2021年9月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

« 続・有名人似た者同士 | トップページ | 若くして亡くなった有名人~続編~ »

2012年11月22日 (木)

ドラフトを蹴った「巨人命」の選手たち

 今年のドラフトもまた波乱含みだった。ドラフト直前にメジャー挑戦を表明した大谷翔平投手を日本ハムが強行指名。この先のなりゆきが懸念される。昭和40年の現行制度導入以降、ドラフト会議では様々なドラマがあった。幼少の頃から好きだった球団に入れない葛藤と自分の将来をクジに委ねなければならない無慈悲な裁定。弱冠18歳の高校生たちが運命に翻弄されてきたのだ。そして多くの選手が涙を飲み、泣く泣く望まない球団に入団して行った。
 このドラフトという制度は、NPB側から言えば、プロ野球選手になりたいのであれば、「球界のルールに従いなさい」という一方的な規制だ。確かに球団経営や監督やコーチなどの首脳陣的立場からみれば、戦力の均衡とか特定球団への偏重がないように平等に有望選手を分配できる「ドラフト制度」は、公平かつ公正な制度に思える。更には、長年の選手会側の切なる主張が実り、欧米型のFA制度なるものが導入された。一定期間、プロ野球の発展や球団の成績向上に貢献した選手へのご褒美として、好きな球団に移籍できる権利を与えるもので、それまでは希望球団以外であっても下積みをしなさいという制度である。なるほど、プロ入り時点では希望球団でなくても、いずれ移籍が可能ならば、誰も不平を言えない効率的な制度であり、プロで実力を発揮したい、腕に覚えのある選手ならば、そこで実績を積めばいいという判断も出来る。経営者側と選手側のお互いが歩み寄って現行の制度を拵えたので、このルールはやはり順守すべきである。しかしながら、FA制度導入以前においては、まるで駄々っ子のように、希望球団以外は頑なに入団を拒んで来た選手たちがいた。それは、とりわけ超人気球団の巨人に多い現象だった。ではその罪多き該当者を見てみよう。

  江川 卓

 ドラフト制度導入後、指名拒否して浪人した元祖とも言える選手。ご存知、元祖「怪物」。彼ほど我が強くて頑なだった男はいない。巨人一筋に、三度も他球団の指名を断った。1973年、作新学院の際は、阪急から指名を受けたが拒否して大学進学を表明。慶應受験に失敗し、やむなく法政大学へ進学。東京六大学野球では、当時の最多勝記録と奪三振記録を塗り替えて、鳴り物入りで1977年の二度目のドラフトに望むも「クラウンライターライオンズ(現・西武)」から指名を受け、これもまた拒否。一年間渡米して野球留学し、浪人生活に入る。三度目はその一年後の1978年、ドラフト会議の一日前に帰国したが、巨人との密約で、「空白の一日」を利用して巨人と電撃契約を交わしたのだった。これが社会問題にまで発展し、江川は世間の非難を浴びた。コミッショナー裁定で、この契約が無効となった途端、巨人は翌日のドラフト会議をボイコット。結局江川は阪神が交渉権を獲得した。
 しかし、契約有効を譲らない球界の盟主だった巨人に業を煮やしたコミッショナーが仲介し、前代未聞の特例措置が取られた。それは阪神が希望した選手との1対1のトレードというものだった。阪神は、当時巨人のエースだった小林繁(故人)を要求。我が儘を通した江川の巨人入団劇はようやく幕を下ろしたのだった。野球の大物選手は、王・張本・落合・松井・松坂などO型に多いが、江川の場合、独自の判断基準と自分の趣向に固執するO型の典型的な行動だったと言える。
 一方、この横暴的で理不尽な最低に、努めて冷静で紳士的な態度をとった小林繁(A型)は、愚痴一つこぼさずに、長年愛着のあった巨人を去り、阪神へと移籍。翌年のシーズンで巨人戦負けなしの8連勝を含む22勝を上げて最多勝と沢村賞を獲得した。巨人戦にわざとローテーションを組み、巨人キラーとなって無言の雪辱を果たした。騒動の張本人の江川の一年目は、登板の度に野次などのバッシングを浴び続け、9勝10敗という散々な結果に終わった。

http://www.youtube.com/watch?v=mHE2Rckb0fM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=p-dxrtInTRA&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=vEBPo_UtLAM&NR=1&feature=endscreen

http://www.youtube.com/watch?v=8bNqxBqfmhE&feature=related

   岡本 光

 和歌山県立串本高等学校では、1978年の夏の甲子園和歌山県予選準決勝に進出するが、箕島高に敗退。同年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名を受けるが、入団を拒否。卒業後は、松下電器野球部で都市対抗野球大会などに出場し活躍。1981年のプロ野球ドラフト会議で5位で南海ホークスから2度目の指名を受けるが、再び拒否。翌1982年の同会議で読売ジャイアンツから2位指名を受け、入団した。
 鳴り物入りで入団した割りに、巨人在籍は僅か4年で、通算3勝2敗でまったくの期待外れで引退を余儀なくされた。

 元木大介

 1989年、当時、田淵監督だったダイエーから1位指名を受けたが、巨人への思いを立ち切れず、入団を固辞。高卒ながら1年間ハワイに野球留学のため浪人生活を送り、次年度のドラフトで巨人に1位指名を受けて入団を果たした。彼もまた巨人命を貫くO型。

 西山一宇

 高知高時代から豪速球ピッチャーとして有名で、1988年、ロッテオリオンズからドラフト5位で指名を受けるも拒否。「体力的にプロでやっていく自信がない。」とのことで、母校の大先輩である有藤道世監督率いるロッテの指名でも拒否の姿勢だった。卒業後NTT四国に入社し、山部太と2枚看板として活躍。1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に選出された。1992年のドラフト3位で巨人に入団。彼の場合はどうしても巨人に入りたくて入団拒否を貫いたわけではないが、結果として巨人に入団することとなった。やはり血液型はO型

 内海哲也 

 2000年にオリックスに1位指名されたものの、彼の祖父が巨人軍の野手だったこともあり、巨人以外は社会人に行くと表明。しかし、故仰木監督から誘いを受けると、態度を軟化させたが、敦賀気比のチームメートの捕手が巨人に5位で指名されたことで、再び拒否の姿勢を貫き、東京ガスへ進んだ。A型

 長野久義

 2006年に日本ハム、2008年に千葉ロッテの指名を拒否。社会人野球のホンダで実績を積み上げ、2009年に以前から希望していた巨人にドラフト1位で指名され入団。25歳でやっと自分の希望を叶えた。彼もまた自己顕示欲が強いO型。

 菅野智之

 昨年ドラフトで1位指名されるも、日本ハムへの入団を拒否して浪人した東海大・菅野智之投手。今年は巨人が1位指名。原監督が叔父ということもあり、他球団が指名を回避した格好。血液型はA。

 おわかりだろう。なぜか巨人命を貫くのはO型が断然多い。O型は長いものに巻かれろで力関係に敏感。勝ち馬に乗る性格がある。「巨人・大鵬・玉子焼き」と言われた時代から、巨人は球界の盟主であり、O型は圧倒的に巨人ファンが多いのだ。また、O型は自己顕示欲が強く、目的を達成するためならゴリ押しも辞さないし、手段を選ばずとことん頑張る神経の持ち主だからだ。A型で拒否した内海と菅野については血筋である。共に身内に巨人の選手や指導者がいて、心情的に踏襲入団したい気持ちは、責任感が強いA型ならではだろう。

 巨人以外でドラフトで指名を受けながら入団を拒否した選手たち

 木田 勇

 1978年のドラフト会議で、大洋、広島、阪急の3球団が1位指名。抽選の結果、広島が交渉権を獲得したがこれを拒否。なお、広島のドラフト1位指名を拒否した人物は木田のみである。翌年のドラフト会議でも再び3球団(巨人、日本ハム、大洋)の1位指名が重複したが、交渉権を得た日本ハムに入団した。入団交渉の際、条件として住宅(土地とも言われている)を要求したと伝えられたことも話題となった。1年目は22勝をあげて最多勝のタイトルを獲得したが、2年目以降は全く振るわなかった。通算11年で60勝71敗と負け越して引退。血液型はAB

 川口和久

 1977年にロッテの6位指名を拒否し、1980年に広島の1位指名で入団。左のエースとして活躍した。晩年は巨人に移籍した。血液型はO

 新谷 博

 1982年、名門佐賀商業の時にドラフトでヤクルトから2位指名を受けたが、早くから大学進学を表明していたため、意思は変わらず駒澤大学に進学した。東都大学リーグでは通算40試合に登板し、16勝6敗、防御率2.62、127奪三振の成績を残している。しかし、4年時に右膝の後十字靭帯を負傷し、プロからはお呼びがかからず、社会人野球の日本生命へ。1991年に出身地に近いダイエーや西武、中日、近鉄の4球団から獲得の打診があり、同年のドラフト会議で西武から2位指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ8,000万円、1,200万円(いずれも推定)と、1位指名の竹下潤を上回る高条件だった。血液型はB

 小池秀郎

 1990年にロッテの1位指名を拒否し、1992年に近鉄の1位指名で入団。「ドラフト前に西武、ヤクルト、巨人以外ならプロ拒否」と表明するも、野茂英雄と並ぶ8球団競合指名となり、話題となった。血液型はA

 福留孝介 

 1995年に近鉄の佐々木監督が1位指名のクジを引き当てた。しかしこれを拒否し、1998年に中日の1位指名で入団。ドラフト前に「希望球団の中日・巨人以外なら社会人」と意思表示していたこともあって断りを入れた。血液型B

 新垣 渚

 1998年、オリックス1位指名を拒否。これが原因でオリックスの専務が自殺する事件に発展。2002年にかねてから入団を希望していた福岡ダイエーホークスに自由獲得枠で入団。血液型はO

 一方で人気球団の巨人の指名を受けながら入団を拒否した選手もいた。それは現在広島の福井優也だ。2005年、敦賀気比高校時代に高校生ドラフトで巨人に4巡目で指名されるも、指名順位が低いと入団拒否して早稲田に進学した。そして、大学4年生の2010年に、早大三羽ガラスと呼ばれた斎藤祐樹や大石達也らとともに、ドラフト1位で広島カープに指名され入団。巨人の指名を拒否した珍しい選手のひとりである。

 その他の有名選手

 谷沢健一・・・1965年に阪急の4位指名を拒否し、早稲田大学に進学。1969年に中日に1位指名され入団。

 平松政次・・・1965年に中日の4位指名を拒否し、翌年に大洋の2位指名で入団。

 門田博光・・・1968年に阪急の12位指名を拒否し、1969年に南海2位指名で入団。

 山田久志・・・1967年に西鉄の11位指名を拒否し、翌年に阪急の1位指名で入団。 

 新井宏昌・・・1970年、近鉄の9位指名を拒否し、1974年に南海の2位指名で入団。


 こうして振り返ると、かつて「人気のセ、実力のパ」と呼ばれたほど、露骨にパ・リーグの球団指名選手が辞退していたことがわかるだろう。こうした経緯を踏まえ、ドラフト制度のあり方そのものが見直された。やがて巨人のゴリ押しもあって、大学・社会人に限って逆指名を認める制度改革が行われ、有望選手は希望球団に入団することが可能になった時期もあった。(現在はFA制度導入によって廃止)

 鳴かず飛ばずで終わった巨人1位氏名の選手たち

 せっかく運が良く、巨人に1位指名されて入団したのに、あまりたいした成績も残せずに巨人を退団したり、引退に追い込まれた選手を振り返ってみたい。巨人は選手層が厚いので、出場機会に恵まれずにくすぶって終わってしまう例が多い。

昭和59年 上田和明(慶應大)在籍8年で203試合出場 61安打5本塁打18打点
昭和62年 橋本 清(PL学園)在籍6年で9勝12敗8セーブ
昭和63年 吉田修司(拓銀)16年で37勝32敗23セーブ
平成元年  大森剛(慶應大) 8年で132試合出場 29安打5本塁打16打点
平成 3年 谷口功一(天理高) 2年で7試合0勝0敗
平成 5年 三野勝大(東北福祉大)2年で5試合0勝0敗
平成 7年 原俊介(東海大相模高)4年在籍68試合出場19安打3本塁打10打点
平成 8年 入来祐作(本田技研)9年で35勝35敗3セーブ
平成13年 真田裕貴(姫路工高)11年で24勝27敗3セーブ 現役
平成17年 辻内崇伸(大阪桐蔭高)   現役なので今後に期待したい。
平成20年 大田泰示(東海大相模高) 現役なので今後に期待したい。

 逆に2位以下の指名で活躍している例が巨人には多い。

 岡島秀樹  平成5年ドラフト2位
 仁志敏久  平成7年ドラフト2位  清水崇行 平成7年ドラフト3位
 鈴木尚広  平成8年ドラフト4位
 二岡智宏  平成10年ドラフト2位(逆指名)
 西村健太朗 平成15年ドラフト2位
 亀井義行  平成16年ドラフト4位
 越智大祐  平成17年ドラフト4位 山口鉄也 育成枠
 松本哲也  平成18年 育成枠
 宮國椋丞  平成22年ドラフト2位 

 まぁ、選手の立場からすれば、自分の身を立てる球団なのだから、希望球団に入りたい気持ちは理解できる。しかし、FA導入の経緯や意図を考えれば、入団時は希望球団以外でも、ある程度そのチームに奉公し、実績を上げてから希望球団に移籍しても何ら問題ではないだろう。それに最近はメジャーへの門戸が広がり、選択の幅も広くなった。自分の信念を貫くのも結構だが、そのために浪人生活などで回り道をして選手生命を棒に振るのも考えものだ。現に江川は、あれほど大騒ぎして入団した割に、僅か9年間という短い現役生活で終わってしまった。巨人以外のファンや世間を敵に回し、悪役として散々叩かれた。我が儘を通したために、評判はガタ落ちとなり、入団当初のバッシングは凄まじかった。前途ある若者の判断ミスで大器をみすみす見失うようなことだけは避けて欲しいものだ。

 記事作成:11月7日(水)   

« 続・有名人似た者同士 | トップページ | 若くして亡くなった有名人~続編~ »

野球」カテゴリの記事

福島県の天気


無料ブログはココログ