』で再び森田芳光作品に出演し、主人公を好演する。
 1986年(昭和61年) - 映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督が降板。自らがメガホンを取ることとなり、これが初監督作品となる。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。
 1988年(昭和63年)深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田優作は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後アメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、出演していた。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

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 1989年(平成元年)11月6日 午後6時45分、入院中の西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)で膀胱癌の腰部転移のため死去。40歳没。法名は天心院釋優道。

 ここで貴重な動画をご覧頂き、彼の生前の活躍を振り返りたい。なお「Youtube」の映像は予告なく削除される場合があることをお断りいたします。

http://www.youtube.com/watch?v=OoClnjg3Mx4&feature=related

<映画の予告編です>

http://www.youtube.com/watch?v=hnKkQzkR7Dg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=lM4zy_DeEbc&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=sqWfhGqWJrI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=wAr6EEsImB4&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=8bgn_FR9Y58&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=NaMjLAO9p5I&feature=related

<CM出演作品集>

 俄かには信じがたいが、彼が夭折してから早くも四半世紀近く経とうとしている。彼が天国へ旅立った後の芸能は今ひとつで、彼のような男気があって存在感を示すような大物俳優の出現は無に等しい。今をときめく向井理にしても、妻夫木にしても、小栗旬にしても、確かに甘いマスクと洗練された抜群のルックス(容姿)によって、若い女性を中心に大人気だが、渋さと重厚感を併せ持っていた彼と比べれば、ファンには悪いが何か軽い印象を抱いてしまう。一般的に複雑な生い立ちを乗り越えたり、下積みなどの苦難や障壁を克服した経験のないスターは、所詮は人間臭い味わいが出せず、一時のブームにすぎずに結果的に短命で終わってしまう例も多い。その点、彼は生前も死後も、ファンの脳裏に焼き付いている。それだけ存在感のある、器の大きな人間だったと言える。だから彼の演技ひとつひとつが嘘偽りのない迫真に迫るもので、ファンとしてはそれを愛おしく感じ、心底魅了されるのだと思っている。かつてジェームス・ディーンやブルース・リーもまたそうであった。生きていれば62歳だったが、未だに40歳の当時のままの彼は、これ以上歳をとることも無く、これから先もあの頃の姿のまま、私たちの心の中で生き続けていくのだ。「蘇る金狼」、これはまさに彼の生き様であり、時代の象徴でもあり、そして彼の代名詞そのものであったと思っている。

 記事作成:1月27日(金)

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