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2012年6月

2012年6月28日 (木)

伝説の男⑩ ~野茂英雄の勇士~

 彼の代名詞や形容詞は数多い。「ドクターK」「トルネード」「奪三振王」「フォークの神様」などである。もうおわかりだろう。本日取り上げたいのは日本人のメジャーへの道を切り開いた野茂英雄である。彼は独自スタイルの豪快な「トルネード投法」を開発。強靭の足腰があってこそ成せる業で、誰にも真似できない新投法を編み出した。更には伸びのある剛速球に加え、伝家の宝刀・切れ味鋭く落差の大きいフォークボールを操り、三振の山を築いた。当時の日本記録となったルーキーイヤーでの17奪三振をマークした。ノンプロ新日鉄堺に在籍当時、古田敦也とバッテリー組、ソウル五輪で銀メダルも獲得した。鳴り物入りで近鉄バファローズへ入団し、相手の度肝を抜くような華々しい戦績を残し、当時、誰も発想しえなかったメジャー挑戦を表明し、ロサンゼルスドジャースへ入団。メジャーでもトルネード旋風を巻き起こし、「NOMOマニア」とか「NO MORE」という造語まで生む張本人となった。ノーヒットノーランを始め、数々の記録を残し、そしてオールスター戦には欠かせない選手になった。

Nomo1 Nomo2

 「ソウル五輪の快投からプロ入り」

http://www.youtube.com/watch?v=hspcypi0dRY

 ここで日本球界とメジャーで彼が残した戦績、およびプロフを振り返りたい。

 野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。 大阪府大阪市港区出身。血液型はB型。「トルネード投法」を武器に日本プロ野球時代は近鉄バファローズで活躍。1995年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、メジャーリーガーの実質的なパイオニアである。奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位。また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げた。ドラフト会議では、史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォーム(トルネード投法)を変更しないという条項が付け加えられた。

 入団1年目の4月29日のオリックス・ブレーブス戦(阪急西宮スタジアム)で初勝利を挙げた。この試合は完投し、17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立した。結局この年、新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。

 奪三振に関しての記録はシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、一試合三振奪取率10.99(当時)などの記録を続々に更新し、新人から「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。1990年には5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ4試合連続2桁奪三振を19年ぶりに塗り替えた。1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成した。

 「野茂対清原名勝負」

 1995年、契約問題でこじれ、鈴木啓示監督との確執、そして子供の頃からの夢を実現するためにメジャー挑戦を表明。球団も彼の申し出を受け入れた。そしてロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー先発を果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月は月間MVPは逃すものの、50回1/3を投げ、2完封を含む6勝0敗、防御率0.89、WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗、防御率1.99、WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターに初選出され先発投手を務めた。後半戦も15試合の登板で7勝5敗、防御率3.03、WHIP1.03の成績を残し、チームの地区優勝に貢献。最終的に13勝6敗、236奪三振、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54の成績で新人王・奪三振王を獲得し、日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。1996年4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではサンディ・コーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利をあげた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球で日米通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、トルネードを封印しセットポジションに終始した投球でノーヒットノーランを達成した。

「野茂メジャー1試合17奪三振の快投」

 2001年4月4日のボルチモア・オリオールズ戦(オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ)では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次いでメジャー史上4人目となった。結局メジャーでは5球団を渡り歩き、2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日に日米通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。日米通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。2008年に契約希望球団が現れず、引退を表明。

 大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器とした。速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。通算奪三振率は9.28。通算奪三振率が9.00を上回っている。とにかく記録づくめの快刀乱麻のピッチャーだった。

「日本での戦績」(5年)

 139試合登板 78勝46敗1S 勝率.629 奪三振1,204 防御率 3.15

「メジャーでの戦績」(12年)

 323試合登板 123勝109敗0S 勝率.530 奪三振1,918 防御率 4.24

 彼はマウンドでの堂々としたパフォーマンスとは裏腹で、いつも無口で冷静な静かな男だった。勝っても決して奢らず、常に紳士的な態度で臨んだ。イチローと同様、メジャーの一員となっても、英語を話さず、日本人としての誇りを忘れない「侍」だった。プレッシャーを力に変え、毎試合を心底楽しんでいた。そんな根っからの野球少年だった。彼が現役を退いてから4年が経過した。彼の残した足跡は計り知れない。その後のメジャー挑戦の道筋を確かにつけたパイオニアとして永遠に語り継がれることだろう。そして私は決して忘れない。あなたほど野球を愛し、自分の信念を最後まで貫いた泥臭い野球人がいたことを。

 記事作成:5月23日(水)

2012年6月23日 (土)

福島が一番元気だった頃

 まずこの曲を覚えているだろうか?

 この歌は「JUMP’95」というタイトルで、平成7年(1995年)に福島県で開催された「ふくしま国体」のキャンペーンソングだった。歌っているのはフォーク界の大御所「アルフィー」だ。「友よほんとうの空に跳べ」というキャッチフレーズの国体において、若人たちが「うつくしま福島」の本当の空の下で躍動したのだった。もちろん本県選手団の数年越しの強化策実り、天皇杯と総合優勝を獲得した。20世紀末のこの頃が、本県にとって躍進著しい夢と希望に満ち溢れた時期だったと思う。

 では福島が元気だった理由を主な出来事を時系列を追って検証したい。

 福島空港開港(1993年)

  • 1993年3月20日 開港。2,000mの滑走路1本にて供用。建設費は562億円。
  • 1995年11月13日 滑走路2,500m化事業の起工式。
  • 1999年6月17日 国際線旅客ターミナルビル開館。
  • 2000年7月13日 2,500m滑走路、全面供用開始。
  • 2001年8月 空港利用者が500万人達成。
  • 2006年1月 福島空港 - 中国上海路線が搭乗者10万人を達成。
  • 2009年6月22日 国際線就航10周年。
  • 2011年3月11日 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の発生に伴い、管制塔の窓ガラスが破損。運用は継続された。
  • 2011年11月24日 福島空港ビルが東京電力に対し、福島第一原子力発電所事故による国際線の運休に伴って発生した減収4800万円を賠償請求。
  • Fukushima_airport Fukusimaairport

     第50回ふくしま国体開催(1995年)

    Kibitan

      上記のとおり。マスコットキャラクターは未だにご当地キャラとなっている「キビたん」。

     磐越自動車道開通(1990年~1997年)

     総距離212.7km。太平洋~日本海を結ぶ列島横断道路。「洋・湖・海」というキャッチフレーズだった。福島県内(いわきJCT~会津若松IC)は全線4車線化。新潟県内で一部対面通行。東北自動車道やR49の渋滞解消や地方の物流や産業発展に大きく寄与した。

    Banetsu

     うつくしま未来博(2001年)

    うつくしま未来博(うつくしまみらいはく)は、2001年7月7日から9月30日まで、福島県須賀川市で開催された地方博覧会。日本で初めて森の中で開催された博覧会である。一極集中や環境問題といった20世紀社会の課題を乗り越えるため、21世紀のライフスタイルを提案する博覧会として開催された。首都機能移転を実現するため、多極分散型社会や循環型社会等、様々な知恵と技術が展示、運営方法、県民が主役を務めるイベント等を通じて紹介された。用地面積は約46ヘクタール。「自然との共生」がテーマの博覧会であり、自然に関するイベントが数多く行われた。開催期間中、200万人(県の総人口とほぼ同じ)の目標に対し165万7,002人が来場した。猛暑の影響で序盤の来場者は低調であったが、中盤からは1日あたりの入場者数が増加、最高となった9月23日には6,261人が来場した。172億400万円の収入に対し、支出は160億300万円、約11億7千万円の黒字を計上した。東北自動車道と福島空港、磐越自動車道を結ぶトライアングルハイウェイも建設中。

    Miraihaku Miraihaku2

     首都機能移転の最有力候補

     バブル経済期に東京の地価が暴騰したことなどもあり、首都機能移転論が再浮上した。村田敬次郎、堺屋太一、八幡和郎など政官民の幅広い論客から、地方自治体の首長や議会に至るまで、首都機能移転を推進する動きが起こり、1990年には衆参両院にて「国会等の移転に関する決議」を議決し、「首都機能移転を検討する」という基本方針を確認した。法的には1992年に「国会等の移転に関する法律」が成立し、この法律に基づき候補地の選定等の準備作業に入ることになる。1995年の地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災も災害やテロによる都市機能の麻痺の危険性を強く認識させ、首都機能の分散・移転論が盛り上がる一助となった。1999年12月には「国会等移転審議会」が候補地として3地域(「栃木・福島地域」、「岐阜・愛知地域」、「三重・畿央地域」)を選定した。我が福島県は最有力候補地として誘致活動を展開。キャッチフレーズは「森にしずむ都市」だった。あと一歩のところで石原東京都知事の鶴のひと声でお釈迦になった。

    Syutokinou Syuto

      「郡山ビッグアイ」、「ビッグパレットふくしま」開業。

     郡山駅西口にそびえたつビッグアイは、1999年に竣工した地上24階、地下1階建て、高さが約133mの福島県内では最も高いビル。先人による安積開拓のフロンティアスピリットを受け継いだランドマークとして、 また21世紀の郡山の都市像を実現していく「顔」として、オープンいたした。 郡山駅 西口の再開発事業として、郡山市の財源によって複合ビルと位置付けられて建設された。これにあわせて駅前広場やペデストリアンデッキなど西口駅前が綺麗に整備された。

     ビッグパレットふくしまは、福島県郡山市にある多目的ホール。正式名称は、福島県産業 交流館。1998年10月に開所。多目的展示ホール・展示面積:5,495m² (3分割可能)、コンベンションホール・4か国語同時通訳設備があり国際会議に対応、面積:953m² (2分割可能) 収容人数:1,000人、屋外展示場・展示面積:3,085m²など延床面積は23,258m²。

    Bigi Big_paret

     この頃は全国知事会の副会長まで務めた佐藤栄佐久県知事の見事な政治手腕で、とにかく活気があって勢いづいていた。バブル崩壊以降も県の予算はさほど緊縮財政ではなく、県民の生活はさほど困難ではなかったと記憶している。しかし、昨年発生した「東日本大震災」と世界最大規模のレベル7と認定された「東京電力福島第一原子力発電所事故」によって、被災県となり、いまだに浜通り地区を中心に警戒区域のまま、立ち入り禁止となっている地域や故郷に戻れない避難者が相当数いるのが現状だ。また、処理に困った政府主導で放射能汚染水を海に垂れ流し、その結果海洋汚染が顕著で、未だ漁業は再開されず、穀物栽培や水稲、野菜、酪農、食肉さえも風評被害に遭い、厳しい検査によって出荷できない品目も多数ある。こうした危機的状況に瀕した現状を一日も早く打破するためには、福島県民がいつまでも災害の被害に悲しみに打ちひしがれているのではなく、元気を取り戻し、笑顔溢れる県に故郷を活気づけることである。今回、このような趣旨の記事を書いたのも、昔の元気な頃の福島を取り戻したいからである。今は窮地かもしれないが、皆で力を合わせ、この危機を乗り越えて、実ある故郷再生を実現させていきたいと考えている。

     NOTHING BEATS FUKUSHIMA, DOES IT? 60"

    http://www.youtube.com/watch?feature=fvwp&v=1BnnQxIM7jQ&NR=1

    http://www.youtube.com/watch?v=VMWbimk9VJo&feature=relmfu

     「福島の有名なもの」

     相馬野馬追
     松川浦潮干狩り
     磐梯スカイライン紅葉
     桧枝岐歌舞伎
     会津磐梯山
     猪苗代湖
     裏磐梯五色沼
     スキー場多数
     白虎隊の故郷(鶴ヶ城ほか)
     吾妻小富士
     智恵子の故郷
     白河の関、勿来の関
     大内宿・塔のへつり
     檜原湖わかさぎ釣り
     いわきあんこう鍋
     シーラカンス(アクアマリンふくしま)
     スパリゾートハワイアンズ(フラガール)
     三春滝桜
     あぶくま洞・入水鍾乳洞
     柳津虚空像尊

     布引大根
     福島の桃
     あさか米
     郡山のきゅうり、葡萄
     メヒカリ(いわき名産)
     柳津あわ饅頭
     かりんとう饅頭
     強清水てんぷら饅頭
     会津こづゆ・味噌田楽
     地酒(会津・喜多方)
     喜多方ラーメン
     白河ラーメン
     白孔雀ジャンボソースカツ丼 

     銘菓

     ままどおる
     エキソンパイ
     薄皮まんじゅう
     檸檬(れも)
     もちずり
     じゃんがら
     ゆべし
     白土屋 ジャンボシュークリーム

     記事作成:5月22日(火)

     
     
     
     
     

     

     

    2012年6月15日 (金)

    我が麗しのアイドル~森高千里~

     私が20代の頃のアイドルといえば「森高千里」だった。長く綺麗な黒髪、すらっと伸びた素足、そして色白の愛くるしい顔立ちに、あの甘ったるい声。何もかも完璧だった。彼女が往年のアイドル南沙織(現・篠山紀信夫人)が歌った「17才」をリカバーして世に出てきたときに強い衝撃を受けた。私はそよりも前にスネアドラムを叩きながら「NEW SEASON」という曲を「8時だョ!全員集合」で歌う彼女の存在を知っていたし、ポカリスエットのCMで糸井重里と出演した彼女の姿に釘付けになったのは言うまでもない。それから、ことあるたびに彼女の出演番組は欠かさずチェックした。特に金曜日夜8時放送の「ミュージックステーション」では常連だった。1980年代から90年代にかけて、その時代を代表する女性アーティストとして君臨した。彼女は自らユニークな詩作も行い、振り付けもクリエイティブなものだった。

     彼女のプロフは以下の通り。

    Moritaka  1969年4月11日生まれ / おひつじ座 / 熊本出身 / O型
     九州女学院在学中の1986年夏、大塚製薬が主宰した「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞。同コンテストで審査員を務めていた糸井重里とCMで共演。1987年春、東宝映画『あいつに恋して』にヒロイン・松前千里役で出演、同年5月25日に同映画の主題歌「NEW SEASON」でデビュー。1988年、アルバム『ザ・ミーハー』のタイトルトラック「ミーハー」で初めて作詞を手掛け、斬新な歌詞が話題になる。自らの入院体験をもとに「ザ・ストレス」を書き、歌詞のユニークさを注目されて以降、ほぼ全ての作詞を自ら手掛けるようになる。また同作のPVで、森高千里の代名詞となる「コスプレ」が初登場。
     1989年、南沙織の楽曲のリメイク「17才」がヒットし、一躍人気ミュージシャンとなる。『非実力派宣言』『古今東西』などの作品で作詞のセンスが高く評価されるようになるが、その一方で、超ミニのウェイトレス姿や総スパンコールの衣装などのコスプレでライブを行い、時には意図的にパンチラを見せ、男性ファンを獲得することになった。
     1992年のアルバム『ROCK ALIVE』からの再シングルカットとなる「私がオバさんになっても」のヒットで女性ファンの心を掴む。1993年のシングル「渡良瀬橋」「風に吹かれて」のヒットでその路線を確立する。1999年6月3日、1995年から交際を続けていた俳優の江口洋介と入籍した。2000年2月に長女、2002年5月に長男を出産。

     それでは恒例の私が好きな楽曲のうち上位5曲を「Youtube」で取り上げ、6位以下10位までをアドレスで紹介したい。なお映像は予告なく削除される場合があります。

     第1位 私の夏

    http://www.youtube.com/watch?v=kI2Yys2yfgI

    http://www.youtube.com/watch?v=l-fUf0DDfTw

     第2位 ファイト!!

     第3位 17才

    http://www.youtube.com/watch?v=hr9zPEVovXU&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=MuDVxeVtx1M&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=Lpx7FCUmPnI&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=flSzxrXfqZA&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=js2xLLwQZkg&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=TllTCyo01-w&feature=related

     第4位 私がオバさんになっても

    http://www.youtube.com/watch?v=gQAcAZMLJI4

    http://www.youtube.com/watch?v=aNd9AESP3fQ&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=xyOvjGwI9Ps&feature=fvwrel

     第5位 だいて

    http://www.youtube.com/watch?v=L_2rw8PMUjU

     第6位 ザ・ストレス

    http://www.youtube.com/watch?v=q-uwI4aQ73c

    http://www.youtube.com/watch?v=o2CDoCt0JbI

    http://www.youtube.com/watch?v=dUKeD5NASQo

    http://www.youtube.com/watch?v=sqYq5ybxFJQ

     第7位 NEW SEASON

    http://www.youtube.com/watch?v=NePnt5CDWJU&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=KxKgL28IWAI

    http://www.youtube.com/watch?v=Oz2z6SKZ9cs

     第8位 渡良瀬橋

    http://www.youtube.com/watch?v=3VjqeJUfTRI&feature=fvwrel

     第9位 気分爽快

    http://www.youtube.com/watch?v=U0MgDjUVn6A&feature=fvwrel

    http://www.youtube.com/watch?v=by9xRom43XE&feature=related

    第10位 青春

    http://www.youtube.com/watch?v=mf1MI_PVpOE&feature=related

     ~お宝映像~

    <デビューのきっかけとなったポカリCM>

    <スタジオLIVE>

    <ドラム演奏映像&インタビュー>

    http://www.youtube.com/watch?v=PsuYUD86gR0&feature=related

    http://www.youtube.com/watch?v=op3NmzFCFFo&feature=related

    <私の好きなPV>

     

     追記

     この記事を書いた後の5月25日に、彼女が自らセルフカバーした200曲をデビュー25周年を記念して「YouTube」で7月から随時掲載していくと発表した。不思議と私が記事を書いた人が注目されるようになる傾向がある。

    http://www.youtube.com/watch?v=gYdjG6qLtpI

    http://www.youtube.com/user/moritakachannel?feature=results_main

     記事作成:5月12日(土)

    2012年6月14日 (木)

    想い出のドラマ「昨日、悲別で」

     1984年にNTV系列で放送された「昨日、悲別で」というドラマを覚えていますか?北海道をこよなく愛した作家・倉本聰氏の代表作のひとつである。私が北海道にいた昭和59年から61年頃には、彼は既に当地に移り住んでいた。昭和58年に、彼はテレビドラマ『昨日、悲別で』をこの世に送った。それを私は郷里で観て、北海道への思いを強くした。それは私が受験地獄に喘いでいた頃のことであり、また実際に北海道へ行くことが正式に決まる一年前のことだった。やがて、夢が現実のものとなり、憧れの北海道の地を踏みしめた私は、予てからの課題だった「悲別」のロケ地巡りに没頭した。ドラマの中で「おっぱい」役の石田えりが住んでいたとされる廃屋と化したペンケ沢の炭住、悲別の舞台となった上砂川の駅や町、萎びた炭坑跡、ラストシーンで主人公「竜」に扮する天宮良が「おっぱい」を追いかけて求愛して盛り上がった砂川の駅。そしてミュージカルスターへの道を歩むきっかけとなり、試練の時を過ごした「悲別ロマン座」。この様に、ありとあらゆる場所を訪問した。そして決して忘れてはならないのが、テーマソングの“風”の「22才の別れ」だった。

    Kinoukanashibetu Kinoukanashi

     私が大学2年の頃になると、地元の青年会の有志たちの働きかけで、町復興の切り札としてミュージカル『昨日、悲別で on stage』が上演された。テレビと全く同じ出演者を一堂に会し、特に北海道創生の原点ともいえる炭坑町を中心に、4か所で演じられた。実に涙なくしては見れない感動の舞台公演だった。ストーリーもテレビ編と同様の内容だった。

      ここでこのドラマをあまりご存じない方のために、あらすじだけかいつまんでお話しすると、北海道の廃れた小さな炭坑町で生まれた田舎育ちの青年(中込竜一)が、近所に住む映画好きのおじさんの影響でダンスミュージカルにカルチャーショックを受け、自分も一旗揚げようと上京する。昼間はダンスのレッスン、夜はスナックパブのショータイムに出演する傍ら、チャンスを伺っていたが、どうもうだつがあがらない。同期の奴等はどんどんチャンスをものにし、スターへの階段を昇っているというのに・・・。そんな時、或るオーディションで「竜」は偶然に同郷の女の子「おっぱい」(小沼ゆかり)と再会する。その娘は、高校時代不良娘のレッテルを貼られ、悲別を逃げ出した訳だが、その後「竜」と同じダンサーを夢見て東京に出ていた。しかし、田舎育ちの彼女は、東京に当てなどなく、生活苦と資金難から自らの体を売ることで生計を立てていたのだ。やがて、それが政界をも巻き込んだスキャンダルに発展し、マスコミによって汚名を着せられた彼女は深く傷つき、逃げ場を探して故郷に戻る。そんな彼女を、同じく夢途絶えた「竜」を始め、悲別の昔の仲間たちが温かく迎え入れ、互いに傷つきながらも共に励ましあい、仲間意識を強めていくといった、言うなれば青春ストーリーだった。当時はかなり話題になり、北海道では二度三度と再放送を繰り返すほどの好評を得た。
     ところが平成2年の4月に、或るテレビ局でこの続編とも言うべき番組が放映された。やはりミュージカル形式で、そのタイトルも『今日、悲別で』という、まさにあの感動を巻き起こした前編に継ぐ、悲別の7年後を描いた内容の物だった。

     では早速私が心酔したドラマの冒頭部分と感動を呼んだ最終回の名シーンを「Youtube」の映像で振り返りたい。

     第一話

     去年の春まで悲別にいたんだ 
    北海道の砂川って町から南に入った炭鉱町でね
    昔は良かったけど今はもう駄目さ
    炭鉱はつぶれる寸前だし 国鉄だってひどい赤字で
    もうじきなくなるっていう噂がある
    悲別ってのは元アイヌ語でね ケナシ別から
    来たって説とカナウシ別から来たって説と
    どっちでもいいやそんなこと 
    そこの高校を出て東京に来たんだ
    今この店で働いてる 働きながらタップを習ってる
    ご機嫌だよ東京は ほんと最高
    駅長や与作を呼んでやりたいね 
    あいつら一生あっちでやっていく気だ
    思っただけでも落ち込んでくるぜ
    あっちのことは忘れたいんだ 山も炭住も雪も川も
    それとそれからお袋のことも
    でもそのお袋がさ 手紙をよこすんだ
    見ったくない字でさ しまんない手紙を 
    ほんとにしまんなくって 涙が出てくる
    昨日、悲別で キツネがひかれた
    昨日、悲別で 女の子が生まれた
    昨日、悲別で 飲み屋がつぶれた 
    昨日、悲別で 昨日、悲別で・・・

    最終話

     私は北海道に在住した2年間の学生生活の中で、各ロケ地をバイクで旅して歩いた。その頃は、架空の町・悲別として描かれた上砂川駅、そして歌志内から北東に5kmほど行った地点にあった「ロマン座」、ラストシーンで竜こと天宮良がおっぱいこと石田えりを追いかけて告白した砂川駅、さらに東京に引っ越してからは、タップチップスがあったホテルニューオータニなどへも足を運んだ。とにかくこのドラマに登場した情景にドップリと浸かっていたかったのだった。

    昭和59年日本テレビ系列で放映

    原作脚本 倉本 聰
    主 演  天宮 良  石田えり
         布施 博  梨本謙次郎
         五月みどり 千秋 実
         大滝秀治

    ロケ地  北海道上砂川町
         東京 Tap tips 他
    主題歌  「 Memory 」
         「22才の別れ」
         「シングシングシング」
         「ニューヨークニューヨーク」

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A8%E6%97%A5%E3%80%81%E6%82%B2%E5%88%A5%E3%81%A7

     これを読んでくれた方々が、それぞれに若かりし日のことを思い出していただけたら幸いだ。私は当時、大学1年生。弱冠19歳という若造だった。しかし、少なからず、このドラマを観て、夢を抱くことの大切さや、自分の人生を見つめなおす契機となったことは間違いない。長い人生、何かに影響を受けたり、感化されるものに出会う場面は必ず訪れる。運命が切り替わる瞬間を見逃さないことが、人生の醍醐味ともいえる。尊敬できる誰かに影響を受け、あるいは出来事に遭遇する。人はそうして成長していくのかもしれない。私は、このドラマを通じて多くのことを学び取った。人を大切に思う心・・・。それも今の私を支えている大きな出来事となった気がする。

     記事作成:5月11日(金)

     追記

     この記事を書いた約一か月後の6月5日(火)に地元郡山の文化センターを会場に、この作品の続編ともいうべき「明日。悲別で」という劇が上演されることがわかった。被災地を元気づけようと、廃坑になった北海道の上砂川(悲別)を舞台に、決して希望を捨てずに夢を追いかけている人々の姿を描いた感動作のようだ。「昨日」「今日」そして「明日」とタイトルを一部変えながら、過去・現在・未来というように時間の経過を追って、その後の悲別を描くことで、廃坑になった町がその後、どういう経緯を辿り、どういう末路を描いたかを表現している。倉本聰のこの作品に賭ける思いがひしひしと伝わってくるようだ。それは原発事故で苦しむ我が福島県の将来像と重なって見える。これはぜひ見なければならない。7月18日(水)に上演予定。

    2012年6月13日 (水)

    家電量販店事情 第二弾

     5月11日(金)付の新聞各紙に家電業界を揺るがす記事が一斉掲載された。「家電量販店の業界第4位のビックカメラ(本社東京豊島区)と業界5位のコジマ(本社宇都宮市)が業務提携」との記事が一面すっぱ抜き状態で載っていた。「提携」というと聞こえがよいが、事実上はビックカメラがコジマを買収し、経営基盤の安定と業務拡張を目論む狙いはありありだ。紙面には第三者割り当て増資によって、コジマの株式の50%以上を取得するという記載だったが、これにより、両社を合わせた売上高は、1兆576億円に達し、最大手のヤマダ電機に次ぐ規模となり、業界第2位へと躍進することとなる。一応ここで両社の略歴に触れておきたい。

    「ビックカメラ」

     1978年創業で34年の営業実績。本社は東京都豊島区。従業員は5,827人。直営店は34店。資本金は184億円。東証一部上場。

    Bic

    「コジマ」 

     1955年創業で、実績は57年。本社は栃木県宇都宮市。「安さ日本一への挑

    戦」をキャッチフレーズに、主に東日本で業務を展開。従業員は4,336人。

    店舗数は211店。資本金は189億円 東証一部上場。

    Kojima

     5月11日の衝撃的な発表によって、一般投資家はすぐに反応し、株価への影

    響は大きかった。当日、両社の株価は軒並み上昇した。当日の株価の始値と終値

    は以下の通りだった。

     「ビックカメラ」 始値 38,000円  終値 38,500円 前日比 +500

     「コジマ」    始値     343円  終値   362円 前日比 +19

     この提携(買収による統合)は功を奏すのだろうか。すでにビックカメラの経営陣は、今後3年間で業績不振あるいは採算が合わない店舗50店舗を目途に閉鎖するという方針を打ち出した。経営の合理化、利潤追求の姿勢を鮮明にした。

     ところで、この業界4位と5位の業務提携のニュースは業界を駆け巡り、いよいよ経営統合や再編の波は、銀行を始めとする金融業界のみならず、一般庶民の暮らしに直結した家電業界にも及んだことで、ますます注目されるであろう。

    そこで今回は、家電量販店事情の第二弾として、「年収ラボ」のDATAを基に、「家電量販店の売上げランキング」と「店員の年収」について比較分析してみたい。

     
    「家電量販店売上高ランキングと従業員の年収比較」(H22~H23)

     

                    売上高        年収        従業員数

       1位 ヤマダ電機 2兆1,532億円  398万円 (11位)  12,235人

       2位 エディオン   9,010億円  516万円 ( 3位)  17,117人

       3位 ケーズHD   7,709億円  641万円 ( 5位)  13,621人

       4位 ビックカメラ  6,082億円  415万円 (10位)   5,827人

       5位 コジマ     4,494億円  419万円 ( 9位)   4,336人

       6位 上新電機    4,352億円  615万円 ( 1位)   3,418人

       7位 ベスト電器   3,409億円  396万円 (12位)   3,460人

       8位 ノジマ     2,135億円  384万円 (15位)     854人

       9位 キタムラ    1,445億円  490万円 ( 4位)   1,655人

      10位 マキヤ       604億円  539万円 ( 2位)   2,600人

     これを見ると、業績が高ければ、即従業員の給与に反映されているわけではないというのが実情。業務の規模や 賢い消費者の財布の紐を緩めるためのあの手この手の値引き合戦を繰り広げ、購買意欲を煽り、薄利多売による販売を継続しているため、売上高は短門額的数字で表されているが、純利益はさほどではなさそうだ。特に、店舗数や従業員数が多い全国展開の大手家電量販店では、従業員の平均年齢にもよるが、年収はさほど高くないということがわかる。

     

     また、これまでも企業の業務提携や統合はすさまじい勢いで行われてきた。たとえば、ケーズデンキはデンコードーを吸収合併し、ビックカメラはソフマップを傘下に入れ、ベスト電器はさくらやを、さらには業界トップのヤマダはサトームセン、マツヤデンキ、キタムラセレクトを、そしてエディオンは秋葉原に王国を築いていた石丸電気を傘下に入れた。こうすることで増資を促進し、業務を拡張し、経営基盤を強固のものにしてきた。今後もこうした流れに拍車をかけることは必至だろう。

    家電量販店事情と電化製品の賢い買い方の記事はコチラ↓

    http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a00c.html

     記事作成:5月11日(金)

    2012年6月 2日 (土)

    私が好きだったCM33

     今日は、少し前まで放送されていた保険会社「日本生命」のCMをお送りしたい。人生プランを設計する保険会社だけあって、CMのストーリーも心を打つ内容のものが多い。ニッセイのおばちゃんの時代から見続けているこのシリーズも、時代のニーズに応じた作風へと切り替わって来た。今日は、その長いシリーズ作品の中で、私が好きなCMを2篇お送りしたい。

     日本生命 「愛する人のために~改札編~」

     舞台は、少し古びた、でもどこか懐かしさを感じさせる小さな駅の前。
    仕事を終えて帰ってきた父親を待っていてくれたのは、母に手を引かれた5歳の愛娘。思わず娘を抱き上げる父親の笑顔は本当に幸せそうです。
    その後、10歳になった娘は小学校の友達と一緒に、仕事に向かうお父さんを駅前まで見送りにきてくれます。
    月日は流れ、中学生になった娘はある雨の日、傘をもっていない父親を迎えにいつもの駅前まで。難しい年頃とはいえ夕食の話をする笑顔はやはりいつもの愛娘です。
    さらに高校生ともなると、まぶしい笑顔に父親も少し照れるくらいですが、定期券を忘れるお父さんの癖にはちょっとキツイ一言も...。娘もそんなしっかりしたことを言う年­齢になったのです。
    そして最後のシーン。愛する家族のために雨の日も風の日も仕事に向かう父親。
    そんな彼も月日の流れとともに髪の毛にだいぶ白いものが混じりはじめました。
    仕事からの帰り、改札口を出た後姿にもどこか疲れが見えます。
    その後姿に走り寄る若い女性。そうです、母親に手を引かれ迎えに来てくれた娘はもう23歳になったのです。
    嬉しくも気恥ずかしいような娘との駅からの帰り道、笑顔でお父さんに語りかける娘の言葉は、CMの中でははっきりとは聞き取れません。もしかしたら娘の職場での話なのかも­しれません。あるいは恋愛の相談なのかもしれません。ただ、娘と肩を並べ家路につく父親の後姿には、もう疲れはみえません。
    そこには、愛する人と生きる喜びと希望がみえるかのようです。(Youtubeより)

     谷川俊太郎の詩も素晴らしい・・・。

     「保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、パソコンの便利さもありません。けれど目に見えぬこの商品には、人間の血が通っています。人間の未来への切ない望みがこめられています。愛情をお金であがなうことはできません。けれどお金に、愛情をこめることはできます。生命をふきこむことはできます。もし愛する人のためにお金が使われるなら。ずっと支える、もっと役立つ、保険口座の日本生命」。

     出演:田口トモロヲ、肘井美佳

     ~ニッセイ 夕立編~

     

     相合傘、いいものですね。加藤美央のOL姿も素敵だ。

     「もくせいの花」をBGMのニッセイのおばちゃんに始まり、「日本生命」は人生物語を感じさせるストーリーのCMが満載だ。今年はオリンピックイヤー。ゆずの名曲に乗せてまたアスリートたちがテレビを闊歩し、私たちに夢と希望と与えてくれるCMを伝えてくれるだろう。

     記事作成:5月4日(金)

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