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2012年6月28日 (木)

伝説の男⑩ ~野茂英雄の勇士~

 彼の代名詞や形容詞は数多い。「ドクターK」「トルネード」「奪三振王」「フォークの神様」などである。もうおわかりだろう。本日取り上げたいのは日本人のメジャーへの道を切り開いた野茂英雄である。彼は独自スタイルの豪快な「トルネード投法」を開発。強靭の足腰があってこそ成せる業で、誰にも真似できない新投法を編み出した。更には伸びのある剛速球に加え、伝家の宝刀・切れ味鋭く落差の大きいフォークボールを操り、三振の山を築いた。当時の日本記録となったルーキーイヤーでの17奪三振をマークした。ノンプロ新日鉄堺に在籍当時、古田敦也とバッテリー組、ソウル五輪で銀メダルも獲得した。鳴り物入りで近鉄バファローズへ入団し、相手の度肝を抜くような華々しい戦績を残し、当時、誰も発想しえなかったメジャー挑戦を表明し、ロサンゼルスドジャースへ入団。メジャーでもトルネード旋風を巻き起こし、「NOMOマニア」とか「NO MORE」という造語まで生む張本人となった。ノーヒットノーランを始め、数々の記録を残し、そしてオールスター戦には欠かせない選手になった。

Nomo1 Nomo2

 「ソウル五輪の快投からプロ入り」

http://www.youtube.com/watch?v=hspcypi0dRY

 ここで日本球界とメジャーで彼が残した戦績、およびプロフを振り返りたい。

 野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。 大阪府大阪市港区出身。血液型はB型。「トルネード投法」を武器に日本プロ野球時代は近鉄バファローズで活躍。1995年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、メジャーリーガーの実質的なパイオニアである。奪三振の多さから「ドクターK」の異名をとった。生涯成績の3122奪三振は歴代の日本人投手で第4位。また、通算3000イニング以上投げた日本人投手の中で唯一、投球回数を上回る奪三振を挙げた。ドラフト会議では、史上最多の8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックス・ブレーブス、近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォーム(トルネード投法)を変更しないという条項が付け加えられた。

 入団1年目の4月29日のオリックス・ブレーブス戦(阪急西宮スタジアム)で初勝利を挙げた。この試合は完投し、17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立した。結局この年、新人ながら最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン・新人王・沢村栄治賞・MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博・堀内恒夫・上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。

 奪三振に関しての記録はシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、一試合三振奪取率10.99(当時)などの記録を続々に更新し、新人から「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。1990年には5試合連続2ケタ奪三振を記録し、江夏豊の持つ4試合連続2桁奪三振を19年ぶりに塗り替えた。1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成した。

 「野茂対清原名勝負」

 1995年、契約問題でこじれ、鈴木啓示監督との確執、そして子供の頃からの夢を実現するためにメジャー挑戦を表明。球団も彼の申し出を受け入れた。そしてロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー先発を果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月は月間MVPは逃すものの、50回1/3を投げ、2完封を含む6勝0敗、防御率0.89、WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗、防御率1.99、WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターに初選出され先発投手を務めた。後半戦も15試合の登板で7勝5敗、防御率3.03、WHIP1.03の成績を残し、チームの地区優勝に貢献。最終的に13勝6敗、236奪三振、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54の成績で新人王・奪三振王を獲得し、日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。1996年4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではサンディ・コーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利をあげた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球で日米通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、トルネードを封印しセットポジションに終始した投球でノーヒットノーランを達成した。

「野茂メジャー1試合17奪三振の快投」

 2001年4月4日のボルチモア・オリオールズ戦(オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ)では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはサイ・ヤング、ジム・バニング、ノーラン・ライアンに次いでメジャー史上4人目となった。結局メジャーでは5球団を渡り歩き、2005年はタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日に日米通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。日米通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。2008年に契約希望球団が現れず、引退を表明。

 大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法は「トルネード投法」と呼ばれ、平均86~90mph(約138~145km/h)、最速97mph(約156km/h、日本での最速は151km/h)の伸びのある速球と77~82mph(約124~132km/h)のフォークボールを武器とした。速球は基本的にフォーシームだったが、左打者には時折カット・ファストボールを交えた。2000年代に入るとカーブ、スライダー、ツーシームなども交えるようになり、引退前の2008年にはワインドアップを封印し技巧派となった。通算奪三振率は9.28。通算奪三振率が9.00を上回っている。とにかく記録づくめの快刀乱麻のピッチャーだった。

「日本での戦績」(5年)

 139試合登板 78勝46敗1S 勝率.629 奪三振1,204 防御率 3.15

「メジャーでの戦績」(12年)

 323試合登板 123勝109敗0S 勝率.530 奪三振1,918 防御率 4.24

 彼はマウンドでの堂々としたパフォーマンスとは裏腹で、いつも無口で冷静な静かな男だった。勝っても決して奢らず、常に紳士的な態度で臨んだ。イチローと同様、メジャーの一員となっても、英語を話さず、日本人としての誇りを忘れない「侍」だった。プレッシャーを力に変え、毎試合を心底楽しんでいた。そんな根っからの野球少年だった。彼が現役を退いてから4年が経過した。彼の残した足跡は計り知れない。その後のメジャー挑戦の道筋を確かにつけたパイオニアとして永遠に語り継がれることだろう。そして私は決して忘れない。あなたほど野球を愛し、自分の信念を最後まで貫いた泥臭い野球人がいたことを。

 記事作成:5月23日(水)

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