福島県に纏わる悲話
2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災で、我が福島県は予想だにしない原発事故に見舞われ、放射線被害に晒された。それ以降、福島県民というだけで、行く先々で煙たがれたり、非難に直面する事態に陥った。完全被害者である福島県民にとって、こうした仕打ちに遭うだけでも悲話なのだが、ご当地には古くから伝わる事件や事故、歴史的事実、言い伝えなどには、悲しすぎる寓話があまりにも多すぎるように思える。今日はそうした福島県絡みの悲しい物語をお送りしたい。
1 安達原の鬼婆伝説
福島県二本松市にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。安達ヶ原に 棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」として伝え られている。悲話というのは下記のような伝説による。
その昔、岩手という女性が京の都の公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけないほどだった。姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫は薬を買いに出かけた。絶好の機会である。
岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。
あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。
http://www.bashouan.com/poAdachigahara.htm
どちらかといえば、悲話というより怖い話の部類に入るかもしれない。ともすればミステリースポットになりそうな要素を多分に含んでいる。この話を辿ると、みなさんは「三枚のお札」という昔話を思い浮かべたのではないか。山里離れた一軒農家に老婆がひとりで住み、旅人に一夜の宿を貸すが、その老婆が何を隠そう、訪れた旅人を殺して人肉を貪り食う恐ろしい山姥であった。やがてある日、この一軒家に小坊主がやって来て、一晩泊めてもらうことになった。しかし、夜中に包丁を研ぐ、鬼の形相と化した山姥の正体を見た小坊主は、便所に行くと山姥をはぐらかし、隙を見て逃げ出し、寺の和尚さんに助けを求めるというストーリー。途中、追いかけてきた山姥を、和尚さんから授かった願いが叶うとい三枚のお札を使って、山や川を出して時間を稼ぎ、命からがらお寺へ逃げ帰ってきたという話だ。もしかすると「三枚のお札」は、この安達原の鬼婆伝説がモデルなのではないか?実は、幼い頃、私の家に薄っぺらなレコード(ソノシート)があって、この話が吹き込まれていた。何か奇妙な因縁を感じざるを得ない。
http://www.youtube.com/watch?v=aa_pdIWWaFo
ところで、私は母親の両親が二本松の榎戸という地名に住んでいたため、幼い頃から二本松は慣れ親しんだ場所だった。秋になると、毎年のように何度も提灯祭りや菊人形を見に行った。郡山から20km以上離れた祖父母が暮らす母親の実家に自転車で往復して遊びに行ったこともあった。そしてこの鬼婆伝説が残る黒塚に行き、奇妙な笠の形をした巨岩を訪ねたことがあった。今でこそふるさと村として整備されたが、昔は何もない道端に、鬼婆が潜んでいたとされるこの岩と、立札があっただけで、その隣には廃墟と化した古いアパートがあったと記憶している。今はなぜか鬼畜と思えるような連続殺戮の所業を働いたその鬼婆を「バッピーちゃん」という「ゆるキャラ化」してしまった。そうしたある意味、心霊じみた神聖な場所を観光客誘致のために、パロディ化してしまった二本松市の罪は極めて重いと個人的に考えている。心ならずも無念の死を遂げた被害者達の御霊を愚弄し、罵倒していることにほかならない。
2 二本松少年隊の悲劇
二本松少年隊とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に 出陣した12歳から17歳の少年兵部隊幕末に起きた戊辰の役で、薩長同盟を中心にした西軍が倒幕を目的に、幕府軍最後の砦の会津藩攻略に向け、怒涛の進軍を繰り広げていた。その悲劇のヒーローとして有名なのが白虎隊だが、白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊のそれは最年少隊士の年齢がわずか12歳だった。現在でいえば、まだ小学生でしかない彼らが生死を賭けた激戦である最前線で戦い、時には単独で雲霞のごとき大軍の中に斬り込み、壮絶な戦死を遂げたのだった。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub4nihonmatsu.htm
http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/data/nihonmatsujyou/shonentai.html
3 会津戊辰戦争の悲劇(母成峠・西郷一族集団自決・白虎隊自刃・中野竹子殉職)
2で挙げた会津戊辰戦争は、福島県の命運を握った重要な戦闘であったことは一目瞭然である。かの有名な新選組も旧幕府軍の残党として会津藩に加担し、死力を尽くして篭城戦までして徹底抗戦。しかし、最も険しい母成峠を西軍が攻め、守備が手薄だった会津藩は土方歳三らが奮戦するも、あえなく撤退し、天然の砦だった筈の山深い峠道を突破され、次いで十六橋も落ち、敵兵が城下へとなだれ込むこととなった。頼みの奥羽列藩同盟は破綻し、援軍は来らず、会津藩は孤立無援状態で連日連夜、敵の砲弾を浴び続け、ついに鶴ヶ城は落城した。大勢の犠牲者を出した会津の運命を左右したこの戊辰の役では、歴史に名を残す英霊たちの壮絶な最期があった。国家老だった西郷頼母は、白河口原の戦いにて敗走。これにより、鶴ヶ城の北側にあった西郷頼母邸では、母(58歳)、妻(34歳)、妹2人(26歳と23歳)、5人の娘の9人の他一族親類の 家族12人の総勢21人の集団自決があった。そんなことも露知らず、平成元年から2年までの一年間、私はこの自決の地の目と鼻の先の新築マンションに住んでいた。知らぬが仏とはこのことか。宮泉酒造の南隣りのあまり人目のつかない場所に趾地を示す石碑が残る。
そして、会津戊辰戦争で悲劇の舞台としてドラマ化されるほど英雄視される存在が「会津白虎隊」である。会津戦争に際して会津藩が組織した、厚顔無恥の16歳から17歳の武家 の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を偽り15歳で出陣した 者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。 会津藩では若松城を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。少年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。だが、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を、若松城が落城したものと誤認して悲観、その結果総勢20名が自刃を決行し、一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡したとされているが、事実は若松城が落城したと誤認して悲観したのではない。飯沼貞吉が生前に伝え残した史料によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも飯盛山で自刃を決行した。
中野竹子は薙刀の名手であった。会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える。官軍が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが被弾。首級を敵に与えることを潔しとせず、母の介錯により果てた。首級は農兵の手により法界寺に埋葬された。享年18だった。
会津藩の悲劇は、その武士道の成就を目指すところにあった。「ならぬものはならぬ」という尊い会津武士道の教え。初代松平家君主・保科正之公の定めた厳しき戒律である会津の「家訓15か条」。敵に捕まり辱めを受ける前に、潔く腹を斬る。あるいは自刃の道を全うするところにあった。
ところで私の体には、尊い会津人の血が流れている。祖父は磐梯町出身で、祖母は旧河東町の出。その厳しい教えを受けた。祖父母は既に他界したが、今でもその教えを忠実に守っている。
母成峠の攻防図と古戦場跡地
http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/0aizu/0byako/bonari/bonari00.htm
http://mo6380392.exblog.jp/18552924
4 特攻隊の訓練場だった矢吹飛行場
かつて福島県内に「特攻隊」の飛行場があったのをご存知だろうか。第二次世界大戦末期の敗色濃厚だった頃に、実際に特攻隊員を育成するために零戦の訓練をしていた国家戦略の重要拠点が、ここ福島県にあったのだ。ではその場所はどこか?驚くなかれ、矢吹町である。正式には「熊谷陸軍飛行学校矢吹分校」という。滑走路と呼ぶにはあまりにも貧相な佇まいだったようだ。
昭和初期、航空機に対する内外の関心が高まる中、矢吹ヶ原に草を刈って整地しただけの簡易的な飛行場が建設された。福島県で初の飛行場である。地元住民の勤労奉仕により滑走路が整備され、1932年から1934年にかけて、海軍機及び陸軍機が度々飛来するようになった。。1937年に日中戦争(支那事変)が勃発すると、正式に陸軍の所属となり、熊谷陸軍飛行学校矢吹分校として操縦要員の養成が開始された。太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発で、1943年頃から専ら特攻隊員の養成が行われるようになり、隊員はじめ軍人が多数来町、訓練を終えた隊員が多数戦場へ飛び立つようになった。志願した若き特攻隊員たちが、御国のためにと、必死で搭乗訓練に励んでいた場所だ。ここを晴れて巣立った若人たちは、鹿児島県の知覧基地や万世基地に配属され、片道の燃料しか積まず、敵艦めがけて捨て身の体当たりを果たし、その命を散らして行ったのである。そうした壮絶な爆死を遂げた10代の若き隊員たちの英霊や魂に思いを馳せるとき、感涙を禁じえないし、背筋をしゃんと伸ばして真摯に向き合わなければないような感覚になる。
http://rakuras.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-307c.html
5 国鉄の人員整理に絡んで発生した松川事件
1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。人為的な鉄道線路破壊が原因であった。事件発生後1か月して、当時19歳の元国鉄工手の自白調書(いわゆる赤間(あかま)自白)に基づき、捜査当局は国鉄労組福島支部員と東京芝浦電気(東芝)松川工場労組員の共同謀議に基づく犯行と断定、最初の逮捕者を含め国鉄側10人、東芝側10人、計20人を起訴した。その大半は共産党員であった。
裁判では、自白者も含め全被告が犯行を否認し、この自白の信憑(しんぴょう)性、取調べの際に拷問、強制があったか否かが最大の問題となった。一審の福島地裁は、1950年12月6日、死刑5人、無期懲役5人を含め全員有罪を宣告し、53年12月22日の二審仙台高裁判決も、3人を無罪としたほかは死刑を含む内容であった。しかし、上告審に至って、検察側が押収していた、被告らのアリバイを証明する「諏訪(すわ)メモ」の存在が明るみに出、検察の主張する共同謀議説が崩れた。このため最高裁は多数意見(7人、反対5人)をもって、仙台高裁差戻しを命じた。そして被告全員の無罪が確定した。
http://www.youtube.com/watch?v=yBfCw6uyIs4
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/saics/matukawa_jiken.html
http://shimoyamania.org/194908170000.html
6 ふるさとを思い、病床に伏した智恵子
二本松に纏わる悲話はこれで3度目。どうもこの地はいわくつきのスポットが数多く点在しているように思える。智恵子と言えば、高村光太郎の妻で「智恵子抄」にも登場する二本松出身の女性。有名な名言は、病床に伏した時に、東京の空を見上げて思わず口にした「東京には空がない」である。これは澄み渡る安達太良山が映える故郷二本松の美しい空に思いを馳せて彼女が切実に語ったものだ。Wikipedia掲載の智恵子の経歴を挙げたい。
1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市)の酒造業斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、資産家であった。
1903年、福島高等女学校(現・福島県立橘高等学校)を卒業。日本女子大学校に入学。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学んだ。1911年には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。
同年12月、柳八重の紹介で光太郎と出会い、1913年(27歳)一緒に上高地に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、1914年(28歳)に結婚(1933年8月23日入籍)。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていたが、1918年の父今朝吉の死、1929年長沼家の破産・一家離散など心労が多く、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、1931年8月(45歳)に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、統合失調症の最初の兆候が現れる。1932年7月15日(46歳)大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。1938年10月5日(52歳)、粟粒性肺結核のため死去。東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬される。
死の淵で、智恵子は故郷から270kmも離れた都会の真ん中で、いったい何を想い死んでいったのだろう。「ほんとうの空」を恋しく思い、果てたのだろうか。
http://www.nihonmatsu-kanko.jp/chiekosyo.html
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
7 白河にあるアウシュビッツ平和博物館
これも妙な話である。「アウシュビッツ」といえば真っ先に脳裏に浮かぶのが、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺、いわゆる「ホロコースト」である。手当たり次第にガス室に放り込み、老若男女を問わず、毒ガスで数十万人を死に至らしめた悪の巣窟であるはず。ドイツや現物のあるポーランドと何のゆかりもないこの場所に、なにゆえこのような施設を併設したのか理解できない。単なる客寄せならば、筆舌に尽くし難き憤りを覚える。しかも収容所を忠実に再現した施設まで拵えてしまった。どういう趣旨で白河の地にそんな愚直な発想で、歴史的にみても悪の権化のような忌々しい建造物をもたらしたのか。これで平和を祈念することが本当に可能だと思ってのことか。単に安い土地が余っていたからか。あまりにも短絡的すぎよう。これを建てることで平和教育を語れるとでも言うのか。地方再生策としてはあまりにも愚直で余計なところに金を浪費しすぎではないのか。腑に落ちない。
http://www.am-j.or.jp/index2.htm
これにかこつけて敢えて取り上げるが、福島県はもとより謎に満ち溢れた土地柄で、白河の北西部には人造湖の羽鳥湖というのがあって、その北側斜面を切り開いて作られた「英国村」(British Hills)なる建物群が築かれている。その一角だけはまるで別世界で、王朝貴族のような異国の建造物で占められている。何とも異様で不釣合いな光景に、訪れた人はまるで狐にでも抓まれたような幻覚に陥ることだろう。そこは英語を学ぶための学習&研修施設となっている。スタッフの多くがイギリス人で、そこでの研修中はオールイングリッシュで過ごさなければならないという制約がある。昔、「駅前留学」というのが流行したが、日本にいながらにして英国留学気分を味わえる希少な施設となっている。
興味のある方は右をクリック→ http://www.british-hills.co.jp/
8 湖に沈んだ村(旧檜原村・日中温泉)
夏はバス釣りと遊覧船観光、冬は一面氷の湖と化し、多くのワカサギ釣りアングラーで賑わう裏磐梯檜原湖。ここは昔、磐梯山の大噴火によって川が堰止められてできたカルデラ湖である。磐梯山の北側一帯は、旧檜原村と言って、肥沃な土地で稲作を始め、農業が盛んな土地であった。しかし、その村は、1888年7月15日に磐梯山の噴火の際には500人以上の死者がでたほか、現在の湖底の位置にあった桧原村が水没、地域社会が消滅した舞台でもある。今でも湖底には神社の鳥居や境内、昔の村の木造住宅が人知れず眠っているという。現在でも湖水位の変動により、昔の集落にあった神社の鳥居や墓石が顔を出す場所があることで知られる。かつては大勢の村人たちで賑わいを見せていた筈。人の生活が確かに存在した。また、檜原湖の西側には熱塩加納村(現在は町)がり、かつては日中線という鉄道が喜多方から連なり、この村を通っていた。しかし、昭和末期にダム建設が持ち上がり、この村の一部(日中温泉)がダム湖に沈むことになった。私はまだ注水する前の工事中の日中ダムを訪問したことがある。けたたましくブルドーザーが土をかき分け、砂埃を巻き上げながらダンプが忙しく往来していた光景を覚えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%A7%E5%8E%9F%E6%B9%96
http://metalwings05.fc2web.com/dam/07_fukushima/niccyuu/index.html
今回は10話限定でお送りしたが、他にも須賀川に15歳で自決した「三千代姫伝説悲話」というのがある。詳しくはコチラをクリック!
終わりに、今回の記事は、決して興味本位で記したものではない。福島県が謂れのない原発事故の放射線被害を受け、ともすれば散り散りになった避難先で人種差別に近いような扱いを受けている。「絆」とは名ばかりで、どこも引き受け手がない放射性廃棄物。昨年来、福島県は何かにつけ虐げられてばかりいる。
しかし、もとより福島県民は逆境に耐え忍び、辛抱強い県民性を有している。いずれ一陽来復を夢見て、この苦難を乗り越えて、捲土重来を果たす時機も巡って来よう。一蓮托生のような運命共同体だが、今後も団結して地方再生を実現せて行くことを切に願う。「戦わずして白旗を上げるは会津武士道に反する」逆賊行為である。いつの日か一泡吹かせるよう頑張っていきたいものである。
記事作成:10月17日(水)
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福島の観光で検索してたどり着きました。
アウシュビッツ平和祈念館の存在知りませんでした…。
福島県になぜアウシュビッツを再現しちゃったんでしょうか…!?
未だにやってるのも不思議ですね。
会津にいく際は歴史の重みを感じながら
観光したいと思います
ねいさん、初めまして。私のブログがお役に立てれば何よりです。私も意外な建造物が多いことには驚いています。アウシュビッツだけでなく、羽鳥湖には「英国村(ブリティッシュヒルズ)があったり、恐ろしい鬼婆伝説があったり、特攻隊の訓練基地があったり、かと思えば、郡山には古墳があったり、美里町には清水寺のミニチュア版があったり、UFOで町興しする奇妙なスポットがあったり、いろんな見方をすると面白いです。ぜひ時間があれば訪ねてみてください。(SUZU)
投稿: ねい | 2016年9月 9日 (金) 12時50分