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2012年9月

2012年9月29日 (土)

秘蔵映像~あの頃君は若かった~

 今日は、またしても芸能ネタで許してほしい。最近、上戸彩が結婚し、芸能界のウイた話が多くなっている。かつて美少女でデビューした芸能人たちも、お年頃を迎えるまでになった。今日は、そんな彼女たちのデビュー当時のあどけない表情やお姿を振り返りたい。お宝映像や秘蔵映像満載でお送りしたい。

 広末涼子

 小学6年生の頃、出身地の高知県のある番組レポートでインタビューに答える彼女。この時点でもう可愛らしさ全開。これを観て、スカウトしないほうがおかしいほど、光り輝く存在だった。

 瀧本美織

ダンスユニット「Sweets」時代、12歳の頃の瀧本美織

 鳥取の自宅訪問。両親がまた美男美女!彼女は今でこそ女優業に専念しているが、小中学生の頃からダンスユニット「Sweets」のメンバーとして活動。ダンスと歌が上手いのも合点が行く。

 宮沢りえ&後藤久美子

 宮沢りえと言えば「三井のリハウス」が出世作になったが、それ以前にも子役モデルとして数多くのCMに出演していた。他にもコカ・コーラ、ケンタッキーフライドチキンにも出演。天才美少女の名をほしいままにしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=ur8HnAWAcNM

http://www.youtube.com/watch?v=_xQJvD5JM9k&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ZkcAbWu3CB4&feature=related

 倖田來未

 何とモーニング娘の面接を受けた当時の姿。芸能界に入るきっかけを探すのに苦労していることが窺える。

 浜崎あゆみ

http://www.youtube.com/watch?v=Xb10yaK4XOg

http://www.youtube.com/watch?v=7czX9pZlY5Q&feature=related

 歌手としてメジャーデビューする前は、モデルやテレビドラマに出演していた。驚くほどあどけなく、清純派だ。

 松嶋菜々子

http://www.youtube.com/watch?v=XCZ54jA2JfI&feature=relmfu

http://www.youtube.com/watch?v=IJYoW_dMzKg&feature=related

貴重な旭化成のモデル時代の映像。170cmの長身スレンダーギャルだった。

 上戸 彩

 このほどEXILEのHIROと入籍した上戸彩。デビューのきっかけは 第7回国民的美少女コンテストで特別賞を受賞したこと。その時のあどけない、アンニュイやロリータ的雰囲気の彼女がこの映像。

Uetoaya2 Uetoaya 

 大島優子

 

 ファンならもうすでに見たであろうVTRがこれ。子役時代からPVやCMに出演していた。私が好きだったのは「進研ゼミ」。

http://www.youtube.com/watch?v=Gf6qbKgET30

http://www.youtube.com/watch?v=XhvYI93T3ro&feature=related

 記事作成:9月17日(月)

2012年9月26日 (水)

若くして才能を開花したアスリートたち

 年齢不相応の活躍をするアスリート達がいる。例えば1976年のモントリオールオリンピックで、僅か14歳にして「白い妖精」として一大旋風を巻き起こしたルーマニアの体操選手ナディア・コマネチを始め、日本でもわずか14歳、中学2年生でバルセロナ五輪の金メダリストになった岩崎恭子選手、3歳から卓球を始め、「天才卓球少女」の名をほしいままにし、今夏、見事に長年の悲願が叶い、晴れてメダリストとなった福原愛、そしてYAWARAちゃんこと田村(現・谷)亮子もまた早熟の天才柔道家として脚光を浴び、オリンピック2連覇を達成した。そして、今年のロンドン五輪に出場した競泳の渡部香生子はまだ高校1年生だった。しかしながら、その陰には、ただ単に、天性の才能だけではなく、アスリートたちの血の滲むような努力があって、ようやく報われたのだと信じたい。今日は、年齢に似合わず、若くして才能を発揮したスーパーアスリートたちを紹介したいと思う。

 1 イチロー

 若き天才と呼ばれた彼も、孤高の天才となり、数々のタイトルを獲得し、日本を代表する選手になった。細身だが強靭な体力と抜群の運動神経で三拍子揃った名選手。とりわけオリックス時代、独自スタイルの「振り子打法」で、弱冠20歳にしてシーズン200本安打のプロ野球新記録をマーク。その後も連続首位打者や盗塁王に輝き、様々な記録を塗り替え、ゴールデングラブ賞、ベストナイン、MVPなど賞という賞を総なめにしてきた。マリナーズに移籍後も、10年連続200本安打達成などヒットを積み上げ、これまたメジャーのシーズン最多安打を更新するなどその天才ぶりは他の追随を許さないほどだった。WBCにも参戦し、2連覇の立役者になるなど彼の野球人生は華やかなものだった。20代で国民栄誉賞を二度打診されたが、「自分はまだそれほどの選手じゃない」と辞退するなど、誇り高きメジャーリーガーになった。とにかくやることが派手で常に周囲の度肝を抜いた。もちろんカリスマ的でスーパースターとしての資質が備わるB型だ。

96年オールスター第1戦 先頭打者初球ホームラン
http://www.youtube.com/watch?v=pLlEvCKf5T8

メジャー新記録
http://www.youtube.com/watch?v=qmhXd9eCL3c

 2 岩崎恭子

http://www.youtube.com/watch?v=qWsHdKTbJ1I&feature=related

 その衝撃は1992年のバルセロナオリンピックで起きた。現地スペイン入りした後に日を追うごとに進化し、14歳と4日という世界最年少での金メダル獲得となった。しかも当時のオリンピックレコードを更新。決してフロッグなどではなかった。彼女がレース後に語った名言「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉に周囲の大人たちは圧倒され、流行語にもなった。血液型はA。

 3 清原和博

 高校野球の名門で、何度も全国制覇を達成している「PL学園」において、桑田真澄と「K・Kコンビ」を結成し、何と1年時から4番を打った。しかも超大型スラッガーで、春夏5大会連続甲子園出場を果たし、3度の日本一を成し遂げた。決勝戦に駒を進めなかったのは一度だけ、春夏通算13本の本塁打は未だに破られていない甲子園最多本塁打記録。飛距離も半端ではなく、並み居るスラッガーの度肝を抜く超特大154m弾をレフトスタンドに放っている。高校通算58ホームランも群を抜く。実況の植草貞夫に「甲子園は清原のためにあるのか」と言わしめた。血液型は早熟天才肌のB型。

 4 田村(谷)亮子

 YAWARAちゃんの愛称で颯爽と登場。柔道界に彗星のごとく現れた救世主だった。48kg級と小柄ながら世界選手権6連覇、全日本体重別11連覇、福岡国際11連覇、オリンピックでは2度の金メダル、2度の銀メダル、1度の銅メダルと出場した5大会全てでメダルを獲得するなど圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をした。血液型はB。

 5 福原愛

http://www.youtube.com/watch?v=Tv3b8Vxfc0A

http://www.youtube.com/watch?v=3YZX_hCrY-M&feature=relmfu

 3歳頃から「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」として注目された。1992年8月13日から卓球を始めた。3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。中国語が堪能で通訳不要。今年夏、ロンドン五輪で初のメダルとなる銀メダルを獲得した。血液型はB。

 6 浅田真央

http://www.youtube.com/watch?v=0tQ38Mz6QyI&feature=related

 5歳からスケートを始め、小6の時に特例で出場した全日本選手権で3回転×3のコンビネーションジャンプを跳び、「伊藤みどり二世」とか「天才少女」と呼ばれて脚光を浴びるようになった。2000-2002年シーズンではBクラス(10-11歳)で2連覇、翌2002-2004年シーズンではAクラス(12ー13歳)で2連覇、更に翌2004-2005年シーズンではトリプルアクセルにも成功してジュニアグランプリ3戦全勝した。そして世界ジュニア選手権では14歳で初優勝を飾り、無敵の強さを誇った。しかし、あまりにも早熟の完成品だったため、トリノオリンピックには年齢制限で87日足りずに代表には選ばれなかった。満を持して臨んだバンクーバーオリンピックでは、ライバルのキムヨナに僅差で敗れ銀メダルに終わった。その後の栄光と挫折は周知のところだ。血液型はB。

 やはりこうして見てみると、若くして才能を発揮するのは、B型が圧倒的に多い。形式やセオリーにこだわらず、プレッシャーに強い。負けず嫌いで自分が中心にいないと気が済まない性格。そして重圧をはねのけ、ゲームを楽しむ特異の才能。羨ましい。これほどB型が身分不相応の活躍をする不思議な力。これでも血液型性格診断を信じない方は、どう弁明するだろう。

 記事作成:9月(詳細不詳)

2012年9月25日 (火)

自ら命を絶った芸能人・アナウンサー

 本音を言えば、このテーマでの記事は何度も思い立ったが、その都度自問自答を重ねては執筆を自重してきた。悩みに悩んだ挙句に今回、掲載に踏み切ったものだった。それは自ら命を絶つという行為は、本人が相当思い悩んだ末に、やむにやまれず選んだ最終手段だと想像できるし、それ自体がデリケートな問題だからだ。そして故人の名誉を傷つけ、ファンだった方はもとより、ブロガーの方々から非難を浴びるものと判断したためだ。しかし、決して興味半分ではないし、無論、誹謗中傷のためではないことをお断りしたい。ただただ同じ時代を生きた者として、彼らが生前に残した足跡をどこかで残してあげたいという意図から、今回この記事の執筆と掲載に踏み切ったというわけだ。そうした苦渋の判断をご理解いただくとともに、彼らの功績を讃え、また懐かしみ、合わせて一緒にご冥福をお祈りいただければ幸いです。私が特に印象に残る有名人を10名ピックアップさせていただきました。なお、アドレスをクリックすれば、彼女たちの活躍を見ることは可能ですが、哀悼の意を表すため、今回は埋込み処理は行わないことをご了承願います。

 <歌手・タレント・俳優>

 1 岡田有希子(1967年8月22日 - 1986年4月8日)

 1980年代の中頃、アイドル歌手として人気が高く、順風満帆だった彼女が、突如所属事務所のある四谷のビルから投身自殺を図った。アイドル歌手の衝撃的な自殺のニュースは、列島中を駆け巡った。後追い自殺をするファンもいた。その数115人と言われている。当時のワイドショーでは、「今は亡きあるベテラン男優に失恋したのが原因ではないか」と騒がれたが、真実は不明。彼女が亡くなった時、私は東京(三軒茶屋)に住んでいた。四谷にあった芸能事務所の現場を見に行こうかと思ったが、ファンの心理や遺族感情を考え、自重した辛い想い出がある。誰が撮影したかわからないが、雑誌に彼女の遺体が道路に横たわり、周囲が血に染まった写真を見て驚愕した。彼女のアイドル歌手として絶頂だった頃を知っているので、そんな痛々しい写真を雑誌に掲載するなどもってのほかだ。決して興味半分や怖いもの見たさで見るのはやめてほしい。血液型はO

http://www.youtube.com/watch?v=fgntS3xAWf4

http://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

 2 可愛かずみ(1964年7月9日 - 1997年5月9日)

 当時、交際の噂があったプロ野球の投手の自宅マンションから飛び降りてその生涯を閉じてしまった。私と同い年だったので、そのニュースはショックだったことを覚えている。「オレたちひょうきん族」の中森明菜のもの真似で登場。そして「季節はずれの海岸物語」に徳子役で出演。その時に見せてくれた笑顔はいつまでも決して忘れないだろう。血液型はA型

http://www.youtube.com/watch?v=dCXwHcbpTbg

 3 沖雅也(1952年6月12日 - 1983年6月28日)

 東京・新宿にある京王プラザホテルの最上階(47階)から、沖雅也(本名・日景城児)が飛び降り自殺を図った。 ガードマンの「 待て!」の声を振り切った沖は、後ろ向きのまま体を崩して、128メートル下の7階にあるプールサイドに落下し、全身を強く打って即死した。生前彼は、「太陽にほえろ」のスコッチ刑事役、「俺たちは天使だ」の麻生探偵役など、無表情のニヒルな名優だった。血液型はB型

http://www.youtube.com/watch?v=z-9SKUEI9HM

 4 古尾谷雅人(1957年5月14 日 - 2003年3月25日)

 東京都文京区の自宅で首吊り自殺により死去。45歳没。晩年は事務所兼自宅マンションの住宅ローンや、亡父の遺産相続をめぐって継母との民事裁判を抱えていた。通夜・葬儀・告別式で俳優仲間の斉藤洋介は号泣し、同じく映画『ヒポクラテスたち』で共演した阿藤快は「彼はまさに役者らしい役者だったよ」と語っていた。個人的には「北の国から(卒業)」でチョイ役だが友情出演し、東京に旅立つ純を送ってくれたダンプの運転手役が記憶に残っている。五郎から受け取った泥のついた一万円札を純に返し、「これはお前がとっておけ!俺には受け取れん」と言ったあのセリフがいつまでも心に残っている。血液型はB型

http://www.youtube.com/watch?v=8lhiCm4bkh4

http://www.youtube.com/watch?v=ScXGUWP3UfQ

 5 清水由貴子(1959年9月7日 - 2009年4月20日)

 ご存知「スター誕生」からデビューした。短髪でギターを弾いて歌っていたことを覚えている。名曲「お元気ですか」は私も好きだった。欽ちゃんファミリーとして「欽ちゃんバンド」の一員としてコメディもこなした。しかし、静岡県内にある冨士霊園で亡くなっているのが発見された。49歳だった。父親の 眠る墓石の前で倒れており、硫化水素.を吸い込んで自殺したとみられる。そばには車いすに座った母親がおり、衰弱していたものの命に別条はなかった。独身だった彼女は06年3月、母の介護を理由に長年所属した事務所を辞めており、芸能界から事実上引退していた。長年にわたる母の介護疲れが、彼女を自殺に追い込んでしまったものと見られている。ご冥福をお祈りしたい。血液型はA型

http://www.youtube.com/watch?v=IQ0Fek98RdE&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=a1Y75LqC7EM

 6 甲斐智枝美(1963年6月16日 - 2006年7月10日)

 1980年代初めに「チェミィ」の愛称で親しまれ、ドラマやバラエティーで活躍した元 アイドルだった。54年に日本テレビ系「スター誕生!」の第29代グランドチャンピオンに選ばれ、翌55年「スタア」で歌手デビュー。女優としても、ドラマ「野々村病院物語」「見上げればいつも青空」や映画「逃がれの街」などに出演した。平成2年8月に7年の交際を実らせ、徹さんと結婚。翌3年10月の長男の出産を機に引退し、2男に恵まれた。人懐っこい笑顔と明るい性格で人気だった彼女だが、首つり自殺という衝撃的な結末でこの世を去った。 午前6時45分ごろ、夫からの119番通報で駆け付けた救急隊員が、彼女の死亡を確認した。自宅2階の寝室で首をつって死んでいたという。千葉県警習志野署の検視の結果、自殺と断定された。発見者は15歳の長男だった。

http://www.youtube.com/watch?v=D-e4onV2MAo

http://www.youtube.com/watch?v=BYhulwsogyo

 7 沖田浩之(1963年1月7日 - 1999年3月27日)

 1980年代、原宿の竹の子族のリーダーとして踊っていたところをスカウトされアイドルデビュー。「3年B組金八先生」に出演し、人気を博した。「E気持ち」でレコードデビューも果たし、ベストテン番組にも出演した。私は映画「私をスキーに連れてって」の主演シーンが懐かしい。90年代は映画・舞台を中心に役者として活動していたが、1999年に自宅で首吊り自殺。享年36歳だった。自殺の原因は当時、仕事が減っていたことに悩んでの自殺ではないかと囁かれた。なお沖田だけでなく、弁護士の祖父、企業経営者であった父(1996年9月)、父の生前から経営を引き継いでいた兄(2002年4月)など、置鮎家は3代で4人の自殺者を出していた。自殺後の津川雅彦の会見で、彼を「芝居ベタ」と罵っていた様が今でもはっきり覚えている。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=YItmM2KjZ7U

 8 hide(1964年12月13日 - 1998年5月2日)

 カリスマロックバンド、「X JAPAN」のギタリストだった。多芸で1993年から開始したソロ活動では、作詞、作曲、ボーカル、ギター、ベース(一部曲)、プロデューサーなどほとんどを自らが行ったマルチプレーヤーだった。5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンション寝室のドアノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見された。その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。遺書はなかったが、発見現場の状況から自殺と断定された。しかし、その後ファンや彼をよく知る人物は、「事故死」という見方をしている。血液型はAB。

http://www.youtube.com/watch?v=GssGijlOfZ8

http://www.youtube.com/watch?v=TF85LarRj1I

 9 松本友里

 1984年にアイドル歌手としてデビューした。その後、女優に転身し、可愛らしい風貌から、主に時代劇の町娘役が多かった。その後、俳優の松平健と結婚し、男の子を出産した。育児に専念するため、一時芸能界を離れた。2010年に最愛の母親が死去。このことが相当ショックで、自殺の引きがねになったと言われている。母親の介護疲れや死別の影響などにより、うつ状態となる。2010年11月15日午前3時ごろ、自宅のドアノブにロープで首をつっているのを泊まり込みのベビーシッターが発見し警察に通報。死亡が確認された。遺書の有無は明らかにされていない。いろんな憶測が飛び交った。夫の松平健がこのベビーシッターと浮気をしていて、それを知った婦人がショックを受けて思い余って自殺したとか・・・。真相は不明。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=gvCSuydmlQI

10 上原美優(1987年5月2日 - 2011年5月12日)

 トップアイドルだった彼女の死は衝撃的だった。「貧乏アイドル」として貧しい家庭でのエピソードを明るく話し、プラチナムプロダクションの看板タレントの一角までに成長する。芸能界デビューまでの道のり、およびその後も死亡が確認されるまで波乱万丈の人生を送っていた。母親が2010年3月29日に心筋梗塞で他界した。本人は仕事で最期を看取れなかったものの、家族全員で揃って葬儀を終えたが、彼女のショックは大きく以後精神的に不安定な様子が見られた。2011年5月11日23時頃、東京都目黒区のマンション自室で交際中の一般男性と過ごしていたが、「2時間ほど一人にして欲しい」と男性を外出させたという。その後、外出先の男性の携帯電話に死をほのめかすメールが着信し、折り返し電話をかけても彼女が出なかったため男性が上原宅に向かったところ、自室のドアにスカーフとベルトで首を吊っており、5月12日午前3時37分に病院で死亡が確認された。24歳没。葬儀は本人の地元の種子島で同年5月15日に執り行われた。血液型はA。

http://www.youtube.com/watch?v=dNQ8uBxHayQ

http://www.youtube.com/watch?v=_wnMrdSLenI

 他にも古くは大友柳太朗、田宮二郎、ポール牧、戸川京子、井上大輔なども自らの意思で命を絶ってしまった方々だ。

 衝撃を与えた自殺によって最後を迎えた芸能人の中で、やはり将来を悲観しやすい性格と言われるA型が多いことに気づく。10名中実に6人。この型は人目を気にしたり、小さいことをあれこれ悩み、ついつい取り越し苦労してしまう傾向が強いからだ。B型は病気を苦にし、発作的に死を選ぶ傾向がある。そしてO型は、圧倒的に人間関係のもつれが多い。浮気や不倫、人に騙されてその復讐心から死んで相手を呪うという怨念を感じる。

 <アナウンサー>

 1 松宮一彦(1953年12月11日 - 1999年9月27日)

 元TBSアナウンサーで、「ザ・ベストテン」の追っかけリポーターとしてその地位を確立した。私が彼が亡くなったことを知ったのは随分後になってからだった。久米宏の「松宮くん~!」と呼びかけていたシーンを今でもはっきり覚えている。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=H-biSgi-oMY

 2 米森(鈴木)麻美 (1967年3月18日 - 2001年9 月16日)

 日本テレビの元アナウンサー。1989年日本テレビ入社。1992年~1993年、永井美奈子と薮本雅子(共に現在はフリー)両アナウンサーと結成したユニット「DORA」で活動。1994年、味の素を興した鈴木三郎助の玄孫で、ゴールドマン・サックス証券の当時の名誉会長の息子・晃と結婚。1995年、日本テレビを退社。退社後は、フリーで活動。2001年9月、第一子となる長男出産の約3週間後に急逝。34歳没。身内だけで葬儀・告別式が営まれた。死因などの詳細に関しては家族の意向で公表されていないが、育児ノイローゼという説が高い。血液型はAB

http://www.youtube.com/watch?v=2PnXcFIAYIM

http://www.youtube.com/watch?v=-k-yJQdx--0

 3 大杉(鈴木)君枝1963年7月4日 - 2007年2月2日

 日本テレビアナの学閥である立教大学卒業後、1987年に日本テレビに入社。1997年11月に不動産業を経営している男性と結婚したが、2002年2月に離婚。2003年8月に広告代理店電通に勤務する10歳年下の男性と再婚。仕事でも夫の姓である「大杉」姓に変更。不妊治療の末、2006年10月に43歳で第1子となる男児を出産。育児休業中の2007年2月2日、東京都渋谷区の自宅マンションから転落死。遺書らしきものが残されており自殺と見られる。享年45(満43歳没)。出産後に全身の疼痛を伴う原因不明の病気である線維筋痛症を発症し治療を受けていた。血液型はAB

http://www.youtube.com/watch?v=EAYCRF-J-cs

 4 川田亜子(1979年1月17日 - 2008年5月25日)

 2002年に白百合女子大学を卒業後TBSに入社。2007年にTBSを退社。入社以来報道志望で、「NEWS23」のキャスターになることを夢見ていたが、バラエティ番組でのイメージが強くなっていたため、「いちばん!」と「JNNフラッシュニュース」以外の報道番組を担当することはなく、報道キャスターの夢の実現を目指し、大手芸能事務所所属のフリーアナウンサーとなった。2008年 5月26日午前6時15分頃、東京都港区海岸の路上に駐車してあった車内で倒れていたところを発見され、警視庁三田警察署により死亡が確認された。車内から家族に宛てた遺書と練炭が発見されたことから、死因は自殺と見られている。没年齢29歳4ヶ月。血液型はO。一説には所属事務所の社長との恋愛のもつれとも言われた。

http://www.youtube.com/watch?v=Ui3jWxwCJxE

http://www.youtube.com/watch?v=yLwQ5_3W_3c

 5 山本真純(1976年6月11日 - 2010年7月27日)

 学習院大学卒業後、1999年に日本テレビ入社。2009年3月4日、趣味のスクーバダイビングを通じて知り合ったマリンスポーツインストラクターの男性(当時32歳)と同年3月3日のひな祭りに結婚したことが日本テレビより発表された。2010年年明け頃より産休・育休に入り、2010年2月に第1子(長男)を出産。育児休暇中の2010年7月27日、宮城県仙台市青葉区内のマンション前で倒れているところを発見され、死亡が確認された。34歳没。山本の兄が取材応え、2010年4月(一部報道では5月)ごろよりうつ病(いわゆる、産後うつ)の診断を受け治療を行っていた事実を告白した。事故現場となった仙台のマンションは実家の別荘で祖父に長男を対面させる旅行中の出来事であった。また一部報道では、山本の携帯電話に家族宛の遺書と見られるメッセージが残っていたことも明らかにされている。一部では夫の不倫が原因だったとも言われた。血液型はO型。

http://www.youtube.com/watch?v=90c0YvNVrAU&feature=relmfu

 アナウンサーの自殺では、興味深い共通点がある。女性3人はいずれも日本テレビの局アナで、うち2名は鈴木姓で、出産まもなく自ら命を絶った。そして血液型がAB型という奇妙な共通点。そして結婚や出産という女性にとっては一大イベントを契機に人生の歯車が変わってしまったかのように急転直下の変貌から劇的な最期を遂げるという点。いずれにおても死を選ぶというのは他人には計り知れない大きな理由が隠されている筈。故人の名誉のため、それは明かされないなどの配慮によって、逆に様々な憶測が飛び交う。芸能人という職業柄、名前と顔を売ってなんぼという世界。だから、衝撃的な自殺はその与える影響も大きいということだ。個人的には死ぬほどの勇気があるのなら、死んだ気になれば何だってできてしまうと安易に考えてしまうが、当事者にしかわからない苦悩や失意、この世に未練もないほど打ちのめされた心理状態にあったことは間違いなさそうだ。謹んでご冥福をお祈りするばかりだ。

 関連記事

http://matome.naver.jp/odai/2133527238022237601

 「花の84年組を襲う悲劇」はコチラ↓

http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-3642.html

 「自殺を選んだ33人の芸能人・有名人」

https://www.youtube.com/watch?v=Mc2BicUnM6w

https://www.youtube.com/watch?v=nm2jBH37Wcg

 記事作成:8月25日(土)~8月26日(日)

 追記

 この記事を完成させた後、またしても政治家、しかも現役閣僚の自殺の報道があった。松下金融担当相だ。理由は定かではないが、参考までに、昭和58年以降で自殺した有名政治家を取り上げたい。

 中川一郎・・・元農林水産大臣。ニューリーダーとして期待されながら、自民党総裁選で最下位となったことが引きがねと見られている。1983年1月、札幌の某ホテルで首吊り自殺した。

 新井将敬・・・利益供与事件で逮捕状が請求され、衆議院で逮捕許諾請求の議決を行う直前に品川の某ホテルで首吊り自殺。国会会期中に訃報が飛び込み、議場が騒然となった。1998年2月死去、。若手のホープと嘱望されていた。

 中島洋次郎・・・元防衛政務次官。汚職事件で実刑判決を受け、精神不安定による自殺。2000年1月、自宅での首吊り自殺だった。41歳の若さだった。

 永岡洋治・・・郵政民営化法案での賛否板挟みと言われるが、 精神疾患も。自宅で首吊り自殺。54歳。
 
 松岡利勝・・・農林水産大臣。事務所経費の不明朗支出問題や、緑資源機構の談合問題で、追及を受けていた。2007年5月に議員宿舎で首吊り自殺。

 永田寿康・・・2009年1月、39歳という若さで飛び降り自殺。'06年の議員辞職以降トラブル多く、精神的に不安定。'08年11月にも自殺未遂。国会でのヤジや追及が凄かったが、一部でっち上げで吊し上げを食う。

 追記(H25.4.29)

  衝撃的なニュースが飛び込んできた。ウクレレ漫談で一世を風靡し、その道のパイオニアとして演芸で活躍されてきた牧伸二さんが本日、橋の上から多摩川に身を投げ、亡くなられたというニュースが飛び込んできた。「笑点」でお馴染みの古典芸能で人気が高く、話術も優れた方だった。残念でならない。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2012年9月24日 (月)

日本で起きた平成の大惨事

 平成もまもなく4半世紀が経とうとしている。故小渕恵三元首相が官房長官だった時に、「新しい年号は平成です」と言って「平成」の文字の書かれた額を報道陣に掲げたシーンを昨日のことのように覚えている。

http://www.youtube.com/watch?v=_4vKp3BGecs

 この24年の間に、世の中は激動し、様々な事件・事故があった。もちろんその最大なものは、昨年(平成23年3月11日午後2時46分)に発生し、未曾有の大災害をもたらした「東日本大震災」と「福島第一原子力発電所事故」であることは言うに及ばない。また、平成7年(1995年1月17日午前5時46分)に発生した「阪神淡路大震災」もまた日本人が大勢犠牲になる痛ましい大規模自然災害であった。この2つは別格であるとして、それ以外に多くの人災、あるいは自然災害があった。今回は、そうした平成において日本で発生した重大な事件や事故の中で、とりわけ図らずも、一度に大勢の方々が亡くなったものを取り上げたい。これらを振り返ることで、警鐘を鳴らし、同じ過ちを繰り返さぬために、災害への備えを万全にするよう意識の啓蒙を図れれば幸いである。そして「天災は忘れた頃にやってくる」という教訓の意味を再認識したい。

 なお、今回は被害者や犠牲者の遺族感情を最大限考慮して、動画映像の埋込み処理はいたしませんのでご了承願います。

 1 北海道豊浜トンネル巨大岩石崩落事故 

 1996年2月10日の朝、積丹半島にある豊浜トンネルの入口­上の巨大な岩盤が崩落。通行中の小樽行きの積丹線の路線バスと乗用車1台が巻き込まれ、バスの乗客18人と乗務員、乗用車の運転者の計20人が犠牲となった。事故当時、各テレビ局が救助活動の模様をニュースやワイドショーで連日生中継した。崩落した岩盤を取り除き、救助隊が中に入るまでに一週間を要した。原形を留めないほどぺしゃんこになったバスがブルーシートに覆われて出てきた映像は、事故の壮絶さを物語っていた。死因は大部分が圧死だった。現在は事故現場はトン­ネルの再整備により陸路では行けなくなったため、古平側に「セタカムイ防災祈念公園」が作られ、慰霊碑と慰霊堂、トイレが設置されている。

http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0040.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm18058748 (ログイン必要)

http://www.youtube.com/watch?v=F_q0lmolWQI&feature=related

 2 玄倉川水難事故

 これは人災である。1999年8月14日、前日から降り続いた雨で、大雨洪水警報が発令されている中、再三再四の避難指示を無視し、川の中洲でキャンプを強行し、ダムの放流で急激に増水した急流に巻き込まれて事故に遭遇した。しばらくは中洲に取り残された18人が身を寄せ合い、救助を待っていたが、難航する救助活動で、消防隊員の目の前で次々流され1~9歳の子供4人を含む13名が水死する大惨事となった。

http://www.youtube.com/watch?v=JTmfBDkGoE4

http://www.youtube.com/watch?v=p-CQe8sRm8Q

 3 信楽鉄道衝突事故

 平成3年5月14日午前10時30分頃、滋賀県信楽町黄瀬の貴生川-紫香楽宮跡間で、信楽高原鉄道の信楽発貴生川行・普通列車とJR西日本の京都発信楽行・臨時快速電車が正面衝突し、42人の死者と614人の重軽傷者を出す大惨事となった。

http://www.youtube.com/watch?v=X8Zhrd38rnY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=TK6ZJn0D0rU&feature=related

 4 福知山線脱線転覆事故

 2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。原因は運転士の精神異常による速度超過で右カーブを曲がりきれず脱線し、左のマンション駐車場に突っ込み大破。ATC装置の故障など安全装置の不作動が指摘され、当時のJR西日本の社長を始め幹部が業務上過失致死罪で起訴されたが、理不尽にも無罪判決が言い渡された。

http://www.youtube.com/watch?v=DVGmJB86yPg

http://www.youtube.com/watch?v=H06YlK38l04

 5 雲仙普賢岳火砕流大災害

 1991年(平成3年)6月3日午後4時8分に大火砕流が発生し、取材に当たっていた報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者ら4名(クラフト夫妻と案内役、アメリカ地質調査所のハリー・グリッケン)、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名の合わせて死者行方不明者43名と9名の負傷者を出す惨事となった。

 これは自然災害で、避けられなかった事故である。大自然の猛威に晒された時の人間の無力さをまざまざと見せつけられた瞬間だった。

http://www.youtube.com/watch?v=r0gFFJUsIrE

http://www.youtube.com/watch?v=fZda6KjXdhQ&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=4fmnNP25IL0&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=i8TGl7wQfxM

 一連のオウム事件や連続幼女誘拐殺人事件、大阪の児童殺傷事件、秋葉原殺傷事件などは世間を恐怖に陥れた凶悪犯罪ですが、事故ではなく、計画的に行われた事件であるため、今回のテーマに外れると判断し、掲載しませんでした。

 多くは鉄道など大量輸送手段で起きた事故である。その日、普段と何ら変わらぬ一日を過ごす筈だったのに、悪魔に見出されたかのように最期を迎える事故現場へといざなわれて行く。まるでたまたま乗り合わせた乗客全員が運命共同体であるかのように・・・。当人にしてみれば、まさか自分がその日、事故に巻き込まれて命を落とすなど想像もしていなかった訳で、そう考えると何時、何処で自分自身に「死」がやってくるかわからない。

 今年8月、ルーマニアで起きた女子大生殺害事件もまた、まさか前日まで自分がそんな犯罪に巻き込まれようとは予想もできなかった筈だ。これを「運命」という言葉で片付けるにはあまりにも殺生というものだろう。ある日突然、予期せぬまま奪われてしまった命。さぞかし被害者は無念だったと思うし、やり残したことがいっぱいあっただろう。死の間際、何を思ったのだろう。外傷の痛みや死への恐怖、断末魔の苦しみを味わったのだろうか。彼らの直面した心情を察すればあまりある。

 私たちはこうした予想だにし得ない事件を前にすると、今日一日生きながらえたのは「たまたま運が良かっただけ」なのだろうか?人生80年のこの時代に、病気で若くして天に召される命もあれば、この世に未練を残しながら愛する人を残して先立つ命もある。また、交通事故で一瞬にして失われる命もある。かといえば、100歳まで長生きし、子供や孫たちに看取られながら天寿を全うする命もある。そう考えれば「生きているうちが華」で、自分で命を絶つことほどもったいないものはないのではないだろうか。

 結びに、時代は違うが、死に直面しながらも最後まで希望を捨てず、すさまじい「生」への執念を感じるVTRを紹介したい。1985年に御巣鷹の尾根に墜落した「日本航空123便の事故」の交信記録である。この機長と副操縦士のやりとりは、絶望の淵をさまよいながらも、乗客の命を救うために懸命に命の炎を最後まで燃やし続けた「証」だったと思う。         

 さて、あなたは何を感じとってくれたでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=jqlC_LphagA&feature=related

 記事作成:8月26日(日)~27日(月)

 

2012年9月18日 (火)

私が訪れたい北海道のレアな名所

 1984年4月から1986年3月までの大学時代の2年間、北海道岩見沢市に居を構えていた。その間、中型バイクを駆って北海道の離島を除く至るところを縦横無尽にツーリングして旅して回ったものだ。もうあれから30年近い歳月が流れたとは信じ難い。その後も列車とバスを乗り継いだ仕事絡みの団体旅行、単独バイクツーリング、新婚当時、家内とふたりで車での旅行、電車でのグループ旅行と計5回、北海道の大地を踏みしめてはいるが、北海道の観光地はほぼ歩き、ほぼ知り尽くしているつもりだったが、最近、旅人の間で発掘されたり、新たに整備された新しい観光地が話題となっている。私自身これまでにまだ行ったことがない場所で、一度は訪れてみたい箇所を取り上げ、北海道への憧れや再訪への意欲を強くしたい。

 1 上富良野ジェットコースター道路

 最近、北海道のガイドブックやツーリングマップのグラビアを飾ることが多くなった場所。長閑な田園地帯を貫く一本道。幾重にもアップダウンし、丘の上まで直線が続いている。この風景は、中標津町の開陽台の手前にある道路と似ている。一度ここをバイクで風を切って疾走してみたい。

Jet_road Jetcoaster

 2 セセキ温泉の海岸露天風呂

 これは新名所でも何でもない。ただ、北海道に在住時に行けそうで行けなかった悔しい場所。知床半半島の東側の港町羅臼から更に、知床岬の先端を目指し海岸線沿いを20km以上も北上しなければならない秘境。海の中に石組みをして湯船を造った天然野天風呂。干潮には湯船が現れ、満潮では海の中に消える。目の間に北方領土の国後島を眺めながら入る温泉は感慨深いものがある筈。

Seseki

 3 糠平湖タウシュベツ橋梁

 私が北海道に住んでいた際には、まだ士幌線は国鉄が運行していて、ブームになったのは廃止になったずっと後になってからだ。人造湖である糠平湖の一部を美しい逆アーチ型で跨ぐように眼鏡橋が掛けられ、それが廃線後、風化して古代遺産のようになったことで隠れた名所としてブームに火がついた。是が非でも訪れたい場所だが、ここも頻繁に羆が出没する地帯。風化が激しく、損傷は年々酷くなっている。場所は糠平湖の北東側の複雑に入り組んだ湖岸線の入江部分。

Nukabira

 4 富良野界隈(風のガーデンハウス・森の時計・美瑛・青池)

 4年前に中井貴一主演、フジテレビ系で放送されたドラマ「風のガーデン」。「北の国から」「優しい時間」と合わせて富良野三部作と呼ばれた。ドラマの舞台となった山小屋の周囲のブリティッシュガーデンには手作りの花々が咲き乱れ、北海道の自然を象徴するかのような風情溢れ、色鮮やかな世界だった。実はこのセットは、平成6年に私と家内が宿泊したことのある新富良野プリンスホテルの敷地の一角にあるまた、そのホテルから至近にある「北時計」というカフェレストランは、私も訪れて食事をしたことがあるが、「森の時計」はTVドラマ「優しい時間」のために作られた喫茶店。ここの売りは自分でコーヒー豆を挽いて飲むことができる点。そのまま残されて営業されている。

 美瑛のなだらかな丘陵は「ケン&メリー」のCMで有名だが、青池は知らないだろう。下のアドレスをどうぞ!

Garden_house

Morinotokei

http://monokoto.jugem.jp/?eid=1807

 5 三毛別羆事件現場

 ここは知る人ぞ知る秘境。今でも野生の羆の目撃例が後を絶たず、なおかつ7名の村民が惨殺され、3名が重傷を負わされた殺戮の場所だけに、現地の人でも容易に入らない場所。その事件は1915年の大正時代に六線沢という山間の村で起きた実話である。現在は苫前町古丹別といい、留萌から日本海オロロンラインを北に30km行った苫前町から南東に20km入った山奥で悲劇が起きたのだが、私が北海道在住時には、こんな場所があるとは知らず、その近くを通過していた。前から「Youtube」や吉村昭一の小説「羆嵐」を読んで、この事件が実話だとは知っていたが、今年8月に、この事件を再現した「リメインズ~美しき勇者たち~」という映画のDVDを借りて観て、この場所への思いを強くした。断っておくが好奇心や怖いもの見たさで訪れるのではない。亡くなった方への供養のためである。

North_bear2 North_bear

http://www.youtube.com/watch?v=8GF_S0b9V8I

 6 稚咲内海岸

 北海道の北、道道106号の天塩町から抜海町まで海岸線に沿って走る道路。日本海をはさんで利尻富士が聳える利尻島を眺める抜群のロケーション。私も2度走ったことがあるが、当時は新しい名物となった巨大風車群はなかった。壮観らしい。

Windmill

 7 離島(利尻島・礼文島・天売島・焼尻島)

 北海道には2つの富士山があるのをご存知だろうか。ひとつは「蝦夷富士」と称される羊蹄山、もうひとつは利尻島自体が富士山の形の島なのだ。それが日本海に浮かんでいるのだから、圧倒される光景。そして礼文島の「スコトン岬」にも行ってみたい。宗谷岬には及ばないものの、日本最北に近く、戦前は日本の領土だった樺太(現在サハリン)を目と鼻の先に望むことができる。間宮林蔵の人物像に触れるのも一興。天売島と焼尻島はそれより南の留萌の近くに寄り添うように浮かぶ島。昔、「天を売る島」という名前のドラマがあった。倉本聰の富良野塾の塾生が脚本を書いたと思う。ここはオロロン鳥という珍しい野鳥の棲家となっている自然美あふれる孤島である。

Rishiri Skoton

8 青函トンネル記念館

 私が北海道に住んでいた昭和59年頃は、まだ青函トンネルは工事中で完成しておらず、まだ青函連絡船の時代だった。津軽海峡をゆっくりと3時間50分かけて旅情や郷愁に触れながら渡るのもまた乙なものだった。しかし、ご承知のように昭和63年に海峡深くを貫くトンネルが開通してから、大幅な時間短縮し、鉄路で内地に渡ることは北海道民の長年の悲願だった。そのトンネル掘削の歴史や苦労が垣間見れるのが福島町にある「青函トンネル記念館」だ。もちろん本州の青森県龍飛崎にも同様の施設がある。

Tunnel

 以前、記事に書いたことがあるが、北海道で再訪したい場所ベスト10は次のとおり。

 1 神威岬(念仏トンネル・水無立岩)
 2 カムイワッカ湯の滝
 3 サロマ湖突端(竜宮灯台)
 4 襟裳岬黄金道路
 5 層雲峡(双瀑台)
 6 摩周湖
 7 美幌峠
 8 霧多布湿原&車石 
 9 知床五湖
10 落石岬無線局跡

 記事作成:8月19日(日)~21日(火)

2012年9月15日 (土)

記憶に残るスポーツ名実況

 「アナウンサーという職業は責任が重い」ことを今年ほど感じた出来事はなかっただろう。目の前で起きた出来事を正確に伝えなければならない。しかしそこは人が行う仕事。主観がどうしても入るし、アナウンサー自身の感情が出てしまうこともある。特に今夏に開催されたロンドン五輪では、一度出された判定が覆ったり、ビデオ裁定で思いのほか時間がかかったり、抗議によって勝ち負けが逆転するという前代未聞のジャッジが相次いだ。その人の伝え方、言葉一つで重みが全く違う。万が一、誤った事実を伝えたら、どれだけ影響が大きいだろう。そんな重圧が著しいであろう職業で、これまで記憶に残る歴史的な名言名句を発したアナウンサーを取り上げてみたい。

 第1位 「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ~!」

 アテネオリンピック男子体操団体で、NHKの刈屋富士雄アナが絶叫した語り草となっている名セリフ。僅少さで3チームがひしめき合う中、最終演技者の冨田の鉄棒の着地シーンで生まれた名言。よくぞあの緊張する場面でこれだけの言葉が出たと思う。金メダルを獲得した直後のセリフも泣かせるものだった。解説の小西さんを気遣い、「どうぞ泣いてください」という人柄が滲み出る優しい言葉、「オリンピックの聖地、オリンピック発祥の地このアテネで、陽はまた昇りそうです!」は生涯記憶に残る名実況だった。

 第2位 「前畑がんばれ!前畑がんばれ!」の連呼

 オリンピックなど世界大会で日本人が表彰台に上がることが夢だった時代の頃の話だ。時は1936年、ベルリンオリンピック。女子競泳200m平泳ぎで、金メダルを争っていた前畑秀子に対し、NHKの河西三省アナがラジオ放送で「前畑ガンバレ !前畑ガンバレ!」と連呼した。この実況は、日本放送史に残る名実況であるとの声が高い。1936年といえば昭和11年。太平洋戦争が勃発する前の出来事だ。

 第3位 「ブロードアピールが飛んで来た!」

  フジテレビの競馬中継の実況でお馴染みの青嶋アナの神とも思えるような名セリフ!この伝説のレースは2000年のGⅢ根岸ステークスのダートコースで行われた。最終コーナーをまわって残り400標識を切った地点では長い列の最後方にいた武幸四郎騎乗の「ブロードアピール」だったが、そこから末脚よろしくぐんぐんトップスピードに乗ってみるみる前方の馬を交わし、ゴール寸前で見事に差し切って勝利した、手に汗握る大興奮のレースだった。ゴール直前の「前に届くか、届くか、届くか、届いた~」は語り草だ。

 第4位 「探していた、見失っていた光は、ロンドンの風の中にありました~!」

 これは今年のロンドンオリンピックの女子バレーボールの3位決定戦で飛び出した名言。それまではツイッターで気の抜けた冷めた実況と評判が悪かったNHKの広坂安伸アナだったが、この試合のラッキーガール迫田さおりがスパイクアウトで宿敵韓国をストレートで下しコート内が歓喜の輪で最高潮に盛り上がった時に生まれた。この名言で、それまでの冷めた実況に対してツイッターなどに寄せられた批判的な声は激変したのだった。そして解説の大林素子が感極まって「待ってましたこの瞬間、止まっていた時間を動かしてくれた選手が・・・ありがとう~!」という言葉もまた感動的だった。

 残念ですが、NHKのテレビ放送の動画は、この記事を公開する直前にユーザーにより動画が削除されてしまいました。

 第5位 「立て、立て、立て、立ってくれ~!・・・・立った~!」

 それは伝説となった言葉だ。1998年に行われた長野冬季オリンピックのスキーのジャンプ競技のラージヒルで、それまで不調に苦しんでいた原田雅彦が因縁の二回目、汚名返上の大ジャンプを成し遂げた際に生まれた。日本国民の感情を代弁してアナウンサーに言わせた感じがした。当の声の主はNHKの工藤三郎アナ。映像の埋込み無効処理のため、下のアドレスをクリックしてください。

http://www.youtube.com/watch?v=PWjkrQmtyF4&playnext=1&list=PL201DE1473F806935&feature=results_main

 実際は、ラージヒル個人戦の際に生まれた名言でした。本番に弱い原田のイメージを払拭するかのように、実況が絶叫した。

 第6位 「まだ続く、繋いだ、繋いだ、日本文理の夏はまだ終わらな~い~!」

 今も記憶に新しい2009年夏の全国高校野球甲子園大会決勝。現在、広島で活躍する堂林投手率いる強豪・中京大中京と対戦した新潟の日本文理高校。最終回4対10という6点ビハインドの中、決して諦めず、繋いで繋いで1点差まで詰め寄り、一打同点のチャンスを築いた。しかも9回二死ランナー無し、2ストライクを取られてからの猛反撃だった。抜群の選球眼とファールで粘りに粘り、気づけば球場全体が日本文理に大声援を送っていた。最後は三塁ライナーでゲームセットとなり、惜しくもあと一歩及ばなかったが、大観衆は日本文理に惜しみない拍手を送った。この試合を実況したのは、元朝日放送アナウンサーの植草貞夫氏。歩く名言集とも呼ばれるほど、球史に残る名言を数多く残した。「甲子園は清原のためにあるのか~!」も彼の発言。

 伝説の実況は4分36秒頃です。「なんと表現していいのかわからない。日本文理の最後の最後のすごい粘りだ~」という絶叫も素晴らしかった。

https://www.youtube.com/watch?v=TULcy3DD1Bo

  第7位 伝説のバックスクリーン3連発 「こ~れも行くのか~」

 1985年に甲子園球場で行われた伝統の巨人阪神戦でその名言は誕生した。この年、巨人のエース格だった槙原からバース・掛布・岡田のクリーンアップが相次いでバックスクリーン付近に叩き込んだ3連発。確かこの劇的シーンは4月に行われたが、この勢いそのままに阪神が21年振りにリーグ優勝を飾った。その年の阪神の破竹の勢いを象徴するシーンがこの場面で、当時のABC朝日放送の有名アナだった植草貞夫氏の絶叫がすべてを物語っている。
 それにしても阪神ベンチと甲子園のファンのお祭り騒ぎは凄い!

 植草アナと言えば、KKコンビが活躍していた1980年代の高校野球の実況でも有名。彼の怪物・清原のホームランを形容したアナウンスも語り草になっている。それは・・・

 「甲子園は清原のためにあるのか~!」という絶叫だった。

 最後に、今回のテーマにおよそおあつらいむきな映像が「Youtube」にアップされていた。サッカーにおける山本浩アナの名実況なのだが、サッカーひとつをとってもこれだけエキサイトするのだ。実況の価値の重さをまざまざと知らされた思いだ。

 ぜひ今回のブログを現職のアナウンサーに見てもらい、言葉の魔術師となれるよう研鑽を積んでいただきたいものだ。それは決して多事雑言ではないし、他人の真似言であってはならない。わざとらしい予め用意した言葉ではなく、その場でとったさに出た、臨場感あふれる卓越した味のある「ひとこと」であるように・・・。

 記事作成:8月22日(水)

2012年9月14日 (金)

私が好きだったCM39

 昨年まで放送していたNTTドコモのCMを覚えているでしょうか?人気モデルの辻元舞と遠山悠介が共演した、遠距離恋愛の恋人同士が、起床から仕事に出るまでの会話をPCのXiタブレットの画面を通じてやりとりし、思いがけずプロポーズをする内容。特に、同じ境遇の女性が見たら胸キュンすることは当然だろうが、男性でも鳥肌立つようなストーリーだ。では早速ご覧いただきたい。

 このCMに寄せられたコメントです。

こんな嫁がいたら毎日遅刻するわww

DOCOMOのCMって癒されるよね

いつかこんな会話をしたいです(^o^)

15秒スポット→ http://www.youtube.com/watch?v=zYAIUV3M9cA

 こんなストーリー性があったり、ほんわか、ほのぼの、癒されるようなCMが私は大好きだ。かつては「コカ・コーラ」のCMがこいう物語風で人生のステージを巧みに描写していて好きだった。

 最後にこのCMに出演した「辻元舞」さんのプロフを紹介したい。

Mai  ~辻元 舞~

 1987年2月6日生まれ / みずがめ座 / 京都出身 / O型 25歳
 
  スターダストプロモーション所属のファッションモデル
 2005年以降、テーマパークのダンサーなどを務め、2009年のエプソンのカラリオのCM出演を皮切りに、2011年末までに14社、17本のCM出演オファーが殺到した売れっ子モデルである。

 私のど真ん中ストレートの透き通るような色白で、しかも血液型はO型。男性なら絶対放っておかないタイプだ。今後の活躍を大いに期待したい。

 おまけにもうう一つ山下リオが出演する「ドコモ」のCMを紹介したい。

http://www.youtube.com/watch?v=_af3nBztPMk&feature=fvwrel

 記事作成:8月18日(土)

2012年9月11日 (火)

監督の資質と条件(監督に向く人と向かない人)

 今、もっともタイムリーな話題を提供したい。政治の各政党の代表選挙も混迷を深めているが、急遽翻意し、参加を表明したNPB選手会の決断に伴い、来春開催の第3回WBCの監督人事もまた難航しているようだ。「自分では役不足」「責任が重い」と初めから身を引く方が多い。私は当初から落合前中日監督は、その手腕は評価するが、絶対に受けないと思っていた。それは第2回WBCの際に自分の所属チームの選手を派遣することを頑なに拒んだ経緯があったからだ。また、現役監督の原、秋山両監督もなかなか首を縦に振らない。私は候補者としていち早く山本浩二元広島監督や野村元楽天監督、あるいは山田久志氏の就任を予想していたが、本人たちがなりたくても選手の起用法や相性、そして何より現場から長く遠ざかっていることがネックだろうと考えていた。それならば、むしろ梨田前日本ハム監督のほうが適任だし、あるいはサッカーの日本代表のように、外国人監督を招聘するのも面白いのではないかとさえ考えていた。一方、コーチは古田元ヤクルト監督やMLBで長年プレーし、相手選手の特徴を知り尽くしている野茂英雄を投手コーチに、そして桑田真澄をヘッドに据えても面白いと思う。彼の卓越した一流の野球理論は的を射ているし、選手の信望も厚い。さて野球ファンならずとも興味関心が尽きない日本代表の監督選びの成り行きが注目される。そこで今回は、監督に必要な資質と条件というテーマで論じてみたい。

 私は「名選手=名監督ではない」と思っている。巨人の創世期を支えた水原茂も三原脩も、あるいは阪急の黄金期を築いた上田利治、広島で赤ヘル旋風を巻き起こし、萬年最下位から奇跡の優勝を遂げた時の名将・古葉監督でも現役時代は冴えない戦績しか残せなかった。一方で現役時代に華々しい活躍をし、記録にも記憶にも残るような名選手が名監督になるかと言えばそうとも言い切れない。強いリーダーシップは大事だが、鉄拳制裁などの強い指導は、時として選手と軋轢や摩擦を生じやすく、確執が起きやすい。サッカーやバレーを見ても、岡田武史氏やザッケローニ氏、佐々木則夫氏、眞鍋正義氏などは、鉄拳制裁からは程遠く、選手の体調や調子の善し悪しなどを細かく観察して起用法を決めている。そしてある程度プロ意識や自主性に任せ、時にはフレンドリーな対応を示し、選手とのコミュニケーションを欠かさない。つまり選手と監督は絶妙なそして全幅の信頼関係で結ばれてこそ、初めて予期せぬ好結果をもたらすようだ。WBCの際の侍ジャパンを率いてV2を成し遂げた時の原監督がそうだった。「俺について来い」タイプはもう時代錯誤で古いのかもしれない。では今回のテーマに沿って話を進めたい。監督に向く人向かない人を、実際のプロ野球の歴代監督を振り返って考察したい。なお、今回は、ブレザー、バレンタイン、ブラウン、ヒルマンなど外国人の監督で傑出した方々もいたが、そういった外国人監督は除外して考えたい。

 まず、これまでの成績から判断して、私が考える名監督と迷監督は以下の通りに分類できる。

1 現役選手時代も活躍し、監督としても一流

 川上哲治(巨人)

 ご存知V9監督。彼が凄いのは日本シリーズ9連覇という大偉業を達成した。あの頃すでに投手の分業制を確立し、適材適所に選手を配置し、ワークシェアで優勝に導いた点。もちろん牧野茂という有能な参謀と当時ドラフト制度がなかったために、ONを始め、根こそぎ優秀な選手を揃えていたことが勝因のひとつでもある。彼は現役時代も巨人の4番打者として活躍。赤バットで「打撃の神様」とまで呼ばれた雲の上の存在。巨人の黎明期の礎を築いた貢献人である。血液型はA型

 選手としての成績 1,979試合 2,351安打 181本塁打 1,319打点 打率.313
 監督としての成績 1,866試合 1,066勝 739敗 61分 勝率.591
                                                                                                                        
    
 野村克也(南海・西武・ヤクルト・阪神・楽天など)

 データ野球のパイオニア。同じ捕手の古田敦也を育てたことで、選手の育成も上手い。監督として眼力に優れ、たまに見せるぼやきがトレードマークだった。現役時代は人気抜群だった長嶋茂雄に嫉妬し、とことんライバル意識むき出しで立ち向かった。しかし当の長嶋は軽くあしらい、あまり取り合わなかった。それがお互いB型の天才肌的なところである。マイペースで自己中が元来の持ち味だが、一流の野球哲学を持ち、データ野球のパイオニアと言える。

 選手としての成績 3,017試合 2,901安打 1,988打点 657本塁打 打率.277  
 監督としての成績 3,204試合 1,565勝 1,563敗 勝率.500

 藤田元司(巨人)

 今も原監督が尊敬してやまない紳士的な名監督。決して怒らず常に冷静な立ち居振る舞いをした。さすが慶應出身。選手時代も巨人のエースとして活躍した。彼は6年間で2回しか優勝できなかった長嶋監督の解任を受け、急遽監督を任され、牧野ヘッド、王助監督とトロイカ体制で見事翌年首位に返り咲いた。3年間で優勝2回、2位1回という強さを発揮し、王に後進を譲った。しかしその王監督が5年で1度しか優勝できないふがいに成績に終わると再登板した。そこでも4年間で2度優勝という抜群の成績を残し、再び長嶋に監督を譲った。通算すると7年間で4回優勝し、Aクラス6回という安定した強さを発揮し、勝率は.588とかなり高い戦績だった。

 選手としての成績 364試合 119勝 88敗 924奪三振 防御率2.20
 監督としての成績 910試合 516勝 361敗 33分 勝率.588

 権藤博(横浜)

 中日ドラゴンズとして入団一年目からエースとして活躍。連投連投で一シーズン69試合も投げ、35勝も挙げた。沢村賞と新人賞を受賞した。2年目も30勝で最多勝を獲得した。しかしその後肩を痛め、実働は5年で引退を余儀なくされた。監督としてはマシンガン打線の横浜ベースターズを率いて日本一を達成した。その時のメンバーには石井拓郎、波留、佐伯、進藤、駒田、谷繁、鈴木尚典、三浦大輔、野村、川村、斎藤隆、阿波野、横山、佐々木など投打のバランスが整っていた。

 選手としての成績 210試合 82勝 60敗 667奪三振 防御率2.69
 監督としての成績 407試合 219勝 186敗 2分 勝率.541

 森祇晶(巨人・西武・横浜)

 巨人時代は森昌彦の名前で、正捕手としてV9に大きく貢献。投手陣をうまくリードし、盤石な帝国を築いた立役者。監督としても西武・広岡監督の築いた基礎を引き継ぎ、常勝軍団として圧倒的な強さを見せつけた。もっとも最強の選手たちだった。石毛、辻、清原、デストラーデ、秋山、伊東、平野、工藤、郭、渡辺久信、東尾修、潮崎、松沼兄弟など屈強な選手たちの集まりだった。 西武の9年間で8回優勝という常勝ぶりだった。
 
 選手としての成績 1,884試合 1,341安打 81本塁打 582打点 打率.236
 監督としての成績 1,436試合 785勝 583敗 68分 勝率.574

 落合博満(ロッテ・巨人・日本ハム・中日)

 現役時代はロッテで三冠王3度獲得。あの世界の王貞治を超えた男。独自の野球理論でユニークな練習法を展開。オレ流を貫いた。選手ととことん突き詰めて話し合うなど見た目とは違い、あまり怒らず、努めて冷静に振舞っていた。冷静沈着で頭脳派の野球を行った。これほどギャップの大きかった人はいない。監督としての器が備わっていて、適役であり、天職ではないかと思うほどだ。中日で8年間監督を務め、4回優勝に導いた。いずれまた復帰するだろう。勝負勘に優れ、モノの道理を知り尽くしている印象。しかし、第2回WBCに自分のチームから選手の派遣を拒否したため、世間のバッシングを浴びた。血液型はO型。

 選手としての成績 2,236試合 2,371安打 510本塁打 1,564打点 打率.311
 監督としての成績 1,150試合 629勝 491敗 30分 勝率.562

  原辰徳(巨人) 

 就任早々「ジャイアンツ愛」を方針として掲げ、自らを犠牲にしてもチームのために貢献する方向性を訴えた。今年もスタートで躓いたものの、見事奪首に成功。監督人選が困難を極める中で、責任感を持ってWBCの監督に就任。烏合の衆をひとつに束ね、プレッシャーだらけの中、見事2連覇を達成した采配は見事としか言い様がない。巨人の監督としては昨年まで8年間指揮を執り、優勝4回。血液型はA型。

 選手としての成績 1,697試合 1,675安打 382本塁打 1,093打点 打率.279
 監督としての成績 1,146試合 625勝 489敗 32分 勝率.561

 秋山幸二(西武・ソフトバンク)

 全盛期にはメジャー移籍など考えもしなかったが、もっともメジャーに近い逸材だった。三拍子揃い、運動神経抜群の選手だった。西武、ダイエー&ソフトバンクと渡り歩いたが、いずれも主軸を打ち、チームになくてはならない名選手だった。王監督からバトンを引き継ぎ、監督に就任後も安定した強さで就任2年目に優勝し、2年連続で優勝を成し遂げた。血液型はO

 選手としての成績 2,189試合 2,157安打 437本塁打 1,312打点 打率.270 
 監督としての成績 433試合 238勝 175敗 20分 勝率.576 

2 現役時代はパッとしなかったが、監督としては一流

 鶴岡一人

 失礼だが、戦争を挟んだため、実働期間が8年間と短いだけで、選手としても華々しい成績を残した方だ。主に南海を中心に在籍。内外野いずれもこなしたユーティリティープレーヤーだった。監督としてはもっとも多い勝利数を挙げている名監督。グラウンドだけでなく私生活でも面倒見がよく「鶴岡親分」という異名をとり、選手に慕われた。主に南海の監督として23年間、優勝11回の優勝を誇る。

 選手としての成績 754試合 790安打 61本塁打 467打点 143盗塁 打率.295
 監督としての成績 2,994試合 1,773勝 1,140敗 81分 勝率.609

 西本幸雄(毎日・阪急・近鉄)

 選手時代を覚えている人は殆どいないほど大昔の出来事だ。現在のロッテの前身「毎日オリオンズ」の選手だった。30歳でプロ入りし、一番打者として活躍。1年目の1950年にリーグ優勝と日本一に輝いた。1952年の入団3年目に主将となり、35歳では兼任コーチ、この頃から指導者の道を歩んだ。1960年の大毎を皮切りに阪急に11年、近鉄でも8年間指揮を執った。通算8回のリーグ優勝を果たしながら日本一には一度もなれなかったことから「悲運の闘将」とも呼ばれた。血液型はO

 選手としての成績 491試合 276安打 6本塁打 99打点 44盗塁 打率.244
 監督としての成績 2,655試合 1,384勝 1,163敗 118分 勝率.543

 古葉竹識(広島・大洋)

 1958年に広島に入団し、1年目からショートとして活躍。長嶋と首位打者を争うほどの好打者で、2度盗塁王になったこともある三拍子揃った選手だった。しかし、現役生活が短く、あまり記憶には残らない選手だった。むしろ監督としての名声が高い。広島の監督として弱小お荷物球団だった広島を劇的に変身させ、赤ヘル旋風を巻き起こし、昭和50年にリーグ優勝を果たした。三村、水谷、山本浩二、衣笠、水沼、池谷、安仁屋などを擁した。以後、広島では11年間で4回優勝を成し遂げた。血液型はO

 選手としての成績 1,501試合 1,369安打 44本塁打 334打点 163盗塁 打率.252
 監督としての成績 1,801試合 873勝 791敗 137分 勝率.525

 上田利治(阪急・日本ハム)

 現役時代を知る人は少ないだろうが、広島の選手だった。1959年に入団したが肩を壊し、僅か3年で引退した。選手としてはまるで無名だったが、コーチや監督としては突出した成績を残した。1974年から阪急の監督に就任し、15年間指揮を執った。福本、加藤英、長池、マルカーノ、ウィリアムス、岡村、山田、足立、今井、山口などの強力な選手を揃え、3年連続日本一にも輝いた。昭和50年代、最強だったチーム。血液型はO

 選手としての成績 121試合 56安打 2本塁打 17打点 5盗塁 打率.218
 監督としての成績 2,567試合 1,322勝 1,136敗 109分 勝率.538

 近藤貞雄(中日)

 この方ほどいろいろなチームを転々とした人は少ない。現役時代は西鉄、巨人、中日と渡り歩き、一塁手だったが、なぜかプロ入り後投手に転向。投手としてはパッとしない成績で終わった。その後、中日、ロッテのコーチを歴任し、監督は中日、大洋、日ハムで通算9年間指揮を執った。昭和57年に中日をリーグ優勝に導いた。血液型はA型

 選手としての成績 222試合 55勝 71敗 274奪三振 防御率2.91
 監督としての成績 1,050試合 470勝 521敗 59分 勝率.474 
 
 仰木彬(近鉄・オリックス)

 1954年に大物ルーキーとして西鉄に入団したが、三原監督の勧めで二塁手に転向。中西太や豊田、稲尾と共に西鉄の黄金期を支えた。三原監督の下で指導者の基礎を学んだ。監督としては平成元年に近鉄を優勝に導き、オリックスでは強力布陣で連覇。野茂やイチローを育てた。近鉄在任中の5年間はすべてAクラス入りさせ、オリックスでも9年間指揮を執り、弱小傾向だったチームを立て直した。飾らない温厚な人柄は多くの選手に慕われた。血液型はA

 選手としての成績 1,328試合 800安打 70本塁打 326打点 116盗塁 打率.229
 監督としての成績 1,856試合 988勝 815敗 53分 勝率.548

3 現役時代は名選手だったが、監督としてはイマイチ

  鈴木啓示(近鉄)

 現役時代は弱小近鉄を支え、草魂をモットーに近鉄のエースとして300勝を挙げた。しかし、監督としてはO型特有の親分風を吹かせ、ワンマン振りが選手の顰蹙を買い、選手の意見を聞き入れずスパルタ式でやろうとしたため、選手から総スカンを喰い、結局鳴かず飛ばず。3年目のシーズン途中で最下位に低迷した責任を取って休養に入った(実質クビ)。血液型はO。

 選手としての成績 703試合 317勝 238敗 3,061奪三振 防御率 3.11 
 監督としての成績 390試合 183勝 196敗 11分 勝率.469

 高田繁(巨人・日本ハム・ヤクルト)

 彼も巨人のV9戦士として常勝軍団を支えた一人。トレードで張本の入団に伴い、レフトからサードにコンバート。思い切り引っ張ってレフトのファールを連発することで「高田ファール」などと揶揄された。俊足巧打の好プレーヤーだった。しかし、監督としてはパッとしなかった。選手を束ねることは明治大学の主将をしていた時に島岡監督の信望も厚かったことで折り紙つきだったが、プロ野球では甘くなく、成績は芳しくなかった。二度目の監督としてヤクルトに招聘されたが、シーズン途中で成績不振の責任を取り休養に入った。しかし皮肉なことに、跡を引き継いだ小川監督に替わった途端、快進撃が始まり、驚異的な勝率で最下位からAクラス入りを果たすこととなった。血液型はA型。

 選手としての成績 1,512試合 1,384安打 139本塁打 499打点 200盗塁 打率.273
 監督としての成績 854試合 385勝 433敗 36分 勝率.471

 堀内恒夫(巨人)

 選手としては巨人のエースナンバー18を背負い、V9の主力投手として大活躍した。新人で16勝を挙げたり、小天狗とまで呼ばれるビッグマウスだった。自ら3打席連続ホームランをかっ飛ばした日に合わせてノーヒットノーランを達成するなど、練習嫌いでありながらセンスは抜群だった。200勝を達成して引退した。その後、就任した巨人監督の中でも最低の成績しか残せなかった戦犯。原監督が3年で自ら身を引いた翌年、監督に就任。しかし、評論家としては一丁前の口をきくが、2年間で優勝は愚かBクラスに低迷。首位から25ゲーム差もつけられ大敗。シーズン終了後解任となり、ふたたび原監督の再登板という事態を招いた。日テレは未だに彼を解説者として採用している理由がわからない。巨人の歴代監督の中で優勝ゼロで通算勝敗で負け越しているのは彼だけ。血液型はO

 選手としての成績 560試合 203勝 139敗 1,865奪三振 防御率3.27
 監督としての成績 284試合 133勝 144敗 7分 勝率.480

 田尾安志(中日・西武・楽天)

 中日の俊足巧打の一番打者として畏れられた。しかし、不公平な選手分配による戦力ダウンの中、初代楽天監督に招聘されたものの、断トツの最下位で終わり、たった一年で解任となった。優勝チームから51.5ゲーム差という屈辱的な歴史的大敗を喫した。

 選手としての成績 1,683試合 1,560安打 149本塁打 574打点 打率.288  
 監督としての成績 136試合 38勝 97敗 1分 勝率.281

4 現役時代も監督としてもイマイチ

 これはどうしても批判的な記事になるため、個人の名誉のため、掲載を見送ります。

5 現役時代も監督としても普通の成績

 梨田昌孝(近鉄・日本ハム)

 1972年に近鉄に入団後、強肩を武器に活躍。有田修三と正捕手争いを演じる。両腕をくねらせる「こんにゃく打法」で勝負強い打撃を発揮。正捕手の座をつかみ、3年連続ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞も受賞した。また選手としても3度、優勝を経験した。一方で監督としても2001年に近鉄「いてまえ打線」を率いて劇的な優勝を遂げ、日本ハムでも2009年にリーグ優勝を達成。しかし、近鉄の選手時代から、未だに日本一になったことがない。

 選手としての成績 1,323試合 874安打 113本塁打 439打点 打率.254
 監督としての成績 1,263試合 645勝 594敗 24分 勝率.521 

 敢えて外したが、ONこと王貞治(巨人・福岡ダイエー・ソフトバンク)と長嶋茂雄(巨人)は、名監督ではないと思っている。現役選手時代は大記録を打ちたて、プロ野球人気を支えた功労者だが、監督としてはどうか。いずれも金に物を言わせ、各チームの主力を引っ張ってきておきながら、さほど戦績はよくない。優勝回数も就任年数の割には少ない。また、カネヤンこと金田正一や星野仙一、大沢親分こと大沢啓二も親分肌で退場回数が群を抜くなどファンとして見ていては面白い逸材だったが、勝負となると?がつく。

 では、核心に入るが、プロ野球ファンなら長年不思議に思っていることがあるだろう。現役時代は名球会に名を残すような名選手でありながら、なぜか監督に招聘されなかった人物というのがいるのだ。

 6 監督には不向きな方々

 張本 勲

 イチローに抜かれるまで日本人の最多安打記録を保持していた張本勲。彼は「安打製造機」と呼ばれたほど野球のバッティングセンスや理論は超一流だが、自分がやるのと人に教えるのは別物ということがこの人を見て歴然。口が悪く、人の立場を考えない横暴な性格が見える。かなり居丈高な印象は否めない。自分の意に反するものは徹底して排除するだろう。こんなエピソードがある。GSで長い列が出来ていた時に、張本氏がたまたま車でやってきた。そこでテレビ放送の本番に遅刻しそうになり、店員に向かって言った言葉が「俺を誰だと思ってるんだ!張本だぞ。俺を待たせるとはどういうことだ!」と怒り剣幕。まったくの自分本位な言い分。結局自意識過剰で傲慢なところが、これまで専任コーチや監督に招聘されなかった理由だろう。扱いが難しく、コーチやフロントともしょっちゅう喧嘩だろう。血液型はO型。

 鈴木啓示

 前述した通り。近鉄の生え抜きとして活躍し、317勝を挙げた名投手。しかし、あまりにも凄い記録の持ち主ということで、周りが萎縮。そして自分の野球理論こそが正しいと思い込んでおり、数々の選手と衝突した。ピッチングフォームを変えないということで入団を承諾したあの野茂投手に対し、高飛車にフォームの矯正を指示。これで反感を買った。古い練習法を強制しようとし、トレーニングの第一人者だった立花コーチを解雇。これが引き金となり、この裁定に反発したエース野茂と抑えの切り札だった吉井を独断で二軍に落とし、結果的にBクラス転落。次年度はメジャーへ移籍した野茂が抜けた穴は大きく、最下位に低迷。シーズン途中で成績不振を理由に休養に入った。自分のエゴを押し通そうとして失脚した悪い例の典型だろう。血液型はO。

 江川 卓

 入団時からごだごた続きで、やや不運で可哀想な面があるものの、選手の気持ちを理解できるかが疑問。ゴリ押しや選手の反発を買うような言動が心配ではある。しかし、一度やらせたら面白いかもしれない。一見親分肌を絵に描いたような風貌だが、データを駆使した緻密な一面もある。評論家としての浪人生活が長い分、手の込んだ興味深い野球を展開する可能性を秘めている。ただ、彼は親分肌でワンマン傾向の強いO型なので、選手の操縦法や観察力という点ではA型の比ではないだろう。

 他にも監督に向かなそうな人は、江本孟紀、江夏豊、門田博光、福本豊、谷沢健一、佐々木主浩、駒田徳広、村田兆治、川藤幸三、衣笠祥雄、石毛宏典、広沢和巳、清原和博、新庄剛志らがいる。彼らは選手時代に主力選手だっただけに我が強く、チームをまとめる力に欠けているように思えるからだ。また、現在、現役の選手で、将来監督をやりそうもない人、あるいはやらないほうが無難な人を挙げると、松井秀喜、中村紀洋、松坂大輔、石井一久、福留孝介ら。

 今後、私が名監督の器として期待したいのは、西武・ダイエー・巨人・横浜などで活躍した工藤公康と高校時代から騒がれ、巨人・パイレーツで一世を風靡した桑田真澄両投手だ。横浜は人選を誤り、人気取りで中畑を抜擢したが、こうなることは目に見えていた。また、中日で名球会に入った立浪和義も魅力を感じる。緻密で地に足をつけた野球をしてくれそうな気がする。また、今季で現役引退を表明した小久保裕紀選手も有望。やはり怪我などで苦労し、大記録を達成した人は、選手の気持ちも理解できそう。彼らは遅かれ早かれ、いずれ招聘されて然るべき監督として適任の逸材だ。

 さて、いかがだったでしょうか。述べてきたことは個人的な考察で、100%正しいわけではない。ただ、データは如実に真理を物語ると思う。冒頭で述べたように、決して名選手=名監督ではないことだけは確かなのだ。監督に必要な資質は、選手の力量を見極める確かな眼力と選手の状態をつぶさに観察し、適材適所として起用できるか、更にはバレーボール女子の眞鍋監督が身をもって手本を示して成功したように、対戦相手との相性を認識し、細かいデータをもとに適切な判断を行うことが大事なのだ。野球で当てはめれば、対戦相手によって投手を変えたり、右投手左投手で打順を組み替えたり、あるいは絶好調の選手を思い切って抜擢して起用するなど、緻密な作戦が必要。そして肝心なのはコーチングスタッフとの意思の疎通と連携。どこで投手を交代するのか、代打や代走のタイミング、サインなどの作戦も選手を納得して動かすためには必要。説得力のないサインは無意味だからだ。あまりにも正統派すぎると相手の術中にはまる危険がある。時に奇抜な攻めも必要。突破口が開けないと見たら、バスターやセフティーバントなど足を絡ませた撹乱戦法をとってみたり、外角ストレートをライト方向狙いでおっつけバッティングを続けてみたり、ファールで粘って相手を疲れさせ、四死球を選んで出塁したり、疲れてストライクを取りに来た甘いボールを叩いたり、作戦はよりどりみどりだ。特に外国人投手が相手の場合には、気が短い人が多いので、有効だと思う。

 結論に入るが、全体を見渡し、いくつもの引き出しを用意し、その場に応じた適切な判断を冷静に行えるかが大きなポイントである。名監督は努めて冷静な振る舞いをしているものだ。森、古葉、落合などはたとえ打たれてもカッカ来て大事な選手を罵倒したり、物に当たったり、殴るような真似はしなかった。それは高校野球とは違い、145試合もある長シーズン。チャンスは何度でもあるからだ。長い目でシーズンを通して働いてもらうためにも、実際に試合で勘を覚え、成長させていくのも監督の手腕なのだ。特に若い選手は経験が必要。相手投手や打者の特徴や時には審判の癖なども知っておく必要がある。特に策も持ち合わせず、閃や当てずっぽで大打者になった長嶋茂雄のような天才ならともかく、普通の選手なら、今述べたことは弁えていて当然だ。それらを知り尽くした上で、総括的にマネジメントし、プロデュースするのが監督である。中にはなりたくてなった監督も多いが、そうした戦術も野球哲学もなく、ただ名選手だったということだけで引き受け、監督になれた事にあぐらをかいているようでは一流の監督にはなれるわけがない。

 総括すれば、人の上に立つ仕事というのは、責任重大で、その人、あるいはそのチームの人生をも背負い込むことを意味する。さて、あなたはどれだけの覚悟があるだろうか・・・。

 最後に、毎年恒例となった「上司になってほしい有名人ランキング」と、次年度の私の予想を紹介して結びとしたい。

 <2012年 理想の上司・監督(男性)ランキング>

 1位 池上彰   A型         6位 堤真一   AB型
 2位 阿部寛   A型    7位 長谷部誠   O型
 3位 関根勤   A型    8位   松岡修造  AB型
 4位 所ジョージ O型    9位 渡辺謙    A型 
 5位 山口智充  O型   10位 タモリ     O型

 A型が多いのは、勤勉で誠実、責任感が強いから熱心な仕事ぶりを買われてのことだろう。ただし、テレビドラマなどで配役が会社の上司役だったりすると、そのイメージで選んだりする。そして注目すべきはB型がゼロという結果。これは一般的に自己中でマイペースな印象を持たれやすいことから、B型の人が上司だと、いい様に使われて捨てられたり、振り回されるのがオチだと思っている人が予想以上に多いからだろう。どうしてもB型の代表格である明石家さんまのイメージがつきまとうようだ。傍目には面白いが、現実的にいざあの人が上司だと周囲は迷惑するのが見え透いているようだ。

 <私が思う理想の上司・監督人ランキング>

 1位 佐々木則夫     6位 岡田武史
 2位 眞鍋政義       7位 小出義雄 
 3位 落合博満       8位 本田宗一郎 
 4位 原辰徳        9位 小泉純一郎
 5位 松下幸之助    10位 八田與一・杉田秀夫

 10位のふたりは同点。八田さんは台湾にダムを建設し、杉田さんは瀬戸大橋の建設で一身を投げ打って完成まで導いた真のリーダー。政治家たちに爪の垢を煎じて飲ませたいような日本社会や経済界、スポーツ界を支えてきた功績のある人ばかりである。

 記事作成:8月16日(木)

2012年9月 7日 (金)

花の84年組を襲う悲劇

 アイドル全盛だった1980年代。その中でもバブル景気に湧いていた1984年にデビューしたアイドルたちは「花の84年組」と呼ばれるほどアイドルの当たり年と呼ばれた。しかし、そのアイドルたちが次々と自ら命を絶ったり、若くして病気で亡くなるなど不可解な死を遂げている現実をご存知だろうか。ファンだった方々には申し訳ないが、今日はそういう話題をお伝えしたい。ただし、今回の記事は興味半分やファンの方の心情を逆なでするものではなく、「この時代に彼ら彼女たちのような歌手や俳優が存在し、確かな足跡を刻んだことを後世に残しておきたい」という意図から、敢えて取り上げるものであることを予めお断りしておきたい。

 まず、その2年前にあたる1982年デビューの芸能人もそうそうたるメンバーで、「花の82年組」と呼ばれた。山口百恵引退後、松田聖子が台頭し、アイドル全盛時代を予感させたが、それに続くように中森明菜、小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美、早見優などが登場。それはアイドル豊作の年だった。更に1984年にデビューした顔ぶれもまた凄かった。まずは代表的な芸能人を順不同で紹介したい。

 辻沢杏子、岡田有希子、仙道敦子(緒形直人夫人)、菊池桃子、倉沢淳美、渡辺佳子、渡辺典子、宇沙美ゆかり、荻野目洋子、セイントフォー、長山洋子、少女隊、麻生祐未、沢口靖子、安田成美、工藤夕貴、おかわりシスターズ、松本友里、岡本舞子、戸川京子、神野美伽、黒沢ひろみ、長谷川真弓などがいる。詳しくは下をクリック

http://fujiyama.press.ne.jp/84debut.htm

 しかし、不思議なことに、この1984年にデビューした芸能人には悲劇が相次いで起きた。まず、すでに亡くなってしまった方を挙げると・・・

 <自ら命を絶ってしまった方々>

 1.岡田有希子

  所属事務所のビルの窓から投身自殺を図った。享年18歳。当時、今は亡き男優に失恋したことが原因と報じられたが、真相は不明。血液型はO

 2.可愛かずみ

 俺たちひょうきん族の「ひょうきんベストテン」で中森明菜の真似をして人気に火が付いた。その後、女優として活躍。「季節はずれの海岸物語の」徳子役を熱演した。当時交際があったとされる元ヤクルト投手の自宅マンションから飛び降り自殺を図った。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=INp7rcA3Slg

 彼女は私と同い年だったので、この知らせを聞いたときのショックは大きかった。

 3.戸川京子

 2002年7月18日、都内の自宅マンションで首を吊っているところを事務所スタッフによって発見される。37歳没。幼いころから喘息の持病を抱えており、病気を苦に命を絶ったと言われている。また、晩年は鬱病を抱えており、友人からの電話に出ないことも多かったと言う。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=gDElR2KvL-8

http://www.youtube.com/watch?v=soDS3iDxFiA

 4.松本友里

 1984年に「過剰にオンリーユー」でレコードデビュー。アイドル時代を経て女優に。時代劇の町娘役が多かった。松平健と結婚し、男児をもうけた。しかし最愛の母が他界するとうつ病となり、介護疲れも重なり、2010年11月に自宅で首吊り自殺した。享年42歳だった。自殺ニュースが流れた時、夫の松平健は舞台公演中だったが、どこか予想し、覚悟していたかのような、まるで他人事の応対に不自然さを感じたのは私だけではなかっただろう。血液型はA

 自殺する人の血液型はA型が圧倒的に多い。これはストレスを溜めやすい反面、プレッシャーに弱く、悲観的に考え、あれこれ不安材料をかき集め、取り越し苦労をしたり思いつめてしまう性格が災いしている。落ち込むと立ち直りに時間がかかるのだ。それにプライドが人一倍高いため、悩んでいても人に弱音を吐けない性格というのがある。84年組ではないが、自殺した芸能人は沖田浩之、遠藤康子、伊丹十三、井上大輔、堀口綾子、清水由貴子、イ・ウンジュ、上原美優などもそうだ。また、自殺未遂をしたことがある中森明菜や田畑智子もA型。いずれも繊細で精神的に脆い方々だ。かつての内藤やす子、研ナオコ、美川憲一、今年のASUKAもそうだが、現実逃避の手段として、薬物に手を染める方がA型に多い。

 <病気で亡くなった方々>

 1.本田美奈子

 彼女は公式には1985年デビューとされているが、オーディションに合格したのが前年のため、ここでは84年組として取り上げます。当時は過激なへそだしファッションと踊りでファンを魅了し、ミュージカルにも出演するなど幅広く活動していた。しかし、2005年11月に急性骨髄性白血病によって38歳という若さでこの世を去った。血液型はO

http://www.youtube.com/watch?v=XKCaVpwAnEg&feature=relmfu

  2.堀江しのぶ

  彼女は正確には1983年デビューとなっているが、1984年にTBS「さよならを教えて」という番組にテレビ初出演をしている。1988年9月13日、スキルス性胃癌のため23歳の若さで死去。血液型はA

 3 中川勝彦

 ご存知中川翔子のお父さんだ。当時は「白虎隊」の沖田総司役など美少年的な二枚目俳優としても、ビジュアル系のロック歌手としても活躍していた。1994年に急性骨髄性白血病で32歳で亡くなった。血液型はA

http://www.youtube.com/watch?v=tYEFEjK1jCQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=r1cG5MnigII&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=sYoQjmUBvHU&feature=fvwrel

 他にも、84年組ではないが、彼らと同世代で、83年にデビューしたアイドル歌手「菊地陽子」さんもまた、白血病で亡くなられた。
 また、亡くなられてはいないが、「わらべ」の一員で、アイドル歌手だった「倉沢淳美」は、リサイタル中に暴漢に襲われ、ナイフで切りつけられて手首を裂傷するという悲劇に見舞われた。

 1980年代のアイドルブームは、ある意味豊かさの象徴だった。「日本人一億総タレント時代」などと揶揄された時代でもあった。しかし一方、陰の部分では、悲劇的な最期を遂げている方々も大勢いるという現実。芸能界の縮図をみているような気がした。時代の潮流に乗り、爆発的なヒットを飛ばす売れっ子もいれば、B級アイドルとして短命で終わってしまった例も決して少なくない。本日掲載した方々は、前者に入る名の知れた芸能人であっただけに、自ら命を絶つ行為はファンの悲しみを誘い、社会的な影響も大きかった。

 結びにあたって、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 記事作成:8月15日(水)

2012年9月 6日 (木)

私が好きだったCM38

 <三井のリハウス>

 このCMはもう14代目もの女優を発掘しては有名にした。とかくマイホームは夢の城。誰もが憧れる存在。そんな膨らむ夢を買う代物にイメージアップにつながるのは美少女の起用だろう。彼女たちはリハウスガールとも呼ばれる。このシリーズは新進気鋭の若手女優にスポットを当てている。大好きなCMのひとつだ。1987年の初代、宮沢りえから2011年の山本舞香までの出演者は以下の通り。

 初代 宮沢りえ       8代  池脇千鶴
 2代  森沢和美       9代   義煎恵理
 3代  茅野佐智恵    10代  蒼井 優
 4代  坂井真紀      11代   夏 帆
 5代  一色紗英      12代   山下リオ
 6代  藤谷文子      13代  川口春奈
 7代  建みさと      14代  山本舞香

 歴代リハウスガールのCM集

 宮沢りえ

 ご存知初代リハウスガール。これで人気に火が付いた。清楚なお嬢様のイメージ。白鳥麗子はここから生まれた。

 宮崎あおい

 9代目リハウスガール義煎恵理の姉役で出演

 蒼井優

http://www.youtube.com/watch?v=xa0Rb-Ax-rU

 まだ10代半ばの彼女はどことなく同じA型の潮田玲子に似ている。

 夏帆

http://www.youtube.com/watch?v=OmL8ycPeqfs

http://www.youtube.com/watch?v=e1fZTD5JNs8

http://www.youtube.com/watch?v=uKXl2vwBNYs

http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=QNxFykOtDSY&NR=1

 川口春奈

 

 記事作成:8月10日(金)

2012年9月 4日 (火)

「グレート」と布引高原周遊記

 本日9月4日(火)は特別な一日となったので、久しぶりに「今日の出来事」をお送りします。なお17時半まで掲載した「秋の歌ランキング」は明日再び公開したいと思います。

 そもそも今日は振替休暇。7月下旬の会津出張の分を代休という形で消化。しかし家内には内緒。従ってこの日の行動を悟られないよう、隠密の動きをした。実は夏からずっと行きたくて行けなかった場所があったのだ。それは布引高原の風力発電の風車を見たいのと、鏡石のガンダムもどきの「グレート」という手作り巨大模型があるのでどちらもこの日に行きたかったのだった。当初の計画では、この2つに白河の「アウシュビッツ記念館」が組み込まれていたのだが。

 6時 5分 いつも通り、何食わぬ顔で起床。朝食&PC作業の後、うまくタイミングを見計
        らって7時43分に自宅を発った。以下時系列で掲載。

 7時43分 自宅発。小学生の集団登校にモロ引っかかる。R4バイパスに入る。しかし、
        針生のオーバーパスで大渋滞にハマる。後ろがへこんだ白のステップワゴン
        のナンバー「2115」が二度も進路妨害。腹立つ。右折し、柴宮回りでカルチ
        ャー方面へ。右折し、保育園の駐車場に停車し、目的のひとつの鷲峰苑の
        でかい鯉のディスプレーを写真に収める。Uターンし、近くでも撮影し、横から
        のアングルも。迂回し、カルチャー前の通りへ。

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 8時 8分 郡山南ICから高速へ。
 8時16分 ループコイルを90km/hで回避。鏡石PAのスマートETCで降りるが、手前まで
        工事で進入路塞ぐ。
 8時17分 鏡石PA(250円)国道4号線へ左折。工事でシケイン状態の不時沼交差点
        の先の左側に憧れだった「グレート」を発見。とっさに隣の「みどりラーメン」
        の駐車エリアに駆け込んだ。この時、エンジンかけっぱなしが失敗だった。

P9042466 P9042473

 8時25分 「ラーメンみどり」の「グレート」の見物開始。写真を撮らせて貰うのに、準備
        中の女将さんに声を掛け、写真撮影の許可を得た。すると奥でTVを見てい
        たご主人まで出てきてくれた。「サタふく」や「YouTube」に登場したあのご主
        人だった。
        それからが自分でも予想していなかったくらい話が長くなった。自分としては
        15分程度でお暇するつもりが、話し好きのご主人が逐一説明してくれた。大
        感激。「グレート」は立つと9m程度になるという。作るきっかけは、家でゴロゴ
        ロしていても体に悪いからだそうだ。特別「ガンダム」が好きだったわけでは 
        ないらしい。足元から作り始め、隣の看板屋の廃物をもらったり、ホームセン
        ターで材料を調達し、コツコツ作り始め、なんと3年程度で作ってしまったとの
        こと。ラーメン屋の主人なのに、これだけ精巧に制作し驚きだ。昔大工をして
        いたわけではないらしい。ご主人自身は天栄村で9人兄弟の末っ子で、ほか
        は皆、公務員や教員などお堅い仕事に就いているらしい。

        すると、左の腕の部分が振動で外れてしまっていた。店主は修理は面倒だと
        思わず、「直すことも、何かを追加することも楽しいんだ」と言う。
        なぜか私を気に入ってくれ、今、製作途中の「マザーグレート」の脚の部分
        や、キャスター内蔵の階段部分を見せてくれた。更には、好きなだけ写真を
        撮って行って良いと言われた。勝手に車を止め、黙って写真だけ撮っていく
        輩が多いらしく、私のようにきちんと礼を尽くした人には親切に教えてくれる
        そうだ。
        しかも、片膝状態でも5m(2階の屋根と同じ高さ)ある「グレート像」に登らせ
        てくれると言う。サタふくの藺草アナも上った頭の部分まで案内してくれた。震
        災の時、震度6強にもビクともしなかったことが自慢だそうだ。登る時に多少
        揺れたが、作りは頑丈で、内部も細かい工夫がなされていた。これだけのも
        のをたったひとりで作ったのだから凄いとしか言えない。ロボット像のやや狭
        い内部を階段で登って、てっぺん部分まで上った。目の前がすぐ国道で、行
        き交うトラックの運ちゃんなどが信号で止まるたびに見て、注目度は抜群。
        下の右の写真は、最も高い頭頂部を開けて、外の国道を見下ろして撮影。

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「グレート」の製作者の「ラーメンみどり」の店主と最上の頭頂部からの眺望

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この迫力はただものではない。国道が目の前なので注目度は半端ない!

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壁中に所狭しと貼られたテレビ取材時の写真。FTV若槻麻美アナのメッセージまで!

 「サタふく」の映像はコチラ

        続いて店内で話をした。あちこちに取材を受けた時の写真が貼ってあった。
        県内のTV局は全部、さらにラジオ福島やフジ、東日本放送、テレビ東京など
        からも撮影依頼があった。FCTの徳光アナは、お忍びで子供を連れてやって
        きたそうだ。また、マザーグレート以外にも、甲冑で等身大の人が入って動く
        ことのできる文字通りモビルスーツ5体の制作を考えていると明かしてく
        れた。1時間話しをしてからエンジンかけっぱなしだと気づき、慌てて切った。
        その時の私の身のこなしで職業を女将さんに当てられてしまった。そこで自
        分の素性もすべて明かした。ラーメンを食べたかったが、11時からでまだ営
        業していないので無いと言われた、ご主人曰く、商売よりも、人助けやこうし
        ていろんな人と話をするのが好きで店を開いているという。見た目は名古屋
        章さんに似て、一見、怖そうだが、すごく親切にしてくれた。女将さんは昼間
        のグレートの写真だけでなく、夜にライトアップさせた時の写真までくださっ
        た。そしてコーヒーと麦茶までご馳走してくれた。気づくと1時間半。

        話はこれだけでは終わらなかった。ここから1時間、ご主人が趣味でやってい
        る生年月日の占いから私のラッキーナンバーや手相を占ってくれた。そして
        あまり詳しくは言えないが、運気の上がる方法を教えてくれたり、私のこれま
        での人生をズバリ当てられた。私は信心深いほうではないのだが、何か不思
        議だが、今日は目に見えない力でここに呼ばれていた気がする。そして私の
        彫りの深い手相にびっくりしていた。ただし運命線が薄いので、これが出れ
        ば、劇的に良いことが起こるだろうと言われた。ただし、過去の恋愛も当てら
        れ、しかも50歳前後で女難の相があるという。不倫して女に掻き回される恐
        れが・・。そういえば浮ついた気持ちがあったかも。そしてここを訪れ、ご主人
        に見てもらった人は宝くじが当たったり、出世したり、運気が良くなったという
        報告が殺到しているという。しかも1億円という高額宝くじも・・・。そこで私の
        手相を見てもらい、豊臣秀吉と松下幸之助の手相に習って金のペンで書き
        足して頂いた。これを寝る前に書いて、朝起きて顔を洗い、仕事に出かけ
        る時には消えていても、これを続ければ、必ず運気が上がるという。手相鑑
        定は無料だが、もし運気が上がって1億円当たったら、100分の1の100万
        円を返すのが鑑定料の代わりだそうだ。つまりは出世払いと一緒。もしマジ
        で当たれば、お礼としてそれくらい渡すのは当たり前だろう。金の水性ペンを
        105円で買って、これから励行してみることにした。ご主人も仕込みを忘れ
        るほど夢中になって話をしてくれた。この時点で時計の針は10時50分を過
        ぎていた。今日の予定が大幅に狂ったが、こんな出会いはめったにない。今
        日は巡りあうべくしてここに導かれた気がした。
        2時間半近くも話込んだのだった。丁重にお礼を述べ、さらに短冊にメッセー
        ジを残して後にした。店の入口には御影石のドラえもんがいて、店内も開運
        の招き猫など縁起物が数多くあった。

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10時53分 ラーメンみどり発。不時沼交差点から右折。続いて「布引高原」へと向かう。
        まずは長沼町を目指し、西へ。鏡石PAが下に見える高架橋を渡る、すると
        見覚えのある風景が・・・。平成元年にバイクで来た、知り合いの家が田んぼ
        を挟んで奥に見えた。一番大きい家だからすぐにわかった。そこは岩渕とい
        う地名で、釈迦堂川の橋の袂に車を寄せて写真。R118へ。
11時 9分 長沼中前。
11時16分 藤沼湖まで1.5kmの地点で合掌。先の震災で堤防が決壊し、多くの住民が
        犠牲になった場所だからだ。R294に入り、山間へ。勢至堂峠だ。狭い箇所
        は一箇所のみ。渓流釣りをしていた。軽のワゴンの後ろをのんびり50~    
        60km/h程度で走行した。気温表示は25℃だった。

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11時24分 トンネル。抜けた途端パラパラ雨。
11時32分 三代を左折。ここから布引高原まで15kの看板。湖南中の前を通り、トンネ
        ルをくぐる。

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11時36分 湖南の町中へ。
11時41分 町外れでここから12kの看板から左折。なんと目の前に大型トラックも入って
        いった。ここからは一本道。OHNOと後方に描かれた大野運輸の大型だ。遥
        か前方の山の上に多数の風車が見えた。あの山の頂上を目指す。写真を
        撮っている間、白のストリームに抜かされた。そしてそこから急勾配の九十
        九折をトラックを先頭に20km/hの超のろのろで坂を上がっていく。4台並ん
        だ私は3台目。道幅が狭く、ブラインドコーナーだらけで、抜けず。待避所が
        途中にいくつもあったのに、大野運輸は絶対に譲らなかった。イライラしなが
        ら登る。工事で片側通行が2箇所。中腹より上に赤津のカヅラという巨木が
        あった。やっとのことで風車が間近に見え出した。そして頂上の広い高原に
        12時2分到着。トラックのせいで入口から20分以上もかかった。

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12時 2分 駐車場着。30基以上の風車が迎えてくれた。これがまたバカでかい。あいに
        く雲が広がっていたが、ひまわり畑とこれから咲くコスモス畑に風車がよく映
        えて綺麗だった。写真撮りまくり。大型バスが2台。幼稚園の遠足らしく、石
        碑で集合写真を撮影し、昼食をとっていた。北側は眼下に猪苗代湖とその先
        に勇壮な磐梯山まで一望できた。風光明媚だ。一人ではもったいない景色。
        小屋のような臨時の店で、いろはすとじゃがバターを購入。250円と格安。
        車で食した。その後、一方通行の園内を車で一周した。あちこちにひまわり  
        などの花畑がとても綺麗。まだ夏の風景という印象だった。デートには最高
        だろう。ここまで75kmだった。上空に分厚い雲が垂れ込めていてひまわりと
        青空のコントラストは拝めず残念。

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12時26分 布引高原を出発した。帰りはフリー。途中、景色が良い場所や赤津のカズラ
        で停車し、運転席から写真。

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12時38分 右折してR294に復帰。帰りはここまで12分。9分もの差。ここからは来た道
        を戻る。左折し、三角屋根の温泉施設を通る。12時44分に湖南中の前へ。
        そして三代の交差点を直進。3台目を走行。三森経由で帰る。途中の退避
        帯で前の2台が駐車。フリー走行となった。カーMDで80年代のニューミュー
        ジックをかけて歌いまくり。

12時54分 三森トンネル。旧道の湖南側の出口を撮影し忘れた。郡山側の旧道の入口
        は路肩に停車し撮影。草木が生い茂り、無残な光景だった。さらに三森大橋
        と最近できた多田野トンネルを潜り、2箇所あるタイトコーナーで昔の旧道を
        見かけ、狭い道に停車し、撮影。嬉しいことに太郎茶屋はまだ建物が残って
        いた。峠を降りて、後方から黒のキューブが迫ってきたのでスピードアップし
        て逃げた。すると大槻公園入口で、再びショッキングな出来事が・・・。ドライ
        ブレコーダーの吸盤が本体から外れてしまった。しかもよく見ると熱で接続部
        分のプラが溶けてしまっている・・・。また通販で注文?

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13時10分 静町のカインズホーム前。その後左折してバイパスへ。

13時17分 富田庭球場近くのかかりつけの医院へ。もちろん休憩の時間帯。午後の診
        察を受けるため、診察券だけを入れる。

13時19分 帰宅 本日の走行距離は117.9kmだった。すぐに瞬間接着剤で破損部を
        修復。どこまで持つかは微妙。

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 その後、PCで今日の一部始終を打つのにえらく時間がかかった。13時半から開始し、1時間半もかかった。でも今日はいろんな面で、動いて良かった。グレートでは思わぬ出会いがあり、布引高原の景色も予想以上だった。

 <費用>

 高速代    250円
 ペン代    105円
 布引昼食代 250円    合計 605円

         

  

 

 
 

2012年9月 1日 (土)

想い出の番組「オールナイトフジ」

 それは「サタデーナイトは・・・オールナイトフジ!」のタイトルコールで始まった、1980年代に空前の女子大生ブームを巻き起こした毎週土曜日深夜のお楽しみ。お色気ムンムン、現役女子大生の花園、夜通しお祭り騒ぎの終了未定の番組だった。番組から誕生した素人女子大生のユニットは「おかわりシスターズ」、「おあずけシスターズ」、「おねだりシスターズ」「よまわりシスターズ」などで、彼女たちは「オールナイターズ」だった。天才、秋元康が仕掛け人となり、日比谷野音のコンサートを皮切りに、PVやレコーデビューを果たした。これは後のおニャン子クラブの女子高生ブームの手法と同じだった。多人数ユニットの先祖と言っても良いだろう。今回は、私の大学生時代に甘酸っぱい想い出をくれた彼女たちを取り上げ、懐かしんでみたい。

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↑実家に捨てずに保管されていたSPレコード

<オールナイトフジの概要>

 1983年4月2日に放送開始。初代司会は秋本奈緒美と鳥越マリ。主な出演者には、デビューしたばかりのとんねるずや片岡鶴太郎をはじめ、レコードも出した「おかわりシスターズ」(山崎美貴、松尾羽純、深谷智子の女子大生トリオ)、のちにアナウンサーになった松山香織や佐野美和(ミス日本、元八王子市市議会議員)らがいる。出演している女子大生たちは“オールナイターズ”と称され、タイトルバックでレオタード姿で踊ったり、またアダルトビデオ紹介コーナーで恥ずかしそうに作品を紹介したりした。生放送であり、当時、新宿区河田町にあったフジテレビ前には、オールナイターズ目当てに多くの男が集まったという。
 放送開始当初はアダルトビデオ紹介コーナーや性風俗店探訪といった性風俗を扱ったコーナーがあったが、放送開始から一年半たった1984年の10月改編で他の民放キー局が同様の生番組を一斉にスタートさせた。1984年5月1日には火曜ワイドスペシャル枠で初の全国ネットSPが放送された。
1985年初頭にはこれらの深夜番組の過激な内容が衆議院でも問題として取り上げられ、当時の郵政省(現・総務省)からクレームが付き放送内容を変更せざるを得なくなった。各局の裏番組が続々打ち切られる中、『オールナイトフジ』は1985年3月30日放送でいったん終了し、翌週から『オールナイトフジII(実際の番組タイトルはオールナイトフジのまま)』として性風俗の話題を入れない純粋なバラエティとして再スタート。最終的にこの番組は1991年3月30日、第404回を迎えたところで終了した。
  全404回の平均視聴率は、3.5%。最高視聴率は、1989年3月25日の7.2%と深夜帯にしては異例の高視聴率を誇った。

Allnighters Okawari

では、番組から誕生した人気No.1だった「おかわりシスターズ」のPVをどうぞ!

① 恋をアンコール

② 心はシーズンオフ

http://www.youtube.com/watch?v=XtWj0PCkwXI&feature=relmfu

③ 素顔にキスして

http://www.youtube.com/watch?v=53zO1UXbLXQ

④ 虹色のカノン

伝説の「みんな~ダイスキ~!」の名言を生んだ日比谷野音コンサートの映像はコチラ

 私が好きだった夢見る少女「松尾羽純」の映像はコチラ

 オープニングテーマに使われた「おねだりシスターズ」の「女子大生にさせといて」はコチラ

 この中では明治大学の松山香織が好きだった・・・・。それ以外にもメンバーは慶應義塾大学2名とか、凄すぎる布陣だった。

<オールナイトフジの名物コーナーと事件簿>

 「スタジオミニコンサート」

「ちびっこギャングのコント」・・・映像が残されておりません。

 「真夜中のエアロビクス」

http://www.youtube.com/watch?v=n4Lu92fmc7Y&feature=related

 とんねるずのカメラ壊し事件&照明よじのぼり事件

http://www.youtube.com/watch?v=8d8LBcu55Vo

http://www.youtube.com/watch?v=tog7B_5n_2Q&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=beFWtSdBeAU

 オールナイターズ花盛り

http://www.youtube.com/watch?v=2GVTNpsXUFw 

 松本明子、オールナイトニッポンとのコラボで放送禁止用語絶叫事件

http://www.youtube.com/watch?v=ATk6bybDZvo&feature=related

 「オールナイトフジ・スペシャルコンサート」

http://www.youtube.com/watch?v=7PCswJMTuJQ

 「名場面集」

 感動的なエンディングはコチラ

 *この映像をリンクした途端、ユーザー削除されました。ごめんなさい。

 この番組について私見を言えば、残念ながら最盛期だった1984年頃に私は北海道に住んでいたため、LIVEでは見ることは叶わなかった。しかし、実の兄がこの頃東京に住んでいて、首都圏では飛ぶ鳥を落とす大ブームだと聞かされていたことで噂に知っていた程度だった。その兄貴が「おかわりシスターズ」や「オールナイターズ」のレコードまで購入し、更には兄貴が所有していたソニーのベータマックスで録画したその番組を見せてもらったのだった。私は生来そういう人気テレビ番組には縁がない方だった。ずっと好きで見ていて、いつか大学生になったら出てみたかった番組に「プロポーズ大作戦」の「フィーリングカップル5vs5」があった。しかし、いざ自分が大学生になった途端、その番組は放送終了となった。1986年4月に晴れて東京キャンパスに移り、三軒茶屋に住んだ途端、女子大生ブームが終焉し、メンバーは大幅入れ替えとなった。山崎美貴、松尾羽純、深谷智子のおかわりシスターズは卒業し、番組を降板してしまった。ブームに乗れないまま、代わって登場した「夕やけニャンニャン」に熱を上げていた。

 1990年代に再び新メンバーによる復刻版が制作されたが、あまり関心がなくなってしまった。ちびっこギャングのコントとバブルガムブラザーズの「WON'T BE LONG」がヒットするきっかけとなったくらいしか記憶にない。最近のバラエティー番組は、AKBと嵐が主流で、お色気番組や深夜にバカ騒ぎするようなものは少なくなった。それはそれでいいのだが、何か盛り上がりに欠ける気がしてしまう。常識も見境もない大騒ぎするだけの深夜番組は考えものだが、若者の発散の場があってもしかるべきだと思うのは私だけだろうか。今、バブルの遺産と化してしまったことにいささか一抹の寂しさを拭い去れないでいる。

 記事作成:8月9日(木)

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